アップル決済=30%の義務化は敗着か?

2011年2月9日
posted by 鎌田博樹

どうやらアップルは意外に早く、次の一歩を踏み出した。つまり、iPadの拡販からApp Storeの収益拡大への重心の移行ということだ。1,000万台に達したiPadは世界の出版社に大きな期待を抱かせてきたが、10ヵ月足らずの「試用期間」を経てアップルが出してきたのは、iPad (iOS製品)をプラットフォームとして利用する場合の厳しい条件と見積だった。iPad(が汎用デバイスであること)を前提にE-Bookビジネスを構想してきたプロジェクトは、再検討を迫られる。今回の「事件」の影響と日本のE-Bookビジネスの対応について考えてみたい。

読者、出版ビジネス、アップル…誰も得をしない

まず確認しておきたいが、アップルがアプリの仕様について一方的なガイドラインを押し付けるのは自由だ。米国やEUの司法当局が、独禁法上の違法性について調査する可能性は十分にあるが、ゲーム機ではこれまでソニーもプレステについて同様の措置をとっており、ユーザーはインターネットに接続するデバイスで、自由にWebにアクセスし、コンテンツやサービスを受ける権利があると考えたい人々と対決してきた。ネットに対してオープンにするかしないかは、基本的にはメーカーの判断だと思う。

にもかかわらず、アップルのIAPガイドライン(の強制)は、圧倒的に優れた操作性とユーザー体験(UX)を実現する製品の機能を大幅に制約することにより、ユーザーを失望させ、さらにアップルの企業イメージ(敢えて言えば「知的道徳的ヘゲモニー」)を大いに損なうことは間違いないように思われる。それに、少なからぬ出版社がiPadに期待したのは、アマゾンKindleの閉鎖性に対して、アップルがより開放的で汎用的な環境を提供すると信じたからだった。Kindleも限界まで単純化したインタフェースで成功したが、もともと単能機であるために、その点が注目されることはなかった。他方でiPadは、Web上で最も優れたUIを持つ多能機であるために、期待も大きかったのである。

もちろん、アップルから見れば、クラウドビジネスにおけるデバイスは、あくまで「端末」であり、その多機能性はアップル・クラウドが提供するサービスの陰に過ぎない。その点でアップルとユーザーやビジネスパートナーの間には、あまりに大きな誤解が広がっていたと思われる。結果的に市場の失望は大きく、iPadへの「熱」に水をかけることになるのは避けられない。それはトータルなデザインでやや劣るAndroid機や、別の魅力を持ったPlayBookやPalmに機会を与えることになるだろう。

優れた技術はなぜ最後の勝利を得られないか

ITの世界では、技術的に最も優れたものは市場での勝者にならない、というジンクスがある。それはアップルも経験済みだが、イノベーションを実現した独自技術への過信が、マーケティングの軽視による失敗と結びつきやすいからだ。技術的優位を絶対的なものと考えると、マーケティングは強気(あるいは安直)になり、結果的にユーザー(消費者)を無視、軽視し、時には平気で挑発しさえする。技術的劣位を自覚した企業はその逆をやるから、着実にユーザーの信頼を獲得していくということだと思う。今回のアップルの場合、iPhone、iPadは優れたUIというだけでなく圧倒的な商業的成功をも実現した。そこでクラウド上のプラットフォームとして稼ぐモデルへの唐突な移行となったと理解するのが自然だろう。

しかし、これはまずい判断だ、とわれわれは考える。ユーザーやパートナーの失望は、アップルからすると「勘違い」「筋違い」「心得違い」なのかもしれないが、アップルのUIは一種の公共財となっており、オープンな環境でそれを使いたいと考えるユーザーの期待は、アップル以外に向かうことは止められない。

次に、アップルは本というコンテンツが音楽やビデオとは決定的に異なることを忘れている。本は他のコンテンツより数も種類も多く、その構造性とともに豊富なコンテクストを持つ。作家-作品という関係はほんの一面にすぎないからだ。本は単独ではなく、他の本や人やテーマなどの明示的関係の中で存在している。そうしたコンテクストを掘り起こし、紐づけることなしに本のビジネスはありえない。消費者の知識、情報を前提に、決済プラットフォームとデバイスを用意すれば成功した音楽のようなわけにはいかない。

本においてアマゾンが強いのはオンライン・マーケティングが優れているからだ。iPadが1,000万というユーザー規模に比べてE-Bookの販売が(出版界から見て)不振な理由の一つは、iBookstoreが本のマーケティングを知らない(あるいはとくにやっていない)ためであると断言できる。音楽と映像に関する限り、アップルは強いが、本において硬直した閉鎖環境を読者に押しつけても成功の見込はほとんどない。

アマゾンがKindleを優先せず、iPadを含む、可能なあらゆるデバイスにKindleアプリを載せているのは、それが本について最も有効なマーケティング手段であるからだ。アマゾンは他社アプリと競合することをまったく怖れていない。8割のシェアは、自社デバイスに依存しないことによって築かれているのである。その点でアマゾンは、オープンとクローズドを有効に使い分けていると思う。読書体験とは対話であり、対話の中から本が購入され、また生まれる。その対話を途絶させるものは満足な読書体験を実現しない。

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二つの電子雑誌の創刊に思うこと

2011年2月4日
posted by 仲俣暁生

先月の終わりに相次いで行われた、二つの新しい「電子雑誌」の創刊イベントに参加してきました。ひとつはグラフィックデザイナーの永原康史氏が立ち上げた電子出版レーベルepjpによる『de(デ)』、もう一つは日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)による『fotgazet(フォトガゼット)』。両者の共通点は、どちらもビジュアル表現にかかわるクリエイターによる、電子メディアを用いたインディペンデントな「出版」であること、そして彼らが既存の出版システムに対して強い危機感をもっていることです。

デザインの歴史を現在の視点で貫く:『de』

『de』の創刊記念トークセッションは、1月27日の夜、銀座のアップルストアで行われました。epjp代表の永原氏がホスト役となり、木本圭子(ビジュアル・アーティスト)、天野祐吉(元『広告批評』編集長)、港千尋(写真家・文筆家)の三氏をゲストに迎えた、対談とトークセッションによる楽しいイベントでした。

『de』は「日本発」「デザインの歴史を現在の視点で貫く」をテーマに日英二カ国語で発行される電子デザイン季刊誌で、2月に無料の創刊準備号をリリースした後、今年4月に正式創刊を予定しています(正式版は有償配信)。フォーマットはiTunesから配信されるiOSアプリケーション版と、Kindle Book版の二種類が用意されるとのこと。

epjpではすでにアマゾンのKindleに対応した電子書籍をいくつか刊行していますが、今年の前半には、この日のゲストである木本圭子さんの作品集『Imaginary・Numbers』(工作舎)の電子版も予定されています。もともとこの作品は、コンピュータの演算で造形されたビジュアルを紙に定着させたもの。それがあらためて電子書籍化され、「コンピュータ→紙→コンピュータ」という再変換が行われるわけです。永原氏によるデモでは、iPadを触る指の動きにしたがって点描のようなグラフィックがダイナミックに姿を変えてゆき、いつまでも見飽きませんでした。

前半のゲスト、アーティストの木本圭子さん。

前半のゲスト、木本圭子氏。背景に映っているのが電子版『Imaginary・Numbers』。

iPadの画面を触ることで、点描によるグラフィックスがさまざまな動きを見せる。

iPadの画面を触ることで、点描のようなグラフィックスがさまざまな動きを見せる。

この日、次に登場した天野祐吉氏も、『広告批評』の1999年5月号の特集「20世紀をつくった広告100」を増補改訂した電子書籍を、epjpからとして発売する予定です。「歴史の本を読むより、広告を見たほうがその時代の雰囲気がわかる」という天野氏は、「大衆的な視点から見た20世紀史を伝えるのに、スタティックな紙の本では不十分。今回の電子書籍にも、今後もっといろんな要素をプラスしていきたい。みんなで作る広告の歴史ができたらいい」と語り、電子メディアによる新しい形の「出版」に大きな期待をかけているようでした。

ゲストの天野祐吉氏。背景は亀倉雄策の傑作として知られる東京オリンピックのポスター。

ゲストの天野祐吉氏。背景は亀倉雄策の傑作として知られる東京オリンピックのポスター。

右手が港千尋氏。背景では19世紀フランスのポスターと日本の浮世絵がオーバーラップ。

右手が港千尋氏。背景では19世紀フランスのポスターと日本の浮世絵がオーバーラップ。

続いて港氏が対話に加わり、トークセッションは佳境に。電子書籍の登場がもたらした書物観の変容に言及した『書物の変』(せりか書房)という著作もある港氏は、『de』誌上で「tateyoko:超電子時代のイメージ論」という連載をはじめるとのこと。

「19世紀末のパリでは、当時のニューメディアであるポスターが登場したことで景観が一変し、街の物売りのたてる音が消えた。いま、こういう電子的な媒体が登場することで、ひとたび消えた音や時間が復活したら面白い」という港氏。最後には多摩美術大学で教えている学生の作ったメディアアート的な電子書籍を紹介し、ベストセラーを電子化するだけの今の電子書籍とはことなるアプローチが、若い世代のなかから生まれていることを示してくれました。

フォトジャーナリストによるインディ雑誌:『fotgazet』

翌日の28日は、神田の猿楽町にあるNPO法人Our Planet-TVのメディアカフェというスペースで、フォトジャーナリズムの電子雑誌『fotgazet』の創刊記者会見とシンボジウムが行われました。こちらはPDFによる創刊準備号がすでに公開されており、無償でダウンロードできます。

日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)は、アメリカの9/11事件以後の日本のマスメディアの報道に危機感を抱いたフォトジャーナリストやビデオジャーナリストが、2002年7月に設立した団体です。メンバー個々人の活動については、『「戦地」に生きる人々』『フォトジャーナリスト13人の目』(ともに日本ビジュアル・ジャーナリスト協会編、集英社新書)でくわしく知ることができます。

パレスチナやチベット、ビルマなどでの取材経験が豊富なベテラン揃いですが、昨今の出版状況の悪化にともない発表の場が減っており、現地報告会への参加者もここ数年減少していることなどから、独自の発表媒体をつくる必要を感じるようになったのが、創刊の理由だといいます。ネット上で500人以上の賛同を得ることを条件にプロジェクトをスタートさせたところ、710人の賛同が得られ、創刊の運びとなりました。

『fotgazet』は写真ジャーナリスト自身が編集する電子雑誌。

『fotgazet』は写真ジャーナリスト自身が編集するPDF形式による電子雑誌。

自身も写真ジャーナリストである野田雅也氏(左)がデザインなどを担当。右は山本宗補氏。

自身も写真ジャーナリストである野田雅也氏(左)がデザインなどを担当。右は山本宗補氏。

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フェイスブックにファンページを作りました

2011年2月1日
posted by 仲俣暁生

フェイスブックに、「マガジン航」のファンページを作りました。ファンになるには「いいね!」ボタンを押してください。URLはhttp://www.facebook.com/magazine.kです。

記事が更新されるたび、これまでのツイッター(@magazine_k)に加えて、今後はフェイスブックでも告知します。また現在ファンページでは、2010年にアクセス数が多かった記事上位15位を発表しております。フェイスブックのアカウントをもつ寄稿者も多いので、記事へのフェイスブック内でのコメントも歓迎いたします。

ウィキメディア・カンファレンス・ジャパン2010報告

2011年1月23日
posted by Ks aka 98

一昨年(2009年)のウィキメディア・カンファレンス・ジャパン2009は、知の構造化センターとの共催で、東京大学(駒場キャンパス)で開催された。国会図書館館長の長尾真、ウィキメディア財団のジェイ・ウォルシュ両氏の基調講演、百科事典とは何か、ウィキメディアのプロジェクトの紹介、そしてウィキペディアをつかったデータマイニング…。予想を超える来場者数で受付の対応が間に合わず、行列ができた。他に例を見ない、ウィキペディアン、研究者、編集者ほか出版などのメディア関係者といった様々な人が交流する機会となった。

昨年刊行された『ブック・ビジネス2.0』(岡本真・仲俣暁生編、実業之日本社)の前書きで、ウィキメディア・カンファレンス・ジャパン2009に言及されているのをみて驚いた。この本が成立する一助となったのならば、スタッフの一員としては、望外の喜びである。もっとも、その直後からスタッフの間では、2009年は、うまく行き過ぎだったという認識を共有していた。ウィキメディア・カンファレンス・ジャパン2009は、一年限りの任意団体として作られていて、たとえば余った運営費はすでにすべて財団に寄付している。

翌2010年のウィキメディア・カンファレンス・ジャパン2010は、より身の丈にあったものだったと言えると思う。当初検討していた会場との交渉が難航したため、かなり変則的で、急場しのぎの企画でもあった。そうした経緯はともかくとして、11月7日にウィキメディア財団の技術運営エンジニア(Operations Engineer)であるライアン・レインを中心として、メディアウィキを取り上げた「TECH」、14日には学術コミュニティに向けての「OUTREACH」と、2回にわけて開催することができた(なお、ライアンはもともと関西オープンソースでの講演のために来日したもの)。

TECHでは「メディアウィキ」という、ウィキペディアで使用しているソフトウェアについて、またOUTREACHでは、データマイニングのようにウィキペディアを「対象」とした学術コミュニティとの拘りではなく、学術コミュニティそのものへのアプローチについてと、ともにWCJ2009では扱いきれなかったテーマを取り上げることになった。TECHには70人ほど、OUTREACHには40人ほどの来場者があり、聴衆を選ぶテーマであることを考えれば、成功と言えるだろう。

TECHでは、森竜也による「分散処理プラットフォームHadoopによるWikipediaデータの解析」(ppt)、中山浩太郎による「MediaWikiの内部クラスと応用研究」、ライアンによる「MediaWiki開発者コミュニティに参加するには」 (pdf、日本語 英語)というプログラムとなった。

OUTREACHは、私(Ks aka 98)が「ウィキペディア」の説明と、学術コミュニティ、学術情報との関わりについて話し、林和弘の「日本学術会議『包括的学術誌コンソーシアム』提言に至る議論と学術コミュニティの将来像」、岡本真の「学術情報流通の未来に向けた博物館、図書館、文書館(MLA)の可能性」、さらに既に行われている学術コミュニティからのウィキペディアの執筆への取り組みとして、土木学会:応用力学ウィキペディア小委員会(ustream)、山田晴通の体験(ustream)を語っていただいた。


▲ 林和弘「日本学術会議『包括的学術誌コンソーシアム』提言に至る議論と学術コミュニティの将来像」

▲岡本真「学術情報流通の未来に向けた博物館、図書館、文書館(MLA)の可能性」

「利用」から「参加」へ

その翌週、今度は図書館総合展が開催され(会場はパシフィコ横浜)、そこでは、24日に「大規模デジタル化時代における『知』との接点―Wikipedia、電子書籍、Twitterの潮流をライブラリアンはどう受けとめるか」(主催:ジャパン・ナレッジ、協力:アカデミック・リソース・ガイド)というフォーラムがあり、渡辺智暁(GLOCOM、クリエイティブ・コモンズ・ジャパン)、長谷川豊祐(鶴見大学図書館)、清田陽司(東京大学基盤センター、株式会社リッテル)、佐藤翔(筑波大学大学院)が登壇、200人を超える聴衆を集めた。翌25日には、清田が「商用百科事典とWikipediaの比較から見えてくるもの~Littel Navigatorの活用による情報リテラシー向上~」と題したプレゼンテーションを行っている(主催:紀伊國屋書店)。

上記フォーラムで渡辺の発表資料の最初には「ウィキペディアは無視できない存在になっている(止めようにもみんな使う)」という一文があった。出版社や編集者、情報学の研究者から関心を集めるようになったのが2009年、技術者にとっても、学術コミュニティにとっても、図書館関係者にとっても、無視できない存在になってきたのが、2010年。一般的な認知度は既に高まっていたが、たとえば大学で教えている人たちとウィキペディアを話題にするときに、レポートへのコピペの問題から、普通に「(専門以外では)使っています」というような声を聞くようにもなった。次は、いかにして「参加」してもらうかというのが、ウィキペディア側の立場から考えるところだ。

「ウィキペディアによれば」という文章が、まともな大学の文書とか、新聞とかにも出てきてしまう。ネット上で誰でも容易に到達できる情報源としては、今後いくらNDLやCinii、大学などの教育機関が頑張っても、グーグルが最大の入り口になっている間は、ウィキペディアを超えることはできないだろう。ウィキペディアの信頼度調査は、英語版を対象としたものでは、おおむね一般的な百科事典と比べて、少し劣るか遜色ないという結果が出ている。ヤフーバリューの調査では、テレビや雑誌を上回る信頼度を得ている(2008年末の調査 、2009年末の調査)。

「ググれカス」という言葉がある。ちょっと踏み込んだ対話に必要な最低限の知識を持たない相手に対して用いられる。グーグルで検索すればすぐに見つけられる程度の情報は、それぞれに得ておかなければならない「常識」である。その感覚は、ネット上では確立してるように思う。今、グーグルで検索すればウィキペディアにたどり着く。「ウィキれ」という表現も見たことがある。日本の常識というのは、ウィキペディア日本語版に書かれていることになってしまった。なるほど、これまでよりも整理されて、もっともらしい記述に出会う可能性は高まった。グーグルの検索結果から信頼できるものを選び取るために求められたリテラシーは、ウィキペディアの記事をどの程度信頼できるか判断するというリテラシーへと変化した。

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今年は「電子書籍2年」、それとも?

2011年1月11日
posted by 仲俣暁生

あけましておめでとうございます。今年も「マガジン航」をよろしくお願いいたします。

昨年は「電子書籍」をめぐる報道が相次ぎ、ときならぬ流行語となりました。年末にあわただしく国内の各メーカーから電子書籍を閲読できる端末が発売され、プラットフォームは早くも乱立気味ですが、実際のサービスは始まったばかり。今年の成否によって、昨年が本当の「元年」だったかどうかが判断されることになるでしょう。

DIYとしての電子書籍

2010年のオモテの流行語が「電子書籍」だとしたら、ウラの流行語は「自炊」そして「ダダ漏れ」といったところでしょうか。電子書籍ブームと言われるわりに、魅力的なコンテンツが十全に供給されないことに苛立ったユーザーが、自発的に紙の本を断裁してスキャンして読みはじめた、DIY的なムーブメントが「自炊」です。本来、読者自身が行うのでこう呼ばれたのですが、めざとい業者が代行サービスを開始し、そのことでも大いに話題となりました。

リアルタイム動画配信サービスのUstreamや、Twitterの普及によって広まった「ダダ漏れ」ムーブメントも、「自炊」と同様、DIY的なものです。ウィキリークス代表であるアサンジ氏の逮捕をはじめ、国内外で情報流出にかかわる事件が相次いだことで、ネットワーク化された社会における情報公開と機密保持のあり方をめぐり、昨年はさまざまな議論が起きました。好むと好まざるとにかかわらず、私たちは「ダダ漏れ」を可能とするインターネットという新しい情報環境を、社会の構成要素として認めなければならない時期に来ています。

電子書籍をめぐる騒動は、「黒船」という言葉に象徴されるように、受け身のかたちで海外の動きに翻弄された出版界が発火点となりました。しかし、いま本の世界で起きている出来事は、守勢にたつ出版業界中心ではなく、インターネットという情報環境がすでに生活の一部となっている利用者=読者の視点で見たほうがスッキリします。少なくともDIY的な「自炊」や「ダダ漏れ」の動きは、「黒船」とはなんの関係もありません。

いったい紙の本はなくなるのか、出版業界は衰亡するのか、といった答えの出しようのない未来予測は、大半の利用者にとってはどうでもいいことでしょう。具体的にどんなサービスが提供されるか、といったことのほうがはるかに大事です。

昨年暮れには、以前から話題になっていたエスプレッソ・ブック・マシンによるオンデマンド出版が、三省堂書店の神田本店で始まりました。オンデマンド出版による印刷本は、背後に電子的な本のコンテンツのデータベースをもつという意味で、「電子書籍」の一種です。遅まきながら、私も先日、ようやく実地に試してみることができました。

すでに古田アダム有さんによる優れた報告記事(印刷屋が三省堂書店オンデマンドを試してみた)があるので、詳細はそちらに譲りますが、目の前で本ができあがっていく様子を見るのは、出版界に長く身を置いている私にとっても新鮮な体験でした。まだまだ始まったばかりのサービスですが、5年後、10年後を考えれば、このようなデジタル→アナログというかたちの「電子出版」も、一定の広がりをもつようになるのではないでしょうか。

そういえば、一昨年の秋に「マガジン航」を創刊する前、試験的に運営していた時期に紹介した、こんな映像があります(詳細は「未来の読書風景」のエントリーを参照)。フランス第二の大手出版社であるeditis社が、2007年に作ったプロモーション・ムービーです。iPadの発表以前だった当時は、ずいぶん先の未来の風景に思えたものですが、案外早い時期に、私たちはこのような本との付き合い方を、ごく自然にすることになるのかもしれません。

電子書籍は過去の「耐久メディア」と同じ道を歩むのか

昨年は電子書籍にまつわる本もたくさん刊行されました。タイトルに「電子書籍」とつく本だけでも、十冊近くありました。日本ほど大騒ぎをしているわけではない海外でも、紙の本の運命について思いをはせる人々がいます。作家のウンベルト・エーコと劇作家のジャン=クロード・カリエールによる長い対談をまとめた『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』も、そうした本のひとつです。

この本のはじめのほうに、「耐久メディアほどはかないものはない」という章があります。過去に登場した、レーザーディスクやCD-ROMなどのさまざまな電子的な「耐久メディア」は、結局は紙の本よりもはるかに短い生命しかもちませんでした。コンテンツをおさめたメディアが残ったとしても、その再生に必要な機器のほうが、あまりにも早くに陳腐化してしまうからです。

私も昨年末に自宅を大掃除したところ、アップルのニュートンや、ソニーのクリエなど、かつて一世を風靡したPDAと呼ばれる電子機器がたくさん出てきました。過去に買ったパソコンの数は数え切れません。電源を入れれば、これらはいまでもおそらく動くことでしょう。しかし、電子機器にとって十数年の時間はあまりにも長く、1990年代はじめはもはや、今からみれば化石時代みたいなものです。

かつては電子出版の花形とされたCD-ROMも大量に発掘されたのですが、これらを再生して観られる機械は、すべて押し入れのなかです(苦労して初期のCD-ROMを再生した方の記事はこちら)。過去をたえず陳腐化させていくことで進化してきた電子機器と、過去を未来につなげることを本来の目的とする「書物」は、もともとあまり相性のいいものではないのかもしれません。

とはいえ、電子書籍の時代は結局やってこないのか、と悲観するのも早すぎるようです。私たちはどうしても目の前にある本(あるいはそれを模した電子機器)に心を奪われてしまいますが、いま大きく変わろうとしているのは、目の前の端末ではなく、むしろバックヤードのほうです。ひとたびコンテンツが電子化されてしまえば、「電子図書館」も「電子書店」も「検索サービス」も、たいした違いがなくなっていきます。

インターネット上のソーシャルメディアや検索サービスによって「本」と出会った利用者が、ある場合には普通の印刷本で、ある場合にはオンデマンド印刷で、ある場合には電子書籍で、その「本」を読む。ある場合には有料で購入し、ある場合には無償で閲覧する。そのさまざまなバリエーションのひとつが、いま言われている「電子書籍」であるということにすぎません。そう考えるなら、私たちはすでに、電子書籍の時代に足を踏み入れているのです。

最後に、今年最初の転載記事をご紹介します。昨年7月に図書新聞に掲載された大澤聡さんによる「電子書籍論と歴史的視点」という論考です。この論考の結語に近いところで、大澤さんは次のように述べています。

「技術が進むことで、○○ができるようになる」型の論理だけでは片手落ちだ。「○○をしたいから、関連技術を進める」型の議論も必要となる。場面によっては、これが反動的な提言となりうることは十分承知している。だが、こと電子書籍論に関しては、あまりに前者に傾斜しているように見えるのだ。

電子書籍は私たちが怖れなければならない「敵」でもなければ、何もしないでいても現状を変えてくれる「救世主」でもありません。それによって「何をしたいのか」。電子書籍ブームの大騒動から2年目を迎えた今年、私たちが考えるべきは、そのことのようです。

「マガジン航」は電子書籍の話題に特化したメディアではなく、書物電子化によって大きく姿を変えていくであろう、「図書館」や「書店」、「作家」や「読者」の将来の姿を見据えた記事を掲載していきたいと考えています。これまでと同様、読者からの寄稿や、すでに他の媒体(紙媒体でも、個人ブログなどのウェブ媒体でも)で発表した記事の転載を歓迎します。