アメリカン・マガジン好きに贈る本

2012年10月10日
posted by 秦 隆司

「ニューヨーカー」誌のフィクション・エディターであるデボラ・トリースマンにインタビューをしたとき、彼女は「ニューヨーカー」誌に来るまえに「グランド・ストリート」誌という文芸季刊誌のマネジング・エディター(副編集長)を4年間やったと言っていた。(デボラのこのインタビューが収められた電子書籍『アメリカン・エディターズ〜アメリカの編集者たちが語る出版界の話』はここで購入できます)。

デボラ・トリースマンは『アメリカン・エディターズ』にも登場。

「グランド・ストリート」誌でデボラは編集はもちろん、広告取りから、ウェブサイトのことまで出来ると思えることは全部やったと語ってくれた。僕も自分の出していたアメリカの雑誌・洋書を読むひとのための雑誌「アメリカン・ブックジャム」を出しているとき、記事書き、編集、コピーライト、広告取り、ウェブなど何でもやった。

「アメリカン・ブックジャム」を編集していた場所が、僕の住んでいるニューヨークだったため、アメリカの雑誌の作り方に大きな影響を受けた。そして、ひとくちにジャーナリズムと言っても、新聞のジャーナリズムと雑誌のジャーナリズムは大きく違うということも知った。

アメリカの作家/脚本家で作家ジョーン・ディディオンの夫であったジョン・グレゴリー・ダンによると、雑誌ジャーナリズムでは最終的に「Why」が「Who」「What」「Where」「When」「How」よりも重要になってくるという。それも抽象的な「Why」ではなく具体的な「Why」に重きが置かれる。

このジョンの言葉を読んで「おー、なるほど」と興味を持った人に読んでもらいたいのが、『The Art of Making Magazines』(彼がこう語ったレクチャーもこの本に収められている)。

刊行はコロンビア大学出版部。

この本はもともとコロンビア大学ジャーナリズム科でマガジンの勉強を集中的におこなう学生や大学院生に向けてのレクチャー・シリーズをまとめたもので、そのレクチャラーのラインアップが凄い。

「エル」誌の編集長ロバータ・マイヤーズ、「ワシントン・ポスト」紙のコラムニスト、マイケル・ケリー、「ニューヨーカー」誌のファクトチェッカー、ピーター・キャンビー、「ヴァニティ・フェア」誌のデザイン・ディレクター、クリス・ディクソン、言わずと知れた有名編集者ティナ・ブラウン、「コンディナスト・トラベラー」誌のクリエーティブ・ディレクター、ピーター・カプラン、「ハーパーズ・マガジン」誌の発行人、ジョン・マッカーサー、名門出版社クノッフの編集長ロバート・ゴットリーブなどだ。

このラインアップに登場する編集者、デザイン・ディレクター、コラムニスト、クリエーティブ・ディレクターたちはその職につくまでに当然そのほか「ニューヨーク・タイムズ」紙、「GQ」誌、「エスクァイア」誌、「アトランティック・マンスリー」誌、「ローリング・ストーン誌」、「イン・スタイル」誌、「ミラベラ」誌、サイモン・アンド・シュースター社、「ニューヨーク・マガジン」誌などに在籍した経歴があるので、レクチャー本文の冒頭に添えられている彼らの紹介文を読むだけで、マガジン好きの人なら脈拍数が上がること請け合いだ。

どのレクチャーも面白いが、普通の記事では絶対にお目にかかれないものを2、3紹介しよう。

え〜と、と言ってもほとんどの内容が普通の雑誌や新聞に載ることがないものなので選ぶのに困るが、まあ、僕にとって特に興味深かったものを紹介する。どれが興味深いはもちろん人によって違うとは思うけれど。

雑誌と書籍ではことなる編集者の役割

まずは、ロバート・ゴットリーブのレクチャー。彼はウィリアム・ショーンの跡を継いで「ニューヨーカー」誌の編集長を務めたが、出版社クノッフやサイモン・アンド・シュースターで編集長を務めトニ・モリスン、ジョン・チーヴァーなどの編集者でもあった。つまり、本と雑誌の両方の世界で編集長の経験がある。その経験から雑誌の編集者と書籍編集者の違いを語っている。

ロバートによると本の編集者は著者を守る立場にあるという。著者の仕事を理解し、同じ波長で接することが重要だという。本の編集では著者との信頼関係が必要となってくる。彼はトニ・モリスンとのやりとりを挙げている。彼の元でトニ・モリスンが短い小説「Sula」を書き上げたあと、彼はトニ・モリスンにこう言った。「これはソネットのようなとてもいい作品だ。もう一度同じような作品を書く必要はない。次は自分を自由に開け放って、もっと大きな作品に取り組んだらどうだろう。やるだけやって、失敗でもいいじゃないか。やってみよう」

ロバートはトニ・モリスンが自分でも分かっていたことを言ったまでで、編集者として彼女がやりたいと思っていることをやってもらうきっかけになる必要があったと言う。そして彼女が書いた作品が「Song of Solomon」だった。この長編作品はトニ・モリソンの評価を確定させる作品となった。

一方、「ニューヨーカー」誌の編集長として雑誌の世界も知っている彼は、雑誌の編集長の役割をこう語る。

「雑誌では編集長が神的な存在です。編集長はライターを守る必要はありません」。つまり雑誌では立場が逆となり、書き手が編集長の希望に応えなければならないのだ。全ての原稿は一度編集長の元に送られ、編集長が目を通し担当の編集者に渡される。「ニューヨーカー」誌の場合はそこからファクトチェッカーに回るのだが、ロバートは名物プルーフリーダーのエレノア・グールドのことを語っている。エレノアのファクトチェックを受けたスーザン・ソンタグが初めは「何故、彼女はこんな直しをするか理解できない」と言っていたが、そのうちに「ちょっと待って、この女性は天才だわ。並外れて優秀だわ。私が書いたもの全部を彼女にエディットして貰いたい」と言うようになったことや、エレノアとジョン・アップダイクとの戦いを語っていて、とても面白い。

もうひとつは「ヴァニティ・フェア」誌のデザイン・ディレクターのクリス・ディクソンのレクチャー。彼は「ニューヨーク・マガジン」誌のアート・ディレクターも務めた経験があり、「ニューヨーク・タイムズ・マガジン」誌でエディトリアル・デザイナーとしても働いている。

雑誌作りはアート側の人間と文字側の人間が関わる。このふたつの分野にまたがる優れた才能を持つ人は稀で、普通はどちらかひとつの側からの観点で雑誌作りを進めていくことになる。自身を振り返れば、僕はまったく文字側の人間でアートの部分はまったくデザイナーに任せてきた。僕たち文字側の意見からすると雑誌は記事で読ませるもので、ビジュアルの大切さは理解していると思っているが、それでも記事の内容のほうが重要だと感じている。

今回クリスのレクチャーを読んで、アート側の人がいかに余白を大切と感じているか、タイプフェイスを熟知し記事とタイプフェイスを合わせることの大切さ、フォントの大きさなどについての見解をもっているかを知り、いまさらながらであるが、ためになった。

「文字側の人間がデザインの美的センスに敏感になるためにはどうしたらいいか」という質問に、クリスは「ヴァニティ・フェア」誌や「ワイアード」誌などよいデザインが試みられている雑誌を多く見ることだとしている。

そして、もうひとつを挙げるとすれば、「ハーパーズ・マガジン」誌の発行人ジョン・マッカーサーのレクチャーだろう。

1996年、「ハーパーズ・マガジン」誌は製薬会社ファイザー社に好意的ではない記事を載せた。このためファイザー社は予定していた10万ドルの広告をキャンセルした。ファイザー社のこの記事は、もしファイザー社がその後4年間広告を載せ、それに製薬会社協会の広告も取ったとしたら、40万ドルから100万ドルの損害となる。1本の記事で40万ドルから100万ドルがぶっとんだのだ。

これは「ハーパーズ・マガジン」誌にとって大きな痛手である。ジョンは当時の上手くいかなかったファイザー社との電話でのやりとりを語っている。その一方で、社会にとっての表現の自由の大切さも語っている。大上段から正義を振りかざすのではないが、それでもやはり、国が健全であるためには表現の自由は欠かせないという。いまその自由の限界は広告主とメディアの関係に大きく左右されているという。

ビル・クリントンが大統領だった当時、クリントンの政策ストラテジストだったディック・モーリスは「もし自分の考えを大統領に伝えたければ、ニューヨーク・タイムズ紙、ワシントン・ポスト紙のop-ed欄か、ハーパーズ・マガジン誌、ニューヨーカー誌、ニュー・パブリック誌、アトランティック・マンスリー誌などの記事に自分の意見を載せればいい」と語っている。

そうした信頼できるという評価を得るメディアになるためには、発行人のそれなりの決意が必要なのだと分かるレクチャーだ。

その他にも、雑誌には(文章表現のチェックなどを担当する)コピーエディターが必要だと語るバーバラ・ウォルラフ、自分のあこがれた女性雑誌「エル」の編集長にいかにしてなったかを語ったロバータ・マイヤーズ、雑誌作りの極意を語ったティナ・ブラウン、多くの有名編集者や作家たちとの関係を語ったピーター・カプランなどどれも見逃せないものばかりだ。

これぞアメリカン・マガジン・ジャンキーたちに贈る1冊と言えるだろう。面白かった〜。

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ソウルの「独立雑誌」事情[前編]

2012年10月3日
posted by 中山亜弓

始まりは一通のメールでした。ソウルのジン・イベントで、3.11関連の日本のジンを特集するので紹介して欲しいという、謎の人物ヤンさんの少しぎこちない日本語の問い合わせに、私は、思いつくジンをリストにして返信しました。震災から約1年が過ぎた時期に、隣国から関心を持ってもらえた嬉しさに、その後も、思いついたジンや新しいジンを追加して、メールのやりとりをするうち、彼女が毎年企画するジンイベント ABOUT BOOKSのトークショーで日本のジンについて話しませんかという打診をもらったのです。

招待されたイベント ABOUT BOOKSのカタログやフライヤーなど。

人前で話すのは苦手だけど、ソウルのジン事情や本屋さんが見たくて引き受けましたが、まさか、渡航チケットとホテルの予約のやり取りで直前まで時間とエネルギーを費やされようとは思ってもみませんでした。地元の東京から飛行機に乗りたいと言っていたのに、なぜか大阪―ソウル間のEチケットが届いたときは、韓国は本当に近くて遠い国だと思いました。が、チケットを自分で取り直し、なんとか旅支度を整えました。

そこで今度は、イベント情報を収集しようと、ネットで前回の日本人トークゲストのレポートを読んだところ、韓国と日本のノリの違いに不安を感じ、助けが欲しくなり、春先に、取材でソウルからタコシェに見えたコーディネーターのイ・ガンボン(李光範)さんを思い出しました。日本で生まれ育ち、現在はソウルで日韓間の各種コーディネイトを行っているバイリンガルのイさんは、快く滞在中の助っ人を引き受けてくれました。

ソウル出発前に日本のジンの紹介用につくったブログサイト。

トークショーは、現地のジン「シンクレアマガジン」の編集人カン・ジウンさんの司会で、大阪のzine・リトルプレスの通販専門店books DANTALIONの堺達朗さんや、オルタナティヴなコミュニティの在り方を考えるジンFOREST ZINEの編集発行人のモリテツヤさんとともに、日韓ジンの相違を擦り合わせながら、日本のジンについて紹介するとのこと。堺さんに伺うと、Zine Picnicなどのジンイベントを中心に紹介しようと思う、というので、この業界で20年近い私は、自分の手持ちのジンも使って実物をご覧いただけるように、画像中心のブログ(The Japanese Zine Archives)を作りました。ヤンさんやカンさん、そして当日のお客様に事前に見てもらえたら、質疑応答もしやすいし、当日プロジェクターで映し出せるし、仕込みはOKです。

ソウルのセレクト書店を訪問

こうしてトークショーの前日、7月26日にソウルに入り、ヤンさんが働く会場のSangsangMadang(サンサンマダン)がある弘大(ホンデ)へ向かいました。ここは、韓国の美術・デザイン界に多くの人材を輩出する弘益大学を中心とした、アートの香りが漂う、カフェ、レストラン、クラブ、ショップが集まるエリアで、裏原宿や下北沢のような雰囲気でした(今はカフェと和食が大ブーム)。その中でも2007年にオープンした、韓国のJTというべきKT&G系列の複合文化施設SangsangMadangはデザイナーズビルみたいな外観の地下4階、地上7階の建物の中に、アート・デザイン系のショップ、ギャラリー、映画館、スタジオ、セミナー用の教室、カフェがあり、若手の発掘育成に力を入れているそうです。

ABOUT BOOKS INDEPENDENT BOOK MARKETは、このギャラリーを会場に、韓国の現行のジンの見本市的な展示・販売を行い、その一角に3.11関連の日本のジン16種も展示されました。原発事故に対するプロテストジンから、私的日記やコミックもありと、硬軟とりまぜたセレクトです。空間をゆったり使ったオシャレな雰囲気。タコシェにときどき納品される、ご隠居さんが作った本とか、中学生が作ったような独特すぎる装幀の本は見当たらず、ちょっぴり寂しい気分。

ここでコーディネーターのイさんと待ち合わせた私は、行ってみたかったセレクト書店your mindを訪ねました。ビルの5階、シェイクスピアの言葉を刻んだ大きな窓からは美しい街の景色が見えて、反対側の壁には吹き抜けの天井まで本棚が高く作りつけられた、美しい店内。海外ものを中心にアート、グラフィック系の本や雑誌がディスプレイされ、お店の一角には国内ジンを集めたコーナーもありました(下は店内の風景)。

奥さんと二人でお店を営むイロさんによると、国内のジンは今のところ持ち込まれたものすべてを預かっているそうで、タイトル数は決して多くないけど、ガーリーなものからアーティスティックなものまで扱われていました。そこで、私は去年ベルリンのジンを扱う書店Mottoでたまたま一冊だけあって購入したグラフィックジンと同じシリーズを見つけました。それは毎号、韓国内外の一人のアーティストを特集して、作品をカラーで収録し、巻末にハングルと英語のプロフィールをつけた小冊子で、40号近くバックナンバーがあったので、いくつかを購入しました。

新陳代謝のなかで細分化する「独立雑誌」

ヤンさん、堺さんと一緒にSangsangMadangで打ち合わせ。ここで初めて、日韓のジンの定義の擦り合わせを行い、大きな違いを発見することになります。取次ぎが流通を仕切る日本の出版界では“一般流通に乗らない”ことが、自主制作・自主流通の目安になりますが、ヤンさんには、本や雑誌がいったん卸業者に集められ、その采配で書店に配分されるシステムが驚きだったようです。一方で私には、韓国では、何をもって、どこからをインディペンデントというのかがわかりません。

事前にいただいた資料(※自動翻訳でだいたい読めます)によると、韓国では、広告を掲載せず、表現の制約から独立し(先日、マルキ・ド・サドの「ソドム120日」が有害刊行物の判定を受け、廃棄・回収が命じられましたが、エロやセクシャリティ関連の過激なものへの抵抗感は、読者の側にも強いようです)、多様なテーマを自由に扱う小規模雑誌を、ここ数年“独立雑誌”と呼ぶそうです。90年代末の経済の落ち込みで、広告収入が減り、経費削減を強いられ縮小した雑誌市場は、21世紀に入り、いくぶん持ち直しながら、webジンと独立雑誌の創刊を促しました。そして雑誌は、創・廃刊の新陳代謝の中で、よりカルチャー色を打ち出し、細分化・専門性を強める傾向にあるようです。

どうやら、この独立雑誌をジンと呼ぶようですが、日本で見かけるようなジンの手軽さ、お気楽さはあまり感じられません。広告が無ければ独立雑誌なのか、それとも内容的な問題なのか?「独立雑誌って名乗れば、独立雑誌になるの?」の質問に、ヤンさんはちょっと困って、「それを話し合ってください」と答えました。そこで、翌日の打ち合わせで、「シンクレアマガジン」の編集者カンさんにも同じ質問をしてみました。

「シンクレアマガジン」(上の写真も参照)は、文学賞を獲り、文壇に認められない限り、雑誌に文章が掲載される機会がない環境を変えようと、有志の若者たちが作った発表の場で、特集にあわせた記事やインタビューが中心の、一見して真面目な冊子です。刷り部数1000部、実売500部前後と、小規模ながら、10年ほど定期的刊行を続け、ワークショップも開催し、厳しい出版界で健闘している模様です。

「私たちは変わらずに雑誌を作ってきただけなのに、ここ数年で急に“独立雑誌”と呼ばれ、その先駆的存在に位置づけられるのに違和感を覚えます。ですから、自分たちでは、小規模出版と呼んでいます」との返事で、独立雑誌という呼称がどこまで浸透しているのか謎のままでした。

ネットでは埋めることのできない隙間に浸透するジン

余談ですが、日本ではトーク居酒屋やトークイベントで、出演者も観客もアルコールを飲みながら進行することがある、と話すと、本番ではいつの間にか冷えた缶ビールが用意されていました。「今日は日本式にビールをご用意いたしましたので、どうぞ皆さんもお飲みください」と礼儀正しく観客にも振る舞われ、恐縮すると同時に、ビールつきが決して日本のスタンダードではないことを言い出せなくなりました。

観客は、取材の方やあらかじめ応募したジンに関心のある人たち数十人で、若い女性が多めでした(会場風景は上の写真を参照)。日本では、ミニコミ、同人誌、リトルプレス(和製英語)、ジン…と、自主制作出版物の呼称が増えるにつれ、関わる人たちの層も広がり、形態も多様化し、よりニッチなものになってきたと感じます。ここ数年のジンブームは、個人でそこそこデザインもできて、印刷業者に発注して、本“らしい”ものが作れるようになったのに対して、クラフト感のある孔版印刷を使ったり、在庫を抱えない小規模単位で作って、フットワーク軽くイベントに出向いて販売するなど、情報伝達のみならず交流ツールとしての比重を増してきたように思います。ネットや出版インフラが充実する一方で、それらが埋めることのできない隙間にジンが浸透しているといおうか。

一方で、カンさんは、「ネット社会でジンを発行する意味は?」といった類の真面目な質問を繰り出します。それはまさに私がカンさんに訊きたいことで、なぜこうも地道にジンを作ってきたのか気になります。

2、3年前に、精神的にも経済的にも継続が難しい時期があり、休刊も考えました。休刊したら、残念に思う読者もいるでしょうが、一週間もしたら忘れられてしまうでしょう。でも、編集のない自分の生活を考えてみると、とても想像できなかったのです。それで、経費を見直し、販売に力を入れ、定期刊行に拘らずに、無理ないペースで続けることにしたのです。

なんと、カンさんたちは、10年近い雑誌的期間を経て、ジンの方法に移行しているようでした。

結局、仕込んだブログの画像は、パソコンの接続が悪く不発で終わり、話題に出ませんでした。頼まないビールがアドリブで出ちゃうのに、準備しておいた画像が出ないだなんて! メールでの意思疎通はたいへんだったのに、ボランティアで翻訳や通訳をしてくれた、ヤンさんの妹分ソンさんも連日、遠回りになるのに親切に送ってくれたり…。そんな不思議がソウルには、まだまだいっぱいありました。

後編につづく)

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Internet ArchiveのTVニュース・アーカイブ

2012年9月26日
posted by yomoyomo

インターネット・アーカイブと言うと、一般的にはウェブページのアーカイブ Wayback Machineで知られているのかもしれませんが、それに留まらず現代のアレクサンドリア図書館というべきデジタル図書館の実現をミッションとしていることは、本誌の読者であればおそらくご存知でしょう。

創始者であるブリュースター・ケールは、昨年のインタビュー記事(「ブリュースター・ケール氏に聞く本の未来」)で「200万冊もの本を電子書籍化した」と語っていますが、昨年秋の時点でその数が300万冊を突破しており、現在もその数を増やしているでしょう。他にも例えば今年『グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ』が売れて日本でも認知が高まったロックバンド、グレイトフル・デッドの膨大なライブ音源や、ゾンビ映画の記念碑的作品『Night of the Living Dead』(ジョージ・A・ロメロ監督)などアーカイブ対象は活字情報に留まりません。

そのアーカイブは、最近でも例えば楽天Koboストアが取り扱う電子書籍の数値目標を達成するのに、青空文庫などともに有効活用されているようです。

大統領選挙の判断材料を与える

さて、そのインターネット・アーカイブが、先週 TV News Search & Borrowと いう新サービスを開始し、アーカイブ対象を(アメリカで放映された)テレビのニュース番組に広げました。三大ネットワークをはじめCNNやFOXなどを含む20ものチャンネル、1000を超える番組、合計35万6千もの動画という規模にまず驚かされます(対象にコメディ・セントラルの人気番組「ザ・デイリー・ショー」、「コルベア・リポート」が入っているところにユーモアセンスを感じます)。

Internet Archiveの新サービス、 TV News Search & Borrow。

サービスの利用方法は、検索窓から入力を行い、そのワードにクローズドキャプションがヒットした動画を30秒ずつストリーミングで見る形になりますが、研究者が番組全体を見たいと望めば、有料でDVDの貸し出しを行うようです。また検索対象を特定のテレビ局、番組に限定することも可能です。ちなみにクローズドキャプションとは、テレビ放送において(特に聴力障害者向けに)音声を字幕化する文字表示技術のこと。アメリカでは1990年に「障害を持つアメリカ人法」が制定され、テレビにこの表示機能を組み込むことが義務付けられました。

今回のニュース番組公開は、ただアーカイブ対象を拡大しましたというものではなく、明確な意図があります。それはサイトを見れば一目瞭然ですが、今年11月に行われるアメリカ合衆国大統領選挙です。インターネット・アーカイブ自身、サービスの目的について以下のように記しています

本サービスは、時間がない市民がクローズドキャプションを検索し、関連するテレビニュース番組を借りられるようにすることで、2012年の大統領選挙の争点や候補者をより良く理解するのを助けることを目的としている。

実際、このサービスを使うことで、例えば2008年に結婚は男女の間で行われるものだと語っていた民主党のオバマ大統領が、今年になって同性のカップルも結婚できるべきだと立場を変え、共和党のロムニー候補者が1994年には女性の妊娠中絶の権利を支持していたのに、今年になってそれを覆す発言をしているなど、候補者の政治的主張の変化を確認できるわけです。

先日、ロムニー候補者が非公開の資金集めイベントで、「米国民の47%は連邦所得税を払っておらず、政府に依存するのが当然だと思っている層だ」と語る動画が暴露され問題になりましたが、やはり(ニュース)動画の力は強いものがあります。

またこのサービスは、単に米国民が大統領選挙で支持する候補者を決めるのに役立つだけでなく、検索をうまく利用することで各局の報道姿勢、傾向を浮かび上がらせるような想定外の利用法の可能性も感じます。

壮大な野望と果敢さ、そして実利性

本サービスについて伝えるNew York Timesの記事においてケールは、「我々は人間がこれまでに生み出した本、音楽、そして動画を集めたいんだ」という壮大な野望を語っています。実際、インターネット・アーカイブは、その野望の実現をミッションとしてアーカイブ対象を広げてきました。

面白いのは、インターネット・アーカイブは単に粛々とデジタル化を進め、成果を公開するだけでなく、「攻めのアーカイブサービス」とでも言うべき積極性も持ち合わせているところです。Bookserver構想や今回のニュース番組公開が「攻め」に属するのは言うまでもありません。

そして、野望の壮大さにばかり目を奪われると見落としそうになるのが、ケールの実利的な一面です。今回のサービスについても、当初一部自己資金で賄ったものの、大部分はアメリカ議会図書館など外部からの助成金で実現したことをNew York Timesの記事で語っています。

さきに紹介した本誌のインタビューでも、失業中の子持ちの人を雇えば補助金を与える政府の政策を書籍のデジタル化を行う際にうまく利用した話がありますが、理想一辺倒で突っ走るのでなく、きちんと政府系の機関から助成金を獲得し、しかも大統領選挙が近まった時期にサービス開始をぶつけてくるなどマネージメントスキルも相当なものなのかもしれません。

ケールはNew York Timesの記事で、ニュース番組を放送から24時間はアーカイブ対象に含めないなど、既存のテレビ局(のネットサービス)と競合するつもりがないことを強調しています。このサービスを日本で実現することを想像すると、そんなレベルの配慮で済まない苦難が予想されため息が出ますが、アメリカではニュース番組の複製行為は1976年の著作権法改正時に盛り込まれた「フェアユース」に該当するとのことです。

実際、本サービスに対して賛辞を寄せた人たちの顔ぶれを見ると、クリエイティブ・コモンズやモジラといったフリーカルチャー/オープンソース系の団体の人たちは予想通りとして、ニュートン・ミノウ米連邦通信委員会元委員長やアンドリュー・ヘイワードCBSニュース元社長といった人たちも含まれます。

今のところ2009年以降のニュース番組を対象にしていますが、「現在の形は始まりに過ぎず、アーカイブ対象を過去に遡っていくつもりである」とケールは語っています。ニュース番組にクローズドキャプションが付くようになったのは2002年からなので、それより前のニュース番組のアーカイブには何かしらブレイクスルーが必要と思われますが、ケールは飽くまで楽観的に見ており、あらためてその野望の大きさに唸らされます。

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台湾がOPDSでやろうとしていること

2012年9月18日
posted by 安藤一博

台湾の経済部工業局が進める智慧生活應用推動計畫(知的生活応用推進プロジェクト)は、ICT技術の活用による市民の知的生活レベルの向上を目的とした、2010年7月から2013年12月までのプロジェクトである。台湾の行政府である行政院が推し進める電子出版産業発展5カ年計画(2009〜2013)(*1)下で経済部工業局が担当する子計画も、このプロジェクトの中で実行されているようだ。

*1 數位出版產業發展策略與行動計畫(電子出版産業発展策略及び行動計画)のこと。この計画については以下のエントリを参照のこと。
台湾の「數位出版產業發展策略與行動計畫(電子出版産業発展策略及び行動計画)」(2010年9月18日)


智慧生活應用推動計畫のサイトでは電子書籍などの取り組みが動画で紹介されている。

台湾はプラットフォームの枠を超えた電子書籍の流通を促すため、特定の企業の技術や特許に縛られないオープンスタンダードの導入を積極的に進めている。今から約3年前というかなり早い段階で、EPUBを台湾の電子書籍の標準フォーマットとすることで政府と業界内の意見を統一し、EPUB 2では台湾の要件は満たせないからと、EPUB 3 の仕様策定段階から検討メンバーとして参加して可能な限り台湾の要件を組み込もうとするその姿勢が、オープンスタンダードに対する台湾の積極さを顕著に現していると言ってよいだろう。

台湾はさらにInternet ArchiveBookServerプロジェクトの基幹技術である、オープンなメタデータ配信規格OPDS(Open Publication Distribution System)の導入を進めている。台湾には米国におけるAmazon、Googleのような巨大な電子書籍プラットフォームがいまだ存在しておらず、小さなプラットフォームが乱立している状態である。台湾政府は電子書籍市場を拡大するために、プラットフォームの統廃合を進めて2、3の巨大な電子書籍プラットフォームを台湾市場に登場させるとともに、これらのプラットフォームの相互運用性を向上させて、プラットフォームの枠を超えてコンテンツを流通させる必要があると認識しており、その相互運用性を向上させる基幹技術としてOPDSを活用しようとしているらしい。

今回は、台湾がどのような形でプラットフォームの相互運用性を向上させようとしているのかについて、OPDSを中心に以下のようにまとめてみた。なお、主に智慧生活應用推動計畫(知的生活応用推進プロジェクト)の過去2年分の活動報告(以下)をベースしている。

智慧生活應用推動計畫(經濟部工業局專案計畫執行成果報告)
2010年度版報告(活動報告期間:2010年7月30日から2011年6月30日まで)
2011年度版報告(活動報告期間:2011年7月1日から2011年12月31日まで)

1. 相互運用性仕様書と権利記述言語ガイドラインの策定

すでに完了している事項であるが、プラットフォーム間の相互運用性を向上させるために、業界内の意見が集約された後に以下の仕様とガイドラインが作成され、2011年3月に電子閱讀產業推動聯盟(電子閲覧産業推進聯盟)のウェブサイト上で公開された。

(1)版權描述語言參考規範(著作権記述言語参考規範)
デジタル著作権管理(DRM)技術を構成する技術のうち、ポリシーを記述する権利記述言語について書かれたガイドラインである。ODRL (Open Digital Rights Language) を中心にまとめられている。

(2)電子書平台與電子書閱讀器之傳輸協定互通標準_v1.0(電子書籍プラットフォームと電子書籍端末の伝送協定相互運用仕様 ver.1.0)
プラットフォーム間の相互運用性を向上させるために策定された仕様で、OPDSによる電子書籍のメタデータの公開・交換、OpenSearchによるメタデータの統合検索、OpenIDによるプラットフォームを跨ぐ認証が掲載されている。なお、業界内で完全に意見を統一することは困難であるため、仕様の強制度はOPDSがMUST(必須)、OpenSearchがSHOULD(推奨)、OpenIDがMAY(可能)となっている(*2)。

*2 この仕様については以下のエントリで紹介したことがある。
台湾で電子書籍の流通の標準化を狙った仕様「電子書平台與電子書閱讀器之傳輸協定互通標準ver.1.0」が公開された(2011年4月2日)

2. プラットフォームの枠を超えた電子書籍のメタデータへのリーチの担保

電子書籍プラットフォームが発行するOPDSカタログのアドレスを登録する場所を提供して、プラットフォームを跨ぐ電子書籍のメタデータ統合検索システムを構築する。ウェブサイト上から検索できるだけではなく、OpenSearchによって電子書籍ビューワアプリなどからの電子書籍を統合検索できるようにする。そして、そのまま検索結果に対応する電子書籍プラットフォームに誘導して、該当するコンテンツを購入したり、借りたりできるようにする。

以下はそのイメージ図だが、商用の電子書籍プラットフォームだけではなく、図書館、教育用のクラウド書庫なども統合検索のサービスの対象に想定されている。商用のプラットフォームだけではなく、業種の枠を超えた電子書籍のメタデータ検索サービスをシステム構築しようとしているようだ。

図1 B2Cメタデータプラットフォームのイメージ図 (2011年度版報告p37)

また、RSSではすでにおなじみの技術であるが、OPDSカタログについて、Ping Server(公開や更新を通知するPing送信を受けつけるサーバー)やauto-discovery(自動検出)の導入が検討されている。

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第4回 持ち主を亡くした本はどこへ行くのか

2012年9月12日
posted by 西牟田靖

原稿書きを長時間やり過ぎると首がちぎれそうになるほど痛くなる。そんなときは決まって、近所の整体院に行くことにしている。約一時間、足腰肩首と足の裏でぎゅーっと踏まれ、首や腰を捻られバキバキと関節を鳴らしてもらうと、さあまたがんばろうという気になる。一人で切り盛りしている店なので、指名するまでもなく整体師はいつもMさんだ。5年ぐらい通っているので、すっかり顔なじみだし、施術中は必ず話に花が咲く。

7月だっただろうか。Mさんは珍しく僕に相談を持ちかけてきたことがある。それは、施術後、腰や首のこりが軽減され、身軽になったときのことだった。

「祖父の遺した蔵書を処分したいのですが、信用できる古本屋、知りませんか」

聞けば、だいぶ前に亡くなったお祖父さまの蔵書なのだという。

「祖父は詩人で大学教員もしていました。勤務した大学に蔵書を一部寄付しましたがまだまだ沢山あるんです」

本にまつわることを取材していると、このように身近な人から思わぬ事実を知らされることがある。Mさんもその一人なのだった。故人の書棚というものににわかに好奇心を抱いた僕は、Mさんにいくつか質問をぶつけた。

「書棚には何冊あるんですか」
「数えたことはありませんが、5000冊ぐらいはあるでしょうか。だいたいが人文書、古びて紙が茶色くなっている本ばかりです。戦前に発行された旧仮名遣いの万葉集とかを持っていまして、中学生のとき、それを読むよう祖父によく言われたものです。祖父の蔵書がどのぐらいの価値があるのか、僕にはよくわかりません。だけどとにかく祖父の蔵書を捨てたいと思っているんです」

Mさんの口調にお祖父さまの蔵書への愛は感じなかった。それよりは、自分のものでもない、本という重くてかさばる物質に空間を圧迫され続けてきた者特有の疲れが実感としてこもっていた。

「お祖父さまの書棚ってどこにあるんですか」
「店から自転車で約15分のところにあるE町の一軒家です。僕が住んでいるアパートはその家の隣です」
「一軒家にはどのようにして本が置かれているんですか」
「10畳ぐらいの部屋が祖父の蔵書の部屋です。集めた本とそれを収納する書棚に部屋が埋め尽くされている、といった有様です。僕にとってはそこが実家なので、今も日常的に出入りしています。その部屋に入ることもたまにあります。集めたコミックの置き場にしているんです」
「蔵書整理のために業者を呼んだことって過去にありますか」
「ありますよ。だけどそのとき、頼んだ業者に蔵書の一部を万引きされそうになったんです。それ以来、処分に手をつけていません。信用のおける業者じゃないとお任せする気にはなりません」

業者に手をつけられたことがトラウマになっている、ということらしい。一筋縄ではいかないかもしれない。とはいえ、普段から世話になっているMさんなのだ。ぜひ力になってあげたい。僕は彼の申し出を了承し次のように言った。

「わかりました。知り合いを通じて、誰かいい人がいないか探してみます」
「お願いします」

このとき僕はMさんにひとつだけお願いをした。

「僕も現場に立ち会ってもいいですか。できれば取材させて欲しいんです」
「えっ、祖父のことなんかネタになりますか」

思わぬ申し出に驚いたのか。Mさんは少し狼狽し、半信半疑といった様子で答えた。僕は念を押した。

「見たことを書いてもいいですか」
「か、かまいませんけど」

Mさんのお祖父さんのことはネットで検索するとすぐに出てきた。大正の初期に生まれ、生前は地方の私立大学の教授をつとめ、詩人としての活動にも精を出した。Amazonで検索すると、20冊ほどの著書が確認できた。日本文学の解説や詩集、小説の書き方と、文章をどのようにして書くのか、ということをテーマにした本が多い。バブルが膨らみつつあった80年代後半、70代前半で亡くなっている。つまりは、亡くなってから四半世紀もの時間が経過していることになる。

亡くなったことを機に処分してくれる業者を探しているのだとばかり思っていたが、そうではないらしい。四半世紀も手をつけられなかったのは、何らかの理由があるからに違いない。

作家たちの場合

整体師Mさんの依頼をこのシリーズの編集を担当している「マガジン航」の編集者にさっそく振ってみた。すると「電子化にトピックを移す前に書いておいた方が良さそうな話ですね」と言い、大量の書籍の出張買い取りを行っている古書店主の一人に打診してくれた。そんなわけで、前回の文末で、どのように整理したのか、次回に種明かしをするとした宣言を後回しにすることにした。

5000冊、いやそれ以上の蔵書を持っていた人が亡くなると、蔵書はどこへいくのだろうか。今まで考えてもみなかったが、これを機会に考えてみることにしよう。

都立多摩図書館には、『路傍の石』で有名な山本有三の蔵書がコレクションされている。多摩図書館のホームページには次のように書いてある。

山本有三文庫 13,700冊(雑誌319誌)
故山本有三氏(小説家、劇作家 1887-1974)の旧蔵書で、1975年に遺族から東京都へご寄贈されたものです。氏が大正初期から晩年まで愛読されたもので、きわめて貴重な資料が含まれています。

『存在の耐えられない軽さ』の翻訳などで有名なチェコ語学者、千野栄一(1932-2002)の蔵書の大半は、『センセイの書斎』(内澤旬子・著)によると、チェコ語講師である亜矢子夫人が守り続けているのだという。

作家の井上ひさし(1934-2010)は先妻の好子さんとの離婚沙汰をきっかけに、郷里である山形県南部にある川西町に彼の蔵書13万冊のうち7万冊が寄贈され、1987年に遅筆堂文庫が設立された。

1994年には、遅筆堂文庫を核に、劇場と川西町立図書館を併設した複合文化施設「川西町フレンドリープラザ」が完成。開設以降も井上ひさしさんからの寄贈は続き、現在では、資料22万点(2010年現在)を収蔵している。(川西町フレンドリープラザのホームページより)

そのほか司馬遼太郎や松本清張のように作家の記念館に蔵書数万冊を展示物として利用しているケースもある。

恵まれないケースもある。というかむしろ、そうしたケースが大半である。たいていの蔵書は売り払われたりして散逸する、という無残な末路を辿っている。

「雑学の大家」「サブカルチャーの教祖」と呼ばれた評論家、植草甚一(1908-1979)は戦後、ミステリ、ジャズ、映画などに関するエッセイを書き続けたアメリカ文化の伝道師といえる存在である。彼は自宅の二部屋を書庫兼書斎とし、約4万冊の蔵書、4000枚のレコードからなるジャズコレクションを誇っていた。

死後、レコードに関してはタレントのタモリがすべて引き取ったが、蔵書は散逸したようだ。『ブルータス《本の特集》(1980年11月1日)』には夫人である梅子さんの話が掲載されている。

あの人が亡くなってから色々整理して今はこの部屋と書庫専用の部屋と2部屋になっています。(略)亡くなった後、何人か本の整理を申し出てくれた人もいましたが、みんなお断りしました。今は晶文社の人と、主人が昔から親しくしていた本屋さんだけが面倒みてくれています。本屋さんが少しずつ整理しながら売ってくれているんです。

記事には植草甚一氏の整理を手伝っている井光書店の話も紹介されている。

誰か全部まとめて引き取ってくれる人がいれば、散逸しなくて済むし有難いのだが、とても無理でしょう(略) 生かして使ってくれる人を探しています。

残念な気もするが、買い求め使用した本を市場に還元したという意味では、潔い選択なのかもしれない。資料を使いたい人のところへ回っていくはずだからだ。

次のようなケースもある。約5000冊をまとめて寄贈したいと遺言に書き残すも整理の手間や予算、書棚スペースなどの問題により、寄贈先が宙に浮いたままになったという学者の蔵書。やはり寄贈先が決まらず資料的な価値がある本だけが市場に売りに出された蔵書。このようにあまり幸せでないケースは、素人の蔵書に限らず、学者の蔵書においても珍しくないという。

落ち着き先が決まらなかったからなのか、蔵書の悲惨な末路を近所のゴミ捨て場で目にしたことがある。ブリタニカの百科事典の全巻セットや著名な作家の全集といった高価な書籍が、紐で結ばれて紙の資源ゴミと化していた。

天文学マニアだった父親の蔵書を捨てる

次は、懇意にしている作家・翻訳家の田中真知さんのケースだ。真知さんは『孤独な鳥はやさしくうたう』で次のように書いている。

父は無類の本好きだった。しかし一方で、とほうもない不精者だった。掃除や整理というものが大嫌いで、古新聞さえ出さなかった。そのため家の中は数年分もの新聞と、あたりかまわず積まれた膨大な量の本、それにおびただしい数の酒の空き瓶をまたがずには歩けなかった。そんな本とゴミの山に埋もれて、父は、居間に据えた古い天体望遠鏡の前で膝を抱えて安いウイスキーをちびちび飲んでいた。

天文学好きでもあった彼の父親は生前、新聞記者をしていた。慢性的なアルコール中毒で、 些細なことで激しく怒り、家族にたびたび暴力をふるった。真知さんが高校を受験する前後に、父親をのぞく家族(母親、真知さん、弟さん)は家を出た。それ以来、20年間、お父さんはその家に一人で暮らした。

20代半ばに日本を出て8年ぶりに帰国し、かつての自宅を訪れた真知さんはそのときの様子を次のように表現している。

家の中は八年前とはくらべものにならないほど異様な相貌を帯びていた。それは文字どおり、ごみだめだった。十数年間、掃除したことのない床には埃がびっしり積もり、人の通るところだけ凹んだ轍ができていた(略)。以前とちがっていたのは、腰を痛め、くの字型にからだを曲げたまま、床に横たわっていたことだった。

動くことが嫌いだったため、父親の足は萎え、小便の入った日本酒の紙パックが身体のまわりを取り囲んだ。髪や髭は伸び放題で、まるで仙人のようだった、という。

そして翌年、真知さんは旅先で訃報を知る。帰国し、通夜と葬式に参列した真知さんは、家の整理という問題に直面する。

通夜と葬式のあと、父の家を整理しなくてはならなくなった。家の中に入ると、おびただしい本とゴミの山の中で、黴の生えた畳の上に、父が寝ていた跡が、くの字型に残っていた。ぼくはそこに自分の寝袋を敷き、何日もかけて古本やゴミの整理をした。二十年間ためこんだゴミは、捨てても捨てても際限なくあふれてきた。古本もあまりに多すぎて、結局、大半は業者に処分してもらうしかなかった。

家にはかつての彼の部屋もあり、訪れてみると、そこは高校受験当時のころのまま時間が止まっていた。その様子を目の当たりにした真知さんの目元から思わず涙が溢れた。長年の間封印していた感情——自分や家族を取り囲んでいた恐怖や哀しみ——が蘇ったからだ。 しばらくして、やっと落ち着いた真知さんは、置き去りにしてきた記憶の一つひとつに、死を宣告し、葬っていった、という。

彼は当時の思い出の品々を父の蔵書やゴミとともに処分したのである。保存状態もあるのだろうが、父の持ち物、つまり蔵書を残すという選択はあり得なかった。彼は当時の思い出から決別したいという思いが強かったからである。

草森紳一のケース

草森紳一氏の仕事場は文字どおり、本で埋まっていた。(「崩れた本の山の中から 草森紳一蔵書蔵書整理プロジェクト」(2008-12-07)より転載)

前回(本で埋め尽くされた書斎をどうするか)に紹介した草森紳一(1938-2008)はどうだったのだろうか。2008年に逝去した後、2DKを覆い尽くした約3万冊もの蔵書のその後について、彼と長年連れ添い事実婚関係にあった編集者の東海晴美さんにお話を伺うことができた。

東海晴美さんの話は草森氏の最晩年のころのエピソードから始まった。2005年の夏、晴美さんは草森氏の部屋に本人の許可なしに侵入したことがある。突然連絡が取れなくなったため、「部屋の中で倒れているかもしれない」と晴美さんは身を案じたのだ。その年、草森氏は吐血を経験していたし、地震もあった。

ドアを開けて、ギョッとしました。視界全体が本で、足の踏み場もない。本の山を登り、奥まで行って探したんですが、トイレにもお風呂場にもいませんでした。そのとき彼は『本が崩れる』(文春新書)の原稿のために、別の場所で缶詰になっていたことがあとでわかりました。(晴美さんに同行した編集者に)「あなた瓦礫をよじ登る救助犬みたいだったわよ」と言われてしまいました。

それから3年足らずの2008年3月、無理がたたったのか、草森氏は突然、逝去する。晴美さんはそのときどう思ったのか。

草森さんが亡くなったとき、蔵書は残さなきゃと思いました。2005年に本人と話し合ったとき、「本からエネルギーをもらってるのよ。本は移動も処分もしない」と言っていましたし、幸い遺児である娘や息子さんも賛成してくれました。マンガから写真、美術、漢詩や書のことまで、何でも書いた人でしたから、蔵書を残すことは、物書き草森紳一の全体像を残すことだとも思いました。

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