ロンドン・ブックフェア2013報告

2013年4月23日
posted by 小林恭子

毎年恒例の「ロンドン・ブック・フェア」が今年も4月15日から三日間にわたり開催された。

世界60ヵ国以上からやって来る約2万5000人の出版業関係者が集まるという会場(アールコート・エキシビジョン・センター)には、1500の展示ブースが設けられ、本の出版や翻訳権を交渉する「インターナショナル・ライツ・センター」には586の机がびっちりと並んでいた。

会場のあちこちでは250近くのセミナーやワークショップが同時に開かれた。例えば児童書の成功例を取り上げる「チルドレンズ・イノベーション・センター」、毎年一つの国(今年はトルコ)を選んで書籍市場を研究する「マーケット・フォーカス・プログラム」、電子書籍関係者がプレゼンテーションを行う「デジタル・ゾーン」などでは、入れ替わり立ち代りでスピーカーが実践例を紹介してゆく。

ロンドン・ブックフェア2013の会場となったアールコート・エキシビジョン・センター。

日本と同様、英国ではアマゾンのKindle発売以降、自費出版や電子書籍使いがにわかに注目を浴びている。ネットを使えば誰でも気軽に情報を発信できる時代でもある。私たちは読み手であると同時に書き手でもあり、そうしようと思えば、以前よりははるかに簡単な過程を経て出版者(パブリッシャー)あるいは著者(オーサー)になれる。

ロンドン・ブックフェアでは「書籍のデジタル化」や「デジタル時代の出版」を中心に会場を回ってみた。

誰もが著者になれる時代がやってきた

今年初めて設置されたのが、「著者のラウンジ(オーサーズ・ラウンジ)」だ。著者あるいは著者になりたい人のたまり場である。

オーサーズ・ラウンジにて。中央が「オーサーライト」のハワード氏。右は「スマッシュワーズ」のコーカー氏、左は自己出版を手がける「マタドール」のトンプソン氏。

スペースは二つに分かれている。片方には三人がけの横長のスツールがいくつか並べられ、奥には小さな舞台がある。舞台上では約1時間ごとに著者の権利や出版についてのトークがある。もう一つのスペースはカフェになっている。「カフェ」といっても、夕方になるとワインも出る。

著者のラウンジ設置を企画したのは「オーサーライト」(Authoright)の代表ガレス・ハワード氏だ。オーサーライトは本を出したい人や既に本を出した人のために、企画を出版化するまでの支援を行う。ハワード氏自身は弁護士からマーケティング業に転じた人物だ(オーサーライトについてはこのYouTube映像も参照)。

企画を出すと、出版社は「誰もそんな本に興味を持たない」といつも言う。売れるか売れないかばかりを考えて、企画を真剣に考えない出版社には飽き飽きした。そこで「作家たちを助けたいと思って、本が出るまでのすべてのことを助けるためにオーサーライトを作った。

と、ハワード氏はフェア初日の「自己出版101」というワークショップで語った。英国では本を出版したい人は「リテラリー・エージェント」(著作権代理人)を探す。出版社に連絡をつけ、交渉をしてくれるのがエージェントだ。オーサーライトはエージェントの紹介も行っている。

電子書籍を自己出版できるサイト、「スマッシュワーズ」 (Smashwords)の創業者、マーク・コーカー氏はこう語った。

今の出版業界はビジネスとしての構造が壊れていると思う。現在の出版者のビジネスモデルは紙での印刷を基にしている。巨額の費用がかかるし、出版者は売れるかどうかを考えるが、あくまでも推測でしかない。それを決めるのは読者なのだから。

さらに、本を出版した後、「たとえ20人しか読者がいなくても、その20人に多大な影響を与えることもある。だとしたら、この本は出版されるべきなのだ」とも。

ハワード氏もわが意を得たりと思ったのか、次のように語った。

面白いかどうかよりも、売れるかどうかのみで(出す本を)決めているのが問題。有名人が書いたから出そう、とか。しかし、いま流れは変わっている。

電子書籍であれば費用をそれほどかけずに本を出版できる状態となったため、

(いまは)作家にとって、最高のときなのかもしれない。

とコーカー氏が続けた。

しかし、出版がしやすいことの半面には危険性もある。

編集作業を通さなくても、すぐに出せてしまう。出版自体が簡単になったからこそ、本当に質の高い本を出すのは逆に難しいかもしれない。

と、紙及び電子書籍での自己出版サービスを提供する「マタドール」(Matador)のジェレミー・トンプソン氏はいう。

米国では書籍市場で電子書籍は19%近くを占めているという。英国では、数え方にもよるが、「10%」(BBCのこの報道を参照)と言われている。しかし、今後、この比率はどんどん高くなる見通しだ。

私自身は数年前からアマゾンの初代Kindleを使ってきた。平たくてやや大きいKindleだ。画面を見ながら読むのは目が疲れるかなと思っていたが、そうではなかった。文字を拡大できるのと、夜寝る前に横になって読むときに、Kindleは軽いので手が疲れないため、とても重宝した。書籍を急ぎで入手したいときも役立つ。

ロンドンでも電車に乗ると、Kindleで本を読んでいる人によく出くわしたものだった。しかし、最近ではタブレット(主としてiPad)を手にする人が目に付くようになった。私自身も、電子書籍は旧式Kindleではなく、画面をタッチしながらページがめくれるiPadで読むことが多くなった。

書くことと出版の民主化

「ディスカバラビリティー(discoverability )」という言葉を、フェアの最中にあちこちで聞いた。紙に印刷される通常の本の場合、書店に行けば誰かにその存在を気づいてもらえる。しかし、電子書籍の場合は著者や書名を探せば見つかるものの、何らかのマーケティングをしなければ存在しないも同然となる。誰もが出版できる時代に、自分の本を「発見してもらえること」が非常に重要になってきた。

「自己出版101」のワークショップを観て、「著者が力を持つ」が今年の大きなテーマの一つかなと思ったが、次のワークショップ(「独立著者同盟が自己出版サービスについてのガイド本を創刊」という長い名称)でもその感を強くした。

最初に舞台上に登場したのは、複数の出版社から54回、本の企画を拒絶された後に、やっとペンギンブックスから初めての本の出版にこぎつけたというオーナ・ロス氏。「やった!」と思ったものの、次に企画した小説の扱いが気に食わず(アイルランドの英国からの独立をテーマにした歴史物小説を、出版社は女性向けの軽い読み物として売り出そうとした)、自己出版を選択した(彼女のサイトはこちら)。

ロス氏は既存の出版社に頼らず、作家同士が助け合いながら本を世に出してゆくために「独立作家同盟」(Alliance of Independent Authors)を立ち上げた。自己出版についての情報交換、法務面でのアドバイス、作家同士の交流などを主な目的とする。ロス氏についで数人のメンバーがそれぞれの体験を語ったが、みんなとても元気がいい。

「同盟」の活動の中心は「書くことと出版の民主化」である、とウェブサイトに書いている。

自分の著作を作者自身が管理する――これが可能になるのが「自己出版」。さらに進んで、自分自身が出版社(者)となってしまったら、どうなのだろう?

フェア2日目のワークショップ「どのようにして出版社を立ち上げるか」で、ひときわ目立ったのが、欧州の短編小説を英語に翻訳して出版する「パイリーン・プレス」(Peirene Press)。1冊が200ページほどで、「DVD1枚を視聴する時間を読書に費やす」というイメージで発行している。

創業者はドイツ生まれのマイケ・ツイアーボーゲル氏だ。同氏は、自分の出版社をまるで一種のブッククラブのように経営している。本は1冊ずつでも買えるが、年間購読(さまざまなコースがあるが、基本は4ヶ月に1冊、年に3冊配布、年間購読料は25ポンド=約3700円)を勧めている。

特定の本についてコーヒーやケーキを食しながら会話を楽しむ「コーヒー・モーニング」、読者と作家を自宅に招いてディナーや会話を楽しむ「サロン」などのイベントを開催。フィクションの書き方の教室もある。週に一度、「小さな出版社を経営する私」というテーマのブログを更新する。

一定の金額を払って数冊の本を読むというアイデアは、大手書店ウォーターストーンも年内に採用する。毎月、数ポンド(金額は現時点では未定)を払うと、9000語程度の電子書籍の短編を際限なく読める。「リード・ペティート」(Read Petite)のシリーズは、音楽業界で好きな音楽をダウンロードするSpotifyなどのビジネスモデルを電子書籍界にも導入したことになる。

Koboの新機種も登場

楽天の子会社でカナダの電子書籍企業Kobo。空色と白を使ったKoboのブースには、最新の電子書籍リーダー、Kobo Aura(オーラ)がガラスケースの中に置かれていた。その一つは、三木谷社長の英語の本を画面に表示していた。

Koboも大きなブースで出展。

Koboの新しい電子書籍リーダー、Kobo Auraも展示されていた。

眺めていたら、Koboの顧客担当であるジェームズ・ウーさんが自分のAuraを貸してくれた。Koboは上着のポケットにすっぽり入るKobo miniよりも大きいが、「売り」は画像の鮮明さなのだそうだ。Kobo Auraは後ろが平らではなくて、少し盛り上がっている。手のひらにフィットするようにしたそうだ。Koboの読者にどんな形がいいかを聞いて、要望を反映させて作ったという。

自己出版サービスと言うと日本ではアマゾンのKindle Direct Publishing (KDP)が有名だが、KoboもWriting Lifeという同様のサービスを展開している。アマゾンがKindle Direct Publishingの使い方を紹介するワークショップも複数開かれ、多くの参加者が詰めかけていた。

「まるでワイルド・ウェスト(19世紀の開拓時代の米国西部地方)のようだな」とあるパネリストが言っていた。何でもありの時代だ。読み手、著者、出版社の役割やそれぞれの関係、そして英国では著者と出版社をつなぐエージェントの役割や存在意義も大きく変わりつつあるという思いがした。

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私が本を読まなくなった理由

2013年4月16日
posted by 堺屋七左衛門

あるとき、出版社勤務の人と雑談していたら、「最近どんな本を読みましたか?」と尋ねられました。その人とは初対面だったので、無難な共通の話題として、身近なはずの読書のことを持ち出したのでしょう。しかし、情けないことに私は、この質問に答えられませんでした。自分では、かなり本を読んでいるつもりだったのに、実際にはここ数年、急激に本を読むことが少なくなっていました。この「事件」のおかげで、あらためてそれに気づいて愕然としました。

このひどい失態のせいで、その出版社からの翻訳依頼が……いや、そのときはそんな相談をしていたわけではありませんが、いずれにしても、あまり良い印象は持たなかっただろうとは思います。その反省を兼ねて、私がなぜ本を読まなくなったのかについて考えてみます。

本を置く場所がない

昔は、毎日のように本屋に立ち寄って、ほとんど毎日のように本を買って読んでいました。あまり高尚な本ではなくて、趣味や仕事で興味のある分野の専門書や実用書が中心で、その他に小説や随筆も多少は読みました。私の家では、書斎というと大げさですが、6畳の部屋を自分用に占有して、その部屋の壁の一つの面全部を作り付けの本棚にしています。この家に住み始めたとき、これだけのスペースがあれば、少々本が増えても当分は大丈夫だと思いました。しかし、当然ながら、何年も続けてどんどん本を買っているうちに、満杯になります。

満杯になるのと前後して、会社員が本業である私は、数年間、遠方に単身赴任していた時期があります。単身赴任先でも、やはり本を買っていました。やがて自宅に戻ってきたときには、持ち帰った本を自宅の本棚に入れるスペースはありません。部屋の床に、引越荷物の段ボール箱が積み上げられた状態になりました。

古本屋に売るのは面倒だし、本を捨てるのは何となく抵抗があります。最近は、「自炊」で本棚のスペースを空けるという方法もありますが、それはそれで手間がかかるので気が進みません。とにかく、めんどくさがりなのです。満杯の本棚と、床に並ぶ段ボール箱を見て、これ以上本を増やさないようにしようと思いました。「本を買うのをやめると決意した」というほど大げさなものではなく、なんとなく「置く場所がなくなって困ったな」という程度のことです。

本の重みで床が抜けるという話が「マガジン航」にも掲載されていますが(注1)、我が家の床が抜けてしまうのは困るので、私は、絶対に床に本を積み上げないことにしています。他人から見れば、本を入れた段ボール箱が床に置いてあるのだから、あまり変わらないだろうとおっしゃるかもしれませんが、私としては「床に本を積み上げたら負け」だと思っています。床に本を積み上げないことについては、強固な意志を持って守り続けています。

そのような状態で、全く本を買わなくなったわけではありませんが、購入のペースは非常に落ちました。1ヶ月に1冊くらいの感じでしょうか。最近買った本は、すでに本棚に立ててある本の上のすき間に横向きに押し込んだり、机の上に置いたりしています。机の上に置いてある本は、積み上がって収拾がつかなくなる前に、整理しなければならないと思っています。

(注1)「本で床は抜けるのか」「続・本で床は抜けるのか」を参照。

情報の伝達経路が変わった

さて、私が本をあまり読まなくなったのは、本棚が満杯になったという以外にも、いくつかの要因がありそうです。

以前は、仕事が終わった後、通勤経路上にある本屋に立ち寄って本を物色していました。しかし、何年か前に、いつも利用していた勤務先近くの書店が閉店しました。書店がなくなって本をさがす機会が減ったというのも、理由の一つと言えるでしょう。

堺屋さんの訳書『ケヴィン・ケリー著作集Ⅰ』はフリーの電子書籍、有料の紙の本のどちらでも読める。

2008年に、私は翻訳を始めました(注2)。最初の頃は、週1回くらいのペースで翻訳を発表することを目標としていたので、自由時間のほぼ全部を翻訳に使っていました。必然的に、本を読む時間がなくなりました。諸般の事情で、今では翻訳を発表するペースは月1回程度になりましたが、それで増えたはずの自由時間は、ツイッターやフェイスブックなどに消費してしまって、やはり本を読む時間はわずかです。

読みたい本の出版が少なくなったという気がします。これはデータに基づくものではなくて単なる印象であり、また、分野にもよるかもしれませんが……。たとえば、近頃興味を持っている客船クルーズについては、1989年頃、日本の船会社の客船が次々と就航して「クルーズ元年」などと言われ、その後しばらくは、業界関係者や作家によるクルーズ解説書や乗船記がいろいろと出版されました。しかし、最近は、客船クルーズに関する新しい本があまり出版されません。しいて言えば、自費出版による個人の世界一周クルーズ旅行記が散見される程度です。

趣味的分野に関して、もう一つ考えられることがあります。以前は、何らかの知識を得るために本を読んでいましたが、今ではネットを通じて情報収集できるようになりました。本を読む必要がなくなったということです。専門的研究は別として、素人が概要を知るのであれば、ネットの情報でも十分役に立つことが多いと思います。さらに、情報を提供する側から見ても、本を書くかわりに、ブログなどネット媒体で情報を提供することができるようになりました。

What Technology Wantsの原書はKindle版でも入手可。

ケヴィン・ケリーが2010年にWhat Technology Wants(注3)を出版したときに、自分が執筆する紙の本はこれが最後かもしれない、と言っています(注4)。このように執筆者側にも、紙の本をやめて、ネット媒体や電子出版に移行する傾向がありそうです。先ほど例に挙げた客船クルーズの世界でも、船会社は、広報手段として、書籍ではなくウェブサイトやブログを利用しているようです。

(注2)雑誌「WIRED」創刊編集長ケヴィン・ケリーが、自身のブログ「The Technium」でCreative Commonsライセンス(CC BY-NC-SA)により公開したエッセイを翻訳して、「七左衛門のメモ帳」 で発表しています。

(注3)What Technology Wantsの日本語版は、服部桂さんの翻訳で、みすず書房から2013年6月に出版されるようです。[参考: みすず書房近刊情報]

(注4)The Technium: Fresh Physical Books

本棚と本の今後

それほど遠くない将来、定年退職してたっぷりと時間ができたら、満杯の本棚を整理してスペースを空けて、再び多くの本を読むようになるかもしれません。今からX年後のそのとき、私の本棚は現状とあまり変わらないはずですが、その一方で、本はどうなっているでしょうか? 紙の本と電子書籍が共存共栄しているのか、それとも、紙の本が衰退して電子書籍が主流になっているのか。もしかしたら、紙でも電子でもない全く新しい形態が出現しているかもしれません。

『マニフェスト 本の未来』第22章(「誇張と倒錯」)でバラ・バキリ(注5)が述べているように「本の『未来』とはその形式に関するものではないし、読書の方法でもない」「本の未来は、個々の読者と物語との間のつながりを拡大することにある。本という経験は、もはやページの中や読者の心の中だけに限定される必要はない」とすれば、紙だとか電子だとか形式を問題にすることは、あまり意味がなさそうです。そこに何が書いてあるか、それを読んでどのような体験が得られるか、ということが重要なのだと思います。

私が定年を迎えるX年後には、どのような形式でも、読む価値のあるコンテンツが多数存在し、さらに次々と新しく生み出されている状況であってほしいものです。

(注5)『マニフェスト 本の未来』第22章の翻訳を分担しています。

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Gamificationがもたらす読書の変化
電子書籍はまだ紙の本に勝てない
「本」は物体のことではない。それは持続して展開される論点やナラティヴだ – 読むが変わる from 『WIRED』VOL.2(Wired.jp)

第8回 本とのつきあい方をあらためて考えてみる

2013年4月15日
posted by 西牟田靖

この連載が始まってから1年がたった。ということは、引っ越した仕事場のアパートが本の束で埋まってから1年がたった、ということでもある。ここらへんで一度、自らの現状について記し、次回以降、新しい章へとつなげてみたい。つまり今回の話はブリッジのようなものである。

あのときは本当に焦った。これ以上対応が遅れたら大変なことになるかもしれないという思いから、438冊を自炊代行業者のもとへ送ったり、妻子とともに普段住んでいる自宅に本やいくつかの本棚を送ったりと、大急ぎで手を打った。その結果、冷戦期のキューバ危機を乗り越えたケネディ大統領よろしく、間一髪でカタストロフィを回避したわけだが、下手をすると、二階の床が抜け、一階の人に大けがをさせていたかもしれない。

瓢箪から駒というべきか。失敗は成功の母と言うべきか。危機を体験したことで僕は「本と居住空間」という取材テーマを発見し、取材を開始した。

「床抜け」騒動から一年で本はどれだけ増えたか

どのぐらいの冊数で床は抜けるのか。床が抜けた作家はいるのか。床が抜けなくても本だらけの空間で人は住めるのか。たくさん本を所有していた人が亡くなったらその後どうなるのか。はたまた、緊急避難のために電子化した本はどうなったか。個人で所有した冊数で極端に多いケース(マンガ)はどのぐらいなのか。数珠つなぎに興味がわいていき、この連載も続くことになった。

キューバ危機後も核戦争の危機が続いたように、増え続ける本とどう折り合いをつけるのかという問題は、我が家でいまもくすぶり続けている。

不要不急の438冊ほどを「自炊」(電子化)したり、本棚を分散したりして、置けるスペースはやや増えたが、問題の根本的な解決からはほど遠い。それどころかすぐにでも再燃しそうな雲行きだ。自炊で減らしたのが438冊なのに対して、ここ1年間で増えたのは約200冊である。同じペースで増えていくと、あと1年あまりで「床抜け」危機のときと同じ冊数に達することになる。

問題の現場となったアパートの4畳半の部屋には、その後、突っ張り本棚を二つ置いた。隙間なく本を並べると、1平米あたりの積載荷重を超えてしまいかねないので、胸の高さぐらいまでの横長の本棚を部屋の両隅に置き、奥の壁には机を設置している。机に座っていて手の届く範囲に本があるように置いてみたのだ。

一気にたくさんの本を収納できる背の高い突っ張り本棚や、図書館本棚を自宅に移動したこともあって、引っ越し前の仕事部屋にくらべ、置いてある本の数は半分ぐらいになっただろうか。まだ書類の入った段ボールが、本棚の前に5個ぐらい床置きしてあり、見えている畳は半分ぐらいしかない。空きスペースがなく、本棚をこれ以上置くことは難しい。電子化しスペースを増やせばその限りではないが、現状のままだと、すでににっちもさっちもいかない状態になっている。

「床抜け」騒動から一年後のアパートの仕事場。

本が自宅を侵食しはじめる

これ以上、アパートに本が入らない分、自宅に置いてある本が大幅に増えた。新宿にほど近い下町の木造一軒家。その一階の2DKという物件に、妻と幼児と3人で暮らしている。自宅の広さはだいたい50平米弱で、9畳のダイニング、6.5畳のフローリング寝室、6畳の和室という間取りである(下図を参照)。

自宅の間取りと本棚の位置を手描きで書いてみた。

9畳のダイニングには幅170センチというかなりワイドな突っ張り本棚が「床抜け危機」以前から設置してあり、冊数は特に変動がない。ここには夫婦共用の本(大野更紗『困ってるひと』や育児図鑑など)や妻の本(各種外国語の教本など)が置かれている。全体が三つの棚で構成されているのだが、このうち両サイドの棚にCDやDVD、各国で買ってきたカセット、いまだ変換していないビデオテープに野町和嘉などの大型写真集があり、真ん中の棚にはちょっとした小物や文房具などを雑多に置いてある。

6.5畳の寝室にはもともと本棚はなかったが、「床抜け危機」をきっかけにアパートから大小二つの本棚を移動させ、設置した(幅90センチの図書館本棚と、幅60センチの小さな突っ張り本棚)。「床抜け危機」のしわ寄せをこの部屋に全部おっかぶせているような状態なのである。

仕事場から自宅の寝室に移動した、大きな方の図書館本棚。

二つの本棚の内訳はこうだ。幅の狭い突っ張り本棚のほうは、昨年の春時点ではほとんど埋まっておらず、下の段に幼い娘がふざけて座ったりしていた。だが、昨年の石原慎太郎元東京都知事による尖閣購入騒動以降、関連書籍や雑誌がみるみる増えて棚を埋め尽くしてしまった。といっても学者が書いた直球の本はほとんどなく、そこから派生して右翼・やくざ論(猪野健治や宮崎学)、フィクサー関連(児玉誉士夫、菅原通済)などである。そのほかには、長文の書き方の研究のためにと思って買った山崎豊子や松本清張などの小説が積まれている。

図書館本棚のほうは、国境関係(国際法や外交史、ルポや歴史などの書籍、新聞の切り抜き、登記簿などの資料)、戦後の引き揚げ関係(朝鮮や満州などからの引き揚げ体験記、戦前の地図、同窓会会報、聞き取り調査のときに使ったノートなど)、この「床抜け」連載関係(井上ひさし・立花隆・草森紳一らの著作や本棚拝見ルポ、マンガ論などの書籍)の棚と分けてある。皮肉なことに、床が抜けそうだと危機意識を持ち、本と居住空間をテーマにして文章を書くために、さらに本が増えてしまったことになる。

本が増えるさまざまな要因

そのほかの理由でも、本が増えている。昨年の秋にイギリスに引っ越した仕事関係者から「岩波講座 世界歴史」全31巻(1969-71年刊行)、段ボール一箱分を譲り受けたのだ。届いた途端、僕は頭を抱えた。どこに置けばいいのか。全巻を棚に並べるには、かわりに何かを出さなければならない。

全集を置いたがためにあぶれた本をどこに置くか——。なんどか頭の中でシミュレーションを繰り返したが結論が出ず、段ボール箱に入れたままになっている。せっかく譲っていただいたのに活用できず申し訳ないが、いったいどうしたらいいのだろうか。

ほかにも本が増える要因がある。ここ7年の間、引き揚げの体験談を聞かせてもらっている年配者のひとりと、先日再会した。そのとき話題に上ったのが蔵書の行く末だった。彼が集めているのは昭和史関連ばかりという、純度の高い3000冊。僕にとっては垂涎のコレクションである。

同じような悩みを抱えている取材対象者は多い。彼らの蔵書を散逸させない方法はあるのだろうか。家族が無理解なので、僕に託したいという方がほかにも出てくるかもしれない。引き取り手が見つからず、古紙回収者にタダ同然で持っていかれるぐらいなら、置き場所をなんとか捻出して引き取りたいと、僕も思うようになった。

だが現実には、たちまち置き場所に困るだろう。妻は僕の仕事に理解があるので、本が増えても、きちんと棚に収まってさえいれば、何も言ってこない。しかしものごとには限度がある。今後、爆発的に本が増えていき、子ども部屋にあふれ出したら、大変なことになるはずだ。三行半を突きつけられても不思議ではない。

自宅には仕事用の本以外にも、生活用品や子どもの絵本やおもちゃがたくさん置いてあり、どの部屋も、絶えず整理していなければ床が見えなくなるほど物が多いのが実態だ。それでも幸いなのは、仕事場のアパートと違って自宅は一階だということだ。床が抜けても下の人がけがをすることはないのだから。

増え続ける書籍と家族の今後

今後、本とどうつきあっていけばいいのだろうか。紙の本は今後も買い続けるだろうし、それによって床抜けの問題に再び直面することだってあるかもしれない。打開策をいまのうちにちゃんと考えておかなければならないのだが、実際のところ、解決の道筋を示すような、有効な策は思いついていない。

本を所蔵する場所をほかに借りたり買ったりするためには財力が必要だが、手元に潤沢な資金はない。田舎に引っ越すというのも手かもしれないが、生活拠点にしている中野という土地が気に入っているので、なるべくなら引っ越したくない。

万が一ベストセラーを連発し、まとまった資金が手に入ったとしたらどうだろう。首都圏での大地震が近未来に起こりうると喧伝されている現状では、東京に書庫を建てるのは、かなりリスクが伴う。そう思うと、お金ができても建てるという選択はしないかもしれない。

それでは、緊急避難的に実家に本を送るのはどうだろうか。故・草森紳一は北海道中部の実家に書庫を建てそこに3万冊を所蔵していた。また、知り合いの図書館員は関西の実家にどんどこ送っているという。だがそれだと読みたいときに実家から送ってもらうか、わざわざ見に行かなければならない。手元にないことで、本の存在自体を忘れてしまうことだって考えられるが、そんなのは嫌だ。

こうした問題を解決するうえで、蔵書を一気に電子化するのは、たしかに有効ではある。しかし、数千冊を「自炊」するのは日常業務を放棄し専念しなければムリだろう。かといって自炊代行業者を利用すると数十万円もの費用がかかるし、法的にもグレーゾーンなので、あまり気が進まない。

蔵書をどのように管理していくのか――そのことを考えるとき、自らの、そして家族の将来像を考えずにはいられない。自分が自由にできる空間に限りがあるからだ。問題は書籍の増加だけではない。子供の成長のスピードを考えると、今住んでいる2DKでは早晩手狭になるのは目に見えている。さらに家族が増えればなおさらだ。

ドラえもんの「四次元ポケット」が欲しいと真剣に思う今日この頃である。

(このシリーズ次回につづく)

※この連載が本の雑誌社より単行本になりました。
詳しくはこちらをご覧ください。

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Editor’s Note

2013年4月10日
posted by 仲俣暁生

去る3月9日、東京・下北沢の書店「B&B」で行われた、作家の池澤夏樹さんと映画監督の森元修一さんによるトークイベントの模様をまとめた記事、「震災復興を問いかける文字の力、映像の力」を公開しました(当日の様子は映像でも一部ご覧いただけます)。

池澤夏樹さんには、東日本大震災から一年目の春となった昨年に公開したインタビュー記事(「池澤夏樹さんに聞く、本と出版のこれから」)で、「マガジン航」にご登場いただいたことがあります。震災後に池澤さんがお書きになったた『春を恨んだりはしない〜震災をめぐって考えたこと』という本は、このときのインタビューで主に話題となった電子書籍版『楽しい終末』とも「底のほうでつながって」おり、二つは「総論と各論のような関係にある」とのこと。このインタビュー記事もぜひ、あわせてお読みください。

また森元修一さんのほうも、じつは「マガジン航」とちょっとした御縁があります。彼が池澤さんとの対談のなかで語っている、「当時ルームシェアで借りていた一軒家」とは、西牟田靖さんによる人気連載「床抜け」シリーズの第一回、「本で床は抜けるのか」に登場する彼の仕事場だったシェアハウスのことで、森元さんご自身もシリーズのなかで、こっそり仮名で登場しているのでした。

さて、当日のイベントはまず森元さんの『大津波のあとに』のダイジェスト版を会場で上映し、そのあとでお二人による対談が行われました。記事ではその内容すべてと、参加者との質疑応答までを収録しています。ちなみに『大津波の後に』の予告編がネット上で公開されているので、できましたらこちらもご覧になったうえで記事をお読みください。

震災復興を問いかける文字の力、映像の力
対談 池澤夏樹×森元修一

2013年4月10日
posted by ボイジャー

※この記事は2013年3月9日、東京・下北沢にある書店「B&B」で行われたイベント「震災復興を問いかける文字の力、映像の力」のレ ポートです。イベントは2時間にわたりました。質疑応答を含めすべてを公開いたします。ゲストのお二人の震災への思いを可能な限りリアルにお伝えしたいと 考え、会場での撮影映像の一部をご覧いただけるようにしました。

[司会:酒泉ふみ(ボイジャー)、構成:高山みのり(ボイジャー)]

——本日ゲストにお迎えするのは、小説や詩、翻訳など幅広いジャンルで活躍されている作家の池澤夏樹さん。そして、長編ドキュメンタリー映画『大津波のあとに』を発表し、上映活動を続けていらっしゃる森元修一さんです。2011年3月11日の大震災からおよそ2年目の今日は、震災に関わる作品を発表されているお二人とともに、被災地に心を寄せられたらと思います。

なぜ電子書籍の会社であるボイジャーが震災のイベントをするのかと、疑問に思う方がいらっしゃるかもしれません。実は弊社の社長と副社長があるとき、ひょんなことから森元監督の『大津波のあとに』を見に行くことになりました。私も昨年、被災地に行かせていただきました。被災直後の現地の姿を知りたいと思って、一緒に見に行ったんです。それでふつうのドキュメンタリーとは違うことに大変驚き、監督をトーク・イベントにお呼びしたいと思いました。

お相手をどなたにお願いしたらいいかと考えていたところ、偶然にも、池澤さんが『鎮魂3.11 平成三陸大津波』という写真集の書評を書かれていることを知りました。池澤さんとボイジャーは長年のおつきあいがありまして、1992年には『オキナワなんでも事典』、2003年には『新世紀へようこそ』という池澤さんの電子書籍を出しています。そんなご縁をたぐりながら、今日のトーク・イベントが実現しました。

森元 ぼくは池澤さんの大ファンなので、今日は大変緊張しております。

——学生時代からのファンだそうです。

森元 テオ・アンゲロプロスという監督の映画の字幕翻訳をされていたのが池澤さんでした。映画好きにとって特別な存在の監督です。池澤さんは彼の新作が出るたびに字幕翻訳をされており、それがきっかけで本も読むようになりました。

池澤 テオ・アンゲロプロス、ちょうど1年前に亡くなりましたね。ギリシャの映画監督で、日本では『旅芸人の記録』が初めての公開でした。1980年頃でしたか、それこそついこの間亡くなった高野悦子さんが岩波ホールで公開して以来、彼の映画の字幕をぼくが作っていました。

——今日は森元さんが、『大津波のあとに』のダイジェスト版を用意してくださいました。

森元さんは震災後すぐに被災地に入り、そのときの撮影をもとに「大津波のあとに」を発表。初めて手がけられた長編ドキュメンタリー映画だそうです。現在まで、国内はもとより、海外でも上映活動を続けていらっしゃいます。

森元さんは、地震の瞬間はどちらにいらっしゃいましたか。

森元 東京都内の家にいました。当時ルームシェアで借りていた一軒家がどんどん傾(かし)いでくるのを感じてテレビをつけました。中学・高校時代を静岡県で過ごしたので、ついに東海大地震が来てしまったかと思いましたが、震源は宮城県沖だということでした。東京がこんなに揺れるのなら、震源地はいったいどうなってしまっているのか。そう思った記憶があります。

——池澤さんも震災直後の被災地に入り、半年後には長編エッセイ『春を恨んだりはしない—震災をめぐって考えたこと』を出版。今年の2月には、被災地を舞台にした小説『双頭の船』を発表されました。

3.11のあの時、池澤さんはどちらにいらっしゃいましたか。

池澤 四国の山の中で、のんびりとウグイスの声を聞いていました。吉野川を源流から河口まで辿ろうということを一人でやっている最中でした。地震で大変なことになっていると知り、河口まで行かずに高松へ出て、北海道の家に帰りました。

風景の中に立って、撮らされているというか、撮ってしまう(森元)

——ここで16分間のミニ上映会を行った後、お二人には詳しくお話をうかがいたいと思います。

(ミニ上映会を終えて)

森元 『大津波のあとに』は3月23日、仙台の荒浜地区の映像から始まります。震災の10日後に東京を出発し、石巻の知り合いのところを目指す過程で撮影したものです。ご覧いただいたダイジェスト版は、石巻市立大川小学校に関わる部分を中心にまとめました。

池澤 去年の暮れに『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』という本が出ましたね。大事なことがたくさん書いてある本で、毎日新聞に書評を寄せたところです。

森元 大川小学校では、全校生徒108人のうち74人の子どもたちが津波にのまれてしまい、そのうち4人のお子さんは未だ行方不明という状況です。

池澤 釜石では、学校の管理下にあった子どもは一人も亡くなっていません。子どもたちにはずっと前から、まず逃げるんだと教えていた。みんなが走って逃げるのを見たら、他の人も大変だと思ってついてくるから。「釜石の奇跡」というけれど、奇跡というよりは教育の結果だったんですね。それとつい比べてしまいます。

——森元さんはなぜ、被災地を撮ろうと思ったのですか。

森元 以前からご縁のあった石巻が被災していましたし、あれだけの出来事が起きたのになにもできず受け身でいることに耐えられなくなったということもありました。

映像に関わってきた人間として、カメラは持っていこうと思いましたが、何が撮れるのか、もし被災した方を撮るとしたらなにを聞けばいいのかはわかりませんでした。

仕事をしたことがあったテレビの関係者に撮影したものを見てもらうことは考えていましたが、テレビ局が総力を挙げて取材する中、フリーランスである自分の映像がオンエアされるかは未知数だとも思っていました。最初からドキュメンタリ-映画をつくるというつもりではなかったんです。

——映画の冒頭では、風景がノーカットで続きます。

森元 最初に撮影をした仙台の荒浜地区で自転車に乗りながら撮った移動カットです。こういう風景が終わったらカメラを止めようと思いながら撮っていたのですが、どこまで行っても終わらないんですね。そのうちにカメラを持つ手が震えて、自転車もフラフラして止めざるを得なくなりました。

あれだけの範囲が甚大な被害を受けた、そういう場所で生きている方たちの映画なんだという思いで、映画の冒頭としては少し乱暴な導入部かもしれないと迷いながらもカットせずに使い、編集も時間軸に沿ってすることにしました。

池澤 ぼくは森元さんから2週間ぐらい後、4月8日に同じ場所に行っているんです。映画の最初のほうで、郵便局の看板が倒れていましたね。まったく同じところでまったく同じものを見ています。「荒浜郵便局」と書いてあるのがすごくリアルで、しみじみと見ました。

——池澤さんも、震災直後から繰り返し被災地に入られていますね。

池澤 最初にぼくが入ったのは3月24日でした。仙台に歳をとった叔母がいたものですから。その後読売新聞の仕事で入って、変ないい方をすればハマったんです。つまり気になって仕方がなくなって、何べんも通いました。

2011年の暮れには、いちど端から端まで見てみようと、八戸からいわきまで車で走りました。4日かけて大川小学校まで南下したところで、さすがに力尽きちゃってね。すっかりきれいになり、大川小学校の建物だけが残っていて、花が飾ってありました。

森元 破壊されてしまった風景の広大さを伝えるにはどうすればいいかと考えて移動撮影していく。風景そのものに撮らされているというか、撮ってしまう。

他の方の被災地での映像を見ていても、多くの方が横移動で風景を撮っている。それを見るたびに、同じように撮らされているのかもしれないと想像してしまいます。

池澤 映画を見て、あのときのリアリティを思い出しました。ずっと風の音がしていますね。ああ、こんなふうに風が吹いていたなと、あのときへ戻りました。

忘れてはいけないものを見て、それをいったんしまっておいて、もう一度持ち出して見たような、不思議な懐かしさでした。「自分はこれを見たぞ」というのが大事なことだと、改めて考えました。

森元 風の音は、あえて整音することはしませんでした。音楽やナレーションの使用を含めて技術的な加工は極力しないでいこうと。

ぼくは劇映画の出身なので映像を劇化、つまりドラマチックにする技法も学んできたのですが、そういうことをしてはいけない映画だと思いました。

たくさんの春の星が、一人ひとり亡くなった人に見える(池澤)

森元 震災後すぐにテレビでヘリコプターから撮影した津波の俯瞰映像が流れました。リアルタイムの映像です。実際にその場に立ってみると、においや風も含め、あの映像ではわからないものがありました。

風景を撮りながら、ふと足元を見る。すると貯金通帳やお茶碗など普段なら大切にしまってあるものが風に吹かれているんです。たしかにここで人々が生活していた、という思いがしました。

——映画の中で、みなさんが小学校の卒業証書を探している様子も印象的でした。

森元 先ほどのダイジェスト版で、ロッカーをこじ開ける作業を見守っていたのは、大川小学校に通っていた女子児童のお父様です。卒業証書が見つかるかもしれないということでしたが、結局、あの中にはありませんでした。

池澤 照井翠さんという俳人の方が、去年『龍宮』という句集を出しました。その中にこんな句があります。

 卒業す泉下にはいと返事して

「泉下(せんか)」とはあの世のことです。照井さんは高校の先生で、今回の震災と津波で教え子を亡くされています。卒業式で一人ひとり名前を呼ぶでしょう。そうすると向こう側の世界から返事がある。

こんな句もあります。

 春の星こんなに人が死んだのか

春の夜空には、星がたくさん見えますね。それが一人ひとり亡くなった人に見える。死者2万人という抽象的な数字ではなく、星の一つひとつだと。きれいだけれども、もう手が届かないところへ行ってしまったという感じがあります。そんなことも思い浮かびました。

森元 そこに一人ひとりの生活があったことをどう伝えたらいいのか。お話をうかがうしかないと思い、お会いした方々それぞれにその場でお願いしました。

カメラの前で話すのはただでさえプレッシャーですし、ましてや震災2週間後という状況です。それでも拒絶より、お話ししてくださった方のほうが多かった。

だからぼくがつくった映画というより、映っている方々と一緒につくった映画ではないかという思いがあります。

本編の最初のほうである男性が、お子さんが流されたというお話をしてくださいました。泣き叫ぶわけではなく、はにかみながら複雑な表情で語っていらっしゃいました。撮影をしながら直感的に、これはナレーションやテロップをつけてはいけない、と思いました。

その前の時点まではテレビで使用する可能性がゼロではないと考えていたのですが、それには適さないだろうと。ニュース映像として、ある種のわかりやすさを求められてしまうと、がんばっている姿や悲しんでいる姿を強調せざるを得なくなるのではないかと考えたんです。

当時はすでにもう、遅いのかもしれないという思いがありました(森元)

森元 ぼく自身が目撃したもの、うかがったお話を自分一人に封じ込めておくことはできないと思いました。被災してしまった方々の語りをできるだけ長く見てもらいたい、そのためには自分でまとめるしかないと。一人で撮影して、編集も自分でしました。

ですからこの映画がどういう意味を持つのかは、見てくださった方々のご意見を聞いて気づかされる部分もあります。

——映画は2011年8月に公開されましたね。

森元 タイミングやスピードは、たしかに意識していました。テレビの世界では、大きな話題でも半年後には消えてなくなることもあります。ぼくの友人が当事者として関わったイラク人質事件のときもそうでした。

あるテレビ関係者の話では、2011年の7月頃から震災関連の映像を流すと視聴率が落ちるようになったそうです。映画の公開が8月でしたから、もうすでに人々の関心が離れ始めているのかもしれないと思ったりもしました。

——反響はいかがでしたか。

森元 最初は1日だけの上映を予定していました。それが予想外の反響をいただいて、いろいろな場所で追加上映することになり、ここまで続いています。

今年は月命日の前後、できれば11日に、手作りの上映会をやっていきます。

震災直後は辛くてテレビが見れなかったので、初めて当時の映像を見たという方もいました。東北にゆかりのある方、ボランティアで被災地を訪れた方々も来てくださっています。自分が住んでいた、あるいはボランティアで行った場所が、2011年3月はこういう状況だったんですね、とおっしゃっていました。

そして自分がその場に立っているようだったという感想が多かったです。少しでもぼくが見たものを追体験してもらうということは意識しながらつくっていました。

——池澤さんが『春を恨んだりはしない—震災をめぐって考えたこと』を上梓されたのも、森元さんの映画公開とほぼ同時期、2011年の9月でした。

池澤 そのときどきで見たものについて、短い文章を新聞などに書いていました。自然のこと、原発のこと、それからたくさん人が死んだことを、ぼくはどうやったら受け止められるのかと。テーマに則っていくつかのチャプターにまとめながら、ほぼ全体を書き直してできた本です。

——出版のペースとしてはかなり速かったと聞きました。

池澤 半年目に出したいと思って、ちょっと急いだんですね。そのタイミングでしかわからないことが多々あるだろうから。それで9月11日、9.11に出版しました。

これは気をつけて言わなきゃいけないけれど、一種の震災ハイのような気持ちでした。ともかく見なきゃいけない、考えなきゃいけない、はやく書かなきゃいけない。このときに日本にいてよかったと思いました。これは見なきゃいけないことなんだ、と。

——鷲尾和彦さんというカメラマンの方が撮影された写真も多く収められています。

池澤 新聞の取材で一緒になったのをきっかけに、その後も一緒に通った仲間です。

何べんも行くうちに、がれきはずいぶん片付いて、ススキが生えてくる。あるいはセイタカアワダチソウが生えてくる。すると唯一残った建物の四角い土台が、墓みたいに見えてくる。たまたま縁(えにし)ができてしまって、お墓に通っているような感覚です。

ぼくの中で考えなきゃいけないものとして最後まで残るのは、あれだけの人が亡くなったことなんですね。だから森元さんが毎月の命日である11日前後に上映するのは、似たような感じかなと思います。もちろん原発の問題も考えるし、行政の無能に対する怒りもあるけれども、いま聞こえているのは死んだ人たちの声のような気がします。

「どんな体験をなさったんですか」とは、ぼくは聞けなかった(池澤)

——何度も通ううちに、ご自身の中に変化はありましたか。

池澤 変化というよりも、自分の中に次から次へ入ってくるものがあって、なんとか整理しようとするんだけど整理がつかない。本を書くのはそれを整理するためという気もします。

いろいろな目に遭った人と会う中で、「なんでおれがこんな目に遭わなきゃいけないんだ」と恨み言を言った人は一人もいませんでした。みなさんからエピソードを聞くでしょう。それを自分の中に置いておいて、それで本も書けるわけです。

——本を読んで驚きました。池澤さんが、避難所を回るトラックの運転手をされていたとは。

池澤 しません? ふつう(笑)。ぼく、車の運転は好きですし、たいていの取材でもレンタカーを借ります。

東北では、避難所に日用品を届けるボランティアに参加して、運転手をしていました。ダイレクトに「どんな体験をなさったんですか」とは、ぼくは聞けなかったものだから。みんなが暮らしている避難所も私的な空間で、ずかずか入れない。物を持って行けば話ができると思いました。

森元 ぼくも、あの時期にカメラを持って撮影することの意味を考えました。自分にカメラを向ける資格があるかないかでいえば、たぶんない。

けれども2011年の3月は、明日がどうなるかわからない、それどころか1時間後がどうなるかもわからない、そんな切迫した時期だと感じていました。余震も強く続いていましたし、もう一度原発が爆発したら、東京と東北が分断されて行き来ができなくなるかもしれない。大げさにいえば、遺言を残すかのように撮らずにはいられない気持ちがありました。

撮影当時に出会った方々と再会すると、いまのほうがどんな言葉をかけるべきか迷うことがあります。

池澤 「がんばろう」とは言えないですね。「がんばってください」も言えない。

森元 「がんばらないでいいんですよ」もふさわしい言葉なのかわかりません。自分が出会った人たちのことをどう伝えていけばいいのかということはすごく悩みます。

池澤 でもあそこにいらして「お話聞かせていただけますか」と言って、相手が「はい」と言ったらカメラを向ける。その人がいま言いたいことを記録してくるというのは、大事なことでしたよね。この人はこのとき、こういうことばで自分を伝えたんだなと思って、一種共鳴、共感しました。こうやってみんなで見られたことはとてもよいことだと、ぼくは思います。

「よいことだと思います」というのは、「よくやったね」ではなく、この先何年、何十年も意味があるだろうということ。話した人たちも、自分のことばや表情が残っていることをよいと思うだろうと想像します。

森元 ありがとうございます。そうであれば、とてもいいのですが。

いつか撮影をした町で上映するときがくるかもしれませんが、いまはまだそれがいつなのかわかりません。だからこそいまは被災地を心理的、物理的にとおく感じてしまう人たちに映画を見てもらえたらと思っています。

作家の方たちは、震災をどんなふうに語っていくのだろうか(森元)

——森元さんは池澤さんの文章や本を読まれて、どんな感想をお持ちになりましたか。

森元 4月にいったん東京に戻ったとき、池澤さんが書かれた読売新聞の記事を読みました。これから作家の方たちは震災をどんなふうに語っていくのだろうか、いつかフィクションの形になるのだろうか、という思いを持ちました。

ぼくは大川小学校の検証委員会や原子力規制委員会も傍聴しているのですが、そこではだれがだれに向けて語りかけているのかわからない、耳をすり抜けてしまうことばが語られることがあります。そうじゃないことば、心に響くことばを聞きたいと、みなさん思っているはずです。先日発表された池澤さんの『双頭の船』は、そんなことも考えながら読ませていただきました。

池澤 それが変な話でねえ。よくわからないうちに小説が始まっちゃったんですよ。

取材の仕事で瀬戸内海に行き、フェリーボートを見ました。頭と尻尾の区別がなく、前にも後ろにも走れる船です。昔何べんも乗っていたので懐かしく見るうちに、こんなに小さな船が三陸まで行って、ボランティアのお手伝いなんかしたらどうかと思いついた。

小説は、ふつうはもう少し先まで考えてから書き始めるんです。でもそのときはとにかく行かせてやりたくて、その船にいい加減な若い男を一人、ポンと乗っけてみた。海津知洋(かいづともひろ)、さんずいが三つもつく男です。ぼくは二つです(笑)。そして船を出してやったら、次から次へ変なやつが来て、ドヤドヤと大騒ぎ。

——3.11後に初めて書かれた長編小説ということで身構えて読んだら、意外にも楽しい小説でした。

池澤 マジック・リアリズムといってもいいかもしれない。東北でいろいろなことを見たり聞いたり、体験したりしたものが、何らかの形で素材として流れ込んできました。まったく深刻な話ではない。おふざけもいいところ。でもそうじゃないと書けなかったんです。

森元 明るいトーンのお話だから書けたというのが、逆にその背後にいろいろなものがあるのかなと感じました。

池澤 沖縄の大衆演劇の宣伝文句に「かんなじ泣かします、かんなじ笑わします」というのがあります。かんなじとは「必ず」。笑いと涙が両方が入っている。そういうものを書きたかった。

森元 アンゲロプロスの映画にも感じるのですが、相反するものや容易に結びつかないと思えるものが論理を越えて結晶する瞬間があって、そういうところに表現の力を感じました。

池澤 映画でも小説でも、ストーリーとか意味とか、思想とかよりも、まず文体だと思うんです。スタイル。

先ほどのダイジェスト版を見ていて、おそらく無意識だろうけれども、森元さんのスタイル、文体にはテオ・アンゲロプロスが入っていると思いました。あの、ヘルメットをかぶって交通整理をしていた人の長い語り。テオの『旅芸人の記録』の中でもモノローグが出てくるでしょう。テオの映画はとても変でね、いきなり一人が立ち上がって、長いモノローグを始めるんです。それを思い出しました。

森元 やはり見てきたもの、聞いてきたもの、読んできたものは無意識に出てきてしまうのかなと思います。

2011年の春って、 最終的には桜でしたよね(池澤)

池澤 それから、あの水。静かな水面に風景が映って、そこをゆっくりトラベリングしていくという場面がありましたね。

森元 不謹慎で誤解を招く言い方かもしれませんが、自然の美しさというものは被災地となってしまった場所であっても存在すると感じることがあります。

池澤さんの『やがてヒトに与えられた時が満ちて……』を読んだときに、人智を超えて自然があり、人間が喜んだり悲しんだりするのとはまったく別の次元で宇宙は運行しているという世界観を感じました。こういう地震や津波も、人智ではなんともし難い。

池澤 『双頭の船』の中で、船が最後に「さくら丸」という名前になります。なぜ桜かというと、結局2011年の春って、最終的には桜でしたよね。

昔の和歌にこういうものがあります。

 深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け

大事な人が亡くなった後で悲しい気持ちでいるのだから、派手な色の桜は見たくない。墨色の、喪服の色で咲いてくれという歌です。それもそうだ、うまい言い回しだと思った。

だけど実際にあのとき、4月に桜が咲いたら、みんなほっとしたんですよ。自然はひどいことをするけれど、その一方で桜も咲かせる。人間のためなんてこれっぽっちも思っていない。その無関心が、恨みにもつながるし救いにもつながる。

石巻でも釜石でも、町の真ん中に大きな船が入り込んだまま居座ってしまって、その上で桜がきれいに咲いているという、不思議な光景を見ました。あれが自然なんだなあということも考えたわけです。

森元 ありましたね。

池澤 『春を恨んだりはしない』という本のタイトルは、ポーランドの詩人、シンボルスカの詩の一節からとりました。彼女が夫を亡くしたときの詩です。夫がいないのに春はめぐってきて、きれいないい気持ちの季節になった。そのときに「春を恨んだりしない」というのは、先ほどの話とまったく同じです。

どこかで、芸術の力を素朴に信じているところがあるんです(森元)

——ここで会場のみなさんからも質問をいただきたいと思います。お二人に質問のある方はどうぞ。

質問1 星の雑誌を編集しています。3.11のときに、福島の「星の村天文台」で望遠鏡が大破するということがありました。それが2012年5月に復活しています。代表の方からは、何よりも地元の方の要望が大きかったと聞きました。それまで私の中で星を見るというのは、衣食住が足りた上で楽しむものだと思っていたので、その事実に驚き、感じるものがありました。

被災地に足を運ばれているお二人におうかがいさせてください。生活を元に戻すこと以外のことでも、なにか心を砕いていきたいと思われたことはありますか。

池澤 「人はパンのみにて生くるにあらず」ということばがあります。やはり心の拠り所みたいなものがある。星が大事だという人はたぶんいるだろうし、先ほどの桜もそうだと思います。

桜でいえば、津波が到達したラインに沿って桜を植樹するというボランティア活動をしている人たちがいます。何十年か経ったら、ずらっと並んだ桜で、ここまで波が来たとわかる。波が来て止まったということは、そこは傾斜が急なんです。だからぶつぶつ言うんですよ、桜が植えにくいって(笑)。そう言いながら、みんながんばってやっていましたよ。やはり手応えのあることなんだろうと思いました。

森元 被災地で移動図書館のボランティアをする知り合いがいます。すごく喜ばれるそうなんですね。避難所で歌手の方が歌われたり、コメディアンの方がみなさんを笑わせたりする様子も報道されました。それに比べると、映画は重いメディアだなと思います。電気が必要で、機材のセッティングも必要ですから。それでも多くの映画人が被災地に行き、発言もされています。

芸術の力というと大仰ですが、ぼくはどこかで、芸術を素朴に信じているところがあるんです。ぼく自身がそれに勇気づけられて生きてこられたので。


質問2
 池澤さんも森元さんも、たくさんの国を旅されています。この日本の現象や人々の動きが海外でどう見られているのか、あるいは他の国で同じようなことが起きたら、果たして人は同じように動いたりするんだろうかなど、お考えのことがあれば教えてください。

池澤 機会があればなるべく伝えたいと思ってきましたし、原稿を頼まれてフランスの新聞にも書きました。フランスは地震のない国ですから、地震の説明から始めるんです。まず地面が揺れ出して、それがだんだん大きくなって、不安に駆られているうちにだいたいおさまる。おさまらなかったら家具が倒れて、高速道路がひっくり返って、そのうちに津波がくる、と。

ただ内戦や別の種類の災害など、形を変えた「最悪」は世界中であるわけです。それらに対してどう手を差しのべるか。どう耐えるか。

もちろん無関心はあるし、そういうときを利用して金儲けしようとする悪いやつはいるし、とんでもないことを起こしながら、平気な顔で言い逃ればかりする某電力会社もある。さまざまですけれども、他者の苦しみを共有しようという姿勢が、人間にはあると思います。

森元 『大津波のあとに』は、北京やパリでも上映していただきました。北京での上映には立ち会うことができたのですが、中国の方たちもとても熱心に見てくださいました。

被災地取材で日本に行ってきたという中国のテレビ局の方もいらして、感動したとおっしゃってくださいました。それはきっと人間を見たからだと思うんです。風景にどんなにインパクトがあっても、結局は人の映画でなければいけないと痛感しました。

国境や言葉の壁など、かんたんに越えられない部分もありますが、人間が人間に共感する力は確実にあるはずだと思います。

質問3 来週から夫が、石巻へボランティアに行きます。気をつけたほうがいいこと、持っていったほうがいいものなど、アドバイスがありましたらお願いします。

池澤 当時とは状況もだいぶ違いますので、持っていったほうがいいものはとくに思いつきません。

まずいらしてみて「なにがないですか、なにが欲しいですか」と質問して、そこから動き出す。お手伝いに行くのだけれど、とりあえずは受け身で行ってみる。

たぶん「来ました」というのが、最初のことばになるでしょうか。

森元 ある石巻の方が「仙台の人はもうおれたちのことを忘れてるんじゃないか」とおっしゃっていました。少なくともその時点でその方はそう捉えていた。

同じ宮城県内でもそういう複雑な状況が生まれています。ほかの場所でも、自分たちのことはもう忘れられていると、どこかで思っている人が少なくないのかもしれません。

ですから関心を持ち続けたり、可能であれば現地にうかがってみることが第一歩ではないかと思います。

——最後に私からも。お二人の今後の活動についてお聞かせください。

池澤 自分と三陸とのつきあいがどう変わっていくのか、あるいはどう続いていくのか、実は全然見えていません。自分の中の東北がどう変わるか、自分で見ているようなところです。

森元 長いスパンで考えると、フィクションという形で描くことも頭の隅にはあります。『双頭の船』が明るいトーンだったから可能だったように、辛いだけのレポートばかりでいいのだろうか。ただ、生半可な気持ちではできません。

どこに進めばいいんだろうというのを、上映会でみなさんにお会いしながら模索しています。

——私たちもこうして映画を見たり、お話を聞いたり、本を読んだりしながら、また考えていきたいと思います。本日はありがとうございました。

【出演者プロフィール】

池澤夏樹(いけざわ なつき) 1945年、北海道帯広市生まれ。小学校から後は東京育ち。以後3年をギリシャで、10年を沖縄で、5年をフランスで過ごし、現在は札幌在住。1987年に『スティル・ライフ』で芥川賞を受賞後、『マシアス・ギリの失脚』『花を運ぶ妹』『静かな大地』『キップをなくして』『カデナ』など、数多くの作品を発表。東日本大震災に関わる著作として『楽しい終末』、自然と人間の関係を扱った『母なる自然のおっぱい』、天災をテーマとした『真昼のプリニウス』、風力発電を書いた『すばらしい新世界』、並びにその続編『光の指で触れよ』など。

公式サイト「Cafe Impala」http://www.impala.jp/

森元修一(もりもと しゅういち) 1970年鹿児島県生まれ。父親の転勤に伴い、静岡県、沖縄県、山口県などで育つ。東洋大学文学部インド哲学科を卒業後、アニメ制作会社サンライズを経て、フリーの助監督として池田敏春、小林政広、瀬々敬久などの作品に参加。2003年、戦争前後のイラクを取材し、雑誌・テレビなどで発表。2011年8月に初の長編ドキュメンタリー「大津波のあとに」を発表し、日本映画復興会議奨励賞を受賞。

『大津波のあとに』公式サイトhttp://farther-on.com/o273/