私設雑誌アーカイブ『大宅文庫』の危機【後編】

2015年9月10日
posted by ツカダ マスヒロ

京王線・八幡山駅で下車し、左手に都立松沢病院の鬱蒼とした木立を眺めながら大宅文庫(公益財団法人・大宅壮一文庫)へと向かう。この道を、いつも一人で、しかも、複雑な心理状態で歩いていた記憶がよみがえる――。

サラリーマン編集者をしていた20〜30代の頃だ。ある時は、予定していた取材先だけではページが埋まらず、締め切りが迫る中、急遽、ネタを探し直さねばならず焦っていた。またある時は、企画会議の直前だというのに手持ちのネタがなく、急ごしらえであろうが企画をひねり出さなくてはという不安に押しつぶされそうになっていた。そして資料を漁り終えると、一目散で編集部に戻らなければならない。街を眺める余裕すらなかった。何度も通った八幡山なのに、自分はこの街のことをほんとんど知らないことに気がついた。

大宅文庫に「行く人」と「行かない人」

実を言うと、今回、正式な取材の申し込みをする前、本誌「マガジン航」の編集・発行人である仲俣暁生さんとの打ち合わせのついでに、あらためて大宅文庫に足を運んでいた。というのも、前回の記事の最後で触れたとおり、仲俣さんは大宅文庫に行ったことがないというのだ。駆け出しの編集者の頃、情報誌やコンピューター雑誌の仕事が中心だった仲俣さんには、大宅文庫を特に必要とする機会がなく、そうこうしているうちに「グーグルの時代」が来てしまったのだという。

たしかに、筆者が知るフリーのライターや編集者の先輩の中にも、大宅文庫に行ったことがないという人が何人かいる。彼らのキャリアを見ると、自社に資料室を持つ大手出版社や新聞社から独立した人が多い。また、出版社でもテレビの制作会社でも、「資料探し」は下っ端の仕事。売れっ子の文筆家の中には、担当編集者や若手のライターに、 それを依頼する人もいる。大宅文庫はマスコミ関係者御用達というイメージが定着しているが、キャリアや立場、仕事内容の違いで、ずっと縁がなかったという人ももちろんいるのだ。

まずは仲俣さんに、大宅文庫の「底力」を、利用者として体感的に理解してもらわなくてはいけない。打ち合わせの席で、開口一番、そのことを伝えると、仲俣さんも同じことを考えており、小一時間ほどの打ち合わせの後、早速、大宅文庫へと向かうことになった。大宅文庫の窮状を、声高に訴えるだけの記事にはしたくない。使い勝手に多少の不満はあるが、時代の流れの中で淘汰されてもしかたがないとも思っていない。大宅文庫は、国立国会図書館や東京都立多摩図書館といった公立の雑誌アーカイブに勝るとも劣らない、「私設」ならではのサービスを提供している。それを知ってもらいたかった。

大宅文庫の館内は、お盆休みに入る前日だったせいか、それほど混んではいなかった。数日前、雑誌「TOmagazine」のオフィシャルサイト「TOweb」で知った大宅文庫のバックヤード・ツアーに参加したときも、土曜日の午前中だったせいか、マスコミ関係と思しき利用者はあまり見かけなかった(ちなみに、最新号の「TOmagazine」[6号]で批評家の大澤聡さんが、大宅文庫についての仔細なレポートを寄稿している。そちらもぜひ、ご一読いただきたい)。

今回の訪問は、取材前のロケハンと大宅文庫初体験となる仲俣さんの案内役ではあったが、以前から大宅文庫で調べたい記事があったので一石二鳥だった。調べたかったのは、小説家・後藤明生(1932~1999年)に関するものだ。

以前、本誌でも紹介していただいたが、筆者は後藤明生の長女で著作権継承者の松崎元子さんと「アーリーバード・ブックス」というレーベルを立ち上げ、セルフパブリッシングによる電子書籍での復刊を行っている。現在までに26作品をリリースし、今後もさらに作品数は増える予定だが、その一方で、後藤明生に関する評論などを集めた書籍を刊行したいと目論んでいた。そのための資料を探そうと思っていたのだ。

すでに「国立国会図書館サーチ」の検索は済ませており、そこで見つかった書籍や雑誌記事、大学の発行物に掲載された論文などは、おおむね入手していた。そのまま国会図書館にオンラインで申し込んでコピーを郵送してもらったものもあれば、近所の図書館の蔵書をコピーしたものもあり、古書価が安い書籍に関してはAmazon.co.jpのマーケットプレイスで購入していた。

しかし、雑誌の目次に記されたキーワードからしか記事が検索できない「国立国会図書館サーチ」では、ヒットしない記事も多い。目次だけでなく利用者が必要と思われるキーワードを独自にタグ付けしてデータベースを構築している大宅文庫であれば、さらに多くの記事が見つかるはずだ。

Web OYA-bunkoの威力

さっそく受付で入館料を払い、1階に設置されたコンピュータ端末「Web OYA-bunko」で検索すると……。やはり、あった。「中央公論」2014年11月号では、「谷崎潤一郎賞の50年 歴代受賞者に聞く 私の好きな谷崎賞受賞作品」という記事の中で、小説家の阿部和重さんが後藤の『吉野太夫』について記していた。また、評論家の坪内祐三さんが「群像」2012年12月号で、翻訳家の東海晃久さんが「新潮」2012年11号で、未完のまま長らく単行本化されたなった長編小説『この人を見よ』を書評していた。さらに、「週刊文春」2013年11月21号でライターの永江朗さんが取り上げてくれたアーリーバード・ブックスの記事、「新潮」2014年4月号に著作権継承者の松崎さんが寄稿した「後藤明生・電子書籍コレクション」に関する記事もヒットした。

最も驚いたのは、「ユリイカ」2001年3月号「特集・新しいカフカ」に掲載された文芸評論家・城殿智行さんの小論だ。当該誌をめくってみると、目次にも記事の見出しにも「後藤明生」の文字は見当たらない。しかし、記事を読んでみると、後藤作品におけるカフカの影響を論じたものであることがわかる。目次に記されたキーワードからしか記事が検索できないデータベースでは、絶対に見つからない原稿だ。

これほど多くの記事が見つかるとは、予想以上だった。隣席に陣取る仲俣さんに、他の利用者の迷惑にならないよう声をひそめながらも、少し興奮ぎみに「Web OYA-bunko」の素晴らしさを力説する。単純なキーワードだけで検索すると、ヒットする記事が多すぎて逆に不便なので、検索キーワードの選び方にもセンスが必要になるなど、ちょっとしたコツを伝授しながら、それぞれ検索に没頭した。

筆者が閲覧を申し込んだ雑誌は40冊。手元に届くまでの時間は20分だった。後日の取材でわかったことだが、閲覧が申し込まれた雑誌を書庫から取り出して利用者に届けるまで、「20冊で10分」を目標にしているという。そこから、雑誌のページを繰って、お目当の記事に目を通し、必要なものはコピーを申し込む。20冊35枚のコピーが手元に届くまでの時間は30分。この早さは、国立国会図書館を上回るのではなかろうか。

Web OYA-bunkoのログイン後の画面。複数の検索方法が可能。

Web OYA-bunkoの利用案内ページ http://www.oya-bunko.or.jp/web_oyabunko/tabid/73/Default.aspx

仲俣さんが「このデータベース、オンラインで家でも使えたら便利だよね」と言うので、待ってましたとばかりに「今年の4月から使えるようになったんですよ」と説明し、筆者自身もその場で「定額利用サービス」に申し込んだ。

2002年、これまで大宅文庫に行かなければ利用できなかった「Web OYA-bunko」が、大学や公立の図書館にも提供されるようになった。2013年には、賛助会費が年間1万円の個人会員も、オンラインで利用できるようになった。ただし、検索表示料金は1件につき10円。コピーの郵送サービスのほかにファクシミリによるオンライン複写サービスもあり、送信資料代は1枚268円、送信手数料は1件309円。営業日の16時までに申し込めば、当日中に送信してくれる。

がしかし、そこまで急ぐような用事は滅多にないし、それぞれの料金も高い(ただし、会員になれば、大宅文庫に行って資料を閲覧・コピーする際の割引がある)。そのため、地方在住者などからの要望もあり、今年4月からは個人会員にならなくても「Web OYA-bunko」が利用できる、さきに言及した「定額利用サービス」が始まった。年間検索料は5400円で、検索表示料金は0円。ファクシミリによるオンライン複写のサービスはつかないが、有料でコピーの郵送はしてくれる。しかも、3ヶ月間は無料のトライアル期間がつく。大宅文庫に足を運ばなくてもホームページから申し込みができるので、興味がある方は、ぜひ使い勝手を試していただきたい。

「国会図書館のデータベースではヒットしない資料がこれだけ見つかって、しかも月額にすれば450円かあ。近所の図書館にありそうな雑誌はそこでコピーすればいいんだから、これは便利だし、お得ですね」と仲俣さん。筆者の目論見は見事に成功した。

経営悪化の背景

こうした予備取材を経て、経営状態を含めた大宅文庫の実状を伺うべく、正式に取材を申し込んだ。取材に応じてくださったのは、バックヤード・ツアーの際にもお世話になった資料課の黒沢岳さんである。

ここで訂正が一つ。前編で〈平成26年度の貸借対照表を見ると、負債合計は38,540,950円……〉と記したが、これは平成26年度の事業計画の負債合計で、実質的な赤字は正味財産増減計算書に記された当期経常増減額の43,613,580円である。つまり、昨年度は事業計画の段階から赤字予算を組んでいたことになる。さらに平成27年度の事業計画でも24,904,202円の赤字が見込まれている。昨年度、借地だった敷地を購入したことが赤字の原因かと思いきや、平成25年度も約3600万円もの赤字を計上しており、それが原因とも考えにくい。大宅文庫が慢性的な赤字経営になっていることは間違いなさそうだが、その原因は何か? 今後どうやって経営を健全化していくのか?

「雜誌は文庫の宝、貴重な文化遺産です。」との張り紙とともに節電も励行。

赤字のいちばんの原因は、やはり利用者の減少だった。ピーク時の2000年前後、1日の利用者は約100人で、多い日の閲覧は1万冊もあったが、現在は1日に50~60人、閲覧は2000冊、多い日でも3000~4000冊とのこと。さらに、年間契約の法人会員の減少が著しく、それが経営悪化の原因になっているという。法人会員の多くはマスコミ関連企業だが、出版社はまだしも、放送関連企業の継続契約が激減しているという。

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第7回 返品制度の壁と事業計画

2015年9月4日
posted by 清田麻衣子

2013年の年明け、写真集『はまゆりの頃に』は、その年の秋の出版を目指すことになった。

写真家の田代一倫さんはその後、刻一刻と姿を変え、問題が複雑化、多様化していく被災地の人々を撮影し、季節ごとに、所属する「photographers’ gallery」で写真展という形で発表していた。被災地に通い詰め、その時点で800人以上の人を撮影し、お金も底を尽き、撮影中は車で寝る生活を送っていた。話をしていても、頭と心は東北にあって、体だけ東京に居るという感じで、その体も、髪は伸び放題、目はうつろで、服装にも頓着しなくなり、いろいろな意味で危険な雰囲気が漂っていた。

被災地の日常は終わらない。写真家としての覚悟を問われる撮影において、終わり方についてもずいぶん考えていたのだと思う。そして、東北の遅いからこそ眩い5月の「春」という季節と、震災から「3年目」という、死者への弔いの時期を重ね、「終わり」ではなく、「始まり」としてひと区切りしたいということを言っていた。撮影が暴力的行為だという認識が深くあるからこそ、撮影を了解してくれた人のみ、声を掛けたときに立っていたその場所で、真正面から全身を撮影するスタイルをとった写真家らしい、精一杯の誠意の示し方だと思った。そこで、撮影終了からあまり時間が経たず、かつ写真集出版が多い秋に発売を決めた。ついにゴールが見えてきた。

また、2冊目に出す井田真木子さんの本について、過去の雑誌を収集している、東京は世田谷区八幡山の大宅文庫で調べていると、単行本に収録されていないエッセイが予想以上にたくさんあることがわかった。その中には、井田さんが雑誌ライター時代、大宅文庫に通い詰めたということを綴った一篇も含まれていた。会うこともないままこの世を去った作家との微かな繋がりを手繰り寄せたような気持ちになり、静かな閲覧室で、はやる気持ちで文字を追った。

作家になる前に詩人としてデビューしていた井田さんの処女詩集を古本屋で見つけた。奥付の住所が本人の家になっており、探して行ってみると、まだご家族が住んでおられ、つまり、著作権継承者はご健在ということがわかった。本の発売日の目処がたったら、改めて足を運ぼうと心に決めた。これは大きな発見だった。

念願だった2冊の本の作業を進めながら、次第に「本番」が近づいてきたことを感じて身体に血が駆けめぐるような感覚をおぼえた。だが夜ベッドに入ると、昼間の熱を冷ますかのように、心に黒い雲が広がった。この雲の正体ははっきりしていた。お金のことはほったらかしだったのだ。

のしかかる不安

お酒は飲むと強くなる。10年以上に及ぶたしかな訓練によりどんどん耐性はついたものの、元がそう強くはないので、飲んだ記憶はおぼろげだった。なんだか楽しかった感触、どことなくバツの悪い感触だけが翌朝に残った。飲んで消えた時間と酒代をこれほど後悔する日が来るとは思ってもみなかった。

いったん不安と後悔が押し寄せると、ベッドの中で悶々としてなかなか寝付けず、布団をかぶって声に出して叫んだ。

「ひとりで出版社をやるなんて全然思ってなかった!」

のちに、「一人で出版社を始められた経緯を教えてください」と取材される機会が何度かあり、オファーを受けたものの、いざ質問に答える段になると、自分が発したもっともらしい言葉に自分で驚いてしまって、次の言葉が出てこない、ということがよくあった。常に現在進行形で、自分のしていることに確信が持てない。行き当たりばったりなのだ。取材する側からされる側になって初めて、現在進行形の事柄の「意味」や「意義」を問われ、出てきた「答え」が、いかにあやふやなものかを知った。

私の計画性のなさは、特に予算面に如実に表れていた。会社員時代、「本の内容を見極める勘と腕を磨きさえすればよいのだ」と、編集業にあぐらをかいて、なおざりにしていたことはたくさんあったが、中でも最大の事柄は、経理や予算組み、つまりお金にまつわることだった。しかし、もう「本番」は視界に入っている。『はまゆりの頃に』は撮られた人はすべてたいせつな存在であり、できるだけ多くの人の写真を入れたい。「井田真木子本」は、主著はどれも捨て難く、未収録のエッセイも詩も、と入れたいものは増えていき、削りに削ったとしても、2巻組のぶ厚い本になるだろう。

「せっかく出すんだから」と考えだすと、希望に際限がなくなる。しかし形にするには、どのくらいの予算をかけてどんな本を作るのか、という私の中での「上限」を見極めなくてはならない。「部数を増やしてください」とか「もっと予算ください」と泣きつく側も、「じゃあまず買う人の見込みを立てろ」とか「できるだけ安い紙を使え」などと突っぱねる側も自分というのは、なかなかややこしい。

また、私に限らず、出版社をやろうとする人を苦しませる大きな問題に、出版業界の返品制度がある。発売後、取次に出荷する時点で一度売上が立つものの、実際にお金が入るまでは、発売後半年以上の空白期間があるのだ。

なぜなら、書店は注文した本が売れなければ返品という形で取次に戻すことができる。もちろん返品は少ないに越したことはなく、返品されるスピードは遅いほど助かる。取次は、返品の様子を初回の出荷とその後1〜2ヶ月の売れ行きから予測して、およそ半年〜8ヶ月後、出版社に「見込み」の数字で入金していく。売れる本なら何度も注文が来て、途中で在庫がなくなったら増刷という展開もあるが、売れない本なら初回の出荷だけであとは返品処理のみとなり、早いスピードで流通が終わってしまう。売れたら長く入金は続くし、売れなかったら早く入金は終わる。その見込み入金を何度か経て、徐々に売上の実数が確定する。

いずれにせよ、納品から入金までにとても時間が空いてしまうことから、そこまでの資金繰りがとてもたいへんなのである。会計上は売上が立つので利益が出ているように見えても、実際の手元には資金がない、ということが起きるのだ。こういったことも、大枠で言葉だけで理解していたものの、実際の感覚は自分で始めてみて、ようやく掴めたことだった。

この独特な出版経理の基本に基づき、今後の出版計画や予算の都合をつけなくてはならない。だがいくら自分の予定に当てはめて想像しようとしても、頭がフリーズして、ただただ不安でどんより暗くなってしまう。仮の数字でモノを考えるということができない。困りきったときは、とにかく人に聞くしかない。一人で出版社をやるのは、一人で旅に出て人と交流するのと似ていると思った。

創業者支援融資斡旋制度にトライ

美人でしっかり者で、かつ真顔で「えー、ソレやばいんじゃないの?」と、昔からシビアな現実を遠慮せずにビシビシ突いてくれる、高校時代からの友人が大学を出て税理士になっていた。法人にするか、個人事業主にするかを最初に相談したのも彼女だった。藁にもすがる想いで、彼女に里山社の税理士として正式に依頼した。学生の頃、数学の試験の直前に解き方を聞いて丸暗記しようとしていた時と変わらない構図だった。

待ち合わせした駅の喫茶店で、出版経理について事細かに、しかしたどたどしく説明する。

「へー、ややこしいんだね」

さして表情を変えずにそう言いながら、私の下手くそな説明をひととおり聞いて、里山社の出版予定をサラサラとメモした彼女は、カタカタと電卓を叩き、かつて数学の回答を導き出したのと同じように、スラスラとプランを組んでいく。見守るだけで手持ち無沙汰の私は、彼女が頼んだ紅茶を半分も飲み終わらないうちに、自分のアイスコーヒーを飲み干し、ガリガリと氷を噛んで待つ。

「たしかに出版経理はややこしいけど、とにかく入金と出金の額とタイミングを整理することだよね」

30分もしないうちに、『はまゆりの頃に』そして「井田真木子本」上下2冊の予算案、そして入金時期を仮であてはめ、向こう3冊の必要額の目算が出た。黒い雲でしかなかったものは、ごくシンプルな表となって目の前に現れた。なんでこれができなかったんだろう……。しかし、ここで課題がはっきりした。

「やっぱり入金までの長さを考えると、いまの予算だと少し不安だよね。親に借りるか、どこかで借金をするかしたほうが安全だと思う」

やはりきたか……。親に借りたいのはやまやまだが、この先も借りる機会が出てきそうな気がして仕方がない。いざというときに切り札は取っておきたい。しかし、会社員生活が長い私には、「借金」というものにも抵抗があった。

「うーん。どうしても借りないとダメかな……」

すると、彼女はおもむろに、

「ひとつ提案があるの。悪くない手だと思うんだけど」

カバンから取り出した書類には、《創業者支援融資斡旋制度のご案内》とある。

「なに創業者に助成金くれるの?」

すぐムシの良い勘違いをしそうになる私を「ちがうちがう」と彼女が制す。

「まあ借金ではあるんだけど、保証人がいらなくて、しかも利子のほとんどを自治体が肩代わりしてくれるの。しかも返金までの期間が最長7年だから、そんなに無理なく返していける。公的なものだから安心だし。それに法人じゃなくて個人事業主でも大丈夫なの」

つまり、真っ当な事業計画にもとづいて創業しようと考えているものの、当座の回転資金が足りない人に向けて、自治体が銀行側のリスクを軽減しつつ、バックアップしてくれるという制度なのだ。奨学金みたいなものといえば言い過ぎか。

「ただ自治体の審査が降りて、さらに銀行の審査が降りたらなんだけど……」
「やってみる」

即答した。聞けば聞くほど、やらない理由が見つからない。彼女が導き出してくれた青写真をもとに、借りたい額も決まった。それらの数字を書類に書き込んでいけばいいのだ。何度かやりとりを交わし、というかほとんど助けてもらって、数週間後、統括している区の産業振興公社に満を持して書類を提出しに行った。

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私設雑誌アーカイブ「大宅文庫」の危機【前編】

2015年8月27日
posted by ツカダ マスヒロ

「知らなかった、大宅文庫が経営の危機にあることを」――。

8月8日、このような一文から始まる書き込みをFacebookにアップした。すると瞬く間に「拡散」され、5日後には「いいね!」が497人、「シェア」が276件。Facebookと連動させているTwitterのほうは、「リツイート」が674件、「お気に入り」が272件……。正直、驚いた。こんなに話題になるとは思ってもいなかった。その一方で、「みんな本当に大宅文庫に関心があるの?」と訝る気持ちも生まれてきた。

2015-08-12 14.26.10

2015-08-12 14.26.28

公益財団法人・大宅壮一文庫(以下、大宅文庫)は、東京都世田谷八幡山にある雑誌専門の私設図書館だ。その名の通り、ノンフィクション作家で評論家の大宅壮一(1900〜1970年)が蒐集した膨大な雑誌資料が元になっている。大宅壮一といえば「一億総白痴化 」や「駅弁大学」「男の顔は履歴書である」といった名言・語録でも知られているが、「本は読むものではなく引くものだ」という言葉も残している。事実、大宅の文筆活動は大量の資料に支えられており、終戦後まもなく意識的に本や雑誌を蒐集するようになったという。それらの資料は同業者や門下生にも開放され、没後の1971年、雑誌専門の私設図書館としてオープンした。

現在、大宅文庫が収蔵する雑誌は、約1万種類、約76万冊。これほど大量の雑誌をアーカイブし、一般公開している私設図書館は、国内では例がない。これに匹敵するのは、国立国会図書館と東京都立多摩図書館くらいだろう。

このような専門性を持った図書館なので、利用者はもっぱら放送・出版などのマスコミ関係者か、論文を執筆する大学生や研究者である。出版業界で20年近く糊口を凌いできた筆者も、これまでに何度も大宅文庫に出向き、資料を検索しては閲覧を申し込み、山積みにした雑誌のページを繰っては記事をコピーしてきた。○○さんのあの単行本も、△△さんのあの単行本も、「大宅文庫でコピーした記事から生まれた」と言っても過言ではない。

市区町村の公立図書館、あるいは大学図書館でも、雑誌のバックナンバーを保管しているところは少ない。長くても2〜3年、早いものでは1年も経たずに廃棄されてしまう。収蔵スペースに限りがあることもさることながら、古くなった雑誌を閲覧したいという需要があまりないからだろう。そのため、大宅文庫の利用者は、先に記したような特殊な雑誌資料を探す人々ばかりで、さしたる目的を持たずにふらっと訪れるような人はいない。筆者が訝しく思った理由はそこにある。「いいね!」が497人、「シェア」が276人、「リツイート」が674人、「お気に入り」が272人。このなかで実際に利用したことがある人は何人いるのだろう……。

バックヤード・ツアーを体験して

冒頭に記した大宅文庫の「経営危機」であるが、それを知ったのは、毎月第2土曜日に開催されているバックヤード・ツアーに参加したことがきっかけだった。

その日の参加者は5名。まずは2階の閲覧室で大宅文庫の概要や大宅壮一についての説明を受け、続いて館内に併設された書庫を案内してもらった。ガイド役は資料課の黒沢岳さん。書庫の中は、まさに溢れんばかりの雑誌が並んでいた。「週刊現代」や「週刊新潮」など最も利用頻度が高いという週刊誌の創刊号から最新号、すでに休刊・廃刊となったものの、それぞれの時代を彩った大衆誌や専門誌、さらには、書店ではなかなか目にすることがない総会屋雑誌や企業PR誌……。珍しいものでは、まだ雑誌名すら決まっていなかった「an・an」の創刊準備号や、終戦後、大宅自身が古書市で競り落とし、発行元の中央公論新社にも残っていないのではないかと噂される創刊初期「婦人公論」なども見せていただいた。

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そんなビブロフィリア垂涎のお宝を前に欣喜雀躍しながらも、黒沢さんの説明の節々に混ざる「予算がなくて……」という言葉が気になった。

たとえば、収蔵する約1万種類もの雑誌の中には、創刊号から全ての号がコンプリートされていないものもあるという。筆者が「欠落したバックナンバーは、古本で買い集めたりするんですか?」と問うと、「できればそろえたいのですが、なかなか予算がなくて……」と黒沢さん。さらには、大宅文庫が所蔵する雑誌のうち誌面の欄外に「誌名・号数・ページ数」が記されていないものは、すべて手作業でそれを記していくルールになっている。誌面をコピーした際、それが何という雑誌の何月号の何ページに掲載されたものか、一目でわかるようになっているのだ。「この作業、結構、時間がかかりますよね?」と問うと、またもや黒沢さんは「この作業も人手と予算が足りなくて、いつまで続けられるか……」と言うのだった。

バックヤード・ツアーの最後に質疑応答の時間が設けられた。いくつかの質問をした最後に大宅文庫の経営状態についてあらためて訊いてみると、「担当ではないので、きちんとご説明できない部分はありますが、昨年度は4000万円近い赤字を計上しました。それについてはホームページでも公開しています」とのこと。あとで知ったのだが、大宅文庫は今年4月、入館料の実質的な値上げを行っていた。そして、平成26年度の貸借対照表を見ると、負債合計は38,540,950円……。

大宅文庫は、経営の危機に瀕していた。

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地球の裏側にある日本語書店

2015年8月25日
posted by 西牟田靖

「本で床は抜けるのか」の書籍版が発売されてから、早いものでもう5カ月経ってしまった。発売後、ウェブサイト版同様、好評をいただき、版を重ね、4刷に達した。また、6月にはボイジャーから電子版が発売された。「マガジン航」を発行していたボイジャーから発売されるということは、鮭が生まれ故郷の川に戻ってきたようなもので、発売時、何とも言えない感慨があった。

ウェブ連載と紙や電子の本とでは、内容の方向性こそ同じだが、両者はまるで別物である。その都度一気に取り憑かれるようにして書いたウェブ版はあくまで途中経過の報告でしかない。一方、紙や電子の本は、新たな章を設けたり、全体をブラッシュアップしたりして、一つの読み物として読めるよう、相当に改良を加えた完成形である。ウェブ版しか読んでいないという方は紙か電子版の「床抜け」をぜひ手に取るかクリックして手に入れてほしい。著者である西牟田は読者からの感想を心待ちにしている。

サンパウロの日本語書店「太陽堂」

さて、ここからが今回の本題である。「本で床は抜けるのか」の紙の書籍版の加筆修正作業が終わった後の2月、僕は旅に出ていた。加筆修正作業に忙殺され、凝り固まった思考回路を、仕事とはまったく関係ない場所に出かけることで、気分一新、再スタートを切りたかったのだ。その目的地として選んだのが、南米の大国ブラジルである。一度は見てみたいと思っていたリオのカーニバルが毎年2月中旬に開催される。そのことに気がつき、背中が押された。

最初に訪れたのは南米最大の都市、サンパウロである。近郊を含めれば2000万人以上という巨大都市で、この街や周囲には日系人が約100万人も住んでいるという。東洋人街を訪れると、不動産屋や食料品店など、日本語の看板がちらほらと目立ち、「米5キロ」とか「お弁当」に「たこ焼き」に「牛丼」といった日本食に加え、カワイイ系のグッズを取りそろえる店というものもあった。現地の若者が10人ほども集まってロリータファッションで闊歩している姿もちらほらあり、古いものから新しいものまで。地球の真裏にあるこの東洋人街に、日本の文化がぎゅっと凝縮されていた。ひどい時差ボケの状態だっただけに、「地球の真裏に現れた日本」が蜃気楼のように実在しないもののようにときおり思えた。

地下鉄の1号線リベルダージ駅。東口を出たところすぐに店が見える。

サンパウロ市内の地下鉄リベルダージ駅の出口の道路向かいに「SOL 太陽堂」と記された看板を掲げる店をみかけた。店の外から本がならんでいるのがみえる。看板が日本語であることからすると、もしかすると日本語の本も扱っているのかも知れない。

中に入ると、予想を超えた品揃えだった。というのも置かれているのが日本語の本ばかりだったのだ。文庫本も雜誌も入荷する冊数が少ないせいか、平台の上に、棚差しされたように背表紙を上に向け、一冊ずつ並べられている。平台に置かれた雜誌には「週刊文春」「サンデー毎日」、「女性セブン」らしき女性週刊誌、「オール讀物」「きょうの健康」などがあった。

表紙が見えるラックには女性用のファッション誌、韓流ドラマと日本のアイドルの雑誌やムック。奥には文房具やご祝儀袋や香典袋、教科書類が置かれていて、日本国内でいえば小都市に残るやや大きめの個人書店といった品揃えであった。

女性誌は各誌そろう。ひもで縛ってあるのは、スマートフォンなどで誌面を撮影する、いわゆるデジタル万引きが横行しているためのようだ。

入り口ちかくにある独特の置き方をした平台。雜誌も文庫本も背表紙を上に向けている。

平台に一冊ずつという置き方以外のほかにも、この書店には変わった点があった。雑誌にしろ、単行本にしろ、ラインナップがやや古いのだ。訪れたのは2月の半ばだというのに週刊マンガ雑誌は新しくても12月に出たものしかなく、最新刊はない。月刊のファッション誌や総合誌・文芸誌にしても数ヶ月遅れ。ちょうどこのとき『本で床は抜けるのか』(本の雑誌社)の刊行に合わせ、僕が書いた長い記事を載せてくれた「本の雑誌」の最新号が日本国内では発売されていた。しかしこの書店には「絶景書斎を巡る旅!」という特集がなされた2014年7月号があるだけで、最新号はまだ届いていないようだった。

週刊の漫画雑誌は4号ずつひもでまとめてあり、4冊合計分の値段が書かれていた。「少年マガジン」が4冊で68.11ヘアイスというから、日本円で約2930円。日本での発売価格を合計すると1050円だから3倍弱の価格である。店内には日本での定価とブラジルの通貨の対応表が貼ってあり、月刊誌にしても単行本にしても、そのレートで統一されていた。

漫画雑誌コーナー。少年誌に青年誌、少女雑誌と各種そろう。週刊の漫画誌は4冊まとめて売られている。同じ雑誌でも古ければ古いほど安く売られている。

1949年創業の老舗を支える二代目店長

店内は、日系人とおぼしき、中年以上の男女を中心に賑わっていた。日本人がブラジルに渡ってから百年あまり。日本語を話せる世代は減っているはずだが、それでも日本語専門の書店が成立するほどに、この国での日本語のマーケットは依然大きいらしい。

10年ぐらい前までは「文藝春秋」が発売されたらそれこそ飛ぶように売れたものですが、それも昔となりました。「亡くなった」とか「読めなくなった」とか「身体が動かない」とか、定期購読していただいたお客さんから、そのような寂しいお話しをうかがうことが多くなりました。

そう話すのは二代目の店長で、日系二世である浦山美千枝さん。義父の故・藤田芳郎氏(2014年に逝去、享年94)が1949年に創業したこの店を彼女が引き継いだのは20年前のこと。書店の他には軍手を製造販売したり、文房具の販売も手がけたりしている。

「太陽堂」の二代目店長である浦山美千枝さん。

先代の藤田氏はなぜ日本語の書店を遠く離れたこの地に作ったのだろうか。

戦争中、日本はブラジルの敵ということで、「日系人はすごくひどい目に遭った」と義父は話していました。「二人以上集まって話しただけで警察に連れて行かれたり、日本語の本を没収されたり。わずかに持っていた日本語の本が取り上げられないよう、箱につめて山の中に埋めて隠した人もいた」と。

本屋を開業するきっかけについてはこんな風に話していました。「戦争が終わってまもなく、友達の父上から本をゆずり受けた。奥地に住んでいて没収を免れた本。それらを古本として売って回ったところ、ものすごく売れた。日本人がいかに日本語を読むのに飢えてるのかを思い知り、日本から本の輸入・販売を始めたんだよ」と。

ところが、戦争に負けただけに、日本から届いた本はがっかりするぐらいに作りが粗悪だったそうです。「初めて届いた雑誌はわずか63ページ。藁でできた粗末な紙で、それを見たとき、ずいぶんガッカリした。だから、アメリカから日本へ紙を送って印刷してもらうようにしたんだ」とのことです。

その後、日本語書籍の販売は隆盛を極める。

1960~70年代当時、日本から本を輸入するとものすごく売れたそうです。値段は3倍、発売時期も遅れているのに、店頭に並べたら、それこそ飛ぶように売れたと聞いています。そのころは16軒も日本語書店が競い合っていて、もちろん、当時は日本語の本を扱う古本屋さんもあったそうです。当店もブラジル各地に6店舗ありました。トラック6台分の日本語の本や雑誌を取り寄せていたそうです。

現在、ブラジルで日本語書籍を扱う本屋は、サンパウロ市内に4店舗あるのみです。それだけ日本語の書籍を読む人が減ってしまったという事なんですね。淋しいです。

しかも、その中の1軒は、すでに3年前に書店そのものはシャッターをおろしてしまい、いまは卸しと、定期購読をしている古くからのお客さんを対象に細々と輸入を続けているようです。残りの太陽堂、竹内書店、高野書店の3店舗はここ、同じリベルダージ区で徒歩でもごく近い距離にあります。

残った私たちは、ライバル同士というよりも、みんなで力をあわせ、協力し合ってこれから先もずっと日本の文化をブラジルに伝え続けて行きたいと、日々頑張っているところです。

国際化するMANGAと、「アマゾン」の読者

いまやかつての景気は去ってしまった。日本語を読める人が年々少なくなっているからだ。しかし、太陽堂に閑古鳥が鳴いているかというと、そうではない。

若い人を対象にした本を売ろうと頑張っているところです。おかげさまでMANGAがものすごく売れています。土日になりますとね、MANGAをもとめてやってくる若い人たちで店が満員になってしまうんです。

ここでいうMANGAとはポルトガル語に翻訳された日本の漫画のことだ。奥行きのある縦長の店の中ほどには、『ONE PIECE』や『NARUTO』、『テルマエ・ロマエ』といった人気漫画のポルトガル語版がたくさん置かれたコーナー、さらに奥には日本語教材が置かれていた。

こちらはコミックスのポルトガル語版。最近はこうした日本の漫画の翻訳版が若い人に売れているそうだ。

日本の情報文化を日本語を母語とする人たちを対象とする発信地だったのが、今では日本に関心を持つ、ポルトガル語を母語とする若い人たちを対象とする日本文化の発信地へと、時代にあわせてこの店は脱皮し、進化しているということなのだ。

ではなぜ、こうした売れ筋の本を店頭に出さないのだろうか。

前は目につくよう、店頭に置いていたんですけど、万引きが増えてしまったんですよ。店の中ほどだと店員の目が届きますから。

売れたら売れたで、問題が起こるらしい。

ところで、この本屋は取次的な役割も担っている。

この店が中継点になって、アマゾンに住んでいるお客さんが注文した本をまとめて輸入し発送したりします。定期購読のお客さんは国中に散らばっています。だから雑誌が入ってくると大変なんです。

本や雑誌はこの店からさらにアマゾン川流域などに送られる。

バックヤードに注文票を貼り付けられて積まれている本の山。これらは、国の北部にあるアマゾン川流域など遠すぎる場所に住んでいたり、または身体が不自由だったりという、何らかの理由で、店に買いに来られないお客さんのところに届けられる。

ブラジル国内には、他に日本語書店はありません。サンパウロから離れた州(日系人が多いパラナ州とか)で、何かのお店の片隅に私たちから購入した書籍をほんのわずかおいてあるところは2、3ヶ所ありますが。日本からの派遣社員が多くいる日本企業などでは、社員やその家族のために日本の本社から直接送ってもらっているようです。

日本から本が届くまでのプロセスやその期間、そして販売価格についても聞いてみた。

こちらに届くのは、日本で発売されてから2カ月後です。値段は日本の約3倍です。高いと思いますけどそれでもギリギリの価格設定なんです。船賃やコンテナ代、港からの輸送費のほかにロジスティクスの保険、燃料、通関代行の手数料が加算されるんですよ。とくにね、ブラジルは保険が高いんですよ。というのもトラックで運んでいる途中に(強盗に)狙われることが多いんです。そういうもろもろをまとめるとこうした値段になってしまうんです。

本や雑誌の輸入はすべて買いきりで、返品はできません。日本側で受け入れてくれませんから。取引先は、もう66年間もお世話になっている日本出版貿易株式会社(Japan Publications Trading Co.,ltd. )で、ここにすべて日本側の手配をお願いしています。雑誌は次の号が入ると、古本になってしまいます。そうすると1割、2割安くしていきます。だから大変なんです。

彼女の話を聞き、連想したのは、かつての日本領にあった書店のことだ。

朝鮮半島や樺太、台湾や南洋、そして満洲には日本語書店が存在した。そのことを、僕は『〈日本國〉からきた日本人』(春秋社)を書くにあたって引揚者の人たちから聞き取りをするなかで知った。それらは敗戦によって閉店を余儀なくされ、二度と営業を再開することはなかった。その結果、日本語の文化は戦後、現地語に取って代わられた。

一方、太陽堂は戦後まもなく創業し、66年後の今も営業を続けている。この店を含む4店の日本語書店が残っているからこそ、地球の裏側のブラジルに日本語が残り、日系人が祖国にアイデンティティを持ち続ける一助となっているのだろう。

小出版社の「産直」フェアに行ってきた

2015年8月21日
posted by 仲俣暁生

東京の表参道交差点のすぐ近くに、山陽堂書店という小さな本屋があります。1945年5月の山の手空襲にも建物が耐え、逃げ込んだ多くの人の命を救ったという逸話もある、明治24年(1891年)創業の老舗です。構えは文字どおりの「町の本屋」ですが、いまは2階と3階が「ギャラリー山陽堂」という画廊になっており、さまざまな展覧会やトークイベントが行われています。

この「ギャラリー山陽堂」を会場として、8月21日・22日の両日に「本の産直・夏まつり」が行われるという話を聞き、さっそく初日に行ってきました。

小出版社が集まって本を売る理由

この産直フェアに参加したのは、以下の出版社です。

長引く出版不況といわれるわりに、小さな出版社の創業はいまちょっとしたブームです。この催しに顔を出してみようと思ったのは、その当事者の人たちに話を聞いてみたかったからです。

上のリンクをみれば分かるとおり、参加社のなかには2014年以後に創業した会社がいくつかあります。またこのうちのいくつかは「ひとり出版社」で、そうでなくとも小規模の出版社ばかりです。過去に仕事上でお付き合いのあった編集者が独立して出版社を立ち上げ、この催しに参加していたことを会場ではじめて知って驚くという一幕もありました。

そもそも日本に3000社以上あるといわれる出版社のうち、大半は社員10人以下の小出版社です。このところ「ひとり出版社」という言い方が流行し、こうしたことは最近の現象のように思われていますが、出版社はもともと小規模でもできる仕事なのです。またDTPやインターネットの普及、小さな出版社に対しても門戸を開く取次会社の登場などが、新規開業の後押しをしている面もあるでしょう。

この催しの旗振り役は、このギャラリーで過去にイベントを行ったことがある羽鳥書店さん。会場では同社の編集者の方がレジに立ち、立ち寄るお客さんに丁寧な対応をしていました。ギャラリーはかなり小さいのですが、2階と3階のいずれもが会場にあてられており、思ったより余裕のある配置でした(上の写真は2階から3階に上がる螺旋階段)。

会場に入ると、決められた幅の机の上にどの出版社も自社の商品を陳列しているうえに、背後の壁面にも絵やポスター、色校ゲラなどをディスプレイし、それぞれの特徴を出すよう工夫していることに気づきます。

たとえば苦楽堂は、いまはなき神戸の書店、海文堂のイラスト店内マップを展示。スタイルシートはカバーの本紙校正を見事にインスタレーションしていました。また昭和5年に謄写印刷業として創業した滋賀県彦根市のサンライズ出版が、当時の写真を大きくディスプレイしていたのも印象的でした。

書店の壁面は、たいがいは書棚で埋められているので、このように版元ごとに思い思いのインスタレーションがなされている様は新鮮です。一時的なイベントなので空間利用の効率を度外視できるとすれば、こういう「売り場」はアリだと感じます。

出版社による本の「産直」そのものは、めずらしいことではありません。より大規模な試みとしては、毎年7月に行われる「東京国際ブックフェア」があります。ブックフェアは本来、国際的な版権取引などのための場ですが、日本のブックフェアは実質的に出版社による直販(しかも大幅割引による)として機能しています。さらにマンガを中心とする同人誌の即売会としては、40年の歴史をもつ「コミックマーケット(コミケット)」が東京国際ブックフェア以上の歴史をもっています。

東京国際ブックフェアやコミケットほど巨大ではない「産直」即売の試みとしては、東京・蔵前で7年にわたり行われている「BOOK MARKET」も知られています。本の売り方や売り場が多様化していくのはよいことで、このような「本の産直」は他の場所でも、いろいろと行なうことができそうです。

「本屋」はもっと縁日みたいでいいのかもしれない

出展者のすべてが会場にいたわけではありませんが、20年以上前に同じ雜誌で働いていた仲間が「ひとり出版社」を立ち上げ、この催しに参加することはあらかじめ聞いていたので、彼に会いに行くことも今日の目的の一つでした。「港区でいちばんちいさな出版社」を標榜するビーナイス代表の杉田龍彦さんです。

杉田さんも大手出版社での勤務を経て、2009年にビーナイスを設立しています。絵本、切り絵画文集、写真集、カードブック、電子書籍など多彩なジャンルの本を出してきました。この日の展示でいちばん目を奪われたのは、(多少の身びいきはあったかもしれませんが)このビーナイスの棚でした。カラフルな本にまじって、震災復興チャリティのための「さば缶」や自作できる豆本キットなど、なんというか「縁日の夜店」のようなにぎわいがあり、楽しい気分にさせられたのです。

図書館のように棚に本がぎっしりと詰まった大型書店にもよさもありますが、壁面にインスタレーションがなされ、平台には夜店のように本以外の商品もまじえて物が並んでいたり、そうかと思えば、丁寧に造本された文芸書や人文書が並んでいたりと、この「産直・夏祭り」は、まさに「祭り」の名にふさわしい高揚感を与えてくれました。いま、次々に登場しつつある「ひとり出版社」は、もしかするとこうした「祭り」のような空間にこそ似つかわしいのかもしれません。

この「産直・夏祭り」は22日まで開催されています(11時~19時)。図書カードのあたるくじ引き(外れてもさまざまな版元グッズがもらえる)など、お祭りらしい特典もあり。本との新鮮な出会いを求めて、ふらっと出かけてみてはいかがでしょう。

本の産直・夏祭り@山陽堂
http://sanyodo-shoten.co.jp/news/2015/08/-821221119.html