東北を遥か離れて:電子化事業への5つの疑問

2012年3月4日
posted by 鎌田博樹

posted by 鎌田博樹(EBook2.0 Forum

大震災から1周年。東北に少なからず縁のある者として、その復興には強い関心がある。そして出版のデジタル化にはこの3年ほど、それなりに取り組んできた。しかしこの2つを結びつけた今回の「緊急」事業には、残念ながら筆者の理解と想像力を超えたところがある。オープンに議論が交わされた形跡を発見できないのも気になる。どなたか、以下の疑問を氷解させ、愚問であったことを教えていただけることを期待したい。

日本出版インフラセンターの「コンテンツ緊急電子化事業」特設ページ

第1の疑問:東北復興の「緊急」事業なのか

東北復興予算の趣旨は、地域圏の産業・社会基盤を再建することで、産業・社会・文化活動の自律性、持続性の回復を支援することであると理解される。それと書籍の電子化とがどう関係するのだろうか。雇用創出というのならば、どのような技術を使い、どのくらいの雇用を、どこで創出するかが問題だ。東北の出版社、印刷会社、書店、図書館、そして読者たる一般市民にどのような利益がもたらされるのかについての情報はないのだが、どこで得られるのだろうか。そもそも主体であるべき東北も、支援の対象としての東北も見えてこないのだ政府によれば、国家財政は破綻寸前で増税が必須というが、その中で実施される緊急性はどこにあるのだろうか。

第2の疑問:電子化6万点に10億の根拠

単純計算では、補助率50%として6万点に10億というのは、1点当たり3.3万円を想定していることになる。電子化の中身は明らかではないが、その程度として見積もられていることになる。これは出版社に負担できない金額だろうか。流通やコンテンツ管理といったプラットフォームまで含めるのだとすると、10億でも少なすぎるが、電子化サービスと流通基盤構築とは区別されないと 困ったことになる。政府として出版流通基盤を支援するという話なら、後述するように市場への関与について、国際的にも説明責任が生ずるだろう。一方でTPPを推進する政府の姿勢との矛盾を衝かれるのではないか。出版デジタル機構(仮称)は純粋な民間企業で、他から出資や支援を得るべく行動しているようだが、これは東北はもちろん「電子化」とも直接の関係を持たない。またまた攘夷論の復活であるとしか思われない。

第3の疑問:市場社会と非競争領域

出版デジタル機構の植村氏は、出版流通を「非競争領域」にしたいという考えを表明しておられる。思想としては理解できない話ではない。日本の出版業は、江戸時代以来、版元が協力し合い、市場の機能を限定しつつ、注意深く運用されてきた伝統がある。それを空気のようなもの、絶対に護るべきと感じておられる方、市場主義を嫌う方々の価値観が間違いという気はない。立派な見識だと思う。しかし、現実のデジタル出版は、まさにコンテンツよりも流通において起きているもので、それはアマゾンの通販が日本でも最大の書店となった時に明らかになっていたことだ。E-Bookは印刷本のオンライン流通として始まったデジタル革命の最後の仕上げにすぎない。このことに目を塞ぎ、国際的に主戦場となっているオンライン流通において「非競争」のサンクチュアリを創造することは、それが純民間ベースで行われるならば美挙というべきものだが、遅すぎると思う。業界や政府を巻き込むにはあまりにリスクが大きい。「非競争領域」はいい響きだ。 アマゾンもアップルも、それぞれの仕方でこれを追求している。しかし、出版はビジネスであり、水道でも電力でもない。競争の排除は副作用が大きすぎる。また業界の合意も取れていない。E-Bookの流通は多様であるべきで、出版者自身にでも出来る。非競争が高価格を意味するなら、消費者は納得しないだろう。

第4の疑問:価格維持は絶対か

出版社は事業の存続のためにより多くの売上を必要とする。他方で本(著者)は読まれることを欲し、消費者はより多くを読みたいとすると、「公正な価格(水準)」というものはあり得ず、結局は市場で形成されるしかない。さもないと旧ソ連の「国家出版社」のように、「有識者」の監査の下に計画生産し、適正価格で販売し、編集・制作・流通・販売に携わる人々は適正な給料を受け取り、赤字が生じたら国家が負担するという仕組みしかあり得なくなってしまう。営利企業として、出版社は競争している。競争は企画や制作だけでなく流通段階を主戦場として行われるのは、資本主義の下では当然だ。出版だけを区別することは現実的ではないと思う。さらに、本誌(EBook2.0 Forum)が強調してきたように、印刷本とE-Bookはまったく別の商品だ。その適正価格は誰も知らない。E-Bookは利用が制限され、転売も出来ず、デバイスと通信料は利用者の負担という、不自由この上ないものだ。これが印刷本と同じ価格とは、消費者として納得できないし、受け容れられない。受け容れられない価格で売り出しても、経済的スケールでの販売には結びつかない。印刷本連動価格という呪縛は、出版社のためにならない。

第5の疑問:名義と実質は対応するのか

どうも東北から始まって、はるばる遠くへ来てしまったものだが、「東北→電子化→流通基盤→価格維持→?」と水を引いているのは、筆者のせいではない。日本出版インフラセンターが 「コンテンツ緊急電子化事業」10億円の受け皿となり、それを出版デジタル機構という、まだ出来ていない「企業」が実施するという構図だが、この企業の性格、この分野での他の事業者との関係は明らかではない。事業はセンターのパブリッシャーズ・フォーラム(有識者委員会)が方針策定・承認を行うことになっているが、常識的に考えて「有識者」は出版業界外の第三者で「東北」を何らかの形で背負う人が好ましいように思われるのだが、ここにも東北の影は見えず、出版が前面にいる。緊急時らしい。東北を助ける話なのか、出版社を助ける話なのか。「必ずや名を正さんか」(論語)ではないが、筆者のような人間は、名義と実質の対応が、今ほど重要な時代はないと考えている。恣意的に操作すれば信を失うからである。

※この記事はEbook2.o Weekly Magazine で2012年3月3日に掲載された同題の記事を、著者の了解を得て一部を再編集のうえ転載したものです。

執筆者紹介

鎌田博樹
ITアナリスト、コンサルタントとして30年以上の経験を持つ。1985年以降、デジタル技術による経営情報システムや社会・経済の変容を複合的に考察してきた。ソフトウェア技術の標準化団体OMGの日本代表などを経て、2009年、デジタルメディアを多面的に考察するE-Book 2.0 プロジェクトに着手。2010年より週刊ニューズレターE-Book2.0 Magazineを発行している。著書に『電子出版』(オーム社)、『イントラネット』(JMA)、『米国デジタル奇人伝』(NHK出版)など。情報技術関係の訳書、論文多数。2013年、フランクフルト・ブックフェアで開催されたDigital Publishing Creative Ideas Contest (DPIC)で「グーテンベルク以前の書物のための仮想読書環境の創造」が優秀作として表彰された。