1月7日に起ったフランス紙へのテロ事件には驚かされた。事件そのものにではない、日本のネット界隈で起った反応に対して、だ。結論から言えば、日本の言論、ひいては民主主義は危ういと言わざるを得ない。
最初に驚かされたのは、「表現の自由といっても、あそこまで酷い風刺画を描いたのだから、暴力の応酬があっても仕方がないではないか」といった意見がまことしやかに語られたことだった。実際、私の元にも「銃撃は許されないが、殴られるくらいは覚悟しておくべき」という意見が寄せられたりしている。
暴力の中身や程度の問題なのか?
たしかに一連の風刺画はイスラム教徒の感情を逆なでするものだ。知人に信徒がいる私としても、直視するに耐えられないものもあった。だが、それでも「表現の自由」が暴力によって脅かされても仕方が無い、という意見には強く反発する。
暴力の程度や中身が問題ではない。なぜか?「表現には表現で対抗すべき」という大原則が守られなければ、「民主主義」の前提が根底から覆ってしまうからだ。自由に意見を戦わせ議論し、合意を形成していくプロセスが、利害関係者双方の法のプロセスを経ない暴力に対する恐怖によって機能しなくなることは絶対に避けなければならない。
教科書的な、聞き飽きた意見に聞こえるかも知れない。しかし、民主主義や法による秩序は、人間が元来生まれ持った仕組みではない。私たちが長い時間を掛けて築き上げて来た極めて人工的なものだ。それが暴力や私たちの社会の誤った判断によって、脆く簡単に崩れ去ってしまう例は、歴史を振り返れば枚挙にいとまがない。
法律学も一般には「人の命は地球よりも重い」という前提で体系化されている。そして私たちは同時にそうではない現実があることも十分すぎるほど知っている。それでもなお、意地悪な見方をすればそんな「お題目」を掲げなければ、自由や民主主義といった人工システムを構築し、守ることができないのだ。だから私たちは愚直に、そうではない現実を認めながらも、「表現の自由を守れ」と叫ぶほかない。
かつてエーリヒ・フロムがファシズムを「自由からの逃走」と喝破したように、私たちは困難な状況において私たちの人間らしさ=自由を簡単に放棄しがちな生き物だ。だから念仏のようにそれを唱え続け、自由を脅かすものに対して「No」と言い続け、自らの立ち位置を常に確認しなければならないのだ。
ヘイトスピーチ規制法制化への危惧
今回の事件に対して、移民国家フランスにおける民族・宗教の問題の存在を指摘する声もある。風刺画はイスラム教徒に対するヘイト差別である、といったものだ。そう受止められても仕方がない面もあるだろう。フランス文化や歴史の研究者ではない私にとっては、民族・宗教の問題を俯瞰して理解し解説するのは正直荷が重い。しかし仮にイスラム教徒への差別や排外主義がテロの背景にある、あるいは今回の事件を契機に、そういった動きが強まるのであれば強く「反対」したい。その意味で問題を単純化し、武力=暴力の行使を容易にする「テロとの戦い」というフレーズにも強い警戒感を覚える。
だが、その「反対」が表明できるのも、表現の自由あってこそのものであることを忘れてはならない。日本国内でも在日外国人に対するヘイトスピーチへの規制が唱えられているが、私は表現そのものに網を掛けるのではなく、従来の脅迫罪や騒音規制条例で取り締まられるべきだと考えている。何をもって差別的な表現とするのか、その判断基準は洋の東西を問わず極めて曖昧なのだ。私たちが「ヘイト」を封じるために掛けた網が、いつの間にか私たちの表現そのものを縛ることにならないように注意しなければならない。
つまりは、このような立場に立てば、私たちも民主主義という主張を掲げる「原理主義者」で、それを前提に置かないイスラム国のような政治体制を保つ国や地域から見れば異端で理解不可能な存在だ、と言い換えることもできるかも知れない。しかし、言論の自由、表現の自由といったメリットを享受する以上は、その利益を守る立場に私は立ちたいと思う。表現者の端くれとして、その大前提を守るためであれば、それがポジショントークだと言われても一向に構わない。
何かを表現する、という入り口が広く開かれていることと、それがもたらす結果に対して責任を問われるというのは別次元の問題だ。それと同じように、表現の自由を脅かす「テロ」には断固として反対するが、暴力に暴力で応酬する可能性のある「テロとの戦い」はやはり別次元にあり、警戒すべき表現なのだ。
「禁書」と「焚書」を混ぜて論じるなかれ
『はだしのゲン』閉架問題も記憶に新しい。表現へのアクセスに対して一定のゾーニングを行う「禁書」と、表現そのものを無かったことにする「焚書」も区別して論じられなければならない。
『はだしのゲン』の閉架は、ある種の思想を持つ人物からのクレームを契機に、実質的に図書へのアクセスを封じる処置が取られたことが問題となった。だが、私も「マガジン航」や朝日新聞に寄稿、コメントを寄せたように充分に反論が可能だ。実際世論の盛り上がりもあって、閉架処置は回避されている。たとえ「禁書」となってもその状態は回復可能だということを示したとも言えるだろう。
しかしフランスの新聞社に対するテロは、表現者を殺害し彼らが再び表現できる機会を永久に奪った。そして、その恐怖によって新たな表現者の出現を封じることを狙っている。まさに「焚書」であり、もう元の状態には回復させることは困難だ。禁書と焚書では全く異なる結果がもたらされ、同列に論じることは到底できない問題だということが分かるはずだ。
フランスのテロとデモ、日本でのヘイトスピーチと表現規制を巡る議論は、実は地続きの問題であり、民主主義のメリットを享受する私たちに突きつけられた踏み絵と呼んでも良いはずだ。(その観点まで至れば「私はシャルリだ」というスローガンも首肯できる部分もあるのだが、多くの論者が既に指摘するように、「テロとの戦い」同様、副作用の方が大きいと筆者も感じる)
中には「追悼デモ」に対して、その警戒の言葉をぶつける向きもあったが、石を投げるのであれば、実際に暴力を行使しようとしている極右勢力や権力者に対してであるべきだろう。表現の自由を守ろうと叫ぶものに対して、批判、揶揄するのはあまりにも迂遠だし、結果としてテロの目的を助けることにもつながりかねない。
今回の一連の出来事で、ネット界隈で比較的リベラル、あるいは論理的に物事を論じていると感じていた人々が、あたかも禁書と焚書を同一視した反応を示したのは残念だった。風刺画やポルノのような過激な表現や暴力的なテロは私たちの理性を失わせ、短絡的で誤った判断へと誘う。こういった難しい局面にこそ、過激な表現や暴力に動じることなく、私たちが普段当たり前のものとしてその価値を忘れがちな「表現の自由」という原理原則に立ち返るべきだと私は考える。
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執筆者紹介
- ジャーナリスト/コンテンツプロデューサー。ITベンチャー・出版社・広告代理店などを経て、現在フリーランスのジャーナリスト・コンテンツプロデューサー。ASCII.JP、ITmedia、ダ・ヴィンチ、毎日新聞経済プレミアなどに寄稿、連載を持つ。著書に『知的生産の技術とセンス』(マイナビ/@mehoriとの共著)、『ソーシャルゲームのすごい仕組み』(アスキー新書)など多数。取材・執筆と並行して東京大学大学院博士課程でコンテンツやメディアの学際研究を進める。http://atsushi-matsumoto.jp
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