『はだしのゲン』閉架問題が問いかけること

2013年8月23日
posted by まつもとあつし

終戦記念日を迎えてすぐ、反戦マンガとして知られる『はだしのゲン』の全巻が島根県松江市の小中学校の学校図書館で、昨年12月以来閉架扱いになっていたというニュースが伝えられた。昨年、作者の中沢啓治氏は死去しているが、平和教育の教科書的存在でもあった同書の学校図書館での扱いを巡って、議論が巻き起こっている。

封印された「はだしのゲン」

既報のとおり、一部の「市民」が、『はだしのゲン』は「歴史認識に問題あり」として、同書を学校図書館から撤去するよう、陳情を繰り返していた。いったんは松江市議会でこの陳情は否決されたが、その後、市の教育委員会が「内容をあらためて確認」した結果、「過激なシーン」の存在を問題視して、松江市内の小中学校の学校図書館において全巻を閉架処置としたものだ。

閉架に収められている書目が検索でき、必要に応じリクエストできる公共図書館と異なり、今回のような学校図書館での閉架処置となると、子どもたちが閉架にどんな本があるのかを知るのも困難であり、こうした処分が行われた図書へのアクセスが極めて限定されたものになる。

松江市教育委員会・教育総務課は取材に対し「図書室の貸出カウンターの棚の中や、図書室の隣の会議室などに保管し、要望があれば閲覧させる」と回答している。加えて、教育長から「できるだけ貸し出さないよう」口頭で求めがあったと8月16日の毎日新聞は報じている。実質的に、学校内で子どもたちが『はだしのゲン』に触れる機会は失われたとみるべきだ。

ことの発端となった『はだしのゲン』という作品の「歴史認識」については、陳情を繰り返していた「市民」である中島康治氏が、その模様を動画で記録し、またBLOGにもその意図を綴っている。

・中島康治 – ニコニコ動画(原宿)
・中島康治と高知市から日本を考える会

これらの動画や記事には、「反日極左漫画『はだしのゲン』」、「捏造慰安婦ファンタジー」といった言葉が登場する。中島氏の思想的な背景は比較的分かりやすいものだと言えるだろう。

松江市はいったんは議会で陳情を却下した上で、別の観点から閉架処置としたのだから問題はないのではないか、という見方もあるかもしれない。実際、松江市教育委員会・教育総務課は今回の閉架処置について中島氏に報告も行わなかったと話す。

しかし、仮にこの一部「市民」による陳情がなかったとしたら、「あらためて確認」ということが行われただろうか? 市議会で否定されたにもかかわらず、閉架処置という、実質的には「学校図書館から撤去する」という要求が通ってしまう結果になったのは、はたして適切だっただろうか。松江市教育委員会・教育総務課によるれば、これまで『はだしのゲン』のように閉架処置となった図書はないという。前例がないのであれば、なおのこと慎重な検討と判断があって然るべきだったはずだ。

内容ではなくまず手続きを検証すべき

現在、この問題についてネット上で繰り広げられている議論は、『はだしのゲン』という作品の「内容」をめぐるものが大半を占めている。すなわち、冒頭の中島氏のような「反日的な表現」を問題視するものから、「戦争の悲惨さを伝える作品なので表現が過激なのは当たり前」、あるいは逆に、(作品を特定しないまでも)「幼い子供には適切なガイダンスなしでは読ませるべきではない」、というものだ。

・はだしのゲンの不適切な表現こそ「戦争」そのものではないか(大元 隆志) – 個人 – Yahoo!ニュース

・渡辺由佳里のひとり井戸端会議: 子どもが心理的な暴力を受けない権利を無視しないでほしい。

だが、筆者はいずれの意見にも「この時点」では賛同しない。あえて言うならば、たとえ戦争の悲惨さを描く作品であっても、レーティングによる読者の選別は考慮されるべきで、大元氏のように残虐描写や暴力表現が「不適切であってよい」とはまったく思わない。映画の話ではあるが、『プライベート・ライアン』をはじめとする生々しい戦争映画に、PG12(映倫による年齢制限。12歳未満の子どもは親の指導、助言などが必要となる)などの指定がある意味をよく考えて欲しい。

つまり、個人的には渡辺氏の意見に私の立場は近い。しかし、いまは上記のように、自由であるべき「図書へのアクセス」が、間接的であれ、きわめて不当・不透明な手続きで封じられたことをこそ、まず問題にするべきだと考えている。そもそも今回「はだしのゲン」は渡辺氏が前提とする「強制的にみせたり」する環境にはなかったし、「うっかりと曝されてしまう」ことで問題となるかどうか判断するための、十分な議論があったとは思えない。

「この作品には子供が心理的な暴力を受けるような描写がある。アクセスを制限するのはやむなし」という結論を「この時点」で下してしまっては、こうした手法、つまり教育委員会等に陳情を繰り返し、特定の作品への関係者の関心を高めることで、「暴力・性的表現から子供を守る」という大義名分のもとで、思想信条のうえで自分たちが気に入らない図書へのアクセスを封じ、結果として表現の自由に制約を加える、という目的を達成する手法を追認してしまうことになるからだ。

この手法が有効だ、ということになれば、政治的な思想信条に限らず、宗教・科学・哲学・美術などありとあらゆるテーマの図書を、「市民の陳情」によって排除することが、理屈の上では可能になってしまう。実際、上記の「市民」氏は閉架扱いとなったことを「勝利」と受け止め、高知県など他県にも陳情の範囲を拡大することを宣言している。こうした動きを封じるにも、まずは、このような手法が有効ではない、ということを強く示していかなければならないはずだ。

言うまでもないが、「表現の自由」は民主主義の根幹を成すものだ。その根幹が、市議会の反対議決があってなお曲げて揺らぐようなことがあってはならない。作品が、我々がアクセス可能な場所にまず存在しなければ、レーティングやガイダンスがどうあるべきかといった議論も成立しない。子供たちが多様な「知」に触れる機会を提供する学校図書館では、その限られたキャパシティ故に、少ない蔵書数で多様さをどう担保するかについて十分な配慮があるべきだろう。公共図書館に図書があれば学校図書館では閉架処置も構わないというのは、学校図書館の存在意義を損ねかねない暴論だと筆者は考える。

今回のように図書へのアクセスが一部の恣意や示威で簡単に揺らぐようであれば、そもそもアクセスのあるべき姿を議論する前提も無くなってしまう。この部分の優先順位を取り違えてはいけない。

図書のアクセスを確保した上で

とはいえ、今回の事件でレーティングやガイダンスの在り方に焦点が集まったことは、ポジティブに捉えたいところだ。都条例における「非実在青少年」問題、そして先の国会で継続審議となった「児童ポルノ禁止法」改正をめぐる問題でも、作品へのアクセスの在り方が問われていた。

人ぞれぞれ嗜好や許容範囲の違いはあれど、「見たくない」「見せたくない」類の作品はある。図書へのアクセスが民主的な手続きによって確保された上で、レーティング、すなわち図書館や書店における陳列によるゾーニングが議論されるべきだ。先述の渡辺氏も、「作品へのアクセスは禁じない」「選ぶときに参考にできるような情報と基準を作り、それを公開するべき」と主張している。これらもまさにレーティングに通じる論点だと言えるだろう。

たとえば、かりに今回のケースで『はだしのゲン』に対し、戦争映画などと同様、PG12というレーティングがなされていれば、どうだっただろうか?小学校では教師のガイダンスのもとで読む、ということになるだろうか。あるいは、少年誌に連載されていた巻数までと、表現の過激さが一段上がったともされる以後の巻では、扱いが異なったかもしれない。

いずれにせよ、その検討の過程が可視化され、時代背景に応じて柔軟な運用がなされるべきで、一部「市民」の陳情の直後というタイミングで「全巻一律閉架へ」といった結果にはならなかったはずだ。つまり、逆説的に聞こえるかも知れないが、レーティングによって、今回のような学校図書館で本へのアクセスそのものが絶たれるという事態を回避しうることができたはずなのだ。

今回のニュースを受けてネット上でも散見されたコメントに、『はだしのゲン』は教室の後ろの棚に置いてあった記憶がある」というものがあった。実は筆者の記憶もこれに近い。小学校高学年となったとき、教室に『はだしのゲン』は、アニメ『ガンバの冒険』の原作となった斎藤惇夫の『冒険者たち―ガンバと15ひきの仲間』のような児童小説などとともに並べられ、学校図書館にも置かれていない「マンガ」として、回し読みされていた記憶がある。

当時の担任教師にはもう確認しようもないが、教室にあることで、彼の目が行き届く範囲で読まれることを望まれてのことではなかったか、などとも思う。今回あまり議論の対象になっていないが、こういった学級文庫の存在や意義も改めて確認されてもよいのではないだろうか?

とかく先鋭化しやすいネット言論の世界から、今回のような試みが今後も行われることは想像に難くない。また今回は学校図書がやり玉に挙がったが、鳥取県では保護者からのクレームに応じて市立図書館でも自由に閲覧できない場所に保管する処置がとっていることも明らかになっている。

図書へのアクセスという、表現・思想の自由という民主主義の根幹が、ある種の思想を持った個人や、あるいは「子供を守るべき」という保護者の善意によって、結果的に容易に封じ込められ、さらに私たちの論点さえもその本質から逸れてしまいがちだということも示した。ここからどんな教訓を得て、先んじて策を講じられるかどうか、図書へのアクセスに関わる人々はもちろん、私たち読者がどう考え行動するのか――封印された『はだしのゲン』が問いを投げかけているように思えてならない。

■関連記事
「エラー451」の時代はやってくるのか?
「知の赤十字社」にむけて

執筆者紹介

まつもとあつし
ジャーナリスト/コンテンツプロデューサー。ITベンチャー・出版社・広告代理店などを経て、現在フリーランスのジャーナリスト・コンテンツプロデューサー。ASCII.JP、ITmedia、ダ・ヴィンチ、毎日新聞経済プレミアなどに寄稿、連載を持つ。著書に『知的生産の技術とセンス』(マイナビ/@mehoriとの共著)、『ソーシャルゲームのすごい仕組み』(アスキー新書)など多数。取材・執筆と並行して東京大学大学院博士課程でコンテンツやメディアの学際研究を進める。http://atsushi-matsumoto.jp