文化庁eBooksプロジェクトは何を残したか

2013年4月9日
posted by 持田 泰

文化庁は3月7日、今年の2月1日から3月3日にかけての期間限定で実施された「文化庁eBooksプロジェクト」で配信された電子書籍のダウンロード数を発表した。同プロジェクトは「国立国会図書館デジタル化資料」のうち13作を「電子書籍」としてリパッケージし、電子書籍ストアを介して一般ユーザーに配信するという本邦初の実証実験だった。

この報告書によると、実証実験におけるダウンロード数上位作品は以下のとおりである(詳報はこちらを参照:「文化庁eBooksプロジェクト」について)。

 第1位 酒井潔『エロエロ草紙』(11,749 ダウンロード)
 第2位 芥川龍之介『羅生門』(10,136 ダウンロード)
 第3位 『平治物語(絵巻)』(8,389ダウンロード)

配信が第1回(2月1日〜)と第2回(2月8日〜)に分かれたため、上位を占めたのはすべて第1回配信分となったが、第2回配信作品だけでみると、第1位は柳田國男『遠野物語』(6,766ダウンロード)、第2位が宮澤賢治『春と修羅』(5,715ダウンロード)、第3位が宮澤賢治『四又の百合:宮澤賢治童話集』(5,118ダウンロード)だった。

総ダウンロード数は92,517。1ヶ月限定であり、紀伊國屋書店BookWebのみで配信されたにしては堂々たるものであり、デジタル・アーカイブスへの関心とその可能性をあらためて示したといえるだろう。

ダウンロード数で一位となった酒井潔『エロエロ草紙』の一部。画像データは国立国会図書館「近代デジタルライブラリー」所蔵のものだが、今回の実証実験では紀伊國屋書店Kinoppyでの閲覧となったため、両端にちらりとカバーの模様が見える。

『平治物語絵巻』は左右に巻物のようにスクロールして読めるようになっていた。

本題に入る前に、私たちが行なっている「変電社」という活動の紹介をさせていただきたい。変電社は2012年末に唐突に設立された、電子書籍の「読者」団体である。そのモットーは「変な電子書籍を読んでみようや」。一般流通にのる電子書籍だけではなく、さまざまな意味で「変な」電子書籍を再発見し、読んで、驚いて、紹介しあい、新たな光を当てて愉しんでいこうという結社で、3月末現在で25名が「社中」として活動中である。

私たちが「変な電子書籍」の宝庫として真っ先に目をつけたのは、データ総数240万冊を誇る「国立国会図書館デジタル化資料」だった。この膨大なデジタル・アーカイブスの海に潜り込み、忘れられた「お宝」をサルベージすることが、変電社のおもな活動の一つなのである。

ちょうどそんな折、この「文化庁eBooksプロジェクト」が始まった。そこで同プロジェクトの担当窓口である野村総合研究所上級コンサルタントの小林慎太郎氏を取材したのが、以下のインタビューである。取材メンバーは私(持田)のほか、電子雑誌『トルタル』編集長の古田靖さんにも加わっていただいた。

「文化庁eBooksプロジェクト」がめざしたこと

――まず、今回の「文化庁eBooksプロジェクト」が立ち上がった経緯を教えてください

小林 そもそものきっかけは、平成23年(2011年に行われた総務省・経済産業省・文化庁の三省が呼びかけた懇談会(デジタル・ネットワーク社会における出版物の利活用の推進に関する懇談会)です。同年 12 月までにある程度の結論を得て、「電子書籍の流通と利用の円滑化に関する検討会議」の報告書をまとめました。そこでは国立国会図書館デジタル化資料」を活用した新たなビジネスモデルの開発が必要とされ、「事業化に意欲のある関係者による有償配信サービスの限定的、実験的な事業の実施なども検討する」ということで、平成24年(2012年)の単年度予算でこのプロジェクトを進めることになりました。

このプロジェクトが具体的に始まったのは平成24年9月で、まずはコンテンツを選定し、それらの権利処理をするところからはじまりました。最終的に今年2〜3月に約1ヵ月をかけて紀伊國屋書店BookWebの電子書籍ストアで実際に配信を行い、利用者に評価をしてもらいました。その実証実験も3月3日に完了し、報告書にまとめて出していく、という流れになります。

――公開するコンテンツの選定は、どのようにして行ったのでしょう?

小林 国立国会図書館にはデジタル化資料が約240万冊ありますが、その中で「書籍」と呼べるものは100万点です。それらのこれまでのウェブでのアクセス数や、今回は国立国会図書館から館内でのアクセス数も特別にご提供いただき、それらの数値を参考にして選書を行いました。

あわせて図書館や東京の古書組合の方、青空文庫の関係者の方などにヒアリングを行い、今回の実証実験にはどのようなタイトルが望ましいかについてのアドバイスも受けました。それらを参考に、まず約100点程度のリストを作り、そのうちで権利処理ができたもののうち、配信に相応しい10点程度を選定する、という流れのなかで最終的に今回の13点に決まりました。

――ヒアリング先に古書組合が混ざっているのが面白いですね。

小林 今回の実証実験で利用した「国会図書館デジタル化資料」は、1968年までに出版されたものにかぎられています。また「近代デジタルライブラリー」としてすでに館外にネット公開しているものは、戦前の出版物でほぼ占められています。こうした制約のなかで、価値ある本はどのあたりなのかを知るため、そうしたことに詳しい方にヒアリング調査を行う必要がありました。対象が対象なだけに、ビジネスモデルのありかたを柔軟に考えた場合、電子書籍そのものの「販売」だけでなく、今回のようなデジタル化資料を呼び水にして、古書販売への導線としても利用できるのではないかと考えました。

私も当初は知らなかったのですが、現在でも『解体新書』などが、古書で普通に売買されているんですね(笑)。もちろん、価格は保存状態により数十万~数百万円になりますが。そういった歴史的価値のある貴重な古書は実際に手に取ることが難しい。そこで「立ち読み版」としてまずデジタルで読んでもらい、手元に置いておきたいものは購入していただく。そうすれば古書店のビジネスを邪魔することもなく、逆にそのような稀覯書の存在を世に知らしめる、いい契機になると考えました。

――今回の結果をみて、どのような感想をお持ちですか?

小林 第2回配信の中で、柳田國男の『遠野物語』(右図)のダウンロード数が多いんですよ。今回公開したのは、柳田が最初に限定350部で自費出版した初版本の一冊です。だからちゃんと、「三百五十部ノ内第五二號」って表紙に書いてあります。宮澤賢治の『春と修羅』も、限定1000部で自費出版された初版本ですね。このあたりのダウンロードが多いのは、正直、やや意外でした。もちろん、『エロエロ草紙』がいちばんダウンロードされていますが(笑)

――『エロエロ草紙』はタイトルのインパクトが強いので、ネット上で話題が一人歩きしてしまった感がありますが、著者の酒井潔は戦前の出版人としてマニアックな本を出版した方ですよね。発禁処分を受けてない他の作品などは、コレクターの間では高値で取引されているものもありますね。

小林 このプロジェクトを進めるにあたって、出版社や書店の現場の人からは、「本は野菜と同じで鮮度が命だ」というようなことも言われました。でも実際に配信してみると、やはり「古典」への需要があるのだと確信しました。「旬のモノ」から「古典」まで、幅広くロングテールの需要があるのが、本の本来の特性のはずです。今回のプロジェクトを通して、そのあたりにも電子書籍のマーケットがあることが見えてきました。

――単年プロジェクトで終わらせるのはもったいないので、ぜひなんらかのかたちで継続できるといいですね。

小林 実験は単年度で終了するので、残念ながら今回の実証実験の継続はありえませんが、仮に次回があるとしたら、こんどは有償配信実験まで進めたいと思います。今回も、実証実験まではいかなかったのですが、実際にタブレットやスマートフォンで今回のコンテンツを読んでもらい、そのインプレッションから価格感を測る会場調査もしています。報告書ではその結果も出していきます。

――それは楽しみですね。今回提供された電子書籍は、単なる「スキャン・データ」ではなく、かなり読みやすいかたちにリパッケージされていました。「売り物」にしても遜色はなかったと思います。

小林 今回の電子書籍は、国立国会図書館のウェブサイトからダウンロードしたPDFをもとに制作したのではなく、オリジナルデータの高解像度JPEGから制作しています。制作の過程でご協力いただいた大日本印刷さんが画像のクオリティに強いこだわりをもってくださったので、相当に奇麗なかたちで公開できたと思っています。とくに『平治物語絵巻』には、絵巻をつなげるところなどに、かなりの時間と手間がかかっています。

――今後の商品性や市場性を考える上でもクオリティの担保は必要ですね。ただし採算性も考えないといけないので、いずれは有料配信での実証実験も必要となると思います。

小林 実は国立国会図書館ではスキャニング・データを保存してはいるものの、その2次利用のためのルールはまだ明確には決まっていないのです。今回は、そのために有料配信が出来なかったという事情もあります。

「オーファン(孤児)作品」の取り扱いについて

――「国立国会図書館デジタル化資料」で扱われている出版物のデータには、著作権のステイタスによる公開範囲の設定で、大きく分けて三種類がありますよね。ひとつが「インターネット公開(保護期間満了)」、つまり著作権保護期間が切れてパブリック・ドメインにある作品。もうひとつは「著作権者許諾」。つまりウェブでの公開にかんして著作者の許諾済みの作品です。

問題はこのどちらでもない、「インターネット公開(裁定)」とクレジットされている作品です。これは著作権法第67条第1項により、文化庁長官の裁定を受けて公開されている、いわゆる「オーファン」(権利者不明の孤児作品)と呼ばれるものです。じつは私たち変電社では、国立国会図書館のコンテンツを中心に紹介を開始しているのですが、そのつど国立国会図書館に利用許諾を取って進めています。その際、「オーファン」については表紙画像のサムネイル利用にも許諾が下りません。

小林 オーファンに関しては、一度裁定を受けた作品であっても、定期的に文化庁の裁定が必要です。国会図書館も定期的に裁定を受けています。現状では、文化庁長官の裁定をもらうまでにも相当な労力が必要です。その作品の著者が住んでいた自治体の図書館への問い合わせ、あるいは著者が学者であれば、所属していた学会への問い合わせなどの外部照会を、国会図書館は実施しています。

それらの手段を尽くしても著作権者(継承者)が見つからなかった場合に、「クリック(公益社団法人著作権情報センター)」の「権利者を探しています」ページで一ヶ月間掲示するといった公開調査を実施して、ようやく裁定が降りるというフローになっている。文化庁裁定を受けた作品でも、ごくまれに権利者が出てくることがあり、その場合の補償については文化庁側が対応することになっています。

公益社団法人著作権情報センターの「権利者を探しています」ページ。

――金銭的に補償するためのお金がプールしてあり、その支払いルールまで規定されていることですね。デジタル・アーカイブスの利用が進み、「オーファン」作品が表に出てくれば出てくるほど、著作権継承者が名乗り上げてくる可能性がふえると思いますが、この問題に関しても、今回の実証実験の報告書で何か提示されていますか?

小林 オーファンには特定していませんが、権利処理の効率化の仕組みの必要性についてとりまとめる予定です。今回は「文化庁ebooksプロジェクト」という官庁主導のプロジェクトでしたが、今後は民間企業にも参考にしていただけるよう、実際にどういうビジネスモデルが考えられるかについても示唆しています。

――今回の実証実験を振り返って、いちばんのポイントはどこだとお考えですか。

小林 今回の実験の成功要因としては、大量のデータ群の中から「面白いもの」を選定するキュレーションや、それを商品として再加工するリパッケージの部分が、もっとも重要だったと思います。それぞれのコンテンツの紹介文は、文化庁の方が書いているんですよ。たとえば『遠野物語』一つを語るにしても、彼らは本当にいろいろなことをよくご存知で、紹介文にはその熱い思いが凝縮されているんです。

――電子書籍として配信したコンテンツが、実際に古書相場でどうなったのかの追跡調査もしたら面白そうです。

小林 ええ、たとえば『遠野物語』がそうですが、今回配信したなかには、実際に古書のマーケットで売られている本もありますから、それらの古書価の変動や実際の販売状況も調べていきたいです。

――地方の古書店の人が、今回の配信コンテンツと同じ本を、「この本はうちでも取り扱っています」とTwitterでボソっと呟いていました(笑)。これを契機に古書が売れたり、古書店に足を運ぶ人がいたら面白いですよね。

小林 そんな事例がありましたか(笑)。そういう反応はとても嬉しいですね。

取材を終えて

この取材を終えた後、アップルが3月6日にiBookstoreを日本でもオープンした。国内、国外の主なプレイヤーが出揃い、「電子書籍元年」騒動の総括がなされるべき時期にきている。そのタイミングで行われた「文化庁eBooksプロジェクト」は、デジタル・アーカイブスのなかにある「古書」が、「電子書籍」としてはいまだ手つかずの領域であることを教えてくれた。そこに光を差すことができたという点で、今回のプロジェクトはきわめて意義深いものだったと思う。

「電子書籍」は現在のようなサービス提供者主導のものだけでなく、「読者=ユーザー」主導の胸躍る好奇心の追求の場、あるいは古書のリパッケージという新たなパブリッシング・モデルの創出など、さまざまな可能性を秘めている。もちろん、そのプロセスにどれだけの艱難が待っているかも、今回の実証実験では明確になったはずだ。

しかし、一定の手順を踏みさえすれば、膨大なデジタル・アーカイブスの宝の山の中から、自分が探し出したコンテンツを復刊することで誰もがデジタル・パブリッシャーになれる――この可能性はとても大きなものだ。私たち変電社も、こうした復刊によるパブリッシングの実験をしていく予定である。

■関連記事
揺れる東京でダーントンのグーグル批判を読む
ブリュースター・ケール氏に聞く本の未来
東京古書組合90周年記念シンポジウムを企画して

在野研究の仕方――「しか(た)ない」?

2013年4月3日
posted by 荒木優太

在野研究者を名乗り始めてから二年が過ぎた。「在野」というのは大学機関に属していないというくらいの意味合いであるが、大学院博士前期課程(修士課程)を修了以後、私は近代文学を専門とする自分の研究成果はweb上、つまり電子書籍販売サイト「パブー」(図版上)やインディペンデント批評サイト「En-Soph」(図版下)で全て公開してきた。

このことを人に説明すると決まっていつも「どうして大学に所属しないんですか?」と尋ねられる。実のところ、私はずっとその問いに答えあぐねていた。自分自身にとってその一連の行為が不自然とは感じられなかったから、そして、どうして自分が不自然と感じられないのかについて言語化することができなかったからだ。しかし、今回、二年間の研究成果を一冊の本としてまとめるなかで、自らを振り返り、それに付随して次第に在野で生きようと思った過去の自分を昔よりもずっと客観視できるように思えてきた。それはもちろん、自身の成長を意味しているのではないだろうけれども、「ああ、こう言えばよいのだ」と、頭にかかっていた靄がとれたような気分になった。

教師になる「しかない」?

ことあるごとに、或る言葉が思い返される。「研究者になりたいのなら教師になるしかない」。院生時代に指導担当になっていた大学教授の言葉だ。彼と面談するとき、私は必ずといっていいほどその言葉をかけられた。教師になりたいという欲望を一度としてもったことのない私はいつもその言葉に辟易していた。漱石や有島や福永を私は愛していたが、教師を愛することは一度もなかった。文学が好きであることと教師になりたいという欲望は私のなかで自然な結びつきをもっていなかった。そのような人間に「しかない」という理由で教職を勧めることに、違和感しか感じなかったのだ。

一見その言葉には、「社会人」(実質的には会社員を意味している言葉)に対する謙虚な気持ちがあるようにみえる。年齢を重ね、プライドばかり高くなった大学院生を一般企業が雇うはずがない。だから、君がまともな研究者でいるには、そもそもまともな人間でいるのは教師になるしかないのだ、という訳だ。しかしここには二方向への冒涜がある。第一に、教職とは一般企業に入れないような「社会」的ではない人員の受け皿に過ぎず、そういう不適合者は教師にでもなっておけばいいという、教員一般についての冒涜。第二に、研究者とは学校でものを教える仕事をしている者を当然指し、その外で知的な活動をしているものは単なる趣味人でしかないという在野研究者についての冒涜だ。

「しかない」という理由で教師になりたりたくもない者に教職を勧めることの圧倒的な理不尽さに絶望したことは忘れがたい。私が教員にでもなったら、全国の教員はもちろん、全国の学生、全国の学生の親に申し訳が立たない。私は責任感の全くない男であるが、しかし私は私が無責任な男であることだけは誰よりも責任を負うことができる。そう思って在野で文学を研究することを決めた。

教授を非難したいのではない。そんなことをしても何も始まらない。実際に、彼が好人物であることを私は疑わない。重要なことは、彼が言っていたことが事実であったとして、或いはそれが確率的な正しさをもっていたとして、何故それを粛々とまるで運命が定めたかのように受け止めねばならないのか、ということだ。物理法則でもない社会的事実や傾向性に対して、どうして「しかない」と言い、それを信じ、それを伝えねばならないのか。何故、その事実を変えていく方途を探さないのか、探そうと試みないのか。

断っておけば、私はポスドク問題にもアカハラ問題にも一切関心がない。大学の制度や機構が今後どうなるかについてもまったくといっていいほど興味がない。なるようになればよいと思う。ただ、一つだけ、私にとって大事なことがあるとすれば、どうやったら人は「しかない」と言わないで生きていけるのか、という素朴な、しかし根本的な疑問だけだ。

電子の本から紙の本へ

最近、研究成果である『小林多喜二と埴谷雄高』(ブイツーソリューション、2013年2月)を出版することになった(下の図版はカバーデザインの一部)。この本は2011年6月から2012年11月まで電子書籍販売サイト「パブー」で発表していた近代文学の諸論考に、細部を書き加えながら通読に耐えるよう再編集したもので、最終的にはほとんど書き下ろしといっていいものに仕上がった。

この本は完全なる自費出版によって生まれた書物だ。「完全なる」という形容詞は決して言い過ぎではない。出版社のブイツーソリューション様にお願いしたのは基本的に本の印刷とAmazonでの販売手続きだけで、あとの執筆、校正、装丁、データ入稿を含んだ編集作業は全て自分でまかなった。そのために、市販されている文庫に比べて不細工なところがないではないが、ISBNを獲得し、印刷部数150部で請求金額は税込25万8025円に抑えることができた。

この数字を高いと見るか低いと見るかは人それぞれだろう。私の知人周辺の反応を鑑みれば、その多くは「高い」と感じていたように思う。しかし「自費出版」という言葉には、一昔前ならば一生を賭けた博打的な金額のイメージがつきまとっていたことを忘れてしまうのはフェアではない。今日の技術力では、このくらいの値段で自分の本が作れ、少部数ではあるが、ネット上でそれが販売できるという事実は強調されていい。

上記の額は、半年大学院に通えば吹き飛んでしまう程度のものだ。博士号という権威を高い授業料の代わりに獲て、高価な専門書数千部を大学人や図書館への献本で消費するのか。或いは権威なしで勝手に自分の本を書き、少部数ながら出版し、様々な手段を使って研究成果を読者に届けていくのか。後者が良いと言いたいわけではない。ただ、一顧だにしないような選択肢ではない、とはいえるのではないだろうか。少なくとも教授になりたいというよりは研究がしたいと考えていた私にとっては後者の手段の方がずっと魅力的に見えたのだ。

元手のいらない電子の本から20万ほどかかる紙の本へと出版を促させたのは、もちろん自分の仕事に一つの区切りをいれるためというのもあるが、もう一つにはpdfとe-pub形式(今ではKindleにも対応している)を用意していた「パブー」の電子本があまりに売れなかったことがある。私の場合、多喜二と埴谷それぞれ一つ課金(150円)した原稿用紙50枚程の論文を設定したが、どちらもほとんど売れなかった。多喜二のものは皆無で、埴谷のものは二回課金通知が来た。しかし、これは読者がいないということを意味するものではない。事実、twitterで宣伝しつつ無料公開していた他の論考は半年も放置しておけば30~40ほどダウンロードされ、twitterには時折、読んでくれた人の感想の便りが届いた。

30~40という数が説得的な数字には思えないかもしれない。しかしそれは間違いだ。日本近代文学の概説的というより専門的な論文の読書には、たとえ文体や表現を工夫したとしても、明らかに高い文脈性が求められてしまう。そもそも論点となっている作家のテクストを読んでいるというハードルに加え、しばしば大きな文学史や研究史の共有が前提とされてしまう。「大学紀要の読者は論文の書き手と査読者だけ」という昔から伝わる笑い話は、もちろんあまりに誇張した言い方だろうが、しかし、専門的な論文を読みこなすには複数の、しかも高度な条件があることは疑えない。

私の書くものに少数であれ興味をもってくれる人がいる、しかし電子本を買うことはない。そのような状況が紙の本の出版を後押しをした。少なくとも私個人にとっては、通常言われているのとは逆に、電子本のオルタナティブとして、今現在の状況では紙の本が要請されたのだ。

完全に無料で公開するという考え方もあっただろう。しかし私がそれを選ばなかったのは、研究が単なる個人の趣味でしかなく社会にとって何の役にも立たないという或る種の人々がもっている臆見に、金銭を介在させることで、ささやかではあるが抵抗したかったからだ。無料だから、単なる暇つぶしだから、研究が行われ、そしてその成果が受容されるのではない。いくらかの小銭を払って、何の権威もない在野研究者の書いたものを、或る一定時間を費やし読む人は決してゼロではないのだ、ということを可視的に証明すべきだと思ったのだ。それは私個人というよりは、現在いる、そして未来の有望な在野研究者たちへの激励にもなる。そのような積み重ねが「しかない」に対する最も着実な抵抗手段に思えた。

ほとんど無料(フリー)で研究成果をネット上で提供する。その代わりに、例えば図書館に通う際の電車賃ぐらいの、例えば資料のコピー代くらいの、例えば眠気覚ましに飲むコーヒー代くらいのお金を、読者の気が向いたときにいただくことはできないか。反省してみれば私にとって紙の本は、自分の活動を(ここが重要だが)「部分的に」応援してくれるフォーマットを整える、という意味があったように思われる。読み手が接近しやすい手段を選べるよう、選択肢を複数確保しておくべきだ、という考えが電子と紙を両立させた理由である。商売をしたいわけではない。しかし完全無給のボランティアでもない。その際の応援手段は電子本購入でも紙の本購入でも構わない。儲ける「しかない」のでもなく、ボランティア「しかない」のでもなく。その間には無限のグラデーションがある。電子の本と紙の本の両立はそのグラデーション内での細かい設定を可能にする。

小林多喜二と流通する言葉

小林多喜二は書物の体裁を保てていない弱々しいテクストを繰り返し描いている。『誰かに宛てた記録』で紹介されるのは、屋外に漂流していた名もなき少女の「手紙」だ。『蟹工船』(クリックで青空文庫にリンク、以下同)でストライキが起きたのは、船員が「コッソリ」船内に持ち込んだ「赤化宣伝」のパンフレットだった。『独房』では、囚人の「壁」の落書きが書いては消され消されては書くというプロセスが何度も繰り返される。『党生活者』での、党員の運動の本質は「ビラ」や「レポ」(レポート)の作成にあり、主人公は大事な文書を「トランク」に入れている。何れもが、文書を束ねておく製本技術や文書を雨風湿気から守り保存管理しておくライブラリーの恩恵を十分に得られず、しかも既存にある一般的な流通網を使用できない、何の権威もない非公式なテクストたちだ。

しかし、非公式なテクストだからこそもつことができる特別な流通性があるのではないか。例えば「壁小説」というプロレタリア文学の小説形態がある。それは文字通り、壁に全文が貼れるような短い小説を指すものだが、それが要求されてきたのは、貧困に苦しむ多くの労動者にとって文学に親しむ時間的余裕が十分にないという読書条件に由来している。

「一日の労働に疲れ果てた肉体をもう一度起して、この我々の戦旗のページをめくるのだ」

雑誌『戦旗』に引用されている文章作法を多喜二は肯定的に引用している(「プロレタリア文学の新しい文章に就いて」)。逆にいえば、テクストの長短や漢字の使用率、配置場所などを調整工夫することで、一見労働「しかない」状況にさえ文学を密入することができる。誰かが書いた『独房』の消えやすい落書きは、しかしだからこそ監視の眼を潜り抜け、孤独な囚人の心を癒すことができる。製本されていないからこそ、『蟹工船』のパンフレットは過酷な海上の労働世界とは別の世界の夢を労動者に与える。

多喜二は「しかない」に抗い続けた作家だ。プロレタリア文学は決してプロの(職業家の)文学ではない。それ故、当時から芸術的価値に対して疑問が付されてきた。しかし、そもそもプロ=職業家は様々な無能を抱えている。多喜二は評論「プロレタリア・レアリズムと形式」の中で「職業的になった」プロレタリア作家=「芸術のスペシャリスト」は各地の労動者の現状から遠ざかり現実を把握できなくなってしまった「コブ」であり、彼らは「停滞化」していると批判している。プロレタリア文学でなくとも、例えば締切り、金銭、共同体で取り決めれた体裁などによってその無能を現代に置き換えることはできるだろう。

それら全てが無意味だといいたい訳ではない。そうでなく、注目すべきなのはそのような拘束によってできない仕事を代替的に別の職業に就くアマチュアが行い共立的に状況を前進させる可能性、そしてそれ以上にアマだからこそ可能な仕方の可能性である。

私は本を書きながら自分が一人のプロレタリア作家になったような錯覚を覚えた。それは電子も紙も手段を選ばずアクセシビリティ(接近可能性)を高めようとする自分の方法と、多喜二のプロレタリア文学観とが重ね合わさったように感じたからだ。本は専門書らしからぬ文庫の形にした。それは多喜二が自分の小説を通勤時間で読めてしまうような「電車小説」と自称していたことを考えていたからだ(「四つの関心」)。書物の形態が、読書と読者の有り様を事前に決定してしまうことがある。高価で分厚く重い専門書の読書を支えるには、高いリテラシーと読書に割ける一定の暇と腰が痛くならない椅子が必要だ。しかし、それを手に入れられない者たちには研究にアクセスする資格がないのだろうか。私は断じて否だと思う。通勤しながら、労働しながら、夜風呂に入りながら、それでも可能な研究の形が存在しないと、一体誰が決めたのだろうか。

いうべきことを端的に要約しておこう。「しかない」論者には「しかたない」という根本的な感情があるかもしれない。しかし今日、様々な「仕方」は存在する。もちろん、そのすべてが意に適うような有効なものだと言う気はない。しかし「しか(た)ない」という言葉はトライ&エラーを繰り返した後の呑み屋の愚痴までとっておいても遅くないのではないか。全てをこなすことはできないのかもしれない。しかし、自分の能力、割けうる時間、願望するもの、個々人で異なるその細かなオーダーに応じて、自分が望む世界のために自分ができることは、少しずつだが確実に増えている。

出版未来派のデジタル革命宣言

2013年4月2日
posted by 鎌田博樹

「本の未来」について、この数年さまざまに語られている。いやコンピュータが登場して数十年、語られ続けてきた。うんざりだろう。しかし、幸いにも本書は「本の未来」を語ったものではない。著者たちは実践的立場からこの「未来」に関わってきており、本書は、出版という場で「未来」を現在として創ってきたテクノロジストのマニフェストだからだ。多くはE-Book2.0 Magazineでおなじみの顔ぶれだ。ということで、情報は非常に豊富で、筆者にとっては斜め読みにするわけにはいかない。(ヒュー・マクガイア、ブライアン・オレアリ編著『マニフェスト-本の未来』、ボイジャー刊、2013年2月)

未来とは予測ではなく実践である

ひと通り紹介をしておこう。本書(原著は2012年1月)はデジタル出版ビジネスの第一線で活躍するヒュー・マクガイア(写真左)、ブライアン・オレアリ(右)の両氏が、その最前線で様々な課題に取り組んでいる人々による、トピック別エッセイを集めて構成したアンソロジーの体裁になっている。デジタル比率がほぼ25%を超えた米国の出版界で何が起きているかを、現実的課題に取り組む当事者から聞く機会として貴重なものである。TOCやDigital Book Worldなど、イベントはそうした機会なのだが、これだけの話を数日間で聞くのは不可能であり、本書は3,000円近いがコスト・パフォーマンスは高い。これまで「本の未来」について語った本とはまったく異質であり、実務的で情報量は非常に多い。使える本だ。欲を言えば、もう少し前に出ていたらよかった。

原題が「未来派による宣言 (Book: A Futurist’s Manifesto)」とあるように、本書は一定の傾向を反映していることにまず注意したい。DRMとかメタデータ、読書体験、といったテーマを様々な立場の人が論じた27本の小論(各10ページ前後)は3部に構成され、Part 1.は現在のアプローチ、Part 2.で次のステップを論じ、Part 3.で最先端プロジェクトを述べる。合計330ページだが、それぞれ無駄なく要所を押さえている。2012年は(米国では)デジタル出版が第2ラウンドに向かう転換点として位置づけられており、本書の著者たちの認識やアプローチは「デジタル出版革命」の記録としても価値が高い。これからデジタル出版に取組まれる方には必読書と言えるだろう。

グーテンベルク時代の本と出版をデフォルトとしている人には、何か違和感が感じられるかもしれない。その違和感は重要な意味を持っている。ここで語られているのは同じ「本」ではない。未来派の「本」がどのようなものかは、冒頭のブライアン・オレアリの「コンテナではなく、コンテキスト」に端的に述べられている。ひと言でいえば、本を「システム」、出版を「プロジェクト」として考えるということだ。そこではプロダクトよりプロセスが重視される。つまり彼らはテクノロジストあるいはエンジニアである。商品である「本」を神秘化するフェチシズムや、ゲートキーパーを気取るスノビズム、あるいは「良い仕事」だけを心掛けるクラフツマンシップといったものからは遠いところにいる。

出版とはプロセスであり工学的に設計、最適化される

未来派は工学的な発想をするが、出版の技術的側面だけを扱うのではない。出版そのものを技術的・工学的プロセスで考えるのだ。日本では、出版は作家に近いところにいる「文系」の世界と考えられているので、これにはなじめなくても仕方がない。しかし、本をシステム(機能と構造)として考える未来派は、すでに世界の大出版社の戦略をリードする存在になっている。出版とはプロセスであり、刊行後がより重要であるというコンセプトは、Webを前提として機能するものだが、マーケティングにおいて結果を出しており、顔をそむけていられる時間は日本でもそうない。

上の図を見ていただきたい(クリックで拡大)。図は「コンテンツのXMLへの対応度」をマトリクスにしたもの。本書では図1-1にあり、いわば未来へのマップだ。縦軸がコンテンツの複雑さ、横軸が再利用の頻度となっているが、高いものほどXMLの有効性が高く、技術的サービスの付加価値が高い。「誰が、いつ、何の目的で、どんな形で…」必要としたいか、というコンテクストはXMLで扱うことができるから、そのぶん情報サービスに(つまりWeb)近くなると言えるだろう。現実のE-Book市場は、左下の、データ構造が単純な小説などから動き始めた。ここではマーケティング(消費者)のコンテクストを握っているアマゾンなどが圧倒的な優位を占める。しかし、コンテンツ自体が複雑になって行けば、データ構造は著者・編集者・プログラマーの手に委ねられる(その気があればだが)。出版者はそれによって読者、ユーザーと深く結びつくことができるので、アマゾンの優位も相対化することができる。

原著の出版社のオライリーなどはE-Bookを直販しているが、コンテンツの構造を深化させるビジョンを描いている。他方でGoogleなどは、コンテクスト(メタデータ)を出版社から吸収し、マネタイズするプラットフォームを構築して対応している。Zagatを買ったり、旅行ガイドのFrommer’sを買収して紙の出版をあっさり“廃止”したのはそのためだ。本書はこのように、現実のデジタル出版市場で起きていることの背景を知るのに使える。

本と出版は、その時代のテクノロジー(情報技術、産業技術)の集積であり、それは記録手段が粘土板やパピルスであった時代からそうである。グーテンベルクは活版印刷を発明したのではなく、金属活字やインクといった技術を「使える」ものとするために心血を注いだ。しかし15世紀に彼の制作した活字本は写本のレプリカであり、今日の人々がまず考える「紙の本」のスタイルが確立するにはなお半世紀あまりを要した。それは宣教師たちによって日本にも伝来したが、定着しなかったのは、それを展開させる技術的、産業的土台がなく、また人々が「読む」うえで不可欠と考えた連綿体(続け字)を扱えず、木版のほうに合理性があったためである。技術を継続・発展が可能な形で定着させるのは簡単ではない。テクノロジーは種子にすぎず、人々がそれぞれの場で再創造しなければ実現しない。

「日進月歩」とか言われるデジタル時代においても、それは何も変わらない。本書の著者たちや発行者・ボイジャーの萩野さん、それに筆者も「本の未来」は20年以上前に体験していた。しかしそれらは出版の現実とはならなかった。それは技術であり、ビジネスになるためにはインターネットなどの環境の成熟を待つしかなかった。いや待っていたら何も起きない。実践家たちは、前進と後退を何度も繰り返した。完成した文字組版、対話型インタフェース、動的コンテンツ、知識ベースなどの技術は、プラットフォームがデスクトップからLANに、そしてインターネットに移行するたびに、何度も組み立て直さなければならなかった。ビジネスモデルは錯綜し、ビジネスは遠ざかった。

結局それはアマゾンによって、クラウドとデバイスという基本形で実現されたわけだが、それは「本の未来」を実現しようとしてきた人たちにとっては一つの形であり、入口がそこにあったということに過ぎない。入口は未来ではない。本書はそうした意味で、これから「未来」を実現するためのガイドとなるだろう。未来はやってこない。やってくる未来は現実である。

※この記事はEbook2.0 Forumで2013年3月30日に掲載された同題の記事を転載したものです。

■関連記事
ウェブの力を借りて「本」はもっと面白くなる

Editor’s Note

2013年3月21日
posted by 仲俣暁生

日常編集家アサダワタルさんの連載、「本屋はブギーバック」の第2回を公開しました。今回はマンガの第一巻だけをひたすら集める「一巻書房」というプロジェクトを紹介する、「一巻書房は、新しい批評だ!」です。

「一巻書房」のユニークな活動の詳細はアサダさんの記事をご覧いただくとして、この話を聞いて最初に私が思ったのは、「書房」という言葉のもつ意味のひろがりです。

「書房」は本屋か出版社か、それとも…?

日本の場合、書店や古書店がのちに大きな出版社になったり(後者は岩波書店が典型)、近世には書店と出版社がそもそも未分化だったという歴史的経緯があるためか、出版社と書店のどちらの名称にも、「書房」「書店」という言葉がよくもちいられます。

「◯◯書房」という名の出版社を思いつくままに挙げていくと、「みすず書房」「筑摩書房」「河出書房新社」「早川書房」といった中堅出版社のほかにも、「原書房」「竹書房」「柏書房」、「さ・え・ら書房」「ゆまに書房」「あかね書房」「ひつじ書房」「ミネルヴァ書房」「イザラ書房」、さらには「大和書房」「二見書房」「白夜書房」「三笠書房」「新宿書房」「御茶の水書房」「富士見書房」…と、人文系からビジネス書、サブカルチャー系まで、さまざまな出版社が「書房」を名乗っていることに、あらためて気がつきます。

書店のほうの「書房」は、「オリオン書房」「くすみ書房」「ふたば書房」「流水書房」「ガケ書房」と、こちらもさまざま。ちなみに「三月書房」と「七月書房」は書店として存在し、「五月書房」と「六月書房」は出版社です(私が知らないだけで、他にもあるかもしれません)。

「書房」とは、文字通りに受け止めれば「本の部屋」、つまり「書斎」や「図書館」にも通じます。そこで本の売り買いがされなくても本が「出版」されなくても、書物があり手にとって読まれる場所ならば、そこを「書房」と呼んでいいのではないか。

「一巻書房」の蔵書の一部。これも立派な「書房」である。

もし、本のあるあらゆる場所が「書房」になりうるなら、そのコンセプトはミニマムからマキシマムまで、いろんなサイズがあっていいはずです。アマゾンやグーグルがめざすのがマキシマムなら、こちらはミニマムでいってやれ。岩淵さんの「一巻書房」の試みには、そんなひそかな心意気が感じられ、気持ちいいのです。

いっそ、大勢の人が手分けをして、じゃあ自分は「二巻書房」を受け持つ、私は「十七巻書房」をやってみる、ではオレは「最終巻書房を」…といった感じで、Wikipediaのような分散型のマンガの各巻ごとの批評データベースができたら面白い。実現しなくても、そういう「夢想」を受け手にさせてしまった時点で、「一巻書房」というプロジェクトは成功なのだと思います。

スタンダードブックストア心斎橋店にて
キックオフ・イベントを開催

本屋という場所をつかって、小売業としての書店が抱える現実の諸条件を少し逸脱したところで、さまざまなアイデアや「妄想」による本を使った社会実験をしてみたい。そんなアサダワタルさんの大胆な提案に、大阪スタンダードブックストアの中川和彦さんが応じ(連載第1回「本屋でこんな妄想は実現可能か」を参照)、さらにそんなお二人の考えを「マガジン航」編集人である私が「面白い!」と思ったことから、「本屋はブギーバック」という不思議な連載がはじまりました。

そこで善は急げとばかり、「マガジン航」での連載記事と、実際の本屋さんでのワークショップやトークイベントとを連動させる試みの第一弾を、さっそく今週末の23日午後に、大阪のスタンダードブックストア心斎橋店で行います。僕もこの日は東京から駆けつけ、アサダさん、中川さんに、いろんなアイデアや「妄想」をぶつけてみたいと思います。

みなさんの「妄想」の持ち寄りや提案も、もちろん大歓迎です。あなたの「妄想」が、ほんとうに実現してしまうかもしれません!

スタンダードブックストア×マガジン航 presents
「本屋でこんな妄想は実現可能か!?」トーク&ワークショップ

日時:2013年3月23日 open 11:15 start 12:00
出演:仲俣暁生×アサダワタル×中川和彦
会場:スタンダードブックストア 心斎橋 BFカフェ
料金:1,200円★1ドリンク付き
※詳細はスタンダードブックストアのサイトをご覧ください。

第2回 一巻書房は、新しい批評だ!

2013年3月19日
posted by アサダワタル

僕の10年来の友人に岩淵拓郎という人物がおりまして。

岩淵拓郎@mediapicnic
73年兵庫県宝塚市生まれ。演劇→バンド→パフォーマンス→執筆→編集→美術→料理→ブログ→一般批評と映画(イマココ)。京都造形芸術大学講師。宝塚映画祭ディレクター。美術家は2010年に廃業しました。(キリッ

このTwitterプロフィールを見ていただいてもお感じのように、なかなか「こういうことやっている人」と一言で紹介しにくいのですが、まぁ、とにかくいろんな文化ジャンルを横断しながら、かつてはバンドマンだったり、美術家と称してた時代もあったり、アートスペースの運営にも関わっていたり、でも仕事のベースはわりかし編集と執筆業にあったりと、実に突っ込みどころが多く、とっても興味深い働き方・動き方をしている人物なんですね。

そんな彼が、二年前から本に纏わる謎の行動を始めたんです。

岩淵「あのさ、最近、マンガの一巻だけ集めて、色々読み漁ってるねん。」
アサダ「えっ? どういうこと?」
岩淵「一巻だけやったら一杯マンガあるから貸したるで」
アサダ「えっ?」

その名も「一巻書房」
「本のある場所を“出来事の万屋(よろずや)”に!」をモットーに、日常生活における本との付き合い方を創案する本連載Vol.2は、そんな謎だらけの「一巻書房」の真意をご紹介します。

一巻、一巻、一巻…

まずは彼の本棚を少し覗いてみましょうかね。

うん、確かに一巻だらけですね。
では、そもそもなぜこんなプロジェクトを始めたのだろうか。

きっかけは、サウンドアーティストの藤本由紀夫さんが、“音楽は最初の1秒でだいたいわかる”といったような発言をされているのを聞いて。それで、“じゃあ、マンガも一巻だけ読んで分ったことにしよう“かと思っだんです。別に外向けに何かを発表するといったものでもなく、軽い気持ちで買い始めました。

と岩淵さん。

その数は、やり始めて2年経った現在500冊以上。
その何冊かをTumblrで写真とコメント付きで公開し始めたら、何人からから「面白い!」と反応があったという。そのいくつかを以下に紹介しよう。

井上雄彦『リアル』1巻読了。いろいろ上手いのはよくわかる……という前提に立ってもなお「『リアル』とかマジすかwww」みたいな脆弱極まりないツッコミを入れたくなる自分が痛い。北島康介と同じタイプの踏み絵。コマが大きくなると一瞬音が消える感じがする。

きら『シンクロオンチ!』1巻読了。もっちゃり女子のエロくない体型描写がすばらしい。コマの9割が人物中心で描かれるせいか、バブル時代のTVドラマを見てるような気分になる。ちなみに作者は同じ1973年生まれ。

佐々木倫子『おたんこナース』1巻読了。いま読むと岡崎京子とか初期のばななの裏側(というか表側?)の感じ。BGMはオザケン「LIFE」あたり。でも実写化は「動物〜」の一件があるから許しません! やるならひねらずオー!マイキーで。

それで、読み終えた後、マンガはどうしているんだろうか。

必ず自作の書印を押してます。興味のありそうな友人にあげたり、立ち寄った喫茶店にこっそり置いて帰ったり(笑)。

と。

なるほど。行為そのものの内容はわかったけど、でもやっぱりその真意は未だわからず。

もうちょっと突っ込んで色々聞いてみると彼の口から、「これは僕なりの本に対する批評のあり方なんです」という言葉が飛び出してきた。

“批評”。そこもうちょっと、教えてください。

“批評のフォーマット”から作り上げる行為

まず彼がここ数年関心を向け続けているのが“批評”という行為だ。

彼はマンガに限らず、音楽や美術やアニメや映画など幅広くつまみ食いしつつ、それらを身近な人たちと酒を飲みながら語り合ったりすることを長年続けて来た。そして、その行為を仲間内だけでなく、より公の場(例えば不特定多数の人がみられるブログなどの媒体やトークイベントなど)で言葉にしていく過程で、以下のように考え始めたのだ。

“批評”っていう行為をする上で、“ある対象ジャンルのあれやこれやを一通り見ていること、つまり、数をこなしていること”ってどっか前提にあるじゃないですか。例えば、マンガひとつとってもちょっと発言すると、“その作品について語るんだったら、もちろんあの作品読んでるよね!?”とか、“同じ作家の作品は一通り読んでるよね!?的な。もちろんたくさん読んでいるからこそ言えることもたくさんあるとは思うんだけど、でも“全部読んでるやつ=一番偉い”って考え方そのものに対して、ちょっと抗ってみたいって思ったんですよ。

そこで、彼が考案したのは、批評をする上での自分なりポジショニングだ。

知識で勝負を挑まれる前に、その対象を語る“批評のフォーマット”そのものから、勝手に作ってしまおうと思ったんです。それをマンガで始めたのが、“そもそも一巻しか読みません”というスタイル。その読み方をでっち上げて、だからこそ生まれる文脈でもって、マンガを語っていこうと考えました。

始めてみたら実際に色々反応があり、“一巻しか読まない人”として意見を求められることが増えたらしい。

“何が面白かったですか?”って聞かれて教えたら、なぜかその人がそのマンガの二巻以降を買い足すことに火をつけてしまったりということがありました。あと一巻だけだと読まず嫌いが無くなるんですよね。どんなに面白くないマンガでも一巻だけだと思えば辛抱できる(笑)。

確かに今更「ジャンプコミックス全巻読んだ?」とか言われてもムリムリムリ…。

その時に前述した藤本由紀夫氏の「音楽一秒わかる論」を勝手に援用して、一巻だけを繋ぎ合わせる文脈上だからこそ見えてくる、マンガの新風景が生まれれば、これは確かにとってもクリエイティブな“批評”なのではなかろうか。

読み方を発明するサイクルへ

さて、一巻だけひたすら読み続けるこの活動だが、岩淵さん曰く、

最近は一巻すら全部読まなくなってます。一頁だけ読むとか…(笑)。例えば、メルモちゃんの一巻の一頁がほんとにやばいんです。初っ端から、おかんがトラックに轢かれるんですよ(笑)。

うーん。確かにメルモちゃんすごすぎ…。そして、もはや「一頁書房」になる気配すらみせているとは。最後に、この活動の今後の希望を聞かせてもらった。

新しいマンガとので出会いのきっかけを、色んな人たちに作れたことは嬉しいですよね。また、いつか、町の古本屋で“一巻書房”の書印が押されている本が見つかって、それをまた買う人ができて、といった循環が生まれれば嬉しいですね。

一見くだらなさそうな取り組みから、色々なバリエーションの“批評”が連鎖していく可能性。マンガだけに限らず、様々なジャンルの書籍でも、「そんな読み方があったのか!!」という発明に、これからもどんどん立ち会ってきたいと思った次第です。

(次回につづく)

※この連載と並行したイベントを、実際に大阪のスタンダードブックストアで行います。ふるってご参加ください。

スタンダードブックストア×マガジン航 presents
「本屋でこんな妄想は実現可能か!?」トーク&ワークショップ

日時:2013年3月23日 open 11:15 start 12:00
出演:仲俣暁生×アサダワタル×中川和彦
会場:スタンダードブックストア 心斎橋 BFカフェ
※詳細はスタンダードブックストアのサイトをご覧ください。