ウィキペディアタウンをMLAの立場から考える

2017年7月11日
posted by 福島幸宏

この数年、文化資源を保存・活用する機関である図書館・博物館・文書館等(以後、MLAという)の所蔵資料を「拓く」新たな試みが始まっている。

日本においてその端緒となったのは2014年3月に行われた、京都府立総合資料館による国宝東寺百合文書の公開である(福島幸宏 「京都府立総合資料館による東寺百合文書のWEB公開とその反響」カレントアウェアネス-E No.259 を参照)。

上記に限らず、日本においての現段階の試みは、資料のデジタル化のあと、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスを適用してウェブに出すという方法をとっている。MLAの所蔵資料のポテンシャルを引き出すため、現段階の技術と環境を背景に、大量かつ高精細のデジタル画像を作成したのち、適切なシステムとライセンスを付与することで、市民社会と共有するという試みと言えよう。

この手法が有効であることは、MLAの将来が市民社会とともにあり、そのためにデジタル技術を活用すべき、と真剣に考えている関係者の間でほぼ共通の認識となりつつある。

この点が共通認識となっていることを示すひとつの事例が、筆者自身もワーキンググループ構成員として参加した、「内閣府知的財産戦略本部デジタルアーカイブの連携に関する関係省庁等連絡会、実務者協議会及びメタデータのオープン化等検討ワーキンググループ」が2017年4月に公開した2つのドキュメント、報告書「我が国におけるデジタルアーカイブ推進の方向性」とガイドライン「デジタルアーカイブの構築・共有・活用ガイドライン」が作成されたこと自体であろう。

この潮流を基盤として、もしくは絡まり合ってMLAに関係してきたのが、ウィキペディアタウンという活動である。ウィキペディアタウンは、街の名所や旧跡などをウィキペディアの記事にして、街をまるごとウィキペディアにしようというプロジェクトで、現在まで、日本国内に絞っても80回以上開催されている。

ウィキペディアタウン自体については、「マガジン航」に小林巌生氏による「ウィキペディアを通じてわがまちを知る」が掲載されているので、こちらをご覧いただきたい。一言だけ付け加えるなら、MLAと連携したウィキペディアタウンは、2013年10月30日に開かれた、OpenGLAM JAPAM設立記念フォーラムでも議論された、Wikipedian in Residence というプロジェクトの進化形であるとも言える。

さて、特に地域のMLAにとってウィキペディアタウンがもたらす端的な成果は、世界有数のアクセス数を誇るウェブサイトに、保持しているユニークな地域情報等が二次利用可能な形で公開される、ということに尽きる(この重要さが直観できない読者はここで読むのをやめていただいて構わない。おそらく無駄な時間を過ごすことになるから)。しかし、本稿ではもう少しだけ踏み込み、このウィキペディアタウンが、資料を拓こうとするMLAにとってどのような意味を持つのかを手短に述べ、MLAの活動の今後への論点を示すことにしたい。

ウィキペディアタウンサミットが突きつけた三つの課題

今年の3月5日に京都府立図書館で「ウィキペディアタウンサミット2017京都」が開催された。OpenGLAM JAPANが主催したもので、日本国内におけるウィキペディアタウンの取り組みを共有するとともに、今後の活動を活性化することが目的とされた。北は茨城県、南は福岡県から、図書館関係者・大学関係者・行政関係者・企業関係者・大学院生・高校生など57名が参加した。

当日、午前は各地の状況の紹介と情報交換、午後は会場である京都府立図書館周辺の「大鳥居」「平安神宮」「岡崎公園」「京都市勧業館」の記事執筆の実践と討論を通じ、参加者が自らウィキペディアタウンを主催できる力量を育てるためのファシリテーター養成講座が行われた。

Wikipediatownの会場となった京都府図書館。

スタッフが参加者にルールを説明する(左端は筆者)。

この催しは非常な盛り上がりを見せ、成功であったと考えるが、その一方、当日の議論を通じてMLAには以下の各点が突きつけられた。すなわち、

(1)著作権等の本来の目的「文化の発展に寄与」という点への深い理解を更新すること、
(2)各種の動向に関する情報を常に収集しておくこと、
(3)所蔵資料を拓く手段が別の段階に来ていること、

である。この3点について筆者の考えを詳しく述べたい。

(1) 著作権等の本来の目的「文化の発展に寄与」という点への深い理解を更新すること

著作権法第1条には、「この法律は、著作物並びに実演、レコード、放送及び有線放送に関し著作者の権利及びこれに隣接する権利を定め、これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与することを目的とする」とある。

わざわざ全文を引用したのは、MLA関係者が、この著作権法の目的、特に「文化の発展に寄与する」という部分を置き忘れた運用を行っている実例が多数あるからである。典型的なのは、ミュージアムにおける疑似著作権であり、ライブラリーにおける個別の著作物に対する判断を放棄したかに見える画一的な複写制限であろう。

くしくも朝日新聞 2017年5月3日と4日には、「所蔵品画像、自由に利用OK」「「イメージ管理」、貸し出し慎重」(シェアに向けて 全国美術館アンケートから:上下)と題して、この疑似著作権について重大な疑問を呈する記事が掲載された。

これらの無作為がいかに社会の発展を阻害しているかは、多数の先行研究等を引用しつつ、多くの機関が持つ古文書や絵画・写真等を、横断的かつ厳密に参照するドキュメントの書き手に一度でもなれば、心底から気が付く。ウィキペディアの記事も、良質なものは当然ながら上記のドキュメントの一種である(有名な「地方病 (日本住血吸虫症)」の記事を参照のこと)。

また、ウィキペディアタウンでは、MLA関係者は直接の書き手というよりも、資料の紹介などの補助者に廻ることが多い。通常業務でも行っていることではあるが、その資料がどのように利用されるかを目撃し、また利用のシーンにも直接介入することになる。この経験は、場合によっては自らが書き手となるよりも、他者に短時間で理解の要点を伝える、という点で、より著作権への深い理解が進むことになるかもしれない。

ウィキペディアタウンに関与することで、著作者の権利に配慮しつつも、著作権法をどのように理解・運用すれば社会の発展に寄与することが可能か、自らの問題として考える深刻なきっかけが与えられるのである。

(2) 各種の動向に関する情報を常に収集しておくこと

MLA関係者が、常に最新の動向をキャッチアップし、科学的な正しい判断で資料や資料情報の取り扱いを行っている、というのは幻想である。

学芸員や司書も単なる給与所得者、ポジションによっては、日々研鑽を積まずともその身分や収入が保障されている給与所得者に過ぎず、知識が古びてしまっている場合も多い。軽易な撮影のためのフラッシュの光程度で資料が劣化すると信じている学芸員や、図書館システムについてまったく知ろうとしない司書など、その実例は枚挙に暇がない。

その原因は何か。非常に単純なことで、アンテナを張って、情報を収集しない、もしくはそのインセンティブを感じてないからである。

例えば、筆者がいま身を置く図書館の世界では、2014年6月に、図書館がオープンデータの動向にどのように支援あるいは貢献できるかを述べたレビューが出ている。そこでは、図書館がもっている情報を適切に公開することで情報源たり得ること、さらに複数の情報源を組み合わせて新たな知識を作り出すことや、情報発信を支援することで利用者支援につながることなどが指摘されている(大向一輝「オープンデータと図書館」カレントアウェアネス1825)。

この論考は、現段階でもおおむね首肯できる、広範かつ行き届いたものとなっており、冒頭で述べた新しい潮流の理論的支柱となっているものである。だが、図書館員の多くが、この論考の存在自体を知らない。図書館界などに関する最新の情報を集めている国立国会図書館のサイトに掲載されているにも関わらず。

ウィキペディアタウンに関係することで、MLA関係者はいやでも、これまでの情報と認識の更新を迫られることになる。よきにつけあしきにつけ、ウィキペディアには独特の世界があり、MLAとは異なるルールを知らなければならない。またウェブを紐帯とするその特性上、事態の展開が早い。関わることで各種の動向に敏感になり、常に情報収集を行う姿勢がいやでも身につくことになる。

(3) 所蔵資料を拓く手段が別の段階に来ていること

日本社会でMLAが成立した近代以降の150年間で一番投資し、かつ最大の武器はなんであろう。それは資料と資料情報である。この20年近く論じられている「場としての図書館」や「教育過程への博物館体験の導入」などの議論も良質なものはこれが前提になっている。資料と資料情報を、世代を超えてストックし続け、適切に管理すること、この点が、他の公共的施設とMLAとの最大の差である。これを放擲したり軽視するようでは、MLAの本義を失っているといってもよい。

一方で、活用の手法を常に更新せず、外的な条件が整っているのに、資料と資料情報を社会に向かって拓かず、従来の方法を墨守しているとすれば、資料と資料情報への一種のネグレクトであると言わざるを得ない。

そして、この資料を拓く手段は、新しい段階に来ている。本稿の冒頭で述べた、高精細のデジタル画像を使いやすく、かつライセンスを付してウェブに出す手法は、2014年の段階では輝かしい解に見えた。しかし、ウィキペディアタウンを経験した現在、資料から情報を引き出し加工するという情報の構造化の段階まで、MLA機関は見据えなければならないことが明確になった。これは著作権の扱いのところで述べた、他者の利用のシーンへの直接介入の経験によってより深く意識されることになる。

すなわち、長尾真が早期に議論していたように(長尾真 1994『電子図書館』岩波書店)、本ならば本というひとつの情報の固まりから、書籍上の関係性を保ったまま情報を析出し、より高度な資料利用まで考慮して資料と資料情報を提供する、もしくは利用を主導する段階に立ち至っているのである。

MLA関係者はウィキペディアタウンにコミットせよ

MLAが抱えている課題をMLAの業界のみのアクションで解決できるという段階はすでに過ぎ去っている。これは、ごく当然の物言いではあるが、各業界ではそうは考えられていない。MLAが社会のなかに存在し、社会のために一定の役割を果たすことを主張するとき、その課題とその解決もまた社会とともにあらねばならない。

ウィキペディアタウンというプロジェクトへの参加が特効薬とはなりえないが、MLAがいままで視野に入れていなかったプロジェクトであることは確かである。MLAが自らを省み、位置づけなおす参照点とするために、MLA関係者は、参加、会場提供、情報収集など、どんな形でもよい、ウィキペディアタウンにコミットすべきである。そしてそこから深く学ぶことで、MLAの所蔵資料を「拓く」試みが新段階に達していることが実感できる。そこまで展開できてはじめて、MLAという機関にとって、ウィキペディアタウンは、意味を持って立ち現れるのかもしれない。

本でアジアとつながるということ〜ASIA BOOK MARKET取材記

2017年7月7日
posted by 碇 雪恵

2017年5月27日~28日に、大阪北加賀屋の名村造船所跡地(クリエイティブセンター大阪)で開催された「KITAKAGAYA FLEA 2017 SPRING & ASIA BOOK MARKET」についてレポートしたい。

「KITAKAGAYA FLEA」は大阪を拠点にローカル・カルチャーマガジン「IN/SECTS」を発行するLLCインセクツ主催のイベントである。昨年の春から半年に一度開催されているが、今回は新たな試みとして、日本・台湾・韓国・香港の出版社、書店が出店するブックマーケット「ASIA BOOK MARKET」が初開催となった。

海外の出版社・クリエイターが出店するブックマーケットには「THE TOKYO BOOK FAIR」があるが、今回のアジアという枠組みの新しさ、そしてそれが東京ではなく大阪で行われることが気になった。日本の出店者が、”独立系書店好き”の私にとって垂涎のラインナップだったことにも背中を押され、東京から足を運んでみることにした。

地域、そして文化を超えての交わり

会場となるクリエイティブセンター大阪は、大阪の中心地からは少し外れた場所にあった。もともと造船所だった場所で、すぐ近くを木津川が流れ、海にもほど近い。入場料500円を払い会場の中へ入ると、風通しがよく、夕暮れ時には真っ直ぐに日が射す。管理されすぎていない会場は居心地がよかった。3階建ての建物すべてがイベントに使われており、1階、2階がKITAKAGAYA FLEAブース、そして3階がASIA BOOK MARKETブースだった。

会場となったクリエイティブセンター大阪のある名村造船所跡地の外観。

こちらは会場2階の様子。

日本の出店者を見ると、”独立系”と呼ばれる書店や、既存の流通システム以外の方法で本を届けている出版社、既存の流通を使いながらもブックマーケットなど読者と直接交流するイベントに積極的に参加している出版社が多く見受けられる。どういう流通形態をとっているかにかかわらず、自分たちのよいと思ったものを届ける、という意思を持つ人たちが集まっていた。そしてそれは海外からの出店者からも同じものを感じた。

出店ブースが国ごとにエリア分けされていないのがこのブックマーケットの特徴で、日本の出店者の横に、台湾の出店者、その横に韓国の出店者、またその横は日本の出店者と、ランダムな並び。しかしそれを不自然に感じないことが面白かった。出店者とお客さんは程よい近さの距離にあり、本を介した人と人とのやり取りがそこかしこで発生していた。海外の出店者との会話は当然スムーズにはいかないのだが、違う言葉を話す国の人たちが、自分たちと同じように生活を営み、伝えたいことを本にしているのだ、と改めて感じ、それもまたよい経験だった。

イベント開催にあたっての主催者の文章の中に、「目指すところは地域、そして文化を越えての交わり、参加者とともに横のつながりをこの場で共有すること。」とあり、その思いが会場の雰囲気に反映されているように感じられた。

ミシマ社ブース。常にお客さんでいっぱいだった。

美容文藝誌「髪とアタシ」でおなじみアタシ社のミネさん。逗子からの出店。

今回のブックフェアでは、6月に発売された『本の未来を探す旅 ソウル』の著者である綾女欣伸さん(朝日出版社)、内沼晋太郎さん(numabooks)が韓国の出店者を、日台をつなぐカルチャーマガジン『LIP』を発行している田中佑典さんが台湾の出店者をコーディネートしている。

ブースを覗いているうちに、なぜ彼らが東京から、そして海外から大阪へ出店しに来るのかが気になった。イベントの中での発言を拾ったり直接聞いてみたりしたところ、下のような答えがみつかった。

・自国のブックフェアでの出店者を探すため(韓国の書店)
・自店で販売する商品を探すため(東京の書店)
・普段はリーチできない層へアピールするため(東京の出版社)
・同じ地域にいても普段なかなかじっくり話すことのない書店・出版社同士が交流できるため(台湾の書店)

通常の業務の中だけでは起こりえない出会いや交流。時間やコストの効率化だけでは測ることのできないものの価値。そういったものを大切にする出版社、書店の集まりであるからこそ、きっと居心地がよいのだと思った。

台湾版「ビッグイシュー」のデザインのよさに驚き! 写真家 奥山由之さんなど日本のクリエーターとのコラボも多数とのこと。

韓国のjjokkpress。日本の短編小説を1枚の紙に印刷したシリーズなどを販売。

韓国でsajeokin bookshop(日本語で「私的な書店」)という書店を営むジョン・ジヘさん。

日台韓、それぞれの出版事情を語り合う

トークイベントも多く開催され、最初の入場料さえ払えば予約不要かつ無料で参加できる。誠光社の堀部篤史さん、ON READINGの黒田義隆さんの「出版する書店」、スタンダードブックストアの中川和彦さん、grafの服部滋樹さんによる「100人の直感読みブックマーカー」など、いくつかに参加しどれも面白かったのだが、ここではいちばん最後に行われた「韓国×台湾の出版事情」について取り上げたい。

今回の主催者である「IN/SECTS」の松村さんが聞き手となり、コーディネートを務めた綾女さん、内沼さん、田中さん、そして台湾「朋丁」店主のチェン・イーチウさん、韓国「YOUR MIND」店主のイロさんが、各国の出版事情や、今回のブックマーケットについて話すセッションだった(台湾、韓国のスピーカーには通訳の方がついている)。

トークの中で特に気になったのは、台湾にはいわゆる独立系書店を対象とした本の卸業者(取次)があるということ。入会費が約3万円で、他の独立系書店2軒の推薦があれば入会できるそうだ。扱われている本は文芸書がメインで、出版関係者が運営を行っているらしい。このトークの中だけでは、その業者が儲かっているのかなど、具体的なことはわからなかった。しかしこの話から、独立系書店や彼らと相性のよい出版社に携わる人、またそれらに興味のある人のネットワークがつくれないか、という話題に発展した。

たとえば今回の出店者と来場者とで一つのメーリングリストをつくり、それぞれの場所で出版された本や売れている本の情報を発信できたらよいのでは、というアイディアが内沼さんから出された。後々それに商流や物流が伴えばもっとよいが、まずはどんな本がそれぞれの出版社から出ているか、売れているのかについて国や地域を越えて発信しあう環境を整えられたら、と。

ここでも、このブックマーケットの趣旨である「目指すところは地域、そして文化を越えての交わり、参加者とともに横のつながりをこの場で共有すること。」という言葉が思い出された。

日台韓、三地域の出版事情についてのトークイベントも開催された。

インターネットでは誰もが情報を発信し、国や地域を越えてアクセス可能な状態をつくることができる。とは言え、受け手側は自分にとって接点のない人の情報にはなかなかアンテナが立たない。逆に、一度直接のやり取りを持った相手であれば、インターネットで継続的に接点を持つこともできるかもしれない。今後、台湾版の「ビッグイシュー」の話題をネットで見かけたとき、私はきっと反応すると思う。このようなブックマーケットが、その最初のきっかけとなる場の一つかもしれないと思った。

いずれはこの交流から、国や地域をまたいだ出版物ができたり、各国の出版物がより身近に入手できる環境を整えていったりすることを夢想すると、国内の閉塞した状況とは違う、新しい空気を感じる。海外から来ていた出店者たちは日本の出版文化に詳しく、それを参考として自分たちの国たちで自分たちなりのやり方で、できることを実行していた。今度はアジアの出版文化から私たちが学ぶ番なのかもしれない。

なお、「THE TOKYO ART BOOK FAIR」に「Guest Country」という、一つの国や地域に焦点を当て出版文化を紹介する特別企画があるのだが、そちらも今年はアジアをテーマとするそうだ。そしてこの「ASIA BOOK MARKET」も来年の同じ時期に次回の開催を目指すということだった。

近いようで遠いアジアの国を、本を介して身近に感じる機会が増えることは意味が大きいのではないか。そしてそれが東京だけではなく、大阪をはじめとした別の都市で開催されていくことも、これまでの東京一極集中の出版とは別の可能性を立ち上がらせるものに感じられる。

* * *

ところで私事だが、9年間勤めていた出版取次会社をこの3月末に辞めた。在籍時より、既存の出版流通に乗らない出版の世界に関心を持つようになった。既に完成した仕組みの中で、自分ひとりにできることなどほとんどないように感じられ、次第に自分の無力さに虚しさが募っていた。

人の手の入り込む余地なく完成された仕組みがあったからこそ、日本には気軽に本を手に入れられる環境があった。これは間違いない。しかし、作り手と読み手、それぞれ血の通った人同士の交流に私は価値を置きたい。各地で開催されているブックマーケットは、そのような自分にとって関心の一つとなった。今回のブックマーケットで、それは国や地域を越えて実現できるものなのだと知り、新しい視座を手に入れた気持ちだ。ブックマーケットを中心とした、本をめぐる変化の芽を見落とさないようにし続けていきたい。

福島県いわき市での、トランスローカルな対話

2017年7月1日
posted by 仲俣暁生

6月17日と18日の2日間、雑誌「たたみかた」の創刊記念イベントに参加するため、福島県いわき市に行ってきた。「たたみかた」は今年の春にアタシ社から創刊された“30代のための社会文芸誌”で、創刊号の特集テーマは「福島」。とはいえ、福島という特定の場所や、震災や原発事故そのものが対象ではない。

30代のための社会文芸誌『たたみかた』 創刊号。

震災後、あるいは福島第一原発での事故の後、「言葉」は人と人とを結びつけたり、実りのある議論を交わすためのものではなくなってしまった。多くの人が、自らの信じる「正しさ」の中に立てこもり、同じ「正しさ」を共有しない相手を論難し攻撃するものになってしまった。マスメディアからインターネットやソーシャルメディアまでが、そのような風潮を助長した。

こうしたなかで、どんな「言葉」を手がかりにしたらいいのか。「たたみかた」という雑誌が探ろうとしているのは、そのことだ。

雑誌を創刊しようと思ったのは、「苦しかったから」

「創刊するまでの話 あれから、これから。」という、創刊の辞に相当する文章の冒頭で、三根さんはこの雑誌が生まれた経緯を、次のように書いている。

東京・上野の魚屋『魚草』で刺身を食べていたときのこと。
「なんで『たたみかた』を出すことにしたの?」と、小松理虔さんに訊かれた。
私は少し考えて「苦しかったから、ですかね」と答えた。

震災以後、できるだけ信頼できる情報を探し続けていた。
何か一つの「正しさ」を探し求めていたとも言える。
でも、この6年で私がたどり着いた結論は、
『そんな「正しさ」は世界のどこにも存在しない』ということだった。

悩める(?)編集長からこの言葉を引き出した小松理虔さんは、「たたみかた」に「千円の大トロ」という文章を書いている。このなかで小松さんは、福島を知りたかったら、とりあえず上野に来てみなよ、と呼びかける。

そう、上野から福島県いわき市を経て、福島第一原発や第二原発が位置する浜通りの町々、さらに津波で大きな被害のあった宮城県亘理町や仙台までは、JR常磐線が走っている。現在は竜田から浪江の区間が不通だが、竜田〜富岡間は今年10月に運転再開が予定されている。

私が小松理虔さんの文章を最初に読んだのも、まさに『常磐線中心主義(ジョーバンセントリズム)』という本のなかでだった。東京東北部の葛飾区内で生まれ育った私には旧国鉄常磐線は親しい路線だ。上野東京ラインの開通によって常磐線の発着は品川駅になったが、私の世代にとって上野はこの沿線でいちばん大きな町であり、懐かしい場所である。

いわきは「その先」にある――そのことに気づいて、自分のなかで福島との距離感がやっと定まった。震災後、福島県を訪れる機会が一度もなかったのも、物理的に遠い以前に、心理的に遠かったのだ。

上野が、そして常磐線が、私を福島につなげてくれた。

そうした経緯もあって、「たたみかた」の創刊イベントの企画について打診された際、ぜひ小松理虔さんと話をしてみたい、できれば場所はいわきで行いたいと三根さんに伝えた。なんのことはない、いわきに行くきっかけを、私自身が求めていたのだ。

「ぼんやりしたもの」の正体

小松理虔さんは「たたみかた」について、「雛形」というサイトでこんな記事を書いていた。そのなかのこの言葉が気になった。

たぶんこの「福島」というのは「福島県」ではなくて、ぼくらが考えるのを避けてきた「ぼんやりとしたもの」の象徴なんじゃないかと思っています。本当は目を向けなくちゃいけないのに、見ないでいた、そして避けていた、そういうもの。それを、ことさらに「知れよ」ってんじゃなく、いろんな人たちの言葉から、浮かび上がらせていく。

その「ぼんやりしたもの」の正体について、小松さんやいわきの人と、東京や神奈川に暮らす私や三根さんたちとで、話をしてみたかった。

会場となったアートスペース「もりたか屋」。

じつは東日本大震災後に福島県内の地域を訪れるのは、今回が初めてだ。震災後、いわきに移住した知人がおり、「いわき経済新聞」というローカルメディアを運営している。私にとってはその知人がほぼ唯一のいわきとの接点だった。

福島についての本はたくさん読んだが、読めば読むほど、実質的な「関係」をつくるところからは遠ざかる気がした。「たたみかた」創刊号の特集サブタイトルの言葉どおり、私自身も「ほんとうは、ずっと気になって」いたにもかかわらず、具体的な関係をつくれずにいたのだ。

今回も招かれたわけではなく、いわばこちらから押しかけていったようなものだ。明確な取材目的があったわけでもない。現地で「福島」をめぐる話を、小松さんはじめ地元の方々を交えて行うとして、いったい何をどのようなスタンスで話せばいいのか。腰がさだまらず、正直、緊張していた。

私のそんな緊張をほぐしてくれたのも小松さんだった。なぜ緊張したかといえば、書物で得た知識以外に、自分がいわきや福島県の現状を何も知らないから、ということに尽きる。たぶんそういう訪問者は、過去にも多かったのだろう。トーク前のわずかな時間をつかって、小松さんは私たちをいわきの海岸まで連れて行ってくれた。

震災後に、その是非をじっくり時間をかけて議論することもなく防潮堤の建設が決まった。その結果、美しかったいわきの海岸線を巨大なコンクリートの構造物が固めてしまった。その光景を、トークの前に見せたかったのだろう。対話を始める前に、訪問者が最低でも知っておくべきことがある。いわきの場合、その一つがこの防潮堤だった。

美空ひばりの歌で有名な塩屋埼灯台にほど近い美しい浜辺も、高い防潮堤で固められていた。

当日のトークの内容については、あえてここでは触れない(「いわき経済新聞」に小さな記事が載っている)。トーク後の質疑応答が、きわめて真摯で熱心なものだったことだけを報告しておきたい。

会場となった洋品店の二階にあるアートスペース「もりたか屋」には、いわき市内だけでなく、福島の他の地域からも来場者があった。都内でよく行われるトークイベントというよりも、活発に会場からも質疑が飛び交う「車座集会」のようなものになった。参加者の多くがイベント終了後も残り、近くの中華料理店で深夜までさらに議論は続いた。こちらはまさに「車座」での議論になった。

いつものことだが、ある地域に出かけていって話をする場合、よそ者であるこちらが語りうることよりも、得ることのほうがはるかに多い。今回もそのことを痛感したが、地元の方にとっても、こちらが話す話の中身そのもの以上に、「場」を共有し、率直な言葉を交わしあうこと自体が大事なのかもしれない。

震災後、私のなかでローカルメディアへの関心が高まったのは、日本中の各地域が抱える課題や、そこで暮らす人たちとの新しい関係づくりのきっかけになりうるのではないかと考えるからだ。一つの地域だけでは解けない課題も、ローカル同士の対話によって、ヒントが見いだせるのではないか、という淡い期待もある。

そして、現在の日本が抱えるあまりにも大きな課題の前では、東京や首都圏も一つの「ローカル」にすぎない。今回のいわきでのイベントはその意味でも、トランスローカルな対話の場だったように思う。

第8回 「明るい」時代と山田太一ドラマ

2017年6月29日
posted by 清田麻衣子

幼い頃、我が家でテレビは「NHK」と「民放」に二分されており、うちでは民放を観ることが許されなかった。バラエティ番組が隆盛を極めた80年代に幼少期を過ごした兄と私は、「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」や「天才・たけしの元気がでるテレビ!!」「とんねるずのみなさんのおかげです」などの当時の人気バラエティ番組を観たことがない。放送翌日、テレビの話題で持ちきりの友だちの輪のなかでは、発言を控え、うすら笑いでごまかした。

従順な子どもではなかったはずの私がなぜテレビに関しては親の言いつけを守っていたのかといえば、それだけ両親の「民放バラエティ嫌悪」が激しかったからだ。たまに親の目を盗んでNHKからチャンネルをひねると、不快感に満ちた表情で、「うるさいッ」とか「バカ騒ぎしてッ」などという反応が間髪入れず返ってきた。だからビクッとなってすぐにNHKに戻した。

バブルのとば口にあった1985年、我が家は父親の転勤で福岡市から横浜市郊外の住宅地に引っ越した。私たちが住んでいた地域は企業戦士を東京に送り込むための典型的なベッドタウンで、毎年、昨年比の地価の伸び率全国一位としてニュースで報じられた。しかし、母曰く「とにかくセンスがない」父の独断により中古で買った当時築二十年の我が家は、モデルルームのように整然と新しい家が並ぶ景色のなかにあって、際立ってみすぼらしく見えた。

映画と本を愛する人だった父は、朝、満員電車で出社し、深夜、赤坂の会社から横浜の自宅までタクシーで帰宅することも多くなり、増していく精神的肉体的疲労は家族への当たりをきつくさせ、ごくたまに家族揃ってご飯を食べていても、大抵誰かが怒っているか泣いているかで、それ以外のときは無言だった。知り合いのいない土地で苛立ちや不安をひとりで抱え込んでいた母が泣いていたり放心していたりするのを、よく見かけるようになった。

現実と地続きに感じられたドラマ

経済成長最盛期の只中、自分の周りの美しい家に住む人たちが、明るく楽しいテレビを観ながら笑いの絶えない生活を送っていて、そこには光が充満しているように見えた。一方我が家だけポッカリと空いた暗い穴の底に落っこちているような気がしていた。

その当時、母が楽しみにしていたのが、山田太一ドラマだった。テレビは基本的に「悪」だった我が家にあって、山田太一ドラマは私も一緒に観ることを奨励される数少ない番組だった。いちばん記憶にあるのは、これも結局NHKなのだが、何度も再放送していた『ながらえば』『冬構え』『今朝の秋』、いわゆる「笠智衆三部作」だ。主演の笠智衆はほとんどセリフがないのにたまのセリフは棒読みのようで、「このおじいさんのどこがいいんだろうね」と言って母のほうを振り向くと、そっと涙を拭っていて、見なかったフリをした。

明るく騒ぐのがテレビの「ふつう」であるとしたら、行き場のない老人や、仲の冷え切った夫婦や、仕事に疲れたサラリーマンが登場する山田太一ドラマは重くて暗くて、だがフィクションであるはずのこのドラマの中の世界だけが、自分の家と地続きにあるような現実味を感じていた。小学生には理解できない内容が大半だったはずなのに、食い入るようにテレビを見つめる母の集中度に私まで惹きつけられ、ドラマが終わった後の室内には、カタルシスとも少し違う、凜とした静かな興奮が満ちているような気がした。

その後、父は会社を独立して自分で小さな会社を興し、大好きなミニシアター通いとともに、冗談も増えた。現在、同じ町内のもう少しだけ見ばえのいい家に引っ越した我が家は、父と母と柴犬の3人暮らしになり、父はリタイアしてスポーツジムと映画館と本屋通いに勤しみ、母は絵画や登山にと趣味に忙しい日々を送っている。だがテレビは二人とも、相変わらずNHKのままだ。

私は大学を卒業したのち本をつくる仕事を始め、13年間社員編集者として働いて、5年前に独立してひとりで版元を興した。

大人になってわかったのは、影はどの家にもあったということ。そして、人生の暗部をじっくり見つめるドラマを、高度経済成長期の軽躁状態の日本で、テレビというもっとも大衆的なメディアを通じて世に放ち続けた山田太一という人の巨大さだった。しかし、気づけばDVDもシナリオ本も絶版ばかりになっていた。そこで、版元第4弾目のプロジェクトとして選んだのが、山田太一ドラマのシナリオを復刊することだった。

手始めに、山田ドラマの中でも名作中の名作であり、かつ、人気作にもかかわらず手に入れにくい『早春スケッチブック』『想い出づくり』『男たちの旅路』から、本という形で再度世に投げてみたいと思った。

山田太一ドラマのセリフは日常に分け入ってくるアフォリズムだ。『早春スケッチブック』の安定を善とする家庭人に向けられる「ありきたりなことを言うな!」という叱咤、『想い出づくり』で結婚に邁進する適齢期の女性に放たれる「結婚以外にお前ら何にもないのかよ!」という軽蔑、そして『男たちの旅路』で車イスの青年に向けられる「迷惑をかけてもいいじゃないか」という激励。どれも「もっともっと明るい豊かな生活を」と先を急ぐ日本人の足を立ち止まらせる。これらのセリフがテレビで流れただけで、消えていくのはあまりに惜しいと思った。そこで手元に置いて、手軽に持ち運べるペーパーバックのスタイルで刊行していくことにした。

うまくいけば続けて出していきたいと思っている。それもすべて、いまの世の中次第ではあるのだが。

(次回につづく)


山田太一セレクションの第一弾として刊行した「早春スケッチブック」。

『早春スケッチブック』1,800円+税
『想い出づくり』2,000円+税
『男たちの旅路』2,200円+税
(すべて里山社より発売中)
※お近くの書店にない場合はkiyota@satoyamasha.comまで

第3回 デジタル時代の「マンガ文法」とは

2017年6月23日
posted by 中野晴行

電子コミックの未来を考えるとき、今のところ道は大きく二つに分かれているように見える。

①紙のマンガと変わらないマンガ表現を電子でも再現する。
②電子端末に適合した、これまでとは違う新たなマンガが生まれる。

スマホやタブレットに配信されている日本のマンガはこれまで主に①の道を歩んできた。②は日本のケータイコミックや韓国のウエブトゥーンが歩んできた道である。それぞれについて検証してみたい。

伝統的日本マンガ文法「メクリ」「ヒキ」

日本のマンガには独自のマンガ文法がある。それは「見開きをひとつの単位として、コマ割り表現と構図によって、動かない絵をあたかも動いているように読者に見せるためのテクニック」と言い換えてもいい。もちろん絵やセリフも重要だが、絵がどんなにうまくても、セリフがかっこよくても、コマ割り表現と構図がまずい、つまり文法におかしければ、読者は離れてしまう。

例えば、大きな塔が倒れるシーンを描くときに、倒壊するシーンを描くだけでなく、倒れ始めと倒れたあとの間のコマにそれを見つめる人々の顔をインサートする。これによって読者は目の前で起きているような臨場感を覚える。主人公が敵を殴り飛ばすようなアクションシーンでは、一瞬身構える敵の表情を描き、主人公が腕を振り出すシーンを描き、次に向こう側に飛ばされ壁に激突する敵の姿をさらに大コマで描いてスピード感と衝撃の激しさを描く。

あるいは、登場人物が不安を抱えているようなシーンでは、同じ情景を繰り返しながら人物の緊張した表情をインサートして緊張感を高める。絵をゆっくり見てほしいときには背景の細部まで描きこむ。大ゴマに流線を多用してスピード感のあるシーンを連続させることもある。コマの配置や構図が読者の読むスピードや感情までコントロールするわけだ。

そして、見開きごとには「メクリ」というテクニックを使う。「メクリ」は見開きから次の見開きに移る(ページをめくる)過程で、読者に驚きを与え作品に引き込み、さらに次をめくりたいという思いにさせること。見開きの左側の最後のコマに何をどう描くかは非常に重要になるが、受けるページも大切だ。「なんだこれ」とか「これからどうなるんだ」という感情を読者に持たせて、早く次が見たいという気持ちにさせ、ページをめくったときに「すごい」とか「そうだったのか」というある種の満足感を与える。マンガは見開きごとにこの繰り返しである。

さらに、連載マンガでは最後のページの「ヒキ」がポイントになる。「次号も買わねば」と思わせるだけの「ヒキ」がない作品はなかなかヒットしない。読み切り連載の場合は「ヒキ」はいらないが、「読んだ」という満足を与えるようなコマを最後に用意しなければならない。

電子コミックにおける「マンガ文法」の再現

こうしたマンガ文法は、長い時間をかけてマンガ家や編集者が試行錯誤を繰り返し練り上げてきたものだ。そして、ベテランになればなるほどマンガ家はマンガ文法を意識せずに描いているし、読者も「これが引きだ」「これがメクリだ」とわざわざ意識しているわけではない。私たちが特に文法のことを考えずに文章を書いたり喋ったりするのと同じことだ。

電子コミックは、長い年月をかけて完成させた日本のマンガ文法を継承しようとして試行錯誤を続けてきた。動作が重くなるだけなのでのちには廃れたが、初期には紙をめくるアニメーションを画面上のギミックとして使うことで、見開きから見開きへ移る際の「メクリ」を表現しようとしたとこともあった。

私は2005年に、日本における電子書店のパイオニアとも言えるイーブックイニシアティブジャパンの創業者・鈴木雄介氏を取材している。当時はまだiPhoneも登場しておらず、PCや読書専用端末向けに配信するイーブックイニシアティブジャパンは、赤字続きで苦戦していた時期である。電子コミックの主流はすでにPCではなく携帯電話向けの配信になっていて、この先、携帯向けにシフトすることはないのかを聞きたかったのだ。

そのときの鈴木氏の言葉が忘れられない。

「マンガ家さんはページで描いています。読者だってページで読みたいでしょう。編集者だってページで読んでもらいたいですよ。この当たり前のことを電子書籍でも当たり前にできるようにしなければ申し訳ないじゃないですか」

鈴木氏の想いは、2008年のiPhone 3Gの日本発売によってようやく叶えられる。iPhoneとこれに続くiPadの登場によって、見開きあるいはページ単位で電子コミックを読むことが可能になったのだ。しかも、ディスプレイがタッチパネル式になったことで、指で画面をスライドできるようになり、これまでむずかしかった「メクリ」も再現できた。現状では、日本の電子コミックの多くが、ページ、あるいは見開きで読むスタイルになっている。

携帯電話とケータイコミックの時代

これに対して、携帯電話の小さな液晶画面で読ませるためにコマを分割して一コマずつ、紙芝居のように見せるようにしたのがケータイマンガである。

携帯電話で電子書籍を読むための電子ブックリーダーとしては、セルシスが開発した「ブックサーフィン」とシャープの開発した「XMDF」が使われていたが、ケータイマンガは主に「ブックサーフィン」で、「XMDF」は小説などのテキスト系に使われていた。シェアは9対1で、携帯電話向けに配信される電子書籍のシェアとほぼ一致していた。

ケータイマンガをつくる作業は次のようになる。原稿をスキャンした元データからコマごとに切り出し、ボタン操作でコマからコマに移動できるようにデータを加工・編集するオーサリングを加えた上で、ブックサーフィン用データに変換する。セルシスはこの形式を「ラスター紙芝居ビュー」と呼んでいた。

はじめこの工程は手作業で行われていたが、まもなくセルシスがコンテンツ支援用ソフト「Comic Studio Enterprise」を発表、ラスター紙芝居ビュー制作ツールとして「Effector Neo」もリリースして、自動的にデータを生成できるまでになった。

ブックサーフィンには、場面ごとに効果音やバイブによる振動が出る機能があり、画面を上下左右にスクロールさせることも可能。このため、はじめのうちは四角いコマが切り替わるだけだったケータイマンガには、コマの形に合わせてパンやチルトの効果を加えてマンガのコマ割りに近い視覚効果を与えたり、音や振動で場面を盛り上げるなどの新たな表現も付け加えられた。

この時期、日本の電子コミックはケータイマンガ形式が席巻するのではないか、と私は考えていた。だからこそ、イーブックイニシアティブジャパンの鈴木氏にちょっと失礼なインタビューを試みたのだった。

集英社などの大手出版社も旧作をカラー化してケータイコミックとして配信するなど、一時期は積極的だった。東京国際ブックフェアで、集英社がケータイコミックをアピールするコーナーをつくったり、セルシスが「Comic Studio Enterprise」と「Effector Neo」の実演を行ったこともあった。私が教えていた学校でも、紙のマンガをケータイコミック化する実習が行われたりもした。

特定の分野で生き残ったケータイコミック

しかし、残念なことに紙でヒットした作品であってもケータイコミックでのはかばかしいヒットには繋がらなかった。はじめは目新しさや無料配信に飛びついた読者も、しばらくすると離れてしまったのだ。

ひとつの原因は、紙のマンガを構成する重要な要素であるコマ割りがラスター紙芝居ビューに置き換えると逆効果になることがしばしばあった、ということだ。紙のコマ割りの際には、視覚効果のために一見無駄なコマを挟むことが多い。もちろん必要だから挟むのだが、紙芝居のように切り離すと、読み手には不要な絵に見えてしまう。早い話、まだるっこしく感じるのだ。コマをケータイマンガ用に省いたり整理すればいいのだが、編集段階にそれをやるのは作品の改ざんになってしまいかねない。

そんな中で読者が好んだケータイマンガは、激しい性描写のある青年コミックやレディスコミック、あるいはBL(ボーイズラブ)、TL(ティーンズラブ)と呼ばれるアダルト向け作品だった。とくに、新作のBL、TLには人気が集中した。書店で買うのは恥ずかしい作品でも、ケータイマンガなら誰にも知られずに読むことができる。ケータイマンガのダウンロードが深夜1時から3時頃に集中したのもそのためだ。このあたりは、ホームビデオの普及を陰で支えたのが、アダルトビデオであったことと似ている。

アダルト向けコンテンツで市場を拡大したケータイマンガが.スマートフォンの登場で縮小したことは前回も書いたが、長年ケータイマンガを扱ってきた編集プロダクションによれば、ケータイマンガはそのまま死滅したわけではなく、今でもそれなりの市場を規模を保っている。現にそのプロダクションもかつてほどではないがケータイマンガ向けの作品を編集しているのだという。それを支えているのは、ケータイコミックでBL、TLに親しんだファンたちだそうである。

縦スクロールで読む「ウェブトゥーン」の登場

スマートフォンの登場後、スマートフォンに適合した新しいマンガ表現として韓国から登場したのが、縦スクロールでマンガを読む「ウェブトゥーン」である。

ウェブトゥーンの原型となった縦スクロールマンガが、韓国で登場したのは1990年代後半だ。

1997年、財閥の韓宝グループや三美グループの破綻に端を発した株価の大暴落と通貨危機で通貨危機に瀕した韓国は、IMF(国際通貨基金)に対して救済金融を要請。韓国経済はIMFの指導のもとに経済引き締めや市場の自由化、財閥の再編といった管理下に置かれることになった。市場はいわゆる「IMF危機」と呼ばれる大不況に追い込まれた。多くの中小企業が倒産し、失業者が溢れた。

出版社も例外ではなかった。紙の雑誌の多くは休刊に追い込まれ、マンガ雑誌もほとんどが姿を消した。前回も簡単に書いたが、そんな中で韓国のマンガ家たちが発表の場として選んだのがインターネットだった。

韓国では1990年代の半ばに、XDSLによる高速インターネットインフラが完成。さらに、IMF危機からの脱出を目指した金大中政権が1999年に「サイバーコリア21」政策を実施してパソコンの普及やITベンチャー企業の育成に国を挙げて取り組んでいたのだ。このため、家庭へのインターネットの普及は2000年には49.8%と、国民の半分はインターネットを日常的に利用できる環境になっていた。

はじめのうちマンガ家は自分のサイトに個人的に作品をアップしていたが、まもなく、ITベンチャー企業の中から、自社のポータルサイトよりさまざまなマンガ家の作品にアクセスできるシステムを作り上げるところが出てきた。ポータルに貼り付けたバナー広告から収益を上げるビジネスモデルで、作品へのアクセスに応じてマンガ家にも一定割合が支払われることになっていた。

このときに、PCのモニター上で読みやすくするため、マウスのスクロールホイールを動かしながら読む縦スクロールマンガが登場した。ただ、初期の縦スクロールマンガは、コマごとに切り出して縦に並べただけのスタイルだった。ほとんどのマンガ家が、紙で出版することを意識したからだ。

音楽や効果音を入れた作品も登場したが、この頃はまだ一般化していない。しかし、縦スクロールのマンガは2000年代半ばまでに、韓国の電子コミックの標準的なスタイルになり「ウェブトゥーン」という名で呼ばれるようになっていた。

「コマ割り」を取り払った新しい表現

スマートフォンの登場で、韓国でも電子コミックを読むための端末はPCからスマホに移っていった。スマホを片手で扱う場合も縦スクロールのウェブトゥーンは読みやすかったが、ここでさらなる進化が起きた。縦スクロールではほとんど意味がなくなった「コマ割り」表現を取り払った、新しいウェブトゥーンが生まれたのだ。

コマの枠だけが残されて、コマとコマの間の余白が時間の流れや感情の動きを表すようになっている作品もあるし、連続した絵巻物のような作品もある。しかし、「ページをコマ割りによって構成する」という概念はもはやない。

新しいウェブトゥーンはスマホに最も適したマンガ表現として韓国では多くの若者の支持を受けた。無料のゲームアプリとともに無料(正確には直近の数話分が無料で、バックナンバーが有料になることが多い)で手軽に読めるウェブトゥーンはスキマ時間の娯楽として瞬く間に浸透したのだ。BGMや効果音が入った作品も一般化した。その中からは、映像化されてヒットする作品も出てきた。

韓国生まれのウェブトゥーンが日本に本格上陸したのは2013年11月。韓国最大のインターネット検索ポータルサイトを運営するNAVER系列である、NHNエンターテインメントの子会社NHN comicoが日本向けに無料のマンガ・小説アプリ「comico」の配信をスタートさせたのである。

「comico」が配信する作品はすべてがオリジナル作品でコマ割りなし、オールカラーのウェブトゥーン形式だ。これに触発された形で、日本国内にもウェブトゥーン形式のマンガを描く作家は増えつつあり、マンガやアニメを指導する専門学校や大学でも、ウェブトゥーンでの描き方を積極的に指導するようになってきた。日本のマンガ研究者の中には、紙のマンガがこのまま衰退すれば、マンガはすべてウェブトゥーン形式になる、と説明する人も少なくない。

さらに、日本マンガとの折衷型として、ページ毎に縦スクロールで読むというスタイルもあり、スマホ向けにはこれも定着しつつあるようだ。

ただ、前回にも書いたように、スマホが携帯端末として最終形なのかどうかがわからない以上、すべて縦スクロールに変わるかどうかも、軽々には言えないわけだが……。

「ウェブトゥーン」が変えたマンガの製作現場

マンガ情報を扱うウェブ・ニュース・サイト「コミックナタリー」に、韓国のウェブトゥーンの現状に関する興味深い記事があった。2016年10月27日に配信されたチョン・ゲヨン氏へのインタビュー記事である。

チョン・ゲヨン(KYE YOUNG CHON)氏は1996年に韓国の少女マンガ誌「ウインク」でデビュー。1997年に発表した音楽マンガ『オーディション』は韓国国内で少女マンガ部門の販売部数1位に輝くなど、数々のヒット作を生んだベテランだ。2000年頃からウェブで作品を描くようになり、現在は「Daum Webtoon」で恋愛マンガ『恋するアプリ』を連載して人気を集めている(本作は日本でも翻訳されている)。

もともと紙の雑誌でデビューし、2000年頃からウェブに移ったというのは、同世代の多くの韓国マンガ家と同じである。

私が興味を惹かれたのは、彼女が3DCGソフト「シネマ4D」を使って作品を描いているという点だった。公開されているメイキング映像によれば、まず3Dで背景や人物のモデルを制作してから、モニター上で配置をして、その上で2Dの平板な絵に変換しているようだ。

背景はもちろん、動きや表情も3DCGで制作するので、あらゆる角度の、あらゆる動きが効率的に仕上げられるわけだ。ウェブトゥーンはほぼ毎週1話ごとに更新される。カラーの作品を毎週描く以上、効率化は避けて通れない課題だ。チョン・ゲヨン氏は特別な例ではないのだ。端末や表現形式の変化は描き手の現場も変えているわけである。

日本でも、「Comic Studio」や「CLIP STUDIO」などのマンガ制作支援ソフトを使うマンガ家は多い。しかし、ここまで徹底してデジタル化しているマンガ家はほんのわずかだ。日本のマンガ家はまだ、自分の手でキャラクターを描きたいという思いが強い。ほとんどを機械任せにすることにはかなりの抵抗があるだろう。

環境の変化が表現の変化を生み出す?

表現においても製作においても、韓国のウェブトゥーンがここまで進化のスピードを上げた背景に、「紙の雑誌で描くことができない」という事情がある、というのは興味深い。逆説的に言えば、紙の雑誌が生き延びている日本では変化そのものがむずかしい、とも言える。3DCGのソフトやSNSは同じように発展しているはずなのに、それを効果的に利用することにはマンガ家サイドにも読者にも躊躇がある。その躊躇が進化にブレーキをかけている。これはちょっと悩ましい。

また、チョン・ゲヨン氏は先の記事で「ウェブトゥーンは編集者の干渉が少なく、自由度が高い」とも説明している。逆にマンガ家と読者の距離は近づいた、と。これを読めば、ウェブトゥーンに憧れる日本のマンガ家が増えるかも知れない。

このままスマホで読むという状態が続くのであれば、進化の著しいウェブトゥーンが電子コミックのスタンダードになる可能性も否定できない。

しかしはっきり言って、電子コミックがはじめにあげた二つの道のどちらをたどるのかを予測することは、非常にむずかしい。まったく違う第三の道が出てくるのかもしれないし、両者が融合することもありうる。

実際、ケータイコミックのコマにセリフや効果音、動きをつけてアニメーションのように加工した「モーションコミック」なども登場した。画像加工のコストの高さなどから普及は遅れているが、これが電子コミックのスタンダードになっても別に不思議はない。まだまだ、進化の頂点に立つものは決まっていないのだから。

歴史を振り返ると、日本の戦後マンガの文法が確立されたのは、1970年代に入ってからだ。1968年頃にはまだ、さまざまな表現手法が登場して混沌としている。戦後ストーリーマンガ登場の時期を1947年の手塚治虫『新寳島』とするのなら、それでも25年近くの歳月を要していることになる。

電子コミックも登場からほぼ25年だが、前回も書いたように端末の変遷によって、表現手法は大きく変わっており、進化樹の幹をつくれないままで来た。日本型の電子コミックもウェブトゥーンも、いまだに、10年くらいの歴史しかないと考えてもいい。あと15年くらいかけて、ようやく電子コミックのマンガ文法と呼べるものが生まれるのかもしれない。ぜひとも生まれてほしい、というのが私の気持ちだ。