「未来の図書館をつくる座談会」完結!

2014年6月12日
posted by 仲俣暁生

左から内沼晋太郎さん、高橋征義さん、李明喜さん(司会)、河村奨さん、吉本龍司さん(下北沢オープンソースカフェにて。写真:二ッ屋 絢子)

昨年秋、「図書館」や「本」にまつわる斬新な仕事をなさっている4人の方々(numabooksの内沼晋太郎さん、達人出版会の高橋征義さん、リブライズの河村奨さん、カーリルの吉本龍司さん)にお集まりいただき、座談会を行いました。

この座談会を開催するきっかけとなったのは、2012年に前国立国会図書館長の長尾真さんが発表した「未来の図書館を作るとは」という文章です。館長在任中に「長尾ヴィジョン」という大胆かつ画期的な「未来の図書館」像を提示した長尾さんが、あらためて幅広い論点から図書館の可能性を論じたこのテキストを若い世代はどう受けとめたか、というところからスタートし、率直かつ真摯な議論が行われました(「マガジン航」編集人が入院中だったため、長尾さんがこの文章を発表した経緯にくわしい李明喜さんに司会をお願いしました)。

この「未来の図書館を作るとは」が達人出版会から電子書籍(無償)として刊行されるのを期に、このときの座談会の内容をウェブで全公開いたします。かなりの長丁場ですので、計三回に分けての掲載になりますが、どうかじっくりお読みください。(以上、Part 1のリード文より転載)

以下、参考までに各回の小見出しを転載いたします。

Part 1 「そもそも本ってなんだろう?」

・どのようなかたちで本に関わってきたか
・長尾真さんの「未来の図書館を作るとは」を読んで
・本とは「生むときに苦しんだもの」のこと

Part 2「図書館にとってパブリックとは?」

・デジタルならではの「生みの苦しみ」
・「場所」のもつ意味
・図書館はどこまでを集めるべきか
・本屋も図書館もない地域
・「知」の体系と「物語」
・「サードプレイス」と「教会」

Part 3「インターネットがあれば図書館はいらない?」

・グーグルは「パブリック」といえるか
・インターネットと「自由」
・「固体」としての知識から、「水」のような知識へ
・紙の本に次のイノベーションはあるか
・「人」と「場所」をどう生かすか
・リファレンスの未来

なお、この座談会では図書館や広義のライブラリー、アーカイブについて考えるうえで参考になる多くの本や電子書籍が言及されていますので、その一覧を以下に示します。

長尾真著、LRG編『未来の図書館を作る』(達人出版会・電子書籍版)
岡本真・仲俣暁生編『ブックビジネス2.0』(実業之日本社)
イアン・F・マクニーリー、ライザ・ウルヴァートン『知はいかにして「再発明」されたか――アレクサンドリア図書館からインターネットまで』(日経BP社)
内沼晋太郎『本の逆襲』(朝日出版社)
ケヴィン・ケリー著、堺屋七左衛門訳『ケヴィン・ケリー著作選集1』(達人出版会)
同『ケヴィン・ケリー著作選集2』(達人出版会)
朴順梨『離島の本屋〜22の島で「本屋」の灯りをともす人々』(ころから)
オレイ・オルデンバーグ著、忠平美幸訳『サードプレイス〜コミュニティの核になる「とぴきり居心地よい場所』(みすず書房)
齋藤純一『公共性』(岩波書店)

また座談会中で話題になっているマイクロ・ライブラリー・サミットについては、以下の本が参考になります。

礒井純充『マイクロ・ライブラリー図鑑−全国に拡がる個人図書館の活動と514のスポット一覧−』(まちライブラリー文庫)

3 インターネットがあれば図書館はいらない?

2014年6月4日
posted by 「マガジン航」編集部

グーグルは「パブリック」といえるか

吉本:もうひとつ、図書館という場所はオープンであるべきか、という問題もあると思うんです。すごくインターネット的ですけど、一つの考え方として「誰でも入れるような場にしておいて、あまりにひどいようなら排除する」というのがある。もう一つが、入場券があってお金を払った人じゃないと入れない、という考え方。そういう意味では、書店もオープンな場所ですよね。

高橋:長尾さんの文章(『未来の図書館を作るとは』)からも「知のユニバーサル・アクセス」というか、図書館への普遍的なアクセスへの志向性が感じられました。

河村:でもそれは、インターネットがすでに実現してる気がするんです。

高橋:え、そうですか? 私はインターネットは全然オープンじゃないと思いますよ。「玄関」までは入れても、その先に行けないプライベート・リポジトリとか、ネットからはアクセスできないところがいろいろある。でも図書館は、建前としてはユニバーサル・アクセスを保証することになっていて、「閲覧も禁止」という特殊な例外を除けば、きちんと手続きさえ踏めば見られます。

河村:そうか、いまの話は「グーグルで検索できないものは、この世に存在しないのと同じ」という感覚とちょっと似てるのかも。僕らのようなオープンソース系の人間は、ふだん世の中にパブリックになっているものを享受しつづけているせいか、他のものの存在をけっこう忘れてしまっている。だから、いま高橋さんに言われて「そうだよな」と思ってハッとしました。

吉本:カーリルの原点はまさにそこの部分なんです。「図書館の本をインターネットに載せる」というのが、カーリルを始めたときのコンセプトでした。

――(司会・李明喜)いまの話はとても大事ですね。カーリルは図書館の蔵書をネット上に拡げ、「オープン」や「ユニバーサル・アクセス」を一部実現したかもしれない。でもインターネット自体がそれを実現したと言えるんでしょうか。

吉本:インターネットがそれを実現しているか、というのはすごく難しい話なので、いったん「パブリック」という話に戻します。たとえばグーグルにとってのパブリックとは、パーマリンクを持っているかどうか、つまりそこにいつでもアクセスできるということだと思うんです。でも、そこまでをパブリックとしてしまっていいのか……。

内沼:カーリルで本を探すと、「その本はこの図書館にありますよ」という情報が出てくる。でも、いまここでその本は見られない。もしもグーグルで検索できるところまでがパブリックなのだとしたら、その本に書いてある中身は、インターネット上ではパブリックだとは言えないし、ツイッターなどの鍵がかけられた場所で起きている議論もパブリックじゃない、という話になります。

河村:たとえば、その鍵はお金を払えば開けられるとしたら、それもパブリックだと言っていいんですか?

内沼:アマゾンで電子書籍を買うのは、「お金を払えば鍵があく」ということと一緒だと思います。

――長尾さんが岡本さんとの対談で仰っていたのは、グーグルはあくまでも私企業なので、もし将来なにかの理由でグーグルがなくなったらアクセスできなくなる。そういうものはパブリックとは言えない、ということでした。

吉本:僕はそこにはちょっと異論があります。グーグルはもう、一種の公共だと言ってしまっていい。向こうにとってはビジネスでも、そこには僕らの求めているものがあるのだから。

河村:むしろグーグルは国の枠を越えているわけだから、ある意味、国以上にパブリックですよね。

吉本:そう、よりパブリックだと思うんです。カーリルも図書館の人からは、「企業がやってるサービスだから続かない」と言われ続けてきたんですよ(笑)。でも僕は、そのところでは図書館の人たちとかなり違う考えをもっています。パブリックを担うのが企業なのか国や地方公共団体やコミュニティなのかは、もうあまり関係ない。企業だからといって好き勝手やっていいわけじゃなくて、パブリックをかたちづくる要素は散在しているんです。

――仮にグーグルという会社がなくなったとしても、グーグルが築いた環境は残ると思います?

吉本:なくなったら、こんどは僕たちが作ればいい。それを再現するための知識も、ライブラリーもすでにある。技術的に「できる」ということがわかっている以上、もはや未踏の道というわけではないんですよ。

河村:もしグーグルがだめになっても、百度(Baidu)をはじめ検索エンジンが他にいくらでもありますからね。

内沼:そう。グーグルが潰れたとしても、検索エンジンがなくなるわけではない。

左から内沼晋太郎さん、高橋征義さん、李明喜さん(司会)、河村奨さん、吉本龍司さん(下北沢オープンソースカフェにて。写真:二ッ屋 絢子)

インターネットと「自由」

河村:ところで、みなさんは普段の生活のなかで公共との接点はありますか? こういうぼんやりした質問をなぜするかというと、私は起業してから10年経つんですが、その間に「公共に関わった」という意識をもったことが皆無なんですよ。公共サービスを利用する機会も多くないし、選挙に行くときだけ突然パブリックと対峙させられて、そのあとまたずっと断絶があって……という。でも、ここでコワーキングスペースを始めたときに、むしろここにパブリックがあるな、という感覚がしたんです。

内沼:そのときの「公共」「パブリック」ってなんでしょうね。そこがまだ、ふわっとしている気がします。さきほど「スターバックスはある種の公共性を含むサードプレイスだ」という話が出ましたけれど(Part2参照)、スタバにはお金を払って入りますよね。そこにコミュニティが存在するようには思えない。じゃあ、スタバはパブリックなんでしょうか?

――コミュニティとパブリックの間というか、先ほど話したとおり「部分的にパブリックな場」ということではないでしょうか。

吉本:マクドナルドは限りなくパブリックに近いかも(笑)。

内沼;そうそう、たとえばそういう話なんです。

――場所の公共性」のような意味でパブリックについて考えるなら、国や地方自治体が運営主体かどうかが一つの基準としてあるでしょう。その意味では、私企業はパブリックの担い手ではない。でも現実的にはコマーシャルな消費の空間で、部分的な公共性を担うようなことが様々な場面で起こっています。たとえばカフェやショッピングモールなどもそうですよね。「公共の場」と「消費の場」の差が曖昧になって、現実では混じりあっているという状況があります。

吉本:だからこそ、図書館の人から「公共性が」と言われると、すごく嘘くさく感じてしまうんですよ(笑)。

内沼:そのときに図書館の方が仰る「公共」というのは何か、ということですよね。たとえば国や自治体は税金を集めて、それを使ってみんなのために何かをする。図書館の本はタダで読めるけど、元をただせば誰かが払っている税金です。その一方で、私企業であるグーグルが限りなく「公共」に近く感じられるのも、彼らのサービスが無料で使えるのは広告収入のおかげで、本来は広告宣伝費として回り回って商品に乗っているのだけど、そのことを利用者が感じにくいからなんでしょうか。

吉本:それはすごく正しいかも。「お金を払ってる感」がない、というのは図書館も同じです。

内沼:税金を払っている自覚のある人からすると、グーグルのほうが図書館よりもずっと「お金を払ってる感」はない。なのに、もちろんグーグルは私企業で、しかもどんどん大きくなっていますよね。ひょっとしたら僕がいちばん「公共」的なものを日常に感じるのは、インターネットを使っているときかもしれません。

――高橋さん、そのあたりはどうですか?

高橋:ちょっと違う話になるかもしれないけれど、「インターネットと公共」という話を聞いていて思ったのが、やっぱり「自由」の問題なんですよ。オープンソース・ソフトウェアという言い方に対して、もうひとつフリー・ソフトウェアという言い方がある。じつは私はフリーソフトウェアイニシアティブ(FSIJ)の会員なんですけど、最近あまりみんなが「自由」って言わなくなっている。インターネットからも自由がなくなりつつあって、ソフトウェアもどんどん自由じゃなくなっている、という話がFSIJでは話されたりしています。

これまではたとえばリナックスで頑張ってデスクトップOSを作ることができていたわけだけど、スマートフォンの時代になったときに、スマホのOSはあんまり自由じゃないとか、最近デバイスでも自由に起動させない仕掛けが入れられたり……というのが一般的になっているんです。そういうなかでネットの自由はどうやって守っていけばいいのか、いや、もう守り切れないのではないか、という感じの暗い話が、私の半径10メートルの狭いところではされている。そういうなかで聞くと、インターネットの明るい可能性みたいな話には、だいぶ違和感がありますね。

吉本:最近、本の書影を撮るためのプログラムを作っていたときに、ロシアの人たちがキヤノンのデジカメをハックしていることを知ったんです。ファームウェアまで全部ハックして解析しているから、デジカメで自由自在になんでもできる。量産型のデジカメで自由にソフトウェアが組める時代が到来していて。これがすごく楽しい(笑)。つまり、限りなくハックは続けないといけない、ということなんだろうと思います。

ただ、それがパブリックとか、オープンにする方向に寄ったところでは、まだされていない。ある程度のところまではできるようになっているんだけど、たとえばiPhoneをジェイルブレイクするのは流行らない、みたいなことがあるわけで。

――インターネットが現実の嫌なところに近づいてきて、高橋さんの仰る「自由がどんどんなくなっている感」もそこから来ている、と。

河村:ただ、現実の方から見たときには、インターネットはまだ全然自由な感じがします。リブライズの文脈から言うと、街の中に埋もれて「クローズ」な状態になっている本棚を救い出して、「オープン」にしたい。そうやってインターネットに現実をくっつけることで、ずっとオープンな世界になるだろうと思っているんですよ。「2ちゃんねる」が始まったときのような自由奔放さは、きっといまのインターネットからは失われてきているんだろうし、あの自由さがこれからまた訪れるのかどうかは、もうわからない感じがありますが。

――「自由さ」と言ったときに、もう一方には「見られない自由」のようなものもあります。たとえばウィキリークスは「弱者にプライバシーを、強者に透明性を」といった理念で活動していますが、そこにはプライベートなものを守るという「見られない自由」も含まれています。しかし、元CIA職員スノーデン氏の告発によって、我々の「見られない自由」が既に失われていることが明らかになったわけです。

河村:そうですね。実はオープンソースでの開発も、オープンソースのコードを入れてしまうと、逆に自由にソフトが作れないというジレンマがある。全部オープンにしなくちゃいけないために、開発における自由度が失われるんです。そこはたぶんトレードオフなんでしょうが、「オープンにしない自由」はつねにあるべきだと思います。

「固体」としての知識から、「水」のような知識へ

――最初のほうで内沼さんが仰った「本」の定義にも関わるんですが、「本」というものを、中身としてであれモノとしてであれ、「単体」としてとらえる考え方があるのに対して、長尾さんが考えている図書館のベースにあるのは、「本は、それ自体よりも大きな知識の一部である」という感覚だと思うんです。だからこそ、そこには「第二のステップ」としてのネットワークが必要だし、さらにその先に、我々の「知」や情報との関わり方として「視点ごとに見えるものが変わるネットワーク」のような壮大な夢を語っておられる。「本」というものを単体として考えていたら、こういう概念にはならないと思うんですよ。

知識はもともとは現実世界、現実の環境にあったもので、それを所有したいという欲望のもとで、「本」として固定化していったわけです。その歴史は木の葉や粘土板から始まり、革やパピルスの時代を経てグーテンベルクの活版印刷術の発明があって、次第にいまのような「本」になった。そうやって知識が固定化されたことには、知識が社会化していく上で大いにメリットがあったし、いまもあるわけです。でも長尾さんはそれとは別の観点から、「知」を固定化された状態からもう一度解放することを提案している。というのも紙の本でネットワークを作ることはすごく難しいし、電子書籍も既存の紙の本を電子化しているだけの状況ではネットワークを完全に作っていくのは難しい。

河村:ネットワークを作るのは、そんなに難しいのかなぁ、という気がします。紙に固定されたものに、リンクのような技術的な意味でのネットワーク性をあとから作ろうとすると大変だけれど、あいだに人が介在すると、あまり難しい感じがしないんですよ。たとえばこの場所には、放っておいてもプログラム関連の人が来て情報交換している。本棚に置いてある本も、面白いといわれる本が勝手に集まってきていて、固定化と収集が成り立ってしまっている。ある意味で、長尾さんの仰る「第二ステップ」と「第三ステップ」の段階に踏み出している。

これは長尾さんがお書きになった文章に出てくるintellectual commonsに相当すると思うんです。そこでは網羅性ではなく、「普遍的にあるものなかから、どういう本を選書してくるのか」という編集能力的なところから図書館が捉えられている。なにかテーマを決めて切り出しさえすれば、あとは人がそこに勝手にリンクしてくれるという意味で、網羅性とは逆であるような気がするんです。

吉本:いまの話を概念的に聞いてると、情報の粒度が「本」という個体より下がってきていて、たとえて言うなら「水」みたいなものになってしまっている気がします。これまでは個体の本に対して、たとえばISBNのようなIDをつけて流通性をよくしよう、というふうに考えられてきたけれど、「水」は液体だから置いておくと混ざっちゃうし、いったん混ざるとそれだけを取り出せない(笑)。知識や情報が個体から液体になってしまうと、図書館のほうでも、こぼれちゃうからそれはうちじゃ無理です、という話になって保存できずにいるわけです。

河村:粒度が細かくなりすぎた情報や「知」を受け止めきれるのは、いまは国立国会図書館しかないのかもしれません。

吉本:あるいはグーグルですね。グーグルは、ある意味で「水」の中から「欲しいもの」を取り出す技術なんです。でも図書館では、あくまでモノとしての「本」でしか知識や情報が流通していかない。アマゾンもその点では図書館に近くて、「水」の部分は扱い切れていない。でも、ツイッターではもっと粒度の細かいものが流れているし、グーグルならそこも全部すくえてしまう。そういう流れで言うと、図書館もこれからは「水」を受け止めるべきなのか、という話だと思います。

――本や図書館の発展の歴史は、もともとは「水」のままでは知識を扱えないから、「本」や「図書館」として固体化する、という手続きだったわけです、でもそれが、いまは技術の発展によって、「水」も扱えるようになってきた、と。

吉本:そうですね。アメリカの議会図書館(LC)が、世界中すべてのツイッターのつぶやきを収蔵しているのも、とりあえず水を貯蔵するタンクを国が設置しました、という話なのかもしれません。

河村:いわゆるダーク・アーカイブですね。実際に使うかどうかはともかく、とりあえずとっておく、という。

――長尾さんの仰るデジタル・アーカイブも、思考の原点は同じだと思うんです。ちなみに、「水に近いような」電子書籍を扱ってる達人出版会さんは、国立国会図書館に納本していますか?

高橋:いや、していません。する予定もないですね。いままではISBNがつけられてる本じゃないと納本できないんですよ、電子書籍に関してはそこをオープンにしましょう、という話になっているんですが、いまは無料の本に限られている。だからうちの電子書籍も、有料のものは納本できないんですよ。

吉本:それなのに、僕の作ったプレゼン資料は無料だから納本義務がある…というヘンな話になってくるわけですよね(笑)。

――有料の電子書籍でも納本できるようになれば、そうしたいですか?

高橋:そうなれば納本することになると思います、たぶん。

河村:いまでも都立の図書館には納本できますよ。郷土資料のようなものにはISBNはつかないので。

吉本:公共図書館の場合は「納本」ではなく、「寄贈」ですね。

――2014年1月から、国立国会図書館が電子化した200万点以上の大規模デジタル化資料が、他の図書館でも閲覧できるようになります(すでに実現。詳細はこの記事を参照)。基本的には著作権保護期間が切れたものが対象ですが、いままでは国立国会図書館の端末でしか見られなかった資料を、地方の公共図書館や大学図書館、それらに準ずる施設でも端末を置けば見られるようにする。まだその程度なのか、という話でもあるのですが、公共図書館にとってはかなり大きな一歩です。その枠のなかにフリーの電子書籍からでも入ってくれば、より広く読んでもらえる場になる気がします。

高橋:でも、もともとインターネットはオープンなので、ネット上に転がしておけば、図書館に入れる必要はあるのかという……。

内沼:そう、そこがやっぱり疑問なんです。

――これはさきほどの東京と地方の違いという話(Part2参照)と近くて、インターネットにしか存在しないと、見られないという人がまだまだたくさんいるんですよ。年配の方だけでなく若い人でも、デジタルネイティブ世代と言われていても、モバイルだけの限定的なインターネット利用ということも多い。そういう人たちにとっては、ただネットに置いてあるだけでは出会うことは難しいです。

吉本:ただ僕は地方にいるからすごく感じるんですが、現実として、人々が物を買う手段はすっかり楽天やアマゾンになっている。他に買う手段がないんですよ。世代に関してもだいぶ様変りしていて、うちの祖父母も70代を過ぎてますが、イー・トレードで株の取引をやっています(笑)。

河村:そのへんは逆に、うちの実家は遅れてますね。買い物は新宿に行けばいいや、と思ってるから(笑)。

内沼:さきほどから何度か同じことを言っているような気がしますが、ネット上にあるものを収集するという流れが向かう方向がよくわからないんです。大事なのは、むしろ「消えてしまうものをアーカイブする」という役割じゃないですか? 放っておくと消えてしまうから、図書館がそれをアーカイブして集めたい、という話ならわかるんです。インターネット・アーカイブの考え方はそうですよね。でも、みんなに見せるために図書館がわざわざ無料のものを集める、インターネット上にあるものまで集めるというのは、ネットにアクセスできない人のためにオープンにする、という話とも違うでしょう?

――それをしなければならない理由の一つは、日本にはアメリカのインターネット・アーカイブに相当するものが、まだ民間にないからですよね。

紙の本に次のイノベーションはあるか

高橋:既存のものを保存・保管・所蔵するアーカイブは大事だ、ということのほかに、長尾さんのテキストには博物館の話が出てきますよね。ある意味で、図書館には「本の博物館」みたいなことが期待されている。つまり「モノとしての本が、その時代にはこういうかたちで使われていたんですよ」ということを未来まで保持しつづける役割までが、図書館に期待されている。それとは別に、モノとしての本は措いて、情報だけでいいから電子で頑張りましょう、という考えもある。この二つは別の次元の話なんですが、図書館の役割として両方とも大事です。

吉本:ところで紙の本には、次のイノベーションがありうるんでしょうか。とくに印刷機とか、ハードウェアの面で。いままでの印刷業のビジネスモデルは、大きな印刷機や製本機を買い、大きな工場で回してきた。でも印刷業自体、コスト感覚がすっかり転換してしまって、ペラの印刷物はパーソナルプリンターでもっと安い値段で作れるから、町の印刷屋さんはもういらない、という話が現実化しています。それに対して本の印刷・製本の現場がどうなっているのかが、あまりよく見えないんです。

高橋:ひとつはプリント・オン・デマンドですよね。

――ただ、プリント・オン・デマンドはある意味、流通の話ですよね。吉本さんが仰るのは、もっと純粋に技術的な革新という話じゃないでしょうか。

吉本:実は最近、韓国で印刷したらすごく安い値段で入ってきて、桁が全然違うんですよ。桁が違うというのはすごく大きくて……。

内沼:日本でも、コストをさげるために本をほとんど中国で印刷・製本している出版社があります。その代わり、制作のスピードを早めてるんですよね。11月に出す本の場合、日本で刷るなら10月に入稿すればいいものを、安く上げたいから8月には入稿して中国に送って、出来上がると船で運ばれてくる。

――いまの話はプリント・オン・デマンドより、技術的にはさらに新しくない(笑)。もともと他の業界ではやられていたオフショア化を出版にも導入しただけの話ですよね。

吉本:でもコストが桁違いに安くなると、開発面でも大きいんですね。たとえばプリント基板を日本でつくると、いままでは20万円必要だったんですよ。それが中国に発注すると、けっこうな数を作っても1万円でできる。そのことが、じつは試作の速度を圧倒的に速めている。大手はそういうことをやらないから、いまだに2カ月かけて50万〜100万も払ってやってるけれど、小さなところはその値段でできるようになると、すごくメリットがあるんです。

河村:個人が動かせる価格帯に落ちてくるかどうかは、とても大きいですね。

内沼:どこまでを「本」と言うかによりますが、コンビニにもあるコピー機でzineをつくってきた人たちが昔からいるわけで、本の場合は個人のレベルでも昔からやられてきたことですね。ちなみに個人が作る本でいちばんすごいのは、「一点もの」なんですが、それを国立国会図書館に納本しろと言われたら、作った人は当然「一冊しかないからいやだ」と言うはずです。

河村:個人がつくるzineや「一点もの」もふくめて、「本はパブリックである」と言えるのか、という問題が残りますね。

――ところで、知識や情報は「パブリックである」と言いやすいけれど、「本はパブリックだ」というのは、どこか言いづらい部分があるのはなぜでしょう?

吉本:「本はパブリックだ」と言われてきたことに根拠があるとしたら、それは量産されていたからですよね。

河村:しかも本がパブリックなものになったのは、歴史的にはまだ比較的に新しい話ですよね。図書館というものが作られたときの時代背景を考えると、本や知識はむしろクローズドなものだったわけです。

「人」と「場所」をどう生かすか

――そろそろ締めくくりに入りたいと思います。皆さんはこれから図書館に対して、どういう関わりをして行きたいですか。なるべく具体的かつ固有の話を順番にうかがえるとありがたいです。

吉本:僕の場合、これからやりたいことははっきりしています。正直に言って、公共図書館は斜陽産業なんですね。いまカーリルがやっているようなことは、この先はなくなっていく仕事だと思っている。そもそも自分自身がそれほど公共図書館を使っていないことからしても、本の貸出返却のような、いまの公共図書館の仕事に対しては、それほど大きな意義を感じていないんです。

ただし図書館には必ず窓口があり、そこには人もいる。そういう「場所」であることを武器として、図書館の人たちは次に何をやっていくのか。僕は図書館についての体系的な知識や技術はもっていないけれど、カーリルを始めたときから図書館の人に応援してもらうなかで、彼らとはいろいろな議論をしてきたから、そこにはとても興味があるんです。

たとえば、かつて炭鉱で働いていた人たちは、炭鉱がなくなったときどうしたのか。これまでの知識や経験を活かして次の仕事ができたのだろうか、という観点で考えてみるといいかもしれない。「生業」ということでいえば、うちの実家も時代の変化とともに家業の業態を変えてきたんです。でもそうした変化が起きること自体はいいことだし、僕らが図書館が変化する場面に立ちあえたら面白い。そのときに「図書館」という名前や場所はまだ残るかもしれないし、あるいはなくなるかもしれませんが。

内沼:それはとてもよくわかる話ですね。

河村:図書館が「場所」として残ったとき、最後に期待されるのは、自由を標榜する「コモンズ」としての機能だと思うんです。個別のお店でやっているかぎりは、いくら「ここはライブラリーだ」といっても、実質はコミュニティどまりになってしまう。少なくとも、こういうカフェのような場所では、「そこでは自由が保証されている」という言い方はしない。だけど公共の図書館ならば、一種のファンタジーかもしれないけれど、コモンズとしての自由を描ける余地が残っている。そこに対してリブライズの側で協力できることがあったら、どんどん支援していきたいんです。

それからもう一つ、公共図書館の蔵書はカーリルが一気にオープンにしてくれたけれど、近所にある小中学校の図書室にどんな蔵書があるかは、外には見えてこない。つまり、まだ電子化されてない「図書館」や「ライブラリー」は無数にあるんです。とくに学校というクローズドな場所を、まわりにいる人たちで見守っていく手段の一つとして、図書館の蔵書をオープンにすることには意味がある。そこの部分もリブライズでやっていきたいですね。

高橋:私は基本的に紙の本が好きなんですが、紙の本の図書館というものにはあまり接点がなかったし、正直に言うと、これから期待するところもあまりない。あと、人にもあまり興味がないんです(笑)。

じゃあ何に興味があるかといえば、アーカイブです。たとえば電子書籍はちょっと前まで、アプリで作っていました。そうしたアプリのなかには、もう動かない「読めない電子書籍」がたくさんある。こういう問題は昔からソフトウェアではあったことだけど、電子書籍の場合、さらにDRMをかけてわざわざ読めないようにしてあって、しかもそれを破ろうとすると刑法にひっかかる。そんな世界でどうやって電子書籍を未来に遺していけるんだろう、と思うんです。

その一方で、電子書籍もウェブページと同じようにどんどん消えていきます。作った本人が消したくて消えていくものもあれば、いつの間にかなくなっていくものもある。それらをどうやってアーカイブしていくか。当分はダーク・アーカイブにしておいて、誰もアクセスできなくてもいいけれど、すごく時間がたったあとで誰かがアクセスしたいと思っても、そもそも存在が知られていなければアクセスできない。だから少なくとも「そこに何かがある」ことはわかるようにしておきたいんです。

図書館にはこれまで100年、1000年の単位で本を遺してきた実績がある。そうした経験は電子書籍にはまったくないわけで、図書館がもっている技術的な蓄積は、紙の本以外のものを遺していく上でもすごく役に立つ気がします。

――紙の本に対して図書館が1000年単位でやってきた経験のなかに、電子書籍のアーカイブが参照すべきことがあるということですか?

高橋:ええ、ないはずがないと思うんです。ただ、いきなり図書館の現場の人を連れてきて、「なんとかしてください」と言ってもダメでしょう(笑)。そのために何が必要なのか、まだよくわからないけれど、図書館がもっている技術や人材とテクノロジーを上手くあわせて行けば、なんとかなる気がします。

河村:図書館に、これまでに出た電子書籍が再生できる完璧なエミュレーターを置けばいいと思うんです。ある世代の電子端末が使えなくなったら、それらを包含するエミュレーターを作る。何十種類かのエミュレーターがあれば、100年前に出た電子書籍であっても、読めるようにするのは技術的には難しくないはずです。

吉本:それはやりたいですね。

内沼:すごくいいと思います。

河村:たとえば、さきほど紹介した少女まんが館の館長は、電子書籍の出版をやっていたこともある人なんですよ。だけど電子書籍は2,3年たつと読めなくなってしまうので嫌になって、最後には少女マンガを紙の本で保存する蔵を建ててしまった(笑)。でも、電子書籍のエミュレーターをつくるとなるとDRMの話が入ってくるし、そもそもiPhoneのエミュレーターを作っていいのか、という微妙な話も出てくる。

実は開発者向けにはアップルからiPhoneのエミュレーターが配られているんですが、それはアップルストアが使えないので、アプリが買えない。したがってインストールもできないし、当然エミュレーションもできない。そうした事態を回避するには、開発者用のエミュレーターとは別に、実機とほぼ同じ動作をするものを図書館向けに作ってもらわないといけない。

任天堂のファミコンやDS、ソニーのプレイステーション用にはオープンなエミュレーターがあって、これらはだいたい実機と同じ動作をするところまできています。でも、電子書籍のエミュレーターはまだみたことがない。Kindleは中身が基本的にリナックスらしいので、エミュレーターが作れないはずはないのですが、Koboとかも含めて、現時点では電子書籍のエミュレーターをつくるはメーカー側の協力がいりますね。

内沼:この完璧なエミュレーターがあれば、どんなデータでもそこに持ってくれば読める、という安心感がありますね。すべてのメーカーに協力を仰がなければならないという意味でも、公共事業に相応しいと感じます。

高橋:もう一つ障害があるとしたらライセンスですね。エミュレーションとは、ようするに通常の商品に与えられているライセンスに則らずに使うということです。電子書籍のコンテンツは単体アプリや、リーダーにダウンロードして読むかたちなどいろいろとあるわけですが、「このコンテンツは正規のビューワーで読んでください、正規のビューワーは正規のIDでログインしてください」というライセンスになっているものを別のやり方で使おうとすると、「その権利をあなたはもっていません」という話になる。だからメーカーだけでなく、アプリを作っている人や、コンテンツの権利を持っている人たちの協力も必要になります。

河村:ネットワークに依存しているタイプの電子書籍の場合、サーバーが落ちていると開けない。

高橋:さらにそのサーバーでDRMの認証をしている場合には、もうやりようがないんですよね。

河村:達人出版会で売ってる電子書籍のように、EPUBやmobiやPDFのようなオープンなデータ形式になっているものは、いつでもエミュレーターできるでしょう?

高橋:うちの電子書籍はDRMがかかっていないので、エミュレーターがなくても大丈夫です。とくにPDFはISOの規格になっているし、公共機関のデータもPDFでつくる方向になってきているので、将来も読めなくなることはなさそうです。

河村:いまの世代のコンピュータがまったく残っていない時代がいつか来ます。そのときのことを考えると、EPUBはまだ怪しい。ブラウザ依存があって、たとえば最新のSafariじゃないと見られなかったり、表示が崩れてしまったりしますから。

内沼:昔のワープロ専用機のフロッピーからデータを救い出すサービスがありますが、そういうことが図書館でできたらとてもいいですよね。全てのデータを集めようという理想よりも、まずはどんなデータでも読めるサービスを提供することのほうが、公共性が高いような気がしてきました。僕が年をとったときに、もう開けなくなった東芝ルポのフロッピーを持っていったら、データを救い出してもらえる……といったことは、図書館がやるべきことの一つという感じがします。

高橋:サービス業者のなかには、自前でコンバーターを作ってるとこがありますね。古いワープロ専用機をちゃんと動くようにメンテナンスしていて、なにかあったときにはそのソフトを使ってコンバートするという。ただ、許可をとれなければ難しいこともあるかもしれませんし、メーカーの協力にも限界があるかもしれません。そういう意味では、ネットワークが発達してなかった頃のほうが障害は少なかったんですよ。ネットワーク認証が前提だと、サーバーが動かないと本当にアウトなので。

河村:ネットワーク越しのものをエミュレートする、もう一つ別のエミュレーターが必要になってしまう(笑)。それに、コンテンツにDRMが付いているかぎりはアーカイブできないんですよね。DRM付きのものは、国立国会図書館が画面を全部スクリーンショットして標準フォーマットにすることを認める、といった合法化の必要がでてきます。

――国立国会図書館の存在意義は、その時代ごとに変わっていくでしょうね。「長尾ヴィジョン」はまだ実現できてはいませんが、国立国会図書館の館長がヴィジョンを打ち出したのは画期的な話でしたし、その結果として、大規模デジタル化資料もできた。いまはまだその段階にとどまっているけれど、電子書籍のアーカイブを実現できる唯一の可能性をもっていることが、国立国会図書館の新たな存在意義という気がします。

リファレンスの未来

――内沼さんからも、これからの図書館とご自身の関わり方について最後にひとことお願いします。

内沼:吉本さんと同じで、一つは図書館にかかわっている「人」が今後どうなるのかで、もう一つが「場所」です。図書館のこれまでの役割が失われても、その建物や場所には、かならず別の役割が残る。これから先、僕が図書館に関わるとしたら、その場所に新たな魅力を付与していったり、その意味を変えていくためのお手伝いをすることになると思います。

たとえば図書館における「選書」という話が長尾さんのテキストに出てきますが、いまの公共図書館では選書や棚づくりがができる部分はとても限定的です。最初のほうで吉本さんが、「図書館では本の置場が場所が決まっていて、面出しするだけでも大変だ」と仰っていた(Part1参照)けれど、それでもみなさん苦労して、図書館でも特集コーナーを作ったりしている。けれどこれからは、B&Bみたいに毎日イベントやる図書館があってもいいかもしれないし、一館一館が地域の魅力を生かした独自のサービスやセレクトをして差別化をはかろうという意思を示していくこともあると思うので、そういったお手伝いをする機会がありそうだと考えています。

――この座談会は、長尾真さんがお書きになった「未来の図書館を作るとは」というテキストを皆さんに読んでいただくところから始めたわけですが、これまでにいろんなご意見が出たとおり、長尾さんご自身も揺れながらも進まれていると感じました。きょうお集りいただいた皆さんは、それぞれ立ち位置は違うわけですが、つながる部分、共有できる部分もあったと思います。また皆さんはすでに「図書館的なもの」――それを「図書館」と呼ぶかどうかは別として――を作っていらっしゃるので、それら同士がネットワーク的に広がっていけばいいと思いました。

最後にひとつ、長尾さんがいまお考えになっていることとして、図書館用のスーパー・レファレンス・エンジンというものがあるんです。図書館にとってレファレンスはとても重要なサービスです。ただ、人の能力だけに依存するようなサービスには、持続性がない。だったら図書館の本のレファレンスに徹底的に特化した人工知能を作れないか。もちろん、それはとても難しい話ですが、ある種の制限を設ければ部分的には可能じゃないか、というんです。

そのヒントになったのが、IBMが作った「ワトソン」です。「ワトソン」が人間のクイズ王を破った直後に長尾さんにお会いしたのですが、すごく悔しがっていらした。そのときは国立国会図書館長になられた後だったので、ご自身で挑戦できないのが歯がゆい、でもいつかそういう強い人工知能を作りたいと仰った。だったら、その人工知能を、図書館のレファレンスに特化したものとして作れないか、ということで、まだちょっと妄想的な部分もあるんですが、長期的なプロジェクトとしてやってみたいと思っています。

河村:私にとって、いまはフェイスブックとこの場所がレファレンス・サービスみたいなものなんです。知りたいことを投下すると、誰かが答えてくれることが多くて、そこそこ「集合知」が機能する状態にはなっている。

内沼:それは、すごくいいレファレンス・エンジンを作るのと、フェイスブックのようなSNSに問いを投下するのとでは、どちらのほうがいい答えが返ってくるか、という話ですよね。

河村:フェイスブックやこのカフェがそこそこレファレンスの機能を果たしてくれるのは、もちろん特殊な話題の場合であって、普遍化できることかどうかはわからない。いわゆる「強い人工知能と弱い人工知能」の問題でいうと、レファレンスのためにはやはり「強い人工知能」がいるのかもしれない。そのあたりはいつも気になっているんです。

内沼:図書館の現場でレファレンスをしている人同志は、つながってないんですか? 「強い人工知能」を否定する気はないんですが、レファレンス業務をしている人間が何万人もいるとしたら、単純にその人たち全員をSNSでつなげて、「こんな質問がきたんですけれど」と書きこんだら、すぐに誰かが返してくれるようになるのが、いちばん早いように思うんです。

河村:仮にレファレンスの司書さんが数万人いるとしたら、クラスターごとに100人ずつ程度にわけて、その人たちを専門分野やテーマごとに勝手に分類する部分は「弱い人工知能」がやっていけばいい。

内沼:この人だったら、このテーマはわかりそう、というところを人工知能がやるわけですね。

――既存のSNSの中でそれをやってもいいけれど、「これはレファレンスのみで成り立っています」という専用のSNSを作ったほうがわかりやすいかもしれないですね。

内沼:それがあれば、日本中のどの図書館に行っても、一定レベルのレファレンス・サービスが受けられるようになりますね。

河村:かつ、それぞれの司書さんが自分の強い分野を明確にもつことにも意味がでてきます。

内沼:ただ、それがインターネットで公開されてしまったら、図書館にわざわざ行く理由はなくなりますね(笑)。

河村:この仕組みが作れたら、たぶんそれこそが「パブリック」なんですよ。

――「電子書籍のエミュレーター」と「レファレンス専用SNS」という、具体的にこれから作れるものが二つも見つかったので、これを各々の環境で、時には集まって、実装に向かえるといいですね。座談会の続編ということに限らず、この座談会の続きがどのように展開していくのか、とても楽しみです。今日は長い時間、 皆さんありがとうございました。

(編集協力:伊達 文)

ハイブリッド・リーディングは読書の未来?

2014年6月3日
posted by 荒木優太

2014年5月24・25日に日本記号学会の第34回大会が東京大学駒場キャンパスにて行なわれた。特集は「ハイブリッド・リーディング――紙と電子の融合がもたらす〈新しい文字学〉の地平」。日本のブックデザインを牽引してきた杉浦康平、デリダ『グラマトロジーについて』の韓国語訳者で有名なキム・ソンド、フランスの哲学者であるベルナール・スティグレールなど、豪華なゲストを迎えて、デジタル時代の読み/書きの変容をふくめた新たな文字学=グラマトロジー(grammatologie)の展開を多角的に問い直す意欲的な企画である。大会進行の断片的なメモはここにまとめてみた

記憶の外在化

とりわけ、私にとって一番の取っ掛りになったのは、ベルナール・スティグレールが登壇するということだった。『技術と時間』『象徴の貧困』など日本でも多数の翻訳があるスティグレールは、かつて銀行強盗をして投獄され、獄中で哲学を勉強し、その後ジャック・デリダに師事して博士論文を書き上げたという異色の経歴をもった気鋭の哲学者だ。彼が取り扱う中心的なテーマは《技術と哲学の関係を問い直すこと》であり、人間が操る最も初歩的な技術としての「文字」を考察している点で、今回招聘されていたようだった。

難解なスティグレールの発表を要約することは難しいが、キーワードを拾ってみることはできる。彼の鍵語の一つは「外在化」である。私たち一人ひとりは日々異なる仕方で世界を知覚し、また記憶する。それは極めて個体的なもので、その個体が死ねば記憶は永遠に失われてしまう。しかしながら、人間は文字を発明し、人工的な記憶/記録媒体(メディア)を構築することで、時代を経てもなお持続する個体間の記憶のシェアリングを可能にしてきた。個体の記憶は、物質的な技術を介して、コミュニティの記憶に参加する。正に記憶を物質的に「外在化」させることで人間は、文化や学問を確立させてきたのだ。

では、その「外在化」の方法が変わるとすれば、それは間接的に文化や学問の変容を意味するのではないか? 活版印刷された文字が並ぶ一冊の本を読む代わりに、画像データや音声データが内蔵されたテクストをiPadで読むとしたら? 書架が並列して膨大な数の本を蔵書する図書館が、少しのキータッチで図書データを検索して中身も閲覧できるデジタル図書館に変わったとしたら? 愛用の万年筆と原稿用紙で手紙を書く代わりに、声を文字データに変換する高性能な音声認識ソフトがあったとしたら? 技術の変化は、単なるツール(道具)の交代以上に、知識や学問の構造そのものの変化をも予告するのではないか。

つまり、ハイブリッド・リーディングとは、近代が前提としていた読書形態、とりわけ《一人の作者によって書かれた一冊の紙の本を一人の読者が独りで読む》を相対化した次元で、なおポジティヴに構想しうる新時代の読書法のことなのである。

書き込みコレクション

さて、しかしながらこう記してみたものの、私などはこういったハイブリッド・リーディング構想には新しさというよりも若干の既視感、というより、長年経験してきた慣れ親しみを他方で感じてしまうことも確かだ。端的にいうと、「そもそも読書法って本来的にハイブリッドなんじゃないの?」というわけだ。

たとえば、私はよく古本屋に行くのだが、そこでついつい購入してしまうのが、前所有者による、傍線や(大体が独自の注釈や解釈や備忘録である)書き込みが書かれている書物だ。だから私の家には何故か有島武郎の角川文庫版『カインの末裔』(昭44・10)が二冊もある。

書き込みのある有島武郎『カインの末裔』の文庫本(クリックで拡大)

それらの断片的な言葉は、しばしば本文の内容以上に読んでいて興味深い。もちろん、その断片語は学問的には正しくなかったり、正確でなかったりする。きちんと判読できないケースも多々ある。けれども、その痕跡に示された過去の読書を追体験することで、「本文を読む」と同時に「本文を読む者を読む」という、二重の読書を楽しむことができる。

例えばニーチェ『道徳の系譜学』(中山元訳、光文社古典新訳文庫、2009・6)。アフォリズムが得意なニーチェには珍しく、キリスト教批判を論文調で書き記した古典であるが、その根本的な発想である「ルサンチマン」を「勝負せずに勝つ」と要約されると、天才ニーチェの意気込みが一気にコミカルなものになるから不思議だ。

同じくニーチェ『道徳の系譜額』(クリックで拡大)

例えばマルクス+エンゲルス『共産党宣言』(大内兵衛+向坂逸郎訳、岩波文庫、1971・2)。結婚制度の廃止を謳い、ブルジョワ男性は実のところ、妻を公娼同然の扱いにしているという箇所(p.71)の下には「自分の好きな男が他の女とやってたらやっぱ嫌だよー」という当たっているんだか外れてるんだかよく分からない丸文字のツッコミが入って、爆笑する。

同じくマルクス+エンゲルス『共産党宣言』(クリックで拡大)

このような過去の読書の痕跡は、本文にとっては付随的・偶然的、つまり非本質的なものでしかない。しかし、それら痕跡を本文と二重に追いかけることで読書は拡張され、読み方に深さと奥行きを与える。古沢和宏『痕跡本のすすめ』(太田出版、2012)がいうように、その痕跡には「前の持ち主と本を巡る、世界でたったひとつだけの物語」がある。

実のところ、この拡張は本が潜在的にもっていた「ハイブリッド」性に由来しているのではないか。本の物質性は、インクや手垢や湿気や折込の跡を記憶してしまう。物質を介して、つまり物質に「外在化」させることで、それら二次情報は次の読者へ伝わり、それが繰り返されることで、本を手にとったN代目の読者の眼前には、誰も意図しなかった共同読書が、仮想的な読書会の空間が広がるのだ。

実際、大会のなかで阿部卓也は「東京大学新図書館計画」を紹介していたが、その一環として、従来の図書館が担ってきた知のアーカイヴ機能を拡張し、電子書籍を用いて本への傍線や書き込みをメンバー同士で共有・保存する取り組みが紹介されていた。それは昔から古本屋を媒介に読者たちの間で交わされていた、(ここが大事だが)暗黙のコミュニティ/コミュニケーションの可視化と言い換えることができるのではないか。

研究とはハイブリッド・リーディングである

さらにいってみるならば、文系研究者が日常的に行っている研究行為も根本的に「ハイブリッド・リーディング」であるようにみえる。研究者は論文を書くさい、複数の本や資料を広げて、様々な種類の言説を渉猟し、それらをリミックスして自分の言葉として再構成する。紙の文字だけが資料であるとは限らない。映像や音楽や絵画など、対象によっては参照すべき媒体は多岐に渡る。学的対象の異種混成性を探求しようとするとき、自然、人は「ハイブリッド・リーディング」に臨まざるをえない。

研究者は本を読むために本を読む。とりわけて特徴的なのが、先行研究と呼ばれる参考文献の存在だ。自分の専門(近代日本文学)に引きつけていえば、研究とは、ある文学作品が研究史においてどのように読まれてきたかを調査するところから始まる(当然、この行為に対する熱意は論者によって振れ幅があるが)。夏目漱石など、研究蓄積の多い領域では、研究史の変遷そのものが研究対象となる場合さえある。

傾向的にいえば、先行論を参照してない論文は正規のものとして認められにくい。このプロセスで私がよくアナロジックに感じるのはユダヤの教典「タルムード」である。タルムードは「ラビ」と呼ばれる指導者/学者の口伝律法を書き記したものだが、それは同時に注解本でもある。つまり、頁中央に位置する「ミシュナ」と呼ばれる大切な教えに対して、ラビたちはその解釈や反論や議論を書き込こみ(これを「ゲマラ」という)、さらにその解釈の解釈を後年のラビたちが書くことで時を隔てて螺旋状に延長していく。それ故、タルムードは原理的には無限増殖するテクストといえる。書き終わらないテクスト、読み終わらないテクスト。リンク機能によって無限の読書を要求するハイパーテキストの概念を先取りしている。

ここで重要なのは、たとえ先行する解釈が間違っていたとしても、それを消去することはできず、新たなる解釈者はその解釈を踏んで解釈せねばならないという点だ。言い換えれば、間違いもまた財産として保存せねばならない。タルムードとは元々「学び」という意味だが、正にこの精神は学問全般に通じる学習態度であるように思われる。研究者とは、正しいテクストだけでなく、間違えたテクストさえ参照し「ハイブリッド」に読み込む者のことだ。

薬として使うために

もちろん、こういうことを述べたからといって、これから先に起こる全ての技術的変化は単なる過去の焼き直しに過ぎないと主張したいわけではない。端的に、デジタル時代における検索力の増大は、今まで費やしていた時間や労力のショートカットを期待できるし、インターネット環境の充実は、「ハイブリッド」の具体性をより身近なものとして実感させるだろう(例えば「ニコニコ動画」の文字と映像の「ハイブリッド」性)。そこから新たな局面が生れることは確実だ。

しかしながら、これから先に書物の最先端で巻き起こるだろうセンセーショナルな(と感じられる)報告は、どれも「温故知新」の問題として捉えることができるはずだ。大会の登壇者であった東京大学教授・石田英敬は「遠くに飛ぶためには、長い助走が必要だ」と言って、デジタル時代の読書・読字行為のためには時代を遡って(ライプニッツやロックやフロイトといった)古典を考え直さなければならないと主張していた。つまり、どんなラディカルな変化も時代を完全に切断することはなく、いままで培ってきた暗黙の知恵を見直すことで、新しいツールを効果的に使いこなす可能性が切り拓けていくのだ。

スティグレールは「ファルマコン(pharmakon)」という言葉をしきりに使っていた。これは英語pharmacyの語源となった言葉で、薬を意味すると同時に毒をも意味する。ドラッグがそうであるように、薬は時と場合によって毒として機能してしまう。薬/毒、この二重性を示しているのが「ファルマコン」だ。そして、スティグレールは諸々の技術がもつ「ファルマコン」性に言及し、それを毒性ではなく薬性として活用していかねばならないと述べていた。

どういうことか。プラトンは人間は文字を覚えたから記憶力が衰えてダメになったと言った(『パイドロス』)。現代人ならば「最近ケータイの変換機能に頼ってばっかりだから、漢字が全然書けないよ」とでも言うだろうし、日本の有名な映画監督ならばiPadを操作する姿は「自慰行為」のようだとでも言うだろう(人間は同じようなことばかり言っている)。しかし、たとえばパソコンの変換機能は同時に、自分の語彙にはなかったような沢山の同音異義語を知るきっかけをスペースキーひとつで与えてくれる。パソコンは毒であると同時に薬である。そして、今後出現する(一見いかがわしい)技術的対象も、当然のことながら両義的な「ファルマコン」として存在し続けるだろう。

過剰な畏怖も心酔も要らない。未来の「ファルマコン」は、古本屋で書き込みされた本をわざわざ購入したり、様々な資料を一堂に並べ虫食い的に読み比べていくような、私たちが昔から行ってきたような世界と地続きのものとして成立しているからだ。だから未知の技術的対象をポジティヴに薬として使っていくためには、いままで使用してきた過去の「ファルマコン」の特徴や性質に精通している薬剤師が必要で、それは私たち一人ひとりが担うべき役割だといって過言ではない。

未来が未だ到来しないものであるのだとしたら、それに似ているのは唯一、既に過ぎ去ってしまった過去だけである。きっと、過去を捉え直す力だけが未来を切り拓く方法なのだ。

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アマゾンは天使でも悪魔でもない

2014年5月27日
posted by 大原ケイ

……そして意地悪をしているわけでもない。寡占市場のリーダーとしてやるべきことをやっているだけ、だから恐いのだという話。

米アマゾンと大手出版社のアシェット(Hachette Book Group)のあいだで本の仕入れ値をめぐって交渉が難航、今月に入ってからアマゾンは、アシェットの本をトップページのキャンペーンから外したり、類似書の推薦欄に他社の本を表示したり、買おうとすると「入荷は3〜5週間先」という表示になったり、これから出る新刊本が予約できなくなったり……という措置に出た。どう見ても露骨なイジメに見えるわな。

とりあえず「七掛け」(もちろん出版社によって率は異なるが)で取次に好きなだけ本を卸せる日本と違って、アメリカではどこの出版社もこうやって書店や量販店を相手に、定期的に卸値のディスカウント率(日本で言う「掛け値」)を決めるのだが、アマゾンが出現する前はもう少しのんびりしていた。5年契約とかは普通だったし、ベイカー&テイラーやイングラムといった大手取次でも、ディスカウント率はどんなに上げても50%までは行かない感じだった。

1998年にバーンズ&ノーブルが「うちは大手なんだから、他より安く仕入れさせてよ」と出版社に持ちかけたとき、これを聞きつけたインディペンデント系書店が全米書店協会(ABA)を通して、独禁法のひとつ、ロビンソン=パットマン法に反すると訴え、和解した経緯もある。その後は仕入れる冊数によってディスカウント率は変えられても、大手だから優遇するのはアウト、となった。

だけど、アマゾンはその仕入れ冊数にモノを言わせて、無理難題をふっかけてくる。交渉のたびに「ほら、うちは前回、おたくとお話したときからシェア率もどんどん上がって、いまじゃ、おたくの本をこんなに捌いているんですよ〜。さらにアマゾンのホームページで値段を下げてキャンペーンすると、こ〜んなにピョーンと売上が伸びるんですよ〜」とデータを見せながら迫ってくるわけだ。しかもその期間がだんだん短くなって、いまは2年ごとにやってくる感じ。

出版社の交渉窓口の人にとって、シアトルからやってくるアマゾン部隊という相手はいちばんたくさんの本を売ってくれる天使さまでもあり、ディスカウント率でギリギリと締めてくる悪魔でもあるだろう。

アマゾンとアシェットは何をめぐって争っているのか

ふだん、こういう交渉の話はめったに表に出てこない。それもそのはず、どこの出版社も卸し値に関しては、社外に具体的に数字を出すのは御法度。営業やセールス部門の従業員を雇う際には、きっちり契約書で「言ってはならぬ」という項目が入っているくらいだから。

前に「アマゾンが購入ボタンを消した」云々の騒ぎがあったのは2010年のこと。これはアップルがiBookstoreの準備をしているタイミングで、マクミランがアマゾンにも同じエージェンシーモデルでEブックを卸す交渉をしており、それが決裂したときのエピソードだったことが、後になってわかった(そのときのことは「マガジン航」の記事〈「マクミラン対アマゾン、バトルの顛末」〉や拙ブログに書いた)。

結局このときは、「ビッグ5」と呼ばれる(最大手ランダムハウスを除く)大手出版社5社が、Eブックの卸値のことでアップルといっしょに談合していた、という司法省の言い分が通り、出版社はみんな和解を余儀なくされた(この裁判に関する記事は拙ブログのこの記事に詳しく書いた)。このときの和解条件のひとつに、「向こう2年はエージェンシーモデルでEブックを卸すことを禁じる」という項目があった。

そろそろ、あれから2年が経とうとしている。だから今回アマゾンは、現行のホールセラー・モデルの有利な卸し値条件で、なるべく長い間、契約更新をしておきたいわけ。そうすれば、少なくともその契約が有効な間はアシェットの本をいままでどおり、アマゾン側が好き勝手に安売りできるから。

もう一つの可能性として、アマゾンがこれからエージェンシー・モデルに切り替えてEブックを売るにあたって、「アップルや他の業者が採用している30%という取り分より多くしろ」と迫っている可能性もある。とくにアシェットは紙に対してEブックの比率が半分以上に達する著者を多く抱えており、Eブックの売上げが平均で三割を超えていると言われている。

アシェットはこの秋から、またアップルとエージェンシーモデルで契約が結べるようになる。けれども、それまでにアップルがアマゾンに対抗してディスカウント攻勢をかけて、シェアを奪おうと思えばできる(ジョブズはEブックをアマゾンみたいに安く叩き売りすることには反対だったから、アップルがそうするとは思えないが)というのも、アマゾンが焦っている原因の一つだろう。ようするに、「うちにもアップルと同じ値段で安売りできる権利を与えろ」と迫っているものと思われる。

アシェットとアマゾンのこの交渉が、この先いつ、どんな卸し値で決着がつくのかは、まだわからない。だが、これ以上ネガティブなニュースになるのはアマゾンにとってもよろしくないし、アシェットも背に腹は代えられないので、交渉は続けながらもアマゾンが購入ボタンを元に戻すこともありえる。

このバトルに気づいたバーンズ&ノーブルやブックス・ア・ミリオンといったチェーン店や、インディペンデント書店がここぞとばかりに「アシェットの本なら、うちでいますぐ買えますよ」キャンペーンを始めているのだから。

今回の件は、日本でも「対岸の火事」ではいられないだろう(それどころか、自らアマゾンの学生向けポイントサービスへの抵抗措置として出荷停止するのはいかがなものか)。米司法省さえも味方につけるほどロビー力もあるアマゾンのやり方を改めるには、それこそフランスのように政府が動いて法改正をするか、アマゾンのユーザー側が要求でもしない限り、ムリなのだ。

というわけで、以下はアメリカ発のニュースで見かけた「それはちょっと違うんじゃないの?」という点と、アメリカ以外(おもに欧州)の動向だ。

あのアマゾン本はアシェット傘下のリトル・ブラウンから刊行。でも今回は無関係?

・ジェフ・ベゾスはアシェット傘下のリトル・ブラウンから出たブラッド・ストーン著のThe Everything Store(邦題:『ジェフ・ベゾス 果てなき野望』)の販売をジャマしようとしている。

この本が出たのは昨年10月だし、ベゾスはブラッド・ストーンに取材を許可し、自ら質問に答え、プライベートなことも語っている。アマゾンに都合が悪いことも書かれているだろうけど、アマゾンが本気でこの本の刊行を阻止しようと思えば、もっと早い時期からいくらでもできることがあった。「細かいところが間違ってるし〜」とベゾスの奥様がアマゾンレビューを付けた、というエピソードがあるくらいで、この本がアシェットから出ていることは関係ない。

・株主に対し、少しでも利率を上げて黒字を出さなければいけないのでアマゾンが焦っている。

これも関係ない。アマゾンの総売上に対する本(紙、Eブック含む)の売上はたった7%ぐらい。しかもここ数日、アマゾンの株価は上がっている。

・アシェットの親会社がフランスのラガルデール(Lagardère)というメディア・コングロマリット(昔はタイムワーナー・ブックスだったところ)であることも交渉膠着に関係しているかも

フランスでもアマゾンは開店当時から本の安売り攻勢をしかけて、マーケットシェアを取ろうとしてきた。けれどもフランス政府が「ディスカウント率は5%まで、送料無料にするのはダメ」と規制に乗り出した。社会主義色が強いフランスは、自由市場がナンボのもんじゃい、とアマゾンを敵視して戦う気まんまんなのだ。

・ドイツのアマゾンでは、労働条件向上を求めて労組が二つの流通倉庫で終日ストライキをやっている。

Piper や Carlsen などを傘下に抱えるドイツの Bonnier(親会社はスウェーデン)も、アシェットと同じような嫌がらせを受けていると報じられている。

・その一方で、アメリカの出版業界には「打倒アマゾン」Tシャツを着たりする出版社はないし、来週のブックエキスポ(BEA)で出会う人々に「アマゾンのことをどう思っているか?」と聞いても、無難な答えが返ってくるだけだろう。

こちらで表だってアマゾンの悪口を言いまくれるのは、インディペンデント系書店と、売上をアマゾンに頼らないニッチな出版社ぐらい。その一人がメルヴィル・ハウスのデニス・ジョンソンなので、胸のすくような辛口意見が読みたければ彼のブログへどうぞ。

今回のことをどう報道するかなぁ、といちばん興味深く私が見守っていたのは、ジェフ・ベゾスがオーナーとなったワシントン・ポスト紙だった。だけど結局、この程度の記事が出ているだけで、ベゾスやアマゾン幹部のコメントはとれていない模様。

というわけで、最後にキャンディーズのこの曲の替え歌を。

♪アマゾンは あくま
お客を とりこにする
やすうり悪魔
リアルの書店に アマゾンの影が映ったら
お客の足はもう動けない
すべての店は やがてひとつの
プライムアカウント〜。

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国立国会図書館の電子情報部に話を聞いてみた

2014年5月22日
posted by 鷹野 凌

4月21日に、国立国会図書館のデジタル化資料を活用した「NDL所蔵古書POD」が、インプレスR&Dから発表されました。実はこのニュースを受けて、変電社の持田泰さんとFacebook上で議論になりました。持田さんが、このインプレスR&DのNDL所蔵古書PODのように「変電社文庫」を作ってみたいが、国立国会図書館とどうやって話を付ければいいのだろう? という投稿をしており、そこへ私が「パブリック・ドメインなら許諾不要では?」とコメントしたのが議論の発端でした。

実は当時、国立国会図書館のデジタル化資料を利用するには、パブリック・ドメインの作品でも転載依頼フォームからの申し込みが必要でした。私は「それってパブリック・ドメインの意味がない」という意見、持田さんは「でもそういうルールになっているのだから、煩雑であろうとちゃんと申し込みは必要だ」「外部からの妙な抗議で、せっかく公開したデータがまた非公開になってしまうのも困る」という意見。結局この時の会話は平行線のまま、なんとなく終了しました。

その10日後、「国立国会図書館ウェブサイトのコンテンツのうち、著作権保護期間を満了と明示している画像については、転載依頼フォームからのお申込みが不要となりました」というお知らせが出たのを見つけ、慌てて持田さんにFacebookで連絡をしました。なんという急展開。「よし、こうなったら取材だ!」ということで、国立国会図書館へ取材に行ってきました。

申し込みを不要とした経緯は

さっそく、転載依頼フォームからの申込みが不要になった経緯をお伺いしました。そもそも申し込みを必要としてきたのは、ユーザーが誤解して利用するリスクを軽減することが目的だったそうで、デジタル化を開始したころからずっと「不要ではないか」という議論もしてきたとのこと。政府のオープンデータ化の方針もあり、サイトポリシーに十分な説明と注意事項を掲載することでユーザーが誤解しないようにすれば手続き不要にしてもいいだろうという判断から、申し込み不要に切り替えたそうです。ちなみに2013年度には約6000件の申し込みがあったそうです。

念のためと思い確認をしたのですが、(保護期間満了)と表示されたパブリック・ドメインの資料の二次利用は、商業目的であろうと許諾は不要とのことでした。つまり、インプレスR&Dの「NDL所蔵古書POD」や、『エロエロ草紙[Kindle/iBooks/楽天kobo版]』のようなビジネスを目的とした利用であろうと、誰でも自由に無許諾で行えるということになります。もっとも、著作者人格権は保護期間満了後も消滅しないため、公表権、氏名表示権、同一性保持権を侵害しないよう注意する必要はあります。

なお、「国立国会図書館デジタルコレクション」や「近代デジタルライブラリー」で(保護期間満了)と表示されている資料は、国立国会図書館自身が保護期間満了を確認したものに限られています。そのため、「図書館向けデジタル化資料送信サービス(通称、図書館送信)」や国立国会図書館館内限定閲覧になっている作品に、「こりゃどう考えてもパブリック・ドメインだろ」というのが混ざっている場合があります。そういう作品の二次利用は「ご自身の責任において行ってください」とのことでした。

また、権利者の許諾に基づき公開されている資料や、権利者不明として「文化庁長官裁定」に基づき公開されている資料は、パブリック・ドメインの資料とは扱いが異なり、第三者が利用したい場合には権利者を自分で探して自分で許可を得たり、権利者不明であることを疎明して裁定を受けたりする必要があるそうです。ただ、複数の著者が存在する本の場合、一部がパブリック・ドメインになっている場合もあるので、分からない場合は転載依頼フォームから申し込んでほしいとのことでした。

限定公開資料の画像提供や録音資料のデジタル化も

今後の予定について尋ねてみたところ、館内・図書館送信限定公開資料の画像提供や、録音資料のデジタル化に取り組みたいとのことでした。館内・図書館送信限定公開資料の画像は、利用者側が権利処理を行うことが前提となりますが、絶版本の復刻をする際の元データとしての利用が想定されていて、現在、使用料の要否も含めて検討中とのことです。図書館送信の利用統計は公開されているので、閲覧数の多い本の復刻といった活用方法が考えられるでしょう。

また、現在「歴史的音源(れきおん)」で公開されている音源は歴史的音盤アーカイブ推進協議会(HiRAC)によって主に国内の主要なレコード会社に残っていたSP盤がデジタル化されたものであり、国立国会図書館自身が所蔵しているカセットテープなどの録音資料はまだデジタル化できていないそうです。2009年度と2010年度の大型補正予算計137億円で大規模デジタル化が図られたものの、2013年度のデジタル化関連予算は約2300万円とかなり厳しい状況になっています。2012年度国家予算は一般会計90兆3339億円、そのうち文化庁予算はたったの1020億円。諸外国と比べ、日本の文化予算はやや低めだということは指摘しておかねばならないでしょう。

※出典:ともに野村総合研究所「諸外国の文化政策に関する調査研究報告書」

国立国会図書館ウェブサイトのインターフェイスも、たとえば歴史的音源(れきおん)はAdobe Flashを使っているので、モバイル端末からの利用が困難です。ただ、HiRACとの契約がストリーミング再生を条件としているため、サービスを構築した時点で広く普及しており比較的安価に提供できる手段として、Adobe Flashを選んだそうです。当然、システム改修には予算が必要なので、こういった改修も「順次」行っていくしかないのが実情です。

たとえば、大英図書館がFlickrを利用して数百万点の画像を公開しているように(上図)、国立国会図書館も外部のサービスを利用する、という手段も考えられなくはないでしょう。ただ、特定サービスの決め打ちは公正性や透明性の観点から問題があり、仮にやるとしたら公募のかたちなどが考えられるだろう、とのことでした。逆に、Googleのような企業が勝手にクロールして画像データを持っていく可能性もありますが、インターネット上で公開している以上、それは防ぎようがないとのことでした。

TPP交渉の行方と著作権

ちょうどいまTPP交渉が行われ、知財分野では著作権保護期間を死後70年へ延長で合意するのではないかという観測報道が流れました。死後70年へ延長するだけではなく、遡及適用されるのではないかという報道までありました。仮に保護期間が延長され、さらに遡及適用されると、現時点で国立国会図書館ウェブサイトで(保護期間満了)となっている資料の一部が、館内限定公開に逆戻りしてしまいます。

もし遡及適用がなかったとしても、新たにパブリック・ドメインになる作家が登場しない20年間を過ごすことになります。また、今でも問題になっている孤児作品(オーファン・ワークス)問題が、もっと酷い状況になってしまうでしょう。TPPは自由貿易協定のはずなのに、なぜか知財分野はアメリカの意向により、規制を強化する方向へ進もうとしています。最近の報道や国立国会図書館への取材を通じて、こういったおかしな話にはきっちり「おかしい!」という声を上げていかなければならないという思いを強くしました。

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