大手出版5社はEブック談合してたのか?

2012年4月23日
posted by 大原ケイ

先々週、米司法省(DoJ)がアメリカの大手出版社5社とアップルに対し、電子書籍の値段について談合し、Eブックの値段を吊り上げたことが独禁法に違反するとして提訴し、うち3社が和解に応じた、というニュース。翻訳記事も含めてあちこちで伝えられている。

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この訴訟について言っておきたいのは次の3点。

1)エージェンシー・モデルそのものが違法とされたのではない。

2)和解に応じるのは非を認めたことにはならない。

3)この訴訟で唯一得をしている企業はどこなのかを考えると、この訴訟の真の意味が見えてくる。

日本だとどうしても知名度の高いアップル社が被告に名を連ねているし、それでなくともアップルは、他のIT企業とよく新技術の特許に絡んだ訴訟を起こしたり起こされたりしているので、またしてもアップルがラスボスのように受け止められがちなのは理解できる。が、この訴訟に限ってはいちばんの脇役だし、その「談合」の部分には直接関わっていないことを理由にアップルが司法省の判断を不服とし、裁判を厭わないのは当たり前だと思うので、まずは横に置いておくとする。

問題は、サイモン&シュスター、ペンギン、ハーパーコリンズ、アシェット、マクミランという、最大手ランダムハウスを除く5つの大手出版社のトップが、アップルから「エージェンシー・モデル」という新しいEブックの卸し値システムを持ちかけられて「どうすっぺか?」と仲間内で相談したのが「談合」に当たる、そしてその談合によって、自由競争で決められるべきEブックのお値段が不当につり上げられるのはけしからーん!と政府が怒ったというのが表向きの筋書き。

知っている人には今さら説明する必要もないが、このエージェンシー・システムというのは、Eブックの小売り価格を出版社が決めて、そのEブックを売るリテーラー、つまり、アップルのiBookstoreがその通りの値段で読者に売って、売上の一定歩合(アップルのシステムでは30%)を受け取る方式。

これに対する「ホールセラー・システム」というのがそれまで一般的なEブックの売り方で、これは、紙の本と同じ考え方、つまり、本に対する版元の「希望」小売り価格という上限が決まっていて、本を売る側は、仕入れる冊数とか、返品可能か、などの条件に従って一定の「掛け値」で本を仕入れるが、実際に売るときの値段はリテーラーに任される、というシステム。まぁ、本に限らず何でもモノを売るときは一般的なやり方かも知れませぬ。

本の適正価格を決めるのは誰か

ただ、日本の場合は再販制があるので、出版社は「この本は○○円です」っていうのがまかり通っていて、だからこそ、本自体にそのお値段が刷れる、というのがあるよね。この辺が当たり前すぎて誰も疑問を持たないわけだけど、本の適正価格って、なんだろう?という疑問もあったりする。もちろん、物理的な商品としての本と見てしまえば、その本にかかったコストを計算して、一定部数売れたら黒字になるのが理想的なんだけど、本の価値、って読む人によって千差万別でしょ?

もしかしたら、その本を読んだことで、価値観が根底からひっくり返され、人生の転機になるかもしれない感動を受けることだってあるのだし、その同じ本を読んでも「なーんだ、つまんねー」って即座にゴミ箱行き、ってな本もあるわけで。

本当にその本を作った出版社がその価値をいちばん良くわかっているのだろうか? もしかして、その本を売る書店員さんの方が「この本はすごい、これだけの価値がある」ってわかっているのかもしれないよね?

出版社にしてみれば、翻訳コストがかかったから、ちょっと高くしたいってのもあるかもしれないし、装丁に凝ったからその分コスト高、ってのもあるけど、もしかしたら本の内容で適正価格をつけられるのだったら、いちばんお客様に近いところで働いている書店員こそが本の価値を知っているのかもしれないけど、指示された小売価格でしか本を売れないってのは、書店にとっても歯がゆい部分ではあるのだろうなー、と以前から思っていたわけです。(以前、「本の値段」というテーマで「マガジン航」にコラム書こうと思って挫折した過去があるw)

まぁ、そういう哲学的な話はさておき、同じ本に「紙の本」と「Eブック」というフォーマットの違いがあるときに、何が適正価格なのかを決める権利というのは、一体誰にあるのか?というのが、今回の訴訟の「テーマ」だと思っているわけだ。

もちろん、紙の本と違って、Eブックには印刷代も要らないし、大きな倉庫で在庫を確保しておく費用もかからないので、紙の本よりは安くなって当然、という理解はある。でも、いくらでも無料でコピーできるからって、限りなく安くもできない。

アップルがiPadを売り出す2010年初頭、ホールセラー・モデルで出版社が苦労していたのは、赤字覚悟で卸値価格を無視してEブックが安売りされることだった。紙の本の場合、どんなに大量に本を仕入れても、ディスカウント50%、つまり、掛け値の「5掛け」、半額は出版社の手元に入ってくるように値段を設定していたので、希望小売価格20ドルの本が10ドル以下で売られるようなことはなかった。それを「市場シェア拡大」を理由に安売りするところが現れたせいで、出版社もかなり焦っていた。自分たちのふところには影響ないのに、Eブックを安売りされると、相対的に紙の本がやたら高く感じられる。

では、実際に談合はあったのか? と言われれば、まぁ、あったよね、というしかない。iPad発売に先駆けて、私個人も知り合いの編集者から「今、会議室にアップルの代表者が来てる!ジョブズもNYにいるらしい」とか、「うちのボスが、『スティーブとランチするんだぜい』とはしゃいでるw」みたいなメールをもらった。司法省の訴状にも「各社の上層部がPicholineの個室で密談を重ね…」という文章があったりして「え?あのレストランにそんな個室があったんだ〜」「マイケルズ(大手出版社御用達のレストラン)じゃなかったんだー」みたいな会話もしてるんで。

でも、それは出版社同士が示し合わせて価格を吊り上げたというよりは、卸し値より安い価格で売られちゃったら、どこまでも価格破壊が進むかも知れないし、黙ってダンピングされるのを見ているわけにはいかないよね、という当然至極の話し合いの域を出ないもののような気がするのだ。

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第1回 本で床は抜けるのか

2012年4月17日
posted by 西牟田靖

木造二階建てアパートの二階にある4畳半の部屋に仕事場を移したところ、畳がすべて荷物で埋まってしまった。部屋の壁際三辺は立て掛けた本棚や分解した机で覆われ、部屋の大部分を占めるそれ以外のスペースは高さ約30センチの本の束で埋め尽くされた。

部屋の真ん中にいる僕の足元は見えない。本の束と束の間にかろうじて足を突っ込んでいるからだ。足に泥は付着しないが、ぬかるみに膝下をずぶずぶ突っ込んでいるようなものだ。部屋の中を移動するには本の束から足を引き抜いて、本の束を踏み台にするか、つま先がやっと入るかどうかのすき間に無理矢理足を突っ込むしかない。

不安のはじまり

床が本で埋まっているというのに不思議と焦ってはおらず、床が抜けるというケースはまったく想像していなかった。むしろ運び終えたことに安堵していて、時間をかければ何とか片付くだろ、と呑気に考えていた。

運搬を手伝ってくれた便利屋スタッフが帰りの車中、運転しながら僕に言った。

「よく思い切りましたね」

含みを持たせた言葉にたちまち安堵感はしぼんだ。言葉の真意が知りたくなった。

部屋のサイズと荷物の量が見合っていない、ということを暗に言っているのだろうか。具体的な言い方でないのは、客である僕の心証を悪くしないように言葉を選んでいるからなのかもしれない。

単刀直入に問い質した。

「もしかすると床が抜けるってことですか」
「いや、そういうわけではないですよ」
「床抜けした家の片付けとか頼まれたことってありますか」
「それはありませんね」

床が抜けるほどの荷物を目の当たりにしたからこそ、うっかり「よく思い切りましたね」と口にし、その後、慌てて否定したのではないか。怪しい。やはり床は抜けてしまうんじゃないか。本で埋まった床のことが急に気になり出した。

言われてみれば、確かに荷物の量が完全にキャパシティを越えている。整理のため、部屋の真ん中などに本を積み上げようものなら、床が抜けてしまうのかもしれない。過去の書類を入れた衣装ケースや引き出しをびっしりと突っ込んである押し入れは、さらに危機的だ。約30キロの衣装ケースを上段下段天袋に3、4箱ずつ置いているのだから、それぞれ100キロほどの重さが掛かっていることになる。床が抜ける予兆はすでにあった。引っ越す前の下見の段階で、メリメリと板が避ける音がして、あのとき血の気が引いたのだ。いつベニヤが破れてもおかしくない。

足の踏み場もなかった引越し直後のアパートの部屋。

床が抜けると、落ちてきた荷物で下の階に住む大家が大けがを負ったり、資料が散逸したりするかもしれない。神戸や東北の被災地で瓦礫撤去作業を見てわかったことだが、事故が起これば、資料が貴重かどうかはあまり関係がなくなる。凶器となった資料を一刻も早く取り除かねばならなくなるからだ。明治・大正時代の写真が貼ってある他人から借りたアルバムや、もはや手に入らない希少本といった、なくしてはならない資料は途端に紙くずとなってしまうのは目に見えている。

壁一面に並んだ背表紙を眺めながらアイディアをひねり出す、という行為は紙の本であるが故にできること。所有欲も満たせる。しかし、借りてしまったアパートで、以前同様の本棚の組み方をしたら、最悪、床が抜けてしまうかもしれない。もっと慎重に物件を選べば良かった。ワンボックスカーが家に近づくころ、胸中は後悔の念でいっぱいになっていた。

引っ越し計画

それまでの5年半、新宿にほど近い中野区に、僕は仲間たちと一緒に賃貸の一軒家をシェアしていた。築20年ほどの三階建て4DKという物件である。すべての部屋はフローリング、一階に一部屋と車庫、二階はキッチンと部屋、三階に二部屋という構成になっていた。

引越し前の部屋の本棚。

少し変わった建物だった。僕の部屋の広さは5・5畳(平米に直すと約9㎡)。天井裏はなく、三階の部屋が屋根ぎりぎりのところまで壁となっていた。僕の部屋はその三階にあり、まさにその変わった部分に位置していた。壁面のうち二面が傾斜しているから天井がとても狭いのだ。

傾斜していない方の壁、二面に天井まで届く本棚を建てていた。二つの本棚の寸法は次の通りである。白い突っ張り本棚=幅60×奥行19×最大の高さ243センチ。重さは20キロある。もう一つの本棚=図書館本棚は幅90×奥行29.5(上部17)×高さ215センチ、重量30キロぐらい。後者は天井に突っ張るタイプではなかったが、防災用の突っ張り棒を利用して補強していた。

斜めの天井部分には幅90×奥行30×高さ90センチの本棚を二つ並べていた。それ以外には突っ張り用上乗せ本棚と普通の本棚を日曜工作で連結して使っていた。寸法は幅90×奥行16×高さ140〜156センチである。他には幅90×奥行16×高さ90センチの本棚も利用していた。それぞれの本棚にすき間なくびっしりと本を並べていたことは言うまでもない。

書籍だけに限ってみると、少なくとも1000冊以上、2000冊以下というところである。以前は引っ越しばかりしていたし、長期の取材旅行のため、本はなるべく増やさないようにしていた。本棚はひとつだけ、蔵書の数は500冊もなかった。

2005年に『僕の見た「大日本帝国」』という歴史紀行の本を書くにあたり、資料を集めざるを得なくなった。それ以後は執筆のために必要な資料を毎年100冊以上買うようになった。書くための資料をあれこれ買っているうちに蔵書はみるみる増えていく。本棚を積み上げたり、妻と住んでいる2DKに分散したりしてしのいだ。突っ張り本棚や図書館本棚といった人の背よりも高い本棚は三つに増え、蔵書の数は気がつけば1000冊を超えていた。結婚し、引っ越さなくなったということも、蔵書が増えた原因なのだろう。

その他に次のようなものが部屋にあった。二つの机、デスクトップのパソコン、業務用のレーザープリンタ、腰痛対策にともらってきたバランスチェアと普通の業務用の背もたれ付きの椅子。押し入れやクローゼットはないので、布団はスチール製のラックにむき出しの状態で置いていた。過去に仕事で使った書類や紙に書いていた頃の日記、旅行で手に入れたチケットや地図、写真の現像済みフィルムなどを防湿剤入りの衣装ケースや引き出しに詰め、布団の横に並べていた。

年があけたころから、本の置き場兼作業場用の物件を探すようになった。妻や子供と住む自宅に近くて安いところはないだろうか。不動産屋やネットで条件の合う物件を探した。他に貸倉庫もあたったが、3畳月3万9000円などとスペースの割に賃料が高額なので断念した。古びた建物が多いものの、対象物件数が多く、広くて安い木造アパートに、結局は絞り込んだ。

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2年目を迎えたGALAPAGOSの現状と展望

2012年4月10日
posted by まつもとあつし

2010年末に国産電子書籍サービスとして鳴り物入りで登場したシャープの「GALAPAGOS」。しかし、2011年9月にはそれまでラインナップされていた大小2種の専用端末の販売終了を発表。「電子書籍事業から撤退するのでは」という観測も流れた。

現在は、 Android 3.2を搭載したメディアタブレットGALAPAGOS 2機種に加え、他の Android端末向けにGALAPAGOSアプリを提供しており、シャープ製以外のスマートフォン・タブレット端末でも電子書籍サービスを利用することが可能だ。ここに至るまでには、専用端末のAndroid OS化(汎用化)、コンテンツ調達を目的としたCCCとの提携を解消するなど、紆余曲折を経ている。

2年目を迎えたGALAPAGOSはどこに向かおうとしているのだろうか? 担当者である通信システム事業本部ネットワークサービス事業推進センターの辰巳剛司氏(同センター所長)、松本融氏(コンテンツ・サービス推進室長)、片山三千太氏(事業企画室長)に話をうかがった。

タイトル数は現在約5万6000点

――まずGALAPAGOSの現状について教えてください。

松本 垂直統合(専用端末と専用サービス)からスタートしたGALAPAGOSですが、2011年3月に当社製スマートフォン、6月に他社様製スマートフォンに対応しました。ネットワークサービスをやっていく以上、母数が非常に大事になりますので、シャープの端末だけにとどまらず、あらゆる端末にサービスをしていこうという考え方に則り、アプリを他社製スマートフォンにも対応、Androidのバージョン2.3から3.2も含め世の中に出ている多くのAndroid端末で動作します(動作確認機種はGoogle playに随時記載)。

またフォーマットについては、サービス開始の際はシャープがこれまで手がけていたXMDFが中心でしたが、ドットブック形式にも対応し、ストアに関してはオープンな考え方でコンテンツを展開しています。

GALAPAGOS STOREのトップ画面。

――コンテンツ面でもこれまでの電子書籍に留まらず、生活情報サービスを標榜されていますね?

松本 はい、もともと電子書籍のサービスを軸に、コンテンツ数を伸ばしているのですが、当初からめざしていたように、関連する動画・音楽・ゲームを含めて生活にかかわるコンテンツサービスも集めています。お客様にさまざまなネットワークサービスを提供していこう、というのが基本的な考え方です。

サービスイン時には、総コンテンツ数2万からスタートし、現状(2012年3月30日現在)では約56,000です。うち新聞が8紙、雑誌が約400誌(のべ約2,900点)、書籍は約39,000点、コミックは約15,000点です。また辞書・事典は33点を揃えています。総合電子ブックストアといった位置づけで、幅広いコンテンツを扱うことができていると自負しています。

GALAPAGOS STOREの特長は、プッシュ型による自動定期配信の仕組みです。新刊の紹介だけでなく、新聞・雑誌の定期購読にもいち早く対応しています。これについては、バックエンドのオーサリングツールから配信・流通システムまでを版元に提供するといった態勢で取り組んできました。

スマホとタブレットでことなる利用者層

――GALAPAGOS STOREの利用状況はどうなっているのでしょう?

松本 まずスマートフォンとタブレットで年齢層がずいぶん異なります。タブレットは40代、次に50代にピークがあります。ビジネスパーソン、とくに男性が中心です。これらの年齢層は本をよく買われる方々です。それに対してスマートフォンは通常、20代にピークが来るのですが、GALAPAGOS  STOREユーザー様の場合、電子書籍に興味のある層ということで、年齢が高い方にもう少し寄ってます。30〜40代が、今の私どものストアに来てくださるお客様の中心です。

――これはGALAPAGOS専用機だけでなく、DoCoMoから発売されているGALAPAGOSのブランドを冠さない端末(SH-07C)も含めて、ということですね?

松本 そうですね。Androidマーケット(現在はGoogle Playに改称)にてGALAPAGOSアプリを無料で配付していますので、それをAndroidのスマートフォンやタブレットで使って頂いている方々が対象です。タブレットはGALAPAOGOSブランドの端末が主ですが、スマートフォンはシャープ製に限らず他社製のスマートフォンも多数含まれます。このように現在の利用者は比較的、高年齢層かつ男性中心です。これは意図的に男性ビジネスパーソン、かつITリテラシーの高い人達を対象に、コンテンツのアグリゲーション(調達)を行った影響もあると思います。

しかし、この冬商戦からだんだんとスマートフォンで女性層が伸びてきています。コミックや雑誌も含めて、女性を意識したコンテンツのアグリゲーションにも取り組んでいるところです。タブレットから端末の提供をスタートしたにも関わらず、いまは4分の3ほどがスマートフォンのお客様という状況です。

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震災後1年を経て、電子書籍について考える

2012年3月24日
posted by 仲俣暁生

東日本大震災の発生から1年を経たこの春、震災を振り返るさまざまな本が刊行されています。1年という月日をかけてようやく見えてきたことが多いことを、これらの本を読んで感じます。

他方、震災直後は、多くの出版社が自社のコンテンツを電子化し、無償で公開するという動きが広がりました。「マガジン航」でもその動きをとりまとめ、「被災地に電子テキストを」(2011年3月21日)という記事にしたこともあります。電子書籍という形式にとらわれず、アプリやPDFといったさまざまなかたちで、被災地に必要なコンテンツを届けようとした出版社の動きに、とても勇気づけられた気がしました。

その後、被災地に紙の本を送ろうとする人々が増えた際には、逆にそれが本当に現地の人のためになっているのか、かえって負担になりはしないかという視点から、被災地の図書館事情に詳しい岡本真さんらが提唱する「本を送りません宣言」を転載しました。この宣言への賛否はさておき、震災復興のために、本がどのように役立つのかを考えるには、必読のドキュメントだと思います。

電子書籍を復興に役立てようという動きとしては、経済産業省により、「コンテンツ緊急電子化事業」が予算化され、以下がその目的として語られています。

東日本大震災の影響により被災地域では、出版関連事業者の生産活動が大幅に減退し、被災地域の書店等が失われたことにより地域住民の知へのアクセスが困難になっている。

被災地域において、中小出版社の東北関連書籍をはじめとする書籍等の電子化作業の一部を実施し、またその費用の一部負担をすることで、黎明期にある電子書籍市場等を活性化する。

それともに、東北関連情報の発信、被災地域における知へのアクセスの向上、被災地域における新規事業の創出や雇用を促進し、被災地域の持続的な復興・振興ならびに我が国全体の経済回復を図ることを目的とする。

この事業の目的と手段の整合性については、「東北を遥か離れて:電子化事業への5つの疑問」という記事で鎌田博樹さんが懸念を示しているように、十分な説明がなされていない感もあります。公費が投じられる以上、被災地の復興に実質的に寄与するかたちで電子化事業が行われてほしいと切に願います。

今回の「電子化事業」では、すでに紙の本として刊行された東北関連の出版物、あるいは東北地方にある出版社が刊行した本の「電子化」を行うとのことです。そのゴールがいつになるのかは、まだ明らかではありませんが、「知へのアクセス」をその目的とする以上、できるだけスピーディな動きが求められます。

こうした国主導の動きとはまったく別に、昨年の震災後、もっとも早く、個人的に「出版」のアクションを起こした一人に、作家の池澤夏樹さんがいます。9・11やイラク戦争の際にも、池澤さんはいち早くインターネット上で活動をはじめ、個人の立場で「出版」を行いました。彼が今回の震災後に刊行したのが、紙の本では絶版となっていた『楽しい終末』という本です。

昨年のうちに「マガジン航」では池澤さんにインタビューの時間をとっていただいたのですが、編集に手間取り、公開が遅れてしまいました。そのときのインタビューを、「池澤夏樹さんに聞く、本と出版のこれから」として、震災から一年を経てようやく公開することができました。

電子書籍のタイトル数を一挙に増やすことも重要ですが、出版とはひとつひとつの志の積み上げであることを忘れてはならないでしょう。『楽しい終末』が電子書籍として「復刊」された経緯こそ、本来の「電子出版」のありかたではないか。震災復興も重要ですが、それよりも大事なのは、今回の震災を、出版の初心をとりもどす契機とすることではないか。経済産業省のいう「黎明期にある電子書籍市場等」の活性化よりも、出版社や作家のなかにある、出版への志を「活性化」させることのほうが、はるかにこの国の復興に寄与すると私は考えます。

池澤夏樹さんに聞く、本と出版のこれから

2012年3月24日
posted by 「マガジン航」編集部

昨年3月11日に起きた東日本大震災の後、作家の池澤夏樹さんは『楽しい終末』という本を電子書籍として復刊した。人類が手にした核をはじめとするテクノロジーは、私達をどこへ連れて行くのか。「楽しい」という語と「終末」という語の組み合わせに少し戸惑ったが、私はこの本を読んで池澤さんに話を伺いたいと思った。たんなる旧著の復刻にとどまらず、この本を震災後のいまこそ読者に届けたい、という「出版」への志を感じたからだ。

ご多忙のなか、昨年のうちに快く取材に応じていただいたにもかかわらず、編集に手間取り、掲載時期がかなり遅れてしまったが、あの震災から一年という節目に、あらためてこの本が多くの方に読まれることを期待して、池澤さんへのインタビュー記事をお届けする。(インタビュー・構成:仲俣暁生)

「これなら読める」

――まず、『楽しい終末』を電子書籍化することになった経緯からお聞かせください。

池澤 非常に俗な話になってしまいますが、もとの文庫本が品切れだったんです。この本には原発についての話も書かれているから、東日本震災を機に再版を出さないかと版元の文藝春秋に打診したところ、彼らは商売にならないと判断したのか、再版しなかった。ちょうどその頃、村上龍さんがやっているG2010の電子出版の活動を横目で見ていたので、紙で出ないなら、いい機会だからやってみようと思った。この本は、電子出版するには少し内容が固いかもしれないけれど、それだからこそ、むしろやってみる値打ちがあるんじゃないかと思い、こちらから話をもちかけたんです。

――電子書籍という形式に対して、抵抗感はありませんでしたか?

電子書籍版は畠山直哉氏の写真も収録。

池澤 いえ、もともと電子メディアに対しては親近感があります。僕はいちばん最初にワープロで書いた小説で芥川賞をとった作家だし、これまでも2001年の「9・11」の後には、すぐに「cafe impala」というサイトを興して、「新世紀へようこそ」という連載をはじめた。イラク戦争の直前に現地へ行って、帰国してから一人で反戦活動をしていたときも、急いで本を作らなければ、と思い『イラクの小さな橋を渡って』(文・池澤夏樹、写真・本橋成一)を出した。これは日本語版は紙の本だったけれど、英語・ドイツ語・フランス語版は、写真もテキストもほとんど紙の本と同じ体裁のPDFを、ウェブから無償ダウンロードできるようにしたんです。

――今回も、そうした過去のデジタルでの出版活動の延長線上ということですね。制作は具体的にどのように?

池澤 プロデュースはうちの会社(Ixtan)の社長である妻がやりました。僕の役目は、本の校了テキストを提供したあとは、要所要所で口を挟んでチェックしたのと、付録の動画インタビューに応じたことぐらいです。あと、文字だけではさすがに寂しい、売るためにはもう少しチャーミングにしようと思い、友人の写真家・畠山直哉さんに、それほど力の入ったものでなくていいから写真を貸してほしいといって、彼の事務所で一緒に探したら、この写真が出てきたんです。テクストと写真の完璧な一致に自分たちでも感動した。

――実際にできあがった電子書籍を見てどう感じました?

池澤 「これなら読める」と思いました。

――昨年の公開後しばらく、期間限定で85円で販売されていましたね(現在は450円)。そのあたりのアイデアはどこから?

池澤 販売の方法や、価格設定その他には僕は関わっていません。

G2010の担当者 電子書籍はどうしても、ある程度App Storeのランキングの上のほうに出ないと、本が出たということさえ知ってもらえない。そこで、期間限定で安価で販売し、多くの読者に『楽しい終末』という本の存在を知ってもらう戦略をとりました。

池澤 あれはうまいやり方だったね(笑)。

僕はラッダイトではない

――『楽しい終末』では、原発に象徴される科学技術への懐疑が語られています。原発と比較するのは不謹慎かもしれないですが、電子書籍にもテクノロジー主導の側面があります。ある意味でテクノロジー批判も含んでいる内容の本を、あえて電子書籍でお出しになったことを、とても面白いと思いました。

池澤 僕はべつにラッダイト(産業革命時に機械打壊し運動をした人たち)ではないんです。いまから時計の針を十年前に戻して本についての話をしても仕方ない。なぜなら、子供たちの世代はもう、デジタルのほうに行ってしまったから。世代が変われば、読者に届くメディアも変わるのは当然です。

37人による書物論アンソロジー。

僕には技術の変化を面白がって見守っているようなところがあるんです。見守った上で、大きく間違ったことがあった場合は批判する。たとえば原発は批判すべきテクノロジーの典型です。その一方で新しい技術に対する好奇心もある。DTPもとても早い段階で「科学朝日」の誌上で試したりした。

実際、デジタルのメディアには非常にお世話になっています。 いまウィキペディアがなかったら執筆はとても効率が落ちる。二つの言葉を並べて検索するなんてことは、広辞苑ではできない。それができるというのは大変なことです。ネットによって古書のマーケットも大きく変わりました。ネットは知的なツールとしてもすごいものなんです。

――池澤さんは岩波新書の一冊として出た書物をめぐるアンソロジー、『本は、これから』の編者もなさっています。あの本では電子書籍に厳しい意見が多く、どちらかというと紙の本を擁護する筆者が多かったですね。

池澤 『本は、これから』が紙の本の擁護に傾いた理由は、執筆者の平均年齢が高かったからですね(笑)。本が出来上がったとき、ボイジャーの萩野さんみたいに、デジタルの立場の人が、もう少しいてくれたらよかったと思いました。

――ご自身でもふだん電子書籍を使っていますか?

池澤 Kindleを使っています。それでスティーブン・キングの新作を読んだりはしないけど、シェイクスピア全集を参照する。シェイクスピアを全部入れて読めるのは本当にありがたい。古典だけでなく、英語の新刊本をKindleで丁寧に読むこともあります。あたまから読み始めて、そのまま最後まで読み終えるような本の場合、没頭して読み始めてしまえば、紙の本とかわらないですね。

ただし、もう少し複雑な読書、つまり読み始めてそのまま読み終わるのではない読書の場合、それから書評を書くために読むような場合は、やはりまだ紙の本のほうがいい。書評を書くには、一行目から最後まで読むだけではダメなんです。もう少し離れて、鳥瞰的に見る必要もある。あるいは一章だけを丁寧に読むこともある。つまり、いろんな解析をしながら本を読んでいる。書き込みもするし、付箋も貼るし、他の本からの引用も入れたりする。そういうことをしようと思うと紙でないととてもやりにくい。

――紙の本がふさわしい本と、デジタルでもいい本とがある。

池澤 そう。書評を書くのではなくても、世の中にはどうしても丁寧な読みをしなければならない本というものがある。たとえばウィトゲンシュタインを読むなら、やはり紙の本でしょう。電子と紙の本は、そういう住み分けをしていくと思います。

――『池澤夏樹全集』のようなものが、電子書籍で出たら面白いでしょうね。池澤さんの小説のなかには科学的思考のようなものがあるので、とても電子向きです。やるのはたいへんですが、すべての作品に詳細な注をつけたりしたら、面白いことが起きるかもしれません。

池澤 注をつけるのは楽しいので、やるとしたら自分でやりますよ(笑)。いままでで脚注づくりがいちばん面白かったのは『ハワイイ紀行』で、ものすごくたくさん注をつけたんです。『光の指で触れよ』という小説には写真を入れたけれど、注も入れてみたい。写真のオリジナルデータも、注をつけるための材料も手元にあるので、それらを全部いれこんで重層的なテキストにしたら……なんて、こんなこと言っちゃって大丈夫かしら(笑)。

――いつかぜひ、実現してください(笑)

新しい書き手はデジタルから生れるか?

――今回の本の話から少し離れますが、これから物書きはどうやって食べていくのか、出版はどう変わっていくのか、ということについての池澤さんの考えも少しうかがってみたいです。

池澤 僕の場合は、もう作家になってしまった人間だからいいんですよ。次の世代のことを考えなくてはならない。これから若い人が本を書いたとして、出版社や編集者なしで本を出した場合、その価値が認められるかどうかが問題なんです。僕はたまたま文学賞をもらって、編集者に育ててもらった。村上龍さんは、編集者に助けてもらったことは一切ないというけれど、僕は一つの作品を書くごとに、いまも編集者にいろいろと相談しています。

腕のいい編集者は、こちらが書いたものの欠点を、パッとすぐに指摘してくれる。僕はずいぶん長いこと小説を書いてきたから、自分ではそう下手な書き手だとは思わないけれど、それでも編集者の力を抜きにして仕事はできない。その役割を、電子出版がこれからも担保できるかどうか、ということが問題ですね。

自費出版で出された本の海の中に、出版社が出したコストの高い本がポツポツと混ざるような状態になったとき、それを誰が選別するのか。いまでさえ、本の最大の問題は選別にある。僕は毎日新聞で月に1本、週刊文春で5週間に1回の書評を、20年間ずっとやってきました。それは、誰かが本を選ばなければならないからです。

ありがたいことに、僕が自分の好みで選んだ本に対して、少ないけれど一定のファンがいてくれる。書評家は一種の人気商売なんですよ。池澤が褒めているから買ってみよう、といって本を読んだ人が、それで元がとれたと思ったら、次も僕の言うことを聞いてくれる。そういう人が一定の数だけいてくれて、はじめて書評という商売が成り立つ。いまはそうやって誰かが交通整理をしてやらないと手が回らないほどの本の量でしょう。

――紙の本でさえ、すでに年間の刊行点数が7〜8万点に及ぶ時代です。

池澤 そうした中に、作者が自分で作った電子書籍が出てきて、もしかしたらそれは大傑作なのかもしれないけれど、じゃあ、その大傑作を誰が見つけ出すのか、ということになる。そのためには、編集者から書評家までに至る、出版のトータルなシステムがあることは大事です。『楽しい終末』も、編集者なしでできた本ではありません。最初は「文學界」という雑誌に載せてくれて、単行本と文庫にしてくれた。ただ今回の場合、出版社へのお礼奉公はもう済んでいる気がします。

――かつて芥川賞の候補作が、大手出版社の出す文芸誌だけでなく、同人誌からも挙がっていた時代がありました。同じようなことが、電子出版された作品でも起きる可能性はあるでしょうか。

池澤 もしも選考委員の誰かが、これは本当にいい作品だから候補にしようと言ったら、いまだって候補作になるでしょう。ただ、選考委員も忙しいから、実際は電子出版されたものまで見ていられないでしょうが。

――電子メディアでデビューした作家が文学賞を取ったり、ベストセラーになったりすれば、紙の本と電子書籍の関係が大きく変わるかもしれません。

鷲尾和彦氏のモノクロ写真が美しい。

池澤 デジタルで出版された短編が芥川賞の候補になって、作家がその作品が印刷されることを断固拒否したりしたら、面白くなるかもしれない。ぼくは選考委員をもう辞めてしまいましたが、委員が「なんじゃこりゃ」などといいながら、タブレットで作品を読むという構図を想像すると楽しい(笑)。

小説のなかに写真や絵を引用するのは表現としてアリです。『トリストラム・シャンディ』(18世紀イギリスの小説家、ローレンス・スターンの作品)にだって、真っ黒なだけのページがある。

そういう遊び心みたいなものが、こんどは電子出版でしかできない仕掛けで、小説の中で使われるようなことが、これからは当然に起きてくるでしょう。そのときは芥川賞の一次選考をする文春の編集者もタブレットかディスプレイで読んで、作品として面白かったら、悔しくても候補作として認めなくちゃならない(笑)。

――最後になりますが、震災後にお書きになった『春を恨んだりはしない〜震災をめぐって考えたこと』という本も読ませて頂きました。こちらは紙の本ですが、鷲尾和彦さんの写真と池澤さんの文章という組み合わせで、今回電子書籍化された『楽しい終末』ともリンクしている気がしました。

池澤 そう、この二冊は底のほうでつながっていて、総論と各論のような関係にあるんです。

――今日はお忙しい中、ありがとうございました。

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