「ことばのポトラック 春に」によせて

2013年3月13日
posted by 仲俣暁生

きたる3月16日土曜日の午後、東京の渋谷にあるサラヴァ東京というライブハウスで、震災被災地へのチャリティを兼ねた朗読イベントを開催します。題して「ことばのポトラック Vol.9 春に」

発案者である作家の大竹昭子さんと共同で私が司会役をつとめ、江口研一、大野更紗、小林エリカ、桜井鈴茂、佐々木中、藤谷治(敬称略、50音順)の各氏をゲストにお迎えして、それぞれがこの日のために書き下ろした文章を朗読する、「ことば」によるライブセッションです(イベントの詳細と参加予約はこちら)。

震災直後の「恐怖と悲しみと不安が三つどもえ」になった日々に、「個人が内側から発する声、メディアを通さない直接的な声だと思った瞬間、詩の言葉がこれまでにない身近さで迫ってきた。詩はこういうときのために存在しているのだとはじめて実感した」。以前に「マガジン航」に転載させていただいた文章(個々の声を持ち寄る「ことばのポトラック」)のなかで大竹さんは、この会をはじめた理由についてそのように書いています。

「ポトラック」という耳慣れない言葉をこの会につけた理由は、彼女によればこんな経験からだとのこと。

イベントにはタイトルが要ると考えていたら、ひょいと「ポトラック」という言葉が浮かんできた。この言葉に出会ったのは七十年代のアメリカで、食べものを持ち寄る集いのことをポトラック・パーティーと呼んでいるのを知った。

英語で綴るとpotluckですが、おそらくこの言葉は北米のネイティブ・アメリカンの間で行われる、贈り物を盛大にふるまう祝宴ポトラッチ(potlatch)の習慣と関係があるのでしょう。

小さな個々の声をもちよる

その名のとおり「作品を発表するという構えたものではなく、いま必要な言葉を持ち寄ろう」という、とっさの瞬発力で生まれた会が、気づいてみれば2011年のあいだ継続していくども行われ、昨年4月8日には「詩と散文のあいだ」 と題して8回目の会が開催されました。じつはこの日、私はただの観客として作家たちの朗読を聴くつもりでした。ところが会場に向かう途中でケータイが鳴り、大竹さんから「次回」、つまり9回目の「ことばのポトラック」に主催者側(と同時に出演者)として参加してもらえないか、と打診されたのでした。

以前からカタリココという大竹さんの朗読&トークイベントになんどか足を運んだことがあり、彼女のオルガナイザーとしての実行力と編集能力にはひそかに舌を巻いていたので、ほとんど反射的に「やります」と即答したものの、「ことばのポトラック」への参加は未体験。いったいどんな集まりになるのか、事前のイメージはまったくの白紙でした。


▲2011年3月、震災から間もない時期に行われた「ことばのポトラック」初回の会場風景。

「マガジン航」への記事にも埋め込んだ初回のYouTube映像をみると、震災直後ということもあり、きわめて緊迫した空気が出演者の間にもただよい、ああ、2年前はこういう雰囲気のなかに自分たちはいたのだった、と思い出します。でも私が初参加した2012年春の催しは会をいくども重ねた後だったためか、それとも震災から一年を経た後だったせいか、思ったよりリラックスした空間だったのを記憶しています。「ことば」を持ち寄った人たちとお客さんによってつくられる、一時的な自治空間とでもいうべき、うちとけながらも緊張感のあるひとときを過ごすことができました。

震災直後の「ことばのポトラック」の初回にただちに参加し、8回目のこの日の会では大竹さんと司会をつとめた作家の堀江敏幸さんが、「この会は一年でやめず、続けるべきだ」といったそうで、私は彼からバトンを渡されたかたちになったのです。

生身のからだから発せられることば

さあ、困ったのはそのあとです。ひとことで言って自分には「荷が重い」と感じたのでした。震災だけでもとても大きなテーマなのに、そこに「文学」までが重ね合わされると、まったく身動きがとれません。正直、バトンを渡された後の一年間は、このバトンの意味をどう考えるかで大いに悩みました。

震災後の日々に、ことばを介する役割を担うメディアの世界で起きた出来事を思い出してみると、ソーシャルメディアと電子書籍という、ふたつの新しいメディアへの関心の高まりを外すことはできません。東日本大震災と福島第一原発事故が重なった2011年の春以後の日々は、twitterなどのソーシャルメディアがさかんに利用され、大きなメディアを介しては伝わらない、小さな声が新しい流通の回路を見出したように感じられました。また私自身の仕事でいえば、既存の出版の回路とはべつに、「電子書籍」と呼ばれる新しい出版形態があらわれ、そこから新しい表現や出版物が生まれてくることに期待を寄せた日々でもありました。

しかし新しいメディアと期待した「電子書籍」は、次第に新しい電機製品の販売促進や「ビジネスチャンス」を訴えるためのスローガンのように扱われ、震災後のリアリティにはそぐわないものでした。むしろ電子書籍と呼ぶ必要があるのかどうかさえわからない、インターネットを介した情報提供やそのとりまとめに「出版」や「編集」の可能性を感じ、私自身もささやかなまとめ記事を「マガジン航」で作成したことがあります(被災地に電子テキストを)。

情報伝達の手段としては便利だったtwitterも、そこでひとたび感情がからんだことばのやりとりがなされると、次第に調停が不可能なほど極端な意見対立へと二極化し、なにを信じてよいのかわからない混沌だけが残されました。震災後の日々に個々の人間が抱え込んだ多様で複雑な思いを伝え合うには、大竹さんの言うとおりに「個人が内側から発する声、メディアを通さない直接的な声」がやりとりされる場所が、これらのほかにも必要な気がしたのです。

今回の「ことばのポトラック 春に」にお招きした人たちは、なにか共通のバックグラウンドがあるわけでもなく、職業や専門分野、世代もまちまちです。ひとつだけ共通していることがあるとすれば、震災後の日々に私が実際に会って言葉を交わし、意見の相違はあれど話をしてよかったと思った人か、直接の面識はなくとも、震災後に書かれたものを読み、実際に「会った」のと同じ手応えや感触を感じた人、ということになると思います。

作家とは、複製メディアを介して流通させる言葉の主体ですが、平時であれば作品テキストだけが「コンテンツ」であり、作家が世間に生身をさらすのはインタビューやサイン会といった、ひろい意味での「プロモーション」に限られます。しかし作家は他方で生身の人間であり、その作品の洗練度や完成度とは関係なく、一般の人と同様、脆弱で矛盾を抱えた存在であることに変わりはありません。

震災後の「ことば」のありかたを考えたとき、専門家による正確な知識の提供や、果敢なジャーナリストによる現地報告も大事ですが。一方では完成した言語作品の表現者であることを求められ、他方では「恐怖と悲しみと不安が三つどもえ」になっている作家が、そのふたつに引き裂かれた状態のままで、だれか他人のためにことばを「もちよる」というのは、なかなかよいアイデアだなぁと、いまさらながらに思ったのでした。

ゆっくりと、長く続けることの意味

「ことばのポトラック」のバトンを渡してくれた堀江敏幸さんは私がもっとも共感する同世代の小説家の一人ですが、彼が「一年でやめず、続けるべきだ」といった意味を、その後ずっと考えていました。ふつうに考えると、「震災の記憶を薄れさせるな」「あの日を忘れるな」ということになりそうですが、どうもそういう意味ではないと私には思えました。なぜなら震災とは「地震」や「津波」のような一過性の出来事ではなく、いわばそこを起点として起こった、その後のできごとの総体だからです。

震災の本質はむしろ「遅れ」や「持続」にあり、それは震災と切り離して考えられない、福島第一原発事故がもたらした放射性物質の影響がきわめて長期にわたることが象徴しています。つまり、一方にいまなお持続している事態がある以上、それと向き合うための機会は、おなじだけの息の長さで続けなければ意味がない、力をもちえない、ということだと気づきました。

私が「ことばのポトラック」のキュレーションを行うのは、今回がはじめてで、もしかしたら最後かもしれませんが、こうした「ことばのセッション」の場が、ゆっくりとしたペースでもいいので、息長くつづくことを願ってやみません。そのためにも、前回から一年の間があいた今回の「ことばのポトラック 春に」への、みなさんのご来場を心からお待ちしています。

まだ席には多少余裕があるようですので、ご関心のある方は会場のサラヴァ東京のサイトで事前予約をお願いします。またFacebookに「ことばのポトラック」のページを作成しましたので、ここでも少しずつことばのやりとりをしていきたいと考えています。

ことばのポトラック vol.9 春に〜

日時 2013年3月16日 (土) 12:00 open 13:00 start
参加費 2,000円(お茶付)
会場 サラヴァ東京(予約はこちらでお願いします)

【出演者】
江口研一(翻訳家)、大野更紗(作家)、小林エリカ(作家)、桜井鈴茂(作家)、佐々木中(哲学者・作家)、藤谷治(作家)[50音順]

【司会】
仲俣暁生(編集者)、大竹昭子(作家)

トルタルのつくりかた

2013年3月12日
posted by 古田 靖

トルタルは2012年4月1日に創刊した雑誌スタイルの電書(電子書籍)プロジェクトです。これまで、のべ70名超のメンバーによって6タイトルの電書を無料リリースしてきました。この雑誌が何なのか。2013年3月時点でのぼくらのことを、ちょっとだけ説明してみます。

もともと電子雑誌です

トルタル編集人であるぼくの本業はライターです。18年くらい紙メディア(書籍、雑誌、ムック、パンフなど)に文章を書いてきました。電書に関わるようになったのは2010年初頭からです。仕事ではなく、好奇心から、友だち数人と英語の電書を一冊でっち上げ、アメリカのアマゾンから出版したのです。「パブリッシュ」というボタンひとつで世界100カ国以上に配れることに衝撃を受けました。

これまで数十冊以上書籍制作に関わってきたのとは、別種のおもしろさでした。もっとカジュアルで身軽な感じ。つい最近クレイグ・モドさんが『「超小型」出版』という電書を出しましたが、あの本の伝える空気感に近い気がします。感じたのは、ウェブと本が交錯し、作る側にとっての「本」の定義ががらっと変わってしまう可能性です。業界内で仕事をしている者としては怖い部分もあるけれど、それより好奇心がずっと勝っていました。これからはじまる電書は、ただ紙の本を電子化するだけじゃなさそうだ。てか、そんなことで終わらせたらもったいないぞと思ったのです。

それから個人的に電書をつくるようになりました。ひとりでやれば、自分の責任で好きなように扱うことができます。何をやろうが、どこに出そうが、売り上げがどうなろうが自由自在。ぼくにとっての書くことは、仕事だけでなく、「自分の判断で扱える素材を持つ」ことにもなりました。

でも、すべてをやるのは無理でした。最初に気づいたのは表紙です。写真、イラスト、ぼくには致命的なくらいセンスがない。一度自作してみたのだけど、まったく気に入らなかった。2010年暮れにブックアプリを出した際には、友だちに表紙を作ってもらいました。やっぱり、誰かの手は借りないといけないのだなあと思ったのでした。

次に気になったのは、文章の長さです。長い文をデジタルで読むには目の疲れにくい電子ペーパー端末が向いています。ところが日本でこれを持っている人は多くありません。当時は今以上に普及していませんでした。ほとんどの読者はスマホかタブレットで読んでいる。当時も今も、メインは小さな液晶画面。これに向かう時間はおおむね断続的です。電車内だったり、コーヒーブレイク、ベッド、トイレなんかで「ふと」「なんとなく」見る。その連続しない時間に合わせた読み物を用意したかった。電書リーダーが劇的に進化するか、電子ペーパー端末が一般的になるまでは、そっちのほうが楽しんでもらえそうだと思ったのです。

液晶向けの文体や構成を考えてみるようになりました。そしてその一方で、短文を集めた本をつくりたいなという気持ちが湧いてきました。イラストも入れたらなお良しだ。

それはたぶん雑誌です。

考えはしたものの、2011年になっても実行には移せませんでした。面倒だったからです。人数が多くなれば、連絡や調整、意見の集約とかが必要になります。きっちりやればフットワークは悪くなる。仕事と変わらなくなってしまう。せっかくの「自分で好きなように扱える素材」の自由度が小さくなるのは困っちゃいます。電書に身軽さを求めていたぼくにとって、それは本末転倒でしかありません。

出版というより音楽レーベルのイメージです

そんなある日フェイスブックで「電書ってバンドみたいだよね」という書き込みを見かけました。書いたのはイラストレーターのマキセヒロシさん。「お、お」と思いました。「当方ボーカル、他パートすべて募集」こんな感じでプロジェクトごとに集まるというイメージが浮かんで、みょうにしっくり来たのです。持ち寄った素材を集めて何かをつくり、それを共有するのもいいかもしれない。連載記事の集合体形式の雑誌なら実現できるんじゃないか。通常の雑誌をつくるイメージより、文化祭直前のバンド結成のほうが電書には相応しい気が来ました。アマチュアバンドのように、本気になりたいとき、ちょっと距離をおきたいとき、そのどちらにも対応できるような場としての電書編集部です。

2011年は電書のことを話しまくった一年でもありました。震災があったからかもしれません。いろいろな人に会いました。本とは無縁なジャンルの方々が電書に強い興味を抱いていることにも気づきました。パソコンでツイッターの画面を開くと、あっちとこっちで同じようなことを考えている人がいる。彼が絵を、彼女が文を、あの人がデザインをして、この子が歌えば、そういえば彼は動画をつくっていたなあ。見通しなんてないのに、むらむらして来ました。

気づいたときには「電子雑誌をつくりたい」とフェイスブックに投稿していました。2012年1月15日の夕方です。そうしたら「やりたい」という人が現れました。勢いで「無料で配布したい」「ギャラを払うメドはないので当面は無償」「メリットは各自で見つけて下さい」「それでもやりたいという方は一緒にやりませんか」とか、矢継ぎ早にコメントしました。ようするに「当方ライター。それ以外のパート全員募集」ということに過ぎません。「デビュー未定。ジャンル未定。経験不問」といっているのと同じです。それでも、投稿の2日後には絵・写真・動画・音楽・文・編集・デザイン・プログラムのできるメンバーがそろっちゃいました。ここに至って、はじめて、引っ込みがつかなくなったことに気づいた。これがトルタル編集部の誕生です。

たまたまその直後「再起動(リブート)せよと雑誌はいう」という本を出されたばかりだった仲俣暁生さんとお酒を飲みました。セックス・ピストルズの初ライブ伝説の話になったのです。彼らはマルコム・マクラレンが経営していたブティックにたむろしていた若造に過ぎません。当然、演奏はボロボロで客もごくわずか。でも、そのときの観客はみな帰宅後バンドを組んだといわれているそうです。おそらく相当誇張された都市伝説だろうけど、これまた「あ、あ」とビールジョッキ片手に思っちゃったのです。それを目指そうと決めました。セックス・ピストルズの拙い初ライブを観た客はきっとこう思ったに違いない。

「楽しそうじゃん。でも、なるほどね。それだったら俺のほうがきっともっと上手くできる」

そう思われるような場をつくること。これをトルタルの編集・運営方針にしました。

ウェブでつくっています

勢いと思いつきで始まったトルタルですが、3ヶ月後の4月1日に創刊号をリリースし、その後も順調に刊行を続けることができています。「100のうち47くらいは試行錯誤」という状況ではありますが、電書作りのほぼすべてをウェブ上でやってしまう独特の制作システムが出来上がりつつあります。

基本となる「編集部」はフェイスブックのグループ機能(非公開)を利用しています。メンバーの所在地はバラバラなので、こことツイッターでやりとりの大半を済ませます。ところが原稿や画像、提案、意見、連絡事項を投稿し始めたら、すぐにワケが分からなくなってしまいました。そこで、他のウェブサービスを併用するようになりました。

文字原稿と進行状況はグーグルドライブで共有します。クラウドストレージですが、かつてグーグルドキュメントという名前だったサービスを統合しているのがポイント。WordやExcel文書をウェブ上に置き、共同編集はできます。ここに原稿をアップし、編集担当者が修正して欲しいところに赤やコメント注記を入れ、原稿を仕上げます。ついでに各連載記事の進行状況一覧もExcel形式で作成し、編集部内でシェアするようになりました。

画像や動画、音楽のデータはSkyDriveというマイクロソフトのクラウドストレージに各自アップしてもらいます。グーグルドライブより少し容量が大きいのと、中身を一覧しやすいのが利点です。連載ごとにフォルダをつくり、完成した原稿もここに放り込めば、最終的に素材倉庫になります。

素材が揃ったら、一冊のデータにまとめる作業が始まります。トルタルの素材は最初からデジタルデータなので、紙媒体の本を電子化するときのような「変換」は必要ありません。プログラマやエンジニア、コーダーといったメンバーが連載ごとに素材にマークアップ(見出しや文章の構造、画像などの配置)をし、Githubというサービスにアップします。これはソフトウェアエンジニアのSNSのようなもので、トルタルのメンバーでもある小嶋智さんが電書フォーマットの1つであるEPUB生成プログラムGepubを公開しています。簡単にいえば、このGepubにマークアップ済原稿を上げれば、電書になって出てくるというわけです。

トルタルではここで試作版をつくり、編集部内で手分けして手持ちのデバイスで表示チェック→バグ指摘→修正→試作版生成→チェックという行程を繰り返します。Gepubは過去の編集履歴・差分がすべて記録されるところも便利です。「どこを直したんだっけ?」というのもすぐ探せるし「この修正やっぱ止めた」といった作業も一発でできる。もちろん同時に複数人が校正・校閲をおこなうこともできます。

チェックと校正は意外に面倒です。様々なスマホやタブレットでつかわれている電書閲覧ソフトの仕様はバラバラなので、「あっちのデバイスではきちんと表示されるのにこっちはダメ」「あっちのバグが修正されたら、今度はこっちがダメになった」ということが頻繁に起こるのです。そこでチェック結果の報告や意見交換をするために、サイボウズLIVEというクラウド型コラボレーションツールも併用するようになりました。

こうした作業を進める一方で、福岡にいる映像作家・石川亮介さんが宣伝用のプロモーション動画をつくります。素材はSkyDriveにアップされているものが使われます。曲は関東に住む音楽家・佐々木宏人さんが制作。この二人のおかげで、毎号オリジナルのYouTube動画ができるのでした。

この制作行程のポイントは3つです。

1つめは、すべてがウェブ上で進行できること。住むエリアは時差以外ほとんど関係ありません。
2つめは、すべて無料のサービスでやれていること。
3つめは、制作の大部分が全員にシェアされていること。その気になれば、メンバーはどの工程にもタッチできます。意外な方向から新しいアイデアが出てくることもよくあります。

この制作スタイルを「CROWDパブリッシング」と名付けてみました。CLOUDサービスをつかった製作者集団(CROWD)による出版という意味。日本語だったら、好きなように動く各自が全体として1つのものをつくる「散開出版」でしょうか。

SNSを中心に無料配布しています

電子雑誌トルタルは無料配布を基本にしています。

おもな理由は3つあって、1つめはできるだけ大勢の人に電書を体験してもらうためです。「電子書籍元年」という掛け声もありますが、まだ圧倒的多数にとって電書は馴染みのないものだと感じています。「読んでやろうかな」と思えるようなものを増やしたいなと思ったのです。2つめの理由は、ぼくら作り手の存在を知ってもらうというプロモーションです。この2つの目的を実現するためには、中途半端な低価格より、登録・課金一切なしの一発ダウンロードがいいと考えました。

3つめの理由は電書の現状にまつわるものです。いま、日本で電書の売上から利益を出すのはカンタンではありません。それなりのダウンロード数が期待できそうなアマゾンのKindle、アップルのiBookストアは、トルタル創刊当時、まだ日本ではスタートしていませんでした。それ以外にも電書ストアはたくさんあります。でも、いずれも既存の出版社経由でないと出せなかったり、動画が収録できなかったり、読めるデバイス・アプリが限られてしまったり、といった制約がついてしまう。そのうえ売上はあまり期待できない。いっそ無料にしてしまえば、こうした制約から自由でいられるのです。

というわけで、トルタルでは既存のストアをつかわない「野良」配信を続けています。基本はURL。トルタルでは完成した電書ファイルをDropboxにアップします。これもクラウドストレージの一種ですが、ほとんどのデバイスからのダウンロードに対応してくれるのが特徴です。このサービスをつかって誰でも共有できるダウンロードリンクを生成。このURLは長いので、次にbitlyという短縮サービスで、短く、覚えやすいものに変換します。こうして出来上がったURLをメンバー全員で共有し、あちこちにコピペ配布するのです。

ちなみに最新のトルタル4号はhttp://bit.ly/torutaru_4です。パソコンのブラウザにこの文字列を入力すればいきなり落ちてきます。(スマホやタブレットの場合は、EPUBの読めるアプリをあらかじめインストールしてください)

このURLは誰がどこに貼っても構いません。メンバー各自のサイトやブログはもちろん、色々なところに貼られています。ちなみに、ぼくは名刺入れにQRコードを貼ってます。

URL配布で活躍するのは、ツイッターやフェイスブックなどのSNSです。ツイートにURLを貼るのです。一応公式サイトはありますが、そこにリンク誘導する必要はないというのが方針です。

ここ数年、ぼくが面白そうな本や曲を知るきっかけの8割以上はSNSでした。信用している誰かが「おもしろいものがあるよ」とつぶやいているの読んで、手に取る。ニュースやブログ記事もツイッターやフェイスブック経由で知る。SNSで流通するデータはとても小さく、すぐに流れ去るのだけど、だからこそ、すごく軽快に伝わるのだと思います。

これに対してブログやサイトはいつもそこにある代わりに、軽快さがない。そこまで来てもらわなければ誰にも読んでもらえない。「無人島で開店しているお店」のような状態になっていたブログが、1つの「いいね!」がきっかけでアクセス急増なんて例も増えています。だから、もしトルタルの公式ダウンロードサイトがあっても「ここにダウンロードサイトがあるよ」というURL誘導のツイート投稿はおそらく欠かせないでしょう。すると読者は「ツイートをみる」→「URLをクリックする」→「サイトが開く」→「サイトのURLをクリックする」という二度手間になると思うのです。というわけで1回のクリックで直接ダウンロードできるURLを配布しています。

これはすごくめんどくさいやり方です。SNSの投稿はあっという間に流れてしまうので、多くの読者を獲得するには何度も何度も投稿しなければいけません。露骨でしつこい宣伝は周囲からウザがられてしまうリスクもあります。それでも、このやり方にこだわってみたいと思っています。

2010年に電書をリリースしたとき、見知らぬ読者さんから届いた感想ツイートに「朝トイレで紹介ツイートを見かけ、その場でクリックして購入。通勤電車で読んだ」と書かれていました。ぼくにとって、これは初めてリアルに感じた「電書のある生活」像でした。スマホ1台で完結してしまう読書。さらに著者に感想をツイートすることもできる。新しい本、読書がもしそういうものだとしたら、SNSは重要な役割を占めるんじゃないかと感じたのです。

ただ、ひとりでこれをやるのは難しいです。宣伝っぽいツイートだらけにはしたくないし、紹介文や添付画像を工夫しようにも限界がある。だけど複数のメンバーが集まる雑誌だったらこの負担を分担し、軽減することができます。各自が自分のペースで紹介すればいいし、他のメンバーの投稿をリツイートしたり、シェアをすることもできる。文面もそれぞれ違うし、フォロワーもマチマチなので自分のことを知らない人=新しい読者に自分の制作物を届けることも可能です。

このCROWD型のSNS告知を続けた結果、トルタルは創刊から1年足らずで総計1万ダウンロードを越えることができました。実際にやってみて気づいたのは、多くの作り手が画像や写真、音楽、動画などの素材を共有することの強みです。告知方法の幅が飛躍的に広がるし、誰かが描いたアニメーションが動画になったり、音楽PVに登場したりといったコラボレーションも自在。CROWDパブリッシングにはこんな効果もあるのです。

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ウェブの力を借りて「本」はもっと面白くなる

2013年3月8日
posted by 林 智彦

本も好き、だけどネットも好き、テクノロジーも大好き――そんな人間にとって、ここ数年の「電子書籍(または電子出版。以下この二つを便宜的に同じものとして扱う)」をめぐる議論は、フラストレーションのたまるものばかりだった。

いわく、「本が売れなくなる」「パブリッシャーがつぶれる」「海外企業に支配される」「海賊版が増える」「本離れが進む」……こんな極端な悲観論が目に付く一方で、出版だけでなく、既存メディア全体がいますぐ用済みになり、ネットやソーシャルがとってかわる、といったような根拠薄弱な楽観論(?)も目立った。中には具体的な年をあげて、新聞等の「消滅」を予言したタイトルの本もあったがあれはどうなったのか? つい最近も、同工異曲の本が出版されている。

「(本の)電子化」ではなく、「(ウェブの)書籍化」

新しい事象に直面したとき、狼狽した人々は大雑把でわかりやすい「物語」にすがりたがる。「◯◯はすべて終わりだ!」という終末論(エスカトロジー)ないし運命論(フェイタリズム)や、「◯◯ですべて解決!」といったような多幸論(ユーフォリア)がはびこるのは、こんな時である。活版印刷、新聞、電信、映画、電話、ラジオ、テレビ、パソコン通信、ウェブ……新しいメディアが出現するたび、似たような議論は繰り返されてきた。

だから電子書籍という新しいメディアを前に、見慣れた風景が出現したとしても、驚くには値しない、のだろう。しかし、アメリカでキンドルが発売され、現在に続く「電子書籍革命」がスタートしてからすでに5年を超える月日が流れている。お定まりの「議論」で「考えたフリ」ができる時期はとうに過ぎ去った。もうそろそろ、「先」へ進むべきときではないか?

「先」へ進むためには、これまで歩いてきた道をきちんと見つめる必要がある。これまでの「電子書籍論」はおおむね、次の二つの点で決定的な限界を抱えていた。

限界の第一は、電子書籍の本質についてのものだ。プリントメディア産業の従事者は、電子書籍について、従来の「書籍」が姿を変えたものだと考えがちだ。「電子書籍」という用語が、そもそもの誤解の元なのだが、この見方は間違いとは言わないまでも、今起きている現象の、ごく一部しか捉えていない。少なくとも電子書籍(ebook)を従来の本とは別のものとみなす考え方が、世界的にも広がりつつある(たとえば、こちらこちらこちら。日本において、この点をほとんど初めて指摘した秀逸な分析として、佐々木大輔『セルフパブリッシング狂時代』がある)。

電子書籍は、何よりもウェブコンテンツであり、ウェブテクノロジーなのである。このことは、日本でもアメリカでも過去、幾度も試みられた電子書籍の事業がすべて離陸に失敗したのに、AmazonのKindle(とその類似サービス)だけがなぜ成功できたのか? という疑問にも関わってくる。ここで詳細に立ち入ることはできないが、Kindleのサービスが、さまざまな面においてウェブの技術と発想の正統進化の上に成り立っていることを指摘しておこう。電子書籍は、あらゆるものがウェブに飲み込まれていく(Web of Things, or WoT)現象の、一つの表れにすぎない。

だから、「本を電子化する」とか「電子化が進む/遅れる」という形で電子書籍を捉えるのは、完全な間違いとはいわないまでも、視野狭窄で、一方的な見方なのだ。出版産業という洞窟の外側に出てみれば、出版だけでなく、すべての産業がウェブ技術の影響を受けて変容している様が見て取れる。この観点にたてば、電子書籍が、やや誇張していえば、「書籍という擬態をまとったウェブコンテンツ」であることがわかるだろう。

「(本の)電子化」ではなく、「(ウェブの)書籍化」なのだ。だから電子書籍が普及したからといって、紙の本がなくなるわけがないし、メルマガやブログをはじめ、これまで「本」と思われていなかった形態や、今もキンドルやコボで毎日のようにリリースされる自己出版本に見られるような、それまで「本」と考えられていなかったような内容のコンテンツが、どんどん「本」になっていく。そしてこれまで「本」を書こうとも思わなかった筆者がどんどん「本」を書き出す。そうした現象こそが、「電子書籍」なのである。

第二の限界は、書籍(出版)の本質についてのものだ。多くの論者が、既存の「出版」のあり方を前提に、電子書籍によって「出版」が決定的な変化を強制されている、と述べる。「滅亡」とまではいわなくとも、「衰退」を運命づけられていると主張する批評家は少なくない。

「既存の出版」も歴史は短い

しかし、彼らが前提としている「既存の出版」(とみなされている)制度のうち、少なくない部分が、たかだか数十年、長くとも百年くらいの歴史しか持っていないことに、もっと注意が向けられてもよい。

現在の出版のあり方を特徴づける、価格、造本、印税、組版、校正、編集、流通などに関わる慣習……これらはすべて、現今の「本」の作られ方、売られ方を支える重要な制度であるが、ルーツをたどると、一般に考えられている以上に最近のものであり、合理的な計算というよりも、歴史的偶然の集積によって成立・変化してきたことが、諸研究からわかっている。

そもそも、アイデアを言葉(記号)にして伝える、出版という行為は、人類の文明と同時に始まったものだ。タブレット(スレート)=石板は、最初期のメディアでもある。

人類史のスケールから見れば、グーテンベルク革命以後の数百年ですら、歴史のほんの一部でしかない。それだけの長さを、「出版」という営為は、そのときどきの技術的条件に適応しながら生き残ってきた。「出版」ほど大きな変化を経験してきた文化的行為は、他にそうはない。

いわゆる「電子化」によってまるで「出版」が滅びてしまうかのように言い募るのは、歴史的経緯を踏まえない、浅薄な議論というほかない。それが「グーテンベルク以来の革命」などと、一見高邁な文明論の形をとると、わかりやすいだけに問題だ。

ましてや、一部の論調に見られたように、現在の出版に関わる制度を、まるごと日本固有の「文化」とみなし、海外ビジネスからの侵略から守らなければならない、と主張するに至っては、その前提からして間違っていることは明らかであろう。今ある制度は、さほど古いものでもないし、その時々の様々な事情によって形成されたもので、すべてが合理的というわけでもない。「文化」を名目に排外主義を煽り、海外の優れた技術やサービスに扉を閉ざすことが常態化すれば、この国は幕末の攘夷運動の時代に逆戻りするほかない。

ちなみに、これと関連して、国際的に電子書籍サービスを提供している海外企業が、十分な税金を収めていないことを執拗に批判する向きもあった。多(超)国籍企業の合法・非合法の税金逃れ(tax avoidance)は、少なくとも1970年代から問題になっており、新しい問題ではない。実体のない電子コンテンツが、国境を超えたECで取り引きされるようになって、単に目立つようになっただけである。

そうした取引への課税のあり方については、海外でも日本でも対応策の検討が進んでいる(これは「課税の腐食(tax erosion)」と呼ばれる、より広範な問題の一部であり、国際政治経済学=IPEと呼ばれる学問分野の主要な関心事の一つであった。この点を取り上げた著名な書籍としては、スーザン・ストレンジ『国家の退場』が挙げられる)。またこうした批判が、楽天によるカナダの「コボ」買収により、急に沈静化したように見えるのは、特定企業をターゲットとした単なる排外主義が、少なくとも動機の一部を構成していたのではないか、という疑いを強めることとなった。

「出版」の本質は電子書籍でも変わらない

この数十年の「出版」のあり方を、「出版」の将来に関わる議論全体に外挿する考え方は、既存出版産業の売上高の減少を元に「文字離れ」を論じたり、ネット配信の普及で衰微した(とされている)音楽産業の経験を元に、出版の先行きを憂いたりする思考とも、その発想の貧困ぶりにおいて共通している。

前者については、メディアサイト、ブログ、SNSを通じて、ネット上でパブリッシュされ、読まれる文字情報量が、爆発的に増えている(「文字離れ」どころか「文字まみれ」)ことを見逃しているし、後者については、「複製産業」でしかないCD産業の縮小を「音楽」の縮小と誤認している。アイデアを文字の形として記述し編集し発表する「出版」が単なる「複製産業」と同一視できないことはいうまでもない。

このように、ここ数年の日本のメディアは、「電子書籍元年」というかけ声のもと、必ずしも生産的とはいえない議論を繰り返してきた。このことは、出版産業の部外者の、少なくともある部分に対して、出版やその関連業界が既得権益を守るためのポジショントークを展開している、という印象を与えてきたことは否めない。大手出版社を中心として、新刊が中心ではあるが、一定数の電子書籍を定期的にリリースするようになった今でさえも、「出版業界は電子書籍に慎重」といった、実態からすれば誤った見方が一部に見られるのは、こうした事情によるものと考えられる。

(1)電子書籍はウェブの一種であり、ウェブ技術が書籍という概念を拡張するムーブメントである、(2)それにも関わらず、「出版」の本質は太古の昔から変わっておらず、今までと同様、新しい環境・技術に対応できるし、現にそうしつつある――このような考えは、特に目新しいものでも、意外なものでもない。実際に電子書籍の制作に日々携わっている方々の間では、公にはしないまでも、漠然とした発想のベースといった形で共有されていると、少なくとも筆者は感じる。

特に、電子書籍の普及をにらんで、電子書籍や書籍に関連するサービスに新たに参入してきた企業や個人の間では、共通理解だと考えても間違いではないだろう。そこに可能性があり、商機があると考えたからこそ飛び込んできたわけであるから、肯定的な見方をするのは当然ではあるのだが。

ところがこれまで、こうした層の考えを代弁する議論や書籍は、見つけるのが難しかった。電子書籍はウェブと出版の二つの領域にまたがっており、日本ではこれまで、この二つの領域が、産業としては別の宇宙を形成していたことが一因だろう。出版からウェブ(あるいは電子書籍)へ、という人材移動はあっても、その逆はあまりないことも、実態を踏まえない議論が目立つ原因となったに違いない。

新時代の幕開けを告げる、実践者のための教科書

しかし、それもこれも、もう終わりだ。『マニフェスト 本の未来』という本が刊行されたからである。本書は、米国の電子書籍の世界で、さまざまな実験を積み重ねてきた第一人者が、その経験と、それに基づく洞察を共有してくれる稀有な本だ。

特に、「ウェブから見た」電子書籍のあるべき姿について詳細に論じられているのは、本書を類書と分かつ重要なポイントだ。

私がこれまで長々しく説明してきたことを、編者の一人であるヒュー・マクガイアは一言でいう。

「インターネット」と「本」の区別は完全に恣意的なものであり、5年以内に区別は消滅する。速攻調整開始すべき。

この視点は、濃淡や多少のずれはあれ、寄稿者の多くに共有されている。マグワイアがコンテンツへのアクセスなど、ウェブではあたりまえに実現されている機能の重要性を強調した第8章や、コンテンツやコンテナではなく、コンテンツが享受される環境(コンテクスト)に注目した第1章、電子書籍ならではの経験に着目した第3章、創造、発表、共有など、一冊の本ができるまでのプロセスの変容を論じた第7章など、見どころは数え切れない。

ここに挙げた以外にも、電子書籍が及ぼす多様なインパクトが広範にカバーされており、興味がある人はもちろん、特に関心がない普通の「本好き」にも、教えられるところが大きい本である。というより本の将来に関心を持つ者であれば、一度ページを開いてみれば、読み通さずにはいられない魅力がある。

電子書籍に可能性を見出し、その発展に寄与しようと願う者にとっては、またとない援軍となるだろう。

本書の日本語版刊行で、日本の電子書籍に関する議論は、はっきりと次のフェイズに入ったといえる。

それを目撃して前に進むか、無視して旧弊な思考に閉じこもるか、選択はあなたに委ねられている。

アップルがiBookstoreを日本でもオープン

2013年3月6日
posted by 仲俣暁生

3月6日、アップルが電子書籍ストア、iBookstoreを日本でもオープンしました(アップル社のプレスリリースはこちら)。これにあわせて電子書籍アプリのiBooksもバージョン3.1にアップデートされており、iPhoneやiPad、iPodといったiOS対応のスマートフォンやタブレットをもっていれば、iBooksのアプリから電子書籍を購入できます。

これで2010年頃からの電子書籍ブームを引き起こした「黒船」勢、つまりアマゾン、グーグル、アップルの電子書籍ストアがすべて日本でもオープンしたこ とになります。

カテゴリごとのコーナーに加え「スタッフのお気に入り」も。

iBookstoreでの本のカテゴリ分けは、「フィクション(小説)」「マンガ」「ビジネス/マネー」「ミステリー/スリラー」「ライトノベル」(注:本稿執筆時点。その後拡充されています)。それぞれに有料と無料との区別がありますが、いまのところ、それ以上のサブカテゴリは設定されていません。哲学、思想、歴史、芸術、実用書…といった実際の書店の棚構成を模倣するのではなく、スタート時はとりあえず売れるコンテンツに特化した印象です。これからのカテゴリやサブカテゴリがどのように増えていくのかも注目です。

村上龍のデジタルブックを限定配信

iBookstoreでの電子書籍の配信をはじめている出版社は、ざっと確認しただけでも大手では講談社、集英社、文藝春秋、角川書店、幻冬舎などが確認できました。逆に6日午前の段階では小学館、新潮社のコンテンツはまだ配信されていません。

iBookstoreのフィクションの棚。

気になったのは、「フィクション」のカテゴリには村上龍の作品を限定配信する特設コーナーが設定されていたことです。第一弾として『心はあなたのもとに』『希望の国のエクソダス』 『空港にて』の3タイトルが配信されており、今後も追加される気配です。発行元はいずれも「村上龍電子本製作所/ G2010」とクレジットされており、紙版の出版社ではなく、作家自身による配信のようです(ただしG2010のウェブサイトでは、3月5日時点ではまだ、これらのタイトルについてのリリースは出ていません)。

村上龍のデジタルブックを限定配信する特設コーナー。

iBooks3.0で縦書きの横スクロールが可能に

iBooksはアップルの電子書籍ストアであるiBookstoreにアクセスし、そこで買ったタイトルを閲読するほかに、EPUB 3.0による電子書籍も閲読できます。今回のバージョン3.1へのアップデートでは表示切替の「テーマ」から、本を模したページめくりの「ブック」のほか、単ページによる「フルスクリーン」が追加され、「スクロール」でも、これまでの「横書き/縦スクロール」にくわえ「縦書き/横スクロール」が表示できるようになりました。

筆者の自作のEPUB電子書籍をiBooksで横スクロール表示させたところ。

iBookstoreにはすでにiPad専用の電子書籍オーサリング・ツールiBooks Authorがありますが、KindleやKoboで実現しているような簡単なセルフパブリッシング(自己出版)の仕組みが、日本を含むアジア市場向けにはまだ提供されていません。アップルが今後、iBooks AuthorだけでなくEPUBベースで、アジア圏でどのような自己出版の仕組みをつくっていくのかが気になるところです。

[追記] 『Gene Mapper』の著者である藤井太洋さんが、iBookstore向けに自己出版(セルフパブリッシング)するための手順を記事にしています(こちら)。英語画面での手続きとなりますが、指示に従ってステップを踏めば、日本のストア向けに販売することもすでに可能とのことです。

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アマゾンが電子古書を売り出すとき

2013年3月5日
posted by 秦 隆司

この2月、アメリカ出版界の未来を変えることになりかねないニュースが伝えられた。それは、アマゾンが中古電子書籍の売買市場作りを狙っているというニュースだった。アマゾンの電子書籍市場におけるシェアは65%-80%と言われている。そのアマゾンが中古の電子書籍売買のマーケットを作ったとしたら、アメリカ出版界に及ぼす影響は大きい。このニュースを追ってみた。

アマゾンが米パテント・オフィスから取得した
パテントの内容

アマゾンが中古電子書籍の売買市場作りを計画中。最初にこのニュースを伝えたのはオンラインのテクノロジー・ニュースサイトgeekwire.comだった。2月4日のgeekwire.comのこの報道のあと、米国の出版業界誌「パブリッシャーズ・ウィークリー」が2月7日にオンラインでこのニュースを掲載した。

アマゾンが中古電子書籍の売買市場作りを狙っているというのは今はまだ憶測の段階だ。この憶測はアマゾンが1月29日、正式に中古デジタル・オブジェクトに関すパテントを取得したことから生まれたものだ。

話を進める前に、まずアマゾンが米パテント・オフィス(特許局)から取得した中古電子書籍を含む中古デジタル・オブジェクトのパテントがどんなものかを見てみよう。

以下がそのパテントの要旨だ。

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デジタル・オブジェクツの中古市場

要旨

中古デジタル・オブジェクツのエレクトロニック市場が示された。オリジナル・ベンダーからユーザーによって購入された電子書籍、オーディオ、ビデオ、コンピュータ・アプリケーションなどを含むデジタル・オブジェクツはユーザーの個人的なデータ貯蔵場所に貯蔵されている。個人的なデータ貯蔵場所にあるそのコンテンツは移動、ストリーミング、またはダウンロードによってユーザーからのアクセスが可能である。ユーザーが、中古となったデジタル・コンテンツへのアクセス権の保持を望まなくなったとき、それが許されるなら、ユーザーはその中古デジタル・コンテンツをほかのユーザーの個人的なデータ貯蔵場所に移すことができる。そしてその中古デジタル・コンテンツはオリジナル・ユーザーの個人的データ貯蔵場所から消去される。デジタル・オブジェクツがある一定回数の移動やダウンロード回数を超えたときは、その移動能力は不許可あるいは停止、または失われる。加えてまたはそのほかに、ほかのユーザーたちの個人的データ貯蔵場所から集められてきた一連のオブジェクツは、ユーザーの個人的データ貯蔵場所に移すことができる。

案出者:リンジワルド、エリック(カリフォルニア州ベルヴェディア)
譲受人:アマゾン・テクノロジーズ社(ネバダ州リノ)
申請番号:12/435,927
申請日:2009年5月5日
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正確を期するために、米特許局のウェブサイトに掲載されている内容を原文でも掲載する。英文と日本文で言葉の解釈に違いがあった場合は、英文の解釈が正しいものとする。

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Secondary market for digital objects

Abstract
An electronic marketplace for used digital objects is disclosed. Digital objects including e-books, audio, video, computer applications, etc., purchased from an original vendor by a user are stored in a user’s personalized data store. Content in a personalized data store may be accessible to the user via transfer such as moving, streaming, or download. When the user no longer desires to retain the right to access the now-used digital content, the user may move the used digital content to another user’s personalized data store when permissible and the used digital content is deleted from the originating user’s personalized data store. When a digital object exceeds a threshold number of moves or downloads, the ability to move may be deemed impermissible and suspended or terminated. Additionally or alternatively, a collection of objects may be assembled from individual digital objects stored in the personalized data stores of different users, and moved to a user’s personalized data store.

Inventors: Ringewald; Erich (Belvedere, CA)
Assignee: Amazon Technologies, Inc. (Reno, NV)
Appl. No.: 12/435,927
Filed: May 5, 2009
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さらに調べたい人は米特許局の以下のサイトで、アマゾンのこのパテントについてみることができる。
http://www.uspto.gov/web/patents/patog/week05/OG/html/1386-5/US08364595-20130129.html

アマゾンのパテントが表示されている米特許局のサイト。

アマゾンはなぜ中古デジタル商品市場の
パテントを取得したか

以上がアマゾンの取得したパテントの概要だが問題は、なぜアマゾンがこのパテントを取得したかだろう。

一連の報道に対してアマゾン側からの発表はないので、その答えは想像するしかない。ただ言えることは、今回のパテント取得により、アマゾンは電子書籍市場はもちろん出版の世界でもさらに広範囲なコントロールを得たということだろう。

アマゾンの狙いは何か。その答えはアマゾンという企業をどうみるかによって変わってくる。例えば、アマゾンを小売り企業という視点でみれば、中古の電子書籍販売は、小売業のさらなる拡大である。電子書籍市場で65%-80%のシェアを持つアマゾンがさらに中古電子書籍売買もおこなうというのは、それだけで充分脅威だ。

しかし、僕はアマゾンが出版社であることが気になる。2009年から出版業に乗り出したアマゾンはいま、AmazonEncore、New Harvestなどの7つのインプリント(ブランド)を持っている。中古電子書籍市場が誕生すれば、著者の印税を巡り係争になることは確実だが、もし、中古電子書籍が著者の印税を支払わなくともよいとなった場合、アマゾンは著者獲得に非常に有利な位置に立つことになる。

中古電子書籍市場のパテントを持つアマゾンは、中古電子書籍の売買から発生した利益分配を著者に与えることで、ほかの出版社よりも有利な条件を著者に提示することが可能となるからだ。

例えば新品電子書籍が売れた場合は70%。2回目は50%、3回目は25%が著者の印税分などと、細かく取り決めをすることができる。

ほかの出版社では中古電子書籍からの印税は入らないが、アマゾンから出せば入るとなれば、著者にとっても魅力的ではある。

また、「要旨」の中で気になったのは「デジタル・オブジェクツがある一定回数の移動やダウンロード回数を超えたときは、その移動能力は不許可あるいは停止、または失われる」という一文だ。

アマゾンとして、わざわざ移動能力が失われるこの条件を入れる必要はない。この一文はまるで係争時の和解案のようだ。出版社や著者からの訴訟を見据えてのことだろうか。そうだとすれば、アマゾンは中古電子書籍市場を作ることにかなり本気だと考えられる。

中古電子書籍市場はデジタル商品商売の自然な進化だと言う人もいる。具体的にはどんな姿になるのだろう。最も考えられるのがヤフオク(アメリカならeBay)のようなサイトの電子書籍市場版だろうか。アマゾンがそのサイトを運営し、売買された中古電子書籍に対する手数料を取る。

中古になっても劣化をしない電子書籍が売り出されば、普通の人なら当然価格の安い中古電子書籍を選ぶ。新品と中古の違いは、多分その電子書籍が数日早く手に入るかどうかだけとなるだろう。

中古電子書籍市場を展開させれば、小売業を営むアマゾンにしても、利率の良いはずの新品の電子書籍の売上げが落ちそこからの利益は少なくなる。また、この市場に乗り出せば出版社や著者から訴訟が起きることも目にみえている。

果たしてアマゾンはどう動くのか、今後の動きが注目される。

中古電子書籍の販売をよしとする作家はいない

ここまで、アマゾン側からの話しをしてきたが、作家たちはどう感じているのだろう。

デジタルの世界では作家のどんな作品も「コンテンツ」という名称で一括りにされてしまう可能性がある。そして今のビジネスの現実として「コンテンツ」を作る側より、アグリゲーター(インターネット上の情報を集め、整理し、エンドユーザーに提供する業者)のほうに大きな力があるように思える。アマゾンの今回のケースは、アグリゲーターが市場のコントロールをさらに強くしようとするいい例だ。

今回のアマゾンのパテント取得で、喜んでいる作家は見当たらない。ニューヨークの作家タマ・ジャノヴィッツなどは、今回のパテントがどうのこうのという以前に「電子書籍自体が嫌いだ」と言う。彼女は、自分の作品が電子化されることを許していない。著者に全く印税が入らなくなることを恐れているのだ。

また、アメリカ・サイエンスフィクション・アンド・ファンタジー作家協会(Science Fiction and Fantasy Writers of America)」の会長で自身も作家であるジョン・スカルジはアマゾンのパテント取得について「いまの報酬モデルから収入を得たいと思っている作家たちにとってはなんの利益もない」と語っている。彼はもし市場が現実的なものとなって、アマゾンが中古電子書籍販売からの印税を作家に支払わなければ作家による集団訴訟が起こるとしている。

「パブリシャーズ・ウィークリー」誌に投稿した作家グレーセン・ミラーはその投稿のなかで「もしアマゾンがそんなことをやりだしたら、自分の本をアマゾンからすべて引き上げる。作家みんなが僕と同じことをしたらどうなるかアマゾンは分かっているのか」と語っている。

今回のアマゾンのパテント取得に出版社はどう動くのか。いまのところまだ出版社からの意見は出ていない。

電子書籍が出回れば、いらなくなった電子書籍を売りたいという人は必ず出てくる。この問題は、出版業界が遅かれ早かれ、直面しなくてはならない問題だろう。