今年は「電子書籍2年」、それとも?

2011年1月11日
posted by 仲俣暁生

あけましておめでとうございます。今年も「マガジン航」をよろしくお願いいたします。

昨年は「電子書籍」をめぐる報道が相次ぎ、ときならぬ流行語となりました。年末にあわただしく国内の各メーカーから電子書籍を閲読できる端末が発売され、プラットフォームは早くも乱立気味ですが、実際のサービスは始まったばかり。今年の成否によって、昨年が本当の「元年」だったかどうかが判断されることになるでしょう。

DIYとしての電子書籍

2010年のオモテの流行語が「電子書籍」だとしたら、ウラの流行語は「自炊」そして「ダダ漏れ」といったところでしょうか。電子書籍ブームと言われるわりに、魅力的なコンテンツが十全に供給されないことに苛立ったユーザーが、自発的に紙の本を断裁してスキャンして読みはじめた、DIY的なムーブメントが「自炊」です。本来、読者自身が行うのでこう呼ばれたのですが、めざとい業者が代行サービスを開始し、そのことでも大いに話題となりました。

リアルタイム動画配信サービスのUstreamや、Twitterの普及によって広まった「ダダ漏れ」ムーブメントも、「自炊」と同様、DIY的なものです。ウィキリークス代表であるアサンジ氏の逮捕をはじめ、国内外で情報流出にかかわる事件が相次いだことで、ネットワーク化された社会における情報公開と機密保持のあり方をめぐり、昨年はさまざまな議論が起きました。好むと好まざるとにかかわらず、私たちは「ダダ漏れ」を可能とするインターネットという新しい情報環境を、社会の構成要素として認めなければならない時期に来ています。

電子書籍をめぐる騒動は、「黒船」という言葉に象徴されるように、受け身のかたちで海外の動きに翻弄された出版界が発火点となりました。しかし、いま本の世界で起きている出来事は、守勢にたつ出版業界中心ではなく、インターネットという情報環境がすでに生活の一部となっている利用者=読者の視点で見たほうがスッキリします。少なくともDIY的な「自炊」や「ダダ漏れ」の動きは、「黒船」とはなんの関係もありません。

いったい紙の本はなくなるのか、出版業界は衰亡するのか、といった答えの出しようのない未来予測は、大半の利用者にとってはどうでもいいことでしょう。具体的にどんなサービスが提供されるか、といったことのほうがはるかに大事です。

昨年暮れには、以前から話題になっていたエスプレッソ・ブック・マシンによるオンデマンド出版が、三省堂書店の神田本店で始まりました。オンデマンド出版による印刷本は、背後に電子的な本のコンテンツのデータベースをもつという意味で、「電子書籍」の一種です。遅まきながら、私も先日、ようやく実地に試してみることができました。

すでに古田アダム有さんによる優れた報告記事(印刷屋が三省堂書店オンデマンドを試してみた)があるので、詳細はそちらに譲りますが、目の前で本ができあがっていく様子を見るのは、出版界に長く身を置いている私にとっても新鮮な体験でした。まだまだ始まったばかりのサービスですが、5年後、10年後を考えれば、このようなデジタル→アナログというかたちの「電子出版」も、一定の広がりをもつようになるのではないでしょうか。

そういえば、一昨年の秋に「マガジン航」を創刊する前、試験的に運営していた時期に紹介した、こんな映像があります(詳細は「未来の読書風景」のエントリーを参照)。フランス第二の大手出版社であるeditis社が、2007年に作ったプロモーション・ムービーです。iPadの発表以前だった当時は、ずいぶん先の未来の風景に思えたものですが、案外早い時期に、私たちはこのような本との付き合い方を、ごく自然にすることになるのかもしれません。

電子書籍は過去の「耐久メディア」と同じ道を歩むのか

昨年は電子書籍にまつわる本もたくさん刊行されました。タイトルに「電子書籍」とつく本だけでも、十冊近くありました。日本ほど大騒ぎをしているわけではない海外でも、紙の本の運命について思いをはせる人々がいます。作家のウンベルト・エーコと劇作家のジャン=クロード・カリエールによる長い対談をまとめた『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』も、そうした本のひとつです。

この本のはじめのほうに、「耐久メディアほどはかないものはない」という章があります。過去に登場した、レーザーディスクやCD-ROMなどのさまざまな電子的な「耐久メディア」は、結局は紙の本よりもはるかに短い生命しかもちませんでした。コンテンツをおさめたメディアが残ったとしても、その再生に必要な機器のほうが、あまりにも早くに陳腐化してしまうからです。

私も昨年末に自宅を大掃除したところ、アップルのニュートンや、ソニーのクリエなど、かつて一世を風靡したPDAと呼ばれる電子機器がたくさん出てきました。過去に買ったパソコンの数は数え切れません。電源を入れれば、これらはいまでもおそらく動くことでしょう。しかし、電子機器にとって十数年の時間はあまりにも長く、1990年代はじめはもはや、今からみれば化石時代みたいなものです。

かつては電子出版の花形とされたCD-ROMも大量に発掘されたのですが、これらを再生して観られる機械は、すべて押し入れのなかです(苦労して初期のCD-ROMを再生した方の記事はこちら)。過去をたえず陳腐化させていくことで進化してきた電子機器と、過去を未来につなげることを本来の目的とする「書物」は、もともとあまり相性のいいものではないのかもしれません。

とはいえ、電子書籍の時代は結局やってこないのか、と悲観するのも早すぎるようです。私たちはどうしても目の前にある本(あるいはそれを模した電子機器)に心を奪われてしまいますが、いま大きく変わろうとしているのは、目の前の端末ではなく、むしろバックヤードのほうです。ひとたびコンテンツが電子化されてしまえば、「電子図書館」も「電子書店」も「検索サービス」も、たいした違いがなくなっていきます。

インターネット上のソーシャルメディアや検索サービスによって「本」と出会った利用者が、ある場合には普通の印刷本で、ある場合にはオンデマンド印刷で、ある場合には電子書籍で、その「本」を読む。ある場合には有料で購入し、ある場合には無償で閲覧する。そのさまざまなバリエーションのひとつが、いま言われている「電子書籍」であるということにすぎません。そう考えるなら、私たちはすでに、電子書籍の時代に足を踏み入れているのです。

最後に、今年最初の転載記事をご紹介します。昨年7月に図書新聞に掲載された大澤聡さんによる「電子書籍論と歴史的視点」という論考です。この論考の結語に近いところで、大澤さんは次のように述べています。

「技術が進むことで、○○ができるようになる」型の論理だけでは片手落ちだ。「○○をしたいから、関連技術を進める」型の議論も必要となる。場面によっては、これが反動的な提言となりうることは十分承知している。だが、こと電子書籍論に関しては、あまりに前者に傾斜しているように見えるのだ。

電子書籍は私たちが怖れなければならない「敵」でもなければ、何もしないでいても現状を変えてくれる「救世主」でもありません。それによって「何をしたいのか」。電子書籍ブームの大騒動から2年目を迎えた今年、私たちが考えるべきは、そのことのようです。

「マガジン航」は電子書籍の話題に特化したメディアではなく、書物電子化によって大きく姿を変えていくであろう、「図書館」や「書店」、「作家」や「読者」の将来の姿を見据えた記事を掲載していきたいと考えています。これまでと同様、読者からの寄稿や、すでに他の媒体(紙媒体でも、個人ブログなどのウェブ媒体でも)で発表した記事の転載を歓迎します。

執筆者紹介

仲俣暁生
フリー編集者、文筆家。「シティロード」「ワイアード日本版(1994年創刊の第一期)」「季刊・本とコンピュータ」などの編集部を経て、2009年にボイジャーと「本と出版の未来」を取材し報告するウェブ雑誌「マガジン航」を創刊。2015年より編集発行人となる。著書『再起動せよと雑誌はいう』(京阪神エルマガジン社)、共編著『ブックビジネス2.0』(実業之日本社)、『編集進化論』(フィルムアート社)ほか。