新潮社の「電子書籍基本宣言」に思うこと

2011年5月22日
posted by 仲俣暁生

これから紙の本とデジタルの本とは、どういう関係になるのか。その問題を考えるにあたって格好のたたき台となりそうな「基本宣言」が、新潮社のウェブサイトに公開されています。4月28日にオープンした新潮社の電子書籍ポータルサイト「Shincho Live!」「新潮社電子書籍基本宣言」がそれです。

まず、その全文を以下に引用します。

一、 電子書籍は、情報が氾濫するネット環境においても「作品」であり、長い年月に耐えうるものを目指さなければならない。

一、 電子書籍は、人々の豊かな知的生活に貢献するものであり、ネット習熟度の高低や機器の差異がそれを妨げるものであってはならない。

一、 電子書籍は、人々と書籍の偶然かつ幸福な出会いをもたらす書店とも共存共栄を図らなくてはならない。

一、 電子書籍は、紙の書籍と同様に、作品を生み、広め、読む人々の環の中で育まれるべきものであり、外部の論理に左右されてはならない。

一、 電子書籍は、紙の書籍と相和し、時に切磋琢磨して互いの向上を図るべきものであり、けっして対立したり侵食しあったりするものではない。

新潮社電子書籍基本宣言。テキストではなく、なぜか画像で公開。

新潮社電子書籍基本宣言。テキストではなく、なぜか画像で公開。

紙の本とデジタルの本の「共存共栄」「切磋琢磨」を謳うこの基本宣言を読んで、かつてSF作家のアイザック・アシモフが人間とロボットの関係を定義した、「ロボット工学三原則」を思い出した人も多いはずです。

こちらも引用してみましょう(訳文はWikipediaより)。

第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。

第二条 ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。

第三条 ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。

いかがでしょう? ちょっと似ていると思いませんか?

電子書籍は「ロボット」なのか?

電子書籍を「工学的なもの」の象徴としてとらえ、紙の本を、それに対する「人間的なもの」の象徴として位置づけるならば、「電子書籍基本宣言」と「ロボット工学三原則」が似てしまうのは当然です。しかし、この考え方は正しいのでしょうか。

ロボットに対して上のような「三原則」が求められたのは、ロボットがいずれ自意識をもち、人間に対して反乱を起こすような事態が(もちろん創作上の話ですが)懸念されたからです。ロボットに対するこうした考え方の根底には、人種差別や奴隷制度といった西洋文明の歴史的経験が投影されていると考えるべきでしょう。

しかし、電子書籍はいまのところ、ロボットとはかなり異なる存在です。少なくとも、電子書籍が人間に反乱を起こすなどということは(短期的には)考えられません。では、この基本宣言を「ロボット三原則」に似ていると思った私が、単によけいな早とちりをしただけなのでしょうか。

電子書籍基本宣言は、見たところごく穏当なことを言っているだけのように思えます。デジタルデバイドへの配慮、リアル書店との共存、幅広い知的活動の一環であることの必要など、賛成できるポイントもあります。しかし、よく読むと疑問点もやまほど出てきます。

まず、各項の主語が「電子書籍は」となっていることの意味です。新潮社電子書籍宣言のバナーには、「私たちはこう考えています」という副題がついているわけですから、本来ならばこれらは、以下のように書かれるべきです。

一、 私たちは電子書籍が、情報が氾濫するネット環境においても「作品」であり、長い年月に耐えうるものとなることを目指す。

一、 私たちは電子書籍が、人々の豊かな知的生活に貢献するものとなり、ネット習熟度の高低や機器の差異がそれを妨げるものとならないことを目指す。

一、 私たちは電子書籍が、人々と書籍の偶然かつ幸福な出会いをもたらす書店とも共存共栄を図れることを目指す。

一、 私たちは、電子書籍が紙の書籍と同様に、作品を生み、広め、読む人々の環の中で育まれ、外部の論理に左右されないことを目指す。

一、 私たちは電子書籍を、紙の書籍と相和し、時に切磋琢磨して互いに向上するようなものとし、けっして対立したり侵食しあったりするものとならないよう目指す。

つまり、これらの「宣言」で言われていることは、電子書籍に課せられた責務ではなく、出版社(つまり人間)側に課せられた責務であるべきなのです。「電子書籍はかくあらねばならない」というのであれば、そのように電子書籍というものを考え、作り、広めていくという、彼ら自身の任務を宣言すべきでしょう。しかし、この「宣言」は主語が曖昧で、そのように明瞭には書かれていません。意地悪な解釈をすれば、「電子書籍がそういうものにならない限り、私たちは電子書籍を事業として本気では行わない」という言い訳であるようにも読めてしまうのです。

次に気になるのは第四項の「外部の論理」という表現です。ここで「作品を生み、広め、読む人々の環の中」と対比されている、「外部」とは何を意味しているのでしょうか(優秀な新潮社の校閲室がこのような曖昧表現を見落としたとは信じられません)。明言も例示もされていない以上、推測するしかありませんが、工学や情報通信技術もまた人間の営みである以上、ここで比較されているのは「人々(人間)」と「技術/テクノロジー」ではないはずです。

「外部の論理」という言葉の意味は、この文脈では、「作品を生み、広め」る役割を果たすのが誰か、ということに大きくかかっています。もし、「作品を生み、広め」るのが、出版社や書店、取次会社といった、従来の出版業界関係者「だけ」を意味するのであれば(あるいはそれに大手印刷会社や広告代理店を含めてもいいでしょう)、これほどおかしな宣言はありません。電子書籍というビジネスやサービスは、こうした人たちの「外部」であるITの世界と、意欲的なアントレプレナーによって推進されてきたものだからです。

もう一つ気になるのは、この宣言が全体として、「紙の本」と「電子書籍」を、媒体こそ違え、ほぼ相同なものとして想定(期待)していることです。これは、多くの人がロボットというものを、人間にそっくりな「ヒューマノイド型ロボット」としてしか想像しないことに似ています。しかし、これまでの本にそっくりな「ブック型電子書籍」だけが「電子書籍」なのでしょうか。電子書籍は、なるべくこれまでの本とそっくりでいてほしい、しかし、既存の出版業界と「対立」したり、「侵食」したりしてはほしくない――この基本宣言には、こうした矛盾がみてとれるのです。

そもそも出版社は電子書籍を推進したいと考えているのか、それとも抑止したいのか。新潮社の「基本宣言」では、もっとも肝腎なそのことさえ明らかではありません。

「外部の論理」を怖れるのではなく自前の論理を

昨年の「電子書籍元年」騒動では、電子書籍は「黒船」に喩えられました。そして今度は――私の思い違いでなければ――「外部の論理」に操られたロボットに喩えられています。どちらの言い方にも抜け落ちているのは、「私たちは電子書籍をこういうものであるべきだと考えている、そして、そのようなものを作る」という、自らを主語にした決意表明です。

2011年の電子書籍基本宣言と対比してみたい、もうひとつの宣言文を最後に引用しましょう。こちらはいまから約60年前の1949年に、ある若い出版人が書いた文章です。

第二次世界大戦の敗北は、軍事力の敗北であった以上に、私たちの若い文化力の敗退であった。私たちの文化が戦争に対して如何に無力であり、単なるあだ花に過ぎなかったかを、私たちは身を以て体験し痛感した。西洋近代文化の摂取にとって、明治以後八十年の歳月は決して短すぎたとは言えない。にもかかわらず、近代文化の伝統を確立し、自由な批判と柔軟な良識に富む文化層として自らを形成することに私たちは失敗して来た。そしてこれは、各層への文化の普及浸透を任務とする出版人の責任でもあった。

出版業界で働く方々にはいまさら言うまでもないことでしょうが、この「出版人」とは、角川書店の創業者である故・角川源義氏です。いまでも角川文庫をはじめ、角川書店が発行する文庫本の巻末に収録されているこの「角川文庫発刊に際して」は、1949年の5月3日、つまり日本国憲法施行2年後の憲法記念日に彼が起草したものです。源義氏は当時31歳。2年前に角川書店を創業したばかりでした。

十数年も続く現下の出版不況は、第二次世界大戦の敗北になぞらえて、「出版敗戦」といわれることもあります。「敗戦」という表現がふさわしいかどうかはともかく、電子書籍という新しいレジームの構築にあたり、アマゾンやグーグルやアップルがあたかもGHQのように振る舞いかねないことを、日本を代表する出版社のひとつである新潮社が「外部の論理」という言葉で言外に伝えているのだとしたら、それ自体が悲しむべきことでしょう。

「外部の論理」によらず、自前の力で電子書籍という事業を始めるために、1995年以来のインターネット受容の経験は、「決して短すぎたとは言えない」はずです。思い切った変革が必要であるにもかかわらず、現状維持を最優先としてきた結果、「外部の論理」に振り回される現状を招いた出版社に、約60年前の角川源義の言葉はどう響くでしょうか。また、この二つの「宣言」をいまの「若い」世代はどのように読むでしょう。むしろ源義氏の言葉のほうに、強い共感を抱くのではないでしょうか。

さいわいなことに、出版業界にとって「外部」の勢力であるアマゾンもアップルもグーグルも、日本では電子書籍ビジネスを思ったほどのスピードで展開できずにいます。「外部の論理」を怖れたり、すべての原因をそこにおしつける「黒船」や「ロボット三原則」型の発想にとらわれることなく、出版社が自らの考えを宣言すること――電子書籍をやらないなら、それでもいいのです――を、多くの著者や読者は期待しているはずです。

新潮社の「電子書籍基本宣言」が、次のバージョンではそのようなものへとアップデートされることを、心から期待したいと思います。

■関連サイト
新潮社 電子書籍 基本宣言
新潮社の「電子書籍基本宣言」(スラッシュドット)

執筆者紹介

仲俣暁生
フリー編集者、文筆家。「シティロード」「ワイアード日本版(1994年創刊の第一期)」「季刊・本とコンピュータ」などの編集部を経て、2009年にボイジャーと「本と出版の未来」を取材し報告するウェブ雑誌「マガジン航」を創刊。2015年より編集発行人となる。著書『再起動せよと雑誌はいう』(京阪神エルマガジン社)、共編著『ブックビジネス2.0』(実業之日本社)、『編集進化論』(フィルムアート社)ほか。