Twitterは言論プラットフォームたりうるか?

2017年11月15日
posted by まつもとあつし

政治から身の回りに関わることまで、私たちは日々議論を通じてさまざまな意思決定を行っている。歴史を遡れば、時代背景や技術環境に応じてその基盤(プラットフォーム)となるべきメディアも変化し続けてきたことがわかる。

21世紀初頭はTwitterが突如、私たちの意思決定に大きな影響を及ぼすメディアとして存在感を増した時代と記録されるはずだ。2006年に「140文字の短文を投稿する」という極めてシンプルな仕組みで生まれたTwitterは、2017年現在、世界で3億人がアクティブに利用するソーシャル・ネットワーク・サービス(SNS)となっている。

筆者も2007年からTwitterを使っている。私ごとではあるが、フリージャーナリストとして独立したのがちょうどその頃だったので、ブログを書くような手間もかからず、素早く情報が拡散されるTwitterはありがたい存在だった。大きな発表や事件が起こったときに、その場にいなくともリアルタイムに情報を受け取れるTwitterは取材源としてもそれまでにない価値があった。

Twitterは社会を拙い方に変えた

Twitterが日本でもサービスを開始したころには、「Twitterが社会を変える」といった論調の書籍も数多く刊行された。誰もが気軽に情報を発信でき、有益な情報は素早く拡散される仕組みを備えたTwitterは非常に好意的に受止められていたと思う。

「アラブの春」などに見られるように、たしかにTwitterは社会を変えた。しかし、Twitterは多くの人が望んでいたポジティブな方向ではなく、混乱と分断を生む装置として社会にネガティブな影響を与え続けているように見える。一体なぜそうなってしまったのか。

Twitterは攻撃的な文章を投稿・拡散するのに極めて効率がよい場所となってしまっている。140文字という短文は、込み入ったロジックを表現するには(特に英語のような1バイト文字圏では)不向きで、人々の感情に訴えかけるデマやアジテーションの方が、より広く・早く拡散されていく。それを訂正したり、取り消したりする仕組みも十分には備わってない。

今年10月、Twitterはルールを改定し、ようやく攻撃的な発言を行うアカウントをロックしたり、永久凍結することを明記した。裏を返せば、これまで規約上はそのような発言を行うアカウントを規制する姿勢を明示していなかったわけだが、ではこれで状況が改善されるかと言えば心許ないのが現実だ。

ユーザーの声に応えてTwitter社はルール改定を行った。

この規約改定以前から、ユーザーによる「突然アカウントがロック・凍結された」という報告が相次いでいた。例えば「蚊を殺す」といった過去の投稿を探し出してTwitter社に通報すれば、気に入らないアカウントを凍結させることができる、といった噂も流れた。

Twitter社はこれを否定しているが、凍結・ロックされたユーザーに対して、どの投稿を問題ありと見做したのかを示さないため、ユーザーの疑念は拭えていない。従業員数4000人弱のIT企業が、果たしてどこまで様々な国・地域の文化・文脈に即した対応ができるのか、純粋にキャパシティの観点からも疑問を持たざるを得ない。

他のグローバルIT企業、たとえばマイクロソフトの12万人以上、Facebookの2万人以上と比べても、Twitter社の企業規模はきわめて小さい。筆者は1年ほど前、Twitter日本法人にサポート体制や機能改善の取り組みについて聞いたことがあるが、原則として米国本社のサポートチームや開発チームが主導しており、それぞれの国・地域の言語・政治状況や文化にあわせたきめ細かい対応が機動的に取れるようにはなっていない。

また、北朝鮮への挑発など攻撃的な投稿を続けるトランプ大統領について、なぜアカウントがロック・凍結されないのかという問い合わせに対してTwitter社は、「報道価値や公共の関心」という観点から、配慮を行っていると回答している

ある意味、米国大統領を「特別扱い」していることを認めたことになるが、どのようなアカウントをそういった配慮の対象にしているのかという基準は示されていない。「特別扱いされているアカウントが、ヘイトやデマをまき散らしている問題」よりも、「報道的価値・公共の関心を優先して良いのか」といったそもそもの論点の検討も必要であるはずだ。

特別扱いの対象となるような有力アカウントは、Twitterへのアクセス、ひいては広告収益に多大な貢献をしている。「プラットフォーム」にとっては魅力的な存在だ。しかし、かつてマスメディアが「第四の権力」とも呼ばれたように、人々の意思決定に大きな影響を与える「メディア」としてTwitterを捉えると、広告主ですら眉をひそめるような投稿を行うアカウントを放置することは、結局ユーザー(が所属する社会・コミュニティ)への悪影響だけでなく、Twitter社自身の利益を損ね続けている。

Twitter共同創設者のジャック・ドーシー氏は、様々な批判を受けてTwitterの規約や運用ポリシーをさらに改善するとTwitterに投稿しているが、これまでの経緯を見ると、果たしてどの程度状況が改善されるのかは不透明だと言わざるを得ない。たとえば、連続殺人事件をうけて、自殺に関するTweetの取り扱いもルールに追加されているが、求められているのはそのような付け焼き刃的な対処ではなく、投稿内容の確認や投稿者とのコミュニケーションを図れるだけの運営リソースの確保であることは、他のネットサービスが採ってきた対応方法からして明らかだ。

「言論プロレス」の場と化したTwitter

7千人強のフォロワーを抱えている私のTwitterアカウントにも、時折、攻撃的な投稿が寄せられることがある。主にそれは、数万〜数十万単位のより多くのフォロワーを擁するアカウントとの議論に発展したときに起こる。論争相手から「馬鹿」といった言葉が出たときには、それ以上の議論は成立しないと判断して、相手をブロックして終わりにするようにしているが、その後もその周辺から「卑怯者」といったメンションが届いたりもする。有力アカウントのいわば応援団から、議論の本筋と関係ない罵声が浴びせられるのだ。

トランプ大統領のアカウントの扱いでもしばしば指摘されるが、Twitterでの発言が公式なものか、それともプライベートなものなのかが曖昧なまま投稿が行われることも多い。先に述べたように、短文投稿を前提としたTwitterはアジテーションが好まれる(拡散される)傾向にあり、RTの数を競うかのように過激な発言を繰り返す著名アカウントも多い。

筆者は言論におけるプロレス自体を否定するものではない。ジャーナリストの田原総一朗氏は、自身が司会を務める「朝まで生テレビ」を“(論客同士を競わせる)動物園である”と喝破したことがある。あの番組のように、エンターテインメントとして消費されること自体に価値のある議論の場もたしかにある。しかし、たとえエンターテインメントであったとしても、そこで司会者や編集者といったファシリテーターがいかにうまく差配するかは、「試合」の質を左右する重要な要素だ。現状のTwitter社が十分な役割を果たしているとは残念ながらとても言えない。これはプラットフォームの運営事業者としては致命的だ。

10年余りで急拡大したにも関わらず未成熟なTwitterというプラットフォームは、ルールが整備されないまま選手と観客が異様に増えた試合場のようなものだ。審判たるべき運営側は右往左往し、罵声と数の力に任せた無粋なパワープレイが展開されているのが現状だろう。エンタメとしてはありだが、ここ「だけ」で言論が構築されてしまえば、この先に待つのはディストピアにほかならない。事実、ここ数年ですでに私たちはその端緒を目撃している。

フェアな論争の場をどこに生み出すか

現代は、良質な言論を戦わせる場としてのプラットフォームが失われている時代でもある。偏向やネットへの対応では問題も抱えるが、新聞や雑誌といったマスメディアは、現状のTwitterと比較すればまだましなプラットフォームだった。だがマスメディアがその存在感を薄くしていく中、論者同士が読者の前で論戦を繰り広げる場もほとんどなくなっている(後述するようにウェブメディアへの人材や広告費の移転も進んではいるがまだ道半ばだ)。フェアな格闘技のような論戦が行われる場所がいまは存在しないのだ。

かつて筆者が大いに影響を受けた紙上での論争がある。日中戦争時にあったとされる「百人斬り」の真偽をめぐって、朝日新聞記者の本多勝一氏と、「イザヤ・ベンダサン」というユダヤ人風ペンネームで論考を発表していた山本七平氏が繰り広げた論争だ。この論争は、1971年に本多氏が朝日新聞紙上に発表した中国ルポ(1972年に『中国の旅』として刊行)に対し、山本氏が雑誌『諸君』で批判を行ったことで始まった。両者の討論は本多氏の『殺す側の論理』にも収録されている。

題材が題材なだけに、この論争に対してはいまなお意見が分かれる。本稿ではこの論争で展開された論旨の是非は扱わない。しかし、引用のルールに則りながら、ファクトで相手の脆弱な主張を潰していく様子は、まだ中学生のときにこの論争の存在を知った筆者にとって大いに刺激的だった。実際、当時の目撃証言や研究者も議論に加わることによって、紙上での論争が進むと同時に論点が整理されていった観がある。

本来であれば、今後はウェブメディアがそのような場となるのが自然なのだろう。だが、広告費や優秀な編集者といったリソースの移転が、既存メディアからまだ十分には進んでおらず、言論を戦わせる場が整っていない。ブログのような個人メディアやWikipediaのような集合知を活かしたサービスに期待がかけられたこともあったが、必ずしも議論に向いた仕様になっていない。マネタイズの観点からも、ネット上に息の長い議論を続ける場を維持することは難しい。

そのすき間に、言論プロレスの場しか提供できていないTwitterが不安定な状態で収まってしまい、建設的な議論が生まれなくなっている。言論プロレスだけに強い論者ばかりが増長した結果、民主主義さえもが危機に晒されている。この状況を生んでしまったTwitterの責任は重い。自ら改善を図れるか、またこれに変わる言論プラットフォームを私たちは生み出すことができるのか、その動きを注意して見守りたいと思う。

執筆者紹介

まつもとあつし
ジャーナリスト/コンテンツプロデューサー。ITベンチャー・出版社・広告代理店などを経て、現在フリーランスのジャーナリスト・コンテンツプロデューサー。ASCII.JP、ITmedia、ダ・ヴィンチ、毎日新聞経済プレミアなどに寄稿、連載を持つ。著書に『知的生産の技術とセンス』(マイナビ/@mehoriとの共著)、『ソーシャルゲームのすごい仕組み』(アスキー新書)など多数。取材・執筆と並行して東京大学大学院博士課程でコンテンツやメディアの学際研究を進める。http://atsushi-matsumoto.jp