あらためて、「浮上せよ」と活字は言う

2019年2月4日
posted by 仲俣暁生

先月末に小説家の橋本治さんが亡くなられた。謹んでご冥福をお祈りいたします。

小説だけでなく評論やエッセイ、古典の翻案・現代語訳など多彩な本を著した橋本さんには、出版論であり書物論といってもよい著作がある。1993年に雑誌「中央公論」に連載され、翌年に中央公論社から単行本として刊行された『浮上せよと活字は言う』である。

この本の主題は明瞭だ。出版産業がどうなろうと、人間にとって活字による表現や思考が不要になるはずがない。「既存の活字」が現実を捉えられずにいるのなら、その現実が見えている者こそ、その事態を言葉によって把握し思考せよということが書かれている。

1993年といえば、前年に昭和末期から続いたバブル経済が崩壊し、現在にいたる長期にわたる経済的な停滞が始まったばかりの時期である。自民党が一時的に下野し、野党による連立政権が成立した時期でもあった。

この頃の出版市場は、まだ上り坂にあった。出版市場統計としてよく参照される出版科学研究所のデータで市場規模がピークとなったのは1996年である。もしその時期が出版業界にとって「最良の時期」であったのだとしたら、橋本治はこの本でいらぬ心配をしていたことになる。だが、本当にそうだっただろうか。

「活字」そのものが怠惰だった

この本には、たとえばこんなことが書かれている。

「若者が活字離れを起こして本を読まない」などという一行の、何というもっともらしさよ。いかにももっともらしい説明が、しかしなんの説明にもなっていない。「若者が活字離れを起こした」と「若者が本を読まない」とは、まったく同じことだからだ。同じ言葉の繰り返しが、あたかも一方が他方の説明であるかのように響いて、そしてその先には何もない。権力となってしまった言葉とは、こんなものだ。何の意味も持たず、しかしそれは有効なものとして、存在を続ける。

十年以上も前にその時代の若者達が何故に“活字離れ”などという事態を惹き起こしたのか? その解明は、当面どうでもいい。問題は、「若者が本を読まないのは活字離れを起こしているからだ」などと平然と言って、それで何かの説明になっているかと思う“活字”の方にある。そのように形骸化してしまった活字が見捨てられぬままになっていたら、その方がよほどおかしいというものだ。

(改めて啓蒙を論ず)

若い世代が本を読まないこと、ようするに出版市場の冷え込みの原因を「活字離れ」などという同語反復でしかないクリシェに求める活字メディア側の怠慢について、橋本さんは怒りをこめてこう書いた。なぜだろうか。

この本はシェイクスピアの戯曲「テンペスト」を原作とするピーター・グリーナウェイの映画『プロスペローの本』を読みとくところから始まる。映像作品を存分に理解するためにも必要とされる古典に対する教養の必要を説いた後、この本は一転して、1970年代後半に出版の世界に起きたいくつかの出来事が、”活字”の世界にもたらした変化を詳細に論じていく。

具体的には、女性誌「JJ」(1975年創刊)や男性誌「POPEYE」(1976年創刊)の登場、この時代に角川書店の二代目社長となった角川春樹による「角川商法」、すなわち文庫本のエンターテインメント路線化とメディアミックス戦略がもった意味が論じられるのだ(ちなみに角川春樹氏はこの連載中に逮捕されていた)。

旧来の”活字”文化人にとっては「JJ」や「POPEYE」のようなビジュアル重視の雑誌も、国文学の専門出版社だった角川書店の文庫がエンターテインメント化していくことも理解不能の出来事だったが、当時の若者は「『まずそれから始めなければ』というレベルの人間」だったのだから仕方ない、と橋本治はこの本で書いている。

「人間がある時期に限って同じ本を一斉に読むこと」の異常さ

この本をリアルタイムで読んだ私たちの世代は、まさに「『まずそれから始めなければ』というレベル」の、つまり「活字離れ」を活字メディアに難じられた若者だった。そして、この「レベル」の読者にあわせて出版産業は肥大化し、1996年に市場規模は最大値を迎える。だが、いま振り返ってみて、「少年ジャンプ」の600万部が支えたとも言えるその実質はどれほどのものだったろうか。

皮肉なことに、この本が出た6年後の1999年に中央公論社は倒産し、旧来型の「活字メディア」の総本山ともいえる読売新聞グループに入り「中央公論新社」と名をあらためる。この本はいったん市場から消えた後、2002年に増補されて平凡社ライブラリーの一冊となったが、現在はこちらも品切れ状態である(だからこうして引用することによってしか、当時橋本治が表明した怒りを現在の読者に伝えることができない)。

ところで平凡社ライブラリー版の『[増補]浮上せよと活字は言う』には、「産業となった出版に未来を発見しても仕方ない」という小文が追加収録されている。この文章はじつは私が「季刊・本とコンピュータ」という雑誌で寄稿を依頼したものだ。こちらの増補版もいまでは手に入れにくいので、勘どころを引用する。

出版が“産業”として成り立つためには、「多種多様の人間が、ある時期に限って同じ一つの本を一斉に読む」という条件が必要となる。こんなことは、どう考えたって異常である。出版というものが、“産業”として成り立っていたのは、この異常な条件が生きていたというだけで、つまりは、そんなものが成り立っていた二十世紀という時代が異常だった――というだけの話である。

したがって二十一世紀には、本は「永遠の名作」としてロングセラーとして細々と売るしかない。なぜなら二十一世紀にはもうベストセラーは存在しないからだ。そして橋本さんは、本の未来は「富山の薬売り」のように、「必要なものを必要なだけ補充し続ける」という方向性にあるとも書いていた。

ベストセラーに依存した出版ビジネスはもう死んでいる

その後、二十一世紀が約二十年ほど経過したが、現実はどうなっただろうか。

橋本さんが亡くなられた先週の終わりに、二十年前の橋本さんと同じようなことを主張するアメリカの出版人が来日して講演を行った。ニューヨークでORブックスという小さな出版社を経営している、ジョン・オークスという現役の編集者だ。

ORブックスの特徴は、在庫をもたないことだ。すべての本が電子書籍かオンデマンド印刷によって発行されるため、やっかいな返品もない。オンデマンド印刷による出版のことを「オンデマンド出版」ともいうが、ようするにこれは富山の薬売りモデル、つまり「必要なものを必要なだけ補充し続ける」というビジネスなのだ。

長年にわたりジョン・オークスを取材してジャーナリストの秦隆司さんが書き上げた本は、『ベストセラーはもういらない』と題されている。日本にくらべて出版界がまだしも活況を呈しているように見えるアメリカでも、本の返品は出版社の経営を圧迫しており、大量生産・大量消費を前提とした出版のビジネスモデルは「ほとんど死んでいる」(ただしモンティ・パイソンのギャグとからめている)という。

それではORブックスはどんな出版活動をしているのか。同社のカタログをみてみると、新しい書き手による著作に混じって、懐かしいタイトルが散見される。ジョン・リードの『世界を揺るがした10日間』の百周年記念版アリエル・ドルフマンアルマン・マトゥラールの『ドナルド・ダックを読む』などだ。「マガジン航」で以前に秦隆司さんが紹介してくれた、アメリカの伝説的な文芸誌「エヴァグリーン・レビュー」の初期号も印刷版を販売している。

これらの古典的といっていい作品は、ORブックスがどのような価値観を奉じる出版社であるかをあらわすよい指標ではあるが、短期間に大量に売れる本ではない。こうした本をオンデマンドで売るのは、まさに「富山の薬売り」的な営みである(ORブックスのビジネスモデルの詳細については、オークス氏に長いインタビューを行ったので別途記事にする予定である)。

ところで、いま本があまり売れないという話は、もしそれが事実だとしても、出版を「産業」という生産供給側の視点からみたときの話だ。本は借りることもできるし、古本を買うこともできる。そして現実には、借りたり古本でしか読めない本のほうが多い。本は本来的に、いつどこで、誰が必要とするかわからない、という特徴をもつ。今日発売された本を切実に必要とする読者は、十年後、二十年後にようやく現れるかもしれない。

私は、橋本治の『浮上せよと活字は言う』という本を、出版産業が断末魔の悲鳴を上げているいまこそ、多くの人に読まれるべき本だと考える。しかしこの本を、当の出版業界がバックカタログから消してしまい、必要とする者に対して提供することができずにいる。せめて電子書籍としてでも、この本を「活かして」おいてほしかったが、今後も復刊のチャンスはいくらでもあるだろう。

この本に刻まれた”活字”はそのようにして、再浮上するのを待っている。

「返本ゼロ」が可能な出版のビジネスモデル――ジョン・オークス講演会

2019年1月22日
posted by 「マガジン航」編集部

ニューヨーク生まれの「返品ゼロ」の出版社ORブックスはどのように経営されているのか? 2018年12月にボイジャーから発売された、秦隆司著『ベストセラーはもういらない』に登場する同社の共同経営者ジョン・オークスが来日し、東京・日比谷図書文化館にて講演を行う(参加無料・要事前予約)。

ジョン・オークス氏とは

ジョン・オークス(John Oakes)氏は1961年ニューヨーク生まれ。ORブックスを創業以前にはグローブ・プレスという出版社で働き、伝説的な文芸編集者バーニー・ロセットと出会った(当時のエピソードも『ベストセラーはもういらない』でたっぷり語られている)。1987年にフォー・ウォールズ・エイト・ウィンドウズ(4W8W)という出版社を知人と立ち上げ、同社売却後、2009年にコリン・ロビンソンと共同でORブックス(OR Books)を創業した。電子書籍とオンデマンド印刷のみで「返本ゼロ」をめざす同社の出版活動は未来の出版事業のモデルとして注目されている(下は同社創業時のプロモーション映像)。

現在の出版システムは完全に死んでいる?

オークス氏は2013年にボイジャーから翻訳刊行された『マニフェスト 本の未来』にも「出版再考――痛みを感じ、傷みを抑える」を寄稿。一部のベストセラーに依存した現代の書籍出版はシステムとして完全に失敗しており、(人気コメディ番組「モンティ・パイソン」の台詞にならって)「出版は完全に死んでいる」とするショッキングな内容だった(2013年に開催されたDigital Book 2013に参加した際のオークス氏の映像取材が以下で公開されている)。

『ベストセラーはもういらない』(ボイジャー刊)

『ベストセラーはもういらない』の著者である秦隆司氏(「マガジン航」の寄稿者でもある)は1996年に『アメリカン・ブックジャム』というアメリカ文学専門の文芸雑誌を創刊。2012年には同誌のeBook版「eブックジャム」をボイジャー社から出版している。この日の講演には秦隆司氏のほか、ボイジャー代表取締役の鎌田純子氏も登壇。講演後にはレセプションパーティも予定されている。また参加者には特別小冊子としてジョン・オークス著「アイデアの錬金術 出版と文化」も配布される。

 

ジョン・オークス来日記念講演〜「生き残るための出版マネージメントとは?」

【日時】
2019年1月31日(木)14:00〜16:00(開場13:30)

【会場】
日比谷図書文化館 大ホール(東京都千代田区日比谷公園1-4

【登壇者】
ジョン・オークス(ORブックス)
秦隆司(『ベストセラーはもういらない』著者)
鎌田純子(ボイジャー代表取締役)

【参加方法】
参加費無料(先着200名)、
*以下のサイトを参照のうえお申込みください。
https://store.voyager.co.jp/special/you-dont-need-bestseller-anymore#info

省人化と小売――ふうせんかずら探訪と考察

2019年1月16日
posted by 湯浅 創

Paypayの100億円キャンペーンが10日で終わったという12月。「キャッシュレス」が経済産業省の施策として本格的に導入され始めている。オリンピック対応としてそれが正しいのか否かは歴史が判断するよりほかにないが、「イマココ」にいる存在としては、入り口でシャットアウトするのではなく、それをどのように「利活用する」かを考えておくことは重要である。

言うまでもなく、書店の粗利が低いことから、キャッシュレスにともなう決済手数料の負担は重荷である。第一のハードルは、「キャッシュレスにすることのメリットは何か」が提示できるかどうかであろう。

「フルキャッシュレス」書店としてのふうせんかずら

(写真提供:ふうせんかずら)

近鉄奈良駅から歩いて10分ほど。奈良町という観光スポットからは外れた、いわば鄙びた場所にある「ふうせんかずら」。その入居している古民家はリノベーション物件である。その在庫のセレクト性は他で紹介されているゆえにここでは述べないが、ポイントの一つは「事前登録制(会員制)キャッシュレス」という点である。楽天payを中心とするキャッシュレスな決済手段が提供されており、むしろ逆に現金は使用できない。これは店舗が無人店舗であり、入店を希望するのであれば、事前に登録しておくことで、入口ドアのロック解除の暗証番号が送られてくる仕組みだ。

(写真提供:ふうせんかずら)

特徴のある選書と棚(撮影は取材時、筆者による)。

小売のポイントの一つとして「接客」がある。相対することによってこそ、「イマココ」での触発があり、そこから売買が生まれる、という考えである。「ふうせんかずら」はそうではなく、商品が収められている「棚」と来店客が「会話」することによって売買が生まれるというスタイルということができよう。あるいはSNSを中心としたPRによって呼び込むことで、「目的買い」の場所として考えてもいいのかもしれない。

あらためて述べるまでもなく、書店の粗利は低く、なおかつ売れなくなってきている現在、家賃か人件費切り下げを余儀なくされている。同時に最低賃金の上昇から、新たな人手を確保することも難しく、首都圏・地方の区別なく、「通し」などと言われるような労働法的にはかなり「グレー」な働き方をしている書店員も多い。この人手不足の解消をそのような「サービス残業」「善意の搾取」の形で吸収しようとしているが、とある地方店は「人手不足閉店」を余儀なくされたという。

そこで注目されているのが、セルフレジ、キャッシュレス、そして無人店舗であるが、それぞれ経営者の皮算用ほどには簡単ではない。

1)セルフレジ
セルフレジの日本での導入は2008年頃から行われているので、すでに10年が経過している。それゆえに、スーパーなどにおいてはある程度定着してきていると言うこともできよう。だが、セルフレジの問題点の一つは店内動線上、「出口」に近いところに設置しない限り、「万引き」との区別がしにくいところにある。もちろん、他の防犯装置によってカバーすることも可能ではあるが、その分のコストが生じる。

決済は無人レジでキャッシュレス(写真提供:ふうせんかずら)

無人レジの決済画面(撮影は取材時、筆者による)。

書店の店舗設計は、クラシカルなものは出入口付近にキャッシャーが設置されているが、端末設置の影響その他から、そうとも限らない店舗も多い。また、「レジ袋」に入れることが中心の他の小売と違って、書皮(カバー)をかけることが多く(そしてそちらのほうがコストが安い)、それを望む購入者も多いために、その点からのホスピタリティーの低減が懸念される。

第二に、書店での購入点数は平均すれば2アイテムに満たないので、セルフレジによる処理の迅速化(=レジ待ち解消)にはそれほど貢献しない。

しかしながら、店舗立地によっては大きく貢献するところもある。たとえば、ターミナル駅に直結している店舗である。これは、列車に乗る寸前での購入がありうるので、そこを狙っての需要は考えられる。そしてこのことは、都会だけでなく、地方都市のように列車の本数が少ないところでも役に立つ。いわば「すぐ買いたい」という需要に応える余地の大きい店舗では検討しても良いだろう。

2)キャッシュレス
Paypayの「騒動」以来、ある程度の浸透が始まったといえるキャッシュレスであるが、その支払手段の多さがネックとなるだろう。すなわち、QR決済ひとつとっても5種類以上のものがあり、その他に交通系ICがあり、伝統的になクレジットカード、デビットカード、その他WAONやnanacoなどもある。それゆえ、レジスターが一括で対応できるものを導入できるところはよいが、そうでもないところは子機端末の嵐となり、結果、電源等においての圧迫が考えられる。

もちろん、Android端末などにおいて、ソフトウェアベースでかなりの種類のキャッシュレス手段を処理できるものも出てきている。ただ、その浸透にはもう少し時間がかかるだろう。

第二の問題としては、決済手数料の問題がある。大雑把に言って3.5%程度の手数料が発生するので、キャッシュレスによってまとめ買いが発生するということが説明できない限り、これもまたハードルが高い話となる。

第三の問題としては、「レジ締め」にかかるコストがキャッシュレスによって削減されるのであれば、導入メリットはあるかもしれない。しかし、ちょっとでも現金を扱う限りにおいて、レジ締め、両替のコスト(人件費、違算確認)は生じるのであるから、「現金お断り」というフルキャッシュレスにまで持っていかないと厳しいこととなる。

ただし、これもまた立地によっては推進すべきものとなろうし、「出版物購入」というビッグデータがマーケティング上必要であれば、そのデータの販売代金によって、導入コストは賄えるかもしれない。

また、出版社側からすれば、決済ベンダーが提供する「ポイント」にアプローチすることによって、報奨金を含めた販売施策の幅が広がる部分があるので、販売戦略としては可能性がある。

3)無人店舗
特に小売にとってのAmazonの存在は恐怖でさえあるので、AmazonGo開始時はややもすれば異常な熱狂を持って迎えられた。筆者は現地を訪問したことがないので、とおり一遍の情報でしかないが、この無人店舗(デリ)は、「キャッシャーがない」のであって、「無人」というわけではない(調理する人などはいる)。商品と決済という部分ではたしかに無人であり、このモデルがどこまで使えるのかが議論となっている。なお、いうまでもなく、中国ではすでにこの無人店舗は存在する(Amazonとは無関係)。

このモデルは、購入者の「コミュニティー」がある程度均質である必要があろう。AmazonGoも、最近、NEC内でセブンイレブンが始めた実験店舗も、「とあるオフィスに働いている従業員」が対象である。そのように顧客の多様性がある程度制限されている店舗であれば、規範の設定が比較的容易になるため、このモデルは通用するであろう。

第二に、このモデルは、レジ待ち解消がメインの目的にあるので、「お昼時」など購入集中がわかりやすい立地であれば、導入価値がある。このことと連動するが、第三に、このモデルの場合、「目的買い」が中心となる(お昼に食べる、といった目的)ので、「ぶらぶら買い」が多い総合書店にはやや向かないと考えられる。

逆に言えば、「目的買い」が多い書店であれば、このモデルは成立しうる。在庫整理の時間の制約がない故に、新刊の初速勝負の店には向かないが、所属者の質がある程度担保されている、大学内書店やオフィス・官庁内書店などでは検討すべきものであろう。

まとめ――購入行為は娯楽か労働か

上記のように、省人化を目的として、セルフレジ、キャッシュレス、また無人店舗の導入を検討することは、一長一短であることが見えてくる。もちろん、その「短所」に目を瞑ってでも導入しなければならないという事態もありうるし、それを否定するものではない。しかしながら、少なくとも「名目」としては、これらの手段を使用することで、「買い物がより便利になる」という感覚を購入者の側に与えない限りは、その導入はなかなかうまくいかないだろう。

下記のモデルをそのまま書店に当てはめることは難しいが、ディスカウントスーパーのトライアルが福岡のアイランドシティの実験店で行なっていることは、「買い物の未来」の一つの姿を見せてくれている。支払いはプリペイドカード(スマホアプリもある)で行う。郊外スーパーであるがゆえに、大量購入を想定し、ショッピングカートを用いている。そのカートに、バーコードリーダーとタブレットが付属しており、カゴに入れるたびにバーコードを読ませれば、金額が加算され、戻す場合はタブレットで取り消し操作をすれば良い。最終的にはゲートを通過し、個数確認をされて終わりである。支払いはプリペイドから引き落とされている。

おそらくは手数料の関係かビッグデータの捕捉の関係からであろう、プリペイドへの入金は現金のみであり、アプリ上でのカード支払いなどのキャッシュレス操作はできていないが、ここの部分は技術的に解消が容易であり、それほど重要な問題ではない。

ポイントは、「買い物する」という行為そのものが「労働」と捉えられているところである。これが「好きなモノを買う」という「娯楽としての買い物」、いわゆる「コト消費」と混在して語られるが故に、書店を小売として語るところに混乱が生じる。「書店で購入するのは娯楽なのか必要に迫られてなのか」。この問いを考えていく先に、書店の「未来」のひとつの形がおぼろげながら浮かんでくるのかもしれない。

非日常としての本屋、日常としての本屋

2019年1月9日
posted by 伊川 佐保子

年末年始に旅をした。日本列島を西に向かったその移動の意味の半分くらいは本屋を訪ねることにあったから、本屋へ向かう旅だったということもできなくはない(あと半分は、足の悪い祖母に会いに行くことである)。ここ最近、遠出が決まると、道すがら本屋を探し訪ねる生活が続いていた。

この旅では、岐阜・恵那の庭文庫と広島・尾道の弐拾dBのふたつの本屋に行った。どちらもその場所にあるよさをしんみりと感じることのできる、優しい店だ。もっと家の近くにあったらいいのにと、わがままな気持ちを抱かないわけでもないが、それは、また出かけようという言葉に置き換えられる。

旅の目的のひとつはこの店を訪れることだった。

思い出の中には、本と本屋にまつわる風景がいくらでもある。それらはいつも、駅前には小さな新刊書店とBOOKOFFがあり、立ち読みをしては、お小遣いで100円の文庫本や漫画を買った。足りなければTSUTAYAもあった。同級生の親戚がやっていた近所の駄菓子屋では、月末から早売りしている「りぼん」を買い、小学生も高学年になると、自転車で15分ほどのところにある大きな新刊書店に通った(そこでは大学時代、一度アルバイトもした)。もっとさかのぼれば、幼稚園時代に住んでいた場所の近くには、絵本専門店があって、わたしは読み聞かせ会に連れて行ってもらっていたらしい。

思い返せば、いくらでも本と本屋にまつわる風景が浮かぶ。それはいつも、幸せな景色としてわたしの中に存在している。

近ごろ、本屋に行くことは非日常になっているという。確かにそうなのかもしれない。必要な本があればAmazonで買えばいいのだから、わざわざ本屋に行くことは趣味のひとつにすぎない。いわれてみれば、わたしにとってもそうだ。多くの人々にとって本屋が当たり前のものだったのは、わたしのこども時代、あるいはそれよりさらに前の時代であって、そちらの方が特別だったといえるのだろう。

本屋のたしなみ

旅の前々日、自分の店の開店準備の工事がどうにかこうにか始まった日。大工さんの一挙手一投足を眺め続けているわけにもいかないので、青山ブックセンター六本木店跡地にできた文喫へ足を延ばしてみた。わたしの店ほんやのほからは、東京メトロ日比谷線の小伝馬町駅から電車に乗って10駅目が六本木駅。近いというほどではないが、行くこと自体はむずかしくない。

六本木を歩くのは久しぶりだったので、きょろきょろしながら店内に入る。平日の朝10時すぎ、オープンから1時間後。客の姿は少なく、黒いジャケットを羽織った店員が掃除をしていた。暖房が効いていたが、眠気を誘うほどではない。内装は本屋というより、上品なホテルのラウンジという雰囲気だ。一般人を寄せ付けないように見えて、中に入ってしまえばくつろぐための工夫がされている。

その配慮された空間に、それでもまだ恐る恐る入場料を支払うと、店員から手渡されたバッジを身につけた。雑誌の入った棚を開けたり、階段を上って本を眺めてみる。カウンターで煎茶をもらって机のある席に着き、横の席に座る人を真似てパソコンを出してみる。立体的な店内の一番上にある席からは店内をちょうどよく見渡せて、そわそわしていた気持ちが落ち着いてきた。

コートを脱いで椅子に掛けると、また本棚の方へ行ってみた。すべて1冊ずつ、同じ本はひとつもないのだという。工夫されているという噂を聞いていた平台には、文脈を感じさせる本が並べられていた。

文喫の書棚。

見ているうちに、わたしのスイッチが入った。手に取ってみたい、この本を読んでみたい、買って帰りたい。そう思ってしまうだけの楽しさがここにはあった。企みが隠されている。その企みが客の動きによってまた変化していくならば、来るたびに楽しめるだろうという予感が胸に残った。

本棚から数冊を手に取り、席に戻る。本を机に置いて、入り口でもらったパンフレットをめくると、「文喫のたしなみ方」としていくつかのルールが書かれていた。なるほど、この場はたしなむものなのか。いや、あるいは本屋自体がそうなのかもしれない。

一般的な本屋に「たしなみ方」があるとすれば、どうだろう。まずその中に「入場料を支払う」とは書かれていないはずだ。たいていは、「ふらりと立ち寄れて、お金を使わずに出ることができる」とされているように思う。

従来の本屋の常識からとらえるなら、文喫は非常識な本屋だ。でもわたしのような本好き、あるいは少なくとも本に嫌悪感は持たない人が、気分転換に作業するしたりのんびりくつろいだりする空間だとすれば、聞いていたよりも日常的な場所かもしれないと感じた。

たしかに部屋着で訪れるような場所ではない。でも例えば、どこか街に出かけて、急に刺激がほしくなったとき。どうせ面倒な仕事を片付けるなら、たまに息抜きのできる本のある空間で過ごしたいと思ったとき。その人にとっては、選択肢の上位に入ってくる場所かもしれない。そして思うに、日本には本屋の常識を気にする人よりも、「ちょっとした本好き」の方が多いのではないだろうか。

文喫は入場料を取ることで、本屋としては当たり前だった「ふらりと立ち寄れて、お金を使わずに出ることができる」ことに例外を示し、それがひとつのあり方にすぎないと明らかにした。どちらのあり方がいいかを語るよりむしろ、そのどちらもが本屋として許容されうることがわたしにはうれしい。

文喫では数時間くつろぎ、すぐに買いたかった雑誌と、どこかで出会えば買いたかった本と、はじめて触れて気になった本の合計3冊を購入した。また行くと思う。

まだ見ぬ本が勝手にうごめいている場所

この数年、車に乗る機会が増えた。それまで徒歩、自転車、電車がわたしの移動のほとんどすべてだったところに、突然、車が加わったのだ。すると、自分の中の地図がまるで変わってしまった。よく行く場所は「自転車か電車で近いところ」から「車で行きやすいところ」に替わり、今までとは違う風景を見るようになったのだ。かんたんに行けると思っていた紀伊國屋書店新宿本店は駐車しづらい場所になり、その代わり、なかなか行けないと思っていた遠い町の書店にも立ち寄れるようになった。人間とはなんと他のものに左右されやすい存在なのだろうと驚く。でもだからこそ、行こうと思えばどこにでも行ける現代に、わたしたちは好きなように移動し、本屋を発見することができる。

わたしが始めようとしているほんやのほにしても、オフィス街のビルの2階にあり、「どこでもドア」のない時代では、たいていの人にとって非日常的な本屋だろう。でも、誰かの日常の中に組み込まれることもあり得ないとはいえない。

わたしは、自宅のとなりに本屋があればいいと空想し続けている。自分の部屋の本棚もいいが、それだけでは足りない。それはあくまで、一度は自分の把握したものであり、覚えのない本を発掘してそれがいかに新鮮に感じられたとしても、本は動いていないのだから。わたしが思う本屋とは「わたしのあずかり知らぬうちに、まだ見ぬ本が勝手にうごめいている場所」であるようだ。

本の生きている音がする場所。そのためには、自分ひとりだけではない何者かの手が入っていなくてはいけない。そういう本屋が、家のとなりになぜないのだろうか。週によって、日によって、時間によって違う本屋がかんたんに行ける場所にあればいい。なんならすべての本屋がとなりにあればいい。つい、「どこでもドア」の発明を願ってしまう(もちろん、向かうまでの景色や思い出も含めて本屋の思い出になるのだから、それが失われるのは悲しいことでもあるが)。

本が動き続け、わたしがそれらに出会い続けるために、わたし以外の誰かもすぐにさまざまな本屋に出かけられ、その本屋でそれぞれに本を手に取ればいいと願う。それもおっかなびっくりではなく、ただ当然のこととして手に取ってほしい。買って帰って、読むなり、眺めるなり、触れるなり、本棚に並べるなりすればいい。わたしはすべての本屋の中に制御不能な動きを見続けたい。それがさまざまであればいい。なんとも利己的な願いだ。そんな途方もない願いを抱きながら、わたしは小さなひとつの本屋を作る。

本を動かしていくもの

旅の中、岐阜・恵那で訪れた庭文庫では、開店してからずっと行きたいと思っていた本屋だというだけでなく、休みの予定だったところわざわざ開けてもらったという事情もあり、少し緊張をしていた。

庭文庫の店内。

それでもゆったりした時間の中で、並ぶ本を手に取り、広がる景色を眺め、お茶をいただきながらストーブの前にのんびりしていると、店主の百瀬さんが「弁当を買ってきて、一緒に食べませんか」とさそってくれた。弁当屋が年末休暇に入っていたため、それは実現しなかったのだが、わたしは彼の優しさと、あまりの自然さにほっと息をついた。いいな、いいなとくり返し思う。こうやって旅の中ででも、今までに気付かなかった本屋との日常の芽は生まれていくのだろう。それはきっと、本を動かしていくものだ。

東京に帰ってみると、店の工事は難航し停滞していた。開店するにあたり準備不足なあれやこれやにも、徐々に気がついてきている。それでもきっと、2019年の2月1日に本屋「ほんやのほ」はオープンする。

本屋「ほんやのほ」は2月1日のオープンに向けて着々と工事中。

はやく、誰かの日常の発見になりうる本屋を試してみたい。本屋として、多くの人にたしなまれてほしい。そうすることで、多くの人々の手によって本が動き続けられますように。日本橋大伝馬町からはずいぶん遠い旅先の地で、そう願ったことを、忘れないようにしたい。

いま本をめぐる環境は、とてもよいのではないか

2019年1月7日
posted by 仲俣暁生

あけましておめでとうございます。今年で「マガジン航」は創刊から10年を迎えることになります。

昨年は下北沢に誰でも来ていただける「編集室」をあらたに設けました。今年はこの場所を拠点に、ウェブメディア以外にもいろいろな活動をしてまいります。今後も「マガジン航」をどうぞよろしくお願いいたします。

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この年末年始は仕事を離れて自分の読みたい本だけを読んで過ごした。10年前にこのサイトを立ち上げたときに漠然と思い描いていたような、電子化へと急激に舵を切るような「本の未来」は、2019年の現在もまだ現実には訪れていない。けれどもいま私たちが享受している書物をめぐる環境は、読者という立場に身をおくかぎりは、きわめて快適といっていいだろう。

仕事納めのあと、買ってからしばらく積んであった本の山を崩し、手始めに野崎歓『水の匂いがするようだ――井伏鱒二のほうへ』(集英社)にとりかかった。一気に読了し、井伏文学の魅力を語る野崎さんの見事な語り口に感嘆した私は、大晦日に近所の新刊書店と古本屋をまわり、地元で手に入る限り井伏鱒二の文庫本をかき集めた(手に入らない分は電子書籍でも購入した)。

また以前から気になっていたミステリー小説、アンソニー・ホロヴィッツの『カササギ殺人事件』(創元推理文庫)も年末年始の楽しみに買っておいた。こちらは読み始めて早々に乱丁がみつかり、正月明けに購入先の書店で交換してもらうという「事件」までオマケについたが、それも含めておおいに堪能したのだった。

本が本を連れてくる

野崎さんの本を読んで井伏鱒二にたどり着いたように、私の場合、本との出会いは書店の店頭よりも、「そのとき読んでいる本」に導かれて起こることが多い。ようするに本が本を連れてくるわけだが、実際にその本を手にするまでには、多くの場合インターネットが介在する(野崎さんの本の存在を知ったのも店頭ではなく、ネット上の広告か書評だったように思う)。

井伏鱒二の作品というと、教科書で読んだ「山椒魚」、広島の原爆を題材にした『黒い雨』、数年前に買って読みかけたままの『荻窪風土記』、井伏訳で読んだロフティングの『ドリトル先生』シリーズぐらいしか、私にはすぐには思い浮かばない。野崎さんという優れた水先案内人のおかげでこれら以外の井伏作品に導かれ、すぐにも読みたくなったが、既刊書は刊行年度が古いものが多く、当然ながら、新本として手に入れるのが難しい。確実に手に入れたければ、電子書籍が出ていれば電子書籍で、あるいは古書で購うしかない。

こう書くとネガティブな印象を与えるかもしれないが、紙では絶版(あるいは品切れ重版未定)になっている本も、ネットで検索すれば古書または電子書籍がみつかる。古書の場合は文庫から全集まで好きなものを選べるし、カタチのない電子書籍の場合は、即座に読み始められるだけでなく、古書のように汚れや傷みを気にしないで済むという利点もある。

ソーシャルメディアを介して「本と出会うこと」も格段に増えた。私の場合、フェイスブック上の知人が読んでいる本を自分でも読みたくなる、というかたちで「本と出会う」ことも多い(そういう人はあんがい多いのではないか)。とくに世間で話題になっている本の場合、信頼できる読み手である知人(得意なジャンルごとに何人もいる)の意見を参考にする。『カササギ殺人事件』はこのパターンで成功した(予想とはずいぶん違う話だったが、十分に面白かった)。

読書の多様化

本との出会い方だけでなく、「読書の仕方」も10年前に比べて格段に多様化した。

新年を迎えて私が最初に買った本は、洋書の電子書籍版だった。ビッグバンから恒星や惑星の形成、元素や生命の誕生を経て、人類の発生と文明の発展までを総合的に研究し記述する「ビッグ・ヒストリー」という学際的なアプローチについての本を、この分野について大いに信頼できる知人がフェイスブックで紹介しており、刺激を受けて同じ本をすぐに読みたくなったのだ。

アマゾンで検索すると、デイヴィッド・クリスチャンの「Origin Story: A Big History of Everything」というその本は、電子書籍版であれば千円未満で買えることがわかり、すぐにクリック。さっそく、昨年のうちに買ってあった音声認識アシスタント機器でテキストを読み上げさせた。

Kindle版で買った本はechoで読み上げ可能。同時に別の端末で読み進めることも。

ヒアリングも読解も片方ではいまひとつ不安な自分も、人工音声での読み上げを耳にしつつ、電子書籍端末のスクリーン上でもテキストを目で追う(ときどき辞書で日本語の意味を確認しつつ)ことで理解がかなりはかどった。こういう「読書」ができるようになったのは、読書テクノロジーの発展のおかげである。

この話にはオマケがある。その翌日、別の本を買いにまた地元の書店にでかけたところ、知人が紹介していたビッグ・ヒストリーについてのもう一冊の本(大判の図鑑)が邦訳されているのを発見したのだ。そもそもこの本を買うつもりで来たわけでもなく、税込9000円を超える高額書であるため二の足を踏んだが、「ここで出会ったが百年目」という気持ちになり、エイヤッと買うことに決めた。

正月早々これほどの高額本を売ることができたのだから、地元の書店は「Origin Story」に安い電子書籍版が存在したことを感謝すべきであろう。

「出版不況」は無意味な言葉

なぜこういうことを書くかといえば、年中行事のように繰り返される「出版不況」という言葉に違和感があるからだ。

読者はいま、さまざまな場で本と出会い、本を買い、さまざまなかたちで読んでいる。「新刊を紙の本で定価で買って読む」ということ以外にさまざまな選択肢(古書のネット購入や電子書籍)が生まれた以上、紙の書籍市場がある程度、縮小するのは仕方ない。それにしては、少子化や消費増税といった逆風も吹いているなかで書籍市場は、あんがい踏みとどまっているのではないか。

出版市場統計をもとにメディアが十年一日のように伝え続けている「出版不況」とは、インターネット広告の急激な拡大で「広告媒体としての雑誌」の存在意義が薄れたこと、マンガという出版コンテンツが上首尾に電子書籍(およびウェブ)へと移行したこと、さらにここまで述べたようなかたちで本との出会いの場が多様化し、読書全体に対して新刊書が占める割合(担うべき役割)が相対的に減じたこと、この三つが複雑に絡み合っている事態をぞんざいに一言でまとめただけの、まったく意味のない言葉だと私は考える。

公共図書館で借りるという選択肢まで含めれば、いま本を読む環境は幾重にも多層化・多様化している。それは基本的によいことだろう。純然たる「読者」の立場からみれば、本と出会うための環境は、少なくとも私が学生だった1980年代よりも全体としてはるかに向上している。

そしてこの環境はもはや、それ以前には戻らない。いまからさらに10年後、本を読む環境はさらに多層化・多様化していくだろうし、そのことを私は大いに期待する。これが年末年始を読書三昧で過ごした「読者」としての偽らざる実感である。