幾多の人たちが電子的な出版の普及に取り組んできた。しかし、その普及は決して容易なものではなかった。ある意味で積み上げては一切をもともなく崩しさる徒労の繰り返しだった。
なぜそうだったのか。考えてみると、電子的な出版が何かに依存する体質をもっていたことがわかってくる。電子的な出版とは、本を閲覧するために常にコンテンツを表示するデバイス(端末)を必要とする。つまりeBook(電子書籍)とは、本の中味(本文)と本のガワ(外枠)とが分離しているものであり、外枠である電子書籍端末を中心とした導入が繰り返されてきた。成り立たせるべき電子的な出版のフォーマットは常に競争の道具となり、これを共有化し統一化する動きへと発展することはなかった。
これまでの電子出版の敗因と理由
電子的な出版には、カバーしなければならない4つの領域がある。
1. コンテンツ領域
2. ハードウェア領域
3. デリバリー領域
4. フォーマット(Reader)領域
コンテンツ領域は現在、出版社、新聞社、テレビ局、映画会社など既存メディアが占めている。ハードウェア領域はデバイスを製造する電機メーカーやコンピュータメーカーの独壇場だ。デリバリー領域は日本では携帯電話のキャリアと呼ばれる人たち、本の配送・配信でもっとも力を持つアマゾン、そして最近になってアップルやグーグルが運営しようとしているネット上の仮想店舗であるiBookStoreやAndroid Marketなどがこれにあたる。プレーヤーは既存勢力、新興勢力などまちまちだが、いずれも巨大企業がほとんどだ。
残ったフォーマット領域はこれとは様相が違い、比較的小さなベンチャー企業が集中した。小さなベンチャーは大きな会社と提携したり別れたりの離合集散をくりかえし、激しい角逐合戦が展開されたのだ。
そこには、各領域の私利私欲むき出しの覇権意識が充満していた。自分が送り手として市場支配することが第一であり、受け手は購買する以外の何者でもなかった。メディアに参加するどころではなく、ただ口を開けて送り手の供給を飲むことだけが求められた。
当然にもフォーマットは乱立した。それどころか彗星のごとくあらわれて短命に潰えるものも少なくなかった。これに依拠してeBookを買えば、購入した本はフォーマットと一緒に読めなくなる運命とならざるをえない。これが一体「本」と呼べるものなのだろうか。電子的な出版フォーマットに関わったすべての関係者は、この事実の反省なしに再び同じ口を開くべきではない。
日本におけるさまざまな電子書籍端末の導入と失敗について明らかにする作業は真剣に行われたとは思えない。事業者は儲からなければ即断即決、新たな進路を取るのがビジネスというものだとまことしやかに開き直る。電子的な出版に心血を注ぐならば一度や二度の失敗から立ち直るために本質を見極める努力があっていいはずだった。
国境を越えた流通と言語の壁
電子的な出版は北米を中心に激しい展開が起こってきた。そして何度目かの注目がまた、われわれにやってきた。
グーグル訴訟の和解問題でも明らかになったように、世界の本はすべからくデジタル化される方向に動いている。いわゆる「全書籍電子化計画」だ。また電子化された本を閲覧するためにフォーマットの統一へと世界は動いてきた。ePUBはeBookの世界標準フォーマットとして、マルチ言語対応をカバーしようとしている。こうした世界の動きと私たち日本での活動をどう結びつけていけばいいのだろうか。
インターネットの着実な普及によって、もっとも縁遠かった流通の基盤を私たちは手元に引きつけることができるようになった。デジタル化された出版コンテンツは、流通という次元ではもはや国境の壁を越え、世界を翔けることが可能となっている。アマゾンのKindleを買った人は、そのデバイスを購入したというだけで、次の瞬間に本を購入できた。携帯電話会社との面倒な契約もいらず、複雑な手順もいらず、欲しい作品(2010年夏現在、アマゾン・ジャパンでの販売は行われていない)を本棚から選んで注文すれば、数十秒でその本はあなたのKindleへ届けられる。国際電話のデータ通信を使い、米国のサーバから本は飛んできたのだ。つまり流通は世界をカバーする段階に突き進んでいる。
問題は言語だろう。言語の壁はいつか越えられるものだろうが、現状はまだ強固にそそり立っている。言語とは習慣や文化そのものだ。たとえば日本語の本を考えてみよう。文芸書はおもに縦書きだ。そこには日本独特の本の表現としての長い伝統があり、組版の原則ルールを形成してきたのだ。長い印刷の歴史がこれを支えてきたといえる。
世界の標準に日本語の独特な表現方法を組み込ませていくことは、簡単なことではない。それなりの時間を要する。しかし、その間にも世界は動きを止めることはない。動きながら考えていくことを余儀なくされる。
動き出す日本語書籍の電子化
日本国内での書籍の電子化の動きも活発になっている。2010年1月より施行された「改正著作権法」によって国会図書館は、著作権保護期間の有無にかかわらず所蔵するすべての資料をデジタル化する権利を認められた。予算措置を背景にこの作業は進められていくことになるだろう。
いくつかの制限を前提に、図書館のeBookの閲覧、貸出は進められていくと思う。そうなるときに、日本語の電子的な出版フォーマットはどのようになっていくのか。そしてまた、そのとき世界の標準との関係はどうなっていくのか。これらの問題をつないでいく活動を誰がいつどのようにやっていくのか。
文部科学省、経済産業省、総務省の三省は「デジタル・ネットワーク社会における出版物の利活用の推進に関する懇談会」を開催し、この分野に関わる日本の産業界、学識経験者を招き討論をしてきた。この場では実にさまざまな課題が話し合われたわけだが、特筆すべきこととして、日本語におけるデジタル化に際しての「交換ファイルの標準化」という方針が打ち出されている。
これには、政府が後押しして業界が日本独自の閉ざされたフォーマットを仕立てようとしているかのように思った方たちがいたようだ。とかく大掛かりな“統一論議” には、裏の事情が云々される面が多々あるものだ。しかし、ここでの「交換ファイルの標準化」とは、そんな狭い考え方ではない。とにかく限られた市場の中で自分の果実を確保するほかなかった時代を経て、私たちは確実に次なるもっと遠く、そしてもっと広い電子的な出版の世界を創り上げるときに遭遇しているのだ。
それぞれが勝手にあみだしてきた方法や決めごとを洗い出し、今までの経験を未来へ生かしていく日本語デジタル化基準のガイドラインをオープンに示す必要がある。それを世界の動向と合わせつつ、動きながら、走りの方向性を見極めて、世界標準との擦り合わせをしていかなければならない。
持てるものから我が利を確保することを乗り越えて、持てるものを差し出して人々の利とするための活動の場にようやく私たちは立つことができた。おそらく初めてといっていいことだろう。
ファイルフォーマットのオープン化は“橋”なのだと思う。もちろんそれは象徴だ。人は自分の足で、自由に橋を渡り行き来する。行きたいときに何度でも。私たちの世界は決して陸続きばかりではない。断崖や多くの壁に遮られた障害が存在しているのだ。海や山という地理的な隔絶、言語というコミュニケーションの差異、そして国境という人為的、政治的、経済的な区分。それらをつなぐ橋を架けていこう。
空気や水のごとく、生きていく上で人が対価を要求されずに使用できる電子的な出版の基盤を確立させていくために。出版における多くのものの連携できる世界を確立していくために。
※本稿は「印刷雑誌」2010年9月号(Vol.93)の特集「電子書籍規格の必要性」に掲載された記事を、著者の了解を得て転載したものです。
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