本の未来とは社会の未来である

2013年4月30日
posted by ボブ・スタイン

私は IfBookThenコンファレンスのためにミラノに来ている。私は「コリエール・デラ・セラ」(イタリアの大手新聞社)から、この会合に寄せて同社の週刊誌「ラ・レトゥーラ」に掲載する意見記事を依頼された。その記事に私は次のようなことを書いた。[注:原文は3月18日に書かれた。IfBookThenコンファレンスの登壇者一覧はこちら。ボブ・スタインのプレゼンテーション映像はこちら]

本の未来

30年以上前に紙から電子出版に乗り出した者として、私はしばしば「本の未来」について詳しい解説を求められる。率直に言って私はこの質問の意味がよくわからない。とりわけ簡潔な説明が要求される場合には。初心者にはより具体的な説明が必要になる。私たちはこれから2年先の話をしているのだろうか。いや10年、それとも100年? そもそもこの問いにおいて「本」とはいったい何を意味しているのだろうか。その物理的な形態がどのように進化してゆくのかを知りたいのか、あるいは社会機構におけるその役割の進化について知りたいのだろうか。

話せば長くなることだが、この30年を通じて私にとっての「本」の定義は大きく変化した。当初、私は本を単に物理的な性質によって定義していた。インクを吸い込んだ紙のページたちを、いわゆるコーデックス [注:codex=冊子本。scroll=巻子本と対比される] のように束ね上げたものとして。けれども1970年代の後半、新しいメディア技術の出現によって、私たちはページの概念を拡張してオーディオやビデオを含めることに可能性を感じ、オーディオやビデオをその一部に用いた本を構想するようになった。

こうした作品をコンセプチュアルにするために、物理的な構成部品によってではなく、どのように使われているのかによって本を定義することにした。この観点によれば、本とは束ねた紙に載ったインクのことではなく、読者がコンテンツにアクセスする手段を完全にコントロールすることのできる「ユーザー主導型メディア」のことだといえる。映画ではユーザーはペースや順序をコントロールできず、椅子に座って観るだけだった。そのような従来の制作者主導による視聴体験は、ユーザーが「読み」始められるレーザーディスクやCD-ROMによって完全なユーザー主導型メディアへと変化した。

この定義はレーザーディスクやCD-ROMの時代には有効であったが、インターネットの隆盛によって完全に瓦解してしまった。私は本を「もの」に結びつけるのではなく、人がアイデアを時間や空間を越えて届けることのできる乗り物として述べるようになった。

本の定義をめぐる立場が定まらないといって、しばしば私は批判されてきた。そうした経験から私は、新しい確かな表現の様式とそれを指し示す言葉が生まれるまでには、数十年あるいは百年といった時間がかかりうる、と説明して抵抗することを学んだ。現在のところ私は、「本」に取って代わる何かが現れるまでは、「本」の定義を再定義し続けるのがよい、と主張している。

本とは場所である

2005年に米国のマッカーサー財団は、「印刷されたページ」から「ネットワークで繋がったスクリーン」に移り変わることで出版に起きる変化を研究するための助成金を私に与えてくれた。私はその資金を、冗談まじりに名付けた「本の未来研究所」の設立に使うことにした。大学を卒業したばかりで、ソーシャル・ウェブ時代に成人を迎えた若い人たちのグループとともに、私たちは「ネットワークに繋がった本」を標題とする数々の実験を行った。

「Gamer Theory」では読者がパラグラフごとにコメントが付けられるようになっている。

当時はブログが流行していたので、私たちはエッセーや本に読者のコメントを付けることができたら何が起こるだろうか、と考えてみた。後になってわかったことだが、私たちが最初に選んだテキストがマッケンジー・ワークの「Gamer Theory」だったのは、とてつもない幸運だった。この本の――ページよりもパラグラフごとに番号が振られた――構造によって、私の仲間は、読者がパラグラフ単位でコメントを残せるという革新的なデザインを考案することになったのだ。当時のシンプルなグラフィカル・ユーザーインターフェースによって生じる問題を解決するために、著者テキストの下に読者のコメントを配置するという一般的な方法ではなく、それぞれのパラグラフの右側にコメントを配置することにした。

「Gamer Theory」をネット上に公開してから数時間のうちに、ページの余白には活発な議論が現れた。コメントを下ではなく横に配置するという些細に思えた変更が、実は深い意味を持っていたことに私たちは気付いた。ワークがきわめて積極的に議論を展開してくれたおかげで、私たちはまずこのフォーマットが、著者を上位に読者を下位に位置づけてきた、伝統的な印刷媒体におけるヒエラルキーをひっくり返すものだと理解した。「Gamer Theory」のテキストとコメントを水平に並べるレイアウトによって、著者と読者は唐突に同じ視覚的な空間を持つことになり、同様に彼らの関係性もはるかに平等なものへと変化した。日が経つに従って、著者と読者は総体的な理解を進めるために、共同的な努力を行っていることが明らかになった。

私たちは人々が集まってアイデアを議論する「場所としての本」について語るようになった。

のちに教室で読者のグループとおこなった実験では、著者が参加しなかったにも関わらず、成功を収めることができた。これによって私たちは、著者と読者の関係の変化よりもはるかに大きな変化が起きていることに気付かされた。

アイデアを印刷物という永続的な物質に具現化することは、読書と著述のもつソーシャルな側面をすっかり覆い隠してしまうので、私たちの文化は、それをとても孤独な行為と捉えてしまう。なぜならそのソーシャルな側面は、これまでずっとページの外側で起きていたからだ。(オフィスの)冷水機の周りで、夕食のテーブルで、他の出版物のページの中にある書評や参照や文献目録のかたちで。その点から言えば、テキストをページからスクリーンに移したところで、ソーシャルな構成要素を前面に押し出してその価値を高めることができなければ、テキストはソーシャルなものにはならない。

一度でもソーシャルな読書体験に関わってみれば、その価値は明白だ。現代に起こるさまざまな問題は相当に複雑で、個人が自力で理解に到達することは難しい。だが、より多くの視点とより多くの考えが、理解というタスクのために力を合わせれば、より良い包括的な答えを生み出すことができるだろう。

私たちの子孫は、たとえばソーシャル・リーディングのように、他の誰かとともにする読書を「自然な」読書と考えるだろう。そして今日の私たちの読書が一人でする行為だったと知って驚くだろう。一人でする読書は、私たちが無声映画をそう感じるように、彼らには古臭いものに感じられるだろう。

読書の未来を予測するうえでとても難しいのは、自分が読んだ箇所を指すのに、記事やエッセーの「何ページ」、本の「第何章」の「何ページ」といった表現を今のところ常に利用せざるをえない点にある。現実的な予測においてさえ、私たちが新しい電子メディア固有のアフォーダンスを作り出せるようになることで、こうした表現の様式は劇的に変化するだろう。より理想的な未来を予測するなら、読書と著述の境目がますます多孔質になり、知識とアイデアの創造において読者がこれまでよりも積極的な役割をもつだろう。

純文学小説『Indigo』の著者クレメンス・セッツはベルリン郊外にあるヒルデスハイム大学において、40名のクラスの会話が1800を超えるコメントに広がったのを目撃した。最近のシンポジウムでセッツは、読者がページの余白を積極的に活用するのを知ったことで、彼自身の作品は読者のための余白を残すように変化してゆくだろうと述べた。

ゲーマーに従え

こうした変化はノンフィクションに限ったことではなく、World of Warcraft のような巨大なマルチプレイヤー・ゲームについても当てはまると考えてほしい。それは未来小説のストーリーをいくつも撚り合わせた鎖のようなものであり、そこでは著者が描写した世界の中で、プレイヤー/読者自身がゲームで遊ぶための物語を書き綴るのだ。

「小説」がひとつの表現形式として認知されるまでには、「印刷時代」の始まった1454年から数えて200年以上の時間がかかったが、新聞や雑誌が登場するのはさらに後のことだ。ちょうどグーテンベルクと印刷工たちが図版入りの写本を再生産し始めたように、現代の出版社は印字されたテキストを電子スクリーンに移そうとしてきた。この変化は重要な恩恵(検索可能なテキスト、持ち運び可能な個人の蔵書、インターネットからのダウンロードによるアクセスなど)をもたらすだろうが、この段階は出版の歴史の中では過渡的なものだ。長い時間をかけて新しいメディア技術は、これまで考案されてこなかった新しい表現形式を生み出し、それはメディアの風景の中で数十年、数百年に渡って主要なものであり続けるだろう。

私は、この変化の最前線に立つのはゲーム制作者だと直感している。彼らは出版社とは違い、過去の商品に縛られることはない。マルチメディアはすでにゲーム制作者にとって表現のための言語となっており、彼らは百万人のプレイヤー・コミュニティという繁栄の建物の中で、輝かしい進化の道を歩んでいる。従来の出版社が祈るようにして印刷物をタブレット機器に移し替えている傍らで、ゲーム制作者はネットワークで繋がった機器との膨大な約束事を受け止め、来るべき世紀の有力な表現様式を考案し、それを定義することになるだろう。

本の未来とは社会の未来である

我々の時代のメディアまたはプロセス――すなわち電子技術――は、社会的な相互関係のパターンと、個人の生活がもつあらゆる側面を再形成、再構築する。

それは、これまで我々が当たり前としてきたあらゆる考え、あらゆる行動、あらゆる制度について再考し評価しなおすことを余儀なくさせる。あらゆるものが変化している。あなたが、あなたの家族が、あなたの教育が、あなたの隣人が、あなたの職業が、あなたの政府が、あなたと他者との関係が。そしてそれらは劇的に変化している。
――マーシャル・マクルーハン「メディアとはメッセージである」(Marshall McLuhan, The Medium is the Message)

マクルーハンとその師であるハロルド・イニスにより、このことについての説得力のある事例として挙げられているのは、印刷が国民国家と資本主義の台頭において重要な役割を果たし、またプライバシーと共同体の中の個人を尊重する概念を発達させたということだ。ソーシャル・リーディングの実験や大規模なマルチプレイヤー・ゲームは、ネットワーク文化への移行における幼少期の段階だ。これから200年、300年という時間をかけて、新しいコミュニケーションの様式が新しい社会の形成を導き、人間であることの意味をめぐる私たちの理解はすっかり変わってしまうことだろう。

(日本語訳:高瀬拓史/ろす)

※この記事は2013年3月18日にif:bookに投稿された記事(The Future of the Book is the Future of Society) を全訳し図版を追加したものです。

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