5 本の電子化はいつはじまったか?

2010年11月26日
posted by 津野海太郎

ここでもういちど「書物史」運動について――。

この運動の起りは一九三〇年代のフランスで開始されたアナール学派の歴史学にあったようです。マルクス主義史学をふくむ従来の歴史学が戦争や政治などの大きな事件を重視したのに対して、こちらの歴史学は、その時代時代を生きていた有名無名の人びとの日常生活の細部、その心性、かれらがなにを信じ、どんなふうに感じたり考えたりして暮していたかをこまかく調べ上げ、そこから新しい歴史学を組み立てようとした。

リュシアン&フェーブル『書物の出現』。ちくま学芸文庫版は惜しくも絶版。

フェーブル&マルタン『書物の出現』。ちくま学芸文庫版は惜しくも絶版。

そのアナール学派の中心にいたのがマルク・ブロックとリュシアン・フェーブル。そしてそのフェーブルが、一九五八年に若い書誌学者のアンリ=ジャン・マルタンと組んで『書物の出現』という大著を刊行し、これが「書物史」運動のはじまる直接のきっかけになった。このことにはすでに触れました。グーテンベルクに発する印刷革命によってヨーロッパに近代的な出版産業が成立する。その過程をはじめて大局的かつ顕微鏡的な微細さであとづけた本です。

もっともフェーブルは一九五六年、構想を組み立て、序文を書き上げたところで七十八歳で死んでしまいましたから、あとはすべてマルタンがひとりで書いた。そのフェーブルの手になる序文にこんな一節がある。

西洋社会のただ中に出現した「書物」は、一五世紀中葉から普及し始め、二〇世紀中葉の現在では、全く異なる原理にもとづく数々の発明によって脅かされ、今後も永らくその役割を続けられるかどうかが危ぶまれている。

そういうことなんです。アドルノが「書物が書物でないものになった」と嘆いたのとおなじ一九五〇年代、つまり「本の黄金時代」のまっただなかで、最晩年のフェーブルもまた、五百年まえに「西洋社会のただ中に出現した」書物が、これからもそのままのしかたで生きつづけられるかどうかを心配していたらしい。

ただし、ここでかれが「全く異なる原理にもとづく数々の発明」といっているのは、もちろんコンピュータではありません。映画やレコードにはじまってテレビにいたる二十世紀の新しい視聴覚メディアのことです。

欧米の「書物史」運動の深層には、もともと、「西洋社会」が生んだ(とかれらが考える)印刷という複製原理と、そこにはじまる近代出版業が達成した「黄金時代」への強烈な自信やプライドがあったと思います。と同時に、そのオプティミズムのさらに奥ふかいところに、もうひとつ、印刷とは「全く異なる原理」にもとずく新来の視聴覚技術へのおそれと、いずれはそれが「書物の消滅」をまねいてしまうかもしれないという不安が、ひそかに埋めこまれていた。フェーブルの序文は、欧米の研究者の書物史への関心の高まりの裏にそうした二重の意識がかくされていたらしいことを示している。

でも、かさねていいますが、このときはまだ、フェーブルの目にコンピュータは見えていません。では一体いつ、コンピュータが本の運命に直接かかわる技術として登場してきたのか。私は一九七〇年代の初頭だと考えています。

その当時、イリノイ大学の学生だったマイケル・ハートという人物が、文字や数字などの記号をそこに表示できる以上、コンピュータ画面もなんらかの本になりうるのではないかと思いついた。で、まず「アメリカ独立宣言」を自分でタイプし、それを大学のメインフレーム・コンピュータにつながる小規模なネットワーク(インターネットの前段階)をつうじて友人たちに送りつけた。おそらくこれが人類史上はじめての電子本だったのではないか。

いいかえれば、最初、情報生産の道具として誕生したコンピュータが、このときはじめて情報の消費のための道具になった。情報とか消費と呼ぶのはすこしつらいから、いいかえますと、コンピュータがこのときはじめて人間が読書するための道具になった。その未来がチラッと見えてきた。

電子テキスト・アーカイブのさきがけ、プロジェクト・グーテンベルクはいまも健在。

電子テキスト・アーカイブのさきがけ、プロジェクト・グーテンベルクはいまも健在。

そして一九七一年、ハートはおなじ大学のおなじコンピュータをつかって、「プロジェクト・グーテンベルク」という電子公共図書館計画をスタートさせます。著作権の切れた作品を、ボランティアのスタッフが手入力でデジタルテキスト化し、最初は三・五インチのフロッピーディスク、のちにはインターネットをつうじて無料で配布する。この方式が世界中にひろがって、各地に私設の電子公共図書館が出現した。一九九七年に富田倫生氏を中心に設立された「青空文庫」も、その代表的なひとつといっていいでしょう。

ただ、本と読書の電子化という領域にかぎっていえば、その後の変化はまことに遅々たるものでしたね。私がパソコンをつかいはじめたのは一九八七年ですが、そのころ、この領域で話題になっていたのはDTPです。デスクトップ・パブリッシング(卓上出版)。だから読書ではなく「紙と印刷の本」生産のための新技術。ただしこの段階では、あくまでも個人や小集団のための技術で、プロの印刷人や出版人は腹の底でバカにしていたんじゃないかな。

そんな状態のなかで、九〇年代、つまり二十世紀の最後の十年間がはじまる。その前半期に生じた大きな変化といえば、なんといっても、マルチメディア技術の確立と、それにつづく一般社会へのインターネットの登場(それまでは利用の範囲を軍や政府機関や大学などに限定していた)でしょう。このふたつによって、いまにつづくデジタル環境の基盤がようやくととのった。

でも、そのことを話しはじめるときりがなくなりそうなので、ここでは省略。そのふたつの基盤技術をのぞくと、とことん独断的にいいますが、この時期、本の電子化にかかわる技術や構想で、あとにつながるものとして成功したのは以下の三つしかなかったと思います。

① エキスパンド・ブック(一九九二)
② インターネット・アーカイブ(一九九四)
③ OPAC(一九九五)

ざっと説明しておきましょう。

マイクル・クライトンのベストセラーを電子書籍化したエキスパンド・ブック版『ジュラシック・パーク』

マイクル・クライトンのベストセラーを電子書籍化した、エキスパンド・ブック版『ジュラシック・パーク』

まず①の「エキスパンド・ブック」は、ニューヨークの印刷業者の息子だったボブ・スタインがサンタモニカで設立したボイジャー社が、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』やマイケル・クライトンの『ジェラシック・パーク』などを皮切りに、最初はフロッピーディスク、つぎにCDのかたちで刊行した電子本シリーズの名称です。これは日本語名称で、正確にいうと、エキスパンデッド・ブック。

このシリーズによって、ページめくりとか全文検索とかムービーとか音声とか、印刷本のしくみをまねつつも、それを電子的に強化した電子本のかたちがはじめて明確に示された。つづいて、このタイプの本を自作するツールキット、印刷本でいえばDTPにあたる電子本の作成ソフトが発売される。日本でも新潮社の『新潮文庫の一〇〇冊』や講談社の『群像総目次』など、多くの電子本がこのソフトによって作成されています。

ここで注目すべきなのは、このツールキットが書物生産の道具であると同時に、私たちが電子テキストを紙の本を読むように読むための読書装置でもあったことです。じぶんで書いたりインターネットで入手したテキストをこのソフトに読み込むと、それをスクロールではなくページをめくって読む本のかたちにしてくれる。もちろん注付けや検索も可能。私は手もなく感動しました。だれもそういいませんけどね、いまある電子本や読書装置のかたちや仕組みは、すべてここからはじまったといっていいんじゃないかな。

そしてつぎが②のインターネット・アーカイブ。つまりインターネットで利用できる電子書庫。記録保存所。カッコのなかの年号「一九九四」は、その草分けともいうべきアメリカ議会図書館の「アメリカン・メモリー(アメリカの記憶)」計画が発足した年です。同館が所蔵する約一億タイトルの歴史資料(文書、写真、ポスター、映像、音声、レコードなど)のうち五〇〇万タイトルを二十世紀中にデジタルデータ化し、インターネットをつうじて、ひろく全世界に公開していこうという壮大なプロジェクトでした。いや、「でした」じゃないですね。さらに強化されて二十一世紀の現在も継続中です。

米国議会図書館の「アメリカの記憶」プロジェクト。

米国議会図書館「アメリカの記憶」プロジェクトのトップページ。

ブログやミクシィやツイッターのようなコミュニケーション・サイトがインターネットの一方の極にあるとすれば、もう一方の極にこの種のデジタル・アーカイブがある。

その後、この「アメリカン・メモリー」をモデルに、世界中で、さまざまなタイプのアーカイブが構築されています。膨大な資料を、文字資料と視聴覚資料をひっくるめて、高度の厳密性をたもちつつ、どうやって一般利用者にもわかりやすく、しかも美しくデータベース化するか。それがアーカイビストの腕の見せどころになる。その点になると、国立国会図書館の「近代デジタル・ライブラリー」などもふくめて、残念ながら、日本のものはいささか以上に野心と迫力を欠く。センスや深みにも乏しい。極の一方が欠けたままのインターネット世界。なんとかならないものだろうか。

③のOPACは、Online Public Access Catalogue の略語です。インターネットでだれもが利用できるデータベース化された書誌カタログ。ふつう、「オーパック」と発音します。もともと図書館から生まれた用語ですが、オンライン書店のアマゾンによって、その威力のほどが、はじめて一般にひろく知られるようになった。カッコ内の年号「一九九五」は、そのアマゾンがサービスを開始した年(日本では二〇〇〇年)――。

私もそうでしたが、日本の出版人のほとんどは自社出版物のデータベース化にはまったく無関心でしたよ。それがアマゾンの出現によって一変した。いわゆるロングテール効果で、とみに売れなくなっていた旧刊本の在庫がふたたび動きはじめるかもしれない。そういう希望が生まれてきた。

じつは本家本元の図書館ですらそうなんです。大学図書館につづいて、公立図書館のOPAC化が一気にすすんだのも、アマゾン・ショックのせいが大きいと思う。

今世紀のはじめ、インターネットでの予約が可能になり、と思ったら、たちまち多くの地域で複数の図書館蔵書の横断検索ができるようになったでしょう。書店と図書館、つまり有料と無料の書物流通のふたつの場で、データベースがめざましい力を発揮するようになった。そのことがだれの目にもはっきりと見えてきた。いま図書館の貸しだしカウンターに並んでいる人の三分の一はネットで予約した人たちなんじゃないかな。書店がすでにそうなっているように、図書館にも現実のものと電子的なものと、ふたつの入口ができた。この変化はきわめて大きいと思います。

※本稿は国書刊行会から刊行された津野海太郎氏の新著『電子本をバカにするなかれ』に収録されている、「書物史の第三の革命~電子本が勝って紙の本が負けるのか?」の第一章から第五章までを抜粋して先行公開したものです。

(第6章以後は単行本でお読みください)