ケヴィン・ケリーの新刊『〈インターネット〉の次に来るもの――未来を決める12の法則』(NHK出版、2016)の原題はThe Inevitable、即ち『不可避なもの』である。なにが不可避なのか? テクノロジーの進歩に伴って条件的に課される、日々新しくなっていく情報/メディア環境での私たちの生活である。しかも、その更新は止むところを知らない。
無限のアップデート、避けられないのは常に新しい未来である。
その絶えまぬ更新的世界観は、各章の副題によく現れている。「BECOMING」(なっていく)、「COGNIFYING」(認知化していく)、「FLOWING」(流れていく)等々、すべて~INGという現在進行形で示される。つまり、全12章=「12の法則」は、私たちが放りこまれている新たな環境の生成変化の現場を、特徴的な動詞の観点から検討しているのだ。
永遠のビギナーたれ
ケリーの基本的な立場は最初の40頁で、ほぼ理解することができる。乱暴にいえば、あとの紙幅は示された立場から見えてくる新世界の例示である。
要するにこういうことだ。大きな変化のプロセスのただなかにあっても、今後30年間ほどならば技術進歩の方向(または傾向)の基本を抑えておくことができる。透かして見えるそのアウトラインを、拒むのではなく、先ずは飛び込んでみる意欲でもって新環境と協働することで、いま以上のクリエイティヴな成果を得ることができる。
たとえば、ロボット化が進むと多くの仕事に人手が要らなくなるが、そのぶん、人間だけに許された創造的営為に集中できる機会が増え、しかも様々な技術体からの援助を得ることでそのハードルは大きく下がっていくのだ。
ケリーは、このような常なる更新の世界に対して、「この〈なっていく〉世界では、誰もが初心者になってしまう。もっと悪いことに、永遠に初心者のままなのだ。だからいつも謙虚でいなくてはならなくなる」、「永遠の初心者こそが、誰にとっても新たなデフォルトになる」(p.18)と、ユーザーの側のアチチュードの変化を予告する。
変化し続ける世界では、既存の技術体に関する慣れ親しんだノウハウは役立たない。仮に熟練者が誕生しても、一瞬のうちに、初心者へとリセットされてしまう。永遠のビギナーたれ、というケリーの教えには、未来のメディア環境を生き抜くために必要な心構えを認めることができる。
慣れないことにはもう慣れました
しかし、好奇心を大いに刺激するケリー的世界観には、新しさへの眩暈から反動的にやってくる倦怠を感じてしまう人もいるかもしれない。少なくとも私は、新しさが次々と現れる現在の光景に、拒否したいというほど強い意志はないものの、別段大きな興奮を覚えない。
勝手にアップデートしてしまうことで評判を悪くしたWindows10が、仮にずっとスマートだったとして、しかしそもそも、いま以上の利便性を身につけなければならないのか、という根本的な疑問は拭いがたい。
技術が社会に与える革新性への期待で胸を膨らます青年でもなければ、ちょっとでも目立つ新しさに出会おうものなら全力で拒否感を露わにする老年でもない、このアンニュイな気分を共有する人々のことを、「テクノロジーの中年」と仮称してみることにしよう。
中年とは、具体的な年齢を指しているのではない。「不可避」を的確に認識しつつも、大きな期待もなければ悲観的な絶望もない、否定もしなければことさら深入りしたいとも思わない……謂わば、新しさに慣れ親しんでしまった、慣れないことに慣れてしまった心性のことを指している。
このような中年性を私は以前からケリーとは別のテクストで考えていた。ケリーを読みながら、想起したのはやはりそのテクストの存在である。
即ち、ヴァルター・ベンヤミンのエッセイ「複製技術時代の芸術作品」(1936年)という古典がそれだ。
生写真のアウラ?
「複製技術時代の芸術作品」というテクストは、芸術作品のアウラを分析したことで有名だ。アウラとは、英語読みすればオーラのこと。日本語ならば「威光」とでも訳せるかもしれないが、その意味するところは、一回しか生じない芸術的対象の代替不能な輝きを指している。ベンヤミンはアウラの例としてまず第一に、夏のある風景を紹介する。
いったいアウラとは何か? 時間と空間とが独特に縺れ合ってひとつになったものであって、どんなに近くにあってもはるかな、一回限りの現象である。ある夏の午後、ゆったりと憩いながら、地平に横たわる山脈なり、憩う者に影を投げかけてくる木の枝なりを、目で追うこと――これが、その山脈なり枝なりのアウラを、呼吸することにほかならない。(引用は多木浩二『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』所収の野村修訳を使用、p.144、岩波現代文庫、2000)
技術と芸術の関係を論じる文章にも拘らず、夏の風景のような自然物を第一の例として出す不親切から始まり、一事が万事、このテクストは込み入っており簡潔な要約を拒む性格をもっている――素人ながら推測してみれば、テーマ的にいって本来ならば別々の論文のタイトルとして出すべきアイディアをベンヤミンはこの短文に凝縮してしまっているのではないか――。
しかし、その示唆するところは深い。アウラとは「一回限り」の感覚であり、つまりはコピーできないものを指す。それ故、複製技術が発達すると、アウラは消滅の危機に瀕す。たとえば、実際の夏の風景には他に替え難い重みを見出せるのに対し、同じ風景でもそれを写真やポストカードを通して受容するならば、「一回限り」を感受することはない。アウラ喪失の事態である。
では、アウラの有無は技術的に決定されているのだろうか。そうともいえない。たとえば、「生写真」という言葉がもっている独特の響きを想起してもらいたい。アイドルや俳優の写った、そしてしばしばサインの書き込まれた「生写真」は、他のイメージ・メディアに替え難い輝きをもっている(故に、それは「お宝」にもなる)。
先の例でいえば、写真はアウラが宿らない死物であったはずだ。にも拘らず、そこに冠された「生」の感覚とはなんなのか。含意されているのは、イメージを支えるその物質性である。イメージは独立して存在しているのではなく、物的支持体(紙)に託されて流通する。その有限な物質性こそコピーすることのできない「生」性を確保するのだ。
回帰するアウラ
不思議なことが起こっている。ベンヤミンによれば、複製技術が介入するとアウラは消失するはずだった。そしてその指摘は経験的な説得力をもっている、本物のゴッホ作『ひまわり』とTシャツにプリントされた『ひまわり』は当然違うものだ。けれども、そのような複製技術体であれ、私たちはときにアウラを感じてしまう瞬間がある。アウラが還ってくる。アウラの有無を技術決定論的に断定することはできない。
重要なのは、どうやらアウラ発生の裏側には芸術的対象を受容する主体側の要件が大きく関わっている、ということである。多木浩二が解説するように、「アウラを感じうるかどうかは社会的な条件に依存するから、われわれが集団内で芸術に抱く信念というほうが妥当」だ(p.46)。見聞きし体験する側、知覚する側の社会的条件こそ、アウラの大きな函数である。
では、どうやったら「写真」は「生写真」になることができるのか。私の仮説はこうだ。ある主体が写真以降の複製技術的環境を習慣化したとき、翻って過去の複製技術体に宿っていた複製できない有限性が事後的に見出される、その落差(ギャップ)にこそアウラの回帰する余地がある。
イメージの複製は、今日、パソコンの画像データで処理すればほとんど無限にコピーできる。しかし、その状態が習慣化したとき、翻って一枚の写真という複製技術体がもつ複製できなさを感得することになる。
テクノロジーの進歩に伴って、様々な過程的形態が生まれるが、それらを連続的に通過するとき、過去には感じられなかった複製技術体の特性に改めて直面することができる。「生写真」感覚の正体とは、今日のテクノロジーと明日のテクノロジーの間に生じる時間の界面現象なのではないか。
スクリーンのアウラ
同様のことは文字テクストに関しても指摘することができる。直筆ではなくタイプライターで綴られた「生原稿」は、必要な道具一式を準備すればやはりコピー可能なものだが、インクの汚れや紙のよれ具合などは、それが「一回限り」の現象であったことを端的に教えてくれる。文学者の記念館で展示されるのも当然だ。
ケリーは第四章「SCREENING」で、書物がスマートフォンやタブレットなどスクリーンに代替していく現状を俯瞰して、「本の民」と「スクリーンの民」の対立的様相を紹介している。無論、ケリーは後者への期待を隠そうとしない。これもまた「不可避」である。
ただし、時代が進めば進むほど、特定の型のスクリーンがもつ物質性が逆に浮かび上がってくるかもしれない。SF的な話だが、たとえばバーコードのような模様に触れるだけで文字情報が音声となって脳内で再生される読書環境が一般化したとき、私たちはiPadの平べったさや重みが時代限定的であったことに気づき、その機器でタイプされた文章ふくめて「一回限り」のものとして知覚することは十分ありうる。
活版印刷以降の印刷術は一見、同じ本を複製しているようにみえる。しかし、痕跡本やサイン本がかけがえない対象になるように、それらは元々素材として個々別々の紙で造られている。その個体性に応じて私たちの認識の個体化も生じている。同じことはこれからも起こる。私たちが身体的存在者である以上、環境の物質性を克服することはできず、そこには常にアウラが回帰する余地がある。
いくらデジタル化が進もうと手放せない本の一冊や二冊はあるものだ。だからこそ、手放せないタブレットの一つや二つがあってもおかしくない。
中年の「不可避」
なぜテクノロジーの中年に注目するのか。それは、回帰的アウラの例で分かる通り、技術体を受容する側には経てきた具体的な記憶が宿っていることを無視してはいけないと思うからだ。少し難しくいうと、人間には特有の可塑性があり、新しいものの受容の型は予め歪曲しているように見える。だからこそ受容のさいに落差が生まれる。
美的受容は一律にフラットなものとして考えることはできず、その型には経てきた歴史が刻まれているはずだ。その歴史性をなかったことにすることはできない。ビギナーにはエキスパートの記憶が残っている。
可塑性とは、変化を受け入れる可変性と、受け入れた変化を保存する不可逆性を意味している――ちなみに、可塑性に関するこの両義的な解釈はカトリーヌ・マラブー『わたしたちの脳をどうするか』(桑田光平+増田文一朗訳、春秋社、2005)が強調していたことだ――。変化に開かれつつも先行する変化の歪みを保存する。これは類比的にいえば、テクノロジーの中年がもつアンニュイな気分にほかならない。
私が指摘したいことは、ケリーとは異なる視角からの二つの「不可避」である。
第一に、これからの人間の生にとって、テクノロジーの中年の状態は「不可避」なのではないか。どんな若々しい青年であれ、常なる高頻度の更新に晒されれば、更新そのものが常態化した結果、中年的達観に至る。可塑性は、永遠のビギナーたれ、という教えを、斜に構えた仕方で、或いは鼻で笑いながら受け取るのだ。
第二に、テクノロジーが進歩すればするほど、アウラが回帰したように、中年による過去の技術体再発掘への欲望の点火は「不可避」なのではないか。それを単なるノスタルジーと切って捨てることはできない。なぜなら、その後ろ向きの発見は、再発見でありながらも、時間をかけなければ決して到達しなかった未踏の新発見でもあるからだ。その魅力は、最新テクノロジーと同期する輝きをもっている。
果して、テクノロジーの中年が、人類にとって歓迎すべき成熟したユーザーなのか、それともノリの悪い老害にすぎないのか。それはまだ、いま現在の私には判断がつかない。ただし、私たちは日々老いながら、ケリー的世界観に対峙せねばならないことに留意しておく必要はあるだろう。永遠のビギナー生活もいつかは終わる。誰しもが死のビギナーにならざるをえず、生まれ変わること(=「この私」の複製)もおそらくないのだから。
執筆者紹介
- 1987年、東京都生まれ。在野研究者。専門は有島武郎。En-Sophやパブーなど、ネットを中心に日本近代文学の関連の文章を発表している。著書『小林多喜二と埴谷雄高』(ブイツーソリューション、2013)、『これからのエリック・ホッファーのために――在野研究者の生と心得』(東京書籍)、『貧しい出版者――政治と文学と紙の屑』(フィルムアート社)。Twitterアカウントは@arishima_takeo。
最近投稿された記事
- 2022.06.01書評帯に短し襷に長し?――尾形大『「文壇」は作られた』書評
- 2021.02.12コラム『文學界』編集部に贈る言葉
- 2021.02.06コラム削除から考える文芸時評の倫理
- 2019.04.26コラム献本の倫理