第6回 マンガの「館」を訪ねる[前編]

2013年1月17日
posted by 西牟田靖

新宿から電車で西へ1時間あまり。電車を降り、駅の外に出て、歩き始めると周囲は次第に郊外の光景となっていった。高い建物はなくなり、そのかわりちらほら紅葉が混じる林と、うねうねカーブする渓流が現れる。橋を渡り、沿道に杉林が広がる坂道をひとしきり上ったあと、坂の途中で右に折れ、少し下る。するとこぢんまりとした集落が見えてきた。

集落の一角には目的地の建物があった。二階建ての全面が薄い水色の建物は廃校になった田舎の小学校の趣きで、思いのほか小さかった。

とても辺鄙なところにある「館」

訪問前に確認したこの建物の公式ホームページには次のように書かれていた。

1997年3月、少女まんがすべての永久保存を目指し、 東京都西多摩郡日の出町の地に産声を上げた、少女まんがの専門図書館(の赤ちゃん)です。 通称は“女ま館”といいます。

古いけれども広~い一軒家を借り受け、ともかく、日々打ち捨てられていく数多くの少女まんがのため、救済活動を始めました。

2002年8月から、一般公開を始めました。 しばらくは週一回とこぢんまりやっております。まだまだ、ぜんぜんひっそりとしょぼいですけど、これから、すこーしずつ、本当にすこーしずつですがヴァージョンアップを図っていきたいと思っています。

照れまじりの、内輪向けっぽい文章からは、「マニア」というか「オタク」というかその類いの雰囲気が漂っている。数年前に現在の東京都あきる野市に移転した「女ま館」には、少女マンガばかり約5万冊が収蔵されているのだという。

集落から隔絶された高台の上にぽつんと一軒だけ建っているのではないか――。

公式ホームページに載っている外観写真を見て勝手に立地を想像していた。しかし実際の立地は想像していたものとはずいぶんかけ離れていた。駅から15分ほどの小さな集落にそれはある。家と家は隣り合っていて、隔絶していないのだ。正面には破風の屋根があり、下には引き戸、間には満月のように丸い黄色い看板がある。それには「少女まんが館?」と人を食ったような疑問符がわざわざついている。

やる気があるのかないのか。独特なデザインである。

「女ま館」の外観。すべてが水色で塗装されている。

「女ま館」の看板。最後の「?」が意味深長。

建物を見ていると同行の編集者が、建物から出て来た館主夫妻を見つけ、あいさつした。

「こんにちは。今日はよろしくお願いします」

「女ま館」を運営する中野純さんと大井夏代さんのご夫妻には共通点がある。著書を持つフリーライターで少女マンガ好きであるということだ。しかし、第一印象からは、「少女マンガの救済活動を続けねば」という強い信念のようなものは伺えない。「館」の看板についている「?」からしてそうだが、もっと力を抜いた感じでやっている感じがする。こうした施設を運営してしまうほどの行動力や情熱は彼らは本当に持っているのだろうか。そんなことを思いながら、僕もあいさつをする。

中野夫妻は僕ら二人を歓迎してくれた。

「ようこそこんな辺鄙なところまでいらっしゃいました。さあ二階へどうぞ」

そういって僕らを建物の中へ招き入れてくれた。

少女マンガという遠い世界

僕とマンガのつきあいは小学生低学年のころからだ。1980年前後、大山のぶ代の声による『ドラえもん』のテレビアニメが始まったころ、人気があった月刊「コロコロコミック」を欠かさず買い、毎月、穴が空くほど読んでいた。学研の出していた学習マンガ「ひみつシリーズ」は数十冊買い集め、読破した。

中学に上がるころは『Dr.スランプ』『キン肉マン』『北斗の拳』などにはまり、「週刊少年ジャンプ」を主に愛読した。毎週読んでいるうちに『こち亀』のファンにもなり、100巻近くのコミックスのうち50冊以上を集めたりもした。そのころ月刊誌は1年分ほど、週刊誌は2、3ヶ月分ぐらいは溜めたことがあったが、親に捨てられたのか、手元に当時のマンガの類はほとんど残っていない。

大学生になってからは「ビッグコミックスピリッツ」「ヤングジャンプ」を毎週買っていた。ずっと一人暮らしだったので溜めることだってできた。しかし部屋が狭くなることを気にしたのか。当時買ったマンガ雑誌はやはり手元には見つからない。コミックスは現存しているが、残っているのは数えるほどしかない。

一方、少女マンガとなると、買って読んだ経験はおろか、家にそれらがあった記憶もない。読んだことがあるのは学年誌の「小学○年生」に載っていた『うわさの姫子』シリーズ、そして男の子向けのマンガ雑誌に載っていた『うる星やつら』や『あさりちゃん』ぐらいのもの。『ベルばら』すら読んでいないのだから、まったく読んでいないも同じである。「目の中に星がキラキラと入っている少女キャラクターが、現実離れした恋をする」というステレオタイプなイメージしかない。読んでいるだけでクラスの友達から弱虫扱いされるかも、と思ったのも読まなかった原因なのだろう。そんなわけで少女マンガにはとっかかりのないまま大人になった。

それなのになぜ、今回はマンガの話なのか。このシリーズの第一回で取り上げた「床が抜けた」事件は、マンガと深く関連している。マンガについてはいつかじっくり取り上げるべきだと、うすうす思っていたから、担当編集者に「女ま館」を紹介され「行きませんか」と声をかけられたとき、「今回こそがマンガを取り上げる機会なんだな」と直感的に思った。

マンガはかさばる。くだんの事件は新聞や一般雑誌・マンガ雑誌を溜め続けたために起きた。コミックはシリーズが基本で、刊行のスピードは週刊誌の連載だと数ヶ月おきと早い。古紙回収の日にビニール紐で縛られゴミとして出されている新聞やマンガ雑誌は毎週のように目にする。マンガ週刊誌を長年捨てずに溜め続けたりすれば、みるみる居住空間を圧迫してしまい、ひいては床抜けの原因となるかもしれない。

その観点からすると、「女ま館」はあり得ないことをやっている。僕にとって縁遠いジャンルである「少女マンガ」だけを扱っていることは別としても、ただでさえかさばって仕方ないマンガ雑誌やコミックスを、しかも他人の所有していたものを一手に引き受け収蔵しているというのだから。

もうひとつ「ありえない」と思ったことがある。一般の人に広く公開するのであれば、都心に作ればいいものを、なぜわざわざ東京の外れの山の中に作ったりしているのか。編集者に誘われて、はるばるこんなところまでやってきたのは、そうした、「ありえない」ことをやり続けている理由に興味を持ったからだ。

「女ま館」に入る

建物に入る。すぐ正面には階段があり、立ち塞がるように上へ続いている。床はいきなりコンクリートになっていて、天井には尋常じゃない数の根太が張り巡らされている。戦前の木造校舎なら、床は板張りのはず。とするとこの「館」はいったい、いつ作られたのだろう?

天上には何本も根太が走る、とてもがっしりした作り。

「女ま館」の内部。階段の裏側までコミックスが並べられている。

壁と壁の間には、マンガが入ったままの段ボール、そして手作りの木製の棚やスチールラックなど規格のそろっていない棚が、人が一人通れるかどうかという狭い間隔で雑然と並んでいる。すべての棚には寸分の隙間もなくマンガが並んでいて、二階へ続く階段の、段と段の間さえも棚の一部として利用している。暖色の背表紙が並ぶ様は内壁の水色と不思議と調和している。

「ぶーけ」「少女フレンド」「りぼん」「花とゆめ」といったメジャー雑誌に聞いたこともないレディコミ。1970年代発刊の古いものがあるかと思えば最近のものもある。300ページほどの通常サイズから1000ページ近くもある分厚いものまでありとあらゆる雑誌、そしてコミックがシリーズ別に並べられている。二階には読書スペースのちゃぶ台とざぶとんがあり、長時間浸れるようになっている。

少女マンガのファンだった人であれば、懐かしさがこみ上げてきたりするのかもしれない。しかし僕は読んだことがないのだから、何を見ても懐かしくはならない。それよりも、女の子の部屋にいきなり入り込んでしまったような気恥ずかしさがあった。

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端末普及の次に必要なこと〜新年に考える

2013年1月5日
posted by 仲俣暁生

あけましておめでとうございます。おかげさまで「マガジン航」は、2009年の創刊以来、四度目の正月を迎えることができました。これも寄稿者および読者のみなさんのおかげです。この場を借りて、あらためてお礼を申し上げます。

昨年は楽天Kobo、アマゾンのKindle、グーグルのBooks on Google Playといった電子書籍サービスが日本でも相次いで開始され、それぞれに対応した電子書籍端末やタブレットも発売されました。またアップルが小型のタブレットiPad miniを投入し、既存の国産電子書籍ストアも専用端末を発売したり既存機種の値下げを行ったりしたことで、年末商戦では電子書籍が話題のひとつとなりました。

さて、年が明けて2013年。最初の話題はごく個人的なことを書かせてください。昨年のうちに、いくつかの電子書籍端末(具体的にはKindle Fire HDとKindle Paperwhite,そしてBookLive! Reader Lideo)を手に入れることができたので、年末年始の休みにじっくり腰をすえて、電子書籍による「読書」をしてみようと思い立ちました。今回はその際に考えたことの報告です。

いまだにわかりにくい電子書籍の所在

苅部直『安部公房の都市』

ネット書店で本を買う場合、私は最初から読みたい本が決まっていることがほとんどです。しかし今回は、せっかく新しい電子書籍端末を手に入れたばかりなので、とくに目的をもたず、目新しい本を探すことにしました。

小説ではなく、もう少し手応えのある本を読みたいと思い、いろんなジャンルをさがすうち最初にみつけたのは昨年2月に単行本として刊行された苅部直『安部公房の都市』(講談社)という本の電子書籍版でした。この本が目についたのは、ちょうど安部公房の未発表作品「天使」が「新潮」2012年12月号に掲載されて話題になったばかりだからでしょうか。また楽天Koboがサービスを開始したとき、言葉遊びのつもりで「安部公房」で検索してみたことも、心のどこかにひっかかっていたかもしれません。

苅部氏のこの本については、ネット上にもすでにいくつもよい書評がでていますので、ここでは本の内容には詳しく立ち入りません。一言だけいえば、同書を読み終えた後、私は自分の書棚から安部公房の本を何冊か引っ張りだし、読みはじめずにはいられませんでした。

ところで、この記事を読んで同じ本を読みたいと思った方がいても、どの電子書籍ストアでならば買えるのかを正確に知るのは、じつはとても難儀です。発行元である講談社のウェブサイトには電書infoというページがあり、すでに電子化されている作品のリストがPDFでダウンロードできます。しかし、このリストには個々のタイトルが発売されている電子書籍ストアについての説明は一切なく、「電子書店によっては取り扱いのない書目もございます」とあるのみ。記載するには対応しているストアの数があまりに多いせいでしょうが、ちょうど一年前に、林智彦さんが「電子書籍の探しにくさについて」という記事で詳細に報告してくれた問題点は、いまだにほとんど解決されていません。

この記事で紹介されていた「電子書籍横断検索」「ダ・ヴィンチ 電子ナビ」をつかって「安部公房」で検索してみたところ、紀伊國屋書店BookWebやBookLive!、電子文庫パブリをはじめ多くのストアで扱いがあることがわかりました。しかし、どちらの検索結果からも最大手のひとつであるhontoが抜けていますし、さらに前者ではeBookJapanが、後者では私が買ったアマゾンのKindleストアをはじめ楽天KoboやSony Reader Storeさえもが抜け落ちています。さらに丁寧にウェブ検索してみるとNeowingというストアや、今年3月でサービスを終了するRabooからも同書の電子書籍が販売されていることがわかりました。もしかすると、まだ他にも取り扱いストアがあるかもしれません。

結局のところ、電子書籍の所在を探すにはウェブでのオープンな検索に頼るのが早道ということになりますが、そうなると実際の品揃えとは無関係に、ブランド力のある(検索エンジンで上位に表示される)電子書籍ストアがどうしても有利になってしまいます。やはり発行元の出版社が、責任をもって対応ストアを明記するべきではないでしょうか(安部公房の本がないのは残念ですが、新潮社はShincho Live!で電子書籍の対応ストアをタイトルごとに明記しています)。

ところで、『安部公房の都市』を読みおえて私が最初にしたことは、当然、安部公房の作品を電子書籍で探すことでした。彼ほど国際的に評価されている作家であれば、作品の大半とまではいかずとも、代表作のいくつかはすでに電子書籍化されているのではないかと期待したのです。しかし、この期待はあっさりと裏切られました(ただし、英訳されている代表作が、すでにいくつか電子書籍化されています)。私が探した範囲では、ドナルド・キーンとの共著『反劇的人間』が一冊あるのみ(しかも出版社のウェブサイトでは電子書籍版が出ているとの説明なし)。幸い、この電子書籍はBookLive!からも出ていたので、Lideoに入れて読み始めました。

さて、『安部公房の都市』は、多くの引用とともに作品の魅力を的確に表現した好著で、同書を読了後、私は安部公房の小説が読みたくてたまらなくなってしまいました。家にあった二、三冊をすぐに読み終えてしまうと、文庫化されている作品を書店で「まとめ買い」しましたが、なんとなく釈然としません。こんなときのための電子書籍だったのではなかったのでしょうか? 草創期から日本語ワープロ専用機を小説の執筆に使っていたことでも知られ、没後に残されていたフロッピーから遺作(『飛ぶ男』)が発見されたという逸話さえある大作家の小説が電子書籍化されていないとは淋しいことです。

もっと本から本、本からウェブへのリンクを

年末年始にもう一冊、電子書籍でじっくり読んだのは勝田龍雄『重臣たちの昭和史』(文藝春秋)でした。最後の元老、西園寺公望の秘書だった原田熊雄が残した膨大な口述筆記(『西園寺公と政局』)などを史料として書かれた一級のノンフィクション作品です。出版社のサイトからは書影も消えていますが、複数の電子書籍ストアから発売されており、本の内容に関しては、まったく文句のない名著だと思いました。

この本は上下巻に分かれており、下巻の末尾に人物一覧がついています。紙の本ではこれが「索引」になっていたのでしょうが、リフロー型の電子書籍の場合、ページによる索引ができません。そのかわりに全文検索があるのですが、この人物一覧は検索のトリガーとしてはとても便利です。しかし私が買ったKindle版は、もともと別のフォーマットで出ていた電子書籍のファイルを転用したもののようで、検索方法の指示が実際のアプリの挙動と一致していませんでした。

また、この人物一覧を参考に全文検索をしても、同一電子書籍内の当該箇所しか表示できません。電子化の際に上下巻を合本にしていれば重宝したことでしょうに、惜しいことをしたものです。電子書籍版にはこのほか写真の処理でも不具合があり残念です。

さて、『重臣たちの昭和史』は本文中で多くの引用がなされています。たとえば冒頭には、夏目漱石の「ケーベル先生」からの引用があります。私はこの本をKindle Fire HDで読み始めましたが、引用箇所の続きが気になったら、本文中の「ケーベル先生」という語を選択し「ウェブ検索」を選ぶことで青空文庫に収録されている同作を参照できます。もちろん、キンドルストアから「ケーベル先生」をゼロ円でダウンロードしてもいいのですが、ウェブでみるので十分です。

『重臣たちの昭和史』の冒頭に、夏目漱石の「ケーベル先生」からの引用がある。この語を選択して「ウェブ検索」をすることで、青空文庫に収録されている「ケーベル先生」の全文を参照できる。

多くの本は、他の本との相互リンクによって生きています。『安部公房の都市』は巻末に参考文献の一覧があり、『重臣たちの昭和史』では引用箇所にその都度、引用元が明記されていますが、すぐれた評論やノンフィクションが書かれるためには、多くの文献を参照することが必要です。

今回読んだ二つの著作の場合も、安部公房の場合は2009年に完結した『安部公房全集』(全30巻、新潮社)が、『重臣たちの昭和史』の場合は原田熊雄の『西園寺公と政局』(全8巻+別巻、岩波書店)が、それぞれ大きな土台となっています。このことはフロントエンドで読まれる本の裏に、かならずバックエンド役を演じるアーカイブ的な著作があることを教えてくれます。電子書籍のメリットは第一に、作品の内や外へのリンクが容易なところにあります。こうした参考文献にかんしては、できれば詳細な書誌情報がほしいところですし、すでに著作権保護期間が過ぎている本の場合、Books on Google Playなどで全文が公開されたら、さらに便利でしょう。

こうした例をみてもわかるとおり、電子書籍からウェブへのリンクや、整理された書誌情報、Wikipedia、青空文庫などオープンなリソースへのアクセスは、読書の支援ツールとしてとても役に立ちます。そうしたツールのひとつとして、アマゾンのKindleにはX-Rayという機能があります。X-Rayはいわば索引の高機能版で、本のページや章や全体のなかで、その言葉がいつごろどのくらいの頻度で登場するかが一目で分かり、選択した語句の解説や登場人物のプロフィルなどが表示されるというものです。トピックスの解説はWikipediaから、人物プロフィルはShelfariという読者コミュニティ・サービスからとりいれたコンテンツです(ちなみにShelfariの『1Q84』についてのページはこちら)。

たまたま手元にある英語版の村上春樹『1Q84』がこれに対応していたので試してみたのが下の図です(ちなみに、日本語の本でX-Rayに対応している電子書籍を私はまだ読んだことがありません)。

Kindleの英語版ではX-Rayという高機能検索サービスに対応した本も。これは村上春樹の『1Q84』で「トピック」を選んだところ。

日本の電子書籍サービスは、使いやすい専用端末がようやく安価で普及し始めたばかり。次の目標としてはタイトル数の充実が挙げられることが多いようです。しかし、タイトルばかりがいくら増えても、読者が求める本にたどり着くための導線や、購入後のコンテンツに対する読書支援環境が不十分ならば、大半の電子書籍は、アクセスの少ないウェブサイト以上に、誰からも「読まれない」ものになってしまいます。

周辺プレイヤーとの協働を

昨年の正月、私は「人は本とどこで出会っているか〜新年に考える」という記事を書き、先に紹介した林智彦さんの文章を紹介しながら、彼のいう「周辺プレイヤー」を含めた出版の「エコシステムの構築」という言葉に注目しました。アップルがiBooksで電子書籍でもまもなく日本市場に参入という報道が一部でされていますが、アップルが参戦すればプラットフォームと端末の数はもう十分ですし、そろそろ一部では淘汰も始まるでしょう。端末とストアが普及した次に必要なのは、たんなるタイトル数の拡大ではなく、周辺プレイヤーとの協働と、それに基づくサービスのよりいっそうのソフィスティケーションだと思います。

林さんの記事で「周辺プレイヤー」として挙げられているのは、書籍にかんする記事や広告、レビューです(面白いことに、『安部公房の都市』も、『笑う月』という作品の新聞広告の話から語り起こされています)。その他に想定しうるプレイヤーとしては、図書館やウェブなどの各種アーカイブ、読者コミュニティやセルフパブリッシングのサービスなどがあげられます。作家の側も今後は文芸エージェントを介在させることで、新しい出版のエコシステムのなかで、出版社のみに依存しない新しい立ち位置を見つけるでしょう。出版社や書店、電子書籍のプラットフォーマーも交えたプレイヤー相互の議論とルール作りが、これからはますます必要となります。

「マガジン航」では、そのための議論や意見表明の場を、立場を超えて今後も提供していきたいと考えています。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

ロービジョンにもっと本を!

2012年12月28日
posted by 伊敷政英

みなさんはじめまして。伊敷政英と申します。今回ご縁があって、「マガジン航」に文章を書かせていただくことになりました。

僕は生まれつきのロービジョンです。これまで読んできた本と言えば、学生時代に勉強していた数学の専門書か、ビジネス書、現在仕事にしているウェブデザインやアクセシビリティ関連のものが多く、小説やエッセイなどを気軽に読むという経験は正直ほとんどしてきませんでした。

しかし、電子書籍の登場によってロービジョンの人でも気軽に読書を楽しめるのではないかと期待を膨らませています。

今年はKobo touchやKindle、Lideoなど端末を含め電子書籍サービスが数多く登場し、コンテンツも増えてきて、いよいよ電子書籍が普及してきたと感じられます。そこで、僕が電子書籍を使ってみて感じたこと、今後の電子書籍に期待することなどをお話したいと思います。

ロービジョンと読書

くりかえしになりますが、僕は生まれつきのロービジョンです。現在の視力は矯正して0.02か0.03。どんなに分厚いメガネをかけても、どんな最先端のコンタクトレンズを入れても、視力はこれ以上上がりません。

普段、外出するときは白杖(はくじょう)を持って歩いています。本や書類を読むときには、拡大読書器という機械を使い、文字を拡大したうえで色を反転して読みます。パソコンは、Windowsに搭載されている「拡大鏡」などの画面拡大ソフトを使って、やはり拡大と色反転機能を用いて操作します。

ロービジョンの人が読書につかう「拡大読書機」。

ロービジョンの人が読書につかう「拡大読書機」。

Windowsに標準搭載されている「拡大鏡」で色を反転させたときの「マガジン航」のロゴ。ロービジョンの人の中には反転しているほうが読みやすい人もいる。

「視覚障害者=全盲」ではない

ロービジョンとは、「メガネやコンタクトレンズで矯正しても十分な視力が得られず、生活や学習、仕事で不便を感じる状態」を指す言葉です。視覚障害の1種です。「視覚障害者=全盲、つまりまったく目が見えない人」というのは大きな誤解です。

実は、日本にはロービジョンの人がたくさんいます。「平成18年身体障害児・者実態調査(厚生労働省)」によると、視覚障害者31万人のうち、6割強にあたるおよそ19万人がロービジョンとされています(障害等級のうち全盲を表す1級以外の人の数を合計したものです。1級でロービジョンの方もいますので、一番少なく見積もって19万人ということになります)。[出典:「平成18年身体障害児・者実態調査」(厚生労働省)]

また、日本眼科医会の調査によると、「よい方の矯正視力が0.1以上0.5以下」の人は144万9千人、「よい方の矯正視力が0.1以下」の人は18万8千人となっており、合計するとおよそ164万人が、見ることになんらかの不便を感じていることになります。[出典:報道用資料「視覚障害がもたらす社会損失額、8.8兆円!!」(平成21年9月17日、日本眼科医会)]

電子書籍への期待

前置きが長くなりました。本題に入りましょう。

電子書籍との出会いは約2年前。当時出始めだったiPadがロービジョンの人にとってどの程度使えるのか試していた時でした。iBooksやi文庫HDといった電子書籍アプリを使ってみると、寝転がって本を読むことができました。これはとてもびっくりしました。前にも書いたように、僕は拡大読書器を使って本を読みます。

しかしどうも仕事や勉強をしているような気分になってしまって、小説やエッセイをリラックスして読むというのがなかなかできませんでした。それが電子書籍を使うことによって、これまでよりも手軽に、そして気軽に本の世界を楽しめるようになったのです。衝撃的でした。電子書籍を使うようになってから小説や文学作品、図鑑などを楽しむようになりました。

このように手軽に、気軽に本を読む。ゆったりとソファにすわって、あるいは寝転がって。カフェや電車の中で。旅行先にも持っていける。皆さんにとっては当たり前のことかもしれませんが、僕たちロービジョンの人は、今までこういったことが難しい状況でした。それが電子書籍の登場により、確実に変わりつつあります。

「ゴシック、横書き」のほうが読みやすい人もいる

また、電子書籍アプリには文字の大きさやフォント、文字色と背景色の組み合わせ、縦書き/横書きなどを設定して、ユーザーが一番読みやすい環境で読書を楽しめるような機能を持っているものがたくさんあります。僕の場合、明朝系フォントよりも、線の太さが均一なゴシック系フォントのほうが読みやすく、また縦書きよりも横書きのほうが読みやすいので、そのように設定してアプリを使っています。

i文庫HDの表示画面。フォントをゴシック体にし、さらに横書きに設定しています。

このようにユーザーが読みやすい環境で読書を楽しめるというのも、電子書籍ならではの魅力だと思います。ロービジョンの人の見え方は個人差が大きく、また一人のロービジョン者でも目の調子や部屋の照明などによって見え方は変化するので、読書環境をカスタマイズできることは非常に大切なことです。そしてこれはロービジョン者だけでなく、加齢によって文字を読みにくくなり読書から遠のいてしまっている方々にも有効だと思います。

以前、あるご老人から「若いころはたくさん読んでいたけれど、老眼になって字が読みにくくなってからは本そのものを読まなくなった。本棚に眠っている1000冊以上の本をまた読みたいんだけどなあ…」というお話を伺ったことがあります。電子書籍であればこのようなニーズにもこたえることができるでしょう。

すべての電子書籍アプリに、読書環境をカスタマイズする機能が標準で搭載されるようになることを切望しています。

端末やストアにもアクセシビリティを

ここまで、本そのものを読みやすくする機能についてお話しましたが、電子書籍のアクセシビリティを考えるとき、これだけでは不十分です。

先日発売されたKindleを見に行った時のことです。色の反転はできないものの、画面は明るく文字の大きさも十分拡大できるし、フォントも変更でき、「これはかなり期待できるな」と思っていました。しかし読みたい本を選択するホーム画面や、自分が読みやすいように設定を行うためのメニュー画面の文字が拡大できないのです。これでは本を選ぶことも、読書環境を自分好みにカスタマイズすることもできません。

電子書籍のアクセシビリティは、コンテンツだけではなく端末やストアのアクセシビリティも含め、トータルに考えなければなりません。

デジタル教科書への期待

電子書籍関連でもう一つ、大きな期待を寄せている分野があります。それはデジタル教科書です。

子どもの頃、僕は弱視学級に通っていました。弱視学級とはさまざまな学校に通うロービジョンの子供たちが週に何度か通って、単眼鏡やルーペなどの補助具の使い方を習得したり、遅れている教科の勉強をしたりするところです。

当時、弱視学級の担任の先生が、国語と算数の教科書を拡大コピーして自前の拡大教科書を作ってくださいました。僕はそれを22倍に拡大できるルーペで読んでいました。しかし理科の教科書に出てくる植物や動物の写真、社会科で扱う地図や人物写真などを見るのは難しく、授業についていくのが大変でした。

そこで、デジタル教科書の普及にはとても大きな期待を寄せています。ロービジョンの子供たちがスムーズに勉強できる環境を作り、興味や好奇心を促していくことができたら、きっととても楽しいと思うのです。僕は子供のころほとんど見ることができなかった宇宙の図鑑などを、今になってよく眺めています。

最後に

これまで書いてきたように、電子書籍はとても大きな可能性を秘めています。僕自身の読書環境もガラッと変わりました。今後は、今までまったく読むことができなかった漫画や雑誌を読めるようになることを期待しています。誰でも気軽に読書を楽しめる日が来ることを願うとともに、僕自身も障害当事者として貢献していきたいと思います。

Cocktailz(カクテルズ)では、自治体や企業のウェブサイトにおけるアクセシビリティのコンサルティング、講演・執筆などを行っています。またスマートフォンやタブレットといったICT機器やそれらを用いたアプリやサービスなどのアクセシビリティについても、情報収集・発信しています。

ロービジョンについて、アクセシビリティについて、質問や相談などありましたら、気軽に話しかけてください。なんでも、いくらでもお話します。

URL: http://cocktailz.jp/
Twitter: @cocktailzjp

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「日の丸」電書端末Lideoに勝機はあるか?

2012年12月27日
posted by 持田 泰

12月10日、凸版印刷・トッパングループの電子書籍サービスBookLive!は、専用端末「BookLive! Reader Lideo(リディオ)」(以下Lideoと略記)を静かに発表した。トッパングループのデジタルコンテンツビジネスは、650億円(2010年度)にのぼる日本の電子書籍市場のほとんどを担ってきた「ガラケー」向けをはじめ、PCやPDA向けにも配信していた電子書籍取次の老舗ビットウェイから連綿と続いている。BookLive!とLideoはその延長線上にあるサービスだ。

配信数は「78,583タイトル 116,454冊」とかなり充実している(12月24日時点)。

細かいスペックシートは専門の皆様にお任せするとして(下記の記事などを参照)、僕はあくまで「ユーザー=読者」としてのポイントにしぼってLideoの使用レポートをしてみたい。

・BookLive!の電子書籍リーダー「BookLive! Reader Lideo」をいち早く使ってみた [2012/12/10]
・山口真弘の電子書籍タッチアンドトライBookLive「BookLive! Reader Lideo」[2012/12/19]

Made in Japanの自負?

最初に結論だけ述べておくと、Lideoはよくできている。UI/UXにおける細かな出来不出来はおくとして、電子書籍のトータルサービスとしてとらえた際に、決定的な「穴」はない。専用端末を含めたサービス全体のユーザビリティは想像していた以上に良いし、端末特有の「癖」も、使っていくうちに慣れるだろう。

とくにLideoの端末を「箱から出してすぐ使える」ようにした理念は素晴らしい。煩わしい通信設定の設定は不要だし、あらかじめアカウントを用意せずとも使える。WiMAXによる無線通信付きで8480円という価格設定は、他社の通信(3G)端末と比較しても突出している。

日本でも発売を開始したKindleに話題をさらわれて地味なスタートになるかと思いきや、思いのほか売れ行きが良いらしいのも、まさにこのポイントが消費者に伝わったからであろう。某書店某店スタッフにこっそりと聴いてみたところ、「入荷した店頭販売分の40台のうち、39台が初日で捌けた」という話である。

本文フォントには読みやすい凸版明朝を採用。

テキストコンテンツで.bookフォーマットの読み込み速度が少し時間がかかるように感じるが(XMDF・EPUBでは起きない)、読み込めたあとの読書操作はスムーズである。「進む」が上タップもしくは進行方向にスワイプ、「戻る」が下タップもしくが逆方向にスワイプでのページ遷移だけであり、他に選択肢がないのも分かりやすい。本文フォントは見やすく、さすが凸版明朝である。ちなみに箱にはでかでかとmade in Japan の文字が。中島みゆきの「地上の星」が聴こえるかのようだ。

端末に関する懸念として取り上げたいのが、電池に関して消費をセーブするECOモードに設定しているにもかかわらず、消費が早いように思われることだ。頻繁に使用している場合、数日しか持たない。他の電子ペーパー端末と比較しても、これは非常に早い。使い続けるうちに電池が劣化してきたら、充電器を持ち歩くようなことになるのではないかと思うと、非常に不安ではある。

10万コンテンツの「物量」とマルチデバイス対応

「電子書籍サービス」は専用端末だけがあれば済むというわけではなく、PC・スマホ・タブレットへのマルチデバイス対応が必須である。Booklive!はサービス開始以来、iPhone/iPadのiOS、Android(いくつかの端末ではプリセットもされている)、WindowsPhone/WindowsPCと、着実に対応端末を増やしている(本稿執筆時点ではMacOSには未対応)。Lideoと各スマホ・タブレット端末間では本棚を同期できるし、それまで読んでいた箇所の続きを別のデバイスで読むことも(一部のコンテンツ以外をのぞき)可能である。

サービス開始時にマルチデバイス対応が重要なのは、すでに大量のBookLive!ユーザーがいるからだ。楽天はKobo Touchの日本での発売時に、スマートフォンやタブレットへのアプリ対応ができなかった(Android版が最近になってようやくリリースされた)し、先行して始めた電子書籍サービスRabooも、Koboとサービスを統合できないまま2013年3月末に終了する。それにくらべるとBookLive!は、Lideo投入に際して、きっちり統一の取れたサービスとして出してきた(それが普通かもしれないが)点で評価できる。

スタートの段階で10万に及ぶコンテンツの「物量」は頭一つ飛び抜けており、ビットウェイが背後に控えている限り、今後も出版社のコンテンツは最短で押さえられるだろうから、将来的な品揃えに対する不安は少ない。実際、LideoにはKindleストアにはまだ並んでいない本(横溝正史『探偵小説昔話』青山二郎『眼の引越』今野真二『百年前の日本語―書きことばが揺れた時代』など)が数多く発見できるのでニヤニヤしている。

ただし、そう遠くない将来、どの電子書籍ストアからも時差なしにコンテンツが出せるスキームが整うだろう。そうなれば、「物量」だけでは差別化のポイントとして弱い。アマゾンのKindle Direct Publishingや楽天KoboのKobo Writing Lifeなど、他の陣営ではセルフ・パブリッシング(自己出版)のサービスを実施しており、その種のコンテンツは今後も増加するものと予測できる。外部提携であってもいいので、Lideoにもセルフ・パブリッシングへの対応を期待したい。

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デジタル時代に「出版=清貧」は通用しない

2012年12月13日
posted by 鎌田博樹

米出版大手5社の談合問題(司法省の独禁法提訴と消費者訴訟)は、あまりにもあっさりと出版社側の全面敗訴に終わった。数年がかりの訴訟を予想していた関係者の予想は大きく外れ、出版社は多額な賠償金を課された上に、アマゾンに対しても譲歩を余儀なくされ、何よりも社会的威信(公共性というブランド価値)を失った。おそらくこれが最大の損失といえるだろう。

今年最大の事件であった訴訟案件は、図書館のE-Book貸出問題とかなり深く関わっている。アマゾンだけを警戒しつつデジタルで儲けていた大出版社には、いま請求書が届き始めた。

ベストセラー本に3~5倍の“図書館プレミアム”

ALA(アメリカ図書館協会)と大手出版各社との交渉は昨年から1年あまり静かに続いてきたが、進捗ははかばかしくない。マクミランやペンギンが「パイロット・プログラム」と称する限定的な提供で止めているように、ALAが希望し、大手以外の多くの出版社が認めている、紙と同一条件(公正価格での販売、貸出無制限)が実現する方向には向かっていない。9月末の公開書簡は、当事者間の紳士的交渉では状況が打開できないと判断したことを示したものだった。

ALAは主張・要望の明確化、調査に基づく事実の公表という議論の社会化のための(民主主義社会では正規の)ステップを慎重に踏み出した。つまり出版社に対し(同じ世界の長年のパートナーとして尊重する姿勢を維持しつつも)、公衆(reading public)の利益の擁護者として、図書館の直接的スポンサー(公共政策に関わる連邦と州の政府と議会)と付き合っていくということだ。

とくに月間の購入図書価格のレポートはインパクトが大きかった。例えばコロラド州のダグラス郡図書館(DCL)では、全世界で4,000万部以上を売ったE.L.ジェームズの ‘Fifty Shades of Grey’について、アマゾン価格$9.99に対して5倍に近い$47.85、ローラ・ヒレンブランドの ‘Unbroken’ では同$12.99に対して$81(3M/OverDrive)といった具合だ。図書購入予算は減る一方なので、これでは他の本が買えなくなってしまう。DCLによれば、ベストセラー本がなかなか入手できない利用者からの苦情に答える意味で公表したのだという。

ちなみに、図書館の貸出期間は2週間なので、理論的には年間26回のサイクルが可能だが、図書館側の実績ではベストセラー本でも14回を超えることはないという。NY市立図書館が(貸出し回数を26回に制限している)ハーパーコリンズ社のE-Book(5,120点)について、今年初めの時点で調べたところ26回を超えたものはなかったという(The Digital Shift, 03/2/2012)。

ベストセラー本への需要は一時期に集中するので、希望者は(5,6人もの)待ち行列に並ばなければならない。しびれを切らした人は(かなりの確率で)書店に行くか、あるいは別の本に向かう。ALAの調査では、借りた人が同じ本を(紙または電子で)購入する確率は35%というから、心をとらえた本なら、読者は読み捨てにはしないということも言えそうだ。これらすべてのデータが、大手出版社の「強欲」を印象づけるためのものであることは言うまでもない。他方で、出版社は「万単位の図書館から無限に貸出しが続く」という妄想から離れていない。

これまで出版業界は、出版こそ世の光、地の塩の社会的・文化的・教育的事業で、リスクと薄利に耐え、関係者の熱意に支えられて細々と営んでいるという一面(のみ)を強調することで世論を操作することに成功してきたのだが、デジタルはそうした「現代の神話」の別の面を社会に教えてしまった。「金持ちの強欲」である。これはウォール街の企業マフィアに重なる。

デジタルならば経済的に著作権者が打撃を蒙るというのは妄想にすぎない。New York Times ベストセラーリストの半数あまりは、そもそも図書館には入手不能だ。’Hunger Games’はアマゾンのKindleライブラリではPrime会員向けに貸出されているが、どこの公共図書館でも読むことができない(アマゾンは出版社に購入と同額の代金を支払って出版社を潤している)。図書館を敵視する大手出版社の姿勢は、アマゾンを輝かせているといえないだろうか。アマゾンは「損して得取る」方法を知っているからやっているに過ぎないというのに。

出版はふつうの商売と見られるようになった

最近のベストセラー作家の多くは、莫大な広告に支えられた大家や、名編集者の薫陶を受けて世に出た無名の新人たちではなく、粗削りながら自分で作品を世に 問い、売り込み、話題をつくり、SNSを通じて固定ファンを持つ。彼らを発見し、励まし、育てたのは出版社ではなかった。大手出版社は巨大な成功を確信したからこそ、「たたき上げ」の人気作家と高額で契約し、大家と同じマーケティングで成功させたのだ。

アマチュアが自主出版で100万部売る時代に、大手出版社がローリスクで入手した版権で4,000万部を売って、なお清貧を装うことは賢明とは言えない。世間の怒りならまだしも嘲笑を買うからだ。デジタルによって時代は変わった。出版は儲かるビジネスと見做されるようになった。

アップルと5社の談合に対する司法省の独禁法調査、裁判での予想外の早い決着は、出版という社会的・経済的活動の性格の変化を司法界が認定したことを意味する。市場の機能を制限すること(つまりカルテル、再販価格維持)に社会的合理性はない、という欧米司法界の判断は、重要で歴史的なものだ。簡単に言えば、「商売したいのなら堂々とやれ!」ということ。

ALAはこの潮目の変化を正確に認識し、攻勢に出た。出版が私的経済活動でなく社会的なものであるとすれば、公共図書館の機能を制限してまで複製権(商業的権利)を社会が無制限に保護すべき理由はない。政府は少数の金持ちの味方であるべきではない、という世論を巧みに捉えたALAは、見事なまでに政治的であると言えよう。「健全な読書エコシステム」の確立に向けた動きが停滞している状況について指摘し、図書館は利用者のためにこれ以上は拱手しているわけにはいかない、とサリバン会長は述べたが、多くの共感を得るものだった。大手出版社との交渉に1年を空費していたわけではなかったのだ。

ALAが問題にしている「読書エコシステム」のデジタル化は、関係者の予想を超えた形で進んでおり、需要の多い大手出版社のタイトルが電子版で提供できない状態では、利用者が減り、公共予算は縮小し、やがては公共図書館の廃止に向かうという危機感が広がっている。多くの自治体が財政危機に苦しむ中で、図書館の廃止・縮小は現実問題であり、その理由にされているのが、デジタル時代には個々の図書館が本を購入する必要はないというものだ。E-Bookは図書館業務を効率化できるという点ではプラスだが、本を購入・蓄積するという公共図書館の伝統的役割に不要論が広がってもいる。時間はあまりないのだ。

図書館とのパートナーシップは出版社にアリバイを提供する

他方で、事情は出版社にとっても同じだ。図書館のない出版は、公共性のオーラが喪失することを意味し、これまで他のメディアに対して、あるいは本を扱う他の業態(取次、書店)に対して持っていた「知的・道徳的」優位のようなものが剥奪されてしまう。おそらくオーラなしでは21世紀の出版社はひとたまりもなく他のメディアに吸収されてしまうだろう。

出版社の歴史がたかだか300年程度なのに対して、図書館は3000年あまりの歴史を持っている。市民社会の誕生以前は、王侯貴族や寺社が主宰者、後援者だったが、彼らは「知は力なり」の信奉者であり、だからこそ自由な出版のない時代の「力の装置」としての図書館の意味を知っていたのだ。無知で強欲な出版社はいずれ淘汰されるだろうが、その前に図書館が潰されてはかなわない。

Ebook2.0 Weekly Magazine の前号(「図書館のE-Book貸出しは出版物の販促に貢献」)で、図書館には、マーケティング的にみて“サンプル効果”と“推薦効果”の二つがあることを指摘したが、これと中小出版社への“買支え効果”によってビジネスとしての出版のエコシステムが裨益するところは非常に大きい。経済価値というだけでなく、出版の社会性の多くは図書館の機能(アクセス/保存/知的権威)によって支えられている。

図書館のない社会は、新聞のない社会よりも悪いものとなるだろう。出版エコシステムは読書エコシステムと表裏の関係にある。そして後者は完全に市場化することはできない。後者はおそらく個人の購入と同等(もしかしたらそれ以上)に、図書館の貸出しや家族や友人どうしの貸し借りや贈与など非経済的交流によって成り立っているからだ。

タダで本を読むな(カネがなければ分相応に読め)ということを、出版社の人間が言わないのは、図書館の存在を暗黙の前提としているからだ。しかし図書館が滅びれば読書も滅びるし、読書を前提とした知識社会も滅びるだろう。もちろんGoogleやアマゾンの私設図書館は残り、“公共性”を誇ることになる。しかし、そんな社会に出版が存在を続けられるだろうか。

※この記事はEbook2.0 Weekly Magazine で2012年11月29日に掲載された記事「デジタル時代に「出版=清貧」は通用しないこと」を、著者に加筆をいただいたうえ改題・再編集して転載したものです。

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