3「読者ににじり寄る」ことと「自分を大切に思う」こと

2010年9月9日
posted by 津野海太郎

しかし残念ながら話はそこでは終わりません。つまり、われわれの「本の黄金時代」はたんにピカピカ光り輝いていただけでなかった。じつはその背後に、暗い、ちょっと情けないみたいな一面をも併せもっていたということです。

印刷は「同一コピーの多数同時生産」のための技術である。この新しい技術にささえられて出版は産業になり、本は商品になった。もういちどいうと、それが「書物史」運動のまず最初にあった認識です。そしてこの傾向は産業革命によって加速され、二十世紀にはいって、商品としての本の大量生産、大量宣伝、大量販売方式を確立する。おかげで本の定価が下がり、王侯貴族や官僚や僧侶や大商人ではない一介のサラリーマンまでが、じぶんの家に小さな図書館をもてるようになった。たしかにそれはすばらしいことだったんです。

森銑三・柴田宵曲『書物』(岩波文庫)

森銑三・柴田宵曲『書物』(岩波文庫)

でも、あえてわかりきったことをいいますが、産業化を前へ前へと推しすすめたエンジンは利潤の追求ですよね。いったん起動したエンジンを止めずにいるためには、むりにでも人びとの本への欲求をあおりたて、たえず売上げを伸ばしつづけなくてはならない。結果として「なによりもまず売れる本を」というのが出版の至上目的になり、本のひたすらな大衆商品化がすすんだ。

そこで思いだすのが森銑三の『書物』という本です。柴田宵曲との共著。戦争も終りにちかい昭和十九年に白揚社という出版社からでて、いまは岩波文庫にはいっている。そこにこんな一節があった。

出版業者に取っては出版は営業であり、営利ということが唯一といって語弊があるならば、第一の目的となっている。売れそうな書物でなければ出そうとしない。あるいは売れそうな書物なら何でも出そうとする。そうした態度があまりに露骨であったりする。(略)出版は道楽ではない。俺たちは商人だ。一も儲ける、二も儲ける、三も儲ける。儲ける一方で行こうという態度も、商人としては許容されるのかも知れぬが、中には一年の儲けの何パーセントかを割いて、商品価値に乏しくて、他には到底手を著けそうにもない良書を進んで出そうとしてくれる、殊勝な出版業者などもあってはよくないか。

ここで「営利が第一の目的となっている」というとき、きっと森さんは例の円本ブームに代表される昭和初年代の過熱した出版状況を思い浮かべていたんじゃないかな。そして一方、「商品価値に乏しくて、他には到底手を著けそうにもない」書物の例として頭にあったのが前代の写本のたぐい――。

さきほど私は、日本の出版産業化は木版技術の革新に支えられて江戸時代にスタートした、という意味のことをのべましたが、この種の、あえていえば、やや先走った考え方にたいして、先ごろ、近世文学研究の中野三敏氏が、いやいや、江戸時代でも「おそらくその絶対量から言えば、板本と写本の量はほとんど均等といってもよいはず」(「和本教室」)とやんわり異議をとなえ、それらの本、すなわち森銑三のいう「営利のみを目的とせざる」非印刷本を以下の六種に分類しています。

①貴族文化の所産としての名家の自筆写本。②雑記、雑考、随筆などで、出版されなかったもの。③手控えの記録、日記、紀行など。④出版物の原稿。⑤実録と称する読みもの。⑥板本の写し――。

どうやら中野氏はここで、出版産業化に向かっての動きが江戸時代に芽生えていたのは事実だろうが、その点だけを強調しすぎるとまちがうぞ、といっているらしい。欧米の「書物史」運動は産業化がようやく緒についた近代初期の出版状況につよい光をあてた。これは、その影響を多少なりとも受けてそだった世代の研究者への先輩研究者からの忠告なんでしょう。なるほどと私も思う。森さんも、江戸時代の出版については中野氏とおなじように考えていたのだろうと思います。

森銑三は一八九六年、愛知県の刈谷という小さな城下町に生まれた。少年のころから郷里の町立図書館で江戸期の写本や木版本にしたしみ、以来、一九八五年に八十九歳でなくなるまで、「方々の図書館に死蔵せられていて、閲覧人の殆ど全部が読んで見ようともしない写本の類を、出して貰って読み、そのなかから近世期の人物に関する資料を探し」だして、それらの人物の小さな伝記を書くという地味なしごとを生涯にわたってつづけた方です。

そんな人だから、とことん産業化し資本主義化してしまった二十世紀の出版システムには、すくなからぬ不信感をいだいていた。その仕事ぶりから、なんとなく穏やかな市井の人という印象をうけている読者も多いと思いますが、とんでもない。はげしい人なんですよ。激越といっていいほど猛々しい現代出版批判の言辞をくりかえし発しています。

ほかの商品とちがって、もともと本は究極の多品種少量生産品である。それがみずからの経験にもとずく森銑三の信念だった。そして、その理想化されたモデルとして想定されていたのが前代の写本、あるいはそれに類する少部数の印刷本――。

おおぜいの人が日常的に本にしたしむようになるのはいいことだ。しかし、だからといって、あまりにも大量の本を節度をこえて売ろうとすれば、かならず新しい抑圧がはじまる。こんど抑圧されるのは大衆ではなく、いまや少数派と化しつつある伝統的な読書人の側である。かれらのささやかなたのしみを押しつぶして(あるいは二流の出版や読書行為とみなして)進行するたぐいの発展はけっして健全なものとはいえない。

おおよそそんなふうに森さんは考えていたわけですが、かれにかぎらず、二十世紀も半ばをすぎると、さまざまな人が、過度に産業化し、資本主義化した出版への不信感を続々と表明しはじめる。たとえばテオドール・アドルノがそうです。森さんより七歳若いドイツの批判哲学者。そのアドルノが「ある書籍見本市に行って妙なわだかまりを感じた」と、一九五〇年代に「書物を愛する」というエッセイにしるしている。

このわだかまりがどういうことなのか考えているうちに、これは書物が書物のように見えないことだと気がついた。消費者の要求だと、真偽はともかく、思われているものに合わせた結果、書物の様相が変わってしまったのだ。装丁が、どの国のものも、書物のコマーシャルになっている。(略)書物が読者ににじり寄って来る。書物はそれ自体で存在するものとしてあるのではなく、他者のためにある。(略)書物は自分自身をもはや信じていないし、自分を大切にも思っていない。これでは碌なことになるはずがない。(略)書物がみずからの形式への勇気を失ってしまうなら、この形式を正当ならしめるはずの力も書物自身のなかで脅威にさらされることになる。

そのとおりと賛成するのは簡単なんですが、うーむ、むずかしいところだな。

アドルノ『文学ノート2』(みすず書房)。「書物を愛する」を収録。

アドルノ『文学ノート2』(みすず書房)。「書物を愛する」を収録。

じつは私はアドルノがこう書いた十年ほどのちに編集者になったんです。そのころ、たとえば文庫本に色つきのカバーはついてなかったですよ。本体を半透明のパラフィン紙でくるんであるだけ。岩波書店がだす学術書はたいていはクロース装で、馬糞紙《ばふんし》ふうの地味な紙函に収められていた。それらのあからさまに素っ気ない装丁や造本が、アドルノがいうところの「形式」として、その本が「消費者の要求」ではなく「それ自体で存在する」書物であることの証《あかし》になっていたわけですね。

そんな時代にあって、けっきょく編集者としての私は、その種の禁欲的な「形式」からはみだしてしまうような本を、それとは別の「形式」でつくりつづけることになった。若かったし、そうした自信たっぷりの「形式」に対する反発があったんです。とうぜん私みたいなやり方への批判もあった。たとえば、ある日たまたま高田馬場の喫茶店で顔を合わせた思想史家の藤田省三氏に、

「きみの出版社はなぜ本に著者の顔写真をのせるんだい? 本に書かれていることと、それを書いた人間の顔にはなんの関係もないだろう」

と皮肉な調子で詰問されるとかね。

藤田さんは六〇年代がはじまって早々、これからは政治ではなく高度経済成長が人間を変えるだろうと予言し、二〇〇三年になくなるまで、一貫して、快楽原則によって崩れてゆく社会と人間を痛烈に批判しつづけた。そういう人です。その点ではアドルノとも似ている。藤田さんが本に平気で著者の顔写真をのせる津野の「コマーシャル」寄りの手法を苦々しく思う。アドルノが「コマーシャル」化した装丁を「書物が読者ににじり寄っている」「これでは碌なことになるはずがない」と批判する。おなじなんです。

アドルノは正しい。もちろん藤田さんも。しかし、この正しさはちょっと狭すぎると私は思った。快楽主義になだれてゆく社会に、厚い板みたいに頑固な禁欲主義で対抗するのはむりがある。私はかれの批判にムッとし、本というものを、藤田さんやアドルノが考えるような禁欲的「形式」にとじこめることに反発した。そして、はでな装丁の本をたくさんつくった――。

ですから、これはやはり「むずかしいところ」なんですよ。

アドルノや敬愛する藤田さんの批判にひとりの読者として同意するのはむしろ簡単です。でも私は抽象的な読者一般じゃない。日々、本という商品をつくり売りつづけることで、かろうじて生計をたてている編集者や出版人でもある読者なんです。そういう人間にとって、「読者ににじり寄る」ことと「自分を大切に思う」こととは、アドルノがいうような黒か白かの選択の問題ではなく、両者のあいだに成立するバランスの問題になる。「自分を大切に思う」ことをやめずに、どうやって効果的に「読者ににじり寄る」か。そのバランスを具体的にどうコントロールするかですね。

しかし、ここまではまあ当然のことといっていいでしょう。「むずかしい」というほどのことではない。問題は、その当然のことが二十世紀が終わりに近づくにつれて、しだいに困難になってきたことです。原因は本が売れなくなったこと――。

いや、発行点数は増えているんですよ。私が編集者になった一九六二年には一万三〇〇〇点だったのが、まえにいったように、ほぼ十年に一万点の割合で増えつづけ、九〇年には四万点、その後はさらにピッチをあげて二〇〇一年には七万点をこえてしまった。そしていまは八万点と九万点のあいだ――。

では、それに比例して売上げがぐんぐん伸びているかというと逆です。戦後、ひたすら右肩上がりの成長をつづけてきた年間売上高が九六年をピークに下がりはじめ、そのまま現在まで減少しつづけている。いわゆる出版不況ですね。売れないから、その分をおぎなうために発行点数を増やす、なかば自虐的な気分で増やしつづけるしか手がないという構造的な自転車操業状態におちいってしまった。

こうした状態がだらだらつづくなかで出版業界に追いつめられた気分が蔓延し、私が若かったころにはまだ可能だった「自分を大切に思う」ことと「読者ににじり寄る」こととのバランスが、にわかにとりにくくなる。目前の危機にいそいで対処しようとあせるあまり、秤《はかり》の重点が商品としての本を売ることのほうへ一方的に傾き、それが慢性化してしまったんです。アドルノ、藤田省三、そこに森銑三を加えてもいいと思いますが、かれらのきびしい批判にそれなりのプライドをもって現場で対抗する余地がどんどん失われてゆく。くやしいし腹が立つ。「むずかしい」と私がいうのはそこのところなんです。

このさき日本の出版業がふたたび二十世紀中盤のいきおいを取りもどす可能性はあるのだろうか。残念ながら、ないと私は思います。先見の明をほこるつもりはありませんが、そのことは世紀が変わるまでにはもうわかっていた。

ただし、わかっていなかったことがひとつある。それがこの文章の冒頭でのべたことなんです。つまり、私たちが生きていた二十世紀というのはじつは普通の時代ではなかった、きわめて特殊な、よくもわるくも異常な時代だったということ――。

私たちは、歴史上かつてない速度で増えてゆく大量の本にかこまれ、歴史上はじめて社会のあらゆる階層に一気にひろがった無数の読者のひとりとして、あの時代を体験した。しかもそれを普通のことと信じて……。そのだれにも当然のものと思えた「本の黄金時代」が、いま不意に終わりにさしかかっている。しかも終りは世界規模であり、日本の出版不況はどうやらその世界規模の終りの過程に生じた現象のひとつにすぎないらしい。いやはや、ですよ。十年まえには、正直いって、そこまでは考えていなかった。

※本稿は国書刊行会から今秋に刊行される予定の、津野海太郎氏の新著のために書き下ろされた文章「書物史の第三の革命~電子本が勝って紙の本が負けるのか?」の抜粋です。