昨年5月27日のニューヨーク・タイムズにジュリエッタ・グィッチャルディという女性にまつわる記事が掲載された。ジュリエッタはベートーヴェンがピアノソナタ第14番嬰ハ短調を捧げた女性だった。ピアノソナタ14番は通称「月光ソナタ」と呼ばれている。
第一楽章の出だしは特に有名で、誰でも一度は聞いたことがあるはずだ。その有名なソナタとこの18世紀に生きた女性の記事は興味深く、もっと知りたいと思った。そこでネット上で手に入る文献や関連図書を参照しつつ調べてみた。ふたりの関係を知ることができる断片的な事実や事柄は点在していたが、今回はそれを調べひとつの流れとして見ていこうとする試みだ。
僕自身、舞台となるウィーンを訪ねたことがありベートーヴェンの部屋やピアノも実際にみたことがある。しかし、その時点ではジュリエッタのことは知らなかったので、彼女の足跡は何も辿らなかった。この原稿で彼女とベートーヴェンの姿を浮かび上がらせることができればと思っている。
1802年に出版されたジョヴァンニ・キャッピ出版による「月光ソナタ(幻想曲風ソナタOP27-2)」の楽譜。GIULIETTA GUICCALARDIの名前が中央に印刷されている(画像はpublic domain)
伯爵令嬢が楽聖と出逢うまで
1802年に出版されたこのソナタの楽譜を見ると「Giulietta Guicciardi」に献呈されている。ジュリエッタはイタリア語での呼び名で、数々の資料によると彼女の本名はユリー(JulieあるいはGiulieeta)だったが、この楽譜によりジュリエッタの名称が定着した。
ジュリエッタは1784年に生まれた女性で、生まれはハプスブルグ帝国に属するガリツィア・ロメドリア王国だった。グィッチャルディ家はハプスブルグ帝国の伯爵家系で、ジュリエッタは伯爵令嬢だった。ジュリエッタの父フランツ・ヨーゼフ・グィッチャルディ伯爵の妻であるスザンネ(つまりジュリエッタの母)が、やはり伯爵の家系であるブルンスヴィック家から嫁に来ており、グィッチャルディ家とブルンスヴィック家は親戚関係にあった。このブルンスヴィック家との関係がジュリエッタとベートーヴェンを結びつける大きな鍵となる。
当時、まあ現在もかも知れないが、未婚の娘の花嫁修業のひとつとして楽器を習わせることが大切とされていた。数多くの楽器のなかでも、チェロは脚を広げなければならず、バイオリンは演奏時の体の動かし方が女性らしくないとされ、ピアノ(当時はピアノフォルテあるいはフォルテピアノ)が人気だった。ピアノフォルテ以前は鍵盤楽器といえばハープシコード(チェンバロ)が主流だったが、弾き方により音の強弱(フォルテやピアノ)が表せるピアノフォルテが18世紀に普及した。
伯爵令嬢の家族は娘の婿探しに都会であったウィーンを訪れることが多かった。ウィーンでは上流階級で重要な催しとされていた舞踏会や、サロン、演奏会などが数多く開かれ自分の娘を上流階級家族に紹介する機会が多かったのだ。1799年5月、ジュリエッタの叔母にあたるブルンスヴィック家のアナが二人の娘と共にウィーンに滞在した。アナは娘たちのピアノの教師を、ヨーロッパですでに名を馳せていたベートーヴェンに頼むことにした。
娘たちはベートーヴェンのアパートを直接訪れ、ベートーヴェンはその後の彼女たちのウィーン滞在期間の約3週間、お金を受け取ることなく毎日ピアノレッスンをした(リンク先の記事を参照)。
彼女たちがウィーンを訪れた翌年の1800年、ジュリエッタも両親と共にウィーンに移ってきた。ジュリエッタは、従姉妹との繋がりからベートーヴェンにピアノの教育を受け持ってもらうことになった。ベートーヴェンの部屋は乱雑で、床やピアノフォルテの上に食べ残しの皿がありその横に楽譜が散乱し、洋服なども脱ぎっぱなしにされていたという。
16歳の恋人
ジュリエッタとベートーヴェンの史実を調べ、それを小説『The Woman in the Moonlight』として発表した伝記作家パトリシア・モリスローによれば、ジュリエッタがピアノレッスンを受けるためにベートーヴェンのアパートに初めて向かったのは彼女が16歳の時。異なる説もあるがモリスローの説によれば、ジュリエッタが生まれたのは1784年となる。シェークスピアのジュリエットは14歳なので、それより少し年上だ。
ベートーヴェンは1770年に生まれているので、当時は29歳だろう。つまりこれは30歳を迎える男と16歳の少女の恋愛の話なのだ。ちなみにベートーヴェンは1798年、28歳の頃に自分の聴覚がおかしいことに気づき始めた。最初はその聴覚障害を隠していたが、幼馴染で医者であるフランツ・ゲルハルト・ヴェーゲラに手紙を書いた。当時、ヴェーゲラはベートーヴェンの生まれ故郷であるボンに住んでいた。
「私の聴力はこの3年間で着実に悪化している」
「昼夜を問わず絶えず笛のような音やブーンという音が聞こえる。私は一体どうなってしまうのか!」
ベートーヴェンが送ったこの手紙は1800年6月29日の日付となっている。しかし、その5カ月後11月16日付けヴェーゲラに送った手紙では、すでにジュリエッタと出会ったベートーヴェンは次のように記していた。プロジェクト・グーテンベルクで公開されているこの手紙を以下に私訳してみた。
「過去2年間、悲惨な私の人生が何であったかを信じることはほとんどできない。難聴症状が幽霊のように私を追いかけ、私を全ての人から遠ざけ、人間嫌いのようにさせる。しかし、実際には、私ほどこの状況に当てはまらない人間はいない! この変化は、私を愛し、私が愛している素敵な魅力的な女の子(ジュリエッタのことと思われる)によって引き起こされた。過去2年間のなかで私は再度幸せな時間を過ごせた。結婚が私を幸せにさせることができるのではと感じたのは初めてだ。不幸なことに、彼女は私と同じ身分の人ではない。実際、現時点では私は誰とも結婚できない。私はまず、頑張って自分自身を奮い立たせなければならない。私の難聴がなかったら、私は今、地球の半分を旅していただろう。そしてそれは私がまだやらなければならないことだ。私にとって、私の芸術を推進させ、追求するほど大きな喜びはない」
(https://www.gutenberg.org/files/13065/13065-h/13065-h.htm#let18)
ベートーヴェンはこの機に引退することも少しは考えていたようだが、ジュリエッタの出現で人生に光を見出したのかも知れない。またこの11月16日の手紙を送る以前に、ベートーヴェンは7月6日にジュリエッタに次のような手紙を送っている。
「おはよう! 起きる前から、私はあなたのことを考えていた、不滅の恋人!――時には喜びに満ち、そしてまた悲しさを感じ、運命が私たちの定めを聞き届けるかどうかを待っています。私の人生は完全にあなたと一緒か、まったく離れ離れとなるものです。確かに、私はあなたから遠く離れてさまようことを決心しました。私があなたの腕に飛び込み、その腕のなかが私の家であると感じ、私と魂をあなたの魂をユニゾンにして霊の領域に送り出すことができる瞬間が来るまで。ああ!そうなるだろう!私の忠実さを知っているあなたは、勇気を出してください。他の人が私の心を所有することは決してできません――決して、決して!…………」
(注:この手紙でベートーヴェンは「不滅の恋人(immortal beloved)」という言葉を使っているが、この手紙は後に誰が受取人であるかをめぐって論争になったことで有名な、いわゆる「不滅の恋人」宛の手紙ではない)
(https://www.gutenberg.org/files/13065/13065-h/13065-h.htm#let18)
トマス・K ・シャーマン、ルイス・ビアンコーリ編『The Beethoven Companion: A comprehensive guide to Beethoven—his life and work』によるとベートーヴェンはジュリエッタのレッスンにお金を取ることを拒否したため、ジュリエッタは自分自身で縫ったシャツをあげていたという。
もともとの献呈される曲は違っていた
ベートーヴェンがジュリエッタに「月光ソナタ」を捧げたのは1801年〜1802年の冬だったとされる。出版されたのは1802年の3月だった。出版された楽譜には中央に大きく「GIULIETTA GUICCALARDI」の文字がある。ベートーヴェンがこの作品に与えた名称は「幻想曲風ソナタ」OP27-2だった。
だが「月光ソナタ」という愛称はベートーヴェンがつけたものではない。ドイツの音楽評論家・詩人であるルートヴィッヒ・レルシュタープが1832年、このソナタの第一楽章をスイスのルツェン湖の月光が揺らぐ湖面に浮かぶ小舟に喩えた。この言葉から「月光ソナタ」という名称が広がっていった。
また、「月光ソナタ」はジュリエッタに献呈されるはずの曲でもなかった。ドイツの考古学者であり美術と音楽に関する著述家であったオットー・ヤーンが1852年にジュリエッタにインタビューをしている。その際、彼女はベートーヴェンはもともとは ロンド・ト長調OP51-2を自分に献呈するつもりだったと語った。しかし、このロンドはヘンリーエッタ・リヒノフスキー伯爵夫人に献呈された。
「月光ソナタ」を出版したのはジョヴァンニ・キャッピ(1765-1815)(Giovanni Cappi e Comp.)だった。彼は大手出版社のアルタリア(Artaria & Co.)に関わった人物だった。アルタリアは1700年代後半にハイドン作品を数多く出版し、モーツァルトの最初の83作品までを出版した出版社だった。またベートーヴェンの他にもサリエリ、クレメンティ、グルックなどの楽譜を出版している。
カツラから「タイタス・カット」へ
ベートーヴェンの死後、彼の部屋の秘密の戸棚からジュリエッタとされる女性の細密肖像画が発見された。その肖像を見ると、彼女は自分の髪型を、当時ヨーロッパで流行っていた「タイタス・カット(Coiffure a la Titus)」にしている。彼女の美しさはウィーン上流階級の注目を浴びたようで「La Bella Guicciardi」と呼ばれた。タイタス・カットはフランス革命時に流行ったもので、ベートーヴェン自身もタイタス・カットにしていた。この髪型は貴族たちが高々と髪を結いあげていたことへのレジスタンスだった。
ベートーヴェンの死後、秘密の戸棚から見つかったジュリエッタとされる細密肖像画。髪型を当時流行っていたタイタス・カットにしている(画像はpublic domain)
音楽家に関して言えば、ベートーヴェンの少し前の時代のモーツァルトもハイドンもカツラを用い、ふんだんに髪粉も使っていた。ベートーヴェンもカツラを持っていたとされるが、カツラを被ったベートーヴェンの姿はない。モーツァルトやハイドンたちはフランス革命前のいわゆるアンシャン・レジームの世界のなかで音楽を作り、ベートーヴェンは自己の表現として音楽を作った。ベートーヴェンは芸術としての音楽の性格を全く変えてしまった。ベートーヴェン以前の音楽家は料理人や大工などとあまり変わらない「職人」の世界に属していたが、ベートーヴェンは音楽家を芸術家に変えたと言える。モーツァルトは、ザルツブルグでの自分の地位を騎士より下で料理人より上としているが、ベートーヴェンにはこの構図は当てはまらない。
ベートーヴェンはジュリエッタに結婚を申し込んだようだが、あまり裕福ではないグィッチャルディ家は、身分もあまり高くなく、収入も安定しない音楽家との結婚は許さなかった。特に父親の賛成が得られなかったとされている。ジュリエッタは1803年の11月にやはり作曲家であったヴェンゼル・ロベルト・フォン・ガレンベルク伯爵と結婚をし、すぐにナポリ王国に移っていった。しかし、この結婚後もふたりの接点はあったようだ。
ナポリ王国でジュリエッタは国王のジョアシャン・ミュラと、ナポレオン・ボナパルトの妹であり彼の妻であったカロリーヌ王妃と会っている。ナポレオン戦争後のヨーロッパにおける秩序回復を目指したウィーン会議が1814年9月から開催された。この会議に向けてナポリ王国は自国の利益を守るために密偵(正式な使節ではなくスパイ的存在)を送ったが、ジュリエッタはそのひとりだった。
一方、この会議に集まった各国代表を前に演奏会を開いたのがベートーヴェンだった(リンク先の記事を参照)。この演奏会はホーフブルグ宮殿内のレドゥーテン・ホール(Redoutensaal)で行われた。資料によるとこの演奏会では交響曲第7番が演奏された。また、同じ1814年5月にはベートーヴェンの歌劇「フィデリオ」(最終版)初演が、各国の代表者たちの前で催されたという資料もある。これらの演奏会が催されたウィーンでジュリエッタとベートーヴェンは再会したのだろうか。はっきりとした記録はない。
二人は果たして再会したのか?
1821年、当時ナポリの宮廷劇場の支配人を務めていた興行主のドメニコ・バルバイヤが、ウィーンの歌劇場であったケルントナートーア劇場の支配人を任されることになった際、ジュリエッタの夫ガレンベルク伯爵とジュリエッタもウィーンへと赴いた。ガレンベルク伯爵は同劇場の運営委員会の委員に就任、音楽記録の保管任務を担った。
1822年にケルントナートーア劇場でベートーヴェンの「フィデリオ」が再演された際、ベートーヴェンの秘書だったアントン・シンドラーと劇場側のガレンベルク伯爵が「フィデリオ」の楽譜のことでやりとりをした。すでに聴覚を失っていたベートーヴェンとシンドラーは筆談をおこなっており、ガレンベルク伯爵とのやりとりを報告するシンドラーとベートーヴェンの会話がノートに残っている。
その内容は、自分のところに揃っていない「フィデリオ」の楽譜をガレンベルク伯爵から提供してもらいたいと要請するもので、その際、ベートーヴェンはガレンベルク伯爵の妻であるジュリエッタのことをシンドラーに問いかけ、あまり達者とはいえなかったフランス語で、「私は彼女から夫以上に愛された(J’etois bien aimé d’elle et plus jamais son époux)」と記している。このフィデリオが再演された当日、劇場内にジュリエッタの姿はあったのか。確かな記録はない。
そして、1824年、ベートーヴェンの第9番交響曲の初演がおこなわれたのもこの劇場だった。この頃にはベートーヴェンの聴覚はほとんど失われ、劇場の指揮者だったミヒャエル・ウムラウフが正指揮者として、オーケストラの前に立つベートーヴェンのうしろで指揮をおこなった。演奏が終わっても聴衆に背中を向けたままのベートーヴェンをアルト歌手のカロリーネ・ウンガーが促して彼を聴衆側に向かせたという逸話は有名だ。聴衆からの拍手を浴びるベートーヴェンの姿をジュリエッタは見たのだろうか。これも記録がなく、人々の想像に任せるしかない。ケルントナートーア劇場は1870年に閉鎖され、その跡地には現在ホテル・ザッハーが建っている。
ベートーヴェンは1827年3月、56歳でこの世を去った。一方、ジュリエッタはウィーンに住み続け、1856年3月に73歳で死亡している。
生誕250年の節目に起きた感染症
ジュリエッタの直系の子孫であったピーア・チェルウッド(Pia Chelwood:2019年2月に97歳で死亡)によると、ガレンベルグ伯爵は性的機能に問題があり、ジュリエッタには愛人があり彼女はその愛人との子供の子孫だという。この愛人というのはもちろんベートーヴェンではない。
ベートーヴェンは一生結婚をしなかったが、ジュリエッタや姉妹ヨゼフィーネを含め多くの女性を愛したようだ。しかし、彼が愛する女性は身分が高い女性が多く、結婚までは至らなった。
昨年はベートーヴェンの生誕250年で色々な催しが世界各国で予定されたが、多くの企画は新型コロナウイルス感染症の影響で中止となった。今回題材にした「月光ソナタ」は発表当時から人気となったようで、ベートーヴェンは他人が弾く「月光ソナタ」はもう聞きたくないと言ったという。もし彼が生きていれば、その性格からすると昨年多くの催しが中止となったことを喜んでいたはずだ。
執筆者紹介
- ブックジャム・ブックス主幹。東京生まれ。記者・編集者を経てニューヨークで独立。アメリカ文学専門誌「アメリカン・ブックジャム」を創刊。ニューヨーク在住。最近の著者に、電子書籍とオンデマンド印刷で本を出版するORブックスの創設者ジョン・オークスを追った『ベスセラーはもういらない』(ボイジャー刊)がある。
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