アクセシブルな教科書としての電子書籍

2010年2月17日
posted by ろす

はじめに

この度寄稿することになりました「ろす」と申します。Twitterでは@lost_and_foundというアカウントで呟いています。現在のところ職業は公にしておりませんが、出版業界の人間ではありません。08th Grade Syndrome というブログで、電子書籍に関する記事をネットユーザの視点で掲載しています。また個人的な興味から電子書籍の国際標準規格EPUBの仕様書を日本語訳して公開したりしています。仕様書は本稿の最後にリンクを貼っておきますのでそちらからご利用ください。

今回はそのEPUBに絡めて、アクセシビリティと教育に関するお話をしたいと思います。2010年1月にアップルが発表した電子書籍のオンラインストア iBookStoreの提供フォーマットにEPUBが採用され、この国際標準規格には大きな注目が集まっています。EPUBについてはしばしば「XHTMLとCSSファイルをZIPアーカイブにしたもの」として語られています。これは確かにわかりやすい表現ではありますが、私はこのことに複雑な思いを抱いてしまいます。現在EPUBではXHTMLで書かれた文書だけではなく、DTBookというXMLで書かれた文書も扱うことができるようになっています。私はEPUBがこのDTBookを扱うことができるという事実について、とりわけ我が国ではもっと語られる機会が増えてもよいのではないかと感じています。その理由をこれからお話します。

DAISY 3=最新のアクセシブルなデジタル図書

DAISYという言葉があります。視覚障害やディスクレシア(識字障害)やADHD(注意欠陥多動性障害)など、印刷された本を読むことが困難な人が利用できるように工夫されたデジタル録音図書を指します。DAISYは国際非営利法人DAISY コンソーシアムによって策定されています。

もともとはCD-ROMによる音声録音メディアという形態で提供されていたDAISY図書ですが、バージョンを重ねる中で音声データのほかにテキストデータや画像データも含むマルチメディアな規格として発展し、現在は健常者が普通の本のように読むこともできる、まさに電子書籍と呼ぶに相応しいものになりました。現在の最新規格はDAISY 3と呼ばれ、米国の標準規格として認証されたためANSI/NISO Z39.86という別名もあります。

DAISYの規格に従って作成された書籍をDTB(Digital Talking Book)と呼びます。DTBは「音声とナビゲーション」「音声とテキストデータ」「テキストデータのみ」などの形態で提供されます。特徴には以下のようなものがあります。

・テキストデータはDTBookで記述されたXMLファイルでありXHTMLから多くのボキャブラリを採用している
・ツリー構造を持つ目次のようなナビゲーションを持ち、読者は所定の箇所にジャンプできる。
・SMIL (Synchronized Maltimedia Integration Language) を利用して音声ファイルとテキストデータを同期させることができる
・ナビゲーションを向上させるために文書の構造が厳密に定められている
・ページ番号を情報として持つことができる(画面や文字のサイズによってレイアウトが変化するタイプの電子書籍では、基本的にページという概念が希薄なのです)

書籍が規則正しい構造を持ち、その構成要素へのナビゲーションが提供されていれば、利用者は目的の箇所に素早くアクセスできます。また、ページ番号があれば目的の情報をDAISY図書の利用者に伝えることも容易になります。

ここで冒頭で述べたEPUBとの関係について触れておきます。EPUBがDAISYから取り入れたものが主に二つあります。一つはナビゲーションの仕組み、もう一つはテキストを記述するためのXMLである DTBookです。つまりEPUBではDTBのテキストデータをほとんどそのまま利用できることになります。

本稿執筆時のDAISY 3の最新の仕様はこちらで見ることができます。また、文書を構造化する方法についてこちらにガイドラインが定められています。IDPFのフォーラムではDTBook EPUB のサンプル(Valentin Hauy – the father of the education for the blind)をダウンロードすることができます。

DTBook EPUB書籍の表示例

DTBook EPUB書籍の表示例

このような特徴をもつDAISY 3は特に教育分野で積極的な導入が進められています。EPUBの仕様書でも教育分野や複雑な構造をもつ書籍を作成する際には、XHTMLよりも DTBookで記述することを強く推奨しています。本稿では米国の教育分野での導入事例を紹介してゆきたいと思います。

米国の教育分野での取り組み

2004年に米国ではIndividuals with Disabilities Education Improvement Act of 2004 (個別障害者教育法 / IDEA 2004)という法律が可決されました。この法律は出版社が印刷された教材を販売する際に、その書籍のXMLデータを作成して国の NIMAC(National Instructional Materials Access Center)というレポジトリに登録することを求めるものでした。教育機関はレポジトリに登録されたXMLデータをダウンロードして、音声や点字などを用いたアクセシブルな教科書に変換した上で、障害を持つ児童に提供することができます。

このXMLデータはNIMAS (全国指導教材アクセシビリティー標準規格/National Instructional Materials Accessibility Standard) という規格に適合したものでなければならないのですが、このNIMASが採用しているのがDAISY 3になります。(様々な用語が登場して紛らわしいのですが、DAISY 3、ANSI/NISO Z39.86、NIMASは同じものとして理解して構わないと思います。)

DAISY 3は製作ツールや読み上げ、点訳などのソフトウェアが開発されており、データを作成する出版社にとっても、児童の持つ障害に適した形態にデータを変換しなければならない教育機関にとっても、利用しやすいフォーマットでした。また国の標準規格として規定したことで、一つのデータを全ての州で利用することができるようになりました。それまでは州ごとに異なるフォーマットが規定されていたのですから、これは画期的なことでした。

このようなデジタル教科書の複製・配布が可能となった下地には1996年に行われた著作権法の改正があったことも認識しなければなりません。チェーフィー改正 (the Chafee Amendment) と呼ばれるこの改正では、障害者への利用を目的とする作品の複製・配布を著作者の許可を得ることなく行うことができる、という例外を特定の認可機関に限って認めるものでした。

本稿では米国の例を紹介しましたが、英国、オランダ、スウェーデンなどのヨーロッパ諸国でもDAISYを利用したアクセシブルな教科書の導入が取り組まれています。

教科書が提供されるまでの流れ

教科書が提供されるまでの流れ

EPUB の普及に寄せる期待

EPUBに取り入れられたDAISYが、障害者が情報にアクセスする手段を提供するための重要な規格であることが理解頂けたと思います。近年EPUB対応を謳う様々な電子書籍端末が発表されています。EPUBをサポートする端末が増えるということは、それだけ DAISYを閲覧できる環境が増えることに繋がります。今後は、読み上げ機能をはじめとした書籍の内容面に留まらず操作面でもナビゲーションも十分に備えた端末が登場することが望まれます。

我が国の現状と課題

最後に視点を国内に向けてみます。我が国でも電子書籍に障害者へのアクセシビリティを付与する取り組みが行われてきました。例えば株式会社ボイジャーでは2006年に .book 形式の書籍を読み上げソフトと連携させる機能を発表しています。ハードウェアの面では、プレクスター株式会社の「プレクストーク」や株式会社アメディアの読書機「読むべえ」などがあります。

一方DAISY図書は図書館やボランティアの方々を中心に普及活動が行われていますが多くはDAISY 2.02のバージョンであり、各国に比べて遅れを見せているのが現状です。また、現在のDAISY 3の電子書籍としての仕様も、縦書きやルビなど、日本語としてサポートされていない部分があり、現時点で日本語の教科書を作成するにはまだまだ不十分なものとなっています。

しかしながら、2010年1月には改正著作権法によって、聴覚障害者等の利用に供する目的での著作物の複製・配布が認められるなど、アクセシブルな電子教科書を提供する上での下地は整いつつあります。今日電子書籍に向けられた期待が、教育や障害者へのアクセシビリティといった分野にも注がれ、大きな前進に繋がってゆくことを期待したいです。

投稿者による追記(2010年6月2日)

1.DAISY、 DTB、DTBookの各用語について誤用があったため、記事を一部修正しました。各用語の定義は以下のとおりです。お詫びして訂正致します。

  • ・DAISY 3 = ANSI/NISO Z39.86:デジタル録音図書の規格
  • ・DTB:DAISY 3に沿って作成された書籍
  • ・DTBook:DTB のテキストデータを記述するためのXMLの語彙

2.本稿執筆時以降の DAISYに関するニュースを幾つか追記しておきます。

  • ・マイクロソフトからWordを利用して DAISY 3の書籍の作成を可能にするDAISY Translator 日本語版日本語音声合成エンジンの提供が開始されました。
  • ・EPUBの次のバージョンである EPUB 2.1 ではDAISYとの更なる連携の強化を目標に掲げ策定を進めています。
  • ・DAISY コンソーシアムからはオープンソースのDAISY 3の作成ソフトTobiがリリースされました。

■関連サイト
DAISY Consortium
DAISY 研究センター
障害者保健福祉研究情報システム (DINF)
NIMAC: National Instructional Materials Access Center
APH: The Chafee Amendment
著作権法の一部を改正する法律案:文部科学省

■EPUB仕様書日本語訳
Open Publication Structure (OPS)Open Packaging Format (OPF)

執筆者紹介

ろす
(08th Grade Syndrome)