村上龍氏が電子書籍の出版社G2010を設立

2010年11月5日
posted by 仲俣暁生

1976年に『限りなく透明に近いブルー』で颯爽と登場し、日本の文学シーンを鮮やかに書き換えた作家の村上龍氏が、自作の電子書籍の制作・販売をマネジメントする新会社G2010をITベンチャー企業のグリオと共同で設立し、その記者会見が11月4日、東京で行われました。

記者会見に先立ち村上氏は、1999年から主宰しているメールマガジン「JMM(Japan Mail Media)」の誌面で新会社設立にあたっての趣意書「G2010設立の理由と経緯」を公開。新会社にかける村上氏の決意がつまびらかにされています。

JMMで公開された新会社の設立趣意書

JMMで公開された新会社の設立趣意書

村上氏はこの「JMM」以外にも、長篇小説『共生虫』をオンデマンド出版で先行発売するなど、新しいメディアによる「出版」に積極的に取り組んできた作家です。

会見に先立って村上氏は、「作家はみな誰かに届けたい、という思いで書いている。11年前に電子メールをやったときにもそう思ったが、電子書籍によって、読者に届ける手段がまた一つ増えた」と語り、出版業界のなかで語られているこれまでの内向きな「電子書籍」の議論に違和感を表明するとともに、「外」すなわち「読者」にもっと目を向けるべきであることを強調していました。

新会社設立の最大の理由は「機動力・スピード」

村上氏と共同でG2010を設立するグリオは、さきのJMMの運営を行っているほか、村上氏の新刊小説『歌うクジラ』の電子書籍版も開発しています。この電子書籍版を作った経験が、村上氏に新会社設立への決断をさせることになったようで、その経緯をさきの趣意書で次のように述べています。

わたしは、電子書籍の制作を進めるに当たって、出版社と組むのは合理的ではないと思うようになりました。理由は大きく2つあります。1つは、多くの出版社は自社で電子化する知識と技術を持っていないということです。「出版社による電子化」のほとんどは、電子化専門会社への「外注」です。わたしのアイデアを具体化するためには、まず担当編集者と話し、仲介されて、外注先のエンジニアに伝えられるわけですが、コストが大きくなり、時間がかかります。『歌うクジラ』制作チームの機動力・スピードに比べると、はるかに非効率です。2つ目の理由は、ある出版社と組んで電子化を行うと、他社の既刊本は扱えないということでした。いちいちそれぞれの既刊本の版元出版社と協力体制を作らなければならず、時間とコストが増えるばかりです。今後、継続して電子書籍を制作していく上で、グリオと組んで会社を新しく作るしかないと判断しました。今年の9月中旬のことです。

紙より速く電子書籍版が刊行された村上龍氏の長篇小説『歌うクジラ』

紙版に先駆けて電子書籍が刊行された村上龍氏の長篇小説『歌うクジラ』

村上氏によれば、電子書籍化のメリットは大きく分けて三つあります。一つは「リッチ化」、すなわち坂本龍一による音楽や、アニメーションが効果的に使われていた『歌うクジラ』のような、リッチコンテンツがつくれること。『歌うクジラ』は現在、紙の書籍でも上下巻として発売されていますが、紙の本に先駆けて発売された電子書籍版は、すでに1万以上のダウンロードを達成しています(ちなみに紙版の初版刷り部数は、上巻が8万5000、下巻が8万だそうです)。

二つめは、一つのタイイトルに収録できるボリュームに制限がないこと。G2010からの具体的な出版プランとして、村上氏の人気シリーズ・エッセイ『すべての男は消耗品である』の第1巻から、まもなく刊行される11巻までの、400字詰め原稿用紙にして3000~3500枚にものぼるコンテンツを、一つの電子書籍として刊行することが予定されているそうです。そして三つ目が、廃刊や絶版となった書籍の復刻です。

電子書籍版『限りなく透明に近いブルー』には、当時の手書き原稿も収録。

電子書籍版の『限りなく透明に近いブルー』には、当時の手書き原稿も完全収録。

村上氏は、「いまの出版社は、紙の本をつくるプロはいても、電子書籍をつくるプロは少ない」と発言。出版社との関係は良好であると語りながらも、自作の電子書籍化は、今後もG2010のみで行うと明言しています。具体的には『歌うクジラ』に続く第二弾として、デビュー作『限りなく透明に近いブルー』を、35年前の手書き原稿を全ページ分収録して電子書籍化することが決定しており、坂本龍一との共著『モニカ』や『イン・ザ・ミソ・スープ』についてもリリースの予定があるそうです。また『歌うクジラ』は韓国語版の準備も進んでおり、多国語展開も視野に入れていることが明かされました。

初年度は20タイトル、1億円の売上を目標

G2010の代表取締役に就任するのは、グリオの代表取締役社長でもある船山浩平氏。新会社に対する出資比率は、株式会社グリオと有限会社村上龍事務所がともに50パーセント、また社員はおかず、取締役として村上龍氏とグリオ会長の中村三郎氏の3名で構成し、実際の業務はグリオが請け負うかたちとなるそうです。

記者会見には船山氏、村上氏、作家のよしもとばなな氏が出席。

記者会見には船山氏、村上氏、作家のよしもとばなな氏が出席。

初年度(2010年11月から11年10月までの意)の目標は、20タイトルの刊行と1億円の売上達成。20タイトルのなかには村上龍氏だけでなく、他の作家の作品も含まれます。その第一弾として、よしもとばなな氏の書き下ろしエッセイ集『Banakobanashi/ばなこばなし』が、10月28日よりNTTドコモの「電子書籍トライアルサービス」にて、Android OSを搭載したスマートフォン向けにすでにリリースされています。

すでに新作『もしもし下北沢』を電子書籍としてもリリースしているよしもと氏は、きょうの会見で自作の電子書籍を出す気になった経緯を、次のように語っています。

『歌うクジラ』のアプリが出たとき、それを読みたいがばかりにすぐにiPadを電器店に買いに行き、その夜のうちにダウンロードして読んだ。電子書籍によって、作家と読者の関係がもういちどパーソナルになったような気がして、自分もやってみたいと思った。

さらに「ぱーぷる」名義で2年前にケータイ小説「あしたの虹」を発表したこともある瀬戸内寂聴氏も、11月下旬に未発表作品の発表を同じ「電子書籍トライアルサービス」向けに予定しています。

瀬戸内寂聴氏からも熱いビデオ・メッセージが。

瀬戸内寂聴氏からも熱いビデオ・メッセージが。

記者会見に寄せられたビデオ・メッセージのなかで、瀬戸内氏は「電子書籍は印刷術ができたとき以来の大革命で、自分が生きているうちに、この革命に出会えたのは喜び。生々流転は仏教の基本思想。いやでも新しい時代へと移り変わっていく。芸術家は未来に目を向けなければならない」と、その意気込みを語っていました。

外からくる変化を待つのではなく、自分で変化を起こす

会見に際して配られた趣意書の最後で、村上氏はこのように書いています。

そもそもG2010という会社を作ることにしたのは、大きく2つの理由があります。1つは電子化の作業コストを透明化して売り上げ配分に関する公平なモデルを示したいこと、もう1つは、電子書籍を巡る状況と、さまざまな利害関係者の思惑をポジティブなものに変えたいからです。(中略)
電子書籍は、グーテンベルク以来の文字文化の革命であり、大きな可能性を持つフロンティアです。電子書籍の波を黒船にたとえて既得権益に閉じこもったりせずに、さまざまな利害関係者がともに積極的に関与し、読者に対し、紙書籍では不可能な付加価値の高い作品を提供することを目指したほうが合理的であり、出版、ひいては経済の活性化につながると考えます。

実際、この趣意書では『歌うクジラ』の開発コストと、著者である村上氏、グリオ、坂本龍一氏の間での売り上げ配分が公開されています。会見でも「オープン」「ポジティブ」という言葉が繰り返し語られていたのが印象的でした。

村上氏は最後に次のように語り、記者会見をしめくくっています。

電子書籍をめぐる論議は、ネガティブな話が多い気がする。でも自分が『歌うクジラ』をつくっているときは、興奮して充実した毎日だった。電子書籍は、関与すればするほど、興奮してワクワクできる。日本全体を閉塞感が覆っているが、変化は外からやってくるのではなく、自分で何かを作り出して、変化に関与することが大事。「何が起こるんだろう」ではなく、「何が起こせるんだろう」という姿勢でG2010はやっていこうと思う。

こういう言葉を第一線の作家がはっきりと口に出してくれることは、大いに電子書籍の現場の人々を勇気付けることでしょう。実際に、私自身もアプリ型の電子書籍の制作にかかわる機会があったのですが、その体験からも、私は村上氏の発言にまったく同感です。

これまでは関係者の疑心暗鬼とプラットフォーム事業者の思惑ばかりが先行し、作家や読者がすっかり置き去りにされていた電子書籍の議論が、こうした具体的な実践と情報公開によって一歩ずつ先へ進んでいくことを、「マガジン航」としても願ってやみません。

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執筆者紹介

仲俣暁生
フリー編集者、文筆家。「シティロード」「ワイアード日本版(1994年創刊の第一期)」「季刊・本とコンピュータ」などの編集部を経て、2009年にボイジャーと「本と出版の未来」を取材し報告するウェブ雑誌「マガジン航」を創刊。2015年より編集発行人となる。著書『再起動せよと雑誌はいう』(京阪神エルマガジン社)、共編著『ブックビジネス2.0』(実業之日本社)、『編集進化論』(フィルムアート社)ほか。