第5回 六車由実さんと探った「本の原点」について

2014年4月29日
posted by アサダワタル

ワークショップ「本の原点を探る2日間」

2014年の年始、奈良県立図書情報館で「本の原点を探る2日間」というトーク&ワークショップイベントに出演してきた。企画趣旨は以下のようなものだ。

記憶は物語られ、書き記され、記録されて、初めて情報として手元に届けられます。誰かに向き合い記録されたものが、その誰かに向かって「本」として贈られるとともに、「本」として流布され、伝えられていきます。市井にある跡形もなく歴史から消え去る記憶を聞き、掘り起こし、記録し(聞き書き)、編集することにこそ「本」の原点のひとつがあるのではないか、と考えています。それはまた、「リサーチではなく、資料には記録されない、実際に見て触れた「声」に、言葉の肉体を与えること(若松英輔『魂にふれる』)」でもあります。

介護民俗学を提唱されている六車由実さんと日常編集家アサダワタルさんを迎え、トークとワークショップで本の原点を探ります。(企画チラシより)

奈良県立図書情報館は、以前から「本」というリソースを、人と人が出会う触媒(メディア)として考え、数々の先駆的なイベント(ビブリオバトルや、西村佳哲さんと共同で開催した「仕事について考える三日間」、蔵書とリンクしながら展開されるクラシックコンサートや落語会、さまざまなテーマで開催されるフォーラム、ワークショップなど)を開催されてきたところだ。

今回は参加する人たちがこの2日間を通じて、本を読むだけでなく、広義の創作者、編集者として、本が生まれていくプリミティヴな体験をしていきながら、本、あるいはその集積地である図書館の使い方をより創造的に広げつつ深めていく、そういった機会として企画された。

企画者である企画・広報チームの乾聰一郎さんとの出会いはかれこれ6年前。「この人本当に図書館の職員さんなの?」ってくらい、その企画の着想力と広範なネットワーク力、そして何よりも思ったことを形にされる行動力にいつも刺激をいただきながら、飲み仲間としてお付き合いをしてきた。また、これまで「本と地域コミュニティ」をテーマにしたトークイベントの出演、音楽ワークショップの企画など、ちょこちょこっとお仕事でもご一緒してきたのだ。

乾さんの紹介はウェブサイト(いかしごと)の以下の箇所にインタビューが掲載されてますのでご参考に。

[前編:求める人たちのことばかり考えて仕事をするのは、おかしいと思う。
[後編:自分にあった仕事なんてありえない。

今回は、ド直球に「本の原点」というテーマで語ってほしいとの依頼。僕は書き手ではありますが、はっきり言ってそんな大仰なテーマについて考えたことはこれまでなかった。そして、乾さんの中では六車由実さんの『驚きの介護民俗学』(医学書院)を読んだ際に直観的に、「六車さんの介護現場の “聞き書き” と、アサダさんのさまざまなメディアを使って日常を切り取る “日常再編集” は繋がるのでは!?」と感じられたとのことで、あらためてお招きいただいたわけなんだが、さて一体どんな「本の原点」が探れるのだろうか?

六車さんとのクロストークの前に

一日目の前半は六車さんとアサダによる個別のプレゼンテーションを披露した。六車さんは民俗学者としての経験を、伝統的な文化や信仰が残る村落から高齢者介護の現場に移行させながら、認知症の利用者の方々に対する聞き書きを通じて、一人ひとりの「思い出の記」を編集してきたことを紹介された。そして、その行為が語り手である方の人生に新たな輝きを与えるのみならず、一冊の物語が家族や施設職員、ひいては地域に開かれ継承されていく可能性について語られた。

僕は、音楽やアートなど、さまざまな文化的手法を用いて、まちづくりや障害者福祉の現場、小学校での学習現場などで行ってきたプロジェクトの紹介をした。その事例から、日常に溢れている目の前の風景を少し立ち止まって眺め返してみて、そこから自分の関心や記憶を引き出しながら、音楽や本や企画などに纏めてゆく「日常再編集」という考え方を紹介させていただいた。

各々のさらに詳しい活動は以下をご参照いただきたい。

・六車由実さんの書籍『驚きの介護民俗学』と、その元になっている「かんかん! -看護師のためのwebマガジンby 医学書院-」での連載

・アサダの活動も含めて書いた「マガジン航」での「本屋はブギー・バック」のバックナンバーはこちら。

第1回  本屋でこんな妄想は実現可能か
第4回  本でも音楽でも、“文化”を使い回そう!

また2日目のワークショップの内容は以下のような展開があったことを感じていただきながら。


参加者同士が思い出に残る写真を一枚持参、あるいは母親の味や子育ての味など心に残る料理についての記憶を持ち寄り、ペアになってお互いに聞き書きを行うワークショップ。(by 六車由実)


参加者同士がグループになって、あらかじめ青春時代から現在まで手元に残っている「借りてしまったまま返せなくなったCD」を持ち寄り、それらを聴きながらエピソードを語り合い、小さなコンピレーションアルバムをつくるワークショップ。(by アサダワタル)

そして「マガジン航」の本連載では、1日目の六車さんとアサダのクロストークの議事録に、少しだけ編集を加えた内容をお届けしていきたいと思う。さて、この二人からどういった文脈のもとで「本の原点」が語られていくのか、どうぞ最後までお読みくださいませ。

事実を聞き、書きとめること。そして伝えるための「編集」

アサダ 六車さんのプレゼンを伺った際に最初に思ったのは、「事実を詳細に書きとめる」ってことの大切さについてでした。それは民俗学研究者としては当たり前のことなのかもしれないけど、たとえば僕が関わっているアートの領域において人と人とがコミュニケーションをする際に、語られている内容そのものに着目するというよりは、そのコミュニケーションが起きている状況自体を俯瞰して着目するっていう観点のほうが強い気がしてきました。

でも、実は語られていること自体を克明に記録するために、ちゃんと聞くという姿勢を六車さんは大事にされているわけですよね。そこで起きているコミュニケーションは、結果的に介護の現場において新たな丁寧さが生まれるというか。もちろん介護の現場におけるさまざまな日々のケアがある上での話なのですが、そういった支援の視線だけでは生まれてこない「こっち側も必死に書きとめたいと思っている」という思いが、利用者さんにとっても「私もちゃんと想い出して喋ろう」という思いを生み出す。そういった関係性自体が大変興味深かったです。書くために、ちゃんと聞く、だからちゃんと話してくれる、そして信頼関係ができると。

六車 私の「事実を聞く」という行為の原点には、もちろん民俗学をやってきたという経験もあるのですが、それだけではなくて。たとえば、福祉の世界では相手の思いや気持ちを、どう理解するのかということが重要だと言われています。でも、私はいつも全然自信がないんですよ。利用者さんと向き合っていても、その方が本当は何を思っているのかとか、どういう気持ちでいるのかとかがわからないんですよ。

それは介護の現場だからわからないんじゃなくて、日常生活を送っていて一緒にいる相手の気持ちを理解するのが、そもそも得意じゃない(笑)。逆に、自分の気持ちを理解してもらっているっていう感覚も実はあまりなかったり。「わかってくれているなー」とか思っているんだけど、「そうじゃなかったんだ…」ってがっかりすることも結構あったりしまして。そういうことが原点としてまずあるんですね。

だから相手が話していることをちゃんと聞く。しかもそれを記録に残しておくことによって、あとからわかってくるってことがありますよね。記録が積み重なっていくと、「ああ、あのとき、こういうことを言っていたのか」とか「この背景にはこういう気持ちがあったんだ」といったことが、あとから読み直してわかってくる。そして一年後などに別の新たな発見があったり。自分が相手の思いを理解するためのひとつの客観的な資料といった感じで、「思い出の記」が存在していると思うんです。

アサダ 当然、書いて記録するってことは、みんなで読んで共有できる「モノ」になるってことですよね。そこで「継承」というテーマが生まれると思うんです。福祉の現場で、一人の利用者さんの記憶とか思いを誰かに――家族や福祉の現場の関係者だけでなく外の方に――継承していく観点って、なかなか出てこないと思うんですけど。でも「思い出の記」は外に出てゆく可能性が大いにあるし、現に六車さんはこうしてエピソードを伝えている。誰もが読めるモノとして外に開かれてゆく可能性があることが面白いと思いました。

六車 まだ私は年齢的にわからないのですが、人間って70歳〜80歳とか、つまり自分の老いを自覚したときに「何か残したい」って思う方が多いんですね。そういう思いを利用者さんから聞くと、やっぱり「何かしなきゃ」って感じる。でも、義務感だけではもちろんなく、その方一人ひとりの人生ってやっぱりすごく面白いから残したいって思うわけなんです。これは他の人の人生ではなく、まさしくその人の人生であって、それをなんとか何かの形で――それが聞き書きなのかはわからないのですが――残しておきたいと。

そんなシンプルな思いがあってやっているだけなのですが、そのことがどういう風に活用されていくかは、それこそモノに残っているわけですから、相手にお任せしたいと思いますね。どんどん活用されていけばいいと思うんですけど。

――(司会、乾)「事実」が積み重なっていって「物語」になっていくと言いますか、その物語になった段階では、不特定多数の人が読んだり見たりして、それがまた次の物語を生むんじゃないかと思いました。読む人がその物語と自分の事実とを対比させながら、また新たな物語が派生的に生まれていく……といったような、そういう連鎖が生まれてゆくのではないかと。事実をしっかり聞くという行為から始まった先には、単なる事実がやがてひとつの纏まった物語になっていくプロセスがあるんだということを、いまお二人のお話を聞いていて思いました。

六車 そうですね。あとは人が何かに共感したり感動したりするときって、感覚的にはその人の「思い」に対してそうなっているって考えがちなんですけど、実はそうではなくて「事実」に共感しているんじゃないかって気がするんですよ。聞き書きのときも、ものすごくこと細かく聞いてそれを書きとめるんですが、今日、アサダさんの話の中で、「日常再編集」というコンセプトがありましたね。「目の前の日常・風景を整理して、そこから自分の関心を引き出して、それを表現していくことが編集だ」とおっしゃったと思うんです。

さきほどの休憩時間の際に、参加者の方からこの「編集」についての質問をいただいてたんです。「民俗学の中で事実を聞き書きして、それを意味付けるといった一連のこと、それって編集ですよね?」っていうお話をしていたのですが、そこでふと気づいたことがありました。それは私の中で「民俗学でやってきた編集と、いま介護現場でやっている編集は違う!」ってことだったんですよ。

何が違うか。とにかくどっちにしても相手にいっぱい話を聞くわけなんですね。とにかく有象無象いろんなことを聞くわけです。でも民俗学の場合だと、研究のテーマに沿った上で、そこに関連するものしか書けなくなるので、そこからノイズとして漏れてしまう内容が沢山ある。ずっと「それってもったいな」って思っていたんですよ。

一方で介護現場で聞き書きするときには、「できるだけ漏れなくいろんなことを入れたい」と思っているんですね。「このストーリーの流れからすると、この事実はここには絶対に入らないな…」と思っていてもなんとか入れたいと。たとえばある方の人生について聞き書きをしているときに、子どもの頃の遊びの話になって、家の近くに製糸工場があったということがわかってきた。そこから蚕をもらってきて自分の家で飼って遊んでいたと。そのエピソードがすごく細かいんです。でも私はそのことを「思い出の記」にどうしても入れたかった。そこでなんとか編集をするわけです。

面白いことに、その冊子をいろんな人に読んでもらったときに、みんな妙にその蚕のエピソードに反応するんですよね。もちろん人がどこに反応するかはわからないんですが、そのような細かい「事実」に反応しているんだろうなっていう実感があったんです。語ってくれている本人も、自身ではそれが重要だって思って話してなかったとしても、そのエピソードを物語に入れてもらうことで、すごく自分の人生が豊かになったような気持ちを感じてくださったりして。だから、いまの私の「編集」の有り様はずいぶん以前から変わったんだと思いました。

アサダ たとえばパソコンで文章を打っているときに、Wordとかソフトを使いますよね。その文章を編集するために赤(修正)を入れていくと、パソコンの設定で修正履歴を残すことってできますよね。そこで思ったのが、3回くらい前の修正履歴で消したはずの内容にこそ、実は他人が見たら面白いと思ってくれるものもあるんだろうなって。

でもやっぱり学術的な研究とか、はっきりしたテーマ性のもとで意味付けていこうとすると、どうしても文章をスマートにスマートにしないといけない。二次的な要素はどんどん省いていくわけですよね。「強い編集」がかかると言いますか。僕は音楽をやってきている中で、ずっとこのあたりのことを考えてきた気がしてまして。たとえば歌をレコーディングした際も、カットされるべき捨てトラックなのに、あえてそのまま捨てトラックとして逆に表に出すとか(笑)。どこかで「無編集的編集」を意識してきたということを思い出しました。

音楽の話をしていて思い出したのですが、介護の現場で六車さんがやられている聞き書きのアウトプットは、決して文章だけではないことにも関心を持ちました。本というメディアのみならず、映像、CD、塗り絵などなど多様。ちなみに、「こういうメディアを使ったらこんな風に活用される」ということについて、意識されるときはありますか?

六車 あんまりそこは逆に考えなくてもいいかなって思っています。たとえば、さっきある利用者さんが覚えてらっしゃる昔の歌を録音してCDにする、といった話を紹介させていただきましたが、目的としては彼女の声を残したいってことがまずあるわけですが、それがインターネットにアップされたら、また違った活用法が生まれたりとか。あるいは先日ラジオに出演させていただいた際に、そのCDを司会の由紀さおりさんに渡してみたり。だからそこはたしかに活用してもらいたいと思いつつ、「使う側の創造力」に任せようという話だと思うんですね。

日常を非日常に変える「聞き書き」

六車 さっきアサダさんの話を聞いていて、すごく印象的だった、あるいは「私がやっていることもそういうことだったんだ!」ってあらためて思ったのは、日常と非日常の関係についてのお話でした。聞き書きを通じて相手の記憶を想起することによって、日常の場から非日常の場へと誘われるというお話。日常があって、そこから対話を通じて昔の時代へのタイムトリップも含めた非日常へ行って、でもまたいまここにある日常に戻って、みたいなサイクル。私が「すまいるほーむ」(六車さんが働いている静岡県沼津市のデイサービス)でやっている聞き書きも、あくまで日常の延長でやっていたことだったんです。

だけど、実はそうじゃないんだって思った。聞き書きという行為そのものが、非日常性を持った場を創出しているんだって思い返したんですね。さきほどみなさんに「すまいるほーむ」の様子をDVDで観てもらいましたけど、利用者さんたちにとってあそこでいろんな会話をしたりする日常は仮に日常だとしても、家にいるときの日常とは明らかに違うものなんだと。お独りで暮らしてらっしゃる方も、ご家族で暮らしてらっしゃる方もおられるんですが、多くの方は私が聞き書きをすることで語られる私的なエピソードについて、ご家族と話されることはないと思うんです。歌の録音をさせてもらった方も、家ではほとんど歌うことがないそうですし。

そういう高齢の方にとって、昔のことを語る場って実はないんですよ。同世代が集まってきて、しかも若いスタッフが「面白い!」って言って話を聞いてくれる場がある、ということ自体が非日常性を生んでいて、そのことが「思い出の記」になったりCDやDVDとしてモノになっていく。その一連の創造性がここにはあるんだって認識させられました。

――(司会、乾)それは語っているご本人にとってもそうですよね。

六車 もちろん。それに職員にとってもそうなんだと思います。その場にいる集団ごと非日常性を帯びると言いますか、日常と非日常の境い目が曖昧になる。たとえば民俗学には「ハレ」と「ケ」という言葉がありますよね。ハレっていうのは、どうしても必要なことなんですね。ハレの際にエネルギーを貯めて、日常を生き抜いていく、といった意味があるわけなんです。「すまいるほーむ」のあの場も、みんなが時間をかけて死というものに向かっていく、死ぬまで生きていくための力を与えてくれる場所でもあるのかなって思いました。

アサダ 日常と非日常って、そもそもボーダーが曖昧なものだと思っていまして。たとえばお祭りなどにおける「祝祭性」や「舞台性」――飾りがあるとか、音楽が鳴っているなど――を作り上げる場も必要だと思っているんですが、一方で、いま目の前でたしかにその人は僕を見て喋ってくれているんだけど、本当は完全に自分の物語の中に入ってそこでの風景を見ていることってありますよね。

物理的な環境が仮に同じ状況であっても、非日常を生み出す方法というか、コミュニケーションの方法はあると思います。僕自身、音楽をやってきている中で、いわゆるライブやフェスみたいなことにも一方で関わるわけですけど、自分の直球の関心で言えば、そのわかりやすい祝祭性をいかに排除できるか、あるいはいかに使わずにいれるか、「ほとんど普段の生活でやっていることと変わらへんやん!」って、一瞬我に返れるくらいの案配の「ちっちゃな祝祭性」を、どうやって作り出せるかってことをずっと考えて試してきました。この「ちっちゃな祝祭性」を自分でコントロールできる能力を、みんなが日常生活において身につけたら、世の中もっと面白くなるんではないかって思いはずっとありますね。

ちなみに、「思い出の記」をご本人が見られたときの反応や感想って、実際はどんな感じなんでしょうか? あれはやっぱりすごいと思ってまして。だって自分の語ったエピソードが編集されて、一冊の物語として目の前に具体的なモノとして存在するって。

六車 たしかに感動してくれますね。他の人に一生懸命読んであげるって人もいますよ。他の人が聞きたいかどうかは別として(笑)。それにツッコミをいれる他の利用者さんがいたり。

アサダ そのツッコミは文字に起こすんですか?

六車 さすがにツッコミまでは起こさないです(笑)。

アサダ そのツッコミを起こしていけば、さらにそこから二次創作本ができますね。

六車 あとはページをペラペラっとめくって、読まないけど宝物のように扱ってくれる人もいたり。利用者さんにとっては「思い出の記」って私が言っているような認識をしているというよりは、「私を主人公にした小説を書いてくれた!」って感じなんだと思います。

アサダ ああ、なるほど。でも実際にそういう要素もありますよね。きっと「小説」って言われるものと「思い出の記」にはそれほど差がない気がします。

六車 そこに「編集」って行為が加わっていくので、最終的にはそれがある種のフィクション性を帯びることもあるでしょうし。それと、聞き書きをしていく、一冊の本を作っていくってことは私の一方的な行為ではなく、どこかで相手の方との共同作業として進んでいくわけじゃないですか。だからそれは「一緒に何かを創作している」という意味においては、それがフィクションだろうがノンフィクションだろうが、やっていることの意味はあまり違わないのかと。だから自分にとって唯一無二の小説であることには違わないと。

アサダ もうちょっと突っ込んでいけば、相手が語ってらっしゃることが本当に事実かどうかも、実はわからないってところも面白いと思ったんですよ。時間もずいぶん経過している中で語りなおしをしているわけだから、なにか別の事実が紛れ込んでくっついて、実際には起こらなかったことが再解釈されて起こったことになってしまって、それらが語られている可能性もなきにしもあらずだと。そこを引き出すのも、聞き手がいるからこそなのだとは思いますが。

六車 介護の現場ではよくカウンセリングの際に、「事実じゃなくてもいいんだよ」的な認識の仕方を受容することってあるんです。利用者さんが話されたことは事実じゃなくても、その人が語っていることなのだから、それが事実なんだと。たしかにそれはその通りだと思うんですが、一方で私がこだわるのは「徹底的にたしかめる」ってことなんですよね。

たしかめる方法はいろいろあるのですが、ひとつは本人に何度も聞くこと。時間を置いて同じ質問を何度かしていくとか。そうするとだいたい答えって変わってくるんですよ。とりあえず「この部分だけは何度聞いても一緒だ」という重なり合った部分は、たしかにその人にとっての事実だろうと思って書く段階に入るんですが。あとは市史とかに書いてあることと照らし合わせたり。

たとえばその人が戦争の赴任先で見たという風景の話があれば、その人の人生をいったん年表にしてみて事実を確認したり(笑)。そこまでして「よし! それがこの人の事実だ!」って確認をしないと、なんかこう「言っていること=事実」として曖昧にしてしまうことが、悔しいというか、もったいないと思うんですね。せっかくその人が一生懸命お話してくださっているのに。

アサダ たしかに『驚きの介護民俗学』でも、そのような徹底的に調べるエピソードについて書かれていましたね。六車さんがそこまでやってることに関して、相手は「なんでそんなことまでして調べてるの?あんたは?」と(笑) 聞かれている利用者さんご本人にとっては謎なわけですよね。

六車 さっきDVDで観ていただいた、昔作っていた稲荷寿司の思い出を語ってくれた利用者さんには、私があまりにもしつこく何度も聞くもんだから「なんか、大変だねぇ…」って同情されたり(笑)。いつも言われるんです、こっちは「全然大変じゃないよ。楽しいよ!」みたいに返すんですが(笑)。なんか私の性格なのかもしれないけど、話を聞かせてもらったことに対して、そこまで徹底してやることが礼儀だと思っているところもありますね。

――その六車さんのこだわりがコミュニケーションを深めるきっかけにもなっているんでしょうね。

六車 そうですね。曖昧にしないし、うるさいくらいにこと細かに聞きますから、相手もそれに対して一生懸命になってくれますよね。聞き書きする際には、何日か間を空けてやるわけなんですが、たとえば一週間の間に夜寝ながら自分が話したことを思い出しているんですね。それで「ああいう風に話したけど、実はそうじゃなかった!」って一週間後に言ってきたり(笑)。または「あのときは、ああいう風に話したんだけど、あんた、それを書かないでほしい」とかね。

よく聞くとすごく可愛らしいエピソードでね。戦後の食糧難のときに、自分のお母さんがある大手の会社に勤めていて、そこで特別に隠れて作ってもらったパン焼き機があるそうなんです。それを家に持って帰ってきて、パンを焼いてくれたって話なんです。それで、その会社の名前も聞いていたので書こうと思ったんですけど、「でも会社に迷惑をかけるから、書かないでほしい」って言われて。その方にとっては、それがすごく大切なことなんですね。だから「わかった。それは書かないよ」って約束して。このようにして話したことを一生懸命思い返してくれている、その一週間はその方にとってとても濃密だったりすると思うんですね。

「本」が生まれるプリミティヴなサイクル

――(司会、乾)実は僕がこの企画を考え始めた頃に、つねに頭の中にあったのは、「歴史」という言葉の語源が「物語られたもの」ということでした。歴史は物語られ、残っていかないと歴史になりえないという話があって、そのプロセスで「編集」という行為があり――そうこう考えていると、日常編集家と名乗るアサダさんと知り合って、そしてご縁があって六車さんの『驚きの介護民俗学』を読んだ際に、直観で六車さんとアサダさんの行為が自分の中で繋がったんですね。そのお二人を繋ぐ機会が、やっと本日来たかなと思いまして。

お二人がやっているような何かしらの出来事を記録し、物語り、そしてそれが継承され、そして編集され、といった一連のプロセスが、とってもプリミティブな本の有り様を垣間見させてくれているのではないかと、今日のお話を伺っていて思ったわけなんです。僕らは「歴史」って言葉を聞くと、歴史上有名な方がああしたこうしたって話に終始しがちなんですけど、実はそれはピラミッドのいちばん先っぽの部分をあらわしている、あるいは氷山の一角なだけであって、裾野の方がものすごく大きくて、そういうものが蓄積されて人間の歴史ってのは成り立っていると思うんですが、そこを明らかにしていくための一つの手法を見つけられた感じがするんです。

この企画のフライヤーに、若松英輔さんの「言葉に肉体を与える」というテクストを引用させてもらってます。六車さんのされている聞き書きや「思い出の記」、アサダさんのされている日常再編集――いろんなメディアを使って記憶を想起させて編集し、日常を非日常に誘う――といった行為などが、ゆくゆくは次の世代に物語として継承されていく、そういう連鎖の象徴的なものが、実は「本」という存在なのかなって思っているんですね。

アサダ 連鎖していく感じっていうお話は、僕もしっくりきています。「本」って出来上がりがないと思っているんです。もちろん編集をして本として「綴じて」しまうんですけど、そこから先にその本を使ってどんな妄想ができるかってことを考えてしまうんですね。綴じないと形にならないし、本屋にも図書館にも置けないし手に取れないんだけど、そこから先にもう一歩未来の「編集」があるんだと。それが読書って行為で、多様な解釈がその本に(実際その本に書き込まれるって意味でなくとも)載っていって、それがまた新しい次の本を生み出していくサイクルになっていると思うんですね。

そういう風に何かしらのメディアにして、いったん完結させていくことを専門に仕事をしている立場としては、そのことに日々追われていると、いつしかそのメディアを完成させるのが目的みたいになってしまうんですが、実はそうではなくって。一次的に完成させたものを使って、いろんな人たちとまた「一緒に作る」という、二次三次的な行為がさらにその先にあるんじゃないかなって、すごく思うんですね。

――もちろん一緒に作るってこともあるし、ある本を介して人と人とが繋がっていくってこともあるし。それがまたある人の中で次の創作の原点として結びついていくことがあると思うんですね。そのきっかけを実は高齢者の記憶が担っていたとかね。なにかしらそういう編集的な行為をしなくなることで、人間の思考が止まってしまうというか。僕は、そんなふうに人と人とが結びつかなかったり、思考停止している人がいっぱいいたりすることに危機感を感じているんです。本がその内に秘めている本来のエネルギーのサイクルみたいなものが、全然発散されていないのではないかと。

そんな中で、六車さんの現場では、死が少しずつ近づいている高齢の方々が懸命に自身の記憶を語って、それを形にしていく人間がいて、その本がまた若い人とその記憶の持ち主を結びつけていくというのをベタで見せられることにすごく刺激を受けるわけですよね。そういうことを老人と若者とかの組み合わせじゃなくとも、もっといろんなパターンでできるんじゃないかって思ったんですよ。そういうことを言っていると「まずは家庭の中でやったら?」みたいな堅いことを言われる方もいるので、僕はそんなことは思わないんだけど(笑)。それが今日のテーマ「本の原点」であり、お二人のお話を聞いていた際の感想なんです。

六車 さっき一度編集してまとめて完結させないと伝えられないって話がありましたけど、それはたしかにその通りだと思いつつ、でも日常って「流れて」しまうじゃないですか。それが普通のことで、止まっちゃったら日常にはならないんだけど、でも「いったん止まってみる」っていう時間が必要なのかなぁと思うんです。

たとえば私たちのような「書く」という立場の人にとっては、このことはとても大切なことだったりしますが、介護の現場で仕事をしていると、本当にそれがなかなかできない。現場は一見のんびりしているように見えますけど、実はむちゃくちゃ忙しいんですね。とくに午前中はお風呂に入れたり、ものすごいバタバタした状態になるんです。忙しいときはずっと身の回りのお世話をやっているので、それだけで一日があっと言う間に終わる。それで無事に利用者さんが帰ったら、「ああ、今日も終わったね」ってなる。

それが一ヶ月二ヶ月と積み重なると、ふと「あれ、私は毎日何やっているのかな?」って自分の日常がわからなくなるんですよ。自分の仕事そのものの意味がわからなくなるって言いますか。やっぱり聞き書きをしないと生きていけないって改めて思って、それを文章に起こしたりとか、あるいは連載を始めたりとか、っていう作業を始めてようやく生きている心地がしたんです。

その生きている心地っていうのは、日常の時間をいったん止めて振り返る、そしてこの現場で起きていることを確認して自分なりに再編集して形にするってことから来ているんです。それが「本」になることで他の人が読んでくれて反応があって、そしてさらにこのサイクルを現場にどう活かしていくかって考えることができる。これは介護の現場に限らず、あるいは物書きや表現するってことに関わらず、日常を生きている人たちすべてが、この「いったん時間を止めて再編集する」って作業は、不可欠なことなんじゃないかって思うんです。

アサダ すごく同感します。流れていく日常の中で一回一回時間を止めていくことの大切さ。自分にとってはそれはそのまま「書く」っていう行為といまは繋がって、その書いた本などをみんながまた共有していろいろと新たな動きをしてくれるわけなんですよね。

僕は二年前に「住み開き」という、自宅を自分の好きなことをきっかけに無理なく他者に開放していくコンセプトについての本を出版したんですね。自分自身がそういう実践を仲間たちとやっていたり、またそういう家を使った実践をネットワークするプロジェクトをもう一回俯瞰して、「本」という形に再編集し世に出したときにいちばん感じたのは、自分の思いと世間の反応に「タイムラグ」が生まれるということだったんです。

どういうことかと言いますと、本ってやっぱり書いてすぐには出せないわけです。本としてまとめていくのにはある程度、丁寧な時間が必要になってくる。そしてまとめたからこそ、ようやくいろんな方に読書という行為を通じて自分の考えを共有してもらえるのと同時に、良い悪いは別として当初の思いから離れた「誤読」がたくさんなされるわけなんです。

自分が想定の範囲を超えて、「住み開き」っていう行為が拡大解釈をされて世の中に広まっていく様子を傍から眺めていて、自分がいちばん伝えたかったことがなんだか抜け落ちてしまっているんじゃないか、って思うときもちろんあるんだけど、でも結果的に僕は「これでいいんじゃないか」って思ったんですね。そうやって物事というのは多様な解釈のもとで広がっていくんだな、っていう実感がものすごくあったんです。

その実感は、やはり「いったん時間を止めて再編集する」という行為のもとで生まれた本という形、みんなが客観的にいじれるモノがあるからこその広がりなんだと思っています。タイムラグという意味では、もともと伝えたかったことが後々伝わっていないかもという、その違和感をちょっと乗り越えてみる。そのことで、自分が止めたその時間がもはや自分のものではなくなっていくんだな、と思える。だからこそ、新しい「本」であったり、またなにかしらのアクションが生まれていくんだなと。大事なのは「止めた時間を(メディアにして)他者に開け放ってゆく」ってことなのかと思います。

――確かに開かれないと共有されないし、共有されないと化学変化も起きないわけですよね。

アサダ はい。それと同時に「本」というメディアは、「一体どこからどこまでが“本”なのか」という議論もあると思うんですけど、以前より時間を止めてまとめるという行為に対するハードルは下がっているように思いますね。SNSが勃興していたりといろんな環境要因があると思うんですが、たとえばTwitterなどは「ちょっとだけ時間を止める」ってことになるのかもしれない。

――たとえばZINE(ジン)であったり、リトルプレスの存在もありますよね。『ソトコト』という雑誌で最近「本屋」の特集をしていたんですが、それを見ていると若い方々が地方のあちこちでやっている本屋さんは、ほとんど例外なくリトルプレスを扱っているんですね。そういう意味においても「本」を扱うハードルが下がっているのは事実だと思うんです。つまり自分たちが発信したいものを自分たちのやり方で発信するような環境がどんどん生まれていると。

一方で非常に無粋な話ではあるんですが、いま新刊書店を一から立ち上げようと思うと大体三千万円くらいが必要らしいんですね。絶対に普通の人には書店は開けないんですよ。だから若い方で本屋をやりたいなって思う方は古本屋をやるか、リトルプレスを扱うなどの方法でやらなければ、「本屋」という名の商売はできないんですね。

アサダ まさに最近、友人が広島で本屋を始めるということで、僕の本も置かせてほしいと連絡をくれているんですが、まず当面は店舗を持たず移動式でいろんな場所の軒先を借りるような形で運営されるそうなんです。そういう書店の有り様も試されている一方で、「本」に纏わる敷居が下がっているがゆえに物事を熟考しなくなって、コンテンツそのもののクオリティが下がっているといった意見を聞くときもある。

でも、その際に参照されているのって、旧来通りの「出版されて書店に並んでいくものが“本”であるべし」といった考え方ですよね。その考え方自体をいまの時代の変化に対して少しずつほぐしていけば、本の有り様とテクノロジーの有り様が、お互い良い歩み寄りをする可能性があるわけです。その象徴的な一つが電子書籍かもしれませんね。

もちろん電子書籍も一定の編集を経ないと出せないんだけど、書籍よりはハードルが低い、印刷される書籍ほど頁数が問われないなどの軽やかさがあったり。それはZINEにも言えることもかもしれません。とにかくコミュニケーションがどんどん細切れになっていって、「ちっちゃな編集」の形が流通していくものと、「200ページくらい書かないと書店には並べれません」という通常の「本」を出してきた出版業界の仕組みがお互いに近づきあっていく際に、じゃあ僕らは次にどういう風なメディアを取り囲む風景に立ち会えるのか、って思いました。

――「本」に対する敷居が低くくなっている分、既存の流通網に乗らない情報というものが、あちこちで雨後の筍のように増えている状況がある。そういう有り様と、今日話されている内容はどこかで繋がっているという気がしてならないんです。だって、「思い出の記」はまさしくリトルプレスですよね。

アサダ たとえば「思い出の記」を「うちの本屋で扱わせて」っていうオーダーは出てきたりしてないんですか? 本屋じゃなくても、本のフリマであったり。あるいはコミケで福祉ブースとして出すとか。

六車 いまのところないですけど、「譲ってくれ」って人はいますね。その方がどういう風に使うのかはわからないんですけど。

――譲るというのはOKなんですか?

六車 OKではないんです。これから作るものはOKになりえるかもなんですが、これまで私が書いてきた「思い出の記」は以前勤めていた施設で書いてきたものなので、ご本人との関係というよりは施設との関係において一応外に出さないということになってますね。

――これから作られるものについては外に出せる可能性があるわけなんですね。

六車 そうですね。

――以前から六車さんに提案をしているのは、たとえば図書館に蓄積していくってことも面白いかと思ってまして。もちろん個人情報のことなどもありますが、前半のプレゼンで見せてくださった、ある利用者さんの稲荷寿司の作り方のDVDなどは、六車さんの聞き書きの文章とセットで、iPadなどで展開できれば面白いんじゃないかと思っています。

アサダ すごく興味があるのが、「それをそんな使い方をするのか…!」って人が現れることなんですね。「あるたった一人の個人の方の記憶をそういう風に編集するのか!」っていう人の存在です。

やや話は逸れるんですが、先日高知県でイベントに呼んでいただいて、そこで仲良くなった子の家に泊めてもらったんですが、ずっと山下達郎の曲が流れていたんですね。「山下達郎好きなん?」って聞いてみたら、「このCD、珈琲豆屋さんでもらった」って言うんですよ。「珈琲豆屋でCDもらうって、そもそもどういうこと?」って思っていろいろ聞いてみると、高知でけっこう有名な珈琲豆屋さんで店長がとにかく音楽好きだと。

あるとき、その友人が店長に「君はどんな音楽が好き?」って聞かれて、「そうですね、ジャズとかブルースとかかな」って答えたら、「じゃ、君にはこれかな」って感じで、珈琲豆の紙袋にCD-Rが入れられて。家に帰ってそれを聴くと、なんと全曲中島みゆきだったんですね(笑)。それでまた行くと、今度は山下達郎の自作CD-Rコンピレーションだったと。しかもその山下達郎のコンピは十数曲収録されているんだけど、前半の数曲ずっと同じ曲が何度も繰り返し入れられているんですよ(笑)。もうわけがわかんないですよね。絶対わざと組んでいるはずのプレイリストなので、きっと店長さんとしては何か意図があるんでしょうけど、謎(笑)。

そういうね、文化的なメディアに対して謎の使い方をする人って日常の中にいるんですよね。これはあくまでみんなが知っているような有名な音楽でやっているわけなんだけど、それがすごく一個人の記憶についての本であったり、ある地域にしか流通していない全然有名でもない歌であったりしても、使い方のバリエーションは無限にあると思うんですよね。

ある人が突然、誰も思いつかないような方法で流布していく、流通させていく。もちろんお金を介して売るってこともあるでしょうし、お金は介さず、そのメディアを自分の仕事の現場などで「こういうコミュニケーションのために使おう!」と発想したりとか。とにかく「本」においても、そういう使われ方の発明にまで寄与していくサイクルを秘めたものとして扱われれば、回り回って図書館の使われ方も変わってくるんだと思うんですね。

――謎を投下される。なるほど。

六車 いまの話を聞いてて、そのわけのわからなさは魅力ですよね(笑)。そして日常そのものが実は「わけのわからなさ」に溢れていると思うんですね。聞き書きをしていても、ほんとわけがわからなくなるんですよ。話はあっちいったりこっちに飛んだりしながらね、それを編集してわかりやすくしたのが「思い出の記」なんですけど、でも最初に言ったように「これもあれもなんとか文章に入れたい!」というのがいっぱいあるんですね。そして私が目指している「思い出の記」は「読んでて面白いんだけど結局わけがわからない!」ってことなんです。

いろんな人がいろんな箇所に反応できて、それを再編集して活用して、その人の人生そのもののわけのわからなさも含めた、いろんな要素がそこに含み込まれたような本を作りたいんです。「古事記」だってまさにそうじゃないですか。あれもいろんな説が交じっていて、よくわからないですよね。

アサダ その考えの本は、すごく面白そうですね。

――まさに「本の地雷原」を作るみたいな話ですよね。そこを歩いた人がどっかで引っかかって爆発したり。

アサダ 乾さん、この図書館にいっぱい地雷埋めてはるでしょ?(笑)。

――そんなことないですよ(笑)。

アサダ 人の意識だって急に違うところのリンク先に飛んでいったりして、話が突如変わったり、喋っていることと目の前の風景がズレていったりとか、あるいは繋がり合わなさそうなエピソードが急に繋がったりとかってありますよね。でもその感触を「本」というメディアに落とし込んでまとめるのは、本当に難しい。もちろん方法論だけで言えば、ゲームブックのような編集をして、「この記憶に興味を持ったあなたは78ページへ!」みたいなことはできるかもしれませんが(笑)。その人間の意識そのものが抱える、そもそものランダム性――つまりは未編集なもの――を生かしながら、でも多少は編集しないといけないという、その絶妙なバランスってめちゃくちゃ面白く、同時に難しいところなんでしょうね。

――その「わけのわからなさ」という意味においては、図書館なんてリソースの山だとは思うんですね。

アサダ 文化的なリソースがあって、それを図書館の中で使うか、外で使うか、とにかくいろんな文脈でそのリソースを使いこなす人たちがでてくることは、すごく面白いことだと思いますね。

――ありがとうございます。「本の原点を垣間みられたでしょうか?」と言いたいところではありますが、この場合の「本」というのは極めてシンボリックなことなんですね。「メディア」と言い換えたほうがいいのかなと思いつつ、そんな中でこの二人にお越しいただいたわけです。このお二人の活動が、本やメディアといったもののプリミティブな性質を追体験するきっかけになると思いつつ、そこに図書館という場も活用されればよいと思いました。

もし、こういう場に参加して、この図書館で「こんな展開ができたら面白いな」と思われる方がありましたら、ご連絡をいただければと思います。ここから、「本」をめぐっていろんな冒険をしていきたいと思います。あらためて皆さんありがとうございました。

対談を終えて

さて、いかがだったでしょうか? 図書館という会場で「本の原点」というテーマを語った内容としては、いささかつかみどころのない話だったかもしれませんね。

六車さんの聞き書きは「本」が生まれるプロセスを具体的に象徴していると思うけど、その舞台である介護現場では、常識的にはとくに「本」を生み出すことは期待されてはいない。何もしなければ日常はただただ「日常」として流れていってしまうんだけど、でもたしかに目の前に気になる人物の存在と記憶が溢れている。さてそこに対してどういうアクションを起こすか。

冒頭の企画文にもあるように、物語られる「歴史」の多くは、大きな時代変動なども含めた「非日常」としての積層、つまり「大きな本」である。しかし、「市井にある跡形もなく歴史から消え去る記憶」に対して日常的に敏感になることで、私たちは「ちっちゃな本」も生み出すことができる。相手の記憶を聞き取り、書きとめて、形にし、継承され、それが第三者に再編集されるというサイクルの存在を意識すること。つまり、自分自身が(そのサイクルの)どの行程にいても「全体」の流れを意識できていれば、常にこの世界の中で誰かと共に「本」を生み出しているという一体感を感じられるだろう。

ひょっとして、「本の原点」を探った2日間から見えたことは、「“本”はあなたを決して孤立させない」というメッセージなのかもしれない。

(次回につづく)

執筆者紹介

アサダワタル
日常編集家/作家、ミュージシャン、プロジェクトディレクター、大学講師。著書に『住み開き 家から始めるコミュニティ』(筑摩書房)、『コミュニティ難民のススメ 表現と仕事のハザマに』(木楽舎)など。サウンドメディアプロジェクト「SjQ(++)」メンバーとしてHEADZからのリリースや、アルスエレクトロニカ2013デジタルミュージック部門準グランプリ受賞。2015年11月末に新著『表現のたね』(モ*クシュラ)と10年ぶりのソロCD『歌景、記譜、大和川レコード』(路地と暮らし社)をリリース予定。京都精華大学非常勤講師。http://kotoami.org