ウェブの力を借りて「本」はもっと面白くなる

2013年3月8日
posted by 林 智彦

本も好き、だけどネットも好き、テクノロジーも大好き――そんな人間にとって、ここ数年の「電子書籍(または電子出版。以下この二つを便宜的に同じものとして扱う)」をめぐる議論は、フラストレーションのたまるものばかりだった。

いわく、「本が売れなくなる」「パブリッシャーがつぶれる」「海外企業に支配される」「海賊版が増える」「本離れが進む」……こんな極端な悲観論が目に付く一方で、出版だけでなく、既存メディア全体がいますぐ用済みになり、ネットやソーシャルがとってかわる、といったような根拠薄弱な楽観論(?)も目立った。中には具体的な年をあげて、新聞等の「消滅」を予言したタイトルの本もあったがあれはどうなったのか? つい最近も、同工異曲の本が出版されている。

「(本の)電子化」ではなく、「(ウェブの)書籍化」

新しい事象に直面したとき、狼狽した人々は大雑把でわかりやすい「物語」にすがりたがる。「◯◯はすべて終わりだ!」という終末論(エスカトロジー)ないし運命論(フェイタリズム)や、「◯◯ですべて解決!」といったような多幸論(ユーフォリア)がはびこるのは、こんな時である。活版印刷、新聞、電信、映画、電話、ラジオ、テレビ、パソコン通信、ウェブ……新しいメディアが出現するたび、似たような議論は繰り返されてきた。

だから電子書籍という新しいメディアを前に、見慣れた風景が出現したとしても、驚くには値しない、のだろう。しかし、アメリカでキンドルが発売され、現在に続く「電子書籍革命」がスタートしてからすでに5年を超える月日が流れている。お定まりの「議論」で「考えたフリ」ができる時期はとうに過ぎ去った。もうそろそろ、「先」へ進むべきときではないか?

「先」へ進むためには、これまで歩いてきた道をきちんと見つめる必要がある。これまでの「電子書籍論」はおおむね、次の二つの点で決定的な限界を抱えていた。

限界の第一は、電子書籍の本質についてのものだ。プリントメディア産業の従事者は、電子書籍について、従来の「書籍」が姿を変えたものだと考えがちだ。「電子書籍」という用語が、そもそもの誤解の元なのだが、この見方は間違いとは言わないまでも、今起きている現象の、ごく一部しか捉えていない。少なくとも電子書籍(ebook)を従来の本とは別のものとみなす考え方が、世界的にも広がりつつある(たとえば、こちらこちらこちら。日本において、この点をほとんど初めて指摘した秀逸な分析として、佐々木大輔『セルフパブリッシング狂時代』がある)。

電子書籍は、何よりもウェブコンテンツであり、ウェブテクノロジーなのである。このことは、日本でもアメリカでも過去、幾度も試みられた電子書籍の事業がすべて離陸に失敗したのに、AmazonのKindle(とその類似サービス)だけがなぜ成功できたのか? という疑問にも関わってくる。ここで詳細に立ち入ることはできないが、Kindleのサービスが、さまざまな面においてウェブの技術と発想の正統進化の上に成り立っていることを指摘しておこう。電子書籍は、あらゆるものがウェブに飲み込まれていく(Web of Things, or WoT)現象の、一つの表れにすぎない。

だから、「本を電子化する」とか「電子化が進む/遅れる」という形で電子書籍を捉えるのは、完全な間違いとはいわないまでも、視野狭窄で、一方的な見方なのだ。出版産業という洞窟の外側に出てみれば、出版だけでなく、すべての産業がウェブ技術の影響を受けて変容している様が見て取れる。この観点にたてば、電子書籍が、やや誇張していえば、「書籍という擬態をまとったウェブコンテンツ」であることがわかるだろう。

「(本の)電子化」ではなく、「(ウェブの)書籍化」なのだ。だから電子書籍が普及したからといって、紙の本がなくなるわけがないし、メルマガやブログをはじめ、これまで「本」と思われていなかった形態や、今もキンドルやコボで毎日のようにリリースされる自己出版本に見られるような、それまで「本」と考えられていなかったような内容のコンテンツが、どんどん「本」になっていく。そしてこれまで「本」を書こうとも思わなかった筆者がどんどん「本」を書き出す。そうした現象こそが、「電子書籍」なのである。

第二の限界は、書籍(出版)の本質についてのものだ。多くの論者が、既存の「出版」のあり方を前提に、電子書籍によって「出版」が決定的な変化を強制されている、と述べる。「滅亡」とまではいわなくとも、「衰退」を運命づけられていると主張する批評家は少なくない。

「既存の出版」も歴史は短い

しかし、彼らが前提としている「既存の出版」(とみなされている)制度のうち、少なくない部分が、たかだか数十年、長くとも百年くらいの歴史しか持っていないことに、もっと注意が向けられてもよい。

現在の出版のあり方を特徴づける、価格、造本、印税、組版、校正、編集、流通などに関わる慣習……これらはすべて、現今の「本」の作られ方、売られ方を支える重要な制度であるが、ルーツをたどると、一般に考えられている以上に最近のものであり、合理的な計算というよりも、歴史的偶然の集積によって成立・変化してきたことが、諸研究からわかっている。

そもそも、アイデアを言葉(記号)にして伝える、出版という行為は、人類の文明と同時に始まったものだ。タブレット(スレート)=石板は、最初期のメディアでもある。

人類史のスケールから見れば、グーテンベルク革命以後の数百年ですら、歴史のほんの一部でしかない。それだけの長さを、「出版」という営為は、そのときどきの技術的条件に適応しながら生き残ってきた。「出版」ほど大きな変化を経験してきた文化的行為は、他にそうはない。

いわゆる「電子化」によってまるで「出版」が滅びてしまうかのように言い募るのは、歴史的経緯を踏まえない、浅薄な議論というほかない。それが「グーテンベルク以来の革命」などと、一見高邁な文明論の形をとると、わかりやすいだけに問題だ。

ましてや、一部の論調に見られたように、現在の出版に関わる制度を、まるごと日本固有の「文化」とみなし、海外ビジネスからの侵略から守らなければならない、と主張するに至っては、その前提からして間違っていることは明らかであろう。今ある制度は、さほど古いものでもないし、その時々の様々な事情によって形成されたもので、すべてが合理的というわけでもない。「文化」を名目に排外主義を煽り、海外の優れた技術やサービスに扉を閉ざすことが常態化すれば、この国は幕末の攘夷運動の時代に逆戻りするほかない。

ちなみに、これと関連して、国際的に電子書籍サービスを提供している海外企業が、十分な税金を収めていないことを執拗に批判する向きもあった。多(超)国籍企業の合法・非合法の税金逃れ(tax avoidance)は、少なくとも1970年代から問題になっており、新しい問題ではない。実体のない電子コンテンツが、国境を超えたECで取り引きされるようになって、単に目立つようになっただけである。

そうした取引への課税のあり方については、海外でも日本でも対応策の検討が進んでいる(これは「課税の腐食(tax erosion)」と呼ばれる、より広範な問題の一部であり、国際政治経済学=IPEと呼ばれる学問分野の主要な関心事の一つであった。この点を取り上げた著名な書籍としては、スーザン・ストレンジ『国家の退場』が挙げられる)。またこうした批判が、楽天によるカナダの「コボ」買収により、急に沈静化したように見えるのは、特定企業をターゲットとした単なる排外主義が、少なくとも動機の一部を構成していたのではないか、という疑いを強めることとなった。

「出版」の本質は電子書籍でも変わらない

この数十年の「出版」のあり方を、「出版」の将来に関わる議論全体に外挿する考え方は、既存出版産業の売上高の減少を元に「文字離れ」を論じたり、ネット配信の普及で衰微した(とされている)音楽産業の経験を元に、出版の先行きを憂いたりする思考とも、その発想の貧困ぶりにおいて共通している。

前者については、メディアサイト、ブログ、SNSを通じて、ネット上でパブリッシュされ、読まれる文字情報量が、爆発的に増えている(「文字離れ」どころか「文字まみれ」)ことを見逃しているし、後者については、「複製産業」でしかないCD産業の縮小を「音楽」の縮小と誤認している。アイデアを文字の形として記述し編集し発表する「出版」が単なる「複製産業」と同一視できないことはいうまでもない。

このように、ここ数年の日本のメディアは、「電子書籍元年」というかけ声のもと、必ずしも生産的とはいえない議論を繰り返してきた。このことは、出版産業の部外者の、少なくともある部分に対して、出版やその関連業界が既得権益を守るためのポジショントークを展開している、という印象を与えてきたことは否めない。大手出版社を中心として、新刊が中心ではあるが、一定数の電子書籍を定期的にリリースするようになった今でさえも、「出版業界は電子書籍に慎重」といった、実態からすれば誤った見方が一部に見られるのは、こうした事情によるものと考えられる。

(1)電子書籍はウェブの一種であり、ウェブ技術が書籍という概念を拡張するムーブメントである、(2)それにも関わらず、「出版」の本質は太古の昔から変わっておらず、今までと同様、新しい環境・技術に対応できるし、現にそうしつつある――このような考えは、特に目新しいものでも、意外なものでもない。実際に電子書籍の制作に日々携わっている方々の間では、公にはしないまでも、漠然とした発想のベースといった形で共有されていると、少なくとも筆者は感じる。

特に、電子書籍の普及をにらんで、電子書籍や書籍に関連するサービスに新たに参入してきた企業や個人の間では、共通理解だと考えても間違いではないだろう。そこに可能性があり、商機があると考えたからこそ飛び込んできたわけであるから、肯定的な見方をするのは当然ではあるのだが。

ところがこれまで、こうした層の考えを代弁する議論や書籍は、見つけるのが難しかった。電子書籍はウェブと出版の二つの領域にまたがっており、日本ではこれまで、この二つの領域が、産業としては別の宇宙を形成していたことが一因だろう。出版からウェブ(あるいは電子書籍)へ、という人材移動はあっても、その逆はあまりないことも、実態を踏まえない議論が目立つ原因となったに違いない。

新時代の幕開けを告げる、実践者のための教科書

しかし、それもこれも、もう終わりだ。『マニフェスト 本の未来』という本が刊行されたからである。本書は、米国の電子書籍の世界で、さまざまな実験を積み重ねてきた第一人者が、その経験と、それに基づく洞察を共有してくれる稀有な本だ。

特に、「ウェブから見た」電子書籍のあるべき姿について詳細に論じられているのは、本書を類書と分かつ重要なポイントだ。

私がこれまで長々しく説明してきたことを、編者の一人であるヒュー・マクガイアは一言でいう。

「インターネット」と「本」の区別は完全に恣意的なものであり、5年以内に区別は消滅する。速攻調整開始すべき。

この視点は、濃淡や多少のずれはあれ、寄稿者の多くに共有されている。マグワイアがコンテンツへのアクセスなど、ウェブではあたりまえに実現されている機能の重要性を強調した第8章や、コンテンツやコンテナではなく、コンテンツが享受される環境(コンテクスト)に注目した第1章、電子書籍ならではの経験に着目した第3章、創造、発表、共有など、一冊の本ができるまでのプロセスの変容を論じた第7章など、見どころは数え切れない。

ここに挙げた以外にも、電子書籍が及ぼす多様なインパクトが広範にカバーされており、興味がある人はもちろん、特に関心がない普通の「本好き」にも、教えられるところが大きい本である。というより本の将来に関心を持つ者であれば、一度ページを開いてみれば、読み通さずにはいられない魅力がある。

電子書籍に可能性を見出し、その発展に寄与しようと願う者にとっては、またとない援軍となるだろう。

本書の日本語版刊行で、日本の電子書籍に関する議論は、はっきりと次のフェイズに入ったといえる。

それを目撃して前に進むか、無視して旧弊な思考に閉じこもるか、選択はあなたに委ねられている。

執筆者紹介

林 智彦
1968年生まれ。1993年、朝日新聞社入社。「週刊朝日」「論座」「朝日新書」編集部、書籍編集部などで記者・編集者として活動。この間、日本の出版社では初のウェブサイトの立ち上げや CD-ROMの製作などを経験する。2009年からデジタル部門へ。2010年7月~2012年6月、電子書籍配信事業会社・ブックリスタ取締役。現在は、ストリーミング型電子書籍「WEB新書」と、マイクロコンテンツ「朝日新聞デジタルSELECT」の編成・企画に携わる一方、日本電子出版協会(JEPA)、電子出版制作・流通協議会 (AEBS)などで講演活動を行う。