日本語電子書籍リーダーの進む道

2010年12月7日
posted by 徳永 修

11月25日、ソニーは、電子書籍専用リーダー「Reader」の日本市場での発売と、電子書籍販売サービス「Reader Store」の日本でのサービス開始を発表した。製品とサービスのリリースは12月10日で、この日は、9月27日に発表されたシャープの電子書籍リーダー「GALAPAGOS」の発売日でもある。そのため「ソニーVSシャープ」だとか「電子書籍6陣営激突」といった類の報道も多いが、Readerの記者発表を見る限り、ソニーが、これまでの端末ベンダーがお座なりにしていたいくつかの点にこだわっていることに気がつく。

文具としての電子書籍リーダー

今回発売されるReaderは、5インチのE-Ink電子ペーパー・ディスプレイを搭載した「Pocket Edition(PRS-350)」と、6インチの「Touch Edition(PRS-650)」の2機種である。アルミボディを採用し、背面にラバー風塗装を施すなど、実際に触れた印象は「高級文具」。事実、ソニーも、Readerを「IT機器」ではなく、紙の本とテイストの共通する「ステーショナリー」として訴求している。ソニーマーケティング社長の栗田伸樹によるプレゼンテーションでも、「持つ喜び」「読書好きのお客様」「文庫本サイズ」といった、およそITとはかけ離れた言葉が目立った。

今回発売されるReaderは画面サイズが5インチと6インチの2機種。

今回発売されるReaderは画面サイズが5インチと6インチの2機種。

日本版Readerのファームウェアは、米国等で9月に発売された同機種のソフトを日本語にローカライズしたものだ。電子ペーパーの描画速度は旧機種(PRS-300/PRS-600。日本未発売)に比べてかなり向上しており、ページを送る際のストレスは少ない。日本語のメニュー構成は階層構造も浅くシンプルで、通常利用する分には、操作していることをほとんど意識せずにすむだろう。トップ画面にはアプリケーションのメニュータブもあるが、搭載されているのは辞書とテキストメモ、オーディオ(PRS-650のみ)と少なく、ほぼ文字を読むことだけに機能が絞り込まれている。

ディスプレイは、両機種ともタッチパネル方式を採用している。スタイラスが付属しており、文章へのマーキングや簡単な書き込みができる。タッチパネルは、旧機種がディスプレイ上に貼られたスクリーン・センサーによって位置検出を行っていたのに対し、四方のフレームに内蔵された赤外線センサーによって実現。そのため、書き込みの反応速度は若干犠牲になったが、コントラストが改善されて可読性は向上した。解像度はいずれも600×800ピクセルで、16諧調のグレースケールである。

重量はPRS-350が約155グラム、PRS-650が約215グラムと非常に軽く、厚さも10ミリに満たない。ちょうど手帳を手に持っているような感じである。記者発表の翌日に銀座ソニービルのショールームで聞いた説明員の話だと、客のほとんどが画面の大きなPRS-650を目的に来店するが、両方を触って比べているうちに、より軽いPRS-350の方に興味を示すのだそうだ。

コンテンツ供給とオープン化

Reader発売と同時にサービスインするReader Storeはソニーの販社であるソニーマーケティングの直営で、スタート時点で約20,000点の書籍が用意される。プレスリリースには吉田修一『悪人』、林真理子『Anego』、村山由佳『キスまでの距離 おいしいコーヒーのいれ方』などの人気タイトルが並ぶが、すでに電子書籍化されているものが多い印象だ。それ以外のラインナップは現時点では不明だが、日本語電子書籍フォーマットが、当初、XMDF形式しかサポートされていないので、各出版社が現状保有しているXMDF資産を中心としたものになるのではと予想される。関係者によると、ラインナップの新規追加は、11月4日に事業会社化された株式会社ブックリスタが、出版社に対する窓口となってアグリゲーションを進めるようだ。しかし記者発表では詳しい説明はなく、名前が紹介されたにとどまった。

Reader用コンテンツに関して、開拓・制作・卸し=ブックリスタ、流通・販売=Reader Storeというのが当面のフォーメーションであることは間違いない。ブックリスタは、7月1日にソニー、凸版印刷、KDDI、朝日新聞社の4社が均等出資して設立した電子書籍配信事業準備株式会社(いわゆる4社JV)を改組したものだ。この会社は、登記上の本社を凸版印刷本社所在地に置き、オフィスを朝日新聞社屋内に構えている。2人いる代表取締役のうちひとりはソニー・ミュージック出身、もうひとりは凸版印刷出身だ(ほかにKDDIと朝日新聞社から取締役がひとりずつ出ている)。

同社が、Readerの日本市場参入を前提として設立されたのは確かであるし、設立記者会見で代表挨拶を行ったのが、ソニーの電子書籍事業を統括する米国ソニー・エレクトロニクス シニア・バイス・プレジデントの野口不二夫であったことから、ソニーはかつての「LIBRIe」のときと同じように、ハードとコンテンツの統合的供給を行うのではないかと見る向きもあった。

登壇した野口上級副社長は「オープン化」を強調。

登壇した野口不二夫シニア・バイス・プレジデントは「オープンな戦略」を強調。

しかし記者発表で、ソニーはReaderのオープン化を強調しており、それはコンテンツ供給でも例外ではないと思われる。ブックリスタは他の読書端末にもコンテンツを供給するだろうし、Reader Storeの仕入れ先もブックリスタだけにはならないだろう。これまでの動きを見ていると、ソニーは、ブックリスタとReaderのプロジェクトを、注意深く切り分けている。ブックリスタの役員構成と出資比率こそ結果的に4社均等だが、(実際のイニシアチブはともかく)あまり前面に立ちたくないのではと思わせるふしがある。前述のように、Readerの記者発表でも、ほとんどブックリスタに触れられることはなかった。

こうした配慮は、すべてReaderのオープン化を担保するものだと私は考えている。この点だけとっても、コンテンツ供給会社を「TSUTAYA GALAPAGOS」と命名し、設立のプレスリリースに「メディアタブレット「GALAPAGOS」やシャープ製スマートフォン向け」と明記したシャープとは、真逆の戦術が見える。

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「本とコンピュータ」関連書籍が続々と刊行

2010年12月6日
posted by 仲俣暁生

「マガジン航」で先行連載されていた津野海太郎さんの「書物史の第三の革命」を含む新著、『電子本をバカにするなかれ』が国書刊行会から出版されました。この刊行にあわせ、先行公開の最後となる第五回「本の電子化はいつはじまったか?」を公開しました。今回のおもな話題はインターネット上のアーカイブ、つまり図書館であり資料庫です。

津野さんは1997年から2005年まで続いた雑誌、『季刊・本とコンピュータ』の創刊編集長で、『本とコンピューター』『本はどのようにして消えていくのか』(ともに晶文社)という著作もあります。『電子本をバカにするなかれ』には『季刊・本とコンピュータ』に掲載された記事が多数収録されているほか、1986年にリブロポートから刊行され絶版となっていた『歩く書物』という本からも、書物論にかかわる文章がいくつか再録されています。

「本とコンピュータ」にかかわる二つの本がほぼ同時期に刊行。

「本とコンピュータ」にかかわる二つの本がほぼ同時期に刊行。

時期を同じくして、「マガジン航」の発行人でもあるボイジャーの萩野正昭の著書『電子本奮戦記』も新潮社から出版されました。萩野は『季刊・本とコンピューター』創刊時の副編集長でもあり、この本に収められた「異聞・マルチメディア誕生記」は同誌で連載されていた文章を再編集したものです。

このほか岩波新書から刊行された『本は、これから』(池澤夏樹・編)には、萩野をはじめ、「本とコンピュータ」プロジェクトの編集メンバーだった河上進(南陀楼綾繁)さん、四釜裕子さんの文章や、私たちの雑誌にもたびたび寄稿していただいた多くの方々の文章が集められています。また同じ岩波書店から刊行された『書物と映像の未来~グーグル化する世界の知の課題とは』には、「本とコンピュータ」プロジェクトで東アジアの出版についての国際会議を組織するうえで尽力くださった、元平凡社編集局長の龍沢武さんが参加しています。これらの本が、「電子書籍元年」を喧伝されたこの年の終わりに出揃うことになったことにも、なにかの縁を感じます。

『季刊・本とコンピュータ』という季刊雑誌を軸に、ウェブ版やオンデマンド出版、国際出版など多様な出版活動を8年にわたって展開した「本とコンピュータ」プロジェクトに、私も創刊から参加していました。このプロジェクトは2005年に終了しましたが、当時議論したさまざま論点は、本格的な電子書籍の時代を迎えようとしている今後、あらためて大きな問題として浮上してくることでしょう。

「本とコンピュータ」プロジェクトになんらかの関わりのある、これらの本を読んでつくづく思うのは、書物の問題は歴史的な長いスパンで考える必要がある、ということです。津野さんも「書物史の第三の革命」という文章を、このように述べることではじめています。

いま、というのは二十一世紀の最初の十年がたった現在という意味ですが、そのいま、私たちにしたしい本と読書の世界が大きく変わろうとしている。

そのことを前提としてみとめた上で、この変化を「本の電子化やインターネット化に乗りおくれるな、急げ急げ」というようなあわただしい観点からではなく、五千年をこえる歴史をもつ書物史の大きな流れのなかで、できるだけ気長に考えてみたい。

遠い未来を考えるのが大変ならば、わずか数年前のことを振り返ってみてもいいかもしれません。たとえば、5年前に終了した「本とコンピュータ」プロジェクトのことを知ろうと思った場合、インターネットはほとんど役に立ちません。バックナンバーをアマゾンなどで購入できるのは便利ですが、当時のウェブサイトは残念ながらすっかり消えており、多岐にわたった当時の活動全体をみわたすことはできません。

2003年10月頃の「本とコンピュータ・ウェブサイト」。右上のコラムの記事はリンクが生きている。

2003年10月頃の「本とコンピュータ・ウェブサイト」。リンクもところどころで生きている。

そこで、試みにインターネット・アーカイブのしくみのひとつである「ウェイバック・マシン」で、当時のウェブサイトを検索してみました。上の画面は、インターネット・アーカイブに残されていた当時のトップページのうち、もっとも状態のよかった2003年頃のものです。それでもいくつか画像が抜け落ちており、リンクはところどころしか生きていません。たった7年前のウェブサイトなのに、なんと古ぼけてしまったことでしょう。しかし、インターネット・アーカイブが当時のサイトを(もちろん勝手に)記録しておいてくれたおかげで、私たちは当時のことをまざまざと思い出すことができるわけです。

「本とコンピュータ」プロジェクトをいま振り返って感じるのは、本を一つひとつの読書端末としての側からだけでなく、図書館やアーカイブといった、本をとりまく環境全体の側から見渡そうとする姿勢です。

これまでも読書のための「端末」は、長い歴史の中で、石からパピルスや羊皮紙、木簡をへて紙へ、さらに電子機器へと姿を変えてきました。本の未来を考える上でいちばん重要なのは、端末がどのようなものに姿を変えても受け継がれていく、「著作」という意味での「本」であり、それらがつくりだす多様性の確保と、再生産の仕組みの維持ではないでしょうか。目先の電子書籍端末やプラットフォームの競争は、より一段大きな、こうした視点から捉えなおす必要があります。

この「マガジン航」というメディアは、「本とコンピュータ」のささやかな後継プロジェクトです。当時のすべての記事を網羅的にアーカイブすることは難しいですが、おもだった記事でいま読んでも面白いものは、なんらかのかたちで「マガジン航」にも再掲載したいと考えています。当時の寄稿者の方で、「本とコンピュータ」に掲載された記事のここで再録をしてもよいという方はぜひ、編集部までご連絡ください。

■関連記事
書評―電子書籍奮戦記/電子本をバカにするなかれ(404 Blog Not Found)

5 本の電子化はいつはじまったか?

2010年11月26日
posted by 津野海太郎

ここでもういちど「書物史」運動について――。

この運動の起りは一九三〇年代のフランスで開始されたアナール学派の歴史学にあったようです。マルクス主義史学をふくむ従来の歴史学が戦争や政治などの大きな事件を重視したのに対して、こちらの歴史学は、その時代時代を生きていた有名無名の人びとの日常生活の細部、その心性、かれらがなにを信じ、どんなふうに感じたり考えたりして暮していたかをこまかく調べ上げ、そこから新しい歴史学を組み立てようとした。

リュシアン&フェーブル『書物の出現』。ちくま学芸文庫版は惜しくも絶版。

フェーブル&マルタン『書物の出現』。ちくま学芸文庫版は惜しくも絶版。

そのアナール学派の中心にいたのがマルク・ブロックとリュシアン・フェーブル。そしてそのフェーブルが、一九五八年に若い書誌学者のアンリ=ジャン・マルタンと組んで『書物の出現』という大著を刊行し、これが「書物史」運動のはじまる直接のきっかけになった。このことにはすでに触れました。グーテンベルクに発する印刷革命によってヨーロッパに近代的な出版産業が成立する。その過程をはじめて大局的かつ顕微鏡的な微細さであとづけた本です。

もっともフェーブルは一九五六年、構想を組み立て、序文を書き上げたところで七十八歳で死んでしまいましたから、あとはすべてマルタンがひとりで書いた。そのフェーブルの手になる序文にこんな一節がある。

西洋社会のただ中に出現した「書物」は、一五世紀中葉から普及し始め、二〇世紀中葉の現在では、全く異なる原理にもとづく数々の発明によって脅かされ、今後も永らくその役割を続けられるかどうかが危ぶまれている。

そういうことなんです。アドルノが「書物が書物でないものになった」と嘆いたのとおなじ一九五〇年代、つまり「本の黄金時代」のまっただなかで、最晩年のフェーブルもまた、五百年まえに「西洋社会のただ中に出現した」書物が、これからもそのままのしかたで生きつづけられるかどうかを心配していたらしい。

ただし、ここでかれが「全く異なる原理にもとづく数々の発明」といっているのは、もちろんコンピュータではありません。映画やレコードにはじまってテレビにいたる二十世紀の新しい視聴覚メディアのことです。

欧米の「書物史」運動の深層には、もともと、「西洋社会」が生んだ(とかれらが考える)印刷という複製原理と、そこにはじまる近代出版業が達成した「黄金時代」への強烈な自信やプライドがあったと思います。と同時に、そのオプティミズムのさらに奥ふかいところに、もうひとつ、印刷とは「全く異なる原理」にもとずく新来の視聴覚技術へのおそれと、いずれはそれが「書物の消滅」をまねいてしまうかもしれないという不安が、ひそかに埋めこまれていた。フェーブルの序文は、欧米の研究者の書物史への関心の高まりの裏にそうした二重の意識がかくされていたらしいことを示している。

でも、かさねていいますが、このときはまだ、フェーブルの目にコンピュータは見えていません。では一体いつ、コンピュータが本の運命に直接かかわる技術として登場してきたのか。私は一九七〇年代の初頭だと考えています。

その当時、イリノイ大学の学生だったマイケル・ハートという人物が、文字や数字などの記号をそこに表示できる以上、コンピュータ画面もなんらかの本になりうるのではないかと思いついた。で、まず「アメリカ独立宣言」を自分でタイプし、それを大学のメインフレーム・コンピュータにつながる小規模なネットワーク(インターネットの前段階)をつうじて友人たちに送りつけた。おそらくこれが人類史上はじめての電子本だったのではないか。

いいかえれば、最初、情報生産の道具として誕生したコンピュータが、このときはじめて情報の消費のための道具になった。情報とか消費と呼ぶのはすこしつらいから、いいかえますと、コンピュータがこのときはじめて人間が読書するための道具になった。その未来がチラッと見えてきた。

電子テキスト・アーカイブのさきがけ、プロジェクト・グーテンベルクはいまも健在。

電子テキスト・アーカイブのさきがけ、プロジェクト・グーテンベルクはいまも健在。

そして一九七一年、ハートはおなじ大学のおなじコンピュータをつかって、「プロジェクト・グーテンベルク」という電子公共図書館計画をスタートさせます。著作権の切れた作品を、ボランティアのスタッフが手入力でデジタルテキスト化し、最初は三・五インチのフロッピーディスク、のちにはインターネットをつうじて無料で配布する。この方式が世界中にひろがって、各地に私設の電子公共図書館が出現した。一九九七年に富田倫生氏を中心に設立された「青空文庫」も、その代表的なひとつといっていいでしょう。

ただ、本と読書の電子化という領域にかぎっていえば、その後の変化はまことに遅々たるものでしたね。私がパソコンをつかいはじめたのは一九八七年ですが、そのころ、この領域で話題になっていたのはDTPです。デスクトップ・パブリッシング(卓上出版)。だから読書ではなく「紙と印刷の本」生産のための新技術。ただしこの段階では、あくまでも個人や小集団のための技術で、プロの印刷人や出版人は腹の底でバカにしていたんじゃないかな。

そんな状態のなかで、九〇年代、つまり二十世紀の最後の十年間がはじまる。その前半期に生じた大きな変化といえば、なんといっても、マルチメディア技術の確立と、それにつづく一般社会へのインターネットの登場(それまでは利用の範囲を軍や政府機関や大学などに限定していた)でしょう。このふたつによって、いまにつづくデジタル環境の基盤がようやくととのった。

でも、そのことを話しはじめるときりがなくなりそうなので、ここでは省略。そのふたつの基盤技術をのぞくと、とことん独断的にいいますが、この時期、本の電子化にかかわる技術や構想で、あとにつながるものとして成功したのは以下の三つしかなかったと思います。

① エキスパンド・ブック(一九九二)
② インターネット・アーカイブ(一九九四)
③ OPAC(一九九五)

ざっと説明しておきましょう。

マイクル・クライトンのベストセラーを電子書籍化したエキスパンド・ブック版『ジュラシック・パーク』

マイクル・クライトンのベストセラーを電子書籍化した、エキスパンド・ブック版『ジュラシック・パーク』

まず①の「エキスパンド・ブック」は、ニューヨークの印刷業者の息子だったボブ・スタインがサンタモニカで設立したボイジャー社が、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』やマイケル・クライトンの『ジェラシック・パーク』などを皮切りに、最初はフロッピーディスク、つぎにCDのかたちで刊行した電子本シリーズの名称です。これは日本語名称で、正確にいうと、エキスパンデッド・ブック。

このシリーズによって、ページめくりとか全文検索とかムービーとか音声とか、印刷本のしくみをまねつつも、それを電子的に強化した電子本のかたちがはじめて明確に示された。つづいて、このタイプの本を自作するツールキット、印刷本でいえばDTPにあたる電子本の作成ソフトが発売される。日本でも新潮社の『新潮文庫の一〇〇冊』や講談社の『群像総目次』など、多くの電子本がこのソフトによって作成されています。

ここで注目すべきなのは、このツールキットが書物生産の道具であると同時に、私たちが電子テキストを紙の本を読むように読むための読書装置でもあったことです。じぶんで書いたりインターネットで入手したテキストをこのソフトに読み込むと、それをスクロールではなくページをめくって読む本のかたちにしてくれる。もちろん注付けや検索も可能。私は手もなく感動しました。だれもそういいませんけどね、いまある電子本や読書装置のかたちや仕組みは、すべてここからはじまったといっていいんじゃないかな。

そしてつぎが②のインターネット・アーカイブ。つまりインターネットで利用できる電子書庫。記録保存所。カッコのなかの年号「一九九四」は、その草分けともいうべきアメリカ議会図書館の「アメリカン・メモリー(アメリカの記憶)」計画が発足した年です。同館が所蔵する約一億タイトルの歴史資料(文書、写真、ポスター、映像、音声、レコードなど)のうち五〇〇万タイトルを二十世紀中にデジタルデータ化し、インターネットをつうじて、ひろく全世界に公開していこうという壮大なプロジェクトでした。いや、「でした」じゃないですね。さらに強化されて二十一世紀の現在も継続中です。

米国議会図書館の「アメリカの記憶」プロジェクト。

米国議会図書館「アメリカの記憶」プロジェクトのトップページ。

ブログやミクシィやツイッターのようなコミュニケーション・サイトがインターネットの一方の極にあるとすれば、もう一方の極にこの種のデジタル・アーカイブがある。

その後、この「アメリカン・メモリー」をモデルに、世界中で、さまざまなタイプのアーカイブが構築されています。膨大な資料を、文字資料と視聴覚資料をひっくるめて、高度の厳密性をたもちつつ、どうやって一般利用者にもわかりやすく、しかも美しくデータベース化するか。それがアーカイビストの腕の見せどころになる。その点になると、国立国会図書館の「近代デジタル・ライブラリー」などもふくめて、残念ながら、日本のものはいささか以上に野心と迫力を欠く。センスや深みにも乏しい。極の一方が欠けたままのインターネット世界。なんとかならないものだろうか。

③のOPACは、Online Public Access Catalogue の略語です。インターネットでだれもが利用できるデータベース化された書誌カタログ。ふつう、「オーパック」と発音します。もともと図書館から生まれた用語ですが、オンライン書店のアマゾンによって、その威力のほどが、はじめて一般にひろく知られるようになった。カッコ内の年号「一九九五」は、そのアマゾンがサービスを開始した年(日本では二〇〇〇年)――。

私もそうでしたが、日本の出版人のほとんどは自社出版物のデータベース化にはまったく無関心でしたよ。それがアマゾンの出現によって一変した。いわゆるロングテール効果で、とみに売れなくなっていた旧刊本の在庫がふたたび動きはじめるかもしれない。そういう希望が生まれてきた。

じつは本家本元の図書館ですらそうなんです。大学図書館につづいて、公立図書館のOPAC化が一気にすすんだのも、アマゾン・ショックのせいが大きいと思う。

今世紀のはじめ、インターネットでの予約が可能になり、と思ったら、たちまち多くの地域で複数の図書館蔵書の横断検索ができるようになったでしょう。書店と図書館、つまり有料と無料の書物流通のふたつの場で、データベースがめざましい力を発揮するようになった。そのことがだれの目にもはっきりと見えてきた。いま図書館の貸しだしカウンターに並んでいる人の三分の一はネットで予約した人たちなんじゃないかな。書店がすでにそうなっているように、図書館にも現実のものと電子的なものと、ふたつの入口ができた。この変化はきわめて大きいと思います。

※本稿は国書刊行会から刊行された津野海太郎氏の新著『電子本をバカにするなかれ』に収録されている、「書物史の第三の革命~電子本が勝って紙の本が負けるのか?」の第一章から第五章までを抜粋して先行公開したものです。

(第6章以後は単行本でお読みください)

「ネットとマスコミ」の連載を終えて

2010年11月26日
posted by 北島 圭

昨年4月から今年10月まで約1年半、ネットとマスコミの向き合い方を取材してきた。これまでの取材活動を出版社の動向を中心に振り返ってみたい。

電経新聞に連載した「ネットとマスコミ」は2009年4月にスタートした。激動するネットとマスコミの関係をじっくり取材して見極めたいという思いから始まった企画だ。もともと1年以上の連載にする予定だったが、開始当初、「最後の総括では『逆襲するマスコミ』『ネットで再生するマスコミ』くらいの見出しを付けることになるのではないか」という、いま思えばひどく甘い見込みを立てていた。要はマスコミの底力に期待していたわけだ。

結局マスコミを取り巻く厳しい事業環境は、当時といまとで何も変わっていない。ひどくなっているようには見えないが、改善しているともいえない。あえて表現するなら「苦境の固定化」といったところか。

そのような中、従来よりもネット事業に傾注する社が増えているのは事実だ。目の色も確実に変わっており、チャレンジングな姿勢が目立つ。その傾向はとくに出版社に強く現れている。背景にネット社会の広がりがあるのはもちろんだが、もう一つ重要なポイントは、ネット事業に力を入れても、本業への悪影響は軽微で、場合によってはシナジー効果のほうが大きいと、各社が認識し始めていることだ。

やんちゃなネット企業が臆面もなく自分たちの領域を侵食するので、しかたなく重い腰を上げ、自らネット事業に乗り出しているという面もないわけではないが、そういう後ろ向きな側面はかつてほど強くない。ただ、それらの取り組みが成果に結びついているとは言いがたく、暗中模索は当分、続きそうな気配だ。しかし一体いつまで続くのか。気が滅入っている関係者も少なくない。

マスコミに踊らされるマスコミ

現状の動きに対し、あえて過激な見出しを付けるなら「マスコミに踊らされるマスコミ」「ネットに翻弄されるマスコミ」という感じだろうか。

当然のことだが、マスコミ各社の情報収集力は非常に高い。彼らはICT(Information and Communication Technology=情報通信技術)の最新動向をはじめ、同業他社の戦略をいち早くキャッチし、自社に取り入れている。iPhoneが登場すれば、すばやくiPhone向けにコンテンツを配信し、iPadが出れば、瞬時に対応するという具合に、その動きは極めてスピーディだ。瞬発力はビジネスの要諦でもあるので、それはそれで刮目に値するが、一方で盲目的に疾走しているような不安も覚える。マスコミが流すネット関連の先走り情報にマスコミ自身が踊らされているように見えなくもない。

ネット上のサービスは消長が激しい。いまはときめいていても、明日になれば廃れているというサービスは珍しくない。人気サービスにしてもほとんどはネットリテラシーの高いヘビーユーザーがけん引しており、一般的に定着しているサービスはむしろ稀有だ。

以上の観点から言っても、各々のサービスについて、本当にビジネスとして継続できるのか確認する必要がある。具体例を一つ挙げるなら、現在話題沸騰中のデジタル書籍。果たして商品として世の中に受け入れられ、ビジネスとして成立するのかきちんと精査したほうがいい。

数年前のネット界は、ブログやSNSに脚光が集まっており、今後の主流と見られていた。しかしどうだろう、一時ほどの輝きは失せ、主流というよりは一部マニアのツールという位置付けだ。ケータイ小説はどうか。飛ぶ鳥を落とす勢いで登場したが、いまは見る影もない。消滅したわけではないが、マニアックなサービスとして細々と生きながらえているという雰囲気だ。

デジタル書籍も実はその延長線上にあるのではないか。私はデジタル書籍に対する出版社の挑戦を評価しているし、その普及に水を差すつもりは毛頭ないが、少なくともこのような視点で検証してみることも姿勢として大切なことではないか。盲進を防ぐという意味からも重要なことだと思う。現状のデジタル書籍はプラットフォーム提供者が売り上げの数十%を手数料として持っていく。著者へ支払う著作権料や原稿料などもあるので、出版社の手元にはほとんど儲けが残らない。

ビジネス動向についても疑問符が付く。新書のデジタル電子書籍を制作、販売する某出版社の編集員は「ひどいものは1カ月の売り上げが400円くらい」と動揺を隠さない。

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カラー液晶の新型Nook試用記

2010年11月24日
posted by 大原ケイ

先週バーンズ&ノーブルのNookColor(勝手に「黒Nook」と命名)が届いたので、まずは使い心地などをご報告。

iPad並みに小じゃれた縦長の箱を開けようとして、突然まん中からバキっ!と折れるものだから、一瞬いきなり壊したか?と焦ったけど、マグネット式になってたんですな。あ〜、ビックリした。別にこんなところでアップルと競って凝ってみてもしょうがないだろうと思いつつ、黒Nookを取り出すと…第一声は「重ッ!」でした。

こんなパッケージで到着。お洒落。

こんなお洒落なパッケージで到着。

黒Kindleをちょっと縦長にしたぐらいの大きさなんだけど、やけにズッシリ。E-ink(いわゆる「電子ペーパー」)のNookと厚さは変わらないのに更に重い感じがするので、計ってみたらやっぱりね、1ポンド近く、つまり437グラムもあるでやんの。ちなみにE-inkの白黒Nookは343グラム、黒Kindkeが222グラム、ということで、やっぱりバックライトの液晶だと重くなっちゃうのね。片手でなんとか持てるんだけど、これじゃすぐ手が疲れちゃうよ。

新型Nookは筐体の色が黒に変更。

新型Nookは筐体の色が黒に変更。

というわけで、しばし充電。立ち上げてみると…あ、なるほど、バーンズ&ノーブルのオンライン書店と同じで、アマゾンよりややオサレな感じ。やっぱり本の表紙がカラーだと、ぱっと見でどの本かわかるから、本を選ぶのに関してはKindleで見るよりいいかも。iPadのiBookStoreに似ている。というより、本棚があって、そこに買った本を入れていくのは、どのガジェットにも共通しているということかも。

ちょうど前の晩に全米図書賞のノンフィクション部門を受賞したパティ・スミスの “Just Kids” を買ってみよう。 Nookbook Storeで9.99ドル。今のところEブックの価格はアマゾンとBN.comが同じぐらいで、iBookStore版がちょっと高めの設定になっていることが多い。既にアカウントを持っていてクレジットカードが登録されていれば、ボタン一つでオーケー。あっという間にダウンロード。

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