私の周りの出版人たちは皆、まず一冊目にある程度、売り先が見えている本を出した方が良いという。しかし新人写真家の写真集は、その枠に収まっているとは言い難い。そして1冊出すだけでは出版社とは言えないとも皆が言う。版元を起すときから2冊目、3冊目と考えていなくてはならないと。とはいえ、私は自分で版元をやるならどうしても出したい本だけしか出したくない……。
「どうしても出したい本」として私が田代一倫さんの写真集の次の企画として浮んだのは、井田真木子さんという、2001年に亡くなったノンフィクション作家の本を復刊することだった。初めて読んだのは『かくしてバンドは鳴りやまず』。井田さんが選んだ世界の傑作ノンフィクション作家に迫っていくという本で、出版社、リトルモアから未完の形で2002年2月に出版された。「絶筆」という帯の大きなキャッチコピーが目を引いた。編集者をはっきりと志した頃に衝撃を受けた本で、こんなすごい本が出せるようになったら自分も一人前だと思った。
その後、井田さんのそれ以前に書かれた大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した『プロレス少女伝説』や講談社ノンフィクション賞を受賞した『小蓮の恋人』、『同性愛者たち』、『フォーカスな人々』、『十四歳』などを読み、すべてに打ちのめされた。しかし、こんなにすごい本が、とりわけヒットもせず、ひっそりと絶版になってしまったことに、まだ世間知らずだった私は「世の中どうなってるの?」と心底不思議に思った。
ノンフィクションというのはその時代時代のテーマを扱っているだけに、時を経るとなかなか再び脚光を浴びることがないらしい。しかし井田さんの本は、ノンフィクションというジャンルを飛び越えて私小説のような印象を受ける本で、井田さんという生身の人間の、取材対象とのギリギリの関わりを記した内容は普遍的な力があり、発売からかなり経って読んだ私も、ぐいぐい惹きつけられた。こんなに身を削るように書かれた本を絶版にしておくわけにはいかない。ただ、私でもわかっていたのは、これらの本は当時ですら売りづらい本だったということだ。
考えれば考えるほど私の出版社の像は「成功例」から遠ざかって行くように思えた。そして熱く高い志とは裏腹に、私が会社を辞めるにあたっていちばん気がかりだったのは、恥ずかしいことに、何のことはない、自宅で作業をすることだった。
〝勉強〟という考えを捨てた
2012年8月に会社を辞めてまず、自宅での仕事環境を整えようとひとまず部屋にプリンタだけ入れたのだが、案の定仕事はかどらず、朝、暑くて目は覚めるものの、アイスを食べ、麦茶を飲んではトイレへ行き、麦茶を湧かし、徒歩10歩圏内の机と台所とトイレを何度も往復しているとすぐ夕方になり、ビールに手が伸びる。本を出すことの重みだけ両肩に感じたまま、もうずっとパジャマでいたいような気持ちになってくる。
退社2週間後の真夏の夕方。夏葉社の島田さんが「林さんは清田さんの考える出版のスタイルに近いと思う」と言っていたのを思い出し、理想と現実との大きなギャップから来る停滞感を振り払いたくて、林さんが間借りしているという、デザイナーの平野甲賀さん夫妻が主宰する西神田のイベントスペース「スタジオイワト」を尋ねた。
私はこの場所をとても羨ましく感じていたのだが、林さんは自宅で仕事をし、ここは倉庫に使っているという。念のため補足すると、島田さんの言う〝近い〟とは、島田さんが出版の常識に捕われず、編集経験なしで出版社業一本に絞り、株式会社として運営しているのに対し、林さんは個人事業主の屋号として「屋上」を登録し、「屋上」としての出版とフリーランス編集を並行しているという意味だった。
本のうまれる瞬間を、いまいちど考えたいと思いました。そして自分の手でつくりあげた本を、求める人のもとにしっかりと届けたいと思いました。屋上ではライブの現場から、ウエブのつながりから、暮らしの必要から、そして古今東西の書籍から小さな種を見つけ出し、育て、本に仕立てみなさまに手渡したいと願っています。いま変わりゆく出版界という大きな海にこぎだしたばかりの実験的出版社ですが、応援どうぞよろしくお願いいたします。
編集室 屋上 林さやか(編集室 屋上 HPより)
「あるときから〝勉強になる〟っていう考え方を捨てないといけないなって思うようになったんです。同年代の子でも会社を辞めるっていう話になると『もうちょっと勉強したいから、フリーになる前に別の会社に行きたい』って言ったりしてて。でも私、もう人に与えないといけない年じゃないかなと思ってしまうんです」
この日いちばん心に刺さった言葉だった。28歳の時に「屋上」を始めた林さやかさんはこのとき29歳。見た目のほんわかとした佇まいからは想像できないほど、林さんの仕事への姿勢はとてもしっかりしていて、この時既に35歳だった私はたびたび身を堅くした。〝勉強〟の言い訳と同じように、今また、オフィスを言い訳に仕事を先延ばしにしようとしている。
林さんは、白夜書房の『野球小僧』というマニアックな野球雑誌の編集などに携わり、2011年に退社したのち、同年10月「編集室 屋上」から初の刊行物となる、ミュージシャン・二階堂和美さんのエッセイ『二階堂和美 しゃべったり 書いたり』を出した。この日は「編集室 屋上」2冊目の書籍、『ぼくのワイン』を発売してから2ヶ月と少し。古くて趣のある西神田のビルの一階。林さんは通りに面したガラス戸の向こう、広い室内の隅で本の梱包作業をしていた。
「すみません、配送がまだ終わってなくて……」
「屋上」はこの時取次を通さず、お店と林さんが直でやりとりして本を卸しており、この日は刊行後の追加配送作業中だった。待つ間、慣れた手つきで梱包する林さんの様子を眺めながら、私はこれまで献本すらアルバイトの人に手伝ってもらってたな、とぼんやり思った。
「出版者(しゅっぱんもの)」として
「私が版元を始められたのは、間違いなくいまの時代だからです。twitterは大きいです。こんなに情報を人が広げてくれるっていうのはすごい。これだけ時代の状況が変わるとその時に合った出版のやり方をしていくしかない。それを逃さないようにしていくしかないのかなと思います。私はtwitterとfacebookだと完全にtwitterですね。広がりが違います。twitterって拡散能力が強いのと、拡散してくれる人も自分がいいって思ったものを広めるから、お客さんが実際に本を買う行動に結びつきやすいと思う」
島田さんも言っていたことだが、個人が発信しやすくなったことと、ひとり版元の増加は深い関係がある。新聞に出るか、名前がある版元かどうかということが購買の判断基準に影響する状況は依然としてあるのだが、「口コミ」という、版元にとってはもっとも嬉しい宣伝方法は、小さい版元に向いている。林さんの具体的な回答は心地良く刺さった。私は出版を大袈裟に捉えて怯えていたのだ。
日大芸術学部の文芸学科時代から文学好きで、バイトから出版社に入り、太田出版のカルチャー誌『たのしい中央線』などのライターをした後、白夜書房の編集者になったという生粋の出版業界育ち。林さんも担当していた白夜書房の『野球小僧』は隅々に日本における「野球文化」への愛が滲み出ていて、野球好きではない私も読んだことがあった。「いい雑誌ですよね!」と握り拳で讃えると、「同じ業界の人でそう言ってくれる方多いんです!」とパッと顔が輝いた。林さんは白夜書房時代のことも「屋上」の本と同じように嬉しそうに話す。
白夜書房時代、パターン配本に疑問を感じていた林さんは、フリー編集者の南陀桜綾繁さんが主宰した「出版者(しゅっぱんもの)ワークショップ」に参加。「出版社」ではなく、「出版者」として自分ひとりでやっていく力を身につけるためにこのネーミングがされたのだという。
先述の島田さんとの比較になぞらえて大別するなら、島田さんが「自分の好きな本」を媒介にして、本屋という場所を窓口に世の中と繋がっていく「ひとり出版社」なら、林さんは根っから「編集」が好きな編集者が、本づくりを突き詰めたうえに版元をやることになった「ひとり出版者」タイプだ。島田さんには、個人がやれる社会との関わりの大きさに、林さんには、編集者としての純粋な熱意に、私は尊敬の念を抱いた。
「ワークショップでいろんな人に話を聞く機会があって、今まで自分が出版社で当然のようにやってもらっていたパターン配本は、今後は絶対ダメだと思ったんです。私はもともと書店でバイトしていた経験があるので、パターン配本の空しさは本当によく感じていて。会社でも返本率50%なんて普通にあって。半分帰ってくるようにばらまいて帰ってきたものを切るのが出版なのかと思うと辛くて、その空しさは大きかった」
場所がほしい
神楽坂にあった劇場「シアターイワト」に、林さんは以前から客として通っていた。まさに「出版者ワークショップ」もイワトで開催されていた。イワトはその後、西神田に場所を移し、イベントスペースとして機能するようになった。そして林さんが退社を考えていた頃、イワトからウェブマガジンをつくってほしいという依頼が舞い込む。
「最初はむしろイワトに乗っからせてもらっている部分はかなりあって、だからあまり一人で始めたという感覚はなかったんです。ああいう場所があるから、企画を考えたときにイベントをやって反応を探るっていうのもできるなと思ったんです。イワトがなかったら始めなかったかもしれない」
小さな版元だと、2000部で2500円の本を年コンスタントに3冊出して、コンスタントに売り上げていれば回っていくと言われたことがあるし、計算上はたしかに成り立つ。だけど…と私はいつも立ち止まってしまう。林さんの場合はどうなのだろうか。
「普段の収入は完全に編プロ仕事です。屋上の本は、ちゃんと回収してプラスαできるっていう計算で作っています。私が年3冊出せるかというと、まず作業的にすごく大変ですよね。あと、自分の出版社として出したい本が年3冊あるかというとすごく疑問で。編プロ仕事も本当にたいへんですけど、でも私、編集の作業自体も好きなんですよね」
1冊目の二階堂和美さんの本は、林さんが「屋上」としてどうしても出したい本だった。
「これから私は自分ひとりでこういう本をやっていきたいと二階堂さんにお話を持っていきました。そしたらツアーで売りましょうという話になったんです。やっぱり小規模で始めるのには、売り先がある程度確保できているのは大きかった。偶然と言えば偶然ですけど、そうじゃないと始められなかったかもしれない。二階堂さんの本で始められるんだったら、というのはありました。
あと平野甲賀さんに装丁をやってもらったというのは大きくて、そのブランド力はあったと思います。でもインパクトが強いから、三冊目は脱却しないと、と思ってるんですけど。あと、やっぱり場所がほしい。場所というのは空間ということではなく、人が場所に集まるような、トークだけではなく、人との繋がりに重点を置くような場所を作りたいです」
出版社をやろうと考えるとき、フリーランス編集としての仕事のバランスと規模の問題はこの後、私は何度も悩んだ。すべての小出版社がそうだとは限らないが、私の場合、規模を拡大しようとすると当初の自分の考えとどんどんずれてきてしまう。「どうしても自社で出したい本はそんなに多くはない」という林さんの感覚は、私にとって大いに心の支えになった。
『屋上野球』創刊
この取材からだいぶ経ち、スタジオイワトはこの場所での活動を終えたが、屋上は2013年4月から、同じビルの3階でレンタルスペースを行い、さまざまなイベントを開催している。
さらに、2013年10月、『屋上野球』なる野球雑誌を刊行。装丁は横須賀拓氏。ブルーの爽やかな表紙が目に心地良い、A5判96頁のハンディサイズ。この雑誌は取次を通しているというのも、臨機応変に方法を変える林さんらしい決断だと思う。
雑誌というものは、出版社にとって書籍とはまた違う力を持っていて、特に版元名を冠した雑誌を発行することで、「屋上」という「出版者」が、より生命体として活き活きとした存在になる。「〝野球〟にまつわるなにか、〝野球〟について読むこと、語ることのほうが好きになってしまった」という「屋上野球」の解説文にあるとおり、まさに『野球小僧』時代から林さんの中でうごめいていたであろう企画が満載で、雑誌全体にエネルギーが満ちていた。
雑誌はつまらなくなった、雑誌は売れない、といった言葉は嫌というほど聞いたし、実際、数字は淡々とその事実を突きつけてくるのだが、一方で、雑誌でしかできないことがあることを、この「屋上」を見ると深く感じた。
林さんの行動力に背中を押され、人と会う機会を増やしていた数週間後、私にとって、独立後まず最初の天の助け、オフィスを間借りさせてくれる人物に巡り会う。これで作業場が出来た!
そして暑さが和らいだ10月23日、個人事業主の屋号「里山社」の届け出を世田谷税務署に出しに行った。やっぱり大安吉日がいいのかな…などと、雨降る中、満を持して馳せ参じたつもりが、窓口の男性はこちらの顔も見ず、提出した用紙に「ボンッ」とハンコを押し、小窓からニュッと手だけが出て、控えが返ってきた。そして突っ立ったままの私に「もういいよ」と一言。「里山社」はものの3秒で受理された。何しろ「会社」じゃない。「出版者」は本当に大袈裟ではなく、すぐに始められる。大変なのは、「会社」の枠に守られてきた社員編集者だった私が、あやふやな「私」というだけの存在を頼りに出版を続けていくことなのだ。
(次回につづく)
『はまゆりの頃に 三陸、福島 2011~2013年』
震災後の三陸、福島で、出会った人々に話しかけ、
執筆者紹介
- 里山社代表/編集・ライター。出版社勤務を経て、2012年10月、出版社「里山社」設立。2013年11月、田代一倫写真集『はまゆりの頃に 三陸、福島 2011〜2013年』、2014年7月『井田真木子著作撰集』、2015年3月『井田真木子著作撰集 第2集』、2016年3月『日常と不在を見つめて ドキュメンタリー映画作家 佐藤真の哲学』発売。フリーランス編集・ライターとしても活動中。
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