2 図書館にとってパブリックとは?

2014年5月18日
posted by 「マガジン航」編集部

デジタルならではの「生みの苦しみ」

内沼:さきほどのケヴィン・ケリーの「本とは持続して展開される論点やナラティヴである」という定義(※Part 1を参照)は、ウィキペディアで定義されているような「本とは冊子である」というのとは別の話で、最初のほうで話題に出た「本とは生みの苦しみである」という話に似てる気がしますそもそも生むのが苦しくなかったら、論点とかナラティヴが持続しないと思うんですよ。

――ただケヴィン・ケリーの言葉だと、紙の本かどうかという話は抜きになるんですよね。紙だからこそ「生みの苦しみ」があるとしたら……ああ、こっちも紙か電子かは関係ないのか(笑)。

吉本:紙のほうが「生みの苦しみ」がより強制的に……。

内沼:そう、比較的に起こりやすい、というだけの話で(笑)。

河村:それに、紙のほうが手触りや雑誌のレイアウトによって、行間に込められた「苦しみ」が分かりやすいんですよ。デジタルの場合はすべてがバイトの情報になってしまうから、コンテンツの中身ぐらいでしか勝負ができない。でも、それだと素人目には、どう苦しんでいるのかがわからないんです。

高橋:紙の本という「モノ」を作ること自体、けっこう大変ですよね。物質を組み上げる作業は、電子の場合のように自動化してパーッとやるかたちには絶対ならない。だからこそ、誰かの意思やコストがそこにかかってくるわけで。

内沼:吉本さんがいま言った「紙のほうが苦しみが強制的」という話は、たぶんシンプルに締切の話ですよね(笑)。つまり、そこでコンテンツが「固定される」か「固定されない」かの違いでしかない。「固定される」というのはやり直しが利かないということで、やり直しが利かないから、本気を出さなきゃいけない。本気を出さなきゃいけないから苦しい、という話かなぁと思って。

吉本:そういう意味では、電子書籍はまだいろんな点で統合されていないから、紙の本を出すのと同じようなことが起きます。

内沼:そう、電子書籍もまあまあ苦しいんですよ(笑)。ただ、苦しさに違いがある。

――(司会・李明喜)長尾真さんは岡本真さんとの対談(この電子書籍に巻末付録として収録)のなかで、紙の本が粛々と電子化されている現在の電子書籍/電子図書館は「第一ステップ」にすぎないと仰っています。「第二ステップ」では、それらがフラットなネットワーク構造になる。「第三ステップ」ではさらに先に進んで、たとえば河村さんがある視点をもって「第二ステップ」でできたネットワークのなかに立ったとき、ご自身の関心の文脈に特化された部分的なネットワークが浮かび上がってくる。そこまでをシステム側で実現できないか、と仰っていました。

いまはまだ「第一ステップ」なので、電子書籍の「生みの苦しみ」は紙の本に比べると楽ですが、これからはデジタルならではの、新しい「生みの苦しみ」が生まれてくるんじゃないかな、と思うんです。

吉本:その新しい「生みの苦しみ」ってなんでしょうね。人は楽なほうに行きたいですから、なくてもいいなら締め切りがないほうを選ぶ(笑)。生きている限り、苦しみのないほうに行くのは否定できないわけです。実はプログラマーが抱えている問題も、物書きの人と一緒なんですよ。いままで僕が関わってきたファームウェアや製品のプログラムは、いったん出してしまったら回収できない。するなら全部回収しかないわけです。そういう点では本と一緒だったのが、ウェブサービスになった瞬間まったく違ってきた。

河村:そういう意味では、僕らはすでに新しい「生みの苦しみ」を味わってるかもしれません。誰からも強制されてないのに毎日リブライズを開発していて、〆切状態がずっと続いている。紙の本だと、〆切が終わったときに解放される爽快感があるんですが、開発にはそれもない(笑)。

吉本:インターネットによって「生み出す」という行為自体が、本だけじゃなくてソフトウェアやサービスでも、ビジネス自体でも変化してきましたよね。いままでのビジネスは、「箱」を作ってそこに商品を並べて、こういう店舗を作れば売れる……という発想でやってきたけれど、それでは済まなくなってきた。

河村:イベントのあり方も、完全に変わってきました。たとえば、先日、駅前でファッションショーがあったんですよ。100人くらいの女の子が、下北沢の地元のお店の服を着て歩くんですが、その観客は基本的に、みんなファッションショーに出る女の子たちの友だちなんです。いままでは「イベント」だけのパッケージを作っていたけど、いまはもうそこが崩れている。インターネット上だけじゃなく現実のイベントでも、全般的にそういう揺り戻しが来てるんじゃないでしょうか。

左から内沼晋太郎さん、高橋征義さん、河村奨さん、司会の李明喜さん。(下北沢オープンソースカフェにて。写真:二ッ屋 絢子)

「場所」のもつ意味

――いまのイベントの話は、「場所」の話でもありますね。ここまでは紙の本や電子書籍をめぐる話でしたが、だんだん図書館という「場所」のほうに広げていきましょうか。河村さんと内沼さんは、それぞれ自分たちの場所(お店)を構えていらっしゃいます。それに対して吉本さんや高橋さんは、とくに場所を構えておられない。本や電子書籍、電子図書館がもっている意味は、場所性となにか関係があるのか。そのあたりはいかがでしょう?

河村:ここの店には、一定の知識をもった興味対象の限定された人を集めたかったんです。そうでないと、僕らは対話ができないんですよ。長尾さんのテキストの最初のほうに、「思想の形成」というくだりがありますよね。新しい創造のための議論は言葉の世界だけでなく、それを発信する人の全人格が相手に伝わることが大切だ、という。それは会議のような場だけでなく、むしろ普通のコミュニケーションにおいて、もっともよく機能する。だからこそ、その場所に人が集まるんだ、と長尾さんは書いておられる。ここにはすごく賛成なんです。

日々の仕事のなかで、雑談みたいなところから生れてくる新しいものが好きなんですよね。このコワーキングスペースも、そのためにやっている。会議も物事がうまれる一つのきっかけにはなるけれど、そこで会うだけだと、お互いの関係がまだキレイすぎる。もっと「普段着の状態」になったところから、面白いものが出てくるんですよ。

――つまり、ここは一時的なイベントをするための場所というより、「持続性をもった場所」という考えなんですね。

河村:そう、むしろイベントは副次効果というか、サービスなんです。人が集まると、なぜかみんなイベントをやりたがる(笑)。だからイベントもやるけれど、それ自体が目的ではない。むしろ人が集まる循環をつくり出すためのキーとして、イベントをやっているんです。

内沼:B&Bの場合も、それとかなり似てますね。毎日しているイベントは「本」の編集と同じで、誰と誰をどういうふうにしゃべらせたら、面白いコミュニケーションや、新しい「知」みたいなものが生まれてくるかをつねに考えている。僕らが「街の本屋」というときにイメージしているのは、街の中で「知的好奇心の渦」の中心になるような場所なんです。

この話をあえて図書館の話につなげると、長尾さんもお書きになっているとおり、とくに国立国会図書館では「すべての知を集める」ことが理想形とされていますよね? でも、すべての「知」って、いまはどこまでを指すんだろうか。ウェブサイトも収集しているし、さらに電子書籍も集めようとしているけれど、僕はもうそれはきりがないから、やめた方がいいと思ってるんです。なぜかというと、たとえばここでたまたま出会った人同士の話のなかに「知」があったら、理屈の上ではそれも収集しないといけないわけです。

「本」の価値は「書かれたこと」がすべてではなくて、それを読者がどう受け取って頭の中でどう理解し、どう考えたりするかによって違ってくるし、そういうことが生まれてくるのが、本の良さでもある。でも「どう読むか」は人によって違うし、ある人と人が出会って読み方がぶつかったときに、またそこから新しい方向に発展したりする。ここまで含めて全部が「本」だとすると、「知」はいろんなところに渦巻いている。いま話しているこの座談会も、録音しているだけでmp3というファイルになるわけで、突き詰めれば、それも図書館の収集対象になってしまう(笑)。

――高橋さんは電子書籍を販売する立場からみて、場所性についてはどう考えますか? たとえば米光一成さんが、以前「電書フリマ」というかたちで「実際の場所で電書だけを売る」というイベントをなさっていますよね。

高橋:いや~、場所ってコストが高いじゃないですか(笑)。電子書籍の場合、紙の本より儲からないというか、あまり利益をとらないでやっていきましょう、という感じなんですよ。しかもうちの方針としては、紙だと出せないようなものも電子なら出せる、という発想をしている。

なぜ紙で出ないかというと、ようするに売れないから。紙の本だと、2000〜3000部ぐらい刷らないとダメだけど、電子だったら100〜200部売って利益を出して、みたいなモデルが作れるわけです。それをするには、とにかくコストを削らないと……という話になったとき、「リアルなもの」というのはとにかく高い(笑)。場所が嫌いというのではなくて、コスト的に場所をもつのは難しいのかなあ、というところはあります。

河村:それに、あえて「場所」でやることの意味が、電子書籍という文脈の中ではよくわからないですよね。

高橋:そうですね。やってみたらやってみたで、面白そうな感じではあるんですが。

河村:達人出版会の本を何冊か限定でオンデマンド印刷して、下北沢オープンソース・カフェに置かせてもらうことができたら、買ってくれる人はけっこういるはずです。ただ、その本を普通の本屋で売ってもダメだと思うんです(笑)。ここはちょっと特殊な人たちが集まる場所なので、そういう特定のターゲットには響く。ただ、そういう人たちが集まる場所を作るにはコストがかかるわけで、半端な気持ちではできない。

内沼:いまの話はすごく面白い。つまり「家賃は高い」という話と、「印刷代は高い」という話が一緒だっていうことですよね(笑)。「印刷本にするまでもないものが電子書籍になる」という話は、ある場所を維持して、そこで人がでしゃべったことを――「知」として収集する必要があるかどうかわからないものまで――とにかく全部記録しておくかどうか、という話と似ている。記録しておきたくなるけれど、実際は全部を記録しておくことはできない。ましてや記録した瞬間に国立国会図書館の収集対象になるとしたら……。

河村:固定化には、つねにコストがかかるんですよ。そういう意味では、電子書籍はまだコストが低いほうにある。でも、いましゃべっているこの話を全部文字に起こすかどうかは、内容によりますよね(笑)。つまり、その部分にどのくらいコストをかけるかという話が、固定するかどうかの判断にかかってくる。「生みの苦しみ」とは別に、そのコストをどうするかという問題がある。

内沼:そう、だから全部は収集できない。紙に印刷されたものだって、実際は全部は収集できていないわけです。でも、それをわかった上でも理想としては「全部」といわなければならない。それだと図書館の人は辛いんじゃないかな。

図書館はどこまでを集めるべきか

河村:国立国会図書館の場合、「全部を収集する」という理想をかかげて行けるところまで行くのはわかるんです。でも街の図書館にまで、その理想は求められない。蔵書にある程度の網羅性が求められる半面、場所も置ける冊数も限られるという二律背反の状況のなかで、司書さんは選書をしなければならないわけで。

内沼:長尾さんが書かれているような未来として、リアルな現場で起こっている「知」をすべて収録したいという人がいるとしたら、地域におけるその尖兵としての役割を地域の図書館が担うしかない。世田谷区の図書館の人がこことかB&Bとかに来て、そこでやってるイベントや会話を頑張って全部録音して帰る。さらにそれを文字に起こして、とりあえず電子書籍にする……というのはファンタジーですけど、ありうる気はしますね。誰かがしゃべっていたら、「いまちょっといいことを話しておられたので、録音させてください」といって飛び込んでくる(笑)。

吉本:新聞社の地方支社は、まさにそういうことをやってるわけですよね。

内沼:下北沢経済新聞みたいな「みんなの経済新聞ネットワーク」も、いままで新聞記事にならなかったような地域のちょっとした話題、たとえばどこかにこんなお店ができました、みたいなことを新聞記事ふうに書いてニュースにしているわけです。

河村:そうだとすると、図書館自身が「知」を固定化する義務を負うかどうかがポイントかもしれないですね。「みん経」は、いままで固定化されてこなかったものをニュースとして固定化している。それはとても面白いと思うけれど、でもそこを街の図書館がやるべきかというと、私にはとてもそうは思えないんですよね。

――「固定化」というのは、電子であれ紙であれ、なんらかの記録に残すってことですか?

河村:たぶん、いままでは一段階だったはずの「記録に残す」という作業が、いま二段階になっているんですよ。「みん経」が街の中で起きていることを記事にするようなのが最初の固定。次にそれだけだと散逸しちゃうから、たとえば国立国会図書館に一つのアーカイブとして遺しましょうという、二段階目の固定化がある。でも、「みん経」の記事はすでにインターネット上に載ってるわけだから、インターネット自体を「ライブラリー」だと言えばいいんですよね。

内沼:実際、国立国会図書館が世の中にあるすべての「知」を集めるよりも、本をはじめ全部をインターネットに上げてしまって、「インターネットが世界の図書館です」、それで終わりのほうが楽かもしれない(笑)。

――アメリカではインターネット・アーカイブが、ウェブページだけでなく、映像・音声・ソフトウェア・テレビ・紙の本などの収集を本気で始めてますね。国立国会図書館も、どこまでできるかわからないけれど、インターネット資料も収集し始めている。さらに文化庁との間で、映像やゲームといった、いわゆるメディア芸術まで収集の対象を拡げるという話も決まっています。

ところで、カーリルはリアルな図書館に足りない部分のサービスを、ネットワークで図書館をつないで埋めるところから生まれたわけです。また新事業として、カーリルタッチという図書館の「書棚」を支援するサービスを始められていますが、吉本さんは場所と本や情報の関係を、いまはどう考えておられます?

吉本:図書館との仕事をしていると、正直、図書館がもっているのは「場所」しかないんだ、ということがよくわかります。本に対する力なんてもっていないし、「本のデータ」すら、いまは自分の力ではなんともならない。

図書館がいちばん自由にできることは、実はシステムとはあまり関係ないことなんです。たとえば、本棚に本をどう並べるかは、図書館の側で自由にできる。でも、本を置く場所を変えること自体、いまは相当に大変なことになっている。なぜかというと、最初に図書館を建てたときの並べ方で固定化してしまうんですよ。おかしな話だと思うんですが、「背」を見せて並べていた本を「面見せ」にするだけでも一大事なんです。

カーリルタッチという新しいサービスを始めたのは、僕らが現場に行けることが大きかった。図書館のことをもう少し知るには、図書館そのものともっと絡まないと面白くならない。でも正直、その先に何があるかはよくわかっていなかったんです。ただ、カーリルの最初のコンセプトである「ウェブと図書館をつなぐ」のうち、「図書館からウェブにつなぐ」ほうはまだやっていなかった。それを作れたら、図書館の人ともっといろいろなことが一緒にできるんじゃないか、って。

これまで図書館とカーリルは役割分担がはっきりしていて、なかなか何かを一緒にやることがなかった。 最近、図書館の人には「カーリルは図書館に人を送客するサービスです」と説明しています。 立ち位置としては「ぐるなび」と一緒なんですよ(笑)。

河村:このあいだ、カーリルを使って本を探しに行こうと思って感じたことがあるんです。世田谷区でここから最寄りの代田図書館がいま閉まっていて(座談会当時。2014年4月にリニューアルオープン)、いまは電車を使わないと図書館に行けない状態なんです。それでカーリルで検索したら図書館がずらっと出てきて、どこに行くかすごく迷ってしまった。図書館ごとの個性がないから、いままでは距離でしか選んでこなかったんですが、それはなんだかもったいないな、と。

図書館の設置場所は、区内での網羅性を維持するためにすごく苦労して選ばれている。でも同じ区内に十何館も図書館があるのなら、ある程度それぞれが個性的な選書をして、区全体で網羅性が保たれればいいんじゃないか。さらにいえば東京都全体で網羅性が保たれてればいい。カーリルができたおかげで、そういうことが言えるようになった気がするんです。

内沼:さきほどの話とつなげると、それぞれで生まれた「読み」みたいなものが、それぞれの館で記録されていると面白いですよね。長尾さんが仰るように「知」とか「データ」がインターネット上ですべて共有されるとしたら、地域にあるリアルな図書館の財産は、突き詰めればそこにある情報ではなくて、むしろ周りにある環境や周りに住んでいる人だということになる。

これは完全に未来の話になってしまうけれど、たとえば、ある本を読んでこう考えた人がいる。その人はどうやら世田谷区のある図書館の近くに住んでいて、そこで読んだらしい。だったら自分も図書館に行って、その人とちょっと話してみたい、ということで出会った二人が話したことが、またインターネット上で共有される……みたいな。

河村:この下北沢オープンソース・カフェは、実際にそういう場をめざしてるところがありますね。基本的にどんな人でもウェルカムなんですが、プログラムやオープンソースというテーマの本を本棚に置くことで、特定の知識層を固定化してるんです。本棚にはそういう使い方もあるのかな、ということが一つ。それからもう一つ、いまの話を聞いていて思ったのは、図書館には住民からのリクエストというものが反映されますよね。街の図書館には、周辺住民を代表するような知識があるといい。

吉本:まさにそれをいま図書館の人と話していて、カーリルでやりたいことのリストに入っています。図書館の側も、住民が何に興味をもっているのかに注目しはじめてるけれど、正直な話、そういうマーケティング的なことが図書館にいるとよくわからないんです。

河村:これまではその部分で住民に迎合しすぎると、図書館に置かれる本の網羅性が失われてしまって、あまりよくないかたちだったかもしれない。でも逆に、司書の人が網羅性があると信じて選んでくれた本が、いつの間にか偏ったものになっていないとも限らない。そこの部分の担保はとりようがない以上、どこも同じような平均値を求めるのではなくて、それぞれがバラバラに選書して、それがインターネット経由で最終的に網羅性やバランスがとれている、というほうが自然な感じがするんです。

本屋も図書館もない地域

――これまでの話は、東京のような国立国会図書館があり、都立中央図書館もあり、公共図書館もたくさんもあって、立川まんがぱーくもできて、そしてリブライズの方がやっているオープンソース・カフェもあり、B&Bを始めとするユニークな本屋さんもたくさんある……という環境だから成り立つ部分もありましたよね。

けれども地方となると状況は全然違ってきます。いま、離島の本屋さんの本(朴順梨『離島の本屋〜22の島で「本屋」の灯りをともす人々』)が出ていますけれど、ああいう離島では図書館さえまともになくて、本屋さんが図書館の役割をしていることも多々ある。もっと厳しいところだと、本屋さんさえもありません。そういう状況のなかで図書館のこと、あるいはもう少し広く「パブリック」ということを考えてみたいんです。

東京や首都圏に住む人たち、あるいは大阪や京都など一部のエリアでは、これまでの話は納得できることかもしれない。また東北では震災というたいへん不幸なことがあったために、現地の人たちが他の地方から集まってきた人と一緒に動き始めて、新しいコミュニティが生まれているところもある。

でもおそらく、そうした動きが起きていない、また起きていても可視化されない、といったところがたくさんあると思うんです。電子書籍とか電子図書館がもっている可能性は、本来はそういったリアルな本で埋めきれない場所に対しても有効なはずなんですが、皆さんそのあたりはいかがでしょう?

吉本:僕が住んでいる岐阜県の中津川市は、過疎でもないかわり都市でもない。まさに平均的な田舎なんですね。こういうところが世の中で、実はいちばん広大なエリアだったりするんですが、本当にどこに行っても同じ店があって……という感じなんですよ。

僕が生まれたころから、うちのあたりには書店というものがなかった。もちろん図書館もない。じゃあ、どうやって本を手に入れるかといえば、親が年に何度か名古屋に買い物に行くときに、「買ってきて」って頼むんです。でも、親が行く本屋にどの本があるかは、前もってはわからない。親からすれば、コンピューターの本ならなんでもいいように思われて、全然違う本を買ってこられて「これでいいだろ」って言われる(笑)。

つまり、本に対するディスカヴァリーがまったくない状態だったんですよね。そういう、本と出会うためのインデックスが何一つなかった状態からすると、いまは完全にがらっと変わっていて、なんら不自由もストレスもない。そこに関しては圧倒的な変化だと思っています。

僕が紀伊國屋とかジュンク堂のような書店に出会ったのは大学に入ってからで、公共図書館に行くのと体験としては非常に近い、つまり自分が知りたいと思ったことが、そこに行けばなんとなく見つけることができた。でも、本が網羅されている空間はいいよね、書店や図書館はそうあるべきだよね、と言われても、それらと出会う前に、アマゾンが存在する世界に行ってしまった。原体験がないので、いい空間だということはわかるけれど、それがなくなったときに困るかと言われると、率直に言ってよくわからないんです。

内沼:いまの話は、さっきのコストの話とも関係があるし、当然、問題にすべきことだと思います。さらにいえば、これは「本はタダで読めるべきか、それともお金をとるべきか」という話ともつながってくる。仮に図書館ですべての「知」が完全に解放されたとすると、極論すればアマゾンさえも要らなくなる。もちろん長尾さんは、完全にそういう状態になることをめざしているわけではないでしょう。ただ、図書館の歴史のほうが、本屋の歴史よりもはるかに長い。だからこそ、「知識」の公共性とは何かという話になると、どうしても図書館というものにつながっていくわけです。

「本」は紙に印刷して全国にある本屋に撒くという、複製と流通の部分に多大なコストがかかる。だからこそ、本は「商品」として売るわけですよね。でももっと昔は、手元に欲しい本は書き写して所蔵していた。書き写す手間という意味ではコストがかかっているけど、大量生産される「商品」ではなかった時代があるわけです。本が誰でも買えるものになってからの歴史はまだ短いし、いまではまた「売れない商品」になってきている。

だったら、極論すれば、もう本を売るのはやめればいい、という話もありうる。そこで僕から皆さんにお尋ねしたいんですが、「そもそも本からお金をとるほうが間違っている」という考え方についてどう思いますか? つまり、本はいまだにお金を払って買うものなのか否か、という。

高橋:どうなんですかねぇ。電子書籍の場合、ウェブと違うのは読むのにお金がかかるというところですよね。無料ならウェブでもいいという話も、「電子書籍元年」と騒がれた2010年ぐらいから延々とやってきているわけです。

ただ、内沼さんが仰った「昔は本は売りものではなかった」という話と同時に、「昔は誰もが知識にアクセスできるわけではなかった」という面もある。ビジネスや商品になることによって本はパッと広まった。つまり、お金さえ払えば誰もがアクセスできるようになった面もあるわけですよね。さらに、いまではウェブで無料で知識にアクセスできるようになった。いったいどうしましょう、と正直困っているところではありますね(笑)。

吉本:本が売られるようになると、売れる本を書いて流通させれば儲かるから、投機的な意味で出版社がそのための資本を出す、というビジネスの流れが出てきますよね。そこにあらたに電子書籍が登場して、ある意味、その部分を中抜きします、みたいな話になってきた。さらに最近ではクラウドファンディングをつかって、「こういう本を書きたいのでお金を集めたい」という流れも出てきている。あれも書く人に対して「生みの苦しみ」というか、ものすごくプレッシャーになりますよね。

河村:READY FORでお金を集めて図書館を作ろう、という動きもありましたね。ただ、クラウドファンディングというのは、実はお金の問題よりも責任のほうが強い。得たお金で私腹を肥やすわけにはいかないから、自分自身の分は手弁当でやるわけじゃないですか。ようするに、投機的にやるのか先に後押ししてもらうのか、ぐらいの違いでしかない。でもこの差がけっこう本質的なのかもしれないですね。

吉本:本が売れなくなったということに関して言えば、投機的なメリットがなくなってきた、というのが決定的なんでしょうね。

「知」の体系と「物語」

――もともと「本」や「知」は売られるものではなかったけれども、「知」の大衆化とビジネス化は、実は同時に相互関係のもとで進んできた。いまのクラウドファンディングの話もそうですが、電子書籍の話、あるいはそれ以前にインターネット自体が、「知」の大衆化や民主化を生み出した、と総じて言われます。今後に起きる変化は、その大衆化あるいは民主化がさらに広がるという、スケーラビリティだけの話なのか、それとも、より本質的な変化が起きるんでしょうか?

河村:こういう話をするときにいつも疑問に思うのは、学術書や技術書のように、知識の体系全体のどこかに埋め込まれることを想定されて書かれている本と、物語性やエンターテインメントのほうに向かっていく本を、同列に扱っていいのかどうかということなんです。

私自身は技術書しか書いたことはないんですが、そうすると時間給で考えると200円とか300円の仕事をすることになる(笑)。本を出すことの経済的なメリットは自分自身には全然なくて、むしろ身を削るだけなんですが、ここ10年間に関しては、インターネットに出すよりも本として出したほうが拡がるし、読んでもらえるという場面があったんです。

内沼:しかも、知識の体系の中に正しく配置されますよね。

河村:そう、それが最初に私が言った「アンカー」ということです。そのことにメリットを感じてするのが「本を書く」という行為だったと思うんですよね。だから逆に、「物語を書く」というかたちで本に関わってる人たちのマインドが、私にはよくわからないんですよ。

内沼:そこは同じかな、という気もします。「物語」という言葉を抽象的に使いすぎているかもしれないけれど、物語を書く人は、「まだ足りてない物語」を書こうとしているんだと思うんですよね。どこかで書かれた物語ならもう必要ないけれど、プロとして責任をもって書こうとしている人は、社会に足りていない物語を埋めようとしている。自分自身の癒しのために書いている人と、プロの作家の違いはそこだと思います。

――ただ、そういう意味では同人の作家も「足りてないところを埋める」ことへの欲望はすごく強いですよね。

内沼:そういう人もいますよね。「同人」というときにイメージしてるものが、ひょっとしたらお互いにずいぶん違うのかもしれないですが。

吉本:同人作家の場合、社会のなかでの「足りない物語」を埋めるというよりも、自分のなかの欠落を埋めるところが強いのかな。

内沼:僕もそういうイメージで話をしていました。

――たぶんお二人と同じイメージで話をしてると思いますが、同人の場合も、歴史のなかに物語を埋めたいという欲望をもっているように感じます。ある種の「歴史」ではあるけれど、それが複数ありうるところが同人カルチャーの動力だったりする。「複数の歴史を埋めていく」というのは、学術書のような意味で「体系を埋める」のとは違うかもしれませんが。

内沼:ただ、そのときにも自分の「そうあったかもしれない物語」を書きたい、「自分がいちばん気持ちいいものが書きたい」という欲望が強いものが、同人の場合はどうしても多くなってしまうと思います。それが自分だけでなく、誰か他の人の癒しになると思って書くという意識の有無が、プロかそうでないかの線引きかなと思うんです。これは「仕事」か「趣味」かという話でもある。「お金をもらうこと」イコール「仕事」という定義もありうるけど、そうじゃない定義もありうるわけです。ざっくり言うと、社会を向いていれば「仕事」で、自分のほうを向いていれば「趣味」みたいな。

たとえ時給200円でも300円でも、あるいは1円も貰えなくても、この体系を「埋める」ために書く人は、「仕事」をしているとも言えると僕は思っていて、そういう本は図書館が収集すべきものかもしれない。逆に、たとえば最もわかりやすく言うと、自分がいちばん性的に興奮できる絵を描きたい、というようなのが「自分に向かっている」ということで、それと他人のために書くこととの差は、やっぱりあるんじゃないでしょうか。

――両者の間で明確に線が引けるものでしょうか?

内沼:明確には引けないでしょうね。グラデーションはあると思います。

河村:「本」を書くのが自分のためなのか、社会の中に足りてないと思うからやるのか、ということの間には、やっぱり微妙なラインがあるような気がします。こういうコワーキングスペースをやってると、社会との距離感をどのくらいでとればいいのか、ということへの考えがガラッと変わってきたんです。

もし「同人誌」というかたちでやっているとすると、同人作家の人も、少なくとも10〜20人には認められるから活動をしているわけでしょう。こういう場所でも、10〜20人がわらわらと集まってきて、自然発生的にイベントをやったりということが生れる。そしてそれは、たんなるプライベートでもないし、かといってパブリックでもない。集合させていくといつかはパブリックになる、セミパブリックな集まりという感じのものができてくるんです。だから単純に人の数だけで、社会的かどうかという線引きできないな、という感があります。

これを図書館の話に強引につなげていくと、図書館が「社会」と「個人」のどちらの側につけばいいのかが、実はよくわからなくなってきたんです。長尾さんの話のなかでも、図書館という場所は「コモンズ」になるべきだという部分と、「知」を体系的・網羅的にすべて集めなくちゃいけないという部分の両方が出てきて、両者は一致するところがない感じがする。そこに図書館のジレンマが見える気がして、どちらに行くべきのかな、って。

「サードプレイス」と「教会」

――いまの話から、オルデンバーグの「サードプレイス」を思い浮かべました。第一の場所が家、第二の場所は職場 や学校、そして家や職場での役割から離れてくつろげる場所としての第三の場所がサードプレイスです。図書館や公園などの公共の場がサードプレイスとして機能することもあれば、カフェや居酒屋などの飲食店がサードプレイスとなることもあります。例えば、スターバックスコーヒーはサードプレイスをコンセプトとして掲げて店舗展開してきました。

サードプレイスは必ずしも公共の場所ということではありませんが、その中立性は部分的な公共性を持っているともいえます。スターバックスなどのカフェも商業空間でありながら、ある種の公共性を含むサードプレイスとして機能してきました。

河村:ただ、サードプレイスっていう言い方は、従来の働き方の上にのっていると思うんです。いまはもう、それは崩れているんですよ。プレイスは一つしかなくて、プライベートもなくパブリックもないんです。

吉本:うちの事務所も、人が勝手に来て仕事をしていて、「オープンスペース」とは言ってないけれど、空間としてはもうオープンなんですよね。生活空間がかなりパブリックに近づいていて、ここから先は入られちゃ嫌というところはないんです(笑)。

――それにあえて反論をすると、「コミュニティ」と「パブリック」が混同されていることがあって、すごく気になるんです。たとえば先日のマイクロライブラリーサミットで言われていた「オープン」で「パブリック」な空間も、「コミュニティ」の場合がすごく多かったんですね。

河村:そこにもう一回反論をするとすれば、私は「パブリック」は幻想だと思っているんですよ。人の関わる上で、パブリックをどう実現できるかということに対して、図書館は答えが出せないし、僕らも答えを知らないんですね。だから幻想かもしれない「パブリック」に近づく階段としては、いまのところ「コミュニティ」以外の手段がないような気がするんです。

高橋:パブリックは「大きいコミュニティ」みたいなものでしかないと……。

――このマイクロライブラリー・サミットには、河村さんも登壇されていました。吉本さんと私は客席で見ていましたが、これについては、河村さんから説明していただいたほうがわかりやすいかもしれません。

河村:8月24日に大阪の「まちライブラリー@大阪府立大学」で、世界初のマイクロライブラリー・サミットという催しがありました。このカフェの隣にある図書室みたいな小規模な図書館(マイクロライブラリー)を、このときは全国から17個あつめて、朝10時から夕方6時ぐらいまで、30分ずつ話をしてもらいました。

いま僕らが把握しているだけで、全国でそういう場所が300とか400ぐらいある。まだ見つかってないところも含めると無数にありそうな気配がします。その基準は、ざっくりいうと「本が集まる場所」なんですが、たいていは「人も集まる場所」でもある。基本フォーマットは「本」、つまり本とか本棚、図書館なんだけれども、うちみたいなコワーキングスペースもあれば、公共図書館の中に市民が集まる場所を別に作っていて、市民が自由に本を持ち寄っている本棚があったり、聞いてみるとけっこうみんないろいろ違うことやっている。

たとえば長野県の小布施町では、街中のお店の店主が自分の好きな本を店内に並べていて、それらのことも「図書館」と呼んでいる。小布施の町全体が「図書館」で、その中心に町立の図書館(まちとしょテラソ)がある、という構成になっているんですね。ほかにも個人の趣味で少女マンガを集めだしたら全国からどんどん集まってきて、いま5〜6万冊の蔵書がある「少女まんが館」という私設図書館もあって。そんな人たちが集まるサミットでした。

――大阪や京都にも、カフェにライブラリーがあったり、そこでイベントをしているお店がたくさんあって、一つ一つの事例は面白かったんです。このサミットにB&Bやカーリルや達人出版会が出ていても、まったくおかしくない感じでした。

河村:本屋さんでは、放浪書房がきてましたね。

――そう、書店もきていたし、リブライズのように、本に関するシステム的なことをやっているところも出ているのが面白かった。さきほど河村さんが「パブリックは幻想だ」と仰って、でもそれをわかってやっているんだという話を聞いて、すごく納得がいったんです。

というのも、このイベントはまだ一回目なので話が総論的になるのは仕方ないんですが、参加した人たちの全部とは言わないまでも、その多くが「強いコミュニティ」を志向する場であるように感じられた。中にいる人たちは気づかないかもしれないけれど、そういう「強いコミュニティ」は、外から見ている人に対しては、閉鎖性として立ちあがる。コミュニティがあることも、コミュニティの多様性も自然なことなんだけれど、その中でリブライズのやろうとしていることだけが、ちょっと違ったんですね。自分たちの場所も持っているけれど、パブリックが一種の幻想だとわかっているがゆえに、コミュニティ同士をつなぐことで、その限界にチャレンジしようとしているように見えました。

河村:コミュニティは、地の縁があると絶対に閉鎖的になるんですよ。でも、いまのコワーキングスペースや、もうちょっとゆるいかたちでインターネット上で起きているコミュニティは、オーガナイザーのやり方次第なんですが、そういう意味での閉鎖性はあまり強くない。リブライズで自分たち以外の利用例を見られるようにしているのは、コミュニティの中にどっぷり浸かって、自分の平均値のなかで固定化されていくのが、すごく嫌だからなんです。そのなかで流動性をどういうふうに確保するかというときに、「コミュニティ同士をつなぐ」という話になっていった。

ただ、「コミュニティ同士をつなぐ」というのはけっこう抽象的な話であって、実体があるわけではないんですね。本質的にやりたいところは、その中にいるプレイヤーを自由に行き来させることなんですよ。そうやって流動性が高い状態を維持しないと、コミュニティの中が腐ってくるので。

――「実体がない」というのは、多様なものがあって、リブライズはその「間」をやっている、ということだと思うんです。齋藤純一さんが『公共性』という本で、公共圏は人びとの「間」に形成される空間であると書いています。

河村:あと、リブライズは地藏真作さんというプログラマーと二人でやってるんですが、僕らには共通見解があって、その「間」はシステムだ、もう少し具体的にいうとプログラムだと思ってるんです。

――今回のサミット参加者のなかでは、システムを作っているのはリブライズだけでした。

高橋:いまは理想像としてあるのがリブライズぐらいだとしても、「それ以外のシステム」もありうるわけですよね。複数のシステムがあって、それらの「AND集合」か「OR集合」のなかに、公共みたいなものができるのかもしれない。

河村:ただ、それだと「人」からすごく遠く離れている感じがしてしまうんです。「パブリック」を議論するとき、それがいったい何を指しているのか、という疑問がいつもつきまとうんですよ。

高橋:「公共性」というのは、「人」ではないんじゃないですか?

河村:うーん、なんというか、公共性が「程度の問題」だったり、たんに形容詞として使われるだけなら、コミュニティも公共のひとつだという気がするんです。

内沼:「公共性が高い」とか「低い」と言うとしたら、それは「程度の話」ですよね。そもそも、大前提としてなぜパブリックということが必要なんでしたっけ?

――パブリックがなぜ必要か、というのはすごく難しい話ですね(笑)。これまでの話の流れをまとめると、マイクロライブラリー・サミットのような動きのなかで、「僕らはパブリックに対して開いていますよ」と言われることが多くなってきた。たとえば公共図書館というのは、まさにパブリックの場なんだけれども、河村さんが仰ったように、実はそれは幻想でしかなくて、図書館がパブリックを体現しているわけでもない、という話だったと思います。

内沼:幻想なら、幻想でもいいじゃないか、というのがいま聞いていて思ったことなんです。そういう意味では、僕も公共性というのは「程度の話」かなという気がしています。

Part 3 につづく
(編集協力:伊達 文)

執筆者紹介

「マガジン航」編集部
2009年10月に、株式会社ボイジャーを発行元として創刊。2015年からはアカデミック・リソース・ガイド株式会社からも発行支援をいただきあらたなスタートを切りました。2018年11月より下北沢オープンソースCafe内に「編集部」を開設。ウェブやモバイル、電子書籍等の普及を背景にメディア環境が激変するなか、本と人と社会の関係をめぐる良質な議論の場となることを目指します。