集合知から考える、これからの情報社会のかたち

2013年5月16日
posted by 浅野紀予

西垣通氏が今年の2月末に上梓されたばかりの『集合知とは何か – ネット時代の「知」のゆくえ』を手に取ったのは、いつも知的興奮を与えてくださる佐々木裕一氏のブログでのこの記事がきっかけだった。私がこれから書こうとしている文章は、言うなれば佐々木氏への「返歌」である。

インターネットの利用が普及し、CGMやSNS、ユビキタスコンピューティング技術などが私たちの日常にますます浸透し、リアルとバーチャルという旧式な二分法が崩壊しつつある時代、そして日本においては東日本大震災という大きな試練を乗り越えようとしている現在。それは、トップダウンで硬直的で権威主義的な専門知への失望と、ボトムアップで弾力的で“民主的”な集合知の形成への期待がますます高まりつつある時代でもある。

「主観値」と「客観知」を橋渡しする「二人称の知」

西垣氏が訴えているのは、いわゆるクオリアが支える一人称の「主観知」から、社会で共有することが不可欠となる三人称の「客観知」を導くことの複雑さと難しさであり、その両者を橋渡しするための、対話によって構成される「二人称の知」の重要性だ。

インターネットは、確かに個人にとっての対話の可能性というものを飛躍的に拡大するツールである。有名人のTwitterアカウントをフォローして、何かメンションすれば、思いがけず返事がもらえることだってあるかもしれない。しかし、それを「知」の形成へとつながるような性質を備えた対話に発展させることは簡単ではないだろう。

ネットの力を借りて、いったい誰と対話するのか。

その人と対話する自分はどのような人間であるべきなのか。

その問いかけは、情報学の垣根を越えて、哲学や生物学といったさまざまな学問領域へ、そして人間の意志と倫理の問題へまでも広がっていく。

本書で紹介される西川アサキ氏の『魂と体、脳 – 計算機とドゥルーズで考える心身問題』での数理的シミュレーションが示すのは、多数のモナド(単子)が相互に対話を行なった結果、そこに中枢としてのモナドが自然発生する、つまり複数のモナド間に支配/被支配の関係が生じるという事象だが、より重要なのは、それが「開放系システム」と「閉鎖系システム」との間に本質的なダイナミクスの違いがあることを抉り出しているという点だ。

開放システム(透明な世界)はわずかな外部環境の変化に過敏で、グローバルな状況が非常に不安定になる(というか極端にブレやすくなる)。ITへの依存をますます強めている高度情報化社会に生きる私たちは、ともすればこちらの方向へ過度に引きずられてしまう。が、閉鎖システム(不透明な世界)では、個々人が自らの世界観を保守的に維持しようとするため、より頑健で安定しやすくなる。グローバルな状況としては、多元的/相対的な価値観が並立しつつ、相互にすり合わせが行なわれてほどほどに変動し共有されていく。

したがってITの活用が、ただ闇雲に人間や社会のオープン化/フラット化だけを目的とするのは望ましくないことがわかる。それは、人間の機械化や、コミュニケーションの硬直化につながる危険があり、実際に現在のネットで生じているさまざまな問題もおそらくそこに起因している。

人間も社会も、本来は自律的で閉じたシステムである。「閉じた存在同士の対話協調」が、昔から人間社会の安定性と動的適応性の両方をともに支えてきた。だからこそ、その自律性や閉鎖性は尊重した上で、よりよいコミュニケーションを促進できるようにITを活用していくという、発想の転換が求められている。

閉鎖性が多様性を生む

「閉鎖性」のもうひとつの大きな価値、それは「多様性」を生む要因となるところにある。『「多様な意見」はなぜ正しいのか ― 衆愚が集合知に変わるとき』の著者、数理社会学者スコット・ペイジが「多様性予測定理」と呼び、西垣氏が「集合知定理」と呼ぶ以下の式が本書で簡単に解説されている。

集団誤差=平均個人誤差−分散値

この式が意味するのは、集団に属する各個人の推測の誤差(第一項)が多様性(第二項)によって相殺されれば、結果的に集団としては正解に近い推測ができるということだ。つまり以下の両方が満たされていれば、「集合知」の利点が活かせる。

(1)その集団が均質ではなくさまざまな推測モデルを持つ多様な個人の集団であること(第二項が大きくなる)
(2)各個人の推測モデルの質が良いこと(第一項が小さくなる)

したがって、非常に戯画的な言い方をすれば、

「誰もが同じような情報を見聞きして似たり寄ったりな考え方にとらわれ、あるいは他人の意見に振り回され、目に見えやすい単純な多数決でものごとを評価しているような世の中」

では、真に価値のある集合知が生まれる見込みは限りなく薄いだろう。もし現在、ITが不幸にもその傾向を助長してしまっている側面があるのだとしたら(たぶん確実にある)、それをなんとか軌道修正しなくてはならない。わたしたち人間一人一人の多様性と、自分の頭で判断する力を確かなものにすること。それが、これからのITに求められる役割と言ってよいだろう。

先ほど書いた「人間も社会も、本来は自律的で閉じたシステムである」というフレーズの土台となっているのは、マトゥラーナとヴァレラによるオートポイエーシス理論である。本書ではそれを含め、ルーマンの機能的分化社会理論、フェルスターの二次サイバネティクスなど、分野を横断したいわゆる「ネオ・サイバネティクス」という新たな学際的分野が重要なバックグラウンドとなっている。それに加えて、ポラニーの暗黙地理論や、ユクスキュルの環世界理論、果ては小説『ドーン』で平野啓一郎氏が提示した「分人主義(dividualism)」の概念なども密接に絡んでくることになる。

オートポイエーシス理論を日本に知らしめたことで知られる哲学者、河本英夫氏が鋭く説かれているように、個人という構成素からより高次の社会というオートポイエティックなシステムが形成され、自律的に作動し始めると、その構成素は人間ではなくコミュニケーションへと変わる。

しかも、一人の人間が複数の社会組織に参加するようになると、組織ごとに別の心的メカニズムに基づく言動が行なわれるようになる。もともと、昔から心理学や精神医学の分野で観察されてきた事実からもわかるように、人間の心と身体は必ずしも一対ではない。その事態が、社会の複合化に伴ってより一般化したことで、「分人」の存在はいまや多大なリアリティを伴っている。近代的な「首尾一貫した主体的個人」とは、もはや現実離れしたモデルとなりつつある。

人間は、複数の「分人」の集合体としての、オートポイエーシス的システムである。そしてもちろん、人間は機械ではない。

人間/生命体 機械
オートポイエーシス的システム アロポイエーシス的システム
自己創出的 異種産出的
外部からの設計指示が不要 外部からの設計指示通りに作動する
自律的(autonomous) 他律的(heteronomous)
個体のコンテクストに依存して作動する 既定の法則に従って作動する

西垣氏は、社会的組織もその構成メンバーと同じく一種のオートポイエーシス的システム(APS)とみなす。ただし、両者は通常の階層関係と違って作動上の非対称関係にあり、物理的な包含関係を持たないと考え、これらを「階層的自律コミュニケーションシステム(HACS)」と呼んでいる。

個人のレベルでのHACS間のコミュニケーションが成立するには、社会というHACSが必要になる。また、コミュニケーションとは瞬間的に成立するミクロなイベントなので、それだけでは客観知識の形成には至らない。プロパゲーション(意味伝播、コミュニケーションの蓄積によるHACSの記憶(意味構造)の漸次的な変化)というマクロなイベントが不可欠とされる。

ポラニーの暗黙知理論では、人間の知の本質的な構造は「諸細目(particulars)」という近接項と「包括的存在(comprehensive entity)」という遠隔項の二項関係からなるダイナミクスであり、暗黙知とは「二つの項目の協力によって構成されるある包括的な存在を理解すること」とされている。

西垣氏は、「暗黙知というのは、決して固定的に認識できない知というわけではなく、むしろ、包括的存在を認識するというダイナミクスの中で、いわば意識から隠れてしまう知のことを指している」と言い換えているが、これはつまりコミュニケーションというものが単なる「腹の探り合い」や「揚げ足取り」に堕すことなく、プロパゲーションを通じて(疑似的)客観知識の共有/蓄積による集合知という「包括的存在」を形成していく、その一つの側面をわかりやすく示して いると言えるだろう。

「パイプ」から「るつぼ」へ

西垣氏の基礎情報学の観点からすれば、社会的HACSにおける「観察記述者」の機能を高めるためのIT利活用が重要ということになる。それは、暗黙知のダイナミクスを必要に応じて分析し明示的に表現するようなツールやデバイスという形で実現していくことになる。

人間に取って代わる機械ではなく、新たな形で人間の活動に融合する機械こそが、わたしたちが社会の中で生きるための「集合知」の形成に役立つはずなのだ。

そして西垣氏が痛いほどの切実さをもって訴えるように、「人間を開放システムとみなす議論は、一見合理的なようで、生命体と機械の境界を曖昧にするため、結局われわれの生命力を枯渇させてしまう」。確かに、ITに過剰に依存した情報化社会で伝達されているのは、実は「情報」ではなく、単なる「刺激」 としての「記号」にすぎないことも多い。

西垣氏の基礎情報学では、生物が外界から不断に取り込んでいるのは情報ではなく「刺激」であり、それが生命体の内部で生起し形をとったものを「生命情報」と呼ぶ。それを社会で通用する記号(言語やイメージ、ジェスチャなど)を用いて表現したものが「社会情報」であり、そこから意味内容を一時的に分離 (捨象/潜在化)し、時空間に依存せずに伝達や保管が可能と考えられる記号だけにしたものを「機械情報」と定義する。

ひとくちに情報といってもその本質は決して一様には捉えられないことを、特に自分のように情報アーキテクチャという仕事に携わる者がきちんと理解する努力を怠ってはならないだろう。

そして、開かれた存在として他律的に決まった入出力を行なうだけの機械のような人を、たとえば「パイプ」にたとえるなら、本来のように閉じた存在として自律的に類推や微調整、柔軟な判断ができる人は「るつぼ」のような存在と言えるかもしれない。

願わくば、日々洪水のように押し寄せる最新のストリーム情報をただ右から左に消費する「パイプ」ではなく、自分なりに確かな価値を認めることができる情報を探り出しては自分の中に取り込んで撹拌し熟成していく「るつぼ」として生きていきたい。人間はただの入出力装置ではないのだから、あるインプットに対して、一定の因果関係に基づいたアウトプットをするだけが人生であるはずがない。もちろん、APSには入出力という概念そのものがないのだから、本来はそれらを生存戦略上の義務や前提とする必要すらないはずだ。

それでも、日々生きていくうちに、ひとりの人間という「るつぼ」におさまりきれずに溢れ出すものは必ずある。それは、決してコンピューターが計算して完全に予測することはできない何かだ。

そういうものこそが、わたしたちの社会の基本要素となり、集合知の基盤となる「対話」のきっかけとして伝え合い、共有する価値のある「情報」となるのではないだろうか。

※この記事は浅野さんの個人ブログ「IA Spectrum 情報アーキテクチャの過去・現在・未来」の2013年5月15日のエントリーを転載したものです。

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第2回 出したい本に出会う

2013年5月15日
posted by 清田麻衣子

出版社に務め、多忙を極める女性編集者に、「休みが嫌い」という人は結構いて、私は完全にそうだった。稀にぽっかり時間が空くと、自分自身のブラックホールに飲みこまれるような感覚に襲われて怖くなり、月曜日、会社へ向かいながらイヤな顔をしつつ、内心、安堵していた。会社員として働いていると、いつも目の前のことで忙殺される。「たいへんだ」と歎き、なんでこんなに働かされてるんだ、と会社に悪態をつきながら、思考停止状態になることを望んでいたのだと思う。だからフリーランスになるのが怖かった。

しかし、震災の後、その限界を思い知った。この先を見据えて、会社の仕事に埋もれて止まる思考を奮い立たせ、今いる世界の外の、興味のあるものに手を伸ばしていこうと決めた。学生に戻ったような、初々しい心持ちになっていた。

そんな折、知人からある写真集の出版パーティに誘われた。大学時代、写真に興味を引かれ、卒業して1年間写真史を学んだが、好き嫌いの範疇から抜け出せず、軽い挫折感とともに遠ざかっていた。だが、久々に写真を見てみようと思った。

そこに、福岡県出身の写真家がいた。その人は福岡などで写真を撮っていたのち、新宿のphotographers’ galleryという、写真家たちによって運営されているギャラリーに活動拠点を移すため、2年前上京してきたという。田代一倫さんといった。

私は父親の転勤で、7歳のときに福岡から横浜市のたまプラーザという新興住宅地に越してきた。だがずっとどうしても、故郷を聞かれると「福岡」と答えていた。福岡の風景は、幼い頃住んでいた東区のあたりと、父に連れられて行った天神の風景くらいしか思い出せないのに、どうしてもたまプラーザの画一的な町並みに愛着が湧かず、微かな記憶しかない福岡がいつまでも原風景だった。田代さんは、次に福岡を含めた九州北部と韓国の南で撮影した作品の展示をやるという。

「椿の街」シリーズのDM。

数日後、送られてきた展示のDMは、福岡市早良区の室見川という川の橋の上から、上半身裸の少年がカメラに真っ直ぐ視線を向け、まさに今、川に飛び込もうとする瞬間を撮った写真だった。

同じ福岡とはいえ私は見たこともない場所なのに、意識のとても深い底に眠っていた風景を思い出したような感覚になった。山の濃い緑の色、なめらかな山の稜線、川の緩やかな蛇行の具合に、九州地方特有のものがあるのかもしれない。しかし、写真の中央に佇む少年もまた同じように知っているような気がしたから、それは風景のせいだけでもないようにも思う。

少年は橋を両手で掴み、裸足ですっくと立っていた。川に飛び込むことだけしか頭にないようなその佇まいが、潔く、凛々しくて、尊いものを見ているような、羨ましいような気持ちになった。

私は福岡に住んでいた幼い頃、兄とその友達に混ざって夏になると川でザリガニを採っていた。だが女は私ひとりで、男の子と違って川でノビノビ立ちションもできない。なにかと足手まといだったのだろう。夢中でザリガニを採っていて、気付くとよく巻かれていた。そんな遠い記憶が甦った。

東北地方沿岸部の700人を撮影した写真

2011年11月、展示を見に行って感想を田代さんに告げ、もっと写真が見たいとお願いした。数日後、写真を持ってきてくれた田代さんは、スーツを買ったときに店で入れてくれるケースを持っていて、何かの式の帰りかと思ったら、「これしか入れるものがないんで」と言い、取り出した箱の中には、写真がバサバサと入っていてギョッとした。写真というモノよりも、「写真そのもの」のことしか考えていない様子が可笑しかった。

その中に、2011年の4月から何度か東北地方を訪れ、震災で被害を受けた地域の人々を撮っている写真が混じっていた。同じ構図で人物を真正面からカメラ目線で撮影した写真ばかり。その時は一体なぜこんなに単調な写真を撮るのか不思議に思った。だが彼は「こういうふうにしか撮れない」という。そしていまは、3月の展示に向けて大詰めに入っているということだった。

震災から1年後の2012年3月、新宿・銀座ニコンサロンで、震災を記録した写真を7人の写真家が1週間交代で展示とシンポジウムをおこなう「Remembrance 3.11」という企画展で、その写真は発表された。「はまゆりの頃に」というタイトルだった。

東北地方沿岸部に住む人々を、同じ構図で真正面からカメラ目線で撮影した写真が40点ほど展示されており、展示会場の真ん中には、私家版の写真集が4冊置か れている。展示はその写真集からの抜粋で、春・夏・秋・冬で分冊された4冊の写真集には、1年間かけて撮影された、のべ700人もの東北地方沿岸部に住む 人たちが収められていた。撮影した人は全員掲載しているということだった。ものすごい分量だった。だが夢中で読んだ。

新宿ニコンサロンでの展示。

2011年4月23日 岩手県宮古市田老田中「震災を思い出すので、直後はなかなか自分の家に戻ることができなかった」高価な物ではなく、自分にとって大切な物を探す方々と対面すると、物に対する人の価値観を改めて考え直します。
2012年7月24日 岩手県大船渡市赤崎町蛸ノ浦「オレンジ色がはまゆり、白がやまゆり。あれ?逆か?」家で鉢植えにするために、花を抜いて来たという男性です。海辺の崖に咲くはまゆりと、山に咲くと言われているやまゆり。両方を一気に持って帰れることを、私は羨ましく思いました。

2012年6月23日 宮城県仙台市青葉区国分町

震災直後は、実家のある岩手県遠野市に帰っていたという男性です。それから半年後、再び国分町に戻ってホストを再開したそうです。

2013年2月22日 福島県双葉郡楢葉町山田岡美し森「弁当買ってて、来るのが遅くなりました」いわき市から福島第一原発に働きに来ている男性です。現在は作業員の方の送り迎えをするための車を洗って除染する仕事をされているそうです。

がれきの中で佇む女性、がれきを撤去する男性から、仙台の歓楽街で朝帰り途中のほろ酔いの若い女性、東京から被災地を見学に来た男性、正月に初詣するヒップホップ少年など、イメージの「被災者」と重なる人から、こちらの期待を良い意味で裏切る人まで、震災後から1年間、東北地方沿岸部に居たあらゆる人たちが、同じ構図で撮影されていた。前に見た時わからなかったその意図は、じわじわと理解できた。

写真の下には、地名と撮影日に加え、被災地の状況、写真家として感じたこと、31歳のごく普通の青年としての正直なためらいといったことが文章で添えられていた。その文章は、状況を冷静に伝えるだけでなく、感情を率直に、かつ抑制の効いた言葉で綴られていた。

ページを繰るごとに、地震と津波、そして原発事故が与えている影響の、テレビなどでは伝えられない細かな事実や、時間の経過を丁寧に読み取ることで気づく被災地の人々の変化、東北に住む人々のそれまで抱えてきた問題の数々などがじわじわと伝わってきた。

災害や戦争のニュースで莫大な死者の数を聞いても驚くだけで、気持ちがついていかないことに、空しい気持ちになることがあった。今回の震災もそうだった。だからこそ、「東北の人の集合体」ではない、ひとりひとりの人が生きている証拠を丁寧に収める必要がある。田代さんはそのために、撮影する側のエゴがなるべく入り込まないかたちで記録しているのだろう。わかりやすい、みんなが求める「東北」ではない、多様な人々を記録し、見る人に感じ、考えてもらうこと。それが、田代さんがやりたいことなのだと思った。

タイトルの「はまゆり」とは、東北地方沿岸部によく見られる花の名前。首都圏から見た「東北」という意味でつけられた括りでこの地方の人々を捉えるのではなく、はまゆりのように、その土地がもつ性質と関わりを持ちながら生きる人々の繋がりを捉えたいということだった。丁寧に、そしてものすごく誠意をもってこの震災という戦後の日本で起きた未曾有の出来事に向き合っているのだと感じた。この人は私が想像していたよりも、ずっとすごいことをやろうとしている。

佐藤真監督の映画がきっかけだった

田代さんの写真集を見て思い出したのは、大学時代、卒業論文で書いた、佐藤真監督というドキュメンタリー映画監督の『阿賀に生きる』そして『まひるのほし』という映画を観た時の感覚だった。

佐藤さんの映画の抑制の効いた演出で繋がれる映像は、最初、入り込むのに時間がかかり、眠くなった。題材も水俣病や、障害者のアート作品制作、という地味なテーマで、登場人物も地味だ。物語を紡ぐというよりは、映像のコラージュといった編集で、クライマックスのわかりやすいポイントもない。BGMはおろかナレーションもない。

ただ、その映像の世界に集中すると、たとえば『まひるのほし』では、障害をもった彼らが一心不乱に版画の木を彫る音がやけにリズミカルなことに気づき、ああ、こういう作業の歓びの積み重ねが、彼らにとっての「アートをする」という感覚なのか、と楽しい気持ちになったり、私にとっては意外なことで怯える瞬間を彼らの瞳の奥に見つけ、障害を持つ人々の感覚の鋭さに胸が痛くなったり、彼らの動揺を前にしたカメラが迷ってブレたのに気づいて、撮影者と被写体の繊細な関係に気が引き締まったり、といった細かい気づきのひとつひとつが連なり、何かを「知る」とはこういうことか、と思った。

インパクトのある映像やドラマチックなストーリーで障害者の現実を「知らされる」のではなく、細かな「気づき」の連続を通して、初めて障害をもつひとたちの存在や生活を、自分なりに考えることができた。

本当に伝えたいことがあるときに、こういった一見遠回りな手法がいちばん効果的なのだ、ということを知った。それはそれまでの人生にない発見で、深い感動だった。

そして佐藤さんの作品をテーマに卒論を書いた。その過程は経験したことのない密度の濃い時間で、大学を出たらこういう時間がもう今後持てないなんて絶対に嫌だと思った。それにはとりあえず、文章を世に出す仕事、出版だ、という遠回りな考えのもと、編集者になり、それからずっと佐藤さんと仕事をしたいという思いを抱きつつ、こういう地味な題材の、わかりにくい手法の作品が世間に受け入れらづらい現実に尻込みした。

とにかくまずは自分に力をつけようと、会社を転々とし、4社目の出版社で、どういうわけか団塊世代向けのカルチャー誌を作っていた2007年9月。関東に台風が直撃した日だった。編集部で目にしたヤフーニュースで佐藤さんの訃報を知った。49歳だった。会社のデスクで思わず悲鳴が漏れた。「間に合わなかった」と思った。気づけばずいぶん遠い所に来ていた。

自分の原点であると同時に指針だったものがなくなり、糸が切れた凧みたいになっていた。世の中の思考停止に憤ってこの仕事に興味を持ったはずなのに、そこから全速力で逃げて、自分の思考を停止させていた。

そして2012年春。田代さんの私家版の写真集を見たときに、大学の時、佐藤監督の映画を観たときと同じ感覚を味わったのだった。

田代さんは、いつかは私家版をまとめて出版できたらと考えているようだった。写真展を見て、その興奮を本人に伝えたが、当初、月刊誌の作業に追われる会社員の感覚では、この数百ページにも及ぶ本を編集するという意識はなかった。というか、震災、津波、原発といった、人間の本質的な問題に触れるテーマに向き合う勇気も、そういったことに全力で取組んでいる人に向き合う覚悟もまだなかったのだと思う。

しかし、その後田代さんと話をするうちに、いつしか「こんなふうに編集したほうがいいと思う」と頼まれもしないのにどんどん意見を言っていた。そして次第に、他の編集者にこの本を出されるのは嫌だと思うようになっていた。

本を作るノウハウは身につけた。ライターと編集の区別すらつかなかった新卒から始まって、ひととおりの武器は揃えたはずだ。自分で考えることを停止した状態の人と、繊細な感覚の世界とを繋ぐことはできないだろうか? 自分自身の課題が、本をつくる糸口になるかもしれない。

写真家の田代さんにとっては、初めての写真集になる。しかもものすごい気迫で「できるだけ多くの人を載せたい」と言っている。たしかにある程度分量がないと伝わらないとは思う。しかしいったいカラー何ページの本になる??? どこの版元がこの無謀な本を出してくれる??? 不安は山のようにあったが、編集者として、いまの自分にとって、この本を作ることが大事なことのように思った。なんの目算もなかったが、勢いで「この本を編集したいです」と伝えていた。

だがこの時はまだ、自分で版元をやろうとまでは思っていなかった。

次回につづく

※写真家・田代一倫の展示「はまゆりの頃に 2012年冬」は2013年6月2日まで、新宿のphotographers’ galleryで開催されています。

今回は、2012年冬の福島県の写真と、原発作業員を撮影した作品が展示されています。ぜひ足を運んでみてください。ちなみに、現在、撮影した人数はのべ1000人を超えています。

ハフィントン・ポストにみる「編集」の未来

2013年5月13日
posted by 鷹野 凌

5月7日に六本木ヒルズ49階で行われた、この日に創刊したばかりのハフィントン・ポスト日本版の記者発表会を取材した後、翌日に編集長の松浦茂樹さんにインタビューをする機会を頂きました。

米国のハフィントン・ポストは、月間訪問者数4600万人(2013年1月現在、comScore調べ)、月間投稿件数800万件以上、寄稿ブロガー3万人以上というニュースメディアであり、同時に読者が活発に意見交換をするコミュニティでもあります(英、仏、伊、カナダ、スペインでも各国版を展開しており、日本でのローンチは世界で7番目)。

全米ナンバーワンのWebメディアが朝日新聞社と組んで日本上陸という話題性もあり、記者発表会には多くのマスコミ関係者が詰めかけ、TVカメラも何台も入るほどの大盛況でした。

「ハフィントン・ポスト」創業者で米国版編集長のアリアナ・ハフィントン氏。

「ハフィントン・ポスト日本版」編集長である松浦茂樹氏も登壇。

ところが、翌日の新聞系のWebサイトをみると、読売・毎日・共同通信には記事が見つかりません(産経、日経、時事通信系にはあり)。掲載しないところがあったのはライバルの新聞社が関わっているからか、それともWebメディアなので軽視しているのでしょうか?

逆にWebメディアはこの強力なライバルの出現を、むしろ歓迎しました。

このように、既に紹介記事はたくさん出ているので、同じようなものを「本と出版の未来を考えるメディア」である「マガジン航」に書いてもしかたありません。そこで本稿ではハフィントン・ポストにおける編集方針をもとに、「編集の未来」について考えてみたいと思います。

「編集」の意味は時代とともに変化している

「編集」という言葉に対し人が思い描くイメージは、インターネットの登場以後、多種多様になってきています。例えば、「Naverまとめ」や「Togetter」のように、インターネット上に散らばるコンテンツをひとつの意図のもとに「まとめ」る行為も、新しい「編集」の形と言っていいでしょう。

ちなみに「岩波国語辞典」の第七版では、「編集」は次のように定義されています。

へんしゅう【編集】諸種の材料を集め、書物・雑誌・新聞の形にまとめる仕事。また、その仕事をすること。映画フィルム・録音テープなどを一つにまとめることにも言う。

「岩波国語辞典」は2009年に改訂されて、現在の第七版になっているのですが、それにしてはえらく定義が古めかしい。この定義では、Webメディアに関わることは「編集」の範疇外になってしまいます。

ところで、ハフィントン・ポスト日本版の松浦編集長は、インタビューで「編集」についてこう語ってくれました。

ぼくらにとって原稿は「書いていただく」ものではなく、(ブロガーが自発的に)書いたものを「お預かりする」というスタンスなんです。お預かりした原稿には手を加えませんし、「載せない」という判断をする場合もあります。

そのかわり、ぼくらは記事についたコメントを「編集」することで、言論空間を作ることを意識している。でもそれはべつに「検閲」ではありません。ポジティブなコメントが集まるコミュニティを作るのも、「編集」の仕事だと思っています。

この話を聞いて、「それって編集なの?」という思いを抱く方もいるのではないでしょうか? しかし、デジタル化・ネットワーク化によって「編集」の意味は拡張されているのです。

読者の投稿を選別することも「編集」

限られた紙面という「場」に、選び抜いた文章や写真・イラストなどの情報素材をレイアウトし、パッケージ化して流通へ載せるという行為が、従来の紙メディアの「編集」でした。

それに対し、Webメディアはクリックひとつで簡単に他のサイトへ飛べてしまうような、フワフワとした「場」です。画面はいくらでもスクロールできるので、記事の文字数に事実上制限はありませんし、コメントという形で寄せられた読者の声をすべて載せることも可能です。

そういうわけで、Webから生まれたメディアの多くは、記事に付いたコメントもコンテンツのひとつとして扱っています。この「マガジン航」にはコメント欄がありませんので、読者の反響をダイレクトに見ることはできません。それはそれでひとつの方針でしょう。同様に、新聞社系のWebサイトはどこもコメント欄を設けておらず、情報を一方的に配信するに留めています。というのも、多くの人の声が集まる場を維持運用していくには、非常に大きな労力を必要とするからです。

自分のWebサイトやブログ、mixiのコミュニティやFacebookのグループ機能などをオープンな形で運用したことがある人なら理解できると思いますが、人がたくさん集まれば集まるほど、その場にそぐわない妙な意見や攻撃的な煽り、誹謗中傷なども増えていきます。

しかもそれを放置すれば、場が荒れる一方になります。雰囲気の悪くなった場は良識のある人を遠ざけ、ますます荒れるスパイラルに陥ります。場の雰囲気をコントロールしきれなくなり、閉鎖してしまったウェブサイトやコミュニティを、私もこれまでいくつも見てきました。

荒れている場には、荒れた場所が好きな人が集まる

いくら荒れても場を無理にコントロールしようと思わなければ労力は最小限で済みますし、荒れる場というのも、エンターテイメントとして捉えれば面白い。ですから、労力をかけずに「活発な議論の場」を用意しようとすると、おのずと「残念な」インターネットの言論空間(梅田望夫)になります。

建設的な議論ではなく、ただの罵り合いや誹謗中傷合戦になります。炎上し野次馬が集まるとPVだけは伸びるので、週刊誌の中吊り広告のようにタイトルで釣るような行為がスタンダードとなり、記事の内容もどんどん残念な方向になります。

であれば、建設的な議論ができる場を提供するために、労力をかけて載せるコメントを選別するというハフィントン・ポスト日本版のやり方も、「編集」に他ならないわけです。紙面という限られたスペースで一定の間を置いて行われるかわりに、Webというスペースの縛りが緩くてリアルタイムに更新される場で行われる、というだけの話です。

WIRED.jpに掲載された松浦氏のインタビューによると、本国アメリカのハフィントン・ポストでは月間約30万件のコメントが寄せられ、そのうち3分の1は不採用になるとのこと。また選別はある程度自動化されていますが、それでも約7割は手作業で落としているそうです。

ハフィントン・ポスト日本版のコメント欄。「投稿されたコメントは、ハフポスト編集部の確認後に表示されます」との注意書きがある。

芸能人ブログなどでよく見かける「コメント承認制」は、徹底的に都合のいいコメント以外を排除するというやり方で見た目を綺麗に整えていますが、異論・反論まで排除していては建設的な議論の場を作り出すことはできません。

承認制のコメント欄を採用しているあるビジネス誌系のWebサイトに、何度か記事に対する批判的な論調のコメントを投稿してみたことがあるのですが、1度も載りませんでした。なのでそこにコメントを書くのはやめ、Twitterなどに元記事のURLを付けて自分の意見を流すようになりました。コメント欄が、議論の場としては機能していないからです。

もちろん、TwitterやFacebookなどにURLを付けて意見を投稿することで、そこから議論が広がっていくこともあります。ただそれは、TwitterやFacebookという別の場における議論であって、記事元がそれに関わろうとしなければ切り離された議論になってしまいます。言ってみれば、TVで政治討論を観ながら、居酒屋談義をしているようなものです。やはり記事のある場において直接議論をするからこそ、相互理解や合意形成が図れるのではないでしょうか。

「編集」の未来

本国アメリカのハフィントン・ポストが建設的な議論の場として機能しているということは、そのあたりのバランス感覚がうまい、ということなのでしょう。そして、大変な労力を使って場のコントロールをしつづけているという点が、ハフィントン・ポストの凄さなのだと思います。

議論をスムーズに進めて相互理解や合意形成を図るには、優秀なファシリテーターが必要です。情報を発信するだけのメディアにそういう役割は必要ありませんが、ネットワーク社会における双方向メディアの編集者にはそういう能力も求められるということでしょう。

これからは制作物の送り手と受け手の間の緩やかなつながりや、コンテンツの内と外の間で起きる相互コミュニケーションのあり方までを想定して、メディアをつくりあげていく能力が編集者にもとめられます。従来の「強い」コントロールに対して、一種の「弱い」コントロールとしての「編集」の力が求められる時代といってもいいかもしれません。(仲俣暁生、『編集進化論』

しかし、こういったいわゆる「弱い編集」の時代がこの先も続くのでしょうか? ちょうど本稿執筆中、ハフィントン・ポスト日本版にこのような記事が載りました。

Google「検閲システム」の特許を取得 – ハフィントン・ポスト

Googleが、文章表現をアルゴリズムによって自動解析し、「問題のある表現」に警告をするというものです。ハフィントン・ポストが採用しているコメントの自動選別アルゴリズムも、恐らく今後ますます磨きをかけて、人の手が介在する割合を減らしていくでしょう。

つまり、単純作業の労働者が機械化によってその職を失ったように、「弱い編集」はアルゴリズムによって置き換えられる運命にあるとも言えるのではないでしょうか。そうなったとき、「編集」という言葉の意味はまた拡張され変わっていくのでしょう。

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「プロジェクト(D.I.W.O.的)編集」の時代に

第3回 わらしべ文庫から垣間みえる街の生活の柄

2013年5月6日
posted by アサダワタル

大阪駅からJR環状線内回りで3駅目にあたる西九条駅と、阪神なんば線千鳥橋駅の両駅の間に、「此花朝日橋」というバス停がある。住所で言うと大阪市此花区梅香一丁目。ごく普通のありふれたバス停だが、ちょっとその後ろを振り返ると不思議な風景と出会うことができる。街中にひっそりと、しかしほどよい主張をもって佇むこの本棚。そしてその前を素通りする人たちもいれば立ち止まる人たちもチラホラ。これが本回で紹介する「わらしべ文庫」だ。

簡単に説明すると、読まなくなった本や誰かに譲りたい本を、そこにある本と交換できる仕組みをもった本棚のこと。この街に住む中島彩さんが考案し、2012年2月から始めたプロジェクト。その内容はさることながら、一体どういった背景でこのような本棚が街頭に置かれることになったのか。棚の変遷を直接紹介してもらいながら、ことの経緯をお伺いした。

本のわらしべ交換ワールドへ

まずは、わらしべ文庫の雰囲気を写真で味わいつつ、貼り出されている「ご利用案内」の文言に添って、中身に迫っていこう。

読まなくなった本や、誰かに譲りたい本を持ってきてください。棚にある本となら、どれでも交換することができます。” (「ご利用案内」一段落目より)

なるほど。ここにある書籍は、この本棚の存在を知った人が持ち寄った譲りたい本と、彼ら彼女らが読みたいがために抜いていった本がダイナミックに行き交ったその一時的な結果なわけだ。しかし、この仕組みを回していこうと思ったら、まずいちばん最初の棚の状況はどのように設定されたのだろうか。

まず最初は自分の持っている本を30~40冊置いてみるところから始めました。そうすると、一週間経つと50冊、一ヶ月で100冊とどんどん増えていったんですね。

と中島さん。

そうか、増えていくのか。じゃあ持ち帰るよりも置いていく人の方が圧倒的に多いってことなのか。


置いていく本の数だけ自由に選んで持っていってください。交換する際は添え付けのノートに置いていく本と持っていく本の書名の記入をお願いします。” (「ご利用案内」二段落目より)

それだと増えるってことはないはずだが、一体どういった風に棚は動いているのだろうか。

最初は1冊持って来たら1冊抜いて帰ってもらうという、1冊1冊の交換を原則にしていたんですけど、あまり皆さん約束を守らなくて(苦笑)。予想以上にどんどん本が増えてきたので、このままじゃパンクすると思って数冊交換のルールに変えたり、たまに棚を整理して私が何冊か抜いたり、いろいろと微調整をしています。

でも、半年くらい経って200冊くらいになると、自然と動きが落ち着いてきたんです。きっとこの棚に対する周囲の認識も定着し、固定客が生まれてきからだと思うんですが。

“もし手元に譲りたい本がなくて、けれどどうしても読みたい本があるときは、その本を持っていってもらって、後日に譲れる本をお持ちくださっても結構です。その旨をノートにお書きください。”(ご利用案内三段落目より)

(ノートは)毎日、2人くらい書き込んでくれてますね。1人につき2〜3冊分は書き込んでいるから、けっこう回転しているんだと思います。ご丁寧に、“いい本ですからぜひご活用を。もっとありますからもしご希望でしたら”と連絡先まで書いてくださっているものあったり。

そもそもどんな種類の書籍があるんだろう。

ジャンルは本当に様々なんです。文庫小説、漫画、絵本や童話、ビジネス書、ファッション雑誌、カタログ、料理などの実用書、自己啓発本から学習参考書から宗教書から電化製品の説明書などなど…。この棚を使う人がある程度探しやすかったり、置いて帰りやすくするためジャンル分けはしていますね。

この「世界名作劇場」(写真上)はひとかたまりにしているんですけど、プロジェクトを始めた初期からずっとあるんですよ。きっと持ち主の方は読みはしないんだけど愛着があって捨てるに捨てられなかったんじゃないかなぁ。また、まるで捨て子のように紙袋に綺麗な文庫本を大量に入れて置いて帰ったり。

ずっと初期から残り続けている本もあって。たとえばこのにしきのあきら『最後のプロポーズ』(写真上)は鉄板ですね。あと、この『息子はマのつく自由業!?』(写真下)は行ってはまた戻ってくる、交換回数の多い人気作です。

最近発売された本とか状態のいい本はすぐに回転しますね。ちゃんとみんなこまめにチェックしてくれてるんだなぁと嬉しくなります。あと、漫画もとにかく回転が早い。『帯をギュッとね!』は全巻揃っていて全部持って行かれたんですけど、なぜか一巻だけ戻って来たり、しかもいつのまにかカバーだけなくなっていたり。雑誌『Newton』の特集「宇宙のできかた」なんて、もうすごいメモの書き込み具合なんですよ。

出てくるわ出てくるわ、あれこれやのエピソード。1冊1冊に込められたこの1年数ヶ月のわらしべ的交換記録からは、それを見守り続ける中島さんだけが認識できる世界が広がっていて、話を聞いているだけで実に面白い。

ところで、中島さん。なんでこんな不思議なことを始められたのですか?

本が縮める、地域住民との距離感

中島さんは京都の美術系大学院の学生だった時期に、京都市西京区にて仲間たちとアートスペースを構え、展覧会の企画などを手がけていた。

京都でスペースをやっていたときに、物々交換のイベントをすることになったんです。私の中ではその時最初に思いついたのは“本”を交換することでした。スペースの中でやってみたり、シャッターを開けて通りに面してやってみたりしました。人通りが決して多いところではなかったので、それほど大きな反応はなかったんですけど何か可能性は感じました。

その後、大阪に活動拠点を移し、現在は大阪市此花区を中心にいくつかのアート関連の企画に関わっている。その過程で、このわらしべ文庫を設置しているスペースである「此花メヂア」と出会う。

本を整理する中島彩さん。

このあたりは数年前から、高齢化して空いてしまったビルや倉庫、空き家などを地元の土地会社が、まちづくりの一環としてアーティストや建築家などに安く提供し、様々なアートスペースが生まれているんです。その周辺に出入りしている過程で、元メリヤス工場を改装した集合アトリエである此花メヂアに出会いました。

ここは、いろんなプロジェクトの展覧会場や受付会場になったりと頻繁に活用されているんですね。でも、いまひとつ地域には開かれていないからなんとか近所の人たちとの交流の仕掛けがあれば…、という声がアトリエメンバーからあがったことを耳にして、“だったら、ここで本の交換棚を置いたらいいんじゃないか”って、京都のときから暖めていたアイデアが浮かんだんです。

そして、実際にアトリエメンバーに提案し、実現へと漕ぎ着ける。京都のときの実践と違って、バス停のすぐ近く、人通りも多い道沿いで絶好のロケーションだった。最初は周囲から、「放火やゴミ問題などに繋がるのでは?」という不安の声もあがったが、まずはやってみようということになり、以後とくにトラブルもなく開始から1年以上の時が経過した。

より“実用的”な街の本棚になるということ

彼女はこの取り組みを継続するうちに、あることに気づいた。

最初は此花メヂアが外に開くきっかけになったり、地域住民とのコミュニケーションの手段として活用されればと思ってました。でも私自身はまず本そのものが大好きなんです。そして1年やってわかったことは、この棚を利用する人たちは本当に本が好きなんだということ。

どの本がどの本と交換されるか、自分以外の人がどんな本を好きで確かな関心を寄せているのか、そういうことに触れる度にすごく感動します。そして、みんな本が好きすぎて不要になっても捨てられない。だから誰かに託すことができればという気持ちも含めてここに置いていくのかなぁと思っていますね。

彼女は、添え付けのノートの感想をこまめに読んでは、いろんな本好きの存在を知るようになる。そして、最初はこまめにそのノートにツッコミを入れたり、また、たまたま本の整理に行ったときに出会った利用者の方に「こんにちは」と声をかけ、親交を図ろうとしてきたそうだ。

でも、別にノートにツッコミ返しがあるわけでも、こっちが掲示しているメールアドレスに連絡がくるわけでもない。直接声をかけてみても、返事もなく淡々と本を読み続けてたりするんですよ。“そうか、本に興味があっても、これをやっている私自身に対しては別に興味ないんだなぁ”って(苦笑)。

そう、本当に「街の棚」として”実用的”に使っている人の方が多いということに気が付いたのだ。そして、このある意味ドライな事実の方が、彼女にとってはよりこの取り組みに対する可能性を感じる契機となった。

では、最後にもう数冊、具体的な本の紹介をしてもらおうではないか。

「一体誰が持って帰るんだ…」ってくらいボロボロで、ぎっしり書き込みのある『チャート式 中学3年の数学』。

初期より“不動”の定位置を維持している、進和不動産ハウジング研究所編『女、家を産む』。

二巻がない状態でなぜか頻繁に出たり入ったりしている、ますむらひろし『コスモス楽園記』。

カバーをなくしたので持ち主が自分で書いたと思われる政次満幸『成功する男の条件』。

わらしべ文庫がきっかけになって、人と人とが繋がった!みたいな話ではないんですが、でもやっぱり以前の此花メヂアよりは、地域の人たちの受け止め方が変わったようなんですね。“ああ、あの本棚があるところやんね”とご近所さんに言われるとき、そこにはある種の親近感が込められていると思います。

中島さんは、この活動がいつまでどのような形で続くのかはわからないと言いながらも、本から立ち上がる様々な人間模様を描いていく取り組みをきっとこれからも試し続けるんだろう。ぜひ、大阪に寄られた際は、こっそりこの本棚に立ち寄ってみてはいかがだろうか。きっとこの街ならではの生活の柄が、その本の並びから滲み出ていることだろう。

(次回につづく)

本の未来とは社会の未来である

2013年4月30日
posted by ボブ・スタイン

私は IfBookThenコンファレンスのためにミラノに来ている。私は「コリエール・デラ・セラ」(イタリアの大手新聞社)から、この会合に寄せて同社の週刊誌「ラ・レトゥーラ」に掲載する意見記事を依頼された。その記事に私は次のようなことを書いた。[注:原文は3月18日に書かれた。IfBookThenコンファレンスの登壇者一覧はこちら。ボブ・スタインのプレゼンテーション映像はこちら]

本の未来

30年以上前に紙から電子出版に乗り出した者として、私はしばしば「本の未来」について詳しい解説を求められる。率直に言って私はこの質問の意味がよくわからない。とりわけ簡潔な説明が要求される場合には。初心者にはより具体的な説明が必要になる。私たちはこれから2年先の話をしているのだろうか。いや10年、それとも100年? そもそもこの問いにおいて「本」とはいったい何を意味しているのだろうか。その物理的な形態がどのように進化してゆくのかを知りたいのか、あるいは社会機構におけるその役割の進化について知りたいのだろうか。

話せば長くなることだが、この30年を通じて私にとっての「本」の定義は大きく変化した。当初、私は本を単に物理的な性質によって定義していた。インクを吸い込んだ紙のページたちを、いわゆるコーデックス [注:codex=冊子本。scroll=巻子本と対比される] のように束ね上げたものとして。けれども1970年代の後半、新しいメディア技術の出現によって、私たちはページの概念を拡張してオーディオやビデオを含めることに可能性を感じ、オーディオやビデオをその一部に用いた本を構想するようになった。

こうした作品をコンセプチュアルにするために、物理的な構成部品によってではなく、どのように使われているのかによって本を定義することにした。この観点によれば、本とは束ねた紙に載ったインクのことではなく、読者がコンテンツにアクセスする手段を完全にコントロールすることのできる「ユーザー主導型メディア」のことだといえる。映画ではユーザーはペースや順序をコントロールできず、椅子に座って観るだけだった。そのような従来の制作者主導による視聴体験は、ユーザーが「読み」始められるレーザーディスクやCD-ROMによって完全なユーザー主導型メディアへと変化した。

この定義はレーザーディスクやCD-ROMの時代には有効であったが、インターネットの隆盛によって完全に瓦解してしまった。私は本を「もの」に結びつけるのではなく、人がアイデアを時間や空間を越えて届けることのできる乗り物として述べるようになった。

本の定義をめぐる立場が定まらないといって、しばしば私は批判されてきた。そうした経験から私は、新しい確かな表現の様式とそれを指し示す言葉が生まれるまでには、数十年あるいは百年といった時間がかかりうる、と説明して抵抗することを学んだ。現在のところ私は、「本」に取って代わる何かが現れるまでは、「本」の定義を再定義し続けるのがよい、と主張している。

本とは場所である

2005年に米国のマッカーサー財団は、「印刷されたページ」から「ネットワークで繋がったスクリーン」に移り変わることで出版に起きる変化を研究するための助成金を私に与えてくれた。私はその資金を、冗談まじりに名付けた「本の未来研究所」の設立に使うことにした。大学を卒業したばかりで、ソーシャル・ウェブ時代に成人を迎えた若い人たちのグループとともに、私たちは「ネットワークに繋がった本」を標題とする数々の実験を行った。

「Gamer Theory」では読者がパラグラフごとにコメントが付けられるようになっている。

当時はブログが流行していたので、私たちはエッセーや本に読者のコメントを付けることができたら何が起こるだろうか、と考えてみた。後になってわかったことだが、私たちが最初に選んだテキストがマッケンジー・ワークの「Gamer Theory」だったのは、とてつもない幸運だった。この本の――ページよりもパラグラフごとに番号が振られた――構造によって、私の仲間は、読者がパラグラフ単位でコメントを残せるという革新的なデザインを考案することになったのだ。当時のシンプルなグラフィカル・ユーザーインターフェースによって生じる問題を解決するために、著者テキストの下に読者のコメントを配置するという一般的な方法ではなく、それぞれのパラグラフの右側にコメントを配置することにした。

「Gamer Theory」をネット上に公開してから数時間のうちに、ページの余白には活発な議論が現れた。コメントを下ではなく横に配置するという些細に思えた変更が、実は深い意味を持っていたことに私たちは気付いた。ワークがきわめて積極的に議論を展開してくれたおかげで、私たちはまずこのフォーマットが、著者を上位に読者を下位に位置づけてきた、伝統的な印刷媒体におけるヒエラルキーをひっくり返すものだと理解した。「Gamer Theory」のテキストとコメントを水平に並べるレイアウトによって、著者と読者は唐突に同じ視覚的な空間を持つことになり、同様に彼らの関係性もはるかに平等なものへと変化した。日が経つに従って、著者と読者は総体的な理解を進めるために、共同的な努力を行っていることが明らかになった。

私たちは人々が集まってアイデアを議論する「場所としての本」について語るようになった。

のちに教室で読者のグループとおこなった実験では、著者が参加しなかったにも関わらず、成功を収めることができた。これによって私たちは、著者と読者の関係の変化よりもはるかに大きな変化が起きていることに気付かされた。

アイデアを印刷物という永続的な物質に具現化することは、読書と著述のもつソーシャルな側面をすっかり覆い隠してしまうので、私たちの文化は、それをとても孤独な行為と捉えてしまう。なぜならそのソーシャルな側面は、これまでずっとページの外側で起きていたからだ。(オフィスの)冷水機の周りで、夕食のテーブルで、他の出版物のページの中にある書評や参照や文献目録のかたちで。その点から言えば、テキストをページからスクリーンに移したところで、ソーシャルな構成要素を前面に押し出してその価値を高めることができなければ、テキストはソーシャルなものにはならない。

一度でもソーシャルな読書体験に関わってみれば、その価値は明白だ。現代に起こるさまざまな問題は相当に複雑で、個人が自力で理解に到達することは難しい。だが、より多くの視点とより多くの考えが、理解というタスクのために力を合わせれば、より良い包括的な答えを生み出すことができるだろう。

私たちの子孫は、たとえばソーシャル・リーディングのように、他の誰かとともにする読書を「自然な」読書と考えるだろう。そして今日の私たちの読書が一人でする行為だったと知って驚くだろう。一人でする読書は、私たちが無声映画をそう感じるように、彼らには古臭いものに感じられるだろう。

読書の未来を予測するうえでとても難しいのは、自分が読んだ箇所を指すのに、記事やエッセーの「何ページ」、本の「第何章」の「何ページ」といった表現を今のところ常に利用せざるをえない点にある。現実的な予測においてさえ、私たちが新しい電子メディア固有のアフォーダンスを作り出せるようになることで、こうした表現の様式は劇的に変化するだろう。より理想的な未来を予測するなら、読書と著述の境目がますます多孔質になり、知識とアイデアの創造において読者がこれまでよりも積極的な役割をもつだろう。

純文学小説『Indigo』の著者クレメンス・セッツはベルリン郊外にあるヒルデスハイム大学において、40名のクラスの会話が1800を超えるコメントに広がったのを目撃した。最近のシンポジウムでセッツは、読者がページの余白を積極的に活用するのを知ったことで、彼自身の作品は読者のための余白を残すように変化してゆくだろうと述べた。

ゲーマーに従え

こうした変化はノンフィクションに限ったことではなく、World of Warcraft のような巨大なマルチプレイヤー・ゲームについても当てはまると考えてほしい。それは未来小説のストーリーをいくつも撚り合わせた鎖のようなものであり、そこでは著者が描写した世界の中で、プレイヤー/読者自身がゲームで遊ぶための物語を書き綴るのだ。

「小説」がひとつの表現形式として認知されるまでには、「印刷時代」の始まった1454年から数えて200年以上の時間がかかったが、新聞や雑誌が登場するのはさらに後のことだ。ちょうどグーテンベルクと印刷工たちが図版入りの写本を再生産し始めたように、現代の出版社は印字されたテキストを電子スクリーンに移そうとしてきた。この変化は重要な恩恵(検索可能なテキスト、持ち運び可能な個人の蔵書、インターネットからのダウンロードによるアクセスなど)をもたらすだろうが、この段階は出版の歴史の中では過渡的なものだ。長い時間をかけて新しいメディア技術は、これまで考案されてこなかった新しい表現形式を生み出し、それはメディアの風景の中で数十年、数百年に渡って主要なものであり続けるだろう。

私は、この変化の最前線に立つのはゲーム制作者だと直感している。彼らは出版社とは違い、過去の商品に縛られることはない。マルチメディアはすでにゲーム制作者にとって表現のための言語となっており、彼らは百万人のプレイヤー・コミュニティという繁栄の建物の中で、輝かしい進化の道を歩んでいる。従来の出版社が祈るようにして印刷物をタブレット機器に移し替えている傍らで、ゲーム制作者はネットワークで繋がった機器との膨大な約束事を受け止め、来るべき世紀の有力な表現様式を考案し、それを定義することになるだろう。

本の未来とは社会の未来である

我々の時代のメディアまたはプロセス――すなわち電子技術――は、社会的な相互関係のパターンと、個人の生活がもつあらゆる側面を再形成、再構築する。

それは、これまで我々が当たり前としてきたあらゆる考え、あらゆる行動、あらゆる制度について再考し評価しなおすことを余儀なくさせる。あらゆるものが変化している。あなたが、あなたの家族が、あなたの教育が、あなたの隣人が、あなたの職業が、あなたの政府が、あなたと他者との関係が。そしてそれらは劇的に変化している。
――マーシャル・マクルーハン「メディアとはメッセージである」(Marshall McLuhan, The Medium is the Message)

マクルーハンとその師であるハロルド・イニスにより、このことについての説得力のある事例として挙げられているのは、印刷が国民国家と資本主義の台頭において重要な役割を果たし、またプライバシーと共同体の中の個人を尊重する概念を発達させたということだ。ソーシャル・リーディングの実験や大規模なマルチプレイヤー・ゲームは、ネットワーク文化への移行における幼少期の段階だ。これから200年、300年という時間をかけて、新しいコミュニケーションの様式が新しい社会の形成を導き、人間であることの意味をめぐる私たちの理解はすっかり変わってしまうことだろう。

(日本語訳:高瀬拓史/ろす)

※この記事は2013年3月18日にif:bookに投稿された記事(The Future of the Book is the Future of Society) を全訳し図版を追加したものです。

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