番外編2 佐藤真の「不在」を見つめて

2016年11月16日
posted by 清田麻衣子

佐藤真の映画を観て、本を読んで、考える時間は、頭にモヤがかかったような状態が多かった当時の私にとって、幼いころの遊びに熱中する感覚が蘇ってきたような時間だった。ファッションくらいしかこだわりのなかった私が、ようやく初めて心から楽しいと感じたのが、大学3年から4年にかけての卒論準備だった。

しかしそれは同時に、就職活動の始まる時期でもあった。そのときはっきり思ったのは、「こういう時間がこれきりだなんて絶対にいやだ」ということ。この「感じ」をもっとずっと味わいたいと思った。しかし私は自分の琴線に触れるものを探していたいだけだった。同級生の映画論にはサッパリついていけない自分が、卒業後、映画関係に進もうと考えるのはおこがましかった。

80名と少ない人数だったこともあるが、芸術学科の映像専攻のコースで、当時ドキュメンタリーを選んだ人は他にいなかった。同級生と想いを共有することはなかったが、「私にはいま熱いものがあるんだ」と密かに鼻息を荒くしていた。そして想いを育みながら、1999年10月、ドキュメンタリーの祭典「山形国際ドキュメンタリー映画祭」に向かった。

「ドキュメンタリーとは、世界を批判的に見るための道具である」

ふだんはひっそりとした山形市の中心部に、世界中から最新の優れたドキュメンタリー映画や、旧い貴重な記録映像が集められ、国内外から映画関係者が一堂に会す。6時間の作品を途中ウトウトしながらもなんとか観て、山形名物の芋煮を食べ、夜は観客も映画関係者の垣根もなく一緒に飲めるという居酒屋・香味庵に顔を出したりして、俄かに映画人の気分に浸った。映画館のロビーや香味庵で、佐藤真監督の姿も何度か見かけた。いつも人の輪の中にいて、朗らかだった。しかし、そのとき私はまだ卒論を書き始めておらず、モヤモヤとした想いだけを抱えて何を話せばいいのか、会話の糸口が浮かばなかった。

佐藤監督の映画は、言葉で説明しづらい映画だ。そして、映画の中の言葉もとても少ない。一度観ただけでは気づかないことも多い。しかしだからこそ、自分で感じ、考える余地が与えられている。そしてその体験が残る。

一方、著者としての佐藤真はとても理論的で鋭く、そして雄弁で、明快だった。当時唯一の著書『日常という名の鏡』(凱風社)を、私はボロボロになるまで読んだ。自作にとどまらず、古今東西の名作ドキュメンタリーについても多くの頁を割いたこの本で、「ドキュメンタリーとは、世界を批判的に見るための道具である」というのは、佐藤監督が繰り返し言っていた言葉だ。

佐藤監督の映画に未知の世界への目を開かれ、考えるきっかけをもらったと感じていた私にとって、本は、映画を観て考えたことを監督の言葉によって確認、補完するテキストのようなものだった。付箋をたくさん立てて繰り返し読んだ。時に挑発的な文章は、それまで空っぽだった脳みそにぐんぐん浸透した。今にして思えば上澄みだけをすくっていた感じがしてならないが、佐藤監督の視点が世の中に広がったら、もっと他者への想像力に満ちた世界に変わるんじゃないかと本気で思った。その想いを山形でより強くしていた。

上映会場は複数あった。旅先の山形で、配布されたマップとスケジュールを見ながら映画をハシゴする数日間は、地方の映画祭ならではの一体化と高揚感があった。しかしそうやって街を彷徨っていると、行き交う人の多くが、「関係者」の札を首から下げている人や、取材の人、もしくは私と同じような学生ばかりだと感じはじめていた。

「やっぱりフツーの人はこないんだ」

そんなことが気になったのは、私自身が半端な「フツーの人」で、もうすぐ学生を終えようとしていたからだと思う。

「ここはこんなに熱気が充満しているのに、渋谷のスクランブル交差点にいる人たちはきっと恋愛や洋服のことばかり考えてるんだ。その距離は埋まらない」

山形の刺激的な日々を堪能し、ついこの間まで自分が浸かっていた日常にいる人々に対して憤っていた。それこそ想像力のない浅はかな発想だったが、山形で上映される映画の多くは遠い世界のことに想いを馳せることができるような、世の中の見方を大きく変える映画ばかりだから、ここに来ないような人にこそ観られなくてはならないのに、と感じていた。

佐藤監督からの手紙

東京に戻って、本格的に卒論に着手しながら、就職活動も本格化し始めていた。芸術と社会をつなぐ仕事ができないものだろうかと考えるようになっていた。そして目の前にある本『日常という名の鏡』を毎日眺めていたら、いつか佐藤真監督の本が作りたいと思うようになった。本ならいろんな種類のことが伝えられる。本なら人に「いいよ」って勧めやすい。そうか、私は本をつくる仕事がいいんじゃないか。

90年代後半、当時は「バブル以降」と呼ばれていて、不況についてのニュースばかり聞こえてきたが、ノホホンと暮らしていた学生の私にはピンとこなかった。狂ったように踊る80年代のお姉さんたちの映像をテレビで見ながら、成金的な価値観が横行するバブルよりも、不況と言われるいまのほうがクールで、いくらかマシなんじゃないかと思っていた。そして不況の底を抜けたら、世の中の霧も晴れて、人間はひとつ賢くなるんじゃないかと安易に考えた。

しかし不況はすぐに我が身に降りかかった。99年は就職超氷河期といわれた。そんな時期に、ただでさえ難関といわれる出版社に、卒論の興奮をそのままぶつけたような履歴書を出し、当然、軒並み書類で落とされた。

そして渾身の卒論も、大半の先生からの評価はいま一歩だった。「批評として論が展開されていない」という、論文としての根本的な欠陥があった。たしかにそうだった。自分の想いと考えを余すことなく書くこと以外頭になかったのだ。しかしゼミ担当教官だった四方田犬彦先生だけが好意的な評価をくれた。

「佐藤がシゲちゃんを見るように清田は佐藤を見ている。対象への愛が良い効果をあげている」

コメント欄に書かれた「佐藤がシゲちゃんを見るように」という字を、何度も見返した。他のマイナスな評価なんて全然気にならなかった。中学以降、自分の考えを大人に伝えることを諦めていた自分が、10年ぶりくらいに大人から褒められたのだ。いっぺんに報われた気持ちになった。そしてその後何年も、私はこの言葉を心の支えにすることになる。

卒論の最後の面談で、四方田先生に、「本人に送ったら?」と言われた。まったく頭になかった発想で、うろたえた。しかし恐る恐る送ると、しばらくして、佐藤監督本人から直筆の手紙が届いた。達筆といえば達筆、しかしミミズが這ったような字、とはこういう字のことをいうのかなとも思う、判読しづらい手書きの手紙だった。

なんとか読み解いた内容は、細かく映画を観てくれてありがとう、という謝辞と、しかしこんなに褒められたら批評ではない、もっと意地悪な視点を持たなければ、という指摘、そして、今度東京都北区で「北とぴあ映画祭」というのをやるので、そこに来てみたらどうか、というお誘いが書かれた、簡にして要を得た手紙だった。

後日、緊張して「北とぴあ映画祭」に向かった。会場のホールの階段を上がりきると、大きな窓から陽の光が降り注ぐロビーに、キャッキャと走り回る二人の小さな女の子と、微笑みながら子どもたちを見守るお母さん、そして、ショルダーバッグを肩から提げて、トレーナーをズボンにインして子どもと遊ぶ、背の高いお父さんの姿が見えた。ごく普通の家庭の、幸せそうな日曜日の光景だった。それが佐藤監督とご家族だった。そのときの会話も上映作品も、緊張していてまったく覚えていない。だがその光に包まれた家族の光景は、今でもありありと浮かぶのだ。

就職、そして突然の訃報

その後、なんとか出版業界に就職してからの度重なる転職の顛末は、以前書いたので省略する。「失われた世代(ロストジェネレーション)」と呼ばれることになった私たちの世代は、正社員募集が少なく、なかなか安定した職に就けない人が増えた世代ということは後で知った。しかし渦中にいる当事者は、「世の中が悪い」と言ったところで言い訳でしかない。その時代でもうまく軌道に乗った人と比べて、うまくいかない人には何か問題があるはずだ。未熟さゆえか、選択自体をミスっているのか――とにかく時代がどうであれ、個人の力量でなんとかしなくてはならない。

「やりたいことを主張するよりも、まずは編集の仕事の基本を身につけろ」ということを就職してから数年間、叩き込まれた。基本を身につけて、それを応用してやりたいことをやればいいのだ。だが、人よりたぶん強い主張を抑えると、まるで手足の動かし方がわからなくなる子供のように不器用だった私は、なかなか仕事ができるようにならなかった。

仕事もハードだったが、そもそも要領が悪かったので残業や休日出勤も多く、映画館に映画を観に行くこと自体めっきり少なくなっていた。ましてや自分の頭で考えなくてはならないドキュメンタリーなんて、くたびれてしまって翌日の仕事に差し障りがある。ドキュメンタリーの世界からもすっかり遠ざかっていた。やりたいこととやれることの狭間で「軌道修正」を繰り返しながら編集の仕事にしがみついていた私にとって、当初感じた世の中とのギャップを埋めるなどということは現実味の薄い理想で、編集の仕事で食べていくことと相反するように思えてならなかった。

一方で、「ダメなやつ」というアイデンティティに飲み込まれそうになっても、ずっと底で私を支えていたのは、やっぱり佐藤監督の存在だった。それは、自分にも「すごいもの」に触れた過去があるんだ、という誇りのようなものだった。当時、酔うとよく「佐藤監督の本が作りたい」と口走っていたらしい。記憶がないのが余計タチが悪い。その後何人も「私も聞いた!」とか「何度も聞いた!」という人に会った。聞くたびに恥ずかしくて消え入りたい気持ちになった。

しかし、2007年9月、佐藤監督は亡くなってしまう。49歳、突然の訃報だった。

それでも私は、自分の好きな仕事を追求する終わりのない道に突き進むと、心のバランスを崩して「あっち側」に落っこちて戻れなくなってしまいそうな気がして怖かった。それまでの日々を大きく変えることもなく、その後数年間、会社勤めに安定の救いを求めた。

ところが、2011年3月11日、東日本大震災が起きた。リスクをとらないでいることよりも、気持ちをごまかし続けて自分の好きなものは何なのかすらよくわからなくなっている状態のほうが危機的だと思った。その状態は、そのときの日本の状況と重なった。もう不安定でバランスを崩したっていい。

里山社の1冊目の本となった田代一倫の「はまゆりの頃に」を写真展で見たとき、佐藤監督の映画を観たときの感触を久しぶりに思い出したような気がした。ここでやらなくていつやるの、という想いで、2012年、会社を辞めて里山社を興した。

しかし当の佐藤監督の本を作る勇気はまだなかった。書き下ろしてもらうことはもうできなくなったけれど、仕事をまとめる本なら形になるとは思った。しかし、亡くなる前から向き合うことをやめていた自分に、その本をつくる資格があるのか、と思った。そして何よりとても覚悟のいるたいへんな作業に思えた。

その「不在」に何が見えるか

震災直後、計画停電で暗い東京の町を歩いていると、昔の東京はこのくらい暗かったのかな、などと思った。日本人はこの震災を経て、大きな犠牲を払いながら限度というものを知ったのかもしれない。これから日本人はもっと賢くなるはずだ――しかしそれは、バブル後の日本人は賢くなるという発想と近かった。震災から4年が経ち、里山社としては3冊目の本にとりかかっていたころ、原発が再稼働するとか、秘密保護法が国会で承認されたとかいう、信じられないニュースが次々と耳に入るようになった。

マスメディアの自主規制にがっかりすることも増えた。一方で、震災後から頻繁にチェックするようになったSNSでは、浅はかな判断をすぐに発信して他人を攻撃する投稿を見かけることが多くなっていた。そしてそれに自分も何度も引っ張られそうになった。問題が表面化しているからこそ、イエスかノーか、白か黒かの意見を表明することを求められ、汲々とする場面が増えた。

その単純化のなかで失ってしまうものが真っ先に他者への想像力だった。自分と異なる世界の、異なる論理で生きている人たちの身になってみたら、簡単に結論は出せなくなる。でもその曖昧な態度までもが非難される時代になったように感じた。気がつけば、90年代の日本とは大きくかけ離れた状況に変わっていた。

今の世の中を、佐藤監督はどう見るだろう。そしてどんな映画を撮り、何を書くだろう――。いやしかし、そもそも佐藤監督は、きっと当時すでに悪い予感があったのかもしれない。「日常に潜む闇」と表現されていたものが、いま光の当たる場所に出てきてしまっているだけなのではないか? 佐藤監督のやろうとしていたのはなんだったのか、いまこそ確かめたいと思った。

里山社の4冊目の本として、佐藤真監督の本を出すことに決めた。「没後10年」の2017年を目前にして、敢えて2016年に出そうと思ったのは、「懐古」的な内容にはしたくないと思ったからだった。

そこで、佐藤監督が当時投げたボールを、現在を生きる、佐藤監督と関わりのある人(生前の面識の有無にかかわらず)がどう受け止めるか、それが対になるような見え方にしようと思った。まず、大まかにいくつか、佐藤真を語るうえで欠かせないテーマを掲げた。

だが佐藤監督がこだわったテーマのなかで、もっとも理解できなかった概念が「不在」だった。牛腸茂雄やサイード、そして自作『阿賀に生きる』のその後といった、すでにこの世にいない人の痕跡をたどるという映画だ。しかしなぜ「不在」を撮ろうとしたのか? そして「不在」に何が見えるというのか?

その疑問は置いたまま、寄稿していただく方々には、とくにこちらからテーマは限定せず、佐藤監督との思い出やエピソードを具体的に綴ってほしいと依頼した。そして、いただいた原稿をもとに、佐藤監督の過去のエッセイと呼応するものを選び、対にした。そして、それらをできるだけ佐藤真の思考の軌跡の順に、テーマごとに配置していった。ゴールを決めずに走りだす編集作業は、まさにドキュメンタリーを作っているようだった。

里山社の三冊目の本となった『日常と不在を見つめて――ドキュメンタリー映画作家・佐藤真の哲学』。

パッチワークのように出来上がった本は、さまざまな偶然も呼び込み、私自身想像していなかったような本になった。そして出来上がったゲラを通して読んでようやく、この本が佐藤監督の「不在」についての本になっていたことに気づいた。本人に聞けないからこそ、佐藤監督が今なら何をいう? 佐藤監督なら何をつくる? と、問いながら、想像し続けていた。

問いの答えはもちろんわからなかった。ただ、佐藤監督が考え続けた「姿勢」を、2016年の地点から想像し続けた。そして思ったのは、その「想像し続けるという姿勢」こそが、不在の先にあるものではないかということだった。人間にとって「想像する」ということが、しかも一瞬ではなく、その姿勢を保ち続けることが、どれだけ難しいかということ。そしてそれはいまの日本、そして世界の状況に、とても必要な姿勢なのではないかと思った。

最後に余談だが、奥様の了解を得て、佐藤監督のご自宅に、資料を探しにお邪魔したときのこと。佐藤監督は、段ボールに綺麗に資料を整理して保管していた。その中に、見覚えのあるファイルを発見した。それは、私が2000年に送った卒論のファイルだった。そこにあったことに、何か意味があるかどうかはわからない。しかし、時間も空間もそして、本人の不在も越えて、佐藤監督に触れたと感じた瞬間だった。

(次回につづく)


【お知らせ】
11月19日(土)〜11月25日(金)にかけて、福島県福島市の「フォーラム福島」にて下記の上映会を行います。

特集上映「佐藤真の不在を見つめて」
日時:11月19日(土)〜11月25日(金)
場所:フォーラム福島
http://www.forum-movie.net/fukushima/

<上映スケジュール>
11/19(土)17:00「阿賀に生きる」
*上映後、19:10〜20:40 にトークイベントあり
朗読「あがの岸辺にて」小林知華子さん(「復刻版あがの岸辺にて」編集)
ゲスト:赤坂憲雄氏(民俗学者)、旗野秀人氏(「阿賀に生きる」製作発起人)

11/20(日)10:00「まひるのほし」/11:55「花子」
*「花子」上映後、13:10〜13:50 にトークイベントあり
ゲスト:細馬宏通氏(人間行動学者)、聞き手:清田麻衣子(里山社)

11/21(月)10:00「SELF AND OTHERS」「おてんとうさまがほしい」/18:30「阿賀の記憶」

11/22(火)10:00「エドワード・サイード OUT OF PLACE」/18:30「花子」

11/23(水・祝)10:00「阿賀に生きる」/18:30「SELF AND OTHERS」「おてんとうさまがほしい」
*「阿賀に生きる」上映後、12:10〜12:50 にトークイベントあり
ゲスト:阿部泰宏氏(フォーラム福島支配人)、渡部義弘氏(県立高校教員、相馬クロニクル主宰)

11/24(木)10:00「まひるのほし」/18:30「エドワード・サイード OUT OF PLACE」

11/25(金)10:00「阿賀の記憶」/18:30「阿賀に生きる」

<トークイベント>
朗読・トークイベント①
11/19(土)「阿賀に生きる」上映後 19:10〜20:40
朗読「あがの岸辺にて」小林知華子さん(「復刻版あがの岸辺にて」編集)
ゲスト:赤坂憲雄氏(民俗学者)、旗野秀人氏(「阿賀に生きる」製作発起人

朗読・トークイベント②
11/20(日)「花子」上映後 13:10〜13:50
ゲスト:細馬宏通氏(人間行動学者)
聞き手:清田麻衣子(里山社)

朗読・トークイベント③
11/23(水・祝)
「阿賀に生きる」上映後 12:10〜12:50
阿部泰宏氏(フォーラム福島支配人)、渡部義弘氏(県立高校教員、相馬クロニクル主宰)

<南相馬市・朝日座にて 特別企画「阿賀に生きる」上映+てつがくカフェ>

福島市での特集上映に関連して、朝日座を楽しむ会のみなさんにご協力いただき、南相馬市で「阿賀に生きる」の上映会を開催いたします。上映後には、お茶を飲みながら参加された皆さんと一緒に語らう場「てつがくカフェ」を開きます。どなたでもお気軽にご参加ください。申し込みは不要です。

日時:11月27日(日) 13:30〜17:00頃
会場:朝日座
住所:福島県南相馬市原町区大町1丁目120
参加費:900円

上記イベントの詳細は、里山社のサイトで御覧ください。
http://satoyamasha.com/?p=1001