60年代の米西海岸のカウンターカルチャー全盛期に、トム・ウルフの『クール・クールLSD交感テスト』の主人公ケン・キージーがスチュアート・ブランドに連れられて、マウスの発明者として有名なダグラス・エンゲルバートが開発していたNLS(oN Line System)というシステムを見学しに来たときのことだった。
当時エンゲルバートは、コンピューターとネットワークを駆使して、人間の能力を高める研究をしていた。キージーはメリー・プランクスターズ時代にマリファナ所持で逮捕されて数年経っており、オレゴンの酪農牧場に引退しようとしている最中だった。デモを見たキージーは驚きのあまり眼を見開いたまま、「これこそ、LSDの次に来るものだ」と言うと、大きくため息をついた。コンピューターが作り出す情報のバーチャル世界に圧倒され、これが脳を破壊してしまうドラッグを使わなくても、LSDのように人間の意識を高める何かであることに気付いてショックを受けたのだ。
キージーを連れてやってきたスチュアート・ブランドこそ、あのスティーブ・ジョブズが愛読していたという「ホール・アース・カタログ」(WEC)を68年に出版した張本人であり、メリー・プランクスターズの仕掛け人でもあった。
この68年の12月にはエンゲルバートは同じNLSのデモをサンフランシスコの学会(FJCC)で行い、今度はこれに出席していたアラン・ケイやテッド・ネルソンなどがぶっ飛ぶ番だった。ちょうどスタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』が公開されたこの年に、それに匹敵するようなインパクトを与えた「すべてのデモの母」と呼ばれるこの伝説のイベントの演出をしていたのもブランドだった。
パソコン革命とカウンターカルチャーの蜜月時代
いまここで紹介した、さまざまなエピソードが綴られた『パソコン創世「第3の神話」』のまえがきで、著者のジョン・マルコフがさらに興味深いエピソードを披露している。2001年にスティーブ・ジョブズに会ってインタビューしたときの話だ。マルコフのするどい質問に、気分屋でジャーナリスト泣かせのジョブズの機嫌が悪くなり、カメラマンを追い払い険悪な雰囲気が漂い始めた。しかしその後に、ジョブズはその朝にできたばかりのiTunesというソフトを見せてくれた。その新作ソフトには音楽に合わせてサイケデリックな映像も付いており、それを見ながら次第に機嫌が直ってきたジョブズはかすかに笑みを浮かべなから、「若い頃を思い出すな」と言ったという。
マルコフが60年代のドラッグカルチャーの話で応じると、自分もアップルという奇妙なコンピューター会社を作る前に、ドラッグを実験するカウンターカルチャー的なライフスタイルを追求していたと話し始め、「LSDの体験が、自分の人生の最も重要な出来事の一つで、良く知っている人たちが自分を理解できない部分があるのは、彼らがそれを実践しなかったためだ」と言い出した。彼はまた、「私のカウンターカルチャー的なルーツのせいで、今率いている企業の中で、自分がアウトサイダーのように感じるときがある」とも言った。
ジョブズが理解していて、アップルの他の社員が理解できなかったものとは何なのか? それは、彼が2005年のスタンフォード大学の卒業式のスピーチで、「Stay hungry. Stay foolish」とWECの裏表紙に書かれた言葉で締めくくったように、60年代が持っていた、それ以前の時代を突き破るようなパラダイムが醸成されていた時代のアウラだったのではないか。
WECはジョブズばかりか、その時代の若者たちのバイブルでもあり、まさにベトナム戦争や学生運動が盛んになっていた時代の、「右手にWEC、左手に(グレートフル・)デッド」のような存在だったと言われ、当時のロックコンサートや若者の集まる場所では、誰もがこの大判で目立つカタログをかかえていたという。この稀有の時代に青春真っ盛りだった人々が、WECなどが主張するDIYの精神で、ドラッグを捨ててその思いを起業家精神に持ち替えて、シリコンバレーを中心に起きたパソコンやデジタル革命のパイオニアになっていった。
「巨悪」から「道具」へ〜コンピュータ観の変容
こうした人々の中に、スチュアート・ブランドに初めてオンラインでリクルートされたという、ケヴィン・ケリーがいる。52年生まれのケリーは、やはり60年代にはヒッピーのような生活をしており、写真家のコミューンに出入りしては自分の将来を決めかねていた(上の写真。ケヴィン・ケリー氏提供)。
当時は、コンピューターはメインフレームと呼ばれるIBMなどの大型機が幅を利かせ、それらは大学の研究所や大企業もしくは政府機関にしかなく、科学研究や経営や政策のための専門的な分野でしか使われていなかった。
スタンフォード大学では人工知能の研究も進んでおり、近い将来にコンピューターの能力が人間のそれを上回り、大陸間弾道弾を制御するためのミサイルのシステムが暴走して世界が滅びるというイメージも語られ、情報テクノロジーは産官学と軍事を結び付ける巨大なシステムを形成する怖い存在とみなされていた。学生運動の最中には、ベトナム戦争の爆撃シミュレーションを研究している大学のコンピューター研究所を学生が包囲するという事件も起きている。
「テクノロジー=巨悪」という構図に翻弄されていたケリーも、テクノロジーを忌避して近づかない生活をしようと考えていたが、WECを読んで、人々を抑圧するのではなく、道具として使うことで個人を解放するテクノロジーがあることを知って愕然としたという。
もともと科学やアートが好きだったケリーが当時唯一認めていたテクノロジーは、科学知識とアート表現が結び付いた写真だった。当時はやっと一般人が気軽に買えるカメラが出回り始め、彼は父の友人が日本で買ってきてくれた、ペンタックスの一眼レフで本格的に写真の世界に入っていく。そして、写真家のコミューンに出入りしているうちに、大学に行く気がしなくなって辞めてしまい、将来の展望もなく海岸に家を借りて徹底的に読書をしようと考えた。
そうして読みふけった本の中に、19世紀のアメリカの詩人ウォルト・ホイットマンの『草の葉』があったという。その本に出合った彼は天啓を受けたように読書を中断し、どこか遠くに旅したいと考えるようになる。おりしも、中国語を勉強するために台湾に留学していた友人から手紙をもらい、彼に会いに行こうと旅立つ。
そしてケリーのアジア放浪の旅が始まる。バックパックの中に入っていたのは、カメラと最小限の荷物。ヒッチハイクと野宿を繰り返し、寒村から大都市、ヒマラヤの麓にも足を伸ばし、現地の人々と交流し写真を撮り続け、台湾から日本、韓国、中国、インド、中東へと流れた。エルサレムではキリストの生まれたとされる地で野宿した時、神の魂に触れるという神秘的な体験もした。
WECからWELL、そしてWIREDへ
何度か旅を繰り返しているうちに、気が付くとケリーは30歳を超えていた。アメリカに帰ると、故郷のニュージャージーの山奥で、森の木を切って丸太小屋を作り、養蜂を手掛けながら仙人のようなヒッピー生活を続ける。あるときは、自転車に乗ってアメリカ大陸を横断する旅にも出る。
もともと写真家として生活しようと考えていた彼は、写真のメディアとしての立ち位置に疑問を抱くようになり、若い頃に読んで共感したWECで編集者として働きたいと思い始め、旅行会社を運営しながら旅の本の書評などを投稿していた。そのうちに知り合いの編集者から、パソコンを使った新しいコミュニケーションのツールがあることを教えてもらい、もらったアカウントで活動を始める。オンライン会議室で頻繁に発言しているのが、スチュアート・ブランドの目に留まったのか、メールでリクルートされることになる。
ブランドがケリーに期待したのは、80年代の頭に花開き始めていたパソコンのソフトの評価だった。ブランドにとって、パソコンはWECが目指した個人を解放するDIYツールの急先鋒にあり、それを活用するためには良いソフトを選んで普及させなくてはならないと考えたのだろう。ケリーは「ホール・アース・ソフトウェア・カタログ」というWECから派生したデジタル分野を扱う雑誌の編集長になり、嫌悪していたテクノロジーと真正面から向き合わないとならなくなる。
しかしケリーが驚いたことに、パソコンとネットワークが結び付いたオンラインの世界は、大型コンピューターが支配していた官僚的な世界とはまるで違う、個人が自由に発言して情報を共有し自分を高めていける場だった。彼はそこにテクノロジーの新しい側面を見て困惑した。おまけにブランドが84年に始めたWELL(Whole Earth ‘Lectronic Link)というオンライン・サービスにも関わり、その年に出たスティーブン・レビーの『ハッカーズ』という本に刺激を受けて、コンピューターに入れ込む新しい世代の人々を集めたハッカー会議も開くことで、どんどん自分が嫌悪していたはずの世界に没入していく。
その後に彼は、「ホール・アース・レビュー」(WER)の編集長になり、WECの精神を引き継ぎ、80年代の情報化の中で起きたさまざまなデジタル化とカルチャーの変化を追っていくことになる。彼が最初に驚いたのは、コンピューターの中に生命を表現するという、人工生命の研究だった。無機質でデジタル情報を扱う冷たい金属の塊が、生物のように柔らかく動く様に驚いた彼は、WELLやWERにこの新しいトレンドをレポートし、これは『「複雑系」を超えて』(Out of Control)という彼の初めての描き下ろし本となる。
90年代初頭に、オランダの機械翻訳を扱う面白い雑誌を書評したところ、その編集者が彼のところにやってきて、デジタルの新しい雑誌を作りたいから手伝ってほしいと言われた。それが92年に彼を編集長に「WIRED」という名前で出版されることになり、新しい時代のデジタル・カルチャーのトレンドとして広く世界から支持されるようになる。
テクノロジーに対する「ちぐはぐな気持ち」
ヒッピーを自認し、テクノロジーを捨てて旅していたはずのケリーは、最新テクノロジーまみれの生活を送ることとなり、彼のテクノロジーに対するアンビバレントな気持ちは限界に達しつつあった。「WIRED」がコンデナストに買収されて1998年に編集長を辞任した彼は、こうしたテクノロジーという融通無碍な存在に対するちぐはぐな気持ちを整理したいと思うようになり、ブログにテクノロジーの意味を問う「テクニウム(The Technium)」というコラムを書き、読者のいろいろな反応を受けるようになる。そしてこの考えをまとめて、一冊の本を書くことになる。
2003年に出された本の企画書のタイトルは「聖なるテクノロジー」(Holy Technology)だった。まず彼が気付いたのは、テクノロジーはまるで生物のように進化し多様化し階層化していくということだった。そして翻って考えるに、生物も遺伝子の情報の組み合わせを炭素系の材料で組み上げた、ある意味テクノロジーの一形態だった。
テクノロジーの存在を生命との対比で考えていくうちに、これらはひょっとしたら同じものではないか?と思えるようになった。さらにそのルーツを生命の発生まで遡ってみると、それより前のビッグバンからエネルギーが物質に転化し、星や銀河系になった系譜にも同じ構造があることが分かってきた。
それは、テクノロジーとは人工的・人為的で、自然とは無関係な何か、と考えるわれわれの日常感覚とはかなりずれた感覚だ。テクノロジーとはあくまで手段であり、必要なければ止めればいいと考える通常の見方から、彼はどんどんずれていき、ついにテクノロジーは宇宙のできたときから、それを支配する自律的で自己組織的な流れであり、宇宙の物理的構成や、生命をもその一部として含む原理だというところにまで至った。そしてそうしたテクノロジーの底に潜む原理を「テクニウム」と名付けた。
そして、7年かかって苦労してまとめあげられた本のタイトルは、宗教書と間違えられないよう、『テクノロジーの望むもの』(What Technology Wants:邦題『テクニウム』)となっていた。
われわれのテクノロジーの概念を拡張しその原理を探ったこの本は、いわゆるテクノロジーのノウハウ本でも技術解説本でもない。それは何かわれわれの現在が向かっている大きな流れを指す「道」のような考えを、人類の歴史から、宇宙の歴史にまで遡り、テクノロジーをめぐる賛成派・反対派の論点を交えながら説き起こす不思議な本だ。
しかし、テクノロジーという自然に反すると思われる概念が、実は自然の要素、もしくはその本質ではないかという疑問は、われわれをまるで違った方向に導く。それはまるで、彼が最初に考えた「聖なるテクノロジー」そのものではないか。
テクノロジーにひそむ「聖なるもの」の正体
コンピューターやネットワークは、俗世界の象徴とも考えられる最先端テクノロジーだが、バチカン法王庁でさえソーシャルメディアを活用する時代であり、ラジオやテレビの時代から宗教とメディアテクノロジーとの縁は切っても切れない。聖なるものが俗化しているのか、はたまた俗なるものが聖化しているのか? トロントのヨーク大学のデビッド・ノーブル教授は、『テクノロジーの宗教』(The Religion of Technology)の中で、ニュートン以降の現在のITまで最も強力なテクノロジー開発を牽引してきたのは「神に救済を求める霊的な人間の野心だ」と論じている。
ポール・ヴィリリオが指摘するように、電子メディアは「光の速度という絶対速度を持つ電磁波を利用することで『遍在性、瞬間性、直接性』という神的な属性を利用可能にした」(『電脳世界』)のであり、まさに古代からの宗教が求めていた何かを具体的に実現しているのは、ただの信仰ではなく、俗世間に跋扈するテクノロジーなのだ。しかし一方でノーブルが言うように、テクノロジーを牽引している底に潜んでいるのは、やはり聖なるものを求める人間の心でもある。
そうなると、この俗なテクノロジーなるものが求めている聖なるものの正体とは、一体何なのだろう? ケヴィン・ケリーがハッカー会議の後の90年に、サンフランシスコで開催した「サイバーソン」という24時間マラソンのようにVR(Virtual Reality)をデモし論議する会合があった。そこにはスチュアート・ブランドやハワード・ラインゴールドといったWERの関係者ばかりか、LSDのグルだったティモシー・リアリー、またウィリアム・ギブスンのようなSF作家も集まっていた。
当時は、テキストが主だったパソコンがグラフィックスやサウンドなど、いわゆるマルチメディアを扱えるようになりつつあり、インターネットが学術目的以外に一般にも開放されつつあった。VRの作るバーチャル世界はゲームのようでもあったが、それはいままで見たことのない「あの世」のような精神世界を呼び覚まし、それが誰をもどこか遠くに連れ出してしまうような不思議な印象を与えるものだった。想像が作り出す世界を新たなユートピアのように語る論議もされ、日常の現実から離れてこうした世界に移り住みたいと真剣に唱える参加者もいた。
情報時代の幕開けを彩ったコンピューターは、戦時中にアメリカばかりかヨーロッパでも開発が始まったが、結局それが今日に至るまで最も過激に花開いたのは米西海岸のシリコンバレーを中心とした地域だった。パソコン時代を支配したのは、IBMやアップルで、欧州のコンピューターメーカーは潰れていった。なぜ、コンピューターはカウンターカルチャーの花開いた西海岸という場所で突出し、VRなどというさらにその先の世界にまで進化しようとしているのか? この地域には未来を牽引する特異な何かがあるのか?
エド・レジスは『不死テクノロジー』の中で、西海岸を中心に展開している、死後も体を冷凍保存して医学が進んだ未来に再生しようとするアルコー延命協会やナノテクを使った再生医療、宇宙移民までを論じている。VRによってコンピューターが進化した未来の世界は、現実を作り変え、われわれの思念を純粋に培養して永遠にそこに保管してくれるエデンの園のようにさえ見える。
またコンピューター科学者でSF作家でもあるハンス・モラベックは、遠い将来には、心というソフトウェアをダウンロードして保存し、現在の体が死によって崩壊しても、未来のロボットに移植して再生したり、宇宙探査機にアップロードして宇宙旅行したりできる、と真剣に唱えている。
なぜIT文化はアメリカ西海岸で花開いたのか
最近公開された映画『イミテーション・ゲーム』は、アンドルー・ホッジスの書いた伝記『エニグマ アラン・チューリング伝』を元に、こうした世界を最初に経験したアラン・チューリングの生涯を描いた映画だ。現代数学の礎を築いた大数学者ダフィット・ヒルベルトが20世紀初頭に、すべての数学の問題は厳密な証明で解けるとした予言を、1936年に「計算可能な数について」という論文で否定してしまったチューリングは、その証明のために、人間の思考の基本的論理を「チューリング・マシン」と呼ばれるモデルで表し、それが現代のコンピューターのアーキテクチャーの基本になったとされる。
チューリングは第二次大戦の最中に、イギリス政府に要請されてドイツ軍の使う最強の暗号エニグマを解読する仕事をし、チューリング・マシンを実体化したようなマシンを使って見事解いてしまう。同じ頃にアメリカでは、大砲の弾道計算を補助するために、ENIACという電子式コンピューターがフォン・ノイマンを中心に作られていたが、チューリングたちはそれより早く、コロッサスというコンピューターを完成させてしまう。
チューリングはもともと、人間の脳と心を、マシンで再現することを目指していたのであって、別に高速計算機を目指していたわけではなかった。同性愛者だった彼は、若いときに恋していたクリストファー・モルコムが18歳で病死してしまったことから、彼の魂をどう蘇らすかに興味を持っていたと言われる。そういう意味でチューリングは、現在の人工知能と呼ばれる分野の始祖とも考えられるのだが、その研究はイギリス本国で花開くことはなく、いつのまにかアメリカのお家芸のように語られるようになり、エキスパートシステムが作られ、IBMのビッグブルーがチェスでカスパロフを打ち負かし、ついにはグーグルのような超巨大人工知能ソフトが世界を支配するようになった。
最近はコンピューターやネットの能力が全人類の能力を上回る「シンギュラリティー」と呼ばれる現象が数十年以内に起きるという説がアメリカの市場を中心に、まことしやかに語られ始めている。これと同じような予想が60年代にもなされたことを考えると、単純に信じることもできないが、なぜいつもアメリカでは、こうした人間を凌駕するテクノロジーが語られるのだろうか?
90年代にイギリスのメディア研究者リチャード・バーブルックたちが、「カリフォルニアン・イデオロギー(Carifornian Ideology)」という論文で、ネット文化を、アメリカ西海岸という地域と60年代のカウンターカルチャーの交錯した、国家を否定したリバータリアニズムを行使するテクノロジー決定論だと論じた。
建国の父トマス・ジェファーソンの頃から明らかなのは、アメリカに逃避して個人の自由を主張した人々は、ヨーロッパの階級社会における運命論や教会の支配を否定して、個人の力で未来を切り開こうとする貧しい人々が中心だった。そうした人々が21世紀に行き着いたのは、レジスやモラベックらが主張するとおり、テクノロジーが作る不死のユートピア幻想だった。そこでは運命、つまり死が肯定されるのではなく、ひたすら永遠のモラトリアムを喧伝するディズニーランドのようなVRの世界が、人々にダイエットや高度再生医療やアンドロイド化を勧めている。人間の存在をテクノロジーという自然に同化させ、精神をアップロードしてしまう文化を牽引している聖なるテクノロジーが、コンピューターやネットワークであると考えられないこともない。
こうした文脈で、ケヴィン・ケリーの『テクニウム』や現在のITテクノロジーを読み解いてみることは、アップルウォッチやIoTに振り回されているわれわれに、なぜテクノロジーと向き合わなくてはならないかを考えさせ、きっと別の未来を見せてくれることだろう。
※本記事の著者、服部桂さんのインタビュー・構成による「『テクニウム』を超えて――ケヴィン・ケリーの語るカウンターカルチャーから人工知能の未来まで」がインプレスR&Dより発売中です。
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執筆者紹介
- 元朝日新聞ジャーナリスト学校シニア研究員。1978年に朝日新聞社に入社。84年にAT&T通信ベンチャー(日本ENS)に出向。87年~89年にMITメディアラボ客員研究員。科学部記者や雑誌編集者を経て現職。著書に『人工現実感の世界』(工業調査会)、『人工生命の世界』(オーム社)、『メディアの予言者』(廣済堂出版)。主な訳書にレヴィンソン『デジタル・マクルーハン〜情報の千年紀へ』、マルコフ『パソコン創世「第3の神話」』、スタンデージ『ヴィクトリア朝時代のインターネット』、同『謎のチェス指し人形「ターク」』、コープランド『チューリング 情報時代のパイオニア』(以上、NTT出版)、ケリー『テクニウム』(みすず書房)、『マクルーハンはメッセージ』(イーストプレス)、『VR原論』(翔泳社)、『<インターネット>の次に来るもの』(NHK出版)などがある。
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