電子出版はみんなのものだ、そう誰かが叫ぶべき

2012年6月27日
posted by 萩野正昭

電子出版の可能性が市場面から注目を集めている。経済的な成長性だ。しかし、一方で、コンテンツ創出という産業の主役が誰になっていくのかを考えねばならない。電子出版はある意味、産業構造の転換をもたらす大きなうねりを胚胎している。

米国でのebook端末の売上は着実に向上し、こうした読書専用端末(kindleとかnookとか)で本を読む人口は読書人口の25%にも達している(BISG調べ)。昨年末20%だったことを考えると、急激な伸長を示していると云えるだろう。

だから既存の出版産業は穏やかでいられない。構造転換が生じたら既得権益は無に帰す。あれほど電子を毛嫌いしてきた出版社がこぞってデジタル化に走り、読書が紙からebook端末へとシフトしていく中にあって、ビジネスの我田引水を大騒ぎしている。既存の出版業界である印刷会社、出版社が、端末メーカー、配信事業者と野合してことを進めようと画策しているのだ。

アップル、グーグル、アマゾンの意義

その中で徐々に大きな力が姿を現してきた。『電子本をバカにするなかれ 書物史の第三の革命』のなかで津野海太郎は、デジタル時代へ突入する私たちと本の関係を大真面目に論じ、生じた3つの出来事を以下のように指摘している。

1.2003年 アップルのiTunesとiTunes Storeの出現
▶売り方が分からなかったデジタルデータ販売の方式が現実のものとして提示された。

2.2004年 グーグル・ブックス検索
▶本が片っ端からデジタル化され、インターネットに蓄積されていく。

3.2007年 アマゾンのebookデバイスKindle
▶電子本閲覧デバイスは、買い捨てを前提とした安価な日用品として定着していく。

すべて米国で起こったことだ。ebookが作られ、存在することを前提とした次なる世界が語られてる。圧倒的多数の本の電子化をすすめ、一気呵成にebookの基盤をつくりあげる力技と、その配信・販売への徹底した対処が考えぬかれているのだ。充実したサービスのはじまり。今まではよくわからなかった電子出版をめぐる世界が、理解可能な姿として私たちにはじめて姿を現してきた。

圧倒的な量のなかから検索を駆使することで見てとれる知の連携。一冊の本がもつ知識や理解を比較すること、関連づけることができる可能性。さらに備わる簡便性、即効性、低価格、軽量、表示の高品質………たくさんの利点をebookが具体的にやってのけた。新しい世界を切り開いてきた米国での開拓者の姿がそこにははっきりと見えてきたといえる。

こうした外国勢の動きに対して、日本国内では既存勢力が対抗のために手を組む状況が生まれた。市場を牛耳られたらどうするのか? 国内市場での成長の果実をことごとく外国勢力に吸い上げられてしまう、これでいいのか。彼らへの強力な対抗策として、国内勢力は手を組み連携するしかない。まあ一理ある考えだったとおもう。

けれど、日本がとか、我が国がとか、云ったところでもう手遅れもはなはだしい。OSも検索エンジンもネットワーク技術も、デバイスの液晶やepaperの製造も、すべて外国勢に主導権を握られている。そうした相手の手の内の技術を前提としてナショナリズムを叫んでみたところで何になるだろう。相手に首根っこを掴まれて悪態つく遠吠えにすぎない。勝負はもうついている。

しかし、外国勢の開拓者たちが必ずしも自国で歓迎されているわけではない。開拓者を生んだアメリカは、成功した開拓者の専横に対して更なる対抗の開拓者を生んでいる。占有・寡占に対して、新しいチャレンジ精神を育んでいるのだ。もし、とうに遅れてしまった日本が国策としてとれる有効手段があったというならば、こうした既存の占有・寡占の精神を撃ち叩く新しいチャレンジへの支援しかなかったであろうに、こうした抵抗精神を鼓舞するような姿勢は一貫してとってこなかった。

守るべきものが明確に見えていた時代は護送船団を組んで、それで徒党を組んでいさえばよかったのだろうが、基底はとうに崩れ去ってしまったのだ。相手から武器の供給を受けて、相手と戦う……一体何が守れるというのだろうか。

一縷の希望としての共通フォーマット

産業の主役が誰になっていくのか? それは何のためなのか、誰のためなのか? 電子出版はみんなのものだという考えを今こそ真剣に考えてみるべき時だ。新しい主役の創出を支援する以外に、成長し、巨大化する先行の開拓者に対抗できる道はない。いや、対抗などからもっと異次元に私たちは進んでいくべきなのだ。

一縷の希望としてあるのは、電子出版の基準フォーマットを世界の共通のものにしようという動きがあることだ。ものを創り出すうえで、私たちは自然や社会的な資産というものをもっている。材料を調達したり、手段を利用するうえで木や花や水を使うように、言語という手段を持っている。これらにいちいちお金を払うようなことはない。みんなのものとして与えられているものなのだ。

電子出版にはこれがない。市場に参入しようとする入り口で、僅かではあったとしても料金を取る構図が当たり前のものとされてきた。「取れるものならこのオレが独占したい」。そう思うのは誰しもだろう。そうしてお互いが角逐し合い、それは何のためなのか、誰のためなのか、電子出版はみんなのものだ、という考えを結果として足蹴にしてきた。自分が救われることだけを言ってきたのだ。

国際電子出版フォーラム(International Digital Publishing Forum=IDPF)は、EPUBとして電子出版の世界標準を考えてきた。ここで示される基準/ルールに従って電子出版のデータを製作することは、世界の共通性の上に立つことになる。世界には多くの言語が存在しており、元々共通性などはなく独自性じゃないのか、と云うかも知れない。

しかし、これを前提にしてなお、共通性を求めることの重要性は、すでにWWWに象徴されるWebの世界で私たちは実感してきた。世界のどこにいても、私たちは世界の共通基準に基づくWebブラウザを介して瞬時に情報へアクセスすることができるようになった。各国言語の独自性は、自動翻訳の進歩によって着実にその溝を埋める方向に向かっている。相互のコミュニケーションを可能にするために世界の共通性の上に立つことは、私たちに計り知れない多大な恩恵を与えているのだ。

電子出版はWeb上の情報とはいささか異なっている。まとまったコンテンツの凝縮されたパッケージというのが出版物であるから、Webの情報の散在とは別の集中・凝縮が重要な要素となる。けれどもこうした作品/コンテンツをWebブラウザに準じて閲覧する方法さえ採れるなら、私たちが電子出版の基準/ルールを世界の共通性に準拠していくメリットは途方もないものだろう。

誰のためにか……? みんなのために、である!みんなの意味するところは、先行する巨大な開拓者へも、既成の利権を守旧する者へも含んでいる。しかし同時に名もなき未来の開発者、作家、読者、庶民をも含む全てみんなのものとして、与えられる社会資本としての意味合いを持っていることを忘れるべきではない。

IDPFは少なくともこれを目指して来た。IDPFに参集する世界の企業、組織/団体が、粘り強い協議を経て、世界の共通性と互換性、既存勢力(もてる者)と新興勢力(もたざる者)の隔てなく誰もが出版に参加できる手段の提供という困難な課題に取り組んできた。そこに新たな共通フォーマットを導き、EPUB3として世界に問うている。

Readiumプロジェクトの活動

IDPFはまた、ebook活動に参加する人々のために、その制作基盤となる手段を提示しようとしてきた。これがReadiumプロジェクトと云われるものである。

簡単にその主旨を列記する。

(1)Readiumプロジェクトは、最新のEPUB3仕様に準拠したファイルの表示/動作の確認モデルとして「EPUBのレファレンスシステム」を公開する計画である。IDPFはReadiumの成果を、誰もが自由に利活用できる為に情報開示するオープンソースプロジェクトとして推進してきた。

(2)EPUB 3で作られた出版物(原文 EPUB 3 publications)の表示/動作の確認がReadium上で、誰にでも可能になる。

(3)Readiumの表示エンジンは、WebKitを使っている。WebKitは、ChromeやSafariという代表的なWebブラウザのエンジン部分を担うプログラムであり、EPUB2の時代から表示エンジンとして利用されてきた。

(4)相互運用性(interoperability)の確保を重要視している。Readium上での表示/動作のチェックによって、EPUB3準拠のファイル、リーダーであれば互換性を保つことが確認できることになる。

(5)EPUB3環境のもとでの制作基盤を確保することで、EPUB 3の採用を促進、加速させる。

以下、コメントとして補足しておきたい。

EPUB 2からEPUB 3へのバージョンアップは大きな機能拡張となった。この拡張の中に日本語をはじめとする多言語対応がなされてきた。

EPUB 2は(少なくとも米国では)かなり普及しており、各種のEPUBリーダーが存在している。そのためEPUB 2で作られた出版物は、動作確認も簡単に行なうことができ、EPUB 2の出版物は積極的に作られた。

EPUB 3はEPUB 2からの大幅なバージョンアップであり、現時点でまだ、表示や動作を正しく確認できるEPUB 3リーダーが存在していない。存在していたとしても限定的(Adobe Digital Editions Previewは、EPUB 2.5とでもいう実装)なので、作成したEPUB 3の出版物が、本当に正しいのか現状、確実にわからない。

そこで、EPUB 3がどのように動作するのが正しいのか、その確認を行なうことができるためのEPUBリーダーとしてIDPFが主導する形でReadiumを開発することになった。これにIDPF参加の企業/団体が協力した。

Readiumは、あくまでも「レファレンスシステム(表示/動作の確認モデル)」であり、商用のリーダーであることを目的としていない。オープンソースとして開発されている。全ての開発経過については、以下でみることができ、議論されている。
https://github.com/readium/readium

ReadiumはGoogle Chromeの拡張機能(エクステンション)として開発されている。なぜ、Chromeか? Chromeは、HTMLを解釈して表示するプログラム(HTMLレンダリングエンジン)にWebKitを使っているから。

WebKitは、EPUB 2のときから、EPUBリーダーの「HTMLを解釈して表示するプログラム」を担う部分として使われているEPUB 3がどのように見えるのが正しいのか、それが明確になることで、EPUB 3出版物を作りやすくなり、同時に、EPUB 3リーダーを開発する側にとっても、WebKitを使ったEPUBリーダー開発の参考になる。

岩波写真文庫100『本の話』

これはebook……電子出版のことを語っているのではあるが、電子出版は出版の未来でもあり、出版そのものの深刻な問題を引き受け、引きずることでもある。出版を私たちの重要な社会資本として確保するために、出版の未来を担うであろうebookに関する社会性を強く問い掛けるべきではないか。

1953年(昭和28年)発行の岩波写真文庫100号『本の話』に書かれている一文をあえて最後に引用しておきたいと思う。なぜ、50年も前の記述を取り上げるのか……私たちは、出版に対する深い反省と復活への挑戦を新しい土壌に試みたいと切に願うからである。

一冊の本は世界を動かす力をもっている。その恐るべき仕事に携わっているものが、自己の責任を考えずに自分の利益だけを追求したり、自分のやっていることの意義がわからなかったら、これほど厄介なことはない。毎日の新聞におびただしい数の書物の広告が掲載され、化粧品や薬品と争うように、大きなスペースが出版の仕事に使われている。それだけを見れば、いわゆる文運盛んなりと考えられているかも知れないが、独創性もなければ日本の現代や将来に対する深い考えもなく、人間の品性や趣味を高める役にも立たないものが多いとしたら嘆かわしい。

(復刻版 岩波写真文庫 田中長徳セレクション より)

■関連記事
みんなの電子出版であるために
書物史の第三の革命

アマゾン主導のEブック革命は何をもたらすか

2012年6月26日
posted by 大原ケイ

今週のニューヨーカー誌にケン・オーレッタが書いていたビッグ5&アップルEブック価格談合裁判についての記事を読んで、私は米出版業界でアマゾンに牽引されて粛々と進行しているEブック革命が、根本的に何をもたらすのかという漠然とした考えに、かなりハッキリした輪郭が加えられ、戦慄した。それはちょうど今日本でも、取りざたされている出版社の著作隣接権や出版物原版権にも絡む話だと思うので、ない頭をひねって記してみる。

オーレッタの最近の著作。

少し最初に説明すると、ケン・オーレッタは日本ではおそらく『グーグル秘録〜完全なる破壊』(文藝春秋)や『巨大メディアの攻防—アメリカTV界に何が起きているか』(新潮社)の著者として知られているノンフィクションライター/ジャーナリストで、日本で言えば、『誰が「本」を殺すのか』を書いた佐野眞一にきわめて近い立ち位置の人物だと理解してもらっていいだろう。

彼はニューヨーカー誌にたびたび出版業界をめぐるテーマで寄稿しており、業界の人間から見ると、印税とか、ディスカウント率とか、基本的なところで時々間違えてるよね、という批評はあるものの、業界の外からの視点を提供してくれる貴重なオブザーバーである。

ケン・オーレッタの記事は何を伝えたか

書籍出版ビジネスが他の商品を売るのとは違うという点ではアメリカも日本も同じだ。それはつまり、本は1冊1冊が他の本とは全く違う「新製品」で、高額の新聞広告などで広く浅くその存在を知らしめるのは非常に効率が悪い、ということだ。なんだかんだ言っても、手堅く書店員さんに丁寧に売ってもらって、クチコミで話題になって、マスコミに取り上げられて…という売れ方が望ましいのだが、これが難しい。

アメリカではこんな風に基本的にお金をかけないマーケティングと、お金を払って広告を打ったり、書店チェーンの平台に並べてもらうコアップ(co-up)などのマーケティングを区別して、前者を「パブリシティ」、後者を「マーケティング」あるいは「アドバタイジング」と呼んでいる(日本では一緒くただけど)。

しかも本というのは読者に何を読みたいかを調査して回答が得られるものではない。読者はたいていの場合、今まで知らなかったこと、期待を裏切る新鮮さなど、知的好奇心を刺激される本との出会いを求めて本屋に足を運ぶからだ。

これがアマゾンなどのオンライン書店では、アルゴリズムに従って類書を羅列し、顧客の過去の購入履歴から興味のありそうなタイトルを推薦することはできる。読者が調べ物などのために最初から欲しい本がある場合には有効だが、楽しみとしての読書はパソコンでポチ買いは難しい。この辺のところをオーレッタは、著者協会のスコット・トゥロウ理事長や、アシェットやペンギンなどの社長にインタビューして、本との出会いの場がなければ、新しい著者を世の中に送り出すのがいかに難しいかという証言を引き出している。

一方で、日本にはないシステムに「アドバンス」がある。これは印税の前払い金で、企画が通ったり、原稿にゴーサインが出た時点で一部が支払われるシステムだ。前払い金と言っても、もしその本が出版社が見込んだほど売れなくても、著者は返さなくていいお金だ。

そしてほとんどのタイトルについて、アーンアウト(earn out)、つまり増刷がかかったりして支払うべき印税がアドバンスの額を上回るケースがないと言っている。これは本当。今までにも繰り返し書いてきたことだと思うが、本なんて1冊1冊丁寧に作って、一生懸命売って、それでもほとんどは売れて欲しいほど売れなくて、でも、たまに予想外に売れるのがあって、そしてごくごくたまーにベストセラーがあって、出版社全体が何とか潤って、そしてまた本を作っていく、というビジネスモデルなんだよね。それを理解しない業界にM&Aなんぞで買収されるとすぐダメになる理由がこれです(最近では会社更生法を申請したばかりのホートン・ミフリン・ハーコートとかね)。

言い換えれば、アメリカの出版社に原稿が受け入れられる、あるいは企画書にゴーサインが出ると言うことは、これからその出版社が著者のコンテンツに、編集、装丁、製本、販売、マーケティングという各方面で「投資をする」ということにほかならない。そこには大勢の人のコミットメントがある。だから著者もアドバンスで食いつないで原稿を書き上げることができるし、出版社をあちこち移らずに、売れるようになるまでいっしょにがんばれる。

出版は「プロの物書きを育てるための投資システム」

でもこれはアマゾンにとっては、効率が悪いし、出版社から本を出してもらえない大勢の著者をないがしろにしていることにほかならない、ということになる。確かに、最近アマゾンで売れている本を見ると、その約2割が自費出版の格安本と、アマゾンが出しているEブックのみの本となっていて、個人的には質が落ちたと感じていた。

私は仕事上、売れ筋の本は気になるし、アメリカで売れている本の傾向を掴むためにもなるべくチャートはチェックしているが、自分が自分のお金とヒマをかけて読みたい本はアマゾンで探さなくなった。業界仲間がソーシャルネットワークで紹介している本にはすぐ飛びつくくせに。

アマゾンに言わせれば、新聞社などが発表しているベストセラーの上位を占めるのは大手出版が鳴り物入りで出している本ばかり。だが、アマゾンでは零細出版のニッチな本や、自費出版のものがたくさん入っているよと、CEOのジェフ・ベソスは言っており、アマゾン以外はエスタブリッシュメントのスノッブだということになるのだろう。でも私は、出版社が推している本からは、その本を作った人たちの思い入れが感じられる(この点、バイアスがかかっていることは認めざるを得ないが)。

オーレッタはこれを「プロの物書きを育てるための投資システム」と位置づけている。今回私が彼のコラムで開眼させられた部分だ。もし、効率よく利益だけを上げていけばいいビジネスならば、売れることがわかっている著者だけにベストセラーをどんどん書かせればいいだけのことである。

そして反対に、出版社を見つけられない、あるいはなくてもいいと思っているアマチュアな著者の作品が安い値段で読めるようになるのがEブックだ。一握りの成功物語の裏側で、自費出版をしている著者の約半分は印税収入が500ドルに満たないという統計もある。

アメリカの出版社は、今のところ紙で売れてもEブックで売れても同じと考えて、その全体の見込み部数に応じてアドバンスを払っている。だが、Eブックだけではアドバンスはゼロ。作品が世に出ないうちは何の収入にもつながらないし、自分で出したところで、いくら印税率が90%だといえども1年に数万円の収入にしかならない。そしてマーケティングは全て持ち出し。これは今すでにブログの世界で起こっていることと同じである。つまりアクセス数を稼げるごく一部のブロガーが有料メルマガという形で利益を上げる一方、タダで読めるものは玉石混交、塵の数ほどあるという状態だ。

私も今まではアメリカのアドバンスというシステムを不効率だよなぁ、と感じることがあったが、オーレッタの指摘によって何が守られているのかがわかった。それはdiversity over profit、つまり出版社の人間が目利きとなって、少しぐらい赤字になって世の中に存在すべき書籍を推していく、そして売れる作家の上がりからその費用を補うというやり方で、売らんかなの商売では日の目を見ない部分に光をあてていくのが出版社の使命なのだ。

この投稿の続きを読む »

3・11後の「知のアーカイブ」をつくる試み

2012年6月20日
posted by 仲俣暁生

みすず書房のPR誌『みすず』6月号に、ハーバード大学エドウィン・O・ライシャワー日本研究所のエリック・ディンモア氏とアンドルー・ゴードン氏による「2011年東日本大震災デジタルアーカイブ」という文章が掲載されています(同社ウェブサイトからPDFで全文がダウンロード可)。この文章を読み、「2011年東日本大震災デジタルアーカイブ」の活動をはじめて知りました。

まだアルファ版とのことですが、さっそくアクセスしてみたところ、「ウェブ・アーカイブ検索」「震災情報レイヤー地図」「わたしの「東日本大震災」」という三つのコーナーがすでに公開されています。

「2011年東日本大震災デジタルアーカイブ」のアルファ版サイト。

「ウェブ・アーカイブ検索」は震災関連のさまざまな資料や記録の横断検索です。まだ暫定版とのことですが、ここでたとえば「図書館」と入力すると、たとえばSAVE MLAKがとりまとめた被災地の図書館や美術館、博物館、文書館、公民館などの被災状況を示す写真や、図書館・アーカイブズの紙資料保存に携わってきた「東京文書救援隊」というボランティア組織の活動などを知ることができます。

「震災情報レイヤー地図」は文字どおり、インターネット上の地図に震災情報をレイヤーでマッピングしていくしくみで、「わたしの「東日本大震災」」は被災者が自身の声をネット上に投稿できるしくみです。

昨年の震災と福島第一原子力発電所事故にかんしては、とても多くの出版物が刊行されましたが、こうしたウェブ上のアーカイブも、もうひとつの「出版」活動といえると思います。この「2011年東日本大震災アーカイブ」については、あらためて機会を設けて詳しくご紹介していく予定です。

* * *

もう一つ、昨年秋に刊行された『印刷白書2011』(日本印刷技術協会)に掲載された前田邦宏さんの文章を再編集した、「「知の赤十字社」にむけて」という論考を「読み物」コーナーに掲載しました。

東日本大震災の甚大な被害を受けて真摯な思いで書かれた文章で、「知のアーカイブス」の重要性が説かれるなど、震災後のメディアのあり方を考える上で示唆に富んでいます。「2011年東日本大震災デジタルアーカイブ」について書かれた『みすず』の文章とも響きあうところがありますので、この機会にあわせてお読みいただければ幸いです。

東日本大震災後の被災地における知のインフラづくりや地域復興には、経済産業省の「コンテンツ緊急電子化事業」がすでに始まっていますが、それとは別に、「2011年東日本大震災デジタル・アーカイブ」を見てもわかるとおり、民間側で注目すべきプロジェクトが先行していくつも動いています。正直に言って、発想の柔軟さにしても動きのスピードにしても、これらのほうが官主導のものに比べ一歩も二歩も先を行っています。「マガジン航」ではこうした動きに今後も注目していきます。

■関連記事
震災後1年を経て、電子書籍について考える

「知の赤十字社」にむけて 

2012年6月20日
posted by 前田邦宏

避難所となる大学やメディアそのものも被災した

震災後、初めて被災地を訪れたのは、2011年5月に東北大学医学部で行われた科学技術コミュニケーションの研究会に参加するためで、それは10年前に開館した日本で最も先進的な図書館・メディアセンターとして名高い「せんだいメディアテーク」での講演以来のことであった。

同大学の被災状況は、本江正茂准教授たちから説明を受けても、現場を見ずに理解するには困難なほど深刻であった。数字だけ言えば、まず建て替えが必要になった28棟と実験機器約7000台の損壊の被害総額だけで770億円。特に高台である青葉山にあった工学部や建築学部の高層校舎の揺れは凄まじく、コンクリートに打ちつけた本棚のワイヤーは1G近い横揺れのためちぎれ、スチール製の机もひしゃげ、研究室内には、左右に揺さぶられた鉄筋コンクリートの内部が吹き出すように散乱した。

当然ながら、それらの校舎は立ち入り禁止となり、資料の持ち出しもできず、新入生を受け入れるどころか、学部生も他大学で授業を受けさせ、追って単位を与えるという非常措置を取らざるを得なくなった。何とか地震を耐えた新築の講堂やカフェテリアは、当面青葉山キャンパスの教師や学生1000名の居住空間となったのであった。

その後、長神風二准教授の先導で、津波に襲われた地域に車で近づくにつれ、テレビを通じて伝わっていた倒壊した工場やひしゃげた車、がれきの山が面前に広がり始めた。そして、運命の分かれ目であり、津波の防波堤の役割を果たした高速道路の土手を越えると、一般人立ち入り禁止区域に入った。かつての農地や住宅地が砂漠のような砂地となり、強い潮風によって黄色の砂塵が舞う荒涼とした風景が遠くに見える松林がある海岸線まで続いていた。そして、ところどころで作業をしている消防団員や警察らしき集団は遺体の捜索を続けているのであった。

医学部は市街地なので倒壊を免れたものの、長時間の電源喪失により非常用バッテリーも使えなくなり、ALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者の人工心肺を家族が手で24時間ポンプを押し続けたという。冷蔵管理が必須であった貴重なサンプルなども、もう少し非常用電源に近い場所にあればと悔やまれたことが多々あったという。また、自衛隊や緊急用のヘリコプターが到着してから、機種によっては医療機器のために必要な長時間の電源を備えていないことが分かるなど、想定外の電源喪失に脆弱な現代の医療現場の課題も垣間見られた。

今、生き延びるためのメディアが必要とされている

世界的に著名なフランスの経済・政治学者ジャック・アタリは、ルールなき市場経済が無秩序と格差をもたらしている現状に対して、「国家なき市場経済」が「世界のソマリア化」となることを危惧している。私的解釈では、世界は第3次世界大戦ならぬ「第1次世界内戦」へと突入しており、局所分散型のテロ活動に加え、政治的・経済的無秩序がもたらす不幸のグローバル化を、ソマリアに例えたのだと思う。

残念ながら、その危惧はどんどん現実化し始めた。チュニジアのジャスミン革命を発端とし、エジプトでクーデターが起き、リビアへの軍事介入へと続いた。そして、今、EUのギリシャの債務問題の悪化、米国債のデフォルト危機、また中国におけるバブル経済の破綻の恐れなど、経済の国境なきリスクの現実感が増している。そうした中、東日本大震災は起こり、現在も進行中である。日本は国家債務危機だけでなく、世界が“生き延びる”ためにどうしたら良いかを考える象徴的な場所になったのだった。

東日本大震災は日本を窮地に追い込んだものの、顕在化した課題は決して想定外ではなかった。つまり、近い将来予期された不幸が凝縮した形で押し寄せたのであって、それも始まりに過ぎないというのが厳しい現実である。しかしながら、あえてこの見たくない現実と対峙するにあたって、決して絶望する必要はないというのが、今回の提言の趣旨であり、印刷業界やメディア業界の決断と強い意志によって革新が生まれるチャンスなのだと信じている。

まず、あらゆるメディアは日本の経済規模と比例して成長をし、それが下降すると同時に収縮し始める。内需もまた人口やその構成比率から縮小せざるを得ず、一次産業だけでなく二次産業、三次産業においてもグローバル化の中でどのように業態を維持するかは、簡単には解けない難問として顕在化していた。その上、デフレが続く中で高付加価値サービスを提供するイノベイティブな土壌が今の日本にあるかと言われると、本来的に日本人にその資質が備わっていても、その資質が発揮され、形にする支援を今の教育システムや社会的環境がしているかというとそうでないと言わざるを得ない。つまり震災は東日本だけでなく、日本全体の再構築を迫っているのである。

新聞は何を報じたか、何を報じるべきか

被災した新聞社がそれでも新聞発行を続けたことは、石巻日日新聞の手書きの壁新聞で世界的にも有名になった。大規模な停電の影響で3月12日付朝刊の発行に甚大な被害が出たが、被災した新聞社は災害援助協定を結んでいる近隣県などの新聞社に組み版や印刷を委託したり、予備電源を使ったり、ページ数を圧縮するなどの特別発行態勢で新聞発行を継続した。

ある知り合いが新聞に関する面白い所見を披露してくれたことがある。「多くの人が毎朝新聞を読むのは、どの事件も自分とは直接関係がなかったことを確認し、安心してその日を始めるための行為だ」と。確かにそう考えると、今読む新聞や雑誌は読むに耐えられない記事が多い。なぜなら自分や家族の死活問題に関わる政治的動向に対して怒りを感じざるを得ない内容が多い上、その記事を掲載しているメディアにさえ不信感を抱いており、読んだからと言って安心が得られるどころか不安が増すばかりだ。そうかと言って、無理に安全を強調したコンテンツを提供しようとしようものなら、読者との不信の連鎖に陥り、御用新聞やら御用記者呼ばわりされてしまう始末だ。

被災地の印刷会社や関係者を取材した中で、自らも被災した笹氣印刷出版の笹氣義幸取締役が「自分たちの仕事は『事実を正確に広く伝えること』が本質なので、そのための手段や媒体が変化することに疑問は持たない」と語っていたことに、ある種の安心と希望を感じた。この言葉にはもともと日本人が持つ公共性への前向きな姿勢が感じられる。特に被災地の当初の不安は、自らに関わる事実を正確に知ることができないことにあり、3.11から数カ月以上経った今、被災地の書店で一番で売れているものは、何と東日本大震災の特集雑誌なのである。つまり、ようやく自らの体験を冷静に認識し、俯瞰することができる状況になったということなのである。

安心と安全を安価に提供する方法

では具体論に入ろう。我々はいまだ福島第一原発に関する情報を正確に得られていないと感じざるを得ない。また被災地の細かな復興状況の進捗やニーズについても同様に不明である。それは状況が複雑であると同時にそれらを俯瞰する術を得ていないからである。

公共交通機関やインフラの復旧状況はおおよそ見えてきたかもしれない。例えば、公共機関や大学の物理的損壊は数字で発表されている。それはパソコンやサーバー、高額な実験機器や建物が壊れた金額であって、例えば貴重な医療用のサンプルやハードディスクの中にあったデータの価値は含まれていないだろう。

16年前の阪神淡路大震災の頃と今とでは、印刷会社のコンピューター化の浸透は全く違っている。印刷データの大半はデジタルデータとしてハードディスクに格納されていたはずである。またハードディスクの大容量化によって、それらのデータのバックアップができていたかどうかによって被害の大きさも違ってくる。このようにデジタルデータの復旧対応が放置される状況は<デジタル・ジェノサイド>と呼ばれている。

石巻の松弘堂の本社社屋は地震と津波で大きな被害を受けたが、現在は石巻日日新聞社の会議室に仮事務所を設けて業務を再開している。松本俊彦社長は、事業継続を決心した理由の一つとして、防火用金庫にデジタルデータが残されていたことを挙げている。

被災した七星社のコンピュータ(現地では、被災者向けの書類申請をするためのコンピューターすらない状況であり、使っていない中古製品があればぜひ提供して欲しいとのこと)。[出展:『印刷白書2011』(日本印刷技術協会)]

そもそも印刷会社には、大量のパソコンやサーバーがありながら、水没したハードディスクを救済する技術的方法があることを知っている人が何人いただろうか。ハードディスクも早期に適切な処置をすればデータの回復は可能なのである(図表1-1)。

[出展:『印刷白書2011』(日本印刷技術協会)]

全国ブランドのメーカーは、機を見て多重性の確保やクラウド化をこぞって提案しているが、そもそもこれまで売ったハードウェアの中に含まれるデータの喪失にメーカーが復旧支援をしている様子が見えない中、新しい方策を提案されても、どこまで何をすれば安全かを保証しないメーカーに信頼を寄せられるだろうか。それは原子力発電所の産業構造と同じである。ここで言いたいのは、売った機器の性能しか保証しないメーカーは、企業活動の生命線を維持するための信頼ネットワークの中にないということである。

これからのメーカーは、自分のブランドを冠したステークホルダーの信頼ネットワークに対する責任の範囲を、積極的に明言することで多大なブランディング効果が得られる。つまり、企業の生命線となるバイタル・レコード(組織の存続に必要不可欠な財務上、法律上、事業運営上の記録や文書)の復旧や、互換機を持つ別の印刷会社への仲介、中古機器の所在の把握などが、メンテナンスも含めて、メーカーの責任範囲となる。これらの社会的責任を無償で果たすのではなく、継続的ビジネスとして行えば良い。

“知”の赤十字社設立の提案

SF作家として名高いH.G.ウェルズは、かつて「人類の歴史はますます教育と破滅(大惨事)との間の競争になってきている」と述べた。確かに教育(過去の知恵の共有とイノベーションの創出)が未来をより良くする最も重要な手段である。

そこで、今回、印刷業界を通じた国家再生事業として提案したいのは、まず2011年4月に試行された公文書管理法に基づいた重要文書のデジタル化事業を被災地の雇用促進のために東北エリアに集約することだ(松岡資明著『アーカイブズが社会を変える-公文書管理法と情報革命』(平凡社新書)をぜひご一読いただきたい)。

事業仕分けによりその進捗が遅れている国立国会図書館の長尾館長私案の電子書籍配信構想を後押するのはどうか。また、単に文書のスキャニングだけでなく、太平洋戦争前の公文書でも崩し字で書かれた日本語の現代語への変換作業を、高齢者やリタイアした有識者にも協力を求めるなどして一気にデジタル化を進め、電子図書館の事業化や東北エリアでの電子教科書の普及を推進するのはどうかと考えた。

日本で初めての公共図書館は、江戸時代に設立された青柳文庫(仙台市青葉区一番町)だということは案外知られていないかもしれない。また、海外では図書館は危機対策の役割を担っている。ニューヨークの図書館が9.11の直後、関連情報をWebサイトへアップロードし、市民の疑問や不安に応えるための機能を果たしたと聞いている。

今回、震災関連情報のポータルを誰がいつ作るのかが事前には決まっていなかった。また、その情報の正確性や中立性を誰がチェックし、領域横断的に情報をつなげる専門性、編集スキルが十分に果たせなかった。日本から発信する情報の多言語化や原子力発電所事故関連の論文の和訳についても、いまだ様々な障壁があり、重要な情報を市民が得られているとは言い難い。

実際、多くの人が政府の「すぐには健康に影響がない(残念ながらこの表現はとても科学的なのである)」という公式声明に従う以外の、次善の策を知りたいと考え、放射能汚染に関する情報収集に途方もない時間を費やしたと思われる。もし、図書館がエビデンスベースの情報集約システムを持っており、どのような方法やコストで身の安全を確保できるかを記す術があったなら、風評を防ぎ、情報共有コストを下げ、パニックもなく、深刻な被災地への援助に集中することができたに違いない。

そして、その状況は3.11から改善されておらず、首都圏直下型大地震、東海大地震、原子力発電所へのテロ攻撃など、あらゆる大惨事に対して、知の共有が求められているのだ。

印刷業界は、第1に、これまでの「正確な情報を多くの人に伝達する」という社会的ミッションを高度化させて、個別適合性の高いメディアビジネスの展開を考えるべきである。

第2に、超高品質高付加価値、生産性効率の向上というこれまでのジャパン・クォリティーとは別に、グローバルなニーズを満たす中庸な品質(洗練されたBOPビジネスや自衛隊や在日米軍の余剰装備の活用、企業間を超えた効率の良いロジスティックス)について研究すべきである。

第3は、知のアーカイブスを活用した大惨事への即時対応能力を向上させること。政府だけでなく、個が複雑な世界を前向きに受け止められるリテラシーと高度な信頼ネットワークの構築をし、日本だけでなく、宇宙船地球号のコンティジェンシーマニュアル(想定外危機対応マニュアル)、すなわち“知の赤十字”を世界に提供する事業を開始すべきでないだろうか。これは新しいクロスメディアであり、これからも常に起こり得る災害と社会不安に対する大きなニーズとなるに違いない。

追記:「人間の安全保障」へ

上記の論文を寄稿後、「知の赤十字(Information of Red Cross)」という言葉は、Wikipediaの創業者ジミー・ウェルズも目標として掲げている言葉であることを知った。しかしながら、Wikipediaは止血方法について記述はしてはいても、「ウィキペディアは医学的助言を提供しません。免責事項もお読みください。」と表示している。すなわち、市民が社会から見放された時、その扶助を約束しているわけでも、相談に乗ってくれるわけでもない。つまり単なる辞書に過ぎないのだ。それに、間違った情報をボランティアに相互チェックさせるといった信頼度では、人生の選択をするには不十分だ。

私がイメージした“知の赤十字(Wisdom of Red Cross)”は、ある種の相互扶助組織もしくは共済組合であり、かつプロフェッショナルな情報の精度を想定している。さらに目の前にいる人が、心身の危機を国際法によって保護したり、現代医学が治癒できないとしても、生きる望みをつなぐコミュニケーションのチャネルもしくはメディアでなくてはならないと考えている。つまり、人間の安全保障を下支えするプラットフォームというイメージだ。

それは、これまでの国家や国際機関の人道的緊急援助ではなく、地球上において尊厳ある人間として豊かに生きる権利の行使を保全する、地球における「人間の安全保障理事会(Human Security Council)」、もしくは国境を超えた「情報協同組合(Intelligence Co-operative)」設立を要求するものであり、国際連合軍や世界連邦が存在しない今、武装なき市民の自衛組織として高度な信頼ネットワークが必要だと考えるからだ。

あるハリウッド映画のように、もし5年後に大きな地殻変動が起きて世界が全滅するかもしれない、という時に、ある一部の市民だけを救い英雄気取りになる結末は、ある種、独善的で、虚しいシナリオだと思わないだろうか。必要ならば宇宙船地球号を新たにつくることすら可能にする能力が人類にあると信じてはいけないだろうか。

そうでなくとも自国政府に迫害を受け、国際社会にも見放された人々が逃げる場所がないという現状、国連が起草した「人間の安全保障」は、いまだ何かを約束するサービスとは言えない。であるならば、我々はすでにそのニーズが切実な市民に対して新しい「人間の安全保障」のサービス提供の準備を始めなくてはならないのではないか。そもそも敵は人間の価値観や人種、国家間の争いだけとは限らない、天変地異から謎の感染症、宇宙人の襲来に至るまで、人類は分け隔てなく互いを助け合える関係でありたいと願う。

そのためにも火事が起こってから消防車を買いに行くような組織であってはならない。あらゆる未来の危機を想定する想像力とその解決法を生み、合意形成を行う予行演習が必要だろう。“知の赤十字”は、保険会社ではなく、予知的・予防的な抑止力を持つ人類のためのインテリジェンス機関であるべきだと考えている。

本寄稿から一年を経過し、私はこの構想を具体化する準備に入っている。その内容については、いずれ順を追ってご紹介したい。そこには皆さんの智慧や全く違う視野や視点も必要だからである。

※本稿は日本印刷技術協会(JAGAT)が刊行する『印刷白書2011』に掲載された著者の論文「生き延びるためのメディアと信頼ネットワークの再構築」を再編集のうえ、『「人間の安全保障」へ』と題された追記を加えて改題し転載したものです。(編集部)

復刊はもうひとつの出版の「本道」である

2012年6月6日
posted by 左田野渉

書籍の復刊は新聞書評に載らない仕事です。書評に取り上げられるのは、あくまで新刊書だけです。海外文芸作品の「新訳」なら取りあげられる可能性もなくはありませんが、復刊ではまず無理でしょう。また復刊書がベストセラーになることも滅多にありません。表舞台に背を向けた、決して「主役」にはなれない仕事です。しかし、だからこそ読者の願いを本当に叶えることのできる仕事でもあるのです。

「復刊ドットコム」のトップページ。

「復刊ドットコム」の活動は今年で12年目を迎えます。これまで5000点以上の復刊を実現させてきました。「復刊ドットコム」で復刊を実現する方法は、二つあります。一つは私たちが出版社交渉によって「ネット書店」として実現する方法。もう一つは私たちが「出版社」として実現する方法です(下図を参照)。

全体では前者が八割、後者が二割の占有率です。前者は投票数というマーケティングデータから、すべて私たちがリスクを負う買切仕入れです。復刊では発行部数が小ロットであることを補うために、価格を1.5~2.5倍にアップします。後者は交渉先の出版社が復刊できない場合です。発行出版社が倒産していたり、そのジャンルから撤退していたり、担当編集者が退職していたり、などの理由があります。この中間的なソリューションとして、出版社に発行権を残して、小社が編集・印刷製本の進行をすべて引き受けて発売元となるケースも好評で最近は増えています(下図を参照)。

「復刊」はブルーオーシャン

このようにして生まれた復刊書籍のうち、すでに出版社がなくなっており、「復刊ドットコム」自体が発行元となった案件のなかから、定評ある物理の学習参考書である渡辺久夫『親切な物理(上・下巻)』、森永乳業ヒ素ミルク中毒事件を扱った長谷川集平の絵本『はせがわくんきらいや』、球体関節人形のさきがけである『ハンス・ベルメール写真集』などのロングセラーが生まれています。

また出版社からの仕入書籍でも、『METHODS~押井守「パトレイバー2」演出ノート』(角川書店)、宮崎駿のアニメ作品「未来少年コナン」の原作である アレグザンダー・ケイの『残された人びと』(岩崎書店)、沢渡朔の写真集『完全版アリス』(河出書房新社)、仕掛絵本『ガマ王子対ザリガニ魔人』(主婦と 生活社)などのスマッシュヒットが生まれました。

わずか数百という発行部数ですが、ヤマハミュージックメディアと作った谷山浩子のSFミステリー『悲しみの時計少女』や、70年代に活躍した人気フォークグ ループNSPのリーダー、故・天野滋の『見上げれば雲か』などを、それぞれのファンの方々が大喜びしてくれたり、目黒区美術館の秋岡芳夫展をきっかけに復刊された秋岡芳夫『竹とんぼからの発想〜手が考えてつくる』を、国際竹とんぼ協会の皆さんが大歓迎してくれたことは、何より得がたい経験でした。

「復刊ドットコム」から生まれた復刊書籍たち。

さらに、投票者の方々との共同作業によって、フランスの歴史大河小説『ダルタニャン物語』『アンジェリク』は世に放たれました。また 編集者が北海道まで行き、著者がご他界になっても追い続けて執念で実現した、『夢館』をはじめとする「佐々木丸美コレクション」。忘れ去られていた「トラウマ童話」作家である大海赫先生が、『ビビを見た!』で日本児童文学家協会の「児童文学功労賞」を受賞なさったこと。最高裁まで争われた漫画『キャンディ・キャンディ』原作の復刊を、著者の名木田恵子さんと心の崖を一緒に飛び下りて実現したこと。そして何より藤子不二雄A先生の『怪物くん』を始めとする「藤子不二雄Aランド」(全149巻)の完結を成し遂げたこと。

いずれにしても大手出版社では絶対に取り組まないであろう企画の多くを実現することができました。これもブルーオーシャンである「復刊」という畑を黙々と耕し続けてきたからこそ収穫できた果実です。

この投稿の続きを読む »