Editor’s Note

2013年6月10日
posted by 仲俣暁生

posted by 仲俣暁生(マガジン航)

「マガジン航」では本体のブログ記事のほかに、サイドバーで表示している「本と電子書籍をめぐる読み物」というコーナーに、時事ものではないやや長めの文章をアーカイブしています。この欄に、鷹野凌さんの「情報誌が歩んだ道を一般書籍も歩むのか?」を追加しました。ブログ欄の記事として先日書いていただいた、「ハフィントン・ポストにみる「編集」の未来」ともつながる内容ですので、ぜひあわせてお読みください。

鷹野さんの記事を読んで、私も自分が編集の仕事をはじめた頃のことを思い出しました。鷹野さんが振り返っているのは世紀の変わり目、2000年頃の「情報誌」の世界ですが、私が最初に就職した出版社も「情報誌」の会社でした。鷹野さんよりさらに10年前、いまから四半世紀前にあたる1989年のことです。

四半世紀前の「情報誌」を思い出す

当時の編集ワークフローは、基本的に紙ベース。原稿作成は市販の原稿用紙にエンピツで手書き、情報確認は電話での問い合わせがメインでした。ファクスで送られてくる原稿も、まだ大半が手書き。入稿前の「原稿整理」は必須のプロセスで、達筆すぎて読めない文字に泣かされたこともしばしばでした。一台だけ置かれていたOASYSのワープロ専用機は「編集長が編集後記を書くため」だけに(もちろん、ネットにはつながらずスタンドアロンで)置かれていました。ワープロが「清書マシン」などと呼ばれていた時代です。

もちろんインターネットはまだ一般には開放されておらず、ニフティサーブなどの「パソコン通信」が、電子メールのプラットフォームでした。この会社に就職する前に、アルバイトでゲーム雑誌やFM番組の情報欄の編集をしていたことがあり、そこで電子メールによる原稿のやりとりや、独自のマークアップによるタグ付け、フロッピーによるデータ入稿という方法があることを知りました。しかしこの会社に入ってからは、メールで原稿を受け取ることさえできず、「情報誌なのに、なぜ?」と大いに不思議でした。

原稿の送受信はファクスが中心でしたが、書き手によっては封書で送ってきたり、こちらから家まで取りに行くことも。急ぎの場合は「電話送り」といって、短い文章は電話口で読み上げてもらったものを聞き取り、筆記することもありました。〆切を過ぎても原稿を送ってこず、電話にも出なくなったライターさんに、「電報」で催促したこともあります。

月刊誌だったので、ギリギリまで情報のアップデートが必要なため、いったん下版した写植の版下を編集部に戻してもらい、校了日はバラ打ちの写植でストリップ修正を行い、最後は製版所でもまだ情報の追加訂正をしていました。校了の時期は、校正者が編集部内に常駐していたのはありがたかったです。

制作フローだけでなく、ビジネスモデルの変革が必要

1989年といえば、すでにMacintosh用にPostScriptのプリンターが登場しており、日本でも一部の雑誌ではDTPが実用化されていました。また一般企業でもオフィス・オートメーション化が進み、汎用PC(NECのPC9800シリーズなど)と、ジャストシステムの「一太郎」がデファクトスタンダードとなっていました。しかし出版社にはどちらの波も届くのが遅く、OASYSが長いこと「ローカルなデファクトスタンダード」になっていました。

その雑誌で私が同僚や若いアルバイトのスタッフと一緒に進めたのが、まずはワープロによる入稿、さらにはPCの導入とタグ付けのルール決定によるワークフローの合理化でした。伝統的なやり方に慣れていたスタッフからは反発もありましたが、大量のデータ入力の手間がはぶける写植業者にも協力してもらうことができ、「右開き・タテ組み」の雑誌なのに、情報ページだけは組版を「タテ書き」から「ヨコ書き」へと変更するという、大胆なシステム変更に応じてもらうことができました。

こうしたワークフロー改善の努力も虚しく、私の勤めていた会社は1992年に倒産し、編集していた雑誌は他の企業のもとに移って一年あまり続いた後、休刊となりました。失業した私は、たまたま在職中にボーナスで買っておいた、Macintosh Classic Ⅱという、6インチの白黒ディスプレイしかない、はじめて所有するパソコンを編集という商売の道具にしてやろうと決め、なんとか現在まで仕事をつづけています。

「情報誌」の世界とは1990年代の初めで関係が切れてしまい、自分自身でもほとんど読まなくなったもので、鷹野さんに寄稿していただいた文章を読んで、その後の「情報誌」がたどったワークフローとビジネスモデルにおける激変を知ることができました。制作のフローだけを合理化してもダメで、やはりビジネスモデルまで踏み込んだ、改革が必要だったことがわかります。

「情報誌」という、かなり特殊な出版物に起きた出来事が、どこまで「書籍」にも当てはまるのか。それはまだわかりません。しかし鷹野さんが挙げているように、すでにアマゾンのKindle Direct Publishingは、本を出すための工程を大幅に短縮しています。すべての書籍が情報誌と同じ道を歩むことはないでしょうが、このインパクトは決して無視できません。

すべての「本」はベンチャービジネスである

私が「出版の未来」を考えるとき、いつも参照する本がいくつかあります。日本で書かれた「電子書籍」についての本ではなく、英語なのがつらいところでしたが、そのうち二つは、ありがたいことに日本語に翻訳されました(ヒュー・マクガイア、ブライアン・オレアリ編『マニフェスト 本の未来』とクレイグ・モドの『「超小型出版」』です)。

しかしもう一冊、まだ日本語訳されていない重要な本があります。オライリーから出ているTodd Satterstenの「Every Book is a Startup – The New Business of Publishing 」という本です。意訳すれば、「すべての本はベンチャービジネスである」といったところでしょうか。

この本が面白いのは、「出版ビジネス」全体ではなく、「出版社」という単位でもなく、一冊の「本」そのものがスタートアップ、つまりベンチャービジネスなのだ、という視点です。これこそまさに、いま電子書籍が直面している課題と可能性に対する適切な表現でしょう。ぜひこの本も、日本語で読めるようにしてほしいものです。

ところで、この本の冒頭には、こんな言葉が引用されています。

Book publishing is a 16th-century technology based on a 19th-century business model trying to survive in the 21st century.

出版とは、19世紀のビジネスモデルに立脚したまま、21世紀に生き残ろうとしている16世紀のテクノロジーである。

過去の因襲にとらわれて進むことができない出版の世界に対して、未来を志向する若い世代が感じるフラストレーションが、この言葉によって的確に表現されています。

先週末に更新した、大原ケイさんによるブックエキスポ・アメリカ2013のレポート(本を発見するための「出版ハッカソン」)では、出版とIT技術を組みあわせたスタートアップの試みが紹介されています。出版の古い文化を守ることも大事ですが、新しい発想や技術をどんどん試していくことを忘れてしまったら、たんなる過去の墓守にすぎなくなります。こうした試みを、今後も「マガジン航」ではこれからもどんどん紹介していきます。

本を発見するための「出版ハッカソン」

2013年6月8日
posted by 大原ケイ

5月29日〜6月1日にニューヨークで米国書籍産業最大のコンベンション、「ブック・エキスポ・アメリカ(BEA)」が開かれ、国内外から出版関係者が大勢集った。規模は毎年縮小し、地味になっていく印象があるが、一方でこれからEブックの時代に対応すべく、出版業界の礎となっていくであろうIT起業家を育てていく新しい試みも行われている。

初の「出版ハッカソン(Publishing Hackathon)」もその一つだ。ハッカソンとは、物事をやりやすくする「ハッキング」と「マラソン」をかけた造語で、かけ声の下に集まった有志のプログラマーやエンジニアたちに、既存の業界がスポンサーとなって、起業をめざしてその場でサービスを実際に立ち上げてもらおう、という実験だ。

元々ニューヨークという街はウォールストリートに象徴されるように金融界の中心地で、住宅ローンのバブルがはじけた2008年のリーマン・ショックまでは、株トレーダーやファンドマネジャーらがマネーゲームで儲け、そのお金が潤沢な税金や消費となってニューヨークを豊かにしていた。

そのバブルがはじけた今、マイケル・ブルームバーグ市長が率先して新たな産業をこの町で興すべく取り組んでいるのがIT業界の育成なのである。90年代のインターネット・ビジネス黎明期にもネットバブルがあり、ニューヨークの一角が「シリコンアレー」と命名されたほどだが、バブル崩壊によりIPOで一攫千金を狙う目論見が外れた格好となった。だからこそ今度はその失敗を繰り返さぬよう、市政が後押しして産業を育てようとしている。

市長自らプログラミングを習うと宣言し、名門コーネル大学院のIT部門を誘致したり、市民が無料でプログラミングや起業について習えるセミナーを開催したり、コンピューター教育に力を入れたチャーター・スクールを中学・高校課程に創設したりと、かなり長期的な計画だ。

テーマは「ディスカバラビリティー」

書籍出版業の中心地でもあるニューヨークで、本だけアナログのまま留まるわけにもいかず、今回のハッカソンのスポンサーとなっているのは、手堅いノンフィクションの実用書で知られるペルセウス出版、大手リテラリー・エージェンシーであるウィリアム・モリス・エンデバー、書籍チェーン店のバーンズ&ノーブルなどで、審査員として加わっている。

テーマはずばり、電子書籍時代のキーワードとなっている「ディスカバラビリティー(Discoverability)」だ。いくらセルフ・パブリッシングが容易になったとて、インターネット上に本をアップロードしたところで、誰もその存在に気づかなければ無に等しい。書店(ネットでもリアルでも)に並べられているのを見かけたり、図書館で手にとってみることでしか新しい本の発見はない。「発見されない」本は「存在しない」も同然だ。じゃあ、それをハッキングで解決してやろうではないか、と考える人がいても不思議ではない。

今回の出版ハッカソンではデジタル系のデザイナーや、エンジニア、プログラマー、そして起業家を含む数名でチームを結成し、BEAの会期である36時間のあいだにアイディアを出し合って何か新しいサービスを作っていく。

さっそくブレスト中のチーム。

最初のミーティングはブック・エキスポ開催の2週間ほど前に、ニューヨークに新しくできたコワーキングスペース、AlleyNYCで行われ、先駆者の指導やアドバイスを受けながら、30のチームが発足した。新しいアプリ、ウェブサイト、プログラム、あるいはビジネスをブック・エキスポの場で発表し、審査される。開催当日、最終的に6チームに絞られた中から最優秀賞として、ひとつのチームに起業資金1万ドルが贈られるのだ。

「デジタルな人にとって、紙の本なんてまだ作ってる産業があるの?という感じかも知れない。だからこそ対話が必要だと思った」

という主催者の挨拶で始まった「出版ハッカソン」、最終6チームのアイディアは以下の通り(当日のライブ・ブログがここで読める)。

BookCity「ブックシティー」 http://bookcity.herokuapp.com/
あなたが計画している旅行にピッタリの本を探そう! 旅先で本を読もう!をスローガンに、例えばロンドンに行くならバージニア・ウルフの『ミセス・ダロウェイ』を薦める、といったプログラムだ。提携先として旅行ガイドや外国語学習書を考えている。が、「あまり旅に出ない人は?」の一言で答えに詰まったか。

Captiv「キャプティブ」
ツイッターでつぶやいた内容やフェイスブックに上げたエントリーから、そのユーザーが興味のありそうな本をお薦めする。データ解析の専門家が多いチームなので、それらの抽出はアルゴリズムでおこなう。例えば結婚間近な人には『きみに読む物語』など女性を胸キュンさせる恋愛ものがお得意なニコラス・スパークスとか、ニューヨーク・マラソンに参加するならRun to Overcomeからの抜粋が届くとか。本が好きで、わざわざそういうオンライン・コミュニティーに行くような人だったら推薦機能のあるサイトはたくさんあるけれど、敢えて本を読まなさそうな人にも推していくのが新しいかも。

Coverlist「カバーリスト」 http://coverlist.com/
ユーザーは本の表紙をいくつかパッと見て、好きなのを選んでいく。クリックして初めてそれがどんな内容の本かを説明する。出てくる表紙は、その時期に合わせて、例えばクリスマスが近づくとそれっぽい表紙にするとか。このグループはすでに古典の表紙をデザインし直して売り込み、Recovering the Classicsと提携している。「出版社がデザイン案をいくつかアップして、クラウドでいちばん好きなのを決めてもらうのに使える?」とさっそく実用化したい出版社からの質問が飛ぶ。

Evoke「イヴォーク」
今もカテゴリーとして伸びているYA(ヤングアダルト)の読者を対象に、読者と似ている架空のキャラを見つけて繋ぐ。ユーザーは読んだ本のキャラクターの好きなところ、嫌いなところをクリックしていくだけ。「登場人物の性格を網羅するのは大変なのでは?」との質問に、書評レビューのサイトからスニペット(部分的な引用)で集めるとの答えが。

KooBrowser「クーブラウザー」 http://koobrowser.com/
ウェブサーフィンの行動履歴からお薦めの本を選ぶ。「ユーザーとしてはいつも誰かに見張られている気持ちにならないか?」との質問に「オプト・イン」のひとことで対応。プラグインをダウンロードする手間がある上、その人についてのデータが多いほど、嗜好が絞られてきて、推薦本の精度が上がり、狭くなるのだとか。

Library Atlas「ライブラリーアトラス」 http://libraryatlas.com/
フォースクエアで今いる場所をチェックインするように、読んだ本を次々と登録しておくと、地図上でその本ゆかりの場所に来るとお知らせが来て、本の抜粋を紹介したりする。あるいは欲しい本、気になる本を登録しておけば、その本がある本屋さんに近づいてきたときにお知らせしてくれるという、iPhoneのアプリ。でもティファニーに入ったら『ティファニーで朝食を』が表示されるぐらいだと、新鮮味はないかも?

結果:最優秀賞はイヴォーク。スタートアップ資金1万ドルと辣腕エージェント、アリ・エマニュエルとのミーティングが予定されているとか。

最優秀賞を獲得した「イウォーク」の二人。

出版社にとっても、これぐらいの投資で次なるGoodReadsのようなコミュニティーが育つのならおやすいご用、といったところだが、そのGoodReadsのように成功したとたん、またアマゾンに買収される可能性もあるわけで、この業界の憂慮には終わりがないのであった…。

■関連記事
安堵のため息が聞こえてきそうなブック・エキスポ2013報告―Collective sigh of relief heard at BEA 2013(本とマンハッタン- Books and the City)
ロンドン・ブックフェア2013報告
米国ブックエキスポ2011で見えた新しい動き
ロンドン・ブックフェア2011報告

「エラー451」の時代はやってくるのか?

2013年6月3日
posted by 董 福興

インターネットでしばしば見るエラー番号には、それぞれに意味がある。たとえば、いちばんよく出る「エラー404」は、サーバーの上に指定のページが存在しない、すなわち「見つかりません」という意味だ。

では、「エラー451」の意味はなんだろう? これはネット検閲を強化しようとする動きを明らかにするために、XML規格の起草者の一人でいまはGoogle社の一員であるティム・ブレイ氏が、2012年5月にウェブの管理機関であるInternet Engineering Task Force(IETF)に提出した、「Unavailable For Legal Reasons(法的な理由でアクセス不可)」を意味する新規のエラー番号だ。

ティム・ブレイによる「エラー451」の提案書。

2012年6月、イギリス政府が有名なThe Pirate Bay(TPC)というP2Pダウンロードサイトを封鎖したとき、そのサイトにアクセスしようとした者に対して表示されたエラー番号は、たんなる「エラー403:Forbidden(閲覧禁止)」だった。これでは実際に何が起きているかがわからず不正確だとして、彼はあらたにこの「エラー451」を提出したのだ。「451」という数字が選ばれたのは、もちろんレイ・ブラッドベリが書いた『華氏451度』という作品に敬意を表してのことだ。

もちろん、このエラー番号に強制力はない。言論検閲のある国、たとえば中国のグレイト・ファイア・ウォール(ネット版「万里の長城」)のように、言論管制の存在を自国民に知らせたくない場合、この番号は使われない。封鎖のエラーコードは上の「403」でさえなく、「404」、つまり「このウェブサイトは存在しません」となる。これではどんなサイトが封鎖され、どんな原因で封鎖されたのかについては不透明なままだ(ただし、それを検出するツールもある)。

URLを入れると、そのサイトが検閲されているかどうかがわかる。

では合法的な検閲やブロックとはなんだろう? そのことを考えるには、台湾で著作権法に関連して起こった、ある「炎上」事件を例にとって説明するのがよさそうだ。

台湾では著作権法によるウェブサイト封鎖を検討中

最近、台湾経済部(日本における経済産業省に相当する)の智慧財產局が、あるプレスリリースを公表した。その中では以下のことが提示されていた:

  1. 海外の著作権侵害ウェブサイトにより国内のデジタルコンテンツ産業に損害が出ており、その発展が阻害されていることは確実である。それらに素早い対応をする仕組みが必要だ。
  2. 専門知識のある者によって著作権侵害行為が行われていたり、コンテンツを見れば著作権侵害が一目瞭然であるようなウェブサイトは封鎖の対象となる。
  3. 封鎖するかどうかの判断は、専門家と政府機関と著作権者の団体が決める。そのさいに法的審判(訴訟や裁判)は必要なく、政府の命令だけで封鎖できる。
  4. 封鎖仕組みはDNS(ドメイン・ネーム・サーバ)とIPアドレスにより、命令が出たのち10日内に封鎖する。

この発表が行われる、たちまち台湾のネット界は「炎上」し、デジタル・コンテンツのありかたとサイト封鎖の手法の是非をめぐり、熱い論議が起きた。

デジタルコンテンツにおける「市場の失敗」

日本の読者もご存知のとおり、台湾はパソコンやスマート・デバイスの部品生産国であり、ネット環境と端末の普及も国際的に高い水準にある。先進国並みにデジタルカルチャーが発展しているため、「デジタルコンテンツはネット上で買うのが当然」という感覚が広まっている。

それにもかかわらず、デジタルコンテンツ(映画、ドラマ、音楽、電子書籍など)の販売環境の基盤整備は進んでいない。タブレット端末普及の波に乗って電子書籍だけは発展しているが、映画などは、デジタル配信のライセンス料金、デジタルファイルへの転換費用やストリーミング/ダウンロードのクラウドサービスのコストなどが高いため、いまのところ便利な販売プラットフォームが少ない。いちばん便利なのは2012年6月に中国本土以外のアジア(台湾、香港、マカオ、タイ、ベトナム、マレーシア、シンガポール)向けに開店したiTunesStoreで、オープンから一年間がたちユーザーもかなり定着している。

台湾は長い間、「コンテンツを買いたいのに、買える場所がない」という状況にあったため、中国本土の海賊サイトでコンテンツを探す人が大勢いる、たとえば「PPS」や「迅雷 (Thunder)」のようなサイトはストリーミングでコンテンツを提供しているので、「違法ダウンロード」とは言えない。したがって中国政府はなにも統制しないことにしたし、台湾側もなにもできなかった。

ここでハーバード大学のローレンス・レッシグ教授が『Code 2.0』で提出した、コントロール(統制)のための4つの力、すなわち「規範(Norms)」「アーキテクチャー(Architecture)」「市場(Market)」「法(Law)」を考えてみよう。

『CODE 2.0』より。統制のために働く4つの力を示した図。

違法ダウンロードが多発する状況のもとでは、レッシグのいう「規範(Norm)」は抑止力がほとんどなかった。つぎに「アーキテクチャー(Architecture)」すなわち技術的手段からみると、合法コンテンツを売る際にも、ストリーミング方式は(ダウンロード方式に比べ)送り手側がかなり強いコントロールをもつが、違法なコンテンツの提供手段として用いられたときも、海賊行為が禁止しにくくなる。

「法(Law)」は最後の手段だが、その前に「市場(Market)」がどう動くかも重要だ。アップルのiTunesStoreのような、低価格で高品質のデジタル・コンテンツを販売するプラットフォームが台湾に他にもっとあれば、海賊サイトに対抗できるのではないか。それを待たずに法律で直接禁止するのは、「市場の失敗」を示すことになるのではないか。

台湾ではまだ、Google Play, Amazon, Hulu, Netflexなどのサービスが使えない。また台湾本土のサービスももちろん少なく、中華電信のようなISP会社だけ。一方、台湾のテレビは99%がケーブル化されているが、アナログのままなので、デジタルコンテンツをPay Per Viewで配信できないのだ。

それをいったい誰が望むのか?

ここで電子フロンティア財団(EFF)が作った次の映像を見てほしい。

1分31秒目にでてくる「ISP LIABILITY(プロバイダ責任制限法)」の話は、ここで話題にしているようなコントロール手段だ。すでにTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)に参加を表明している日本では、TPPと著作権をめぐって大きな論議が起きている。台湾もTPPに参加予定であり、著作権にまつわるこうした動きは、TPPが望む通りではないか、という論議もある。

ネット封鎖という手段によって著作権者は権利を確保できるが、合法的な販売手段がなければ、そこから利益を得ることはできない。合法的な販売手段が先か、海賊サイトに打撃を与えることが先か、という議論は「鶏と卵」である。消費者は単に、もっと高品質で低価格のコンテンツを望んでいるだけだ。海賊サイトが封鎖されても、合法的なコンテンツが提供されないなら、いちばん損をするのは消費者ではないか。

台湾の著作権の専門家である章忠信教授もこういう。

「著作権法は著作権を保護するための法律ではなく、著作権者の私権と、公衆の著作へのアクセスがもつ公益性のあいだを調整するための法律です」

「エラー451」の時代がいつかやってくるのか?

もうひとつ、ネット検閲をめぐる議論がある。もし政府機関が命令一つでウェブサイトを封鎖できるなら、いまは海賊サイト対応だけかもしれないが、今後は別の理由によって、いろんなサイトを封鎖することができるのではないか?

台湾に住む者として、これはかなり敏感にならざるをえないことだ。なぜなら、海峡を越えた先にある国は、もっと強力な仕組みでネット検閲を実施している。海峡のこちら側には「ネットの自由」があるということが、二つの地域の間の指標的な差になっている。だからどんな理由であっても、どんなかたちでも、ネット統制に対して台湾では断固反対の声が消えないのだ。

最後に、台湾のある人が、『華氏451度』の言葉と、ドイツの神学者マルティン・ニーメラー(「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」という詩で知られる)の言葉からつくった二次創作を紹介して、本稿の結論としたい。

最初に彼らは、海賊コンテンツがあるウェブサイトを封鎖すべきといった。私はそれに同意した。彼らは、「もしこれに反対なら、海賊行為を応援するというのか。犯罪行為を励ますのか」と言ったからだ。私は彼らのサイト封鎖に同意した。

次に他の誰かが、「ポルノサイトも封鎖すべきだ」といった。私もそれに同意した。なぜなら、そうしないと私は変態だと思われたからだ。次に、「宗教団体のサイトも封鎖すべきだ。「それらのサイトは我々を中傷した」と誰かが言った。私もそれに同意した。

私たちは誰かが不安になったり、不愉快や不法を感じるウェブサイトがあったら、最後までそれらを燃やし続けなければいけない。なぜなら私たちはもう、そうしているだから。

結局、政府は「ウェブサイトを焚く」方針を決定した。すべてのウェブサイトは非合法になった。それによって皆が喜んだ。これでもう、誰かの感情を害することもなくなり、誰かの権利を侵害することもなくなったのだから。

それが現在、「この素晴らしき時代」と呼ばれている時代の由来である。この時代にあったウェブサイトのすべては、「エラー451:このページは燃やしました(This page is burned)」と表示される。

「僕達は一度も、正しい意味で、火を燃やしたことはなかった」
──『華氏451度』より

これは私自身の立場でもある。海賊コンテンツへの対応は必要でありその目的には同意するが、手段としてネット封鎖を用いるのは「パンドラの箱」を開けるようなものだ。一度でも開いてしまえば、もう閉じられなくなるのだから。

■関連記事
電子書籍にDRMは本当に有効か?
日本産アニメ・マンガの違法流通について考える

Editor’s Note

2013年5月20日
posted by 仲俣暁生

今年からはじめた新連載、アサダワタルさんの「本屋はブギーバック」と清田麻衣子さんの「本が出るまで」、それぞれの最新記事が公開されています(記事へのリンクはそれぞれの小見出し)。

「本屋はブギーバック」
第3回 わらしべ文庫から垣間みえる街の生活の柄

アサダさんが今回紹介するのは、大阪市此花区で中島彩さんが運営している、本の物々交換スペース、「わらしべ文庫」。

どの本がどの本と交換されるか、自分以外の人がどんな本を好きで確かな関心を寄せているのか、そういうことに触れる度にすごく感動します。そして、みんな本が好きすぎて不要になっても捨てられない。だから誰かに託すことができればという気持ちも含めてここに置いていくのかなぁと思っていますね。

という彼女の言葉や、実際に「わらしべ文庫」でやりとりされている本の佇まいからは、産業化した出版のもとでの消費財とは違う、もう一つの「本」の顔が浮かびあがってくるような気がします。

「本を出すまで」
第2回 出したい本に出会う

清田さんの「本を出すまで」は、出版社をやめて独立した編集者が、自ら出版社を起こして本を出すまでをセルフドキュメンタリーのかたちで綴る連載です。

今回は、東日本大震災後にある写真家の作品(右の写真は田代一倫「はまゆりの頃に」より)と出会ったことで、編集の仕事を志した原点を彼女が再発見していく過程が綴られます。

本を作るノウハウは身につけた。ライターと編集の区別すらつかなかった新卒から始まって、ひととおりの武器は揃えたはずだ。自分で考えることを停止した状態の人と、繊細な感覚の世界とを繋ぐことはできないだろうか? 自分自身の課題が、本をつくる糸口になるかもしれない。

みずからが著者として本をつくることは、電子書籍によってとても簡単になりました。しかし、本をつくるモチベーションをもっているのは著者だけではありません。何かと何かを「繋ぐ」ことをめざす編集者もまた、本が生まれる場所に立ち会う重要な存在なのだということを、この言葉は思い出させてくれます。

人と人をつなぐ目に見えないネットワーク

ふたつの連載はどちらも、期せずして「本が生まれる場所(著者と編集者の関係)」と、「本が読者に届けられる場所(さまざまなタイプの「本屋」)」がテーマになっています。出版や書店はいうまでもなくビジネスであり産業ですが、同時に人と人をつなぐ目に見えないネットワークであり、そこにはそれぞれ異なる考え方や個性をもった「人」がいる。

産業としての出版や書店が行き詰まりを見せるなか、電子化や多メディア化といった方向での解決も模索されていますが、けっきょくのところ、本をめぐる環境を支えるのは、一人ひとりの仕事に対するモチベーションであり、創意工夫であるはずです。

大手出版社や大型書店とは別のところで、個々人が自分なりの動機でものごとをはじめることのほうが、迂遠に見えても「本」の力をとりもどすための確実な道なのではないか。この二つの連載から、そのささやかな手がかりやヒントが見いだせたらと思っています。どうか今後の展開にもご期待ください。

まちとしょテラソで未来の図書館を考えてみた

2013年5月17日
posted by 氏原茂将

エントランスを入ると白い本棚が整然と立ち並んでいる。それほど広くはないが、天井の高さが開放的で清潔感のある空間だ。入ってすぐのカウンターにいた女性スタッフが気持ちのよいトーンで応対してくれた。何でも「まちじゅう図書館」というプロジェクトをはじめたらしい。町の酒蔵や銀行、カフェなんかに本が置かれているのだとか。

興味深いけれども、まずは館内、館内。といっても10分もあれば見て回れるぐらいの広さだけど…。なるほどiMacが並ぶブラウジングコーナーに、妖怪や地元の絵本作家の選書棚、カーペットが敷かれたキッズスペース、本やグッズの売り場、あそこは飲食ができるテーブル。へぇ、館内で飲んだり食べたりしていいんだ。

あれ?話し声が聞こえるし、子どもたちがはしゃいでるな。ふつうなら注意されるはずなんだけど…。まぁいいか。そういえば、館内にうっすらとヒーリングミュージックが流れてるな——

とんがった三角の屋根が特徴的な、小布施町立図書館まちとしょテラソのエントランス。

小布施町立図書館まちとしょテラソを訪れたときに目にしたこの風景は、2009年のオープン以来、注目を集めてきた図書館にしては正直いって地味な印象でした。ただ、公共図書館の真上にあるメディアセブンという社会教育施設で働くぼくには、まちとしょテラソの日常の風景がとても新鮮に感じられ、先進的な図書館像に映りました。その先進性の所在を、まちとしょテラソの使われ方から紐解いてみましょう。

情報をサービスする図書館

まちとしょテラソのそもそものはじまりは、町役場の一角にあった図書室をリニューアルしたいという町民の要望でした。ただ、計画のはじまった当初から、本の貸出をする施設ではなく、まちづくりのための図書館として構想されていました。そして町役場での議論や公聴会を重ねたあと、2007年に発表された基本計画では、「学びの場」「子育ての場」「交流の場」「情報発信の場」を四本柱にすえた「交流と創造を楽しむ、文化の拠点」という基本方針が打ち出されます。

開館前には町内外の有志からなる図書館建設運営委員会の一員でもあった花井裕一郎前館長が、この基本方針を受けて提起したのが「情報」というキーワードでした。館長就任にあたり1954年に制定された図書館法を紐解き、その第一章第三条に触発され、図書館のサービスが本に限定されるものではないことに気づいたそうです。

本ではない情報。本には書かれない町の暮らしや風習の記録、まちづくりの軌跡といった情報。イベントや講演会での経験をとおして得られる情報。この情報という視点から組み立てられたまちとしょテラソのサービスは、従来の図書館の枠組みを超えています。

NIIによる「寳生太夫勧進能絵巻デジタルビューワー」も館内で自由に閲覧できる。

たとえば国立情報学研究所(NII)が開発した連想検索「想」との連携による「まちとしょテラソ蔵書検索システム」の導入、小布施に住む人たちのインタビューを収めたアーカイブス「小布施人百選」。古地図やイラストマップを現在の地図に重ね合わせた街歩きサポートアプリ「小布施ちずぶらり」や町内ミュージアム所蔵作品のデジタル化などをとおした地域や他機関との連携。これらは、町の図書館の域をはるかに超える取り組みといえます。また、職員が講師を務める「テラソ美術部」やアーティストを招聘した「美場テラソ」など、美術館のアウトリーチプログラムのような取り組みも、従来の図書館では考えにくいサービスでしょう。

開館からたった5年のあいだに、職員やボランティア、有志の町民たちとともにこのような先進的なサービスが実現されたことは、おどろくべきことです。

多様なニーズが共存する場所

それ以上に僕が着目したのは空間の使われ方でした。「テラソ美術部」や「美場テラソ」といった活動は、本棚の並ぶスペースで行われることもしばしばで、仮装をした老若男女が本棚のあいだを練り歩いたこともあるのだとか。そのほかお話し会や紙芝居なども、本棚の並ぶスペースととなりあったキッズスペースで開催されます。従来の図書館であれば小部屋で行われるような活動も、まちとしょテラソではオープンなスペースで行われます。

それもそのはずで、建築家・古谷誠章さんの手によるまちとしょテラソは、大きなワンルームのような空間構成になっているのです。ひとつだけちいさな部屋はありますが、そこも半透明の仕切りがほどこされていて、部屋のなかにいる人や活動の気配が感じられるようになっています。そのため、まちとしょテラソでは基本的に、空間で活動を分節することができません。ここはおしゃべりしていいところ、ここは静かに本を読むところというように空間とともに活動を切り分けるのではなく、あらゆる活動が混在するようにしつらえられているのです。

本棚が整然と並ぶ天井の高い空間。

カーぺットの敷かれたキッズスペース。

このような環境では静かにすることをルールにしがちですし、ぼく自身も職務においては、そのようにするでしょう。きわめて日本的な公共意識の表れですが、静かにしていれば迷惑はかけないし、迷惑を被ることもありませんから、おおきな間違いはありません。

しかし、 まちとしょテラソではこのようなルールは決められていません。ぼくが目にしたように、おしゃべりをする人も、はしゃいで遊ぶ子もいていいのです。もちろん静かに本を読んでもいいし、勉強してもかまいません。

そこでは、それぞれが思い思いに過ごしており、まさに花井前館長がつくりたかった「たまり場」となっています。でも、逆にいえば、たがいに対立しかねないニーズが共存している場所ともいえますし、それを調整しなければならないのは大変な労力だと思います。しかし、まちとしょテラソでは、それが自律的に行われているといいます。

それを可能にするのが「タイムシェアリング」という考え方です。あるときはイベントが行われているからうるさくなる、あるときは館内が静かになる、またあるときは子どもたちがたくさん訪れてにぎやかになる…というように、そのときどきに集まる人たちのニーズによって場の使われ方の大勢が決まります。それを尊重できる人は館内にいればいいし、相容れないならべつの時間に訪れればいい。施設運営者がルールを決めてニーズを制限したり、調整したりするのではなく、利用者相互の自律的な調整が行われているのです。

ルールに規定されない公共性のあり方

地味なことだと思うかもしれませんが、だれもが納得する公約数的なルールを決めるのではなく、たがいに調整し合い、個々のニーズを無理なく満たしていくことはとても洗練された公共性のあり方です。ぼくをふくめた多くのパブリックスペースを担う人たちが思い描く理想のひとつでしょう。まちとしょテラソの様子をみていると、そんな理想的な公共性の足がかりが感じられました。

とはいえ、これを実行しようとするのは並大抵のことではありません。一般的には図書館は本を借りる場所、静かに本を読む場所という思い込みがあります。それを突然、本ではなく情報といわれてもピンとはきません。ましてや、利用者がうるさくしてもいいどころか、職員が率先して騒々しい事業を行うなんてけしからんと思われても無理はありません。

事実、ふつうの図書館をもとめる声もあるそうです。その声は、町民からはもちろん、オープン当初は職員からも無言のうちに寄せられていたといいます。司書課程で図書館かくあるべしという理念を学んできた専門職の方たちからすれば、常識をくつがされたと感じたのかもしれません。それでも花井前館長は、職員たちの話に耳を傾け、おたがいに納得するまで対話をつづけたといいます。

その結果、職員のあいだに、自分たちがまちとしょテラソを楽しみ、 使い方を発見して実装し、そしてそれを利用者に伝えていくというサービス精神が芽生えたそうです。それが自分のパーソナリティを打ち出した「もてなし」を行うことにつながり、いつしかスタッフ一人ひとりの顔がみえる選書や事業が企画されるようになりました。

妖怪好きの職員が選書した妖怪関連書籍100冊。

そして、それらサービスや事業をじっさいに目の当たりに体験してもらうことが、利用者となる町民との何よりもの対話となったようです。それを歓迎した住民もいれば、とまどった住民もいたことでしょう。しかし、地道な対話をつづけるなかで、住民それぞれがまちとしょテラソの使い方を見出し、じっさいに使っているなかで現在の姿が徐々にかたちづくられました。

コミュニティとしての図書館

まちとしょテラソに見出した先進性は、このプロセスにあります。一方的なサービスではなく、その場にかかわるすべての人たちのニーズのあつまりからサービスが決定されていくプロセスこそ、先進的なのです。

このことから思い起こされるのは、せんだいメディアテークなどの文化施設の計画に携わる桂英史氏が著書『人間交際術〜コミュニティ・デザインのための情報学入門』(平凡社新書)で提示した「コミュニティとしての図書館」という考え方です。貸出サービスを追求する従来の図書館を「コミュニティのための図書館」と表現した上で、それとは異なる「コミュニティとしての図書館」が、これからの図書館像として次のように提起されます。

「コミュニティとしての図書館」とは、図書館そのものがコミュニティのモデルとなるような図書館のことです。ここに新しい人間交際のかたちが表現されていれば、住んでいる人たちはこれまでとは異なる連帯感と帰属意識が生まれるかもしれないのです。

これまでみてきた小布施のまちとしょテラソは、この「コミュニティとしての図書館」を地でいっているといえます。コミュニティとは多様な人たちの集まりであり、それゆえにたがいに対立しかねない利害やニーズの集合体です。そんな生々しいニーズの多様性がまちとしょテラソにはみられ、そして自律的に調整されているのです。

それらニーズはときに事業に表れ、ときに選書に表れ、ときに図書館の使われ方に表れます。それは職員と利用者という立場の違いを超えて、まちとしょテラソを「こう使いたい」という個々人の素朴な思いの表れです。その表れてくるニーズをルールによって封じ込めるのではなく、一つ一つの思いに向き合いながら、相互に調整し合うことこそが「コミュニティとしての図書館」なのでしょう。

小布施町のちいさな図書館、まちとしょテラソの日常の風景からは、そんな図書館の未来を垣間見ることができました。その未来は、そこにかかわる人たちの素朴な思いに向き合うことからはじまるのかもしれません。

■関連記事
本のない公共空間で図書館について考える