京都の「街の本屋」が独立した理由
〜堀部篤史さんに聞く【前編】

2015年10月31日
posted by 櫻井一哉

「レコードはビニールがいい」「本は紙がいい」というアナログ信仰の話題には食傷気味だが、事態はさらに一歩進み、いまや作品や資料は物理的に所有するのではなくクラウド上に保存、あるいはネットの情報を参照することが一般的となった。データ化された作品や資料は最安値で、場合によっては無償で、即座に手元のPCやスマートフォンなどのデバイスに届けられる。

そうしたなか、地域に密着して本屋やレコード屋などを営んできた個人店は次々と姿を消していった。高効率なネット流通や高度なマーケティング戦略を前に、昔ながらの対面販売は歯が立たないようにみえる。

だがその一方で、この状況を逆手にとって健闘し、高い評価を得ている店舗も少なくない。豊富な品揃えと独自の棚作り、趣ある店作りで多くのファンを持つ京都の書店、恵文社一乗寺店もそのひとつだ。京都のカルチャースポットとして多くのメディアで紹介され、店長の堀部篤史さんは自らも『街を変える小さな店 京都のはしっこ、個人店に学ぶこれからの商いのかたち。』(京阪神エルマガジン社)という本を上梓するなど、出版不況のムードに反して独自の存在感を示してきた。

デジタル化の副作用によってそぎ落とされてしまった、本や店舗といったモノのもつ価値について、さらには音楽などもふくめたパッケージ商品について、恵文社一乗寺店の在り方を通じて考えたいと思った私は、堀部さんに昨年から色々とお話を聞いていた。

ところが、この記事をまとめようとした9月の中旬、堀部さんがまさかの独立宣言。恵文社を辞めて自ら書店を作るという話をうかがい、急遽、追加取材を行った。

そこでこの記事は前後編に分け、前半では恵文社一乗寺店の店長としての堀部さんのこれまでの取り組みを紹介することとし、後半では誠光社という新しい店舗を構える堀部さんの独立にまつわる奮闘、そして今後の展開について紹介したい。

恵文社一乗寺店という新しい書店のかたち

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恵文社一乗寺店の入り口。横に広い店構えが特徴的。

京都のターミナルといえばJR京都駅か阪急河原町界隈だが、恵文社一乗寺店はそうした都心部からは程遠く、決して地の利が良いとはいえない、叡山電鉄一乗寺駅から歩いて3分のところにある。しかし、近隣に京都精華大学や京都造形芸術大学などのキャンパスがあるため、店内は学生や学者、研究者風の人々、知的好奇心の高い人々、アートやデザインに傾倒する人たち、あるいは『Ku:nel』等の雑誌を好む、簡素で上質な暮らしを求める志向の女性たちで賑わう。遠方から、恵文社目的で京都を訪れる人々も少なくない。私もその一人で、ことあるごとにこの店を訪れていた。

静かな街並みに、どこか懐かしさを漂わせて佇むその店構えは特徴的だ。大型チェーンでも個人書店でもない微妙な規模の平屋の古風な設えには、書店のアーキタイプ(原型)とでもいうべき風情が漂う。玄関、と思わず呼びたくなる店の入り口からのぞくと、店内で静かに本を手に取る人たちは、ガラス越しに見ているせいか、精霊のような不可思議な存在感を纏って見える。そして、その冥界に自分も迷い込みたいという衝動に駆られるのだ。

そんな私の個人的な思い入れはともかく、京都市内でも多くの書店が姿を消すなか、恵文社一乗寺店は盛況を博している。2006年にはさらに店舗規模を拡大し、書籍のみならず生活雑貨などの商品も販売しはじめた。2008年にはイギリスの「ガーディアン」紙のウェブサイトでSean Dodson氏による「The world’s 10 best bookshops」の中の1軒として選出され、海外にもその名が知られるようになった。

恵文社一乗寺店の特徴はなんといっても独自性ある品揃え、本棚のあり方だが、ギャラリー空間である「アンフェール」、雑貨販売エリアの「生活館」など、敷地内に広がる書店以外のスペースもその魅力のひとつだ。なかでも注目すべきは2014年にオープンした、敷地内の中庭の一角に佇む、山小屋風の設えの「コテージ」というイベントスペースだ。

イベントスペース「コテージ」の内観。

イベント・スペースを擁する書店は少なくないが、コテージは恵文社一乗寺店の付加価値やブランドイメージを高める空間として機能している。しかし、堀部さんとしてはそうした効果を狙って戦略的にコテージを作ったわけではなかった。

堀部篤史(以下、堀部) もともと、ここには旧ギャラリーがありました。耐震強度も怪しい製材置き場のような造りだったので、「店の隣にマンションを新築したのでギャラリーを移してほしい」という建物の大家の意向もあり、残された敷地が結果的にコテージとなりました。

ビジネス的に考えれば、敷地が広がるとなれば、売場面積を増やすという発想が順当なところだ。しかし、恵文社一乗寺店では専用のイベントスペースを設けた。

堀部 これ以上、この店に売場は必要ないと考えました。一方、出版社からは以前より、出版記念イベントやトークイベントの需要がありました。でも、レンタルギャラリーの中で、そこで行われている展示と関係のないイベントを行うことは、ギャラリーに展示している作家さんに失礼です。本に関わるイベントができるスペースがいちばん求められていたので、必然的にこうなったんです。

「コテージ」は何か楽しいことが起きる場所

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堀部篤史さん。取材時は夏だった。

こうしてイベント専用スペースとして誕生したコテージは、出版社が主宰するイベントや作家を招いてのトークショー、あるいはフィルム上映会や音楽ライブなど、書店の粋を超えたユニークなイベントを展開する場となった。さらにワークショップや不定期であるがカフェとして営業するなど「恵文社に行けば何か楽しいことがある」という期待感が新たに加わった。

堀部 音楽も聞けて映像も観られる。カルチャー的な話も聞けて、そのまま買い物もできる。そうしたミックスメディア的なスペースのありかたが理想でした。情報はネットでも手に入りますが、それだけでは物足りないという人に向けて、自分では経験できない体験が味わえる空間を目指していたんです。

オープン時にはあえてレンタルスペースと謳ったコテージだが、単に空間を貸し出すだけではない。オーガナイザーやDJとパーティを企画することでクラブが空間に「文脈」を作るように、恵文社自らがイベントをディレクションすることで、空間としてのカラーを打ち出した。

堀部 ここでは、本や映画についてのトークショーや音楽イベントもあれば、京大生が語るアカデミックなイベントや手作り作家さんの即売会もあります。ただ、月間スケジュールを見たときほっこりしたワークショップやマーケットがメインと思われてしまうような偏りは避けています。スケジュール全体がさまざまなジャンルを横断している、そんな恵文社的なバランスの良さを心がけました。

来店客が作品やカルチャーを立体的に理解できるようになるきっかけ作りにもコテージは貢献している。その取り組みの根底には、作品との出会い方、そして関わり方に対する堀部さんの考えがある。

堀部 音楽ソフトの売上が低迷する一方で、野外フェスやイベントの動員が増え、会場でのTシャツやグッズなどの販売が重要な収入になっていることを耳にしていました。音楽業界ではパッケージから再生ソフトのあり方まで、メディアやシステム全体のかたちが変わり、パッケージを所有することから、ライブに参加し、感動を共有するということに価値があると人々が感じる方向に変わっています。かつて物語消費という言葉がありましたが、音楽マーケットにおけるソフトから体験への変化はまさにこの言葉を連想させるものでした。ダウンロードできるデータには物語が介在する余地がないんです。

1980年代に評論家の大塚英志が、ビックリマンシールやシルバニアファミリーなどに見られる消費のあり方を例に「物語消費論」という概念を提唱した。商品そのものではなく、商品を通じてその背後にある世界観や設定といった「物語」が消費されているのだと大塚は指摘し、こうした消費形態を「物語消費」と呼んだのだ。

堀部 メルヴィルの『白鯨』のストーリーを知りたければ、Wikipediaなどでだいたいの粗筋はわかりますが、そもそも小説を読むという行為は、あらすじを知るという読む前に理解できる結果とは別種の体験です。そこには時間があり、その時のシチュエーションや手触りなど、情報以上のものが付随しています。さらには解説や批評、同じ著者の別の作品を読むことでその小説世界は奥行きを増すでしょう。コテージでは、その付随する部分をフォローできればという想いもありました。

少し前の話になるが、2014年2月、コテージにて独立研究者・森田真生による「数学ブックトーク」というイベントが行われた。「数学を通して、未知なる本への扉、未知なる世界への扉を開く」という、彼がウェブ連載をしているミシマ社主催による試みだ。

堀部 このときのトークショーでは数学という専門分野を専門言語で語るのではなく、哲学や情緒、世界史に至るまで、森田真生氏自身の解釈を交え、さまざまな話題が展開されました。彼が小林秀雄と数学者の岡潔の対談である『人間の建設』という本を取り上げたときは、この本をすでに読んでいた人でも、数学研究者である森田さんの語りによって、まったく違った内容の本であるように聞こえたようです。[*1]

含蓄のある言葉でも、人生の深みのある人とそうでない人が語った場合では「響き方」が違うということは往々にしてある。そうした意味ではコテージは「響き方」を変え、認識を深める場所なのだろう。

堀部 こうしたトークショーの日は、専門的な内容の硬い関連書籍が20冊も売れるという、うちの規模のお店では通常ありえないことが起こります。貸しスペースとしての収益は、恵文社一乗寺店にとっていちばん効率がいい純利益です。本の粗利を売上の2割とすると、使用料という1万円の純利益は、5万円分の本を売ったのと同じなんです。

コテージでのトークイベントは来客から好評を博しただけではなく、店の収益にも貢献しているのだ。

「言葉によらない体験」で批評精神を育む

2014年6月、京都みなみ会館とのタイアップで行わったイベント『ジャック・タチ映画祭』も、映像作品を新たな視点で鑑賞するきっかけを提供したイベントだった。

ジャック・タチは50年代、60年代を中心にフランスで活躍した映画監督、俳優だ。細野晴臣や小西康陽、いとうせいこうといったミュージシャンが支持を表明し、映画マニアやフレンチカルチャーに造詣の深い人たちからも圧倒的な人気を誇るが、ともすれば、カワイくてオシャレな映画として回収されてしまう。ジャック・タチという人物やその作品を立体的、多面的に捉え、本質を捉える上で重要なアイテムとして、堀部さんたちが注目したのは『ぼくの伯父さんの休暇』という作品に登場するお菓子ベニエだった。

堀部 ジャック・タチの『ぼくの伯父さんの休暇』を観ても、作品中に登場する揚げパン、「ベニエ」に気にとめる人は少ないと思うんです。でも、フレンチ狂でもある京都のパン屋さん「ル・プチメック」の西山シェフに聞けば『作中に登場するベニエは駄菓子的な存在で、ベタベタした甘ったるいもの』とおっしゃるんです。それを実際に再現してもらい、集まったお客様に食べていただくことで、ベニエのシーンは、下町で粗末な食べ物を子どもたちが泥まみれになって食べている状況であるということを体験的に理解できるかもしれません。

そこで、西山シェフに実際にそういうコンセプトでベニエの味を再現してもらい、コテージで販売した。そうした展開のためにも、コテージには厨房があらかじめ整えられていた。視覚に加え、五感を通じて人々は作品に新しい表情を見ることができると、堀部さんは信じているのだ。

作品を立体的に捉え、深く関わり、自らの視点と考えを築くこと、つまり「批評すること」は、より深く小説、あるいは音楽や映画を理解しようという人にとって大きな意味を持つ。こうして、来店者が批評精神を育めるように啓蒙し、作品や作家との関わりを高みにあげることが恵文社のメッセージであり、その生命線になっているのかもしれない。

堀部 ジャック・タチを批評するとしても、本を読むだけだと、いわゆる批評言語でしか語ることができません。でも、恵文社のイベントでなら、もっとカジュアルなかたちで語れるのだということが解るし、言葉では伝わらない部分も、関連映像やレコードを聞くことで伝えることができます。『ぼくの伯父さんの休暇』はカルト映画という感じで捉えられがちですけど、じつは決してマニアックな作品ではなく、普通にヒットしたポピュラーな作品です。テーマ曲が多くの音楽家にカバーされるくらい、ヒットした映画だった。そうした事実を知ることからも、この映画の見方が変わります。

そうした「言葉によらない体験」に対するニーズに応えるようなイベントが、コテージでは継続的におこなわれている。『ビッグ・ウェンズデー』という、「YOUNG PERSONS’ GUIDE TO…(若い読者のための〜ガイド)」的な位置づけの、水曜日に不定期でおこなわれるイベントだ。

たとえば2014年4月には、「タモリさんについて知っていることをもっと話そう。」と題し、タモリというタレントがもつ存在感とその人脈について掘り下げるイベントが行われた。

堀部 「タモリのことを知りたい人が、タモリのことを知る」という直線的な目的ではなく、タモリさんという多面的な存在を通じて、「モノの見方を変えたり広げる」ことに主軸をおいたイベントでした。タモリを理解する上で欠かせないジャズについての話や、筒井康隆という作家を中心とした人間関係など、タモリさんという存在を、あらためて捉え直してみました。そうすることで伝えたかったのは、非常に遠大な話ですが、「ものの面白がり方」なんです。

カルチャーに触れる敷居を低くし、面白い本に出会う場としてコテージが役立てばいい、と堀部さんは言う。読むだけ、聞くだけ、確認するだけでは抜け落ちる部分をフォローする役割を、コテージという空間、そして恵文社一乗寺店という書店は担っているのだ。

そうした役割は恵文社一乗寺店だけではなく、多くの書店や、レコード店、楽器屋やスタジオ、あるいは喫茶店やバーなど、とくに個人商店が果たしてきた。本やレコードについて懇切丁寧に教えてくれる店もあるかもしれないが、大抵の場合、沈黙したまま本棚の作りやレコードの見せ方などによって語りかけている。

堀部 単に商品を買う以上のものを求めるなら、学びの姿勢で書店に通うことが大切です。インターネットなら必要な本もゼロ秒で見つかります。しかし、お店では必要な本は自分で見つけなくてはならない。そうすると探す途中に、必要ではない本にも自ずと目が触れます。すると、それらの本との位置関係によって、必要な本の位置付けがわかる。自分が欲している本がどういうコーナーに置いてあり、どういう扱いをされているのか、その棚に他にどんな本があるかということもわかる。いまどういう傾向のものが出版されているかということまでが、見渡せるようになります。

書店は世の中の流れを映すメディアの役割も果たしており、「消費」とは別のベクトルが働く学びの場所でもあるのだ。書店を彷徨い、時には途方に暮れ、そして気づきを得ることから、一種の批評が始まる。

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堀部さん自身も『街を変える小さな店』の「本屋は街の先生だった」というページのなかで、自身の本屋にまつわる原体験を綴っている。

堀部さんにとっての先達は、京都の寺町二条界隈にある三月書房という書店だった。三月書房は「未知の存在に出合うことができる、リアルな学びの場であり先生だった」と堀部さんは語る。三月書房は恵文社一乗寺店とは異なり、京都市の中心部に近い骨董街の外れに佇む。中央に大きな本棚の島があり、両サイドに通路があり書棚が並ぶという、かつて、どの街にもあったような小さな書店だ。ただし、普通の「街の本屋」であれば、週刊誌や学習書、売れ筋や実用書が並ぶところだが、三月書房の本棚を目にすると、その濃厚さに圧倒される。

単行本、文庫、新書の境はなく、作家や分野ごと、あるいはテーマごとの関係性で本が並んでおり、決して大きくない店舗の中に知の体系が築かれている。それぞれの本の周辺には、こちらの思考を見透かすように分脈にのっとった本が並んでいるのだ。そして店の奥には、大型店舗でも棚の一段分程度しか置かれていないであろうシュタイナーの専門書が、なぜか棚全面を支配していて驚かされた。

堀部さんは同書で、「sumus」という同人誌に掲載された三月書房の二代目店主・宍戸恭一氏のインタビュー記事を引用している。その一部を、ここでも孫引きさせていただくことにする。

「本ていうのは生活の糧であり、生き物ですからね、魂を持っている。一冊だけポツンとあったんではダメです。関連させて初めて活きてくる」

「客は編集された本棚を追うことによって、興味や知識の幅を自然に広げられる」、その可能性を宍戸氏は三月書房という店で表現している、と堀部さんはこの本のなかで語っている。彼自身も、そうした場に足繁く通い、感度を高めて本と本棚の関係性を読み取り、新たな出会いを果たしながら知性を深めていったのだ。

ノイズの中に潜む可能性

書店のもつ、こうしたメディア的な要素は、じつは雑誌のあり方とも通じる。

堀部 『週刊文春』を毎週読んでるんですけど、必要な記事を求めているだけなら、雑誌を買う必要はありません。そういう意味では誌面はノイズだらけです。単純に情報が欲しいだけなら、お金もかけずに検索で事足ります。では、なぜ雑誌を買うかというと、見ていないようで視界に入る部分がとても多く、そこにも価値があるからです。

ノイズ(雑)があるからこそ雑誌であり、対象外だった部分から興味を発見するメディアとして役目を果たしている。たとえば、編集後記を目当てに雑誌を買う人はまずいないだろうが、買った雜誌の編集後記は必ず見る、という向きは少なくない。編集後記のような、作り手側の私的な言葉というノイズ(雑)を含んでいるところに雑誌の価値がある。それは、目的の本を探すうちに、本来、必要ではなかった本との出会いによって関係性が学ぶべるという、堀部さんが理想とする書店のあり方と重なってくる。

堀部 週刊誌の巻頭では女優やタレントのグラビアが目に入り、知らなかった人をなんとなく眺めたりする。そうすると、あとで誰かと話していて、その人の話題が出た時に役立つ。いわば世間知というものが広がります。AKBのメンバーで誰が人気あるのかとか、話題になっていることは興味がなくても入ってきます。

雜誌のグラビアページなどは情報としての価値はゼロに近いが、目的となる情報の位置関係を捉える土台になる。検索型でシンプルに情報が入手できる昨今だからこそ、そうした知性が求められるのだ。

堀部 世の中が検索型になればなるほど、本屋や雑誌の価値が重要になってくると思います。基本的に市場のパイは少なくなりますが、選択肢が増えていく一方で、細々とそうしたものを必要としている人はいるわけですから、書店もそこに届ける努力をすべきです。本が何百万点と売れていた状況が終わり、毎日1,000点くらい売れていた本が300点になったり、100点になるかもしれません。日本中で書店が淘汰されているのは当たり前ですし、そうした状況は時代の流れによって変わりますから、その限られたパイのなかで書店という仕事に取り組んでいかなくてはいけません。

情報発信のツールとしては堀部さんも積極的にインターネットを活用している。恵文社一乗寺店は、アマゾンが日本でネット通販を展開しはじめた2年後の2003年にオンラインショップを立ち上げている。本来は、なかなか来店できない遠方の客のためのオンラインショップだったが、自分たちの言葉で語った説明と書影を全商品につけたことが功を奏し、メディア・情報発信のツールとして機能しはじめた。その波及効果は大きく、雑誌の取材も増え、恵文社の存在を広く知らしめるツールとなった。

しかし、堀部さんはメディアとしてのインターネットもまだまだ充分とは考えていない。情報発信のツールとしてある程度の効果を得てはいるが、情報が充分に読者に行き届いてはいない、と感じているのだ。

堀部 イベントの集客方法については、いまも試行錯誤中です。TwitterなどのSNSでの告知によって、つねに人が集まるわけではありませんし、逆にまったくツイートしなくても、伝えたいところに伝わることもあります。同時にSNSで配信していても、伝わらない人にはまったく伝わりません。リツイートが何回あっても、それだけでは直接集客には結びつかず、いつも蓋を開けてみないと分からない。おそらく、選択肢が多すぎるのでしょう。

戦略的にPRして、集客に成功した場合でも、あらためてあとから因果関係を考えてみると、必ずしもホームページを作ったことや、SNSでの戦略が成功したとは限りません。逆に分かったことは、ネットの世界では「あらゆる情報が共有されている」といいますが、まったくそんなことないということです。私から見ると、選択肢が非常に多いため、情報が分断されているように見えます。

東浩紀は『弱いつながり〜検索ワードを探す旅』のなかで、SNSはユーザーを自らが演じるキャラに縛りあげ、身動きのとれない状態に絡め取っていると指摘する。アマゾンのレコメンドシステムも同様、それは自らが築いてきた過去の価値観、フレームワークに縛られることだ。東はそこから逃れ、新たな価値を築くには、検索の情報や従来の関係にとらわれず、生身の体を使い、新しく「弱いつながり」を発展させることが大切だという。

「生身の体を使って、五感を働かせながら新たな価値を育んでいく」という東が提唱する姿勢も、さきに堀部さんが語った「批評」の姿勢に通じるのかもしれない。書籍や映画、あるいは音楽の感動を立体的に捉え、さらに豊穣な価値へと高める行為に繋がる、指針と分脈を提供するハブのような存在、従来の興味の枠を超越する他者の存在が、やはり我々には必要なのだ。

数値化されない関係性が支える価値

こうした志向を通じて、堀部さんが恵文社一乗寺店の方向性を模索してきたプロセスを理解するには、『街を変える小さな店』がヒントになる。これは彼が「本屋さんや出版業界が今後、どうやって生き延びるか」という質問を何度も受けるなかでしたためた本だ。書店業を小売業という枠組みだけで捉えない、新しい「店」のあり方がこの本では提示されている。

堀部 小売業として努力することは当たり前です。でも、いまはそれだけで個人店が成り立つ世の中ではない。なぜかというと、お客が「消費者」として振る舞うことに重きを置いているからです。「安くて、すごく価値がある」「非常に便利である」等の消費者的な振る舞いによって、商品やサービスはすべて数値化されています。どれだけ得したか、どれだけ安くてどれだけ量が多いかという数値が、すべての商売の価値基準になっている。でも、じつは「数値化されない価値」がとても大切なんです。消費者として振る舞うのではなくて、お客としても「損得ではないもの」の良さを大切にする。お店の側も、そうした価値観と姿勢をお客に伝え、浸透させることができるところが長く続いていくのだと思います。

『街を変える小さな店』には、堀部さんの恵文社一乗寺店との関わりのベースとなった京都左京区のコミュニティ、京都の老舗文化に代表されるような消費構造に回収されない客と店、街の関係性が描かれている。

堀部 例えば左京区というエリアの一部のコミュニティや世界は、そういう関係性によって支えられている部分が大きい。お店それぞれの面白さもありますが、多くの店主自体もそういう姿勢があります。そういった関係性や数値化されない価値の良さというものを、表現しようと試行錯誤されている方は多いと思うんですが、わかりやすく言語できている例は少ないんですよね。「なんかいいやん、あたたかみがあって」なんて言い方になりがちですが、数値に置き換えられないだけで、雰囲気だけでなくはっきりと価値があるものです。[*2]

同書のなかで堀部さんは、幸田文の『流れる』の文章を引用している。花柳界の風習や置屋での芸者たちの生態が、四十過ぎの未亡人の視点で描かれている作品だ。

「しろうとの金はばかで、退屈で、死にかかっている金であるし、くろうとの金は切ればさっと血の出るいきいきした金、打てばぴんと響く利口な金だと思う。同じ金銭でも魅力の度が違う」

ここでいう「しろうとの金」とは、味やサービスを数値化し、分かりやすい価値観を追求する金銭感覚だ。足繁く通うことでポイントが与えられ、星の数で店が選ばれる志向が働く金のことである。それに対して「くろうとの金」は払う側の客に美意識、つまり高度な金銭感覚が求められる。この「くろうとの金」の意識は自分のメリットだけではなく、地域と、そこに息づく人たちと店、そしてコミュニティを守ろうという「原始的な投票活動」だと堀部さんはいう。書店にも来店者にも「くろうとの金」の美意識がなければ、数値化されない価値は成り立たない。

堀部 「書店論」みたいなものは、あんまり好きじゃなくて、塩っぱいなって思うんです。まず、考えるスタート地点が違う。「本屋さんは毎日居残りして大変」とか「ネットが出てきて本が売れなくなって、あまりにも辛い」とか、そういうことやないんじゃないかなと。努力するということは、書店でなくてもどんなお店でも当たり前のことです。喫茶店なら、美味しい珈琲を出す、サービスを怠らない、お各さんと付き合っていく。小さなお店だったら、お客さんを増やすより、長く続けるための「いい状態」を保つことも大切です。ランチでお客さんを増やし、常連さんが入れなくなるというようなことはしません。

「いい状態」を保つためには、ある程度の敷居をつくったりすることも必要です。「一見さん」というのは嫌な言い方ですけど、実は長く続いているところなら、「一見さんお断り」というのはどこでもやっています。お客さんの思い通りにできない部分があり、他にお客さんがいるときはルールを守ってもらうとか。それこそが、売上のためだけじゃない、その場を保つための数値化されない部分です。数値化することばかり考えるなら、席数や回転率をどんどん増やせばいいんですよ、ワタミとかスターバックスとかみたいに。とくにスターバックスは、そうした数値化されないものを「サードプレイス」という言葉で演出しようとしていますが、彼ら自身は数値化の論理で動いているわけで、そこには矛盾があります。

サードプレイスらしさとは、店舗と来店者との関係性のなかで自然発生的に生まれるものだ。お店側が作為的に、一方的に作れるわけではない。

堀部 京都には、客を「消費者」としてではなく、人としてつきあおうという姿勢のお店が少なくありません。そういうお店は店主ありきのものだから、チェーン店にはできないし、めちゃくちゃ儲かるわけでもない。ただ、結果的に長く続いている。この「続いている」ことがじつはいちばんカッコイイんです。そうした価値、意義を求めて、本屋に行くこと、つまり客としてのわれわれの姿勢が本屋を支える結果になるんではないでしょうか。

システムや状況の表層だけをみていれば本屋は減少する一方であると。そりゃそうですよね。客を「消費者」としてしか考えず、本を「消費財」としてしか考えてないわけですから。そうではなく、店がいいと思う本を紹介したい、お客様の求めるものだけでなく、売れなくてもいい本があるよということを伝えたい。そんな元来の本屋のあり方を続けているから恵文社一乗寺店のような店が特殊なものとして語られるのですが、反対ですよね。当たり前のことをしているだけなんです。

堀部さんがこのときの取材で語ってくれたような空間と意識を育み、価値を創出する関係性を築くことが、デジタル化、情報化していく社会のなかで求められている。だが、そうした環境は、京都左京区のようなきわめて小さなコミュニティの関係性の中でしか成立しないのではないか? と考えていた矢先に、飛び込んできたのが堀部さんの独立宣言だった。

【後編につづく】


編集部より:この記事の[*1] [*2]における堀部さんのご発言の一部が、公開後しばらく編集段階のものが表示されておりました。謹んで訂正し、お詫びいたします。

執筆者紹介

櫻井一哉
ライター。音楽やアート、書評などのライティングおよび、そのスキルを活かしてWEB、映像制作、各種クリエイティブワーク、企業理念などの執筆も手がける。エンターテインメントとビジネスソリューションのハイブリッドが信条。Solaris 代表 www.solaris.vc