第3回 これからの図書館、公共施設づくりと地域デザイン

2017年12月22日
posted by 李 明喜

地域デザインを取り巻く環境

第1回目の連載「図書館におけるデザインとは何か?」でも書いたとおり、際限なく広がっていくようにみえるデザインの領域は、産業化の流れによって定義づけされた、デザインする対象の違いによる区分であった。これから書く「地域デザイン」は、それらの産業構造による区分とは少し違う。「地域デザイン」という言葉は近年、耳にすることが多くなったが、その言葉自体はかなり古くからあった。

CiNiiで「地域デザイン」「出版年:古い順」で検索すると、『地域デザイン論』(山岸政雄)という1987年の論文が出てくる。この論文(オープンアクセス)を読んでみると、都市景観やまちなみとしての造形という観点から「地域デザイン」という言葉が使われている。この時点での「地域デザイン」はあくまでも地域における「都市デザイン」「建築デザイン」に限定したものを対象としており、それは我々がいま地域デザインという言葉から思い浮かべるイメージの一部に過ぎない。2000年代中頃まで、同様の文脈の中で使われることが主であったと思われる。

2017年のいま、「地域デザイン」という言葉はさまざまな場面に広がっている。都市計画においては造形の話だけではなく、地域特有の課題解決のための大小さまざまなまちづくりの政策へと展開し、地域ブランドにおいては特産品の質による差別化だけではなく、特産品の背景にあるストーリーやパッケージなどの意匠性による差別化へと注目のポイントが広がっている。「地域メディア」は地理的な範囲としての地域の人々のつながりから、地域を超えたコミュニティのつながりにまで広がり、「ローカルメディア」とも呼ばれるようになった。

またアートの領域でも、「アートプロジェクト(地域アート)」が地域振興の切り札として日本各地で盛んに行われ、観光資源としてまちに根づいたり、コミュニティの形成に効果をもたらしているケースも生まれているが、これも社会的課題へのアートによるアプローチということで「ソーシャルデザイン」であり「地域デザイン」であるとも言える。

このように多様な「地域デザイン」であるが、まずは地域資源を見つけ出し、そしてその可能性を引き出す、というかたちが基本となる。「地域デザイン」という言葉がいまのように日常的に使われるようになる以前から、地域資源の可能性を引き出し、光を与えるクリエイターたちがいる。

そのひとりが、1980年代から高知を拠点に、一次産業とデザインをかけ合わせて新しい価値をつくり続けてきたグラフィック・デザイナー、梅原真だ。かつおを藁で焼く土佐伝統の製法による《一本釣り・藁焼き鰹たたき》や、同じく高知県の砂浜しかない町で、その「砂浜」を美術館に見立てた《砂浜美術館》のデザインによって知られている。梅原はその土地の力を引き出し、生業のスイッチを入れ、そこに生業が生まれることで地域の風景を持続させ、地域の風景をつくり出している。

もうひとり、地域に光を与えるクリエイターとして知られているのがナガオカケンメイ。2000年に設立された《D&DEPARTMENT PROJECT(ディアンドデパートメントプロジェクト)》というプロジェクトで、「ロングライフ」をテーマに、47都道府県に一ヶ所ずつ拠点をつくりながら、「息の長い、その土地らしいデザイン」を紹介している。梅原の「持続する風景」、ナガオカの「ロングライフ」、いずれも「持続する」ことを大きなテーマとして取り組み、実際にプロジェクトを持続させていることが、多くのほかのクリエイターやプロジェクトとは一線を画する。

一方、地域再生の名の下で、これまでさまざまな政策が行われてきた。経済学者、飯田泰之は『地域再生の失敗学』(光文社新書、2016年)の中で、従来型の地域再生政策の多くは失敗であり、これを認めることが地域再生を考える出発点になると書いている。そして、大規模なインフラ整備による経済政策が実効性をもたない現在、アイデアの総生産量を減少させないために人口密集地を維持することこそが地域再生のために必要であるとも述べているが、この地域再生における戦術の変更は、ただ政策を立てるのではなく、どのように政策を立てるのか、どれだけアイデアのバリエーションをもてるかということにおいて、まさにデザインが要請されるのではないか。

「デザインを経営の中核に」とか「デザイン思考で誰もがデザイナー」といった、デザイン側における無節操な領域の拡張と、社会の側からのデザインへの過度な期待の高まりという状況を鑑みると、「地域再生」と「デザイン」は簡単につながりそうに見える。いや、意識的か無意識的かは別として、すでにつながっているからこそ、いまの「地域デザイン」ムーブメントがあるのかもしれない。

地域デザインとしての図書館

あらためて「地域デザイン」の定義づけについて考えてみる。『最新 現代デザイン事典』(平凡社、2017年)では、巻頭で「地域とデザイン」という特集が組まれているのだが、その冒頭部分を一部引用する。

「今日、『地域活性化』『地域振興』『まちづくり』『まちおこし』などと呼ばれる地域活動には、地方自治体が先導して行う大規模なものから市民有志によるものまでさまざまであり、その目的も都市計画から地域産業の振興、観光客誘致などと多様です。ここではとくに〈デザイン〉というフィルターを通すと、どんな地域像が見えてくるのか、また地域に対して〈デザイン〉がどんな貢献をなしうるのか、実例を通して考えます」

この巻頭に続いて、「地域デザイン」における実践を「つくる」「つたえる」「つなぐ」「さぐる」の四つの区分に分けて紹介している。本稿における地域デザインとは、これを基に「地域の資源を活かして、地域に貢献するデザイン」と位置づけるものとする。

「地域の資源を活かして、地域に貢献するデザイン」を実践している図書館は、既にさまざまなかたちで紹介されている。2014年3月に文部科学省より公開された「図書館実践事例集〜人・まち・社会を育む情報拠点を目指して〜」では、「連携」や「課題解決支援」「まちづくり」といったテーマ別に日本全国の事例が紹介されている。

たとえば「恵庭市人とまちを育む読書条例」を制定し、市民・家庭・地域・学校・市が一体となった読書によるまちづくりを進めている恵庭市立図書館や、《ことば蔵交流フロア運営会議》という誰でも自由に参加ができて、約束事や企画を参加者とともに決めていく場を設けることで地域の交流機能の拠点となっている伊丹市立図書館「ことば蔵」などは、図書館関係者にとってはよく知られた存在になっている。

このような事例は、岡本真が監修した『ささえあう図書館 「社会装置」としての新たなモデルと役割』(勉誠出版、2016年)や猪谷千香の『つながる図書館 コミュニティの核をめざす試み』(ちくま新書、2014年)、そして本稿の掲載媒体でもある「ライブラリー・リソース・ガイド(LRG)」といったさまざまな書籍や雑誌でも紹介され、地域を支える、あるいは地域をデザインする施設として図書館が、地域か活性化の重要な役割をはたしているということは広く認識されるようになった。まだそういった事例をご存知ない方は、上記のサイトや書籍にあたっていただきたい。本稿では、私自身がARGのメンバーとして関わったプロジェクトにおける取り組みを例に、図書館や公共施設整備における地域デザインの可能性と課題について考える。

地域デザインでつくること―― 「別府市図書館・美術館整備基本構想策定等業務」での実践より

アカデミック・リソース・ガイド社(ARG)は、2016年9月から2017年3月のおよそ7ヶ月間、「別府市図書館・美術館整備基本構想策定等業務」にあたった。

別府市は源泉数、湧出量ともに日本一を誇る日本有数の温泉観光地として知られている。八つのエリアに分かれ、別府八湯と呼ばれる市内の温泉は、それぞれが特性をもち、個別のエリアとしても、全体としても、独特な魅力を放っている。また、日常的に使うお風呂として温泉に浸かる地元住民と、観光や仕事で訪れる外からの人間が湯船で混じり合い、交流の場としても機能している。

温泉は別府市を支えてきた観光産業であるが、昭和50年代をピークにそのあとは減少しつづけており(2010年代に入ってからは、回復傾向もみられる)、その理由として団体宿泊客へ最適化した構造であるがゆえに、個人旅行の増加による観光スタイルの多様性に充分に対応できていないことなどが指摘されている。観光産業の落ち込みは、別府市中心市街地の活性化にも影を落としている。

そのような状況の中、別府市では、地域資源である温泉やまちなみを活かしつつ新しい文化を創造していこうといったプロジェクトが、民間の動きの中から展開している。そのひとつが「別府八湯温泉泊覧会(通称:オンパク)」である。オンパクは2001年より始まった、温泉文化を核とした体験型ツーリズムのイベントである。「世界一の温泉地で元気+綺麗に!」をキャッチフレーズに、別府八湯エリアの各所で、温泉/健康・癒し・美/歩く/食をテーマにした体験交流型イベントが繰り広げられ、多くの地元住民や観光客が参加するユニークなイベントとなった。

このイベントの実行委員長として中心的役割をはたしたのが、現NPO法人ハットウ・オンパク、一般社団法人ジャパン・オンパク代表理事の鶴田浩一郎である。鶴田は第1回のオンパク終了後「ハットウ・オンパクはいずれなくなる。なぜならば、別府は1年365日がハットウ・オンパクの世界にならなくてはいけないからだ」というメッセージを残した。この言葉の奥には、梅原真の「持続する風景」やナガオカケンメイの「ロングライフ」と通底するビジョンがある。別府にしかない温泉文化という地域資源の新たな可能性を引き出し、光をあてる。まさに地域デザインの実践がこの別府にあった。

別府市における地域デザインの実践としてもうひとつ重要なプロジェクトに、《BEPPU PROJECT》がある。《BEPPU PROJECT》は、2005年に別府市を拠点に活動を始めたアートNPOで、その目的を『混浴温泉世界 場所とアートの魔術性』(NPO法人 BEPPU PROJECT、2010年)の中で、以下のように記している。「社会の中におけるアートの価値を再発見し、あらたな意義や可能性を見出すことで、この場所でしか実現できないユニークな試みを、日常的に地域に提供し続けることこそがBEPPU PROJECTの目的である」。

「platform04-BEPPU PROJECT」築100年の長屋の1室をアーティストのマイケル・リンと地元の建築家が再生した物件。(撮影:李明喜)

地域社会におけるアート、デザインの価値とは

NPO法人BEPPU PROJECTは2005年の発足後、「アートNPOフォーラム」や「platform(中心市街地活性化を目的に、家主の協力のもとリノベーションを行い、地域活動の交流拠点を制作したプロジェクト)」などの事業を重ね、2009年には、別府現代芸術フェスティバル2009「混浴温泉世界」を実施する。このように書くと「BEPPU PROJECTはアートでまちづくりをやっているんだね」と言われそうだが、そうではない。BEPPU PROJECTの代表理事でアーティストでもある山出淳也は、前掲書の中でこう言っている。「僕らは必ずしもまちづくりのためにアートを使っているわけじゃないんです。むしろ、社会におけるアートという新しい価値観や、価値そのものを紹介していくことが最大のミッション」。

山出のこの言葉は、《Happening》や《文化庁メディア芸術祭》の地方展などでまちなかを舞台にデザインをしてきた私にとっては、とても共感できるものだ。まちづくりにアートやデザインを利用するというのではなく、目指すのは、アートやデザインにしかできない新しい価値を創造し、アートやデザインをとおして可能性を創出していくということである。

プロポーザルの段階で、私たちはこのふたつのプロジェクトについて、特に詳細にリサーチを行っていた。別府らしい図書館・美術館を整備するうえで、こういった地域の日常をつくってきた活動とどうつながっていくかが鍵になると考えていた。プロポーザルにおける基本的な考え方にもそれを示している。「泉都別府の〈おもてなし〉の心やアートイベントなどで蓄積されてきた社会関係資本を施設づくりにも活用する」と。

あたりまえのことではあるが、地域デザインは地域をリサーチすることから始まる。特に地域資源についてのリサーチにおいては、必ずフィールドワークを行うということも、ARGのリサーチ&デザインの基本である。事前にデータや地域文献などの調査、分析を行い、そして現地を訪れて歩き、そこに暮らす人たちと話し、記録する。地元の人たちが通う喫茶店やカフェ、飲み屋で過ごすことも大事にしている。

ハットウ・オンパクの鶴田、BEPPU PROJECTの山出は、「別府市図書館・美術館整備基本構想検討委員会」の委員に任命され、(立場は違うが)一緒にプロジェクトに取り組むこととなった。委員には教育や図書館、建築などの専門家が選出されたほか、市民代表として公募で選ばれた方や市内の3大学からそれぞれ1名の学生も含まれており、別府の多様性を象徴するメンバー構成であった。

多彩なメンバーが集結したのだが、委員の方々と我々の間のコミュニケーションは、オープンでインタラクティブなものとはならなかった。背景には公共施設整備における制度や条件による制限という問題がある。ただ、我々の側が多様な委員の方々に対してコンセンサスを得るのに十分な言葉を紡ぐことができなかったという反省点も残った。多様なメンバーにも対応したオープンなコミュニケーションを生み出すインタラクション・デザインと、構造としての施設整備プロセスのリ・デザインは切り離すことができない課題である。

このような「会議のデザイン」もコミュニケーション・デザインであると言えるが、短い時間の中でメッセージを送り、送られるというミクロなインタラクションをとらえるのはなかなか難しい。

「まち歩き」から図書館・美術館づくりを考えるワークショップ

同じくミクロなインタラクションの場でありながら、比較的成果を上げることができたこととして市民ワークショップがある。「まちから考える図書館・美術館づくりワークショップ」と名づけられたこのワークショップは、まちを歩く→まちの魅力や課題を発見→地図に記録→協議・共有→新しい施設やまちから生まれる体験を創造→協議・共有→発表、という流れをグループ単位で行った。

ARGが図書館や公共施設整備のプロセスとしてワークショップを実施する場合、原則としてまち歩きを行う。日常の中で利用される施設をつくるためには、当然のことながら、その周囲にある地域を考えなければならないし、人やモノや情報の流れやつながりをとらえることも必要となる。別府でもそうだったが、ほとんどの地方都市でまちなかを歩くという機会が減っている。しかし、こうしたワークショップでまち歩きをしてもらうと、見落としていることが思いのほか多くあることに気づく。

別府市図書館・美術館の整備に向けた地図づくりのワークショップ。 (撮影:李明喜)

別府の路地は、歩いて本当に楽しいところだ。みんなの社交場となっている温泉のすぐ手前に風俗のお店が集中していたり、その近くには日常化したアートの入口となるショップがあったりする。また、そんな路地にサードウェーブ系の小さなコーヒースタンドがあり、その横で店の大家さんらしき人が何やらやっていて、そんな姿をコーヒースタンドの若い店主が指さしながら「テラス早くつくってほしいんですけど、大家さん、気ままでいつ終わるかわかんないんですよ」と笑って教えてくれたりする。

ここには歩く速度でしか見えない景色があり、そこには時間を超えた地域資源が埋まっている。地域資源を再発見し、世代を超えた人々の中で共有することから図書館・美術館づくりは始まる。再発見するものはすべてがポジティブなものというわけではない。重い地域の課題を見つける場合もある。こうした可能性と課題を、協働性や身体性を伴う中で発見し、プロセスそのものを共有するということが大事なのである。このプロセスを経ることで、ワークショップ参加者が、図書館・美術館づくりに主体的に関わるきっかけへとつながればと思っている。

別府でのワークショップの動画はこちらで公開しているので、関心のある方はぜひご覧いただきたい(以下の動画も参照のこと)。

地域デザインの中心としての社会的相互行為

近年、日本でも注目を集めているアートにおける潮流に「ソーシャリー・エンゲイジド・アート(SEA)」と呼ばれるものがある。SEAリサーチラボ(ソーシャリー・エンゲイジド・アートを知り、学び、議論し、実践するためのリソースサイト)の定義づけによると「ソーシャリー・エンゲイジド・アート(SEA)とは、アートワールドの閉じた領域から脱して、現実の世界に積極的に関わり、参加・対話のプロセスを通じて、人々の日常から既存の社会制度にいたるまで、なんらかの「変革」をもたらすことを目的としたアーティストの活動を総称するものである」とある。

これだけを読むと、アーティストの活動であれば、アートでなくてもいいのか? と思ってしまうが、実際、「それはアートなのか? アートである必要があるのか?」といったアートであることの必然性をめぐる批判も多い。森美術館チーフ・キュレーターの片岡真実はもう少しシンプルに「社会の諸問題と向き合い、そこにいる人々の生活と深く関わることが本質にあるアート」と説明する。

私はソーシャリー・エンゲイジド・アートの中心要素である「社会的相互行為」が、地域デザインにおいても重要であると考える。象徴的行為ではなく、現実の社会的行為である。アートにしてもデザインにしても、どこにも属してはいなくて「あいだ」にあるものだと思う。どこにも属さない不安定な立ち位置だからこそ、現実の社会的相互行為に働きかけることができる。デザインにしかできない方法で、人々の日常に深く関わることができるし、図書館や公共施設づくりに「変革」をもたらすこともできると信じている。

(短期集中連載・了)

【参考文献】
山岸政雄「地域デザイン論」(学報 31、p.101-110、金沢美術工芸大学、1987年)
梅原真『ニッポンの風景をつくりなおせ 一次産業×デザイン=風景』 (羽鳥書店、2010年)
飯田泰之・木下斉・川崎一泰・入山章栄・林直樹・熊谷俊人『地域再生の失敗学』(光文社新書、2016年)
勝井三雄・田中一光・向井周太郎 監修『最新 現代デザイン事典』 (平凡社、2017年)
NPO法人 BEPPU PROJECT『混浴温泉世界 場所とアートの魔術性』(発売:河出書房新社 刊行:BEPPU PROJECT、2010年)
パブロ・エルゲラ『ソーシャリー・エンゲイジド・アート入門 アートが社会と深く関わるための10のポイント』(アート&ソサイエティ研究センターSEA研究会 訳、フィルムアート社、2015年)
梅原真デザイン事務所 – UMEBARA DESIGN OFFICE「thinking」<http://umegumi.jp/thinking/〉(参照2017-9-19)
D&DEPARTMENT「D&DEPARTMENTとは」<http://www.d-department.com/jp/about〉(参照2017-9-19)

我はなぜ論文YouTuberとなりしか

2017年12月13日
posted by 荒木優太

YouTubeで勝手に連載している「新書よりも論文を読め」が20回の更新を超えた(初回を下に動画埋め込み)。このシリーズは、論文(大学紀要や専門誌を中心に、ときに批評や評論とも呼ばれもする論理的なタイプの文章)を毎回一本取り上げて、三つのポイントに分けて5分から8分くらいで要約するという、論文紹介動画である。取り上げる論文の分野は、私が近代文学専攻ということで日本の人文系に偏っているきらいはあるが、できるだけ多方向から学ぼうと努めている。

なぜこのようなことを始めたのか。勿論それは論文の読者が増えてほしいと思ったからだ。

「それは研究でやってください」って言い過ぎだろ

よく知らない人のために自己紹介しておくと筆者は文壇でささやかなな賞を得、また2016年に在野研究に関する単行本も出版したことで一部界隈で話題になり、物書きとしてほんの少しだけ出世している新進気鋭の文学研究者である。

結果、原稿を依頼する少なからぬ編集者と交流する機会が増えた。それはそれでめでたいことなのだが、困ったことに、原稿が欲しいということで近代文学に関するアレコレを書いて提出すると、みな判を押したように「そういうのは、研究でやってください」と答える。どこそこの誰それがという悪口ではなく、本当にみなそういう反応をする。

いささか理解に苦しむのだが、在野研究者に原稿は依頼するものの専門的・研究的であってもらっては困る、というのが彼ら共通の見解のようだ。私からすると、牛丼屋の看板でオープンした店に入ってきたお客が「並ひとつ」というので牛丼の並を出したら「おいおい、こりゃあ牛丼じゃねーか!」と言われた気分である。そりゃそうだろ。

要するに、マニアックでニッチな研究の営みは、現代的でもなく、読者もついてこず、そして(これが一番大きいだろうが)売れない……ので一般的=商業的な出版にはふさわしくない、ということだ――ちなみに、彼らは近代文学にはかなり否定的で、哲学になると割と好意的だ――。

紋切型の研究観にいささか辟易もするが、とまれ、ある個人だけが主張しているわけではないのだから、そこには出版界に流通するなにがしかの真理が反映されている、と考える方が適当だろう。とりわけ、想定可能な読者のヴォリュームが大きくない、故に売れない、というのはかなり実態を素直に現わしているようにみえる。

貧乏に優しい論文

別の角度からいえば、専門的な論文も装いを改めることで商品になれる。勿論、それ自体は喜ばしいことだ。が、そのお色直しでなにか重大なものが削ぎ落されてしまっているのではないか、或いは、そのお色直しは本当にニーズがあってなされたものなんだろうか、と問うことも同時に忘れてはならない。

出版点数が予め決まっており、著者に十分な執筆期間も与えない新書商法はその象徴のようなものだ。出したいから出すのではなく、出さなければならないから出すというサイクルが常態化して久しい。そのような環境下でまともな本が生まれないだろう(或いは、もっと完成度を高めることができただろう)ことは容易に想像がつく。どうして人々は消費行動を通じてああいったビジネスを支えてしまうのか。よく分からない。

私の経験では、新書の著者が研究者ならば彼の書いた論文を第一に読んでみることをお勧めする。より凝縮された仕方でその中核になるアイディアが簡潔に述べられている。そして、論文のいいところは、発行後相当期間経った――月刊誌なら一ヵ月、季刊誌なら三ヶ月――雑誌に掲載されていたものならば、著作権に抵触せずに図書館ですべてコピーできるということだ。加えて、大学のウェブサイトにあるリポジトリでは多くの論文が公開されていることは既に周知のこと。

貧乏人にはありがたい知の泉がそこにある。

こういったものを十分活用するまえに、どうして読者たちは700~900円もする愛のない新書など買って出版社による自分都合のビジネスに手を貸してしまうのか、やはりいささか不思議だ。とまれ、一般の読書人にとって、もし論文の読書という可能性が未開拓のものであり、それに自覚的になれるのならば、衆目は集めるだろうが特に専門性もないアレヤコレヤに無責任に首をつっこんだ(つっこませた)ような文章が跳梁跋扈するこの世界を少しづつ変えていけるのかもしれない。

百歩譲って、新書を読むのもいいし(細長い判型の本自体が悪いわけではない)、こざかしい商売を応援するのも自由だが、そのあとで論文にアクセスするクセをつけると読者にとっても著者にとってもよき知的循環が生まれるのではないか。

前置きが長くなったが、そんな思いから動画の連載を始めたのだった。

読むために読むことと喋るために読むこと

わざわざYouTube、つまり動画の表現を選んだのは、文字ならば既に様々なメディアで発信しているので、自分自身が少し新しいことをやりたくなったからだ。文字よりも音声・映像に親和的なユーザーにもリーチを伸ばして自分の仕事を伝えたいという企図もあった。

とはいえ、文字中心のユーザーと動画中心のユーザーがそれほどかけ離れているとは思っていない。研究書に代表される通俗的な娯楽性の乏しい、改行が少なくて註がついているようなタイプの書物は読んでいるとかなり疲労が溜まる。そこから逃避するように、適当なラジオや動画をナガラ見(聴)し、そして本末転倒なことに勉強が一向に進まない事態が大学生や院生にはしばしば生じる。いや、学生に限らずこういった現実逃避は誰にでも経験があることだ。

そういったとき、同じ動画コンテンツでも、学術性の高いものならば仮に時間を浪費したとしても、あとで後悔とともに襲ってくる罪悪感をかなり小さくできるのではないか。視聴のハードルを低くするために、10分を超えないよう、かなりコンパクトにまとめたのは、何かと何かの「合間」を埋めるくらいの手軽な学問があってもいいだろうと考えたからだ。

連載を始めてみて自分で新鮮だったのは、いつもの論文の読み方が紹介のモードを前提にするとかなり大きく変わったように感じられたことだ。

通常、論文を読むさいは(私の場合は)自分の関心や主張との距離を意識しながら文字を追っていくが、この後に喋って説明せねばならない、ということが念頭にあると、いかに本質的なアイディアを抽出して、それをできるだけ分かりやすい言葉に翻訳できるか、そういったことを意識して読書に臨むようになる。すると、論文全体の格好に目がいくというか、文章としての論文がもつ端正さの度合いが実感できるような気がするのだ。

情報の器としてではなく文体の問題として論文が立ち現れてくる、といってもいいのかもしれない。

きっとこの感覚は自分が文章を書くときにもかなり役立つものになるのではないか。そんな予感がする。思わぬ儲けものだった。

「イタい」で闘う

勿論、弊害もあるだろう。要約という行為一般につきまとう様々なニュアンスや細部を無化して、ある簡潔なテーゼ(「~は~である」)に単純化してしまうことの危険は、三つのポイントで整理するというこの連載の形式も手伝って、完全に回避できるとはいいがたい。

だが、おそらく余り心配することはない。なぜならば、基本的に誰も再生しないからだ。一部のYouTuberのように広告報酬で儲けるような事態も、だから決して訪れない。そして、それで構わない。

言及された多くの研究者も、仮に動画の存在に気づいたとして、特別な理由がない限り言及を控え知らなかったフリを突き通すだろう(例外的に第23回で取り上げた伊藤未明さんからはTwitterで反応をいただいた、どうも恐縮です)。

どうして、人が避けていくのだろうか。編集作業を怠けているだとか、ポピュラリティのある論文を採用していないとか、理由は色々考えられるだろうが、核心となっているのは、要はこういうことだろう。即ち、特別な訓練を受けたわけでもなければ資格をもっているわけでもない、単なる目立ちたがり屋でお調子者の言葉など聞いているとこっちが恥ずかしくなるよ……端的にいえば「イタい」からだ。

この「イタさ」を、私は或る程度理解できる(つもりだ)。私が大学生だったら、確実にいま私のことを軽蔑にするだろうし、ああいう無様な人生を送らないようにしようと胸に誓うに違いない。大学生というのはそれくらい生意気な方がよい。

ただ、年長の落伍者の側から少しばかりアドバイスしておけば、第一に、人間は人間を常に馬鹿にする生き物なので、馬鹿にされることを怖がっていたら何もできない。そして第二に、人生というのは(また大きく出たな!)失敗の連続であり、失敗において修正可能性を見出して次のトライアルに臨むことだけが漸進的な正解に近づく唯一の道なのだ。

よく連載を追っている(極めて少数の)視聴者は、取り上げる論文の多くがプラグマティズムに関係することにお気づきだろう。正しく、パースやジェイムズに由来するアメリカ産のプラグマティズムとは、神になれない有限な人間が、何度も転びながらうまい転び方を段々覚えていく過程的成長肯定の思想であった。

YouTuber TAKIJI?

最近、『貧しい出版者――政治と文学と紙の屑』(フィルムアート社)という増補新版を出すために、『小林多喜二と埴谷雄高』という自費出版で出した初の自著を読み直し、どれくらい多喜二が自分たちのテクストを――「芸術的価値に乏しい」とかdisられながらも!――読者に届けようと齷齪していたかに、改めて胸を打たれた。

もし多喜二が生きていたらYouTubeを使って自分の本の宣伝をしていたかもしれない!

処女作の末尾において埴谷ではなく多喜二の可能性に賭けた私が、このつまらない世界に対して「イタさ」を回避して、「そんなことは自明、何故ならば」と業界人ヅラで自分の知恵者ぶりをいかにディスプレイするかのゲームに淫することは、自分の本に対する裏切りのように思えた。

考えてみれば、在野研究にしろ電子書籍にしろ自費出版にしろ、他人から無様と思われながらもそういう連中をちゃんと無視して、自分がいまできることをコツコツやってきたからこそ現在の私があったのだ。それができるからきっと私は強かったのだ。

明らかに失敗するに決まっていて、やっぱり人々は相変わらずどうでもいい新書を買ってゆるやかに業界がシュリンクしていく予見された未来が変えられないのだとしても、文句があるのなら、やれることをやってからぶつくさ言う方がずっと気分がいいだろう。

私は私のために、私の気分がよくなるために喋る。

大学は下らないし、出版社も下らないし、なにもかも下らない。が、学問だけは下らなくない。面白い。ほんの少しでいいから人々がもう一歩難しいものにチャレンジする機会が増えてくれればいいなと思う。

第2回 図書館のプロダクト・デザインの変革はブックトラックから始まる

2017年12月6日
posted by 李 明喜

プロダクト・デザインとインダストリアル・デザイン

まずは図書館のプロダクト・デザインから始めたいと思う。その言葉自体は意識されていないとしても、図書館におけるデザインでもっとも身近に感じられるのがプロダクト・デザインではないだろうか。それは図書館用品として、図書館に関わる皆さんが日常的に触れているデザインだ。この「触れている」という側面が、プロダクト・デザインの特性を強く特徴づけるものになっているのだが、それについては後述する。

図書館のプロダクト・デザイン、図書館用品のデザインについて書くまえに、デザインを考えるための基礎知識として「プロダクト・デザイン」と「インダストリアル・デザイン」という言葉について、その違いを含めて説明したい。

『最新 現代デザイン事典』(平凡社、2017年)の中で、それぞれの言葉の来歴を以下のように書いている。

「インダストリアル・デザイン(ID)は、第二次世界大戦後、アメリカから輸入された概念であるが、貿易振興、企業活動を支える要素の濃いところから出発した。当時、産業デザインあるいは工業デザインと訳され、産業発展を対象とするモノのデザインを中心とした企業寄りのものであった」

「プロダクト・デザイン(PD)は、広義にはインテリア、インダストリアル、クラフト等を含む「モノ系のデザイン」、狭義には工業デザイン、インダストリアル・デザインと同義に使われるが、高度工業化社会、あるいは脱工業化社会でデザイン領域が拡大してより生活者寄りになり、技術論のみではなく、文化の視点が重視されるようになっている」

このように同じプロダクト・デザインと言っても狭義で使われる場合と、広義で使われる場合がある。狭義に読むか、広義に読むかでプロダクト・デザインの論じられ方は異なるのだ。

序論「図書館におけるデザインとは何か?」にも書いたが、デザインにおけるカテゴリーに着目してもこのように「あいまいさ」がつきまとう。そしてデザインのあいまいさやわかりにくさはデザインの本質であり、武器であるとは言ったものの、それだけではデザインの理解には向かわないので、各論においては、それぞれにおけるデザインの概念をどのようにとらえていくのかを(厳密ではないが)示していく。本稿で書くプロダクト・デザインとは、「生産されたモノ(製品)のデザイン」という程度のゆるやかなカテゴリーであるとして、以降の議論を進めていきたい。

図書館グッズというノスタルジア

毎年秋に開催される図書館総合展。キハラ株式会社(以下、キハラ)のブースは、いつも多くの図書館関係者を集める。特に初日は多くの人で賑わうのだが、訪れる人の目的はブースで販売される図書館グッズであったりする。

図書館関係者には説明するまでもないが、それ以外の読者のためにキハラ株式会社について簡単に説明する。キハラは1914年、製本や帳簿などの紙加工を業として、神田神保町で創業した。それから数年後には、製本だけでなく図書カード(目録カード)やカードケースなどの製造販売を始めている。戦後になると、図書館需要の増加にともなって取り扱う製品も広がり、書架、雑誌架、新聞架、閲覧机、閲覧椅子、カウンター、ブックトラックなどの図書館家具、ラベル、ブックカバーフィルム、展示用品との図書館用品、検索システムやICソリューションなどの図書館システムまで、現在では図書館に関するものをトータルで扱うようになっている。

そのキハラが図書館総合展のブースで、現在は図書館で使われていないものであったり、古くから変わらず使われているものをグッズにして販売するのだ。たとえば図書館カードや「禁帯出」といった図書館シール、缶バッチ、マグネット、図書館ラベル、マスキングテープ、クリアファイルなどの図書館グッズ(下の写真)を販売するのだが、古いモノへの懐かしさや憧憬から、いまでも愛着を感じるファンは多く、図書館総合展が近づくとFacebook上では、会場に行くことができない人から図書館仲間に向けて「私の分も買っておいて!」といったお願い投稿を見ることもある。

(写真提供:キハラ株式会社)

(写真提供:キハラ株式会社)

かつては実用品として現場で使われていた図書館用品が図書館グッズとなり、そこに図書館を愛する人々の懐かしさや愛着といったまなざしが向けられる。この懐かしさや愛着はノスタルジアの一種である。図書館というやさしい光に包まれていた記憶。記号としてのノスタルジア――。

書誌情報をコンピューターで管理するように なり、目にする機会が少なくなったカード ケース。(写真提供:キハラ株式会社)

キハラは一方で、日本図書館協会と協力して歴史的図書館用品の調査・収集・保存を2004年から行っている。このプロジェクトは「図書館の発展史上参考となる用品、家具、機器などを調査し保存する事業」であり、図書館発展史を紐解くうえでも重要な事業だといえる。

しかし図書館グッズというノスタルジアは、歴史とは大きく矛盾したものである。「歴史」は、時間の流れの中でできるだけ客観的事実に接近しようという営みであるのに対して、「ノスタルジア」は、時間の流れからは切断された気持ちのよい世界に留まる態度だといえる。人とモノの関係は、人とモノとの相互作用(インタラクション)によって培われていくものだが、記号としてのノスタルジアは、人とモノの関係から、相互に影響し合う動的な関係性の部分を除外していく。

ノスタルジア自体は、ファッション・デザインを始めどこにでもあるものだが、とりわけ図書館における人とモノの関係やモノのデザインについて考えるとき、ノスタルジアによって切り取られた気持ちのよい世界が大きく占めているように感じるのだ。図書館におけるプロダクト・デザインの批評が存在しない理由のひとつがここにある。

キャラクター化するブックトラック

図書館グッズとは別に、図書館用品にはさまざまなモノがあるが、その中でもっとも身近なのがブックトラックだろう。ブックトラックとは、本を運ぶのに使うキャスター付きのカートのことで、重い本の移動が頻繁に行われる図書館の中では、必要不可欠なプロダクトである。構造は、スチールのフレームに棚板と側板の構成でできており、それにキャスターを付けたシンプルなものである。現在、多くの図書館で活躍しているブックトラックはスチール製が大半だが、かつては木製であった。天童木工や伊藤伊はいまでも木製のものを主に製造しており、キハラでも一部が木製のものを扱っている。

私は2014年に東京大学附属図書館の展示デザイン『「知」が創る「平和」 藤原帰一と見る世界』を行ったのだが、その際にキハラから倉庫に眠っていた木製ブックトラックを提供していただいた。この古い木製ブックトラックは頑強さにおいては決してスチール製に負けておらず、いまでも充分に通用するものであった(キャスターはさすがに古かったので走行性においては厳しかったが)。

「『知』が創る『平和』 藤原帰一と見る世界」(東京大学附属図書館)展示風景。(撮影:李明喜)

キハラの木製ブックトラック。(撮影:李明喜)

ブックトラックの構造はシンプルだが、図書館の現場における用途は多様で、本を運ぶためのカートとしての機能だけではなく、作業台や返却台として使用したり、展示用の棚として利用したりすることもある。ブックトラックは図書館で働く人々の「行為」を通じて本と書架をつなぐものであり、図書館で働く人々と利用者をつなぐものであるとも言える。そこでこのブックトラックをプロダクト(製品)としての評価方法という観点から考えてみたい。

ここでは山岡俊樹著『論理的思考によるデザイン ─ 造形工学の基本と実践』(BNN、2012年)の「製品の簡易評価方法」を参考にする。

図1『論理的思考によるデザインー 造形工学の基本と実践 』 所収「製品の簡易評価方法」より(BNN、2012年)

製品は「有用性」「利便性」「魅力性」の三つの構成要素から評価が行われる。「有用性」は製品の機能面や生産面、価格面、耐久性などを、「利便性」はわかりやすさや操作性、安心感、ユニバーサルデザインなどを、そして「魅力性」は美しさや新規性、雰囲気、色彩・形状などをそれぞれ指す。以下に、ブックトラックにおける三つの構成要素に関わる項目を挙げてみる。

各メーカーのブックトラックをこれらの項目で比較したときに、1の有用性についてはほとんど大差がないと思われる。2の利便性については、キハラの電動パワーアシストブックトラック《ブンブン6》のような操作性に特化したものが一部あるのだが、価格面から簡単には導入できない。そうすると利便性についてもあまり差はつかない。それぞれの製品で利便性における違いはあるのかもしれないが、その差はほとんど伝わってはこない。

3の魅力性についてはどうか。ブックトラックの中でグッドデザイン賞を受賞したものがあるのをご存知だろうか。それはイトーキの《ブックトラックAT》で、2014年度のグッドデザイン賞を受賞している。

大八車を参考にしたという中央の大径車輪により、操作性と旋回性の向上を実現したということだが、それ以上にフラットパネルをベースにした本体部と大径車輪の組み合わせが印象的な、意匠性の高い製品となっている。この《ブックトラックAT》はほかのスチール製ブックトラックと比べて価格面ではさほど開きはなく、利便性と魅力性においては他製品との差異化ができていると思うのだが、図書館の現場で見たことはない(私の訪問した図書館の数が単に少ないだけということでもあるが)。

イトーキの《ブックトラックAT》 CC BY- ND 2.1 JP(表示-改変禁止 2.1 日本)©JDP GOOD DESIGN AWARD http://www.g-mark.org

サイズや色の違いはあれ、メーカーによる差がさほど大きくはないスチール製のブックトラックが占める中、目立っているのが、くまモンやむすび丸などのキャラクターのブックトラックである。これはスチール製ブックトラックの両側板にオリジナルデザインのグラフィックシートを貼って、ほかにはないオリジナルブックトラックをつくることができる《ブックトラックプラス》というキハラのサービスだ。これらのキャラクター付きブックトラックは図書館の現場だけでなく、図書館総合展などのイベント会場でも活用されている(ARGも毎年ブース展示に使っている)。

くまモンが側面に描かれたブックトラック(写真提供:キハラ株式会社)

地域のゆるキャラや、図書館のマスコットキャラクターによって癒しや愛着を感じるという部分も多少あるとは思うが、実はくまモンたちは単なる媒介に過ぎず、ここに現れているのはブックトラックそのもののキャラクター化である(キハラからブックトラック型のUSBメモリーが発売されたこと、それが図書館関係者に大人気であったこともブックトラックのキャラクター化の流れの一例だと言える)。そして、ブックトラックというキャラクターと過ごした時間が長いほど思い入れが強くなり、キャラクター=ブックトラックへの愛着の感情が増していく。

前項で書いた「図書館グッズのノスタルジア」と「ブックトラックのキャラクター化」は、モノから膨らむイメージが、好意的な「ネットワーク」(次頁で説明する)を形成するという意味において極めて近い現象だと言える。これ自体は図書館のプロダクト・デザインの状況を考えるうえで重要なひとつの側面であることに間違いはないが、一方でノスタルジアやキャラクター化によって除外される、人とモノの相互関係という側面について、私たちはいま取り戻す必要がある。

ネットワークをデザインする

「製品の簡易評価方法」に照らし合わせて考えてみると、図書館グッズのノスタルジアやブックトラックのキャラクター化は、「魅力性」という構成要素の中の「ストーリー(キャラクター)」というひとつの項目についての話に過ぎない。繰り返しになるが、これ自体は大変興味深い事象であり、これも図書館における「プロダクト・デザイン」を考えていくうえでは欠かせない視点である。ここではそれとは別の側面である、人とモノとの相互作用について考えてみたい。

人とモノの関係については、1980年代以降、人類学や社会学およびその周辺で研究が進んできた。背景としてあったのは、これまでの人間中心的な世界観への疑問であった。人間が主体としてモノの意味を付与するということだけではなく、モノが人の感情や行為を引き出すこともある。ここには主従関係やどちらが先といった観点はなく、まず関係があって個々の存在がある。これらの互いに影響をおよばし合う存在を、人やモノや自然も含めてアクターと呼ぶ。アクター同士が結ぶ関係=ネットワークがアクターそのものを変化させ、アクターは相互作用の中でネットワークを構成していく。これをフランスの社会学者ブルーノ・ラトゥールによるアクター・ネットワーク理論と言う。

私はプロダクト・デザインにおける方法として、このアクター・ネットワーク理論がヒントになるのではないかと考えている。モノをデザインするのではなく、人の体験をデザインするのでもなく、たとえば、ブックトラックのプロダクト・デザインを考えるときに、ブックトラックを通して相互に働きかけを行うすべての人やモノからなる関係性をデザインするとは、どういうことなのか。どういうことをすれば関係性をデザインできるのか。

たとえば、フラッシュアイデアだが、製品開発におけるフロー(市場調査/企画/資金調達/設計/製造/流通/販売)にアジャイル的な開発手法「アジャイル・マニュファチャリング」や参加型製品開発などを適時組み込みつつ再構成する、ということが考えられる。より具体的には、ブックトラックにシングルボードコンピュータを取り付けてIoT(Internet of Things モノのインターネット)のハブにすることで、関係性のデザインへの第一歩になる。図書館で働く人や利用者などのヒトはもちろん、本を中心としたさまざまなモノもブックトラックに集まってはまた離れていく。そしてブックトラック自体も図書館内の至るところへ動いていき、人の感情や行為に働きかけていく。

ケヴィン・ケリーが『〈インターネット〉の次に来るもの 未来を決める12の法則』(NHK出版、2016年)で書いたテクノロジーがもつ本質的な力は、ブックトラックがハブとなるアクター・ネットワークの中でも作用する。アクセシング(接続していく)し、トラッキング(追跡していく)し、コグニファイング(認知化していく)し、インタラクティング(相互作用していく)し、ビギニング(始まっていく)する。これらの作用がもたらす変化によって動的ネットワークをデザインすることができるかもしれない。

アクター・ネットワーク理論による人とモノの関係をとらえ直すということは、プロダクト・デザインという枠の中だけのことではなく、あらゆるデザインに関わることであると同時に、これまでのデザインのカテゴリーや区分を無効化するということでもある。そのとき、人にもモノにももっとも近いプロダクトのデザインが、図書館においては「ノスタルジア」と「キャラクター化」によって閉じてしまっているという状況があり、プロダクトから考えるべきだと思っている。図書館のデザインの変革はブックトラックから始まる。

(次回「地域デザイン」の章につづく)

【参考文献】
勝井三雄・田中一光・向井周太郎 監修『最新 現代デザイン事典』(平凡社、2017年)
山岡俊樹『論理的思考によるデザイン 造形工学の基本と実践』(BNN、2012年)
廣瀨涼「キャラクター消費とノスタルジア・マーケティング ~第三の消費文化論の視点から~」(『商学集志』第86巻第1号、2016年)
ブルーノ・ラトゥール『科学がつくられているとき――人類学的考察』(川崎勝・高田紀代志 訳、産業図書、1999年)
ケヴィン・ケリー『〈インターネット〉の次に来るもの 未来を決める12の法則』(服部桂 訳、NHK出版、2016年)

ZINEの生態系とローカリティ

2017年12月1日
posted by 仲俣暁生

小規模の印刷出版物にはさまざまな呼び方がある。小冊子やパンフレットといった一般的な言い方のほかに、「ミニコミ」「同人誌」「タウン誌」「リトルマガジン」「リトルプレス」「インディーズ・マガジン」「ジン」などが挙げられるが、和製英語も含むそれぞれには特定の歴史的文脈があり、どう呼ぶかで作り手の意識までがわかったりもする。

出版の「正史」の外で綴られ、編まれ、そして読まれてきた、こうした小規模出版物の歴史をまとめた本がこの秋、あいついで刊行された。ひとつは雑誌「アイデア」での連載をまとめた、ばるぼら・野中モモ編著『日本のZINEについて知っていることすべて〜同人誌、ミニコミ、リトルプレス 自主制作出版史1960-2010年代』(誠文堂新光社)で、もうひとつは南陀楼綾繁『編む人〜ちいさな本から生まれたもの』(ビレッジプレス)だ。こちらは「彷書月刊」「雲遊天下」といった、それ自体が「小規模出版物」であるような雑誌に掲載されたインタビュー、各種トークイベントの際の対話をまとめたものだ。

前者は自主制作出版物の膨大なコレクションに、編著者による時代ごとの解説対談と、20人にのぼるキーパーソンたちへのインタビューを加えた大判のグラフィカルな本。後者はそのような出版物の作り手=「編む人」たちへのインタビューをまとめた小さな本――見た目は対照的だけれど、底に流れているものは同じだ。前者の編著者のひとりである野中モモさんが序文で書いているとおり、それは「誰にも頼まれていないけど自分が作りたいから作る自主的な出版物」への敬意と愛情、そして心からのエールである。

ZINEの「生態系」を支えてきたもの

「自主的な出版物」に対するさまざまな呼び方のなかから、『日本のZINEについて知っていることすべて』の編著者たちは、あえて「ジン(ZINE)」を選んでいる。magazineの後半を切り取ったこの言い方は日本では最近よく使われるようになったが、英語の表現としての歴史はかなり古い。ただし、日本では「ミニコミ」や「同人誌」といった言葉が独特のニュアンスやバイアスを背負っているため、ZINEという目新しい言葉をニュートラルな意味で使うのはいいかもしれない。そこで以下ではしばらく、同人誌もミニコミもインディーズ・マガジンも含めて、あえてZINEと呼ぶことにしよう。

この本に取り上げられているZINEのバリエーションたるや、目も眩むほどと言っていい。安保闘争やベトナム反戦運動にかかわる政治性の強いニュースレターやパンフレットがあるかと思えば、文芸やマンガなど創作・批評系のZINEの系譜も時代ごとに丹念に追われている。ウーマンリブやエコロジーなど新しい市民運動を支えたZINE、フォークや歌謡曲、パンクやモッズなど音楽系のZINE、アートやデザイン、カフェカルチャー系のZINE、「タウン誌」とも呼ばれた特定の街や地域に根ざしたZINE、そしてとくにテーマのない日常雑感的なZINEまで、現存するものから儚くも消えた多種多様な「誰にも頼まれていないけど自分が作りたいから作る自主的な出版物」が、これでもかというほどスクラップされている(私自身が編集や寄稿で関わったものもいくつか見つかったのはうれしかった)。

誌面を埋め尽くす各時代のさまざまなZINEは、まさに「つらがまえ」とでもいうべき個性的な顔立ちをしている。それらの表紙図版を見るだけでも、この本は十分に楽しめる。さらにこの本の価値は、こうしたZINEの生態系を作り上げてきた20人のキーパーソンに、しっかりしたインタビューを行っているところにある。

掲載順にその名(敬称略)を挙げると、田村紀雄(社会学博士)、志村章子(ガリ版研究者)、斎藤次郎(教育評論家)、中西豊子(ウィメンズ アクション ネットワーク理事)、村上知彦(まんが評論家・編集者)、黒田マナブ(音楽プロデューサー)、渡部美菜子(「HERE TODAY」創刊編集長)、岡村みどり(作曲家・編曲家)、中山亜弓(タコシェ)、荒武聡(SHOP33/next33)、北沢夏音(ライター・編集者)、甲斐みのり(文筆家)、池田弥生(「Catch that Beat!」主宰)、成田圭祐(Irregular Rhythm Asylum主宰)、堀部篤史(誠光社)、今日マチ子(漫画家)、望月倫彦(文学フリマ)、レトロ印刷JAM(印刷会社)、MON(イラストレーター)、中村公彦(コミティア実行委員会代表)。

こうしてみると錚々たる顔ぶれというよりも、なんとまあ多種多様な人たちがZINEの世界にはいるものだ、との感慨に打たれる。書き手・描き手や編集者・プロデューサーだけでなく、書店をはじめとするショップや場所、即売会などの各種イベントや運動体、そして小規模出版物に機敏に対応する印刷の仕組みや技術によって、ZINEの「生態系」は支えられてきた。そのことを明らかにしてくれるこのインタビュー部分だけでも、独立した本になりうるほど充実している。

ばるぼら・野中モモ編著『日本のZINEについて知っていることすべて〜同人誌、ミニコミ、リトルプレス 自主制作出版史1960-2010年代』(誠文堂新光社)

「ちいさな本」を編んだ人と地域

『編む人』の著者である南陀楼綾繁さんとは、1997年から2005年まで「季刊・本とコンピュータ」という雑誌の編集部で一緒に仕事をした。その頃から日本中の「ミニコミ」(先の本でZINEと呼んでいるものとおおよそ重なる)の状況に詳しく、1999年には串間努さんと『ミニコミ魂』(晶文社)という本を出版している。その後は東京都内の谷中・根津・千駄木エリア(いわゆる「谷根千」)で「不忍ブックストリート」という活動を長く続けており、ここからはじまった「一箱古本市」というイベントのしくみは、いまでは日本中のさまざまな町で開催され、2016年には彼が編集発行人を務める「ヒトハコ」発行・ 書肆ヒトハコ、発売・ビレッジプレス )という雑誌も創刊された。

南陀楼さんは「ちいさな本」(ミニコミやZINE)の熱心な読者として、そして「一箱古本市」のオーガナイザーとして、日本中のさまざまなコミュニティを訪れ、その地の人々と交流してきた。『編む人』に登場する以下の人たち(敬称略)との出会いも、おもにそうした地道な足どりのなかで生まれたようだ。

小西昌幸(「ハードスタッフ」編集発行人)、竹熊健太郎(編集者、フリーライター。「コミック・マヴォ」「電脳マヴォ」主宰)、堀内恭(「入谷コピー文庫」)、村元武(元「プレイガイドジャーナル」発行人。現在ビレッジプレス代表)、大竹昭子(作家、「カタリココ」)、本間武彦(元「新宿プレイマップ」編集長)、牧野伊三夫(画家。「雲のうえ」制作スタッフ、「飛騨」編集委員)、小林弘希(エイチ ケイ コネクション代表、「Life-mag」)、山崎範子(元「地域雑誌 谷中・根津・千駄木」編集者)。

ここにはプロの作家や編集者もいれば、地方公務員や企業経営者もいる。毎号わずか15部から30部しか印刷しない超ミニメディアもあれば、号と号のあいだが15年も開いてしまった超スローペースの雑誌もある。発行元が個人や小集団のものもあれば、企業や自治体であるものもある。でも、これらの「ちいさな本」には次のような共通点がある、と南陀楼さんはこの本の「はじめに」で書いている。

本人がどれだけ意識していたかは別にして、彼らがつくった本や雑誌は、つくり手と読者のあいだに小さな共同体をつくったということだ。そこから、次の世代のつくり手が生まれ、また、出版から離れた分野にも影響を及ぼした。

ところで、南陀楼さんのいう〈つくり手と読者のちいさな「共同体」〉と、これらの本や雑誌がつくられた場所や地域とはどこまで関係があるだろう。

小西さんは「ハードスタッフ」を名古屋で創刊。徳島県北島町に移住した後は町立図書館の企画広報でも活躍した。村元さんは「プレイガイドジャーナル」や「雲遊天下」といった雑誌を大阪で創刊した(いまは東京に仕事場を移している)。牧野さんの手がける雑誌は北九州(福岡)と飛騨(岐阜)でそれぞれ発行、小林さんの「Life-mag」がとりあげるのは地元・新潟県の人と文化だ。東京発のものも「新宿」や「谷根千」「入谷」といった場所とのかかわりから生まれており、その意味では「ローカル」な活動だともいえる。地域(ないしその他のコミュニティ)との、なんらかのつながりのなかでこそ、ZINEやミニコミとよばれる「ちいさな」出版物はしっかりと根付くのではないか。

南陀楼綾繁『編む人〜ちいさな本から生まれたもの』(ビレッジプレス)

ローカリティなき電子メディアの心もとなさ

『日本のZINEについて知っていることすべて』に登場するタコシェの中山亜弓さんや誠光社の堀部篤史さんには、「マガジン航」でも寄稿やインタビューをお願いしたことがある。『編む人』に登場する竹熊健太郎さんの「電脳マヴォ」については、中野晴行さんの連載〈ネオ・マンガ産業論〉で丁寧に紹介していただいた。これらの記事を読むとわかるように、彼らの活動はリアルな場所や紙の上だけでなく、ネットにも広がっている。こうしてみると、「誰にも頼まれていないけど自分が作りたいから作る」という初発の気持ちにおいて、電子メディアとミニコミやZINEのような印刷メディアとの間に大きな差はない。

ただし、具体的な場所や地域とのつながりという点では、電子メディアには心もとなさがある。人とのつながりにおいてもそれは同様だ。そうした「ローカリティ(局所性)」、言い換えるなら「つくり手と読者のあいだ」の「小さな共同体」なしに、メディアは果たして存在しうるのか。いわゆるマスメディア的な出版物としての「雑誌」は、いまや解体しつつある。そのなかで、この大きな問いに答えを出すことは簡単なことではない。

いまZINEやミニコミといった紙メディアのもつ力、その際にローカリティがもつ力について、過去の試みを参照しつつ考えることは、たんなるノスタルジーではない。このふたつの魅力的な本を道案内として「自主制作出版」の歴史をひもとくことには、とても大きな意味があると私は思う。

第1回 図書館におけるデザインとは何か?

2017年11月27日
posted by 李 明喜

皆さんは「デザイン」という言葉を聞いたときに、何を思い浮かべるだろうか。

スマートフォンに代表されるようなデジタルガジェット、家電、文房具などのプロダクト・デザイン。ロゴ、広告、CI・VIなどのグラフィックデザイン。洋服、アクセサリーなどのファッションデザイン。建築、インテリア、ランドスケープなどの環境デザイン。ウェブ、アプリ、インフォグラフィックス(情報、データ、知識を感覚的に表現したもの)などの情報デザイン。コンピューターゲーム、ソーシャルゲームなどのゲームデザイン。

ほかにも、サービスデザインや地域デザイン、ソーシャルデザイン、データデザインといった近年、耳にするようになった新しいデザイン分野もあり、(数年後には消えていく分野、消えていく名称もあると思われるが)デザインが対象とする領域は際限なく広がっていくようにみえる。

これらのデザイン分野は、モノであれ、コトであれ、産業化によって定義づけされてきた、デザインする対象の違いによる区分であり、人々がデザインという言葉を思う浮かべるときには、この中のどれかを指すことが多いと思われる。

一方で「デザイン思考」という言葉に代表されるような、デザインプロセスに意味を見い出し、さまざまな場面での課題解決にデザインを活かしていこうという実践も広まり、「デザイン思考」という言葉からデザインに触れる機会も増えてきている。さらには、未来を思索しつづけることが大事であり、デザインがはたすべき役割としては課題解決だけではなく、課題提起していくことも重要であるといったデザインの姿勢から定義づけている「スペキュラティヴ・デザイン」という言葉も耳にするようになった。

「スペキュラティヴ・デザイン」の中心的実践者で、『スペキュラティヴ・デザイン 問題解決から、問題提起へ。―未来を思索するためにデザインができること』(BNN、2015年)の著者であるアンソニー・ダンとフィオナ・レイビーは、「A:ふつう理解されているところのデザイン/B:私たちが実践しているタイプのデザイン」というリストをマニフェストとして公表している(下図)。

「A:ふつう理解されているところのデザイン/B:私たちが実践しているタイプのデザイン」『スペキュラティヴ・デザイン 問題解決から、問題提起へ。—未来を思索するためにデザインができること』(BNN、2015年)より。

一見、挑発的にも見え、それゆえにわかりやすいマニフェストになっているのだが、ダン&レイビーは著書の中で「このリストは、ふつう理解されているところのデザインと、私たちが実践しているタイプのデザインを併記したものだ。といっても、BでAを置き換えよう、などという意図はいっさいなく、ただデザインに新しい次元、つまり比較の対象となり、議論を促す要素をつけ加えたかっただけなのだ」と書いている。

このようにデザインという言葉の広がりだけをみても実に多面的なのだが、さらに、デザインは時代ごとに異なるコンテクストの中で意味や目的を大きく変えながら、新しい解釈を生み出してきたという側面もある。これまでの解釈から新しい解釈に徐々にでも入れ替わるのであればまだわかりやすいのだが、デザインにおいては、古い解釈と新しい解釈が複雑に絡み合いながら混在し続ける。この解釈の混在が意味のあいまいさを生み、デザインという言葉の定義づけの困難さにつながっている。

山口情報芸術センター内にあるクリエイティブスペース「BIT THINGS」 おもに子どもを対象としたメディアアートの入口となるコミュニティスペース兼カフェは、著者が空間デザインを手がけた初めての公共施設である。子どもたちが動かすキューブの位置によって、インタラクティブにウェブが変化すると、ウェブ画面が床面に投影されているので、同時に実空間も変化する。子どもたちは身体を使ってメディアを体験し、変化する環境の中から発想して遊びをつくっていった。(写真:山口情報芸術センター)

デザインのあいまいさについて

これまで、デザインを実践する中で多くのデザインに関する本を読んできた。デザイナーによるもの、哲学者によるもの、批評家や研究者によるもの、ジャーナリストによるものなどいろいろあるが、デザイン論を含む本の多くは「デザインとは何か」についてページを割いている。

グラフィックデザイナーの原研哉は『デザインのデザイン』(岩波書店、2003年)の中で「デザインとは、ものづくりやコミュニケーションを通して自分たちの生きる世界をいきいきと認識することであり、優れた認識や発見は、生きて生活を営む人間としての喜びや誇りをもたらしてくれるはずだ」と書いている。

ペンシルバニア大学教授(サイバネティクス、言語、文化研究領域)のクラウス ・クリッペンドルフは、『意味論的転回 デザインの新しい基礎理論』(エスアイビーアクセス、2009年)の中で、「デザインとは物の意味を与えることである」と書いている。

そして、『インターナショナル・ニューヨーク・タイムズ』紙のアリス・ローソンは、『HELLO WORLD ─「デザイン」が私たちに必要な理由』(フィルムアート社、2013年)の中で、デザインにどのような定義を与えてもわかりやすくはならないことを指摘しつつ「デザインは、これまでつねにそうであり、これからもそうであるように、私たちが自分のニーズや希望に合う生活を組み立てる上で役立てることのできる変化の担い手であり、私たちの生活に良くも悪くも巨大な影響を与えるものだ」と書いている。

そのほかにもグラフィックデザイナーのポール・ランドの「デザインとは関係である。形と中身の関係だ」という講義での言葉はよく知られている(『ポール・ランド、デザインの授業』(BNN、2008年)。

いずれの定義も納得できる言説ではあるのだが、デザインという言葉の定義としてはどれも充分とは言えない。正しいのだが言い尽くせてはいないというか、あいまいさが残るのだ。しかし、私はこのあいまいさ、定義づけの困難さ、そして多様な解釈・考えの共存性こそが「デザイン」の本質を示していると思っている。さらに言うと、このあいまいさがデザインの大切な武器であるとも考えている。

デザインに関するさまざまな言説の中で、アートディレクターで「絵を描く」人でもある佐藤直樹のデザイン観は、デザインのあいまいさを内包しつつも、また違う景色を見ているように感じられて強く私の興味を惹いた。佐藤は『無くならないアートとデザインの間』(晶文社、2017年)の中で「わたしにとってデザインとは、制作する立場であれ使う立場であれ、何かの波に乗るような、しかも見事なサーファーのようにではなく、泳いでみたり浮き輪を使ってみたり、常に移り変わる行為として、あまり大事にしすぎないほうがいい感じのものなのです。大事にしないというのはおろそかにすることではなく、大事にしすぎないことを大事にするような」と記している。

pingpong map for CITY2.0 著者がディレクター/デザイナーとして参加した東京大学知の構造化センターによる「pingpong」プロジェクト(2009年4月〜)は、ウェブ工学、言語情報技術、認知言語学などを応用し、マッシブデータフロー(大量なデータの流れ)から人間の行為のパターンを抽出し、利用者参加型のデザインプロセスによって、実空間と情報空間をひとつの環境としてデザインしていこうというもの。空間の中で動き、コミュニケーションする人を「賢いセンサー」としてとらえ、それによってウェブに集められる大量のデータを地図上に可視化することで浮かび上がる無意識のパターンについて考察した。 (写真:李明喜)

なぜいま「図書館のデザイン」なのか?

ポール・ランドは「デザインとは関係である」と言ったが、同じ講義の中で学生たちに向かってこう続けている。「すべては関係なんだよ。これとこれ、これとこれ、これとこれ、すべてが関係していて、それがいつも問題だ。何かを置いたとたんに、君は関係を作り出している。よいものであれ、悪いものであれね。たいていの場合はひどいものを。要点がわかっただろう?」。

関係は相互作用を生み出し、相互作用の総体として私たちの世界がある。人も人工物(デザインされたもの)も、環境も、それぞれが複雑さをもち、それら複雑なもの同士の相互作用によってできているこの世界はどうしようもないくらいに複雑だ。複雑なものは、還元主義的に分解しても、単純化や簡素化によってもとらえることはできない。複雑なものは複雑なままとらえなければ、まったく別のものになってしまう。複雑な世界を複雑なまま受け入れるということが、デザインプロセスにおける基本姿勢の第一歩である。私はデザインのあいまいさ、多様な考えの共存性が、複雑な世界に向き合い関わり合うための大きな武器になると考えている。

さて、このようなデザインの観点から現状の図書館を見たときに、ふたつの課題が浮かび上がる。

ひとつ目は、インターネット以降(という言葉を使うのはいまさらのような気はするが……)の知識のあり方についての問題である。図書館においては、メルヴィル・デューイ以来の図書館分類システムが知識を体系づけており、本というモノを介して知識に触れることを前提とした場合に、このシステムは圧倒的に優位だといえる。NDC(Nippon Decimal Classification 日本の図書館で使われている図書分類法)やデューイ十進分類法(アメリカの図書館学者メルヴィル・デューイが1873年創案した図書館分類法)のような列挙型分類法は階層性をもったツリー構造をしており、それにより知識の物理的レイアウトが可能となっている。意匠的にはどんなに新しくなっていても、ほとんどの図書館がまだこの物理的レイアウトをベースにつくられていっているといってよい。

しかしインターネットが普及してからは、知識は複雑なネットワークにあり(ツリー構造のような)かたちをもつものではないことがわかりつつある。知識が簡単に本というかたちを捨てることはないが、紙のもつ物質性によって固定化されてきた知識が解き放たれ自由になることで、知識の新しいレイアウトが必要となる。私たちは、本の上に固定化された知識と、複雑なネットワーク上で自由に動く知識とが融合した知識環境のデザインに取り組んでいかなければならない。

ふたつ目は図書館に期待されることと、図書館の役割についての問題である。地域創生やまちづくりの文脈で、いくつかのパターンの先行事例が誕生したこともあり、地域における図書館がますます注目されるようになっており、その中で利用者の期待と、運営として持続的にできることとのギャップが生じてきている。このような課題がもつれあった複雑な状況に対しても、デザインプロセスとして取り組むことが有効であると考える。公民連携の可能性が広がる中で、新しい公共性のデザインを創造していくという覚悟が求められる。

このふたつの課題に限らず、「図書館におけるデザイン」について、現実と起こりうる未来の両面から考えていくためには、すべてのデザインに必ず含まれる要素である「コミュニケーション・デザイン」や、私が専門とする「空間デザイン」への考察が必須になってくるが、この連載では、図書館のデザインを考えるうえでもっとも身近に触れられるだろう「プロダクト・デザイン」と、これからの公共の姿を考えるための足がかりとなるはずの「地域デザイン」について取り上げる。

デザインが図書館により深く入っていくことによって、粒度の細かい議論が生まれることを願っている。

(次回「プロダクト・デザイン」の章につづく)


編集部追記:
この連載は、2017年10月5日に刊行した、アカデミック・リソース・ガイド株式会社が発行する図書館雑誌「ライブラリー・リソース・ガイド(LRG)」第20号の同名の特集に所収された「プロダクト・デザイン」「コミュニケーション・デザイン」「スペース(空間)・デザイン(建築・インテリア・場)」「地域デザイン」の論考より、「プロダクト・デザイン」「地域デザイン」を抜粋し、一部に加筆修正したものです。

なお、誌面の特集では、グラフィックデザイナーの佐藤直樹氏(紫波町図書館を含むオガールプロジェクトのデザイン担当) 原田祐馬氏(福智町立図書館・歴史資料館「ふくちのち」のデザイン担当) 古谷誠章氏(小布施町立図書館「まちとしょテラソ」の建築設計担当) 柳澤潤氏(塩尻市市民交流センター「えんぱーく」の建築設計担当)をそれぞれお呼びし、著者自らが聞き手となって、各論考における考察や問題提起を深める座談会を収録しています。

ライブラリー・リソース・ガイド(LRG)購入先
https://www.fujisan.co.jp/product/1281695255/