拡張する本~本の未来にまつわる現場報告

2010年3月1日
posted by 内沼晋太郎

カフェで「文庫本セット」をどうぞ

青山通りにスパイラルという文化施設がある。槇文彦氏による建築デザインの評価も高く、今年で創立25周年になるその建物の一階奥には、スパイラルカフェというカフェがある。単価は少し高めだが、大変わかりやすく利便性の高い場所にあり、面積も広いため、青山界隈の定番的な打ち合わせ場所のひとつだ。特にメディア関係者が多く、よく見知った人が遠くのほうの席で、クライアントに企画をプレゼンしていたり、取材をしていたり、インタビューをされていたりする。

そのスパイラルに「文庫本セット」という企画を持ち込んだ。文庫本を月替わりで五タイトルずつと、セットにするドリンクのリストが並んだメニューを用意する。本を選ぶ基準になるように、簡単なキャッチコピーと、本文の書き出し部分の引用も付記する。お客さんが「三番の文庫本とカプチーノをください」という具合で、その中の一冊とドリンクの組み合わせを注文すると、お皿に乗った文庫本が、ドリンクと一緒に運ばれてくる。いわゆる「ケーキセット」のケーキが文庫本に代わったものと思ってもらえればいい。

この企画は2009年4月から9月の5ヶ月間にわたり期間限定メニューとして実施され、テレビ、新聞、雑誌などのメディアから数多くの取材を受け、ネットでもだいぶ話題になった。メディア受けがよかったのはもちろん前述のとおり客にメディア関係者が多いカフェを選んだからで、取材で「打ち合わせに来て偶然このネタを発見した」と言われることもあった。

スパイラルカフェにて2009年4月から9月まで期間限定メニューとして提供された「文庫本セット」。スパイラル創立25周年に合わせて25タイトルの文庫本を選び、月5タイトルずつ、5ヶ月間にわたってメニューとして提供した。

スパイラルカフェにて2009年4月から9月まで期間限定メニューとして提供された「文庫本セット」。スパイラル創立25周年に合わせて25タイトルの文庫本を選び、月5タイトルずつ、5ヶ月間にわたってメニューとして提供した。

ぼくはふだん、本を取り扱いたいというアパレルや雑貨店など異業種の書籍売り場をつくったり、何らかの施設内のロビーやライブラリー、飲食店などに並べる閲覧用の本を選んだりする仕事をメインとしている。その一方でずっと、この「文庫本セット」のように、人と本との「出会い」にフォーカスした実験的なプロジェクトの企画を様々な場所で行ってきた。

本を包んで中身の見えない状態で販売したり、書き込みのある本に価値を見出したりしてきたこれまでの活動は、2009年3月に『本の未来をつくる仕事/仕事の未来をつくる本』(朝日新聞出版)という本にまとめたけれど、実際は本とは直接関係のない制作やディレクションの仕事もしているし、一方で書店や出版社のコンサルティングやビジネス提案をしたり、最近はとある出版取次の社外顧問にもなった。形式上は株式会社にしているけれど実質上はフリーランスで、プロジェクト単位で仲間を集めては解散したり、ひとの会社を渡り歩いたりするほうが性に合うのでそうしている。

そういったわけで、この文章は「評論」とカテゴライズされているけれど、ぼくは「評論家」や「批評家」ではなく、どちらかといえば現場の人間だ。だから本稿はふだんから「本の未来」と「出版業界の未来」(あとで詳しく書くけれど、この二つはまったく別だ)について考えている人間による、「現場報告」のようなものに近い。

ヴィレッジヴァンガード新宿マルイカレン店で2009年8月から展開しているコーナー。同店のスタッフがお勧めする文庫本が包まれており、POPと値段だけを頼りに、中身はわからない状態でそのまま購入するというもの。3月に発売された拙著『本の未来をつくる仕事/仕事の未来をつくる本』を読んだ同店の書籍担当の方からお声がけいただき、共同の企画として実現した。この企画を記事にしてくれた記者が本文で「覆面文庫本」と紹介して話題となったため、以後それを企画名としている。

ヴィレッジヴァンガード新宿マルイカレン店で2009年8月から展開しているコーナー。同店のスタッフがお勧めする文庫本が包まれており、POPと値段だけを頼りに、中身はわからない状態でそのまま購入するというもの。3月に発売された拙著『本の未来をつくる仕事/仕事の未来をつくる本』を読んだ同店の書籍担当の方からお声がけいただき、共同の企画として実現した。この企画を記事にしてくれた記者が本文で「覆面文庫本」と紹介して話題となったため、以後それを企画名としている。

「本」の流通はきわめて特殊である

「文庫本セット」をどこかのメディアで見つけてくれたとある出版社から「カフェをテーマにつくった文芸書のシリーズがあり、それをもっと売りたい」という相談を受けたことがある。中身はとても素晴らしいものだったのだけれど、パッと見てすぐに、装丁や造本のデザインが、想定している層に受け入れられるようなものになっていないとわかった。

そこで、この本とコーヒー豆とのギフトセットをつくって、カフェや雑貨店、ネットなどで販売するという企画を提案した。現在の装丁を生かす形で、全体を包むパッケージをうまくデザインすれば、いま受け入れられるものとして在庫を蘇らせることができるし、ちょっとした話題にすることができれば、単体の書籍シリーズとしての書店員への認知も上がるだろう。もちろんそれなりに在庫リスクはあるけれど、デザイナーからコーヒー豆の手配まで全部こちらがディレクションするし、きちんと利益も上がるようにするので、ぜひやりましょうと提案した。しかし、担当者の努力むなしく、上の理解が得られないままこの企画は通らなかった。

また他の出版社から、自社の出版物を並べて「このあたりの本を、雑貨店で売ることはできないか」というような相談を受けたこともある。しかし雑貨業界にはその話で想定している雑貨店群に対して、出版取次のような、そこに納めるだけでどこにでも流通するような大手卸というのは存在しない。仮にその中でも比較的多くの卸先をもつ大手の雑貨卸と取引が開始できたとしても、新刊だからといって勝手に送られるようなシステムがあるわけではない。Franc Francで見つけた商品をPLAZAで買うことはできないが、三省堂書店で見つけた商品を紀伊国屋書店で取り寄せて買うことができるのが書店であり、出版流通なのである。

これが相当特殊なことであるということ(もちろんこのこと以外にも特殊なことはたくさん存在する)を理解していない人は、業界内にも意外に多い。もし版元としての未来を考えて、雑貨店でのビジネスを展開するということなら(それに将来性があるかどうかは別問題だけれど)、そのためのブランドをもうひとつ立ち上げて実験をするしかない。実際に企画段階から雑貨店を想定して商品をつくっている出版社もあって、そこは手さぐりでスタートしながら独自のノウハウを積み上げ、現在は書店での売上と雑貨店での売上がほぼ半々、という数字をたたき出していると聞く。そういった試みを始めるなら手伝いますよ、という話をしたのだけれど、そこからもやっぱりその後の音沙汰はない。

ここで出版業界そのものの構造や、出版不況とよばれている一連の現象について詳しく説明することはしない。大雑把にいえば、書店に並んでいる商品は委託商品が大半であり、出版社に対して返品することができるが値下げはできず、それらの本を出版社と書店の間を行き来させている取次とよばれる卸業者は大手数社の寡占状態にあり、「日本全国津々浦々どこの書店にも遍く知恵や情報を届ける」という目的のもとにつくられた、薄利多売のとても大きな規模の〈出版社→取次→書店〉という出版流通システムが、ある時代の理想に基づいたままに、美しく完成されすぎている。

その完成度の高さゆえに、それがいつしか時代遅れになって、出版社の過剰な新刊点数と自転車操業化、取次に押し寄せる返品率の増大、書店の過剰な出店と大型化などの問題を山積みにしながらも、本質的に変わることがないまま現在まできてしまった。このことについては、「巨大な舟がゆっくりと沈もうとしている」とか「走っている車を修理するようなものだ」とかいったよくある比喩でぼくごとき若造が語らずとも、書店の棚でもネット上でもとっくにたくさんの議論がなされているので、それらをご参照いただきたい。

そんな中、まだまだほんの実験段階といったところで、書店店頭への影響はほとんどないと聞くけれど、「35ブックス」などの試みで委託再販制から責任販売制へという論調が高まっていることには注目している。業界内では当然のごとく書店の利益確保が主題となるけれど、本の利益率の問題は、アパレルや雑貨などの他の小売業と接点を持っているぼくにとっては、また別の意味をもつからだ。

書店以外で「本」を売ることの困難

アパレルや雑貨店で本の売り場をつくろうというとき、当然のことながら、本は洋服や雑貨といったほかの商品と同じ土俵に立つ。同じように品番が振られて管理され、日間や週間や月間の売上データとなる。そんな中、洋服や雑貨はセレクトの商品でも小売店の利益が30~50%あって当たり前で、オリジナルだとそれ以上になるものもあるけれど、通常の新品の和書の場合、小売店の利益率はたった20%しかない。しかも洋服のように在庫処分のための割引セールもできない。

そもそもそれ以前に、ふつうに本を仕入れたいと思って取次に連絡しても、よほど話のわかる担当者でないと取り合ってさえもらえないだろう(取次にとっては小口すぎてビジネスにならない)し、話が進んでも大抵、取次に納める補償金という制度がそれらの小売店の商習慣に合わない。取次のトラックが毎日深夜に勝手にやってきて納品も返品も運転手の手で行われるということも、卸といっても実際はメーカーであるところの出版社に個別に発注したり返品の了解を取ったりしないと商品が自在に扱えないことも、そもそも頼んだ量が頼んだ日にこなかったりすることも全部、いちいち商習慣の範囲外だ。

つまりは異業種の小売店からみれば、本は特殊な流通を前提につくられているぶん、取引条件も特殊な商品になってしまっているということになる。その中でふつうの商品として成立させようとするのは、そのままではほとんど不可能に近い。

だからぼくの手がけているような店舗の場合でも、それらの商習慣のズレをひとつずつクリアしても(そこまでが大変なのだけれど)、最後に利益率の問題が残る。価格設定が自由な洋書や古書を混ぜることで平均の利益率を上げることもするけれど、それでも純粋に「商品」であるだけでは存在意義が確保できない。そのためお店が伝えたいイメージに合わせて本をセレクトすることで、長期的にそのバックグラウンドに共感する顧客を獲得するという目的を設定する。つまり小売店における純粋な「商品」を提供することだけではなく、従来であればインテリアや音楽や接客が提供してきたブランディングの領域にも踏み込み、その先にあるウェブサイトやイベントや展示などにも携わるという形をとっている。当然小売店の側も、きちんと理解があり、新しいことにチャレンジしようとしているクライアントでないとできない。

このように、出版社が本を「書店以外のところで売りたい」と思い、その書店以外の小売店が「本を売りたい」と思っていても、いまのところその両者を直線で結びつけることはできない。ここに挙げた事例にとどまらず、現存する出版流通システムは、「日本全国津々浦々どこの書店にも遍く知恵や情報を届ける」ために美しく完成されているが故に、メーカーとしての出版社、流通卸業者としての取次、小売店としての書店の、そのシステム内での存在をとても限定的な、そこから外れる振る舞いをすることが非常に難しいものにしている。そして同時に、そのシステムにストレスなく乗っかることができる、ISBNのついた、片側にバーコードのあるカバーがかけられた、ダンボールに詰めて重ねても劣化しない、印刷された紙の束だけが、そのシステムが扱うことのできる「本」であるとも定義して、その多くを均質化している。

しかしその「日本全国津々浦々」に「知恵や情報を届ける」手段のかなりの部分が、あらゆる電子端末とそれらをつなぐインターネットに移り変わっていることは、もはや自明である。同時に、その出版流通システムの都合で均質化された紙の束だけが「本」でないこともまた、自明のことだ。そういった中で、いま「本」をはじめたい人は仕方なく(あるいは積極的に)「出版社と組まずに自分でやればいいか」「取次と契約する必要なんかないかも」「書店で売らなくてもいいんじゃないかな」と考えるようになっていて、彼らはその存在感をどんどん増している。

出版流通システムから飛び出した「本」

まず挙げられる巨大な事例が、約35年の歴史をもつ「コミックマーケット」、通称「コミケ」をはじめとする同人誌市場であることは疑う余地がない。ほとんどの場合、作者が読者に直接販売するので、当然そこには出版社も取次も書店もない。にもかかわらず、ちょっとした商業出版物の初刷部数をゆうに越えるような部数を売り切ってしまう出展者も多数存在する。

その名のとおり文芸系の同人誌を扱う「文学フリマ」も回を重ねるたびにその影響力を増しており、商業出版物でデビューしている作家も、それらの媒体で発表することが難しい原稿などを発表する場として多数参加している。また、アートブックやジンを扱う「zine’s mate」はまだ昨年第一回が開催されたばかりだが、そこで取り扱われるホチキスで閉じたジンがここ数年主にアート・デザイン・サブカルチャーの領域で流行した背景には、誰でもDTPやデジタルカメラが使え、どこのコンビニにもコピー機があり誰の家にでもプリンターがあるという環境がある。そしてどのコミュニティにおいても、インターネットの存在がそれぞれの作者/出版者の存在を知らしめその人気を高める役割も果たすと同時に、売買の機会も提供しているため、これらは一過性のイベントにとどまることがない。

またいわゆる同人誌的なものではなく、商業出版物に並ぶもしくはそれを越えるクオリティで作られ、しかし取次流通はさせないというタイプの出版の事例も多く見られるようになってきた。特に、エディトリアルデザインにおいて日本最大の規模を誇る藤本やすし氏率いる「CAP」と「RCKT/Rocket Company*」による出版レーベルが手がける「ROCKET BOOKS」、尾原史和氏率いる「SOUP DESIGN」が手がける「PLANCTON」、菊地敦己氏率いる「BLUEMARK」など、アートブックや写真集などを発行する自主的なレーベルは、母体がデザイン会社ゆえにそのクオリティの高さが目立つ。

こういった出版物は専門取次などを通して書店流通している場合もあるが、多くは一部の小売店への直卸とネットを中心とした直販であり、内容が限られた層に向けられたものであったり、装丁や造本などがデザイン的に優れていても取次では扱いにくいものだったりするため、意識的に「自分たちが売りたいと思うところで売る」というスタイルを取っていることが多い。また葉山で同名のブックサロンを運営する「Saudade Books」や、新宿でカフェ「Café Lavanderia」のカウンターにも立つ佐藤由美子氏の「transistor press」など、リアルなコミュニケーションを行う場を持ちながら、クオリティの高い出版活動を行う文芸・思想系のインディペンデントな活動体もある。そのほか、いわゆる企業や自治体の広報誌にも、インディペンデントで優れた出版活動がたくさんある。アパレルブランド「FRAMeWORK」が発行する『murmur magazine』などが好例だ。

また、出版流通システムの外にある本という意味では、古本が大きな存在だ。ぼく自身もそこから始めて今に至っているけれど、特にAmazonのマーケットプレイスや Auction、ebayなどのネット上のプラットフォーム、そしてブックオフなどの新古書店は、ここ数年で古書業界に大きな風穴を開けた。古本の取引価格データベース兼小売としてのプラットフォームの存在と、その仕入先としての新古書店の存在は、それまで君臨していた経験という名の参入障壁を劇的に下げてしまった。その一方で古本が「一箱古本市」などを中心とした各地でのブックイベント、長野県高遠村での事例など、一般参加も含めた「町おこし」の要素となったこともまた、本との新たな出会いの形を提供する機会をつくる活動であるといえるだろう。また、古本を素材にしたアート作品や、実験的なリサイクルプロダクトなども数多く存在し、それぞれに本というプロダクトが持つ意味を問い直していることも注目に値する。

新品の本においても例えば、洋書卸や、前述のような大手取次の流通に乗らない出版物の卸は、小さな事業体でも手を出すことができる分野だ。金融も物流も決済もそれぞれ様々な形で存在しているのだから、それらを適宜利用したり自らで賄ったりしながら、本来の小売商品として適正な利益率で様々な場所で流通させるような活動は、他にもいろいろと構想し得る。

また小売という意味では、「BACH」の幅允孝氏をはじめとして末席にぼくを含む何人かが手がけている、アパレルや雑貨など異業種小売での書籍売り場は近年見られるようになった事例だろう。古書販売と飲食店経営を同時に行うブックカフェ業態も増えた。また、デザインポータル「CBCNET」を運営する「GRANDBASE INC.」が手がける「PANORAMA WEB SHOP」のように、デザイン会社がネット上での書籍販売を手がける例もある。インディペンデントな出版物を取り扱うという意味では、無数の同人誌専門書店がリアル/ネット共に存在するし、ジンを専門に取り扱う「lilmag store」などもある。

取次との取引はあるものの自ら出版も行う「SHIBUYA PUBLISHING BOOKSTORE」なども、近年立ち上げられた個性あるショップの例だ。また、規模は大きくなるが「VILLAGE VANGUARD」のように書店の体裁をとりながらも、利益面では本以外をメインとする業態も、本来はもっと亜流が生まれていいはずだ。また言うまでもなく、Amazonなどのネット書店がもたらしたインパクトは大きく、彼らもまた大手取次との取引関係をもちつつも、既に出版社との直取引をはじめている。

その他、従来の枠組みにとらわれずに「本」に関わる方法もまたたくさんある。これまでぼくが会った人の中にも、個人向けに選書を行うコンシェルジュや、本を教育の素材に使った企業向けの人材育成サービス、企業協賛を集めて子供たちに本を贈るサービスなど、新たな「本」をつかったビジネスをはじめようとしていたり、ぼくにそれをやるように勧めてくれたりする人がたくさんいる。こうした様々に細分化したオルタナティブが生まれ、それらが「本の未来」をより魅力あるものにしていくだろう。

これらの中には、出版活動単体で存在するのではなく、他の活動と相乗効果を生むことで運営を可能にしている小さな活動体も多い。いずれも既に歴史や規模のある出版社や取次、書店には取りにくい動きであるという意味で「出版業界の未来」ではないけれど、小さな活動体がたくさん生まれ影響力が増していくことは確実に「本の未来」ではある。二足の草鞋を履いて小規模なビジネスにすることもできるし、利益度外視でライフワークとして行うこともできる。ここに紹介した例はほんの一部に過ぎないけれど、それでもまだまだプレイヤーは足りない。

「本」は「印刷された紙の束」ではなくなろうとしている

さて、ここまでは基本的に「印刷された紙の束」としての「本」の話をしてきたけれど、いまや(あるいは古来からずっと)「本」は「印刷された紙の束」であるとは限らない。その主流としてまず、いわゆる「電子書籍」がある。

といっても「電子書籍」をめぐる状況は日に日に動いていて、ぼくがこの原稿の依頼を受けたときAmazonの電子書籍端末「Kindle」はやっと英語版が日本でも購入できるようになっただけだったのが、原稿を書いている時点ではそこに日本語フォントをインストールする非公式のハックが広まったり、PDFビューワーに「青空文庫」のデータを突っ込んで読むためのブックマークレットをつくる人が出てきたり、既にクリスマスには本国で「Kindle」向けの電子書籍が紙の本の売上を上回ったというニュースが広まったりしている。

あなたがこの原稿を読んでいる頃には、ひょっとしたら正式な日本語版へのアップデートが出ているかもしれないし、Googleブック検索や国会図書館のプロジェクトも新たな動きを見せているかもしれない。最新情報が知りたければ雑誌を読むよりもtwitterで検索するのがいいし(Googleでなくtwitterなのは、その情報に対する人々の反応も同時にわかるからだ)、まとまったものが読みたければまさにこの『マガジン航』などのサイトの最新エントリを読むのがいいだろう。

少なくとも言えることは、デジタルデータ化されたテキストとデバイスがつくり出す環境は、それが半永久的にどこかのサーバに保存されているという永続性と(よくリアルな物質である紙の本のほうが保存性が高いという人がいるが、複製と保管にまつわるコストが限りなくゼロに近いデータを世界から完全に消滅させるということは不可能に近く、そのすべての存在確認を行うことができる可能性は開かれている)、小さくて軽い端末から提供されているすべてのデータにいつどこからでもアクセスできるという利便性のもとに、いずれスタンダードになるであろうということだ。いまや生物学的な弁明を越えて「紙よりも携帯の画面のほうが文字が読みやすい」と体感している若者がいるほどで(大学で非常勤講師をしている友人から聞いた実話だ)、すべての「紙のほうが」という理由は完全なる説得力をもち得ないとぼくは考えている。

また「電子書籍」は「紙の本」が持ち得ない、新たな価値を提供できる可能性を多く持っている。既に全文検索や音声読み上げ、電子辞書のスムーズな参照などの機能は「kindle」に搭載されている。他にも、たとえば保存された映像の上に時間的なレイヤーが重なり、リアルタイムで文字情報のコミュニケーションをとることができる「ニコニコ動画」的な機能をイメージすれば、twitterで読書メモを公開しながら読む行為(岡田斗司夫氏が『フリー』を「公開読書」と称して読みながらつぶやいていたことは、本稿執筆時点の記憶に新しい)を促すサービスをよりインタラクティブな形で提供できる。「紙の本」でいうところの欄外への書き込みや付箋をユーザー間で、かつリアルタイムで共有する体験だといえばわかりやすいだろうか。また、たとえばGPSのついた端末であれば、その本のデータを「セカイカメラ」的にリアルの場所にタグ付けしてアップロードしたり、実在の場所を舞台にした小説を読みながらその場所に赴くことで新たな体験を提供したりすることも可能だ。

これらのアイデアは、初出である『wasebunU30』に本稿が掲載された時点では実現できる端末に具体性がなかったが、のちの「iPad」の発表により一気に現実的となったため開発を開始し、一部はこの『マガジン航』で発表させていただくことができる機会も近い。このような「紙の本」には(すくなくとも単体では)実現できないサービスやアプリケーションのアイデアは他にもいくらでも考え得るだろうし、「本」の新たな楽しみを拡げてくれる可能性を秘めている。

さらにこれからの「本」は、「紙の本」と「電子書籍」だけであるとも限らない。 例えばgoogleが映像を公開した「espresso book machine」は、紙で印刷したものをデジタル化して共有するということ(紙→データ)だけでなく、デジタルの必要な部分だけ編集したものや、 CCライセンスやコピーレフトで公開された作品のリミックスなど二次創作を、紙に印刷し直すこと(データ→紙)の現実性を広く知らしめ、その可能性を想像させた。それは特定の個人によって編集された〈綴じた=閉じた〉コンテンツだけが「本」なのではなく、現在進行形のものやコミュニケーションそのものも「本」になり得るということを示唆している。

一昔前の例を挙げるならば『電車男』や『メガネ男子』として編集された静的なコンテンツだけが「本」なのではなく、それを生んだ「2ちゃんねる」や「mixi」のコミュニティで行われる動的なコミュニケーションそのものさえも「本」であり得るということだ(少なくとも境界線はとっくに曖昧になっている)。そしてそのことは特別目新しいことでもなく、本来は「雑誌はコミュニティだ」と言われていた昔から自覚されていたはずのことでもある。

「本の未来」と「出版業界の未来」は別である

このように、「紙の本」を愛する人々が〈出版社→取次→書店〉という出版流通システムの外で新たなプレイヤーとなっていること、一方で「電子書籍」のみならずすべてのコミュニケーションから生まれるコンテンツを「本」と捉えることも可能なこと、そして当然、絶版となったまま古書市場に眠る膨大な「紙の本」も存在し続けることを考えると、現在のシステムに乗っている「本」は、既に「本」のマイノリティになっていると言える。「本」はもうシステムの中にあるものではなく、実はとっくに開かれているのだ。「出版業界の未来」と「本の未来」は別だ、と冒頭で書いた。わざわざそう書いたのはもちろん、「出版業界の未来」こそが「本の未来」だと、あるいは「〈出版社→取次→書店〉システムの存続」こそが「出版文化の存続」だと、考えている人がいるように思えるからだ。

しかし、これまで述べてきた環境の変化を前提としなくても、このことの矛盾は指摘できる。たとえば、ここ十数年で「〈出版社→取次→書店〉システムの存続」のために年間発行点数をどんどん増加させていったことは、結果として出版される必要がなかったかもしれない本、中身の薄い本や二番煎じの本を、自転車操業的なノルマのもとに生み出している。これは「出版文化の存続」どころか「出版文化の破壊」に近い行為であり、どう考えても「本の未来」を喜ばしくないものに向かわせているからだ。

かといってぼくはもちろん、片方の軸足を「出版業界」に置いている。それが生み出してきた過去のコンテンツや、現在そこで高い能力を発揮している人々の未来にも携わっていきたいと思っているからだ。そこでは、否応なく縮小する既存の出版流通システムにいかに改変を加え効率よく存続させるかということを業界全体として考えながら、同じ規模を維持したいと考える企業は個々に、それぞれのリソースを生かせる新たなビジネスを考えていく必要があるし、既にやっているところも数多くある。出版社はたとえばその編集力や過去のコンテンツが、取次はたとえばその全国津々浦々に張り巡らした物流網と返品処理が可能な卸決済システムが、書店はたとえばその老若男女すべてが対象となる集客力や信頼に足る情報拠点としてのイメージが、そのリソースとなり得る。もちろん個々の企業によって、それぞれにそのリソースは異なるはずだ。

特に出版の未来については、昨年は小林弘人氏の『新世紀メディア論』(バジリコ)という好著が出た。海外のウェブサービスなどを積極的に触る習慣のあるインターネットの「住人」は、〈出版社→取次→書店〉システムをよく知った上で同書を読めば、出版社に対する新規事業の提案をすることが可能だ。なぜなら同書は、「住人」であれば知っているインターネット上に存在する数多のビジネスモデルやそれに似た従来のスキームを、まとめて「出版」という概念で捉えなおし、それでビジネスをしていこうとする人々の道標になるように書かれているからだ。ぼくがもし今後、出版社に本気で新規事業の相談に乗ってほしいといわれることがあれば、この本を読んでもらい「わからない」と言われることを前提として、どこがどうわからないのかということの共有に使う。その上で、そこの編集者の得意分野や、過去に作ってきたコンテンツなどを踏まえて、収益を生む可能性があるビジネスモデルの企画提案をするだろう。

しかし前述のように、「本」はもう出版流通システムの中だけにあるものではなく、誰しもに開かれている。「本の未来」は「出版業界の未来」にある程度影響をうけながらも、これまで述べてきたような新たなプレイヤーの参入によって、人々のニーズに応えながら独自の進化を遂げていくだろう。それはまた、必ずしもビジネスをしようとする人々だけのものではない。先ほど「出版文化の存続」という言葉を使ったが、「本」あるいは「出版」は、元来ビジネスでありながらビジネスでない、文化事業としての要素を強く内包している。持続可能なライフワークとして「本」に関わるプレイヤーの「本の未来」に対する影響力もまた、人々をインターネットがつなぐ現代においては特に、決して小さくない。

個人としての自分を顧みればもちろん、「紙の本」に対するフェティシズムに近い憧憬や、新品からボロボロになった状態までそれぞれに変化するプロダクトとしての魅力、ページをめくる行為と共に身体化していく内容――そういったものに対する思い入れがあるからこそ、「文庫本セット」のようなアナログなプロジェクトを通じて「本と人との出会い」の新たな形を提案してきたし、これからもそこにこだわっていくだろうと思う。

けれどその一方でさきほど述べたような、同時にデジタルデータ化されたテキストとデバイスがつくり出す永続性や利便性、 twitter的な時間的なレイヤーやAR的な空間的なレイヤーが書かれたテキストと重なることによって可能になる新たなコミュニケーション、そしてそこに生まれる新たなコンテンツすべてを「本」と呼んだときに生まれる様々な可能性にもまた、大きな期待を抱いて携わっている。その双方の魅力を理解し、変化する動向を追うことこそが、「紙の本」や「電子書籍」あるいはそれ以外の「本」が共存する、現実的な未来を想定する唯一の方法だとぼくは考えている。

トークセッションやパーティも「本」である

たとえば、ぼくがいま個人的に強くコミットしているのは「トークセッション」、あるいはそれらを包括する概念としての「パーティ」である。唐突なように聞こえるかもしれないけれど、ぼくはこれもまた広義の「本」であると考えている。歴史を辿れば、もともと話し言葉が先にあってその後に文字ができたわけで、「本」の先祖は「口伝」であり「集会」だ。

「本」のデジタル化というと「紙の本」をはじめとする二次元のコンテンツのデジタルデータ化が挙げられるが、そのように考えると、一方で録音や録画にまつわる技術が進歩し、さらに YoutubeやUstream、Podcastなどによって爆発的な流通量になっていることもまた、広義の「本」にまつわる問題だと言えよう。文字も音声も映像も、ひとたびデータとなれば拡張子が違うだけでそれぞれ一ファイルとして同じように扱われ、受け手はその時自分がおかれている環境でどういうコンテンツをどう摂取したいかを考えて、選択するだけだからだ。いま一般的に「リッチコンテンツ」というと、映像が動いたりインタラクティブであったりするコンテンツのことを指すけれど、ひとつの「トークセッション」を「本」にするときに最も「リッチ」なコンテンツ提供は、文字と音声と映像の全てを提供し、受け手側で使い分けられるようにすることである、というふうに捉えることもできるだろう。こういう風に考えたときに、文字だけが「本」でそれ以外を「本」でない、と考えるのは非常にナンセンスだ。

同時に「紙の本」をどう存続させるか、あるいは「出版業界」をどう存続させるかという議論もまた、購書空間(どこでその本を買うか)や読書空間(どこでその本を読むか)といったリアルな「場」にまつわる問題と重なっている。Amazonなどのネット書店の台頭に対してリアル書店がどうやって「リアルであることの魅力」を増していくかということは(これは書店だけではなく多かれ少なかれ全ての小売業に遍く訪れている問題なので、異業種の事例にも多分にヒントがあるのだけれど、出版業界内ではあまり注目されていないように感じる)、ネットワークを通じていつでもどこでも購書行為を可能とする電子書籍端末の普及を目前としてさらに大きなトピックとなっている。

一方で人々のライフスタイルは、コンテンツをめぐる環境以上に日々変化し多様化しているので、その中で電子書籍端末の普及やその反動としての紙の本への回帰に対して、新たな読書体験を提案することができれば、そもそもの全体のパイである読書人口(この概念も曖昧だけれど)を増やす絶好のチャンスが訪れていると考えることもできる。また、twitterやUstreamなどのリアルタイム性の高いサービスがリアルな空間と抜群の相性を見せていることや、GPSというそれほど目新しくない技術を使ったfoursquareが流行していること、さらにそこにARを取り入れたセカイカメラなどのサービスも着実に発展を遂げていることなどによって、そもそも「場」にまつわる議論においてリアルとバーチャルの境目は複雑に入り組んできている。そういった状況下で「話されるコンテンツ」のあるリアルな「場」である「トークセッション」や「パーティ」について考えることは、そのまま「本の未来」に接続しているのである。

そのように考えて、ぼくは昨年仲間と「MAGNETICS」という、一ヶ月間同じ会場で毎日「トークセッション」と「パーティ」を行うプロジェクトを企画した。そして今年は、自分自身が毎回モデレーターをつとめる「numabooks talking publishers」というシリーズも企画し、テスト段階に入っている。

ぼくの企画に限らず、いまこうした「トークセッション」や「パーティ」などのイベント現場で起こっていることは、必ずしも「紙の本」として「書籍化」するというプロセスを経なくとも、充分に広義の「出版」に近い。旧来であれば「紙の本」になり得るコンテンツが、編集者/ライターによる文字化というプロセスを経なくても結果的に断片が文字化されるし(twitterにおける実況行為「tsudaる」や、ハッシュタグを追うことによる内容の把握)、あるいは文字化されなくても音声や映像は様々な形式でリアルタイムに流通させることができる。

一方でリアルな場を共有した(「トークセッション」という「本」を「読んだ」)人々は実際のコミュニケーションを通じて、文字になった「紙の本」を読むという行為とはまた違った形でその内容を咀嚼していく。そして従来難しかった生放送という行為も、Ustreamやニコニコ生放送などがだいぶ一般的なものとなった。「本」に携わってきたぼくがその放送も含めた「トークセッション」や「パーティ」を「本」の「出版」であると捉えなおして、そのモデレーターやオーガナイザーを務めることで、狭義の「本」の未来に対しても多くの示唆が得られているように感じている。

いくつかの点で、明らかに時代は変わってきている。もう右肩上がりは大前提ではない。自らのもとに囲い込むよりも、広く公開したり配布したりするほうがいい。真似できないものよりも真似できるもののほうが、より大きな価値をもつ。ユーザーは規定した使い方をするのではなく、自ら新たな使い方を生み出す。ノウハウなんて大抵はネット上に落ちている。競争は、なんだか古い。共有という感覚が、当たり前のこととして広まっている。

経済の大きな流れと技術の進化に伴って、必然的に起こっているこうした変化のもとで、従来「本」と呼ばれたもの、「出版」と呼ばれたものは解体され、それぞれに様々なベクトルに散らばって、多様化して存続していくだろう。「これこそ本です」「これこそ出版ビジネスです」という主流が生まれることは、おそらくもうない。その文化的な存続、ビジネス的な存続の両方に携わりながら、多様化した「本」がそれぞれに新たな魅力をもち、そこで大小さまざまなプレイヤーが力を発揮する未来に、ぼく自身もまた一個人として、関わり続けていきたいと考えている。

※本稿は2010年1月初旬に入稿し、2月頭に発売された『早稲田文学増刊 wasebun U30』に発表させていただいた文章を、2月末時点での現状に則して加筆修正のうえで改題したものです。初出の「30歳以下の若い書き手による文芸誌」という性質上、出版業界内の方には釈迦に説法にあたる箇所が散見されることをご了承の上、お読みいただければ幸いに存じます。

(初出:『早稲田文学増刊 wasebunU30』 初出時の『拡張する本――「本の未来」と「出版業界の未来」にまつわる現場報告』を改題・加筆のうえ転載)

執筆者紹介

内沼晋太郎
(numabooks代表/ブック・コーディネイター)