同人雑誌「月刊群雛 (GunSu)」の作り方

2014年3月31日
posted by 鷹野 凌

1月28日に創刊した「月刊群雛 (GunSu) ~インディーズ作家を応援するマガジン~」も、早いもので3号目が発売開始されました。おかげさまでこれまでの号は多くの方々にご購入いただき、たくさんの感想を頂戴することができました。また、直接的、間接的な支援や、温かい応援の言葉もいただきました。この場をお借りして、みなさまに御礼申し上げます。ほんとうにありがとうございます。

さて、創刊の日に「マガジン航」へ寄稿させていただいた「同人雑誌「月刊群雛 (GunSu)」が目指すこと」では、この「月刊群雛」とはそもそもどういう雑誌なのか、どういう目的で作ったのか、どこを目指しているのか、参加条件はどうなっているのかといった概要を説明しました。そこで今回は、実際にどのような形で制作をしているかについてお話させて頂きます。

「群雛」3号(2014年4月号)の表紙デザイン。

「月刊群雛」の制作は発売3週前から始まる

「月刊群雛」は、毎月最終火曜日が発売日です。参加者の募集は、発売日の3週間前くらいから開始します。Google+のコミュニティで「月刊群雛 (GunSu)」参加者募集の「イベント」を立てて、参加の意思表明コメントをした人から順に掲載枠が与えられます。つまり「早い者勝ち」です。参加申し込みを受け付けた方には、作品原稿、インタビュー原稿、プロフィール画像の3点セットをメールで入稿してもらいます。入稿締め切りは、発売日の1週間前です。インタビューの質問はあらかじめ公開しているので、準備万端で待ち構えていて参加受け付け直後に入稿してくれる方もいます。締め切りギリギリまで推敲する方もいます。募集開始から入稿締め切りまで2週間ほどありますが、わりと入稿のタイミングはバラけます。

というのは、「掲載順は入稿順」というルールにしているからです。前の方に載せたい方もいれば、後ろの方で構わない方もいるでしょう。掲載順を編集側の考えで決めるのではなく、参加者自らの意思に委ねる形にしているわけです。本来は、作品を読者にどういう順番で見せるか? という点も、その雑誌の特色を示す編集方針です。しかし、電子版ならメニューから目次を開けば1タップで好きな作品へ移動できてしまうわけですから、あまりそこへ強い編集の意志を込めても仕方がないと思ったのです。なお、工程管理はGoogleドライブのスプレッドシートを使って行い、4月号からは参加者全員が見られる形で共有することにしました。

工程管理はGoogleドライブのスプレッドシートを使って行う。(クリックで拡大)

原稿はGoogleドライブで共有し編集する

入稿された原稿のうち、文章はそのままGoogleドライブのドキュメントへ貼り付けます。イラストや写真などは、念のためGoogle画像検索で無断使用ではないかどうかのチェックをします。文章も、念のためGoogleドライブ上から「リサーチ」機能を使って、Web上に同じフレーズがないかどうかをざっと調べます。この辺りのチェック工程は、新作枠に対してだけ行います。既刊枠は、既に発売されている作品のサンプルであり、販売プラットフォームの審査を受けていることが前提だからです。

文章は、縦書き向けに整形します。Googleドライブが縦書きに対応してくれればいいのですが、残念ながら非対応なので、横書きのまま縦書きを想定して修正します。主に、行頭の1字空け、英数記号の全角化などです。誤字・脱字がないかどうかもざっとチェックします。「ざっとチェック」というのは、編集協力者がいる前提です。ありがたいことに、これまでのところずっと編集を手伝ってくれる方がいたので、非常に助かっています。

Googleドライブで、編集協力者とドキュメントを共有し、チェックの依頼をします。連絡は、リアルタイム性の高いハングアウトチャットを使っています。メールだと埋もれてしまったり、文面の形式に気を遣わなければならなかったりするので、気軽に使えるチャットは意外と便利です。また、ハングアウトのチャットはGmailにログが残るので、後で検索して探しだすのが容易いところが重宝します。

複数名が原稿に手を入れるとどうしても分かりづらくなってしまうのと、面識がない相手から原稿を触られることに対する拒絶反応は意外と強いため、直接原稿に触れるのは私1人だけという運用にしています。編集協力者は原稿を直接触らず、誤字・脱字や分かりづらい表現などにコメント機能で修正「案」を入れます。あくまで案です。

編集から作者への意見はコメント機能で伝える。(クリックで拡大)

編集協力者がどのくらいのレベルまでチェックするかは、原稿の内容次第です。あまり推敲していないような原稿であれば、「一般的な中学生が読んで、とりあえず意味が分かる」あたりを最低線として修正案を入れます。「少し手を加えればもっと面白くなる」ような原稿であれば、大きめの提案をする場合もあります。ただ、いずれにせよ編集協力者にはボランティアに近いような形で参加してもらっているので、修正案に対し著者が「はい/いいえ」「案1で/案2で」程度で回答できるレベルでのチェックというのをお願いしています。

チェックが終わった原稿から順に、Googleドライブでそのまま著者と共有します。著者には、提案コメントすべてに返信をしてもらいます。原則として、返信期限は確認依頼から48時間ということにしています。追加で修正したいところがある場合は、編集協力者と同様にコメント機能を使ってもらいます。つまり、著者もこの段階の原稿には、もう直接手を触れることができません。

確認依頼から48時間をすぎたら著者もコメント機能で指示。(クリックで拡大)

推敲は、原稿を入稿する前に終わらせておくのが原則です。後の工程になるほど修正するのが難しくなり、ミスの発生原因にもなります。この段階での修正作業そのものは簡単ですが、「修正したい」という文章を編集が再度チェックしなければなりません。修正点が全体に与える影響も、考える必要があります。こういう工程を繰り返すほど、編集への負担が大きくなります。

修正を入れた箇所は、分かりやすいように色をつけておく。(クリックで拡大)

何ヶ月もかけて本を制作する書籍編集ならともかく、短時間で制作しなければならない月刊誌です。時間的な制約も大きいため、商業出版のように著者と編集者が何度も何度もやり取りしながら原稿を磨き上げていく、ということはしません。やりたくても、やれません。やるとしたら、編集への充分な対価が必要になります。「どこまでやるか」は時間と労力のバランスでもあり、今後の課題です。

著者から「確認が終わった」という連絡を受けたら、修正案とその返信に基づき手を加え、完成原稿にします。手を入れた箇所は、分かりやすいように色をつけておきます。「もうこれ以上手を加えるところがない」という完成原稿になったら、この工程は終了です。完成原稿のテキストを、BCCKSへ流し込みます。この一連の工程を、参加人数分行います。

表紙デザインやBCKKSでの制作・プロモーション用記事の準備など

表紙は、3月号まで私の素人デザインだったのですが、4月号では表紙のデザインを手伝いたいと言ってくれる方が現れました。ところが、肝心の表紙画像(イラスト・写真)に名乗りを上げる方がなかなか現れませんでした。3月号から参加条件に「ある程度のボリュームがある本を出した経験(もちろん自己出版で可)」を追加していたのですが、その条件が厳しすぎたようです。

条件を緩和することで、表紙イラストを描いてくれる方が無事に決まったのですが、入稿締め切りまで1週間と非常に厳しいスケジュールでお願いすることになってしまいました。表紙デザインも極めて短期間でやっていただかねばならず、大変な思いをさせてしまいました。入稿締め切りは発売1週間前と設定していますが、後工程のことを考えるともう少し余裕が必要かもしれません。

BCCKS版は創刊号の時点でつくったテンプレートをつかって制作。(クリックで拡大)

BCCKSでの制作は、創刊号の時点でテンプレート的なものができているので、「見出し」「テキスト」「画像」といったパネルにチェックが終わった原稿をどんどん流し込んでいくだけです。ただ、ルビや強調といった文字装飾は、1ヶ所ずつ手作業で入れていく必要があります。当然、ルビを入れる箇所が多いほど手間も大きく、ミスをする可能性も高くなります。

4月号までは「読みやすさ」向上のため、原稿チェックの段階で地名や人名・常用漢字以外にルビを入れる提案をしてきました。しかし、編集のチェック、コメントでの提案、著者による確認、BCCKSでのルビ入れと、工数がかかりすぎてしまうことがわかりました。ちょっと残念ですが、次号からは廃止する予定です。BCCKSでは{漢字}(かんじ)という書き方でルビになるので、ルビを入れたい著者は原稿の段階で記述していただく形にしようと思っています。

また、既刊サンプルは「原則として触らない」方針なのですが、元作品が横書きで制作されている場合は半角英数記号が横転してしまうため、BCCKSの一括編集機能を使い全角に変換します。横書き向けに書かれた作品は改行・空行が多い場合が多く、そのまま縦書きにするとかなり間隔が空いたように見えてしまうのですが、それを修正する手間まではかけられないというのが正直なところです。

制作工程と同時並行で、プロモーションの準備もすすめる。

これらの制作工程と同時並行で、プロモーションの準備もします。表紙が完成した段階で「日本独立作家同盟」のウェブサイトに、ゲスト以外の参加者1人につき1本ずつ紹介記事を書きます。素材はインタビュー原稿の一部やプロフィール画像なので、1本あたり15分~20分もあれば書けます。ただ、参加人数が多いので、全部書くのにどうしても4~5時間は要してしまいます。この工程をこれ以上短縮するのは、ちょっと難しそうです。

BCCKSへの流しこみは遅くとも発売2日前の日曜朝までには終わらせ、非公開のまま「発行」処理を行い「仮本」を制作します。ここで初めてページ数が確定します。BCCKSの紙本には規定ページ数があり、最大で320ページ、その下が288ページ、256ページ……となっています。規定ページ数に満たないぶんは白紙ページになってしまい格好悪いので、可能な限りレイアウトを調整して白紙ページが出ないようにします。

BCCKSの共有編集機能で最終チェック

仮本ができたら、著者に共有編集リクエストを送り、最終確認をしてもらいます。著者がチェックするのは、自分のパートだけです。この段階では「赤を入れる」のが難しいため、大幅な修正はお断りしています。せいぜい誤字・脱字などの修正程度です。もし修正点がある場合は、スクリーンショットを添えてメールを送ってもらいます。何度もやり取りをする余裕はないので、再確認工程はなし(責了)という形でお願いしています。オンデマンド印刷版と電子版だけを発行するため、印刷、製本、物流といった工程がありません。だから、最終チェックの締め切りは発売前日の13時と、結構ギリギリのタイミングに設定しています。

確認するのはBCCKSのブラウザビューワだけではなく、印刷プレビュー用PDFや、EPUBデータもチェック対象です。EPUBをMOBIに変換して、Kindle Paperwhiteでもチェックします。「EPUBの方言問題」とも呼ぶべき、ビューワによって見た目が異なる問題が毎回発生して、かなり難儀をしています。特にAdobe RMSDKを使っているビューワ(Adobe Digital EditionsやReaderなど)は日本語縦書き表示に難があるようで、丸囲み数字が勝手に横転したりといった現象に悩まされました。

また、ダッシュ2つがU+2014「——」やU+2015「――」だと、オンデマンド印刷版で繋がって表示されない(一部のビューワ・フォントでもダメ)ことがわかり、代替として罫線切片のU+2500を使って「──」と表記するようにしました。Webの世界でも、Internet ExplorerやGoogle Chromeといったブラウザの種類やバージョンでも見た目が違う問題がありますが、EPUBでも同じ歴史を繰り返してしまっているのが制作者としては辛いところです。

こういった工程を経て、「月刊群雛」は発行されています。解決していない問題点として、iBooks Storeや紀伊國屋書店ウェブストア/Kinoppyでの配信が開始されない点が挙げられます。紀伊國屋書店ウェブストア/Kinoppyで配信されない理由はまだ不明なのですが、iBooks Storeで配信されない理由は明らかになりました。既刊サンプルからKindleストアへ直リンクを貼っていることが、Appleの審査に引っかかったようです。そこで、4月号からは直リンクではなく日本独立作家同盟の紹介記事へリンクすることにしました。これでiBooks Storeの審査が突破できたら、バックナンバーも修正して再度トライします。

また、これまで新作枠は短編読み切りに限定していたのですが、5月号からは連載枠を用意しようと考えています。新作枠を増やし、そのぶん既刊枠を減らす予定です。新作枠を増やすと編集側のチェック負荷が増えるのですが、ルビ入れ提案をしない形にすることでバランスをとり、作家の新作を載せたいニーズと読者の新作を読みたいニーズに応えていこうと思います。今後ともよろしくお願いします。

■関連記事
同人雑誌「月刊群雛 (GunSu)」が目指すこと
インディーズ作家よ、集え!
ロンドン・ブックフェア2013報告
トルタルのつくりかた
ソウルの「独立雑誌」事情[後編]
ソウルの「独立雑誌」事情[前編]

電子書籍の値段は誰が決めるべきか?
〜「電書再販論」に思うこと

2014年3月27日
posted by 林 智彦

盛り上がる「電書再販論」

電子書籍にも紙の書籍と同様、再販制度を適用すべきだ、という議論が、一部で盛り上がりを見せている。主な舞台となっているのは、業界誌「出版ニュース」(出版ニュース社)だ。

2013年8月下旬号で、鈴木藤男氏(NPO法人わたくし、つまりNobody副理事長)の「電子『書籍』の再販について考える」という寄稿文を掲載したのを手始めに、同12月中旬号には、落合早苗氏(hon.jp代表取締役)による「いま、なぜ電子書籍に再販が必要なのか」、2014年1月上・中旬号では、高須次郎氏(日本出版者協議会会長、緑風出版代表)「紙と電子の再販制度を考える」と、賛成論を連続して取り上げている。

実は筆者も、同誌1月上・中旬号から、「Digital Publishing」というコラムを隔月で担当させていただいている。その連載の中で、電子書籍実務者の立場からは、再販制度の適用が喫緊の課題とは考えられないし、EC(電子商取引)の現状から考えると、それはむしろ推進論者の意図とは逆の効果をもたらすだろう、ということを書いた。

元の原稿では、上に挙げた諸氏の論文への言及も含め、多角的に議論を展開していたが、紙メディアであり、ウェブサイトへのリンク等ができないこと、また紙幅の都合から、論点を絞らざるを得なかった。そこで、「マガジン航」の要請で、出版ニュース社の許可を得た上で、元の原稿を復元し、さらに加筆・再編集したのが本稿である。

なお、本稿で提示される主張は筆者個人のものであり、筆者の属する企業・団体等とは無関係であることを付言しておく。

再販導入論――鈴木氏の場合

まずは各氏の再販導入論を、おさらいしておこう。鈴木藤男氏は、おおむね以下のような論拠により、電子書籍への再販制度適用を主張する。

(1)書籍(著作物)には一般の商品と違って、「反復消費」と「代替消費」がない。
(2)従って書籍(著作物)は市場の自由な競争にはなじまない。だから再販制度が設けられた。
(3)電子書籍も「著作物」である。だから書籍が再販適用なら、電子書籍も再販適用であるべきだ。

鈴木氏の議論は、煎じ詰めれば「本は特別なものであり、特別な取り扱いが必要だ、電子書籍も同じだ」と要約できる。そのため、通常の経済学等で想定されているような論理は成り立たない、と主張したいようだ。筆者も「本は特別だ」という点では同感だが、ここで鈴木氏が挙げている論拠については、それとは別に、疑問を持っている。以下、詳論しよう。

まず、(1)の「消費のされ方」についてであるが、同じ本を何冊も買ったり(反復消費)、Aという本の代わりに、似たBという本を買う(代替消費)ような人は、本当にいないだろうか?

「反復消費」についていえば、法律書や医学書、技術書では、法律や制度が変わる度に、同じ本の違う版を買い直していくことは、普通に行われている。またコミックやライトノベルでは、CDやDVDを付録として付けた「初回限定版」と「通常版」が両方流通し、そのどちらも買うファンが一定層いる。

文芸書でも、同じ作家の同じ作品の、単行本と文庫を両方買う例がないわけではない。単行本には「早く読める」というメリットがある一方、文庫版は携帯性に優れている。また日本ならではの「文庫版解説」を読みたいというニーズもあるし、高村薫氏のように、版を変える度に書き直す作家の場合、その度に買い足すのは、ファンならばむしろ当然だろう。

もちろん、前年版と本年版の法律書は、厳密に言えば同じ商品ではない。「初回限定版」と「通常版」のラノベ、単行本と文庫本も、当然違う商品だ。しかし、経済学者も、鈴木氏の考えておられるほどナイーブではない。

厳密に言えば、世の中に一つとして同じ商品などない。昨日スーパーで売っていたじゃがいもと、今日並んでいるじゃがいもは同じではない。昨晩買った灯油と、来週購入する灯油は成分が違う。昨日喫茶店で受けたサービスと、今日受けたサービスは異なる。同じ作者による益子焼の椀は、どれをとっても模様が微妙に変化している――。

こんなことは日常茶飯事である。にもかかわらず、経済学は、たとえば「じゃがいも」を一つの商品として扱う。あらゆる物体やサービスを別の「物」として扱っていては、集計的に扱うことはできないからだ。

経済学だけでなくすべての学問が、このような抽象化の上になりたっている。文学研究でさえも、太宰と芥川を同じ「日本文学」とひとくくりにして取り扱う。読み比べれば、違いの方が際だっていたとしても、である。

消費者だって、鈴木氏と筆者、あるいはこの原稿を読んでおられる読者だって、別の「人間」だ。同じ「人格」だとしても、昨日と今日では気分も違うし、分子組成が異なるだろう。

鈴木氏のいう「反復消費」論は、このような抽象化を、許さない論理になっている。そこに一片の真理を認めないわけではないが、それを認めれば、書籍に関する社会科学的な分析は、ほとんど不可能になってしまう。やや狭隘な「書籍」観ではないだろうか。

「代替消費」という点についても、似たような難点が指摘できる。例えば、東野圭吾の最新刊を買い求めに、客が書店に来たとする。

たまたま在庫がなかった場合、他の本でもいいじゃないか、ということにはならない。それはその通りである。しかし、この場合、この客はがっかりして、本を買うこと自体をやめてしまうだろうか?

それよりは、書店の棚に並んでいる他の東野作品や、他作家によるミステリー、サスペンス小説を買い求めることもあるのではないだろうか? 店頭の棚の作り方次第で、本の売り上げは大きく変わる。どんな本をどのように並べるかが、書店員の腕の見せどころだ。

読者は、一つ一つの本、一人ひとりの作者だけを目指して本を買うのではなく、漠然とした興味関心をベースに、その時々の直観や予算に応じて本を選んでいく。本の消費とは、こういうものではないだろうか?

だから東野作品を求めに来た客は、その隣に同一ジャンル、同一趣向の作品群――たとえば、道尾秀介や海堂尊、湊かなえ、恩田陸など……これは近所の書店で私が実際に目にした例――が並んでいれば、さほど低くない頻度で、それらの本を買っていくことだろう。こうした本が、お目当ての本の代わりに買われたり、まとめ買いの対象になったりする。そうでなければ、腕利き書店員による「棚作り」など、何の意味もない。

つまり東野圭吾の当該作品と、その隣に並べられる道尾秀介らの作品との間には、少なくともある程度の「代替性」があるということになる。

アマゾン等のネット書店は、「この本を買った人はこの本も買っています」というリコメンド(協調フィルタリング)技術の精度を競い合っているが、これなども、同一ジャンルの本の間の「代替性」なしには機能しないはずである。

だから本には「代替消費がない」と言い切ってしまうのには無理があるのではないだろうか。

他の商品と同様、書籍消費にもある程度の「反復消費」や「代替消費」があるとすると、それがないことを前提として説かれた「再販制度の必要性」の説得力が、かなり減じられたように感じるのは筆者だけであろうか(経済学でも、「完全代替財」だけでなく、ある程度の代替性をもった「部分代替財」を対象とした研究は普通に行われている)。

さらに(3)については、前半で紙の本であろうと電子書籍であろうと「著作物」であるから同じ法的保護を必要とする、と主張していながら、最終ページになって突然「表現されたものがすべて『著作物』ではない」という議論が飛び出して、自分で自分の論点を否定しているように見えるのはどうしたわけか。

ここで鈴木氏は、出版されたあとに創作性が「読者によって見出され」た本だけが「著作物」と呼ぶにふさわしい、と述べる。これは、著作物の質によって再販制度を適用するべきかどうかを判断すべき、ということなのだろうか?

たとえば電子書籍の大半が、創作性の乏しい作品ばかりで占められていたとしたら、これまでの議論とは関係なく、やはり現状のまま再販制度適用外とすべきなのか? やや理解に苦しむ結論であった。

なお、鈴木氏の論文には、他にも事実誤認と思われる点が散見される。

たとえば、英国にはかつて書籍に関して独禁法上の例外規定があった、としているが、英国に過去に存在した再販制度(NBA: Net Book Agreement)は出版社間の業界協定であり、独禁法に書籍は特別扱い、と書かれているわけではない。そもそも、発売後1年間を過ぎ、本で返品を拒否された本は割引が認められるなど、日本の再販制度より、かなり限定されたしくみであった(『英国書籍再販崩壊の記録―NBA違法判決とヨーロッパの再販状況』文化通信社より)。

鈴木氏は再販制度の目的は、「出版物の多様性を守ること」と論じ、その主張の補強材料として英国の例を持ち出すが、英国の書籍市場で、再販撤廃(1995〜97年)後に何が起きたか、実際に調べておられるのだろうか?

英国アイルランド書店協会(Booksellers Association)が、これについてまとめている(PDF注意)。それによると、次のようなことがわかっているという。

  • 在庫を持った書店は減った。ただし、書籍の販売チャンネルは大幅に拡大した。都心部の書店、ニューススタンド等は影響を受けた。
  • 本の安売りは広がった。ただし、大手出版社のベストセラーがメイン。全体の平均価格は下がった。
  • 刊行点数は毎年のように増えている。PODと電子書籍の普及により、誰もが出版社(者)になれるようになり、絶版も減った。

同資料と、再販制度崩壊を調べた他の資料のデータ(Fishwick, Francis(2008) “Book Retailing in the UK since the Abandonment of Fixed Prices”)を組み合わせて、いくつかのグラフを作成してみた。

下記の図は、刊行点数の時系列比較である。

(クリックで拡大)

これを見ると、データに連続性はないものの、少なくとも再販制度撤廃によって刊行点数が急減した、という事象は起きていないことが確認できる。

次に、これは残念ながら2001年以降の数字になるが、出版社の総売上の推移を確かめてみよう。

(クリックで拡大)

この図の範囲では、出版社の売上は順調に伸び続けている。

次の図は、英国民が書籍を購入するのに使ったお金の推移である。

(クリックで拡大)

これも2つのデータが混在しているが、青のデータは、元資料で「インフレ調整済み」とあり、緑のデータはそのような処理はされているとの記述はない。

青のデータの原資料によると、書籍に対する消費額は、「1995年から2007年にかけて、59.5%増加した」とのことである。

英国アイルランド書店協会の資料で驚くのは、この間に多数の新規出版社が生まれており、さらに、その数値も毎年増えていることだ(下図)。

(クリックで拡大)

将来性のない業界の新規参入者が増えることはないと考えられる。つまりは有望な業界だと見られている、と解釈するのが妥当なところだろう。

まとめていうと、英国アイルランド書店協会等のデータで見る限り、再販制の撤廃で英国の出版の多様性が減ったと考えるのはかなりの無理がある。刊行点数も、出版社の売上も伸びている。国民の書籍消費額が顕著に減ったというデータもなく、さらに参入者も年々増えているのである。

鈴木氏はさらに、再販制度下の英国書籍市場と米国市場を比べて、「同じ英語圏でありながら、当初から例外措置を講じなかった米国との違いは象徴的」と、あたかも米国市場が経済学でいう「完全市場」であるかのようにも述べるが、米国では、ロビンソン・パットマン法(独禁法の一つ)の規定とそれに基づいた米国書店協会(ABA)などの訴訟の和解により、「同一規模の販売者には同一の支払い・取り引き条件」で契約する義務が出版社に課されている。

日本の場合、出版社と取次の間の取引条件は、会社によってまちまちであるが、このようなことは、アメリカでは許されていないとみられる。出版社が書店と共同キャンペーンを行うような場合も、独禁法違反とならないよう、地元の事業者の要請、という形をとったりするのだという。つまり、書籍販売について、アメリカの方が規制が厳しい一面もあるのである。

疑問点はまだ尽きない。次に気になるのが、「印税支払いの基準」についてだ。鈴木氏は、「印税こそ、著作者にとって次の執筆に向けた生活の糧であり、あらたな作品に挑む意欲となるのだが、その支払いの前提である書籍の価格が販売動向によって変動したらどうであろう」とし、あたかも、本の安売りで印税支払額が減るかのような主張をしている。

だが、小売価格の自由なアメリカでも、書籍の印税支払いは「リスト・プライス(希望小売価格)」に基づいて計算されるのが一般的で、最終小売価格がどのように変動しようと、印税額は影響を受けない。これは私の知る限り、安売りが行われている日米の電子書籍においても同様だ。

だから「著者への支払い額が不安定になるから小売価格を固定しなければならない」という主張には根拠がない(ただし、「刷り部数」ベースが主流の紙書籍に対して、電子書籍は紙で言う「売り部数」ベースになるので、総じて支払い額が減る。これは再販制度とは無関係の、電子コンテンツとしての特性である)。

さらに「著作物を再販とする仏・独・日と非再販の英・米が対立している図式は、まさに各国の著作権法の違いに重なっている」といい、各国の再販制度の有無は、著作権法の「大陸法」と「英米法」の違いに起因するかのような記述も見えるが、本当にそうだろうか?

下図は、国立国会図書館調査及び立法考査局(当時)の梶善登氏が2009年に発表した調査結果であるが、再販制度のない国として、スウェーデン、フィンランド、ルクセンブルク、ベルギーなど、大陸法系の国も入っている。

(クリックで拡大)

この表を踏まえてもなお、「英米法の国は再販否定、大陸法の国は再販護持」というような結論を導き出せるであろうか?

ちなみに、著作権法における「英米法」と「大陸法」の最も大きな違いは、「英米法」が「著作人格権」を認めてこなかった点にあるとされるが、英国は、1988年の改正で著作人格権を認めている(参考:著作権情報センター

結論として、前述の論点の(1)については極論に過ぎ、(2)へ至る論理的筋道が弱く、(3)の結論にあまり説得力が感じられなかった、というのが偽らざる感想である。

とはいえ、冒頭に書いたように、筆者自身は鈴木氏の論拠とは別の理路で、再販制度については論じるべきだと考えている。これについては、後半に改めて触れたい。

再販導入論――落合氏の場合

電子書籍の検索サービスを提供するhon.jpの代表取締役である落合早苗氏は、鈴木氏とは異なり、電子書籍市場の現況に立脚しながら、再販制度適用を説く。要旨をまとめると、以下のようになる。

(1)2013年7月時点の同社調査結果によれば、2011年度には「400円以上500円未満」であった電子書籍の最多価格帯が、2012年度には「100円未満」に下がった。
(2)価格下落は、今のところ「価格破壊」というレベルにまでは至ってないものの、そうなるのは「時間の問題」だ。
(3)アメリカでは、激しい価格競争が大手書店チェーン・ボーダーズの倒産を招き、書店数が激減している。行き過ぎた価格競争による、アマゾン一人勝ちの様相だ。
(4)書籍や電子書籍は、売れればいいものではない。「市場原理とはまったくちがう理論で動かなければならないのではないだろうか」。
(5)「電子図書」というジャンルを創設し、再販制度の適用をすべきかどうか議論すべき。

順番に見ていこう。(1)については、hon.jpしか持っていないデータに基づく調査なので、「そうですか」と受け止めるよりほかないが、仔細にデータを見ると、「安売り競争」が始まっているという結論とは、矛盾する要素も見つかる。

これは落合氏自身も認めている。「平均単価は40円ほど上がっており、また価格帯分布全体を見ると、『400円以上500円未満』『500円以上600円未満』『600円以上700円未満』それぞれの価格帯が対前年比で伸びている」。

純粋に統計学的に見ても、ここから「安売り競争」が始まっている、または始まる予兆がある、と結論付けるのは、無理があるのではないか?

同統計には算術平均以外の「平均」が提示されていない。算術平均だけで全体の傾向を測ってならないのは、統計学のイロハのイである。

しかし、同氏も文中で指摘するように、低価格の自己出版本やマイクロコンテンツが、特に2012年10月のキンドルストアの日本進出以来、急速に増えていることは間違いない。自己出版本には、伝統出版本のようなゲイトキーピング(出版にあたっての関門)がないからだ。

その中で、算術平均が上昇し、紙の文庫本と同水準である、400円~600円の価格レンジの本のシェアが増えていることが、なぜ「安売り競争」の予兆と考えられるのか。すなわち、(1)から(2)を導く過程に疑問符が付く。

しかも、ここで問題とされているのは個々の本の価格だけだが、もし平均単価が下がっていたとしても、それだけで問題、ということにはならないことに注意したい。

たとえば、強力な文庫のラインアップを持つ新潮社と、新潮社と比較すれば相対的に文庫に強いとはいえない文藝春秋を比べたら、商品の平均単価は、後者が前者を上回るかもしれない。

しかし、文庫は単価が安い分、部数も出るわけで、単価が安いというだけで売上が決まるわけではない。企業の業績、業界の趨勢を語る上で重要なのは総売上であり、総利益だ。

(3)については、紙幅の関係で詳述することは避けるが、米国の出版業界シンクタンク、BISGの最新の報告によれば、独立系書店の売り上げは、2012年に8%向上したという(”Consumer Attitudes Towards E-book Reading“)。

また米国のISBNを管理しているバウカー社の発表では、独立系書店のシェアは、2010年の2.4%に対して11年、12年は3.7%と横ばいを保っているという(Digital Book World)。

ここで一言、言っておきたいことがある。米国の例を引いて日本の書店の警鐘を鳴らす論者の多くが、ボーダーズ倒産やバーンズ&ノーブルの苦境と独立系書店(前出のABAのメンバーはこちらが主体)の状況をパラレルに論じている。しかし、アメリカの書籍流通において、バーンズ&ノーブルなどのスーパーチェーンと独立系書店は、まったく別の宇宙を形成してきたということに、もっと注意が向けられてもよい。

そもそも、アメリカの出版産業において、日本人が想像するような街なかの「書店」で本を買うという行為自体が、長い間、全体から見れば一般的ではなかった。デパートや、スーパー、ドラッグストア、コストコなどの会員制ホールセールクラブ、ブッククラブなどが主要な本の購入場所であり、そこにかなり遅れて、スーパーストアが割り込んだというのが実態だ。

前出のバウカー社の資料では、確かに2010年から12年にかけて、アマゾンに代表されるECは、25.1→43.8%と急伸しているが、その分食われているのはいわゆる「街なかの書店」=独立系書店ではなくチェーン店、そしてブッククラブだ。

スーパー、ドラッグストア、ホールセールクラブなどのシェアは、さほど変わっていない(下図)。

(クリックで拡大)

つまりアマゾンはじめネット書店が食いつぶしているのは、主に全国どこへ言っても判で押したような店構えのチェーン店であり、地元密着型の古き良き「書店」などではないのだ。

落合氏はカウアイ島のボーダーズが倒産したことを嘆き、ニューススタンド、図書館、通販サイト、電子書籍しか本の入手手段がなくなった、と嘆くが、スーパーストア全盛時代以前に戻っただけであり、しかも電子書籍という選択肢が増えている。

これが「しあわせな未来とは、決して思えないのだ」と同氏はいうが、本へのアクセスにおいて、カウアイ島以下のレベルの地域に住む人々から見れば、羨ましい「未来」ではないだろうか。まして日本では、電子書籍の普及がなかなか進まないため、カウアイ島の1/10程度のコレクションの電子書籍で我慢しなければならないのだ。

カウアイ島の「ふしあわせ」について嘆く前に、日本の国内で、カウアイ島以下の条件に置かれている地域の底上げを図るべきだと思われてならない。

また、落合氏は、電子書籍がこうした「ふしあわせ」を生み出した元凶であるかのようにいうが、前出のBISGのリポートは、まったく逆の結論を導き出していることも指摘しておく。

「2009年からのデータによると、電子書籍とEC書店は、全体的な読書の拡大をもたらしているようだ(……)アマゾンは電子書籍の売り上げが77%上昇したと報告しているが、紙書籍も5%上昇している。書籍の購買数は伸びている。これは、出版業界やそのステイクホルダーにとってグレイトニューズだ」(前掲書)

(4)について。書籍や電子書籍は売れればいい、というものではない、というのはそのとおりだ。

しかし、資本主義社会に生きる以上、「売れなくてもいい」というわけでもないことも、また、確かだ。

hon.jpを支えているのも「売上」であろう。売上がなくては、こうして文化論をぶつ余裕もなくなってしまう。もちろん、筆者も日々、お金儲けをしている。

今後導入されなければならない「市場経済とはまったく違う理論」というのはなんだろうか。詳細が解説されていないので、なんともいえないが、「市場」を廃した経済の実験は、全世界で、数えきれないほどの犠牲者を出した結果、失敗したと考えられている。それに代わる経済の「理論」は、相当の努力がないと打ち立てられないだろう。

このことは、落合氏自身が、実は証明している。落合氏は電子書籍の「価格」を元に、何らかの制度的な手当なしには、文化的にマイナスの影響が及ぶ、とここで主張しているわけだが、「市場経済」とは、価格がそういった形で「シグナル」として働く社会の仕組みのことなのだ。

「市場経済とはまったく違う理論」で動かされた社会が実現すれば、そこでは価格がシグナルとして役に立たない。市場経済では、需要が供給を上回れば価格が上昇し、逆になれば下降するが、価格が人為的に決められれば、価格がそうした市場実態を反映することはなくなる。

そうなれば、落合氏がここで行ったような「価格」を元にした分析ができなくなる。何がほんとうに必要とされているのか、価格というシグナルがなくなった社会では、それがわからなくなり、経済運営自体が成り立たない。商品の価格と生産量は官僚の裁量で決まるが、それが実態と合っている保証はない。実際、旧共産圏で起きたことである。

そうした結末は、落合氏にとっては望ましいのかもしれないが、私にとっては歓迎すべきものとは到底思われない。ぜひ、市場経済の枠内での改善をお願いしたい。

(5)の「電子図書」論については、特にコメントすることはないが、それが一部の業界だけでなく、社会全体の利益(経済学の用語では「社会余剰」=「生産者余剰+消費者余剰」、つまり生産者も消費者もトクをする、ということ)になることを示してほしい。

最後に前出の鈴木氏同様、落合氏の論文にも、いくつかの事実誤認があるので指摘しておく。

アマゾンは、ライバルストアの安売りを察知すると、自社ストアの価格を自動的にマッチさせる「プライス・クローラー(プライス・マッチ)」という監視プログラムを常時走らせているとされている。

これは米国でも言われていることだし、日本においても、現実に何度も観察されているので、ほぼ間違いないと考えてよいだろう。

同氏はそのようなプログラムを「理論上は作れてしまう」としているが、すでに現実になっている(もちろん「中の人」が手動で作業している、という噂も絶えないが、個人的には、他社ストアの安売りを1時間ほどで察知していることもあるので、何らかのプログラムを動かしていること自体は疑えないと思っている)。

次に米国の書籍市場には、「再販制度も委託制度も存在しない」としているが、米国の書籍市場は委託販売が基本である。また、再販制度は確かにないが、書店における大規模な安売りは、1970年代末にバーンズ&ノーブルが始めるまでは、さほど一般的なものではなかったといわれている(スーパー等ではあった)。バーンズ&ノーブル社自身による説明がこちらにある。

以上については、別のところで詳しく説明したので、ここではこの程度にしておく。興味のある読者は、拙稿「書籍をめぐる都市伝説の真相」(CNET)をお読みいただきたい。

後編につづく)

第4回「出版者」は今すぐやれる。
─ 編集室 屋上 ─

2014年3月27日
posted by 清田麻衣子

私の周りの出版人たちは皆、まず一冊目にある程度、売り先が見えている本を出した方が良いという。しかし新人写真家の写真集は、その枠に収まっているとは言い難い。そして1冊出すだけでは出版社とは言えないとも皆が言う。版元を起すときから2冊目、3冊目と考えていなくてはならないと。とはいえ、私は自分で版元をやるならどうしても出したい本だけしか出したくない……。

「どうしても出したい本」として私が田代一倫さんの写真集の次の企画として浮んだのは、井田真木子さんという、2001年に亡くなったノンフィクション作家の本を復刊することだった。初めて読んだのは『かくしてバンドは鳴りやまず』。井田さんが選んだ世界の傑作ノンフィクション作家に迫っていくという本で、出版社、リトルモアから未完の形で2002年2月に出版された。「絶筆」という帯の大きなキャッチコピーが目を引いた。編集者をはっきりと志した頃に衝撃を受けた本で、こんなすごい本が出せるようになったら自分も一人前だと思った。

その後、井田さんのそれ以前に書かれた大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した『プロレス少女伝説』や講談社ノンフィクション賞を受賞した『小蓮の恋人』、『同性愛者たち』、『フォーカスな人々』、『十四歳』などを読み、すべてに打ちのめされた。しかし、こんなにすごい本が、とりわけヒットもせず、ひっそりと絶版になってしまったことに、まだ世間知らずだった私は「世の中どうなってるの?」と心底不思議に思った。

ノンフィクションというのはその時代時代のテーマを扱っているだけに、時を経るとなかなか再び脚光を浴びることがないらしい。しかし井田さんの本は、ノンフィクションというジャンルを飛び越えて私小説のような印象を受ける本で、井田さんという生身の人間の、取材対象とのギリギリの関わりを記した内容は普遍的な力があり、発売からかなり経って読んだ私も、ぐいぐい惹きつけられた。こんなに身を削るように書かれた本を絶版にしておくわけにはいかない。ただ、私でもわかっていたのは、これらの本は当時ですら売りづらい本だったということだ。

考えれば考えるほど私の出版社の像は「成功例」から遠ざかって行くように思えた。そして熱く高い志とは裏腹に、私が会社を辞めるにあたっていちばん気がかりだったのは、恥ずかしいことに、何のことはない、自宅で作業をすることだった。

〝勉強〟という考えを捨てた

2012年8月に会社を辞めてまず、自宅での仕事環境を整えようとひとまず部屋にプリンタだけ入れたのだが、案の定仕事はかどらず、朝、暑くて目は覚めるものの、アイスを食べ、麦茶を飲んではトイレへ行き、麦茶を湧かし、徒歩10歩圏内の机と台所とトイレを何度も往復しているとすぐ夕方になり、ビールに手が伸びる。本を出すことの重みだけ両肩に感じたまま、もうずっとパジャマでいたいような気持ちになってくる。

退社2週間後の真夏の夕方。夏葉社の島田さんが「林さんは清田さんの考える出版のスタイルに近いと思う」と言っていたのを思い出し、理想と現実との大きなギャップから来る停滞感を振り払いたくて、林さんが間借りしているという、デザイナーの平野甲賀さん夫妻が主宰する西神田のイベントスペース「スタジオイワト」を尋ねた。

私はこの場所をとても羨ましく感じていたのだが、林さんは自宅で仕事をし、ここは倉庫に使っているという。念のため補足すると、島田さんの言う〝近い〟とは、島田さんが出版の常識に捕われず、編集経験なしで出版社業一本に絞り、株式会社として運営しているのに対し、林さんは個人事業主の屋号として「屋上」を登録し、「屋上」としての出版とフリーランス編集を並行しているという意味だった。

本のうまれる瞬間を、いまいちど考えたいと思いました。そして自分の手でつくりあげた本を、求める人のもとにしっかりと届けたいと思いました。屋上ではライブの現場から、ウエブのつながりから、暮らしの必要から、そして古今東西の書籍から小さな種を見つけ出し、育て、本に仕立てみなさまに手渡したいと願っています。いま変わりゆく出版界という大きな海にこぎだしたばかりの実験的出版社ですが、応援どうぞよろしくお願いいたします。
編集室 屋上 林さやか(編集室 屋上 HPより)

「あるときから〝勉強になる〟っていう考え方を捨てないといけないなって思うようになったんです。同年代の子でも会社を辞めるっていう話になると『もうちょっと勉強したいから、フリーになる前に別の会社に行きたい』って言ったりしてて。でも私、もう人に与えないといけない年じゃないかなと思ってしまうんです」

この日いちばん心に刺さった言葉だった。28歳の時に「屋上」を始めた林さやかさんはこのとき29歳。見た目のほんわかとした佇まいからは想像できないほど、林さんの仕事への姿勢はとてもしっかりしていて、この時既に35歳だった私はたびたび身を堅くした。〝勉強〟の言い訳と同じように、今また、オフィスを言い訳に仕事を先延ばしにしようとしている。

 

林さんは、白夜書房の『野球小僧』というマニアックな野球雑誌の編集などに携わり、2011年に退社したのち、同年10月「編集室 屋上」から初の刊行物となる、ミュージシャン・二階堂和美さんのエッセイ『二階堂和美 しゃべったり 書いたり』を出した。この日は「編集室 屋上」2冊目の書籍、『ぼくのワイン』を発売してから2ヶ月と少し。古くて趣のある西神田のビルの一階。林さんは通りに面したガラス戸の向こう、広い室内の隅で本の梱包作業をしていた。

「すみません、配送がまだ終わってなくて……」

「屋上」はこの時取次を通さず、お店と林さんが直でやりとりして本を卸しており、この日は刊行後の追加配送作業中だった。待つ間、慣れた手つきで梱包する林さんの様子を眺めながら、私はこれまで献本すらアルバイトの人に手伝ってもらってたな、とぼんやり思った。

「出版者(しゅっぱんもの)」として

「私が版元を始められたのは、間違いなくいまの時代だからです。twitterは大きいです。こんなに情報を人が広げてくれるっていうのはすごい。これだけ時代の状況が変わるとその時に合った出版のやり方をしていくしかない。それを逃さないようにしていくしかないのかなと思います。私はtwitterとfacebookだと完全にtwitterですね。広がりが違います。twitterって拡散能力が強いのと、拡散してくれる人も自分がいいって思ったものを広めるから、お客さんが実際に本を買う行動に結びつきやすいと思う」

島田さんも言っていたことだが、個人が発信しやすくなったことと、ひとり版元の増加は深い関係がある。新聞に出るか、名前がある版元かどうかということが購買の判断基準に影響する状況は依然としてあるのだが、「口コミ」という、版元にとってはもっとも嬉しい宣伝方法は、小さい版元に向いている。林さんの具体的な回答は心地良く刺さった。私は出版を大袈裟に捉えて怯えていたのだ。

日大芸術学部の文芸学科時代から文学好きで、バイトから出版社に入り、太田出版のカルチャー誌『たのしい中央線』などのライターをした後、白夜書房の編集者になったという生粋の出版業界育ち。林さんも担当していた白夜書房の『野球小僧』は隅々に日本における「野球文化」への愛が滲み出ていて、野球好きではない私も読んだことがあった。「いい雑誌ですよね!」と握り拳で讃えると、「同じ業界の人でそう言ってくれる方多いんです!」とパッと顔が輝いた。林さんは白夜書房時代のことも「屋上」の本と同じように嬉しそうに話す。

白夜書房時代、パターン配本に疑問を感じていた林さんは、フリー編集者の南陀桜綾繁さんが主宰した「出版者(しゅっぱんもの)ワークショップ」に参加。「出版社」ではなく、「出版者」として自分ひとりでやっていく力を身につけるためにこのネーミングがされたのだという。

先述の島田さんとの比較になぞらえて大別するなら、島田さんが「自分の好きな本」を媒介にして、本屋という場所を窓口に世の中と繋がっていく「ひとり出版社」なら、林さんは根っから「編集」が好きな編集者が、本づくりを突き詰めたうえに版元をやることになった「ひとり出版者」タイプだ。島田さんには、個人がやれる社会との関わりの大きさに、林さんには、編集者としての純粋な熱意に、私は尊敬の念を抱いた。

「ワークショップでいろんな人に話を聞く機会があって、今まで自分が出版社で当然のようにやってもらっていたパターン配本は、今後は絶対ダメだと思ったんです。私はもともと書店でバイトしていた経験があるので、パターン配本の空しさは本当によく感じていて。会社でも返本率50%なんて普通にあって。半分帰ってくるようにばらまいて帰ってきたものを切るのが出版なのかと思うと辛くて、その空しさは大きかった」

場所がほしい

神楽坂にあった劇場「シアターイワト」に、林さんは以前から客として通っていた。まさに「出版者ワークショップ」もイワトで開催されていた。イワトはその後、西神田に場所を移し、イベントスペースとして機能するようになった。そして林さんが退社を考えていた頃、イワトからウェブマガジンをつくってほしいという依頼が舞い込む。

「最初はむしろイワトに乗っからせてもらっている部分はかなりあって、だからあまり一人で始めたという感覚はなかったんです。ああいう場所があるから、企画を考えたときにイベントをやって反応を探るっていうのもできるなと思ったんです。イワトがなかったら始めなかったかもしれない」

小さな版元だと、2000部で2500円の本を年コンスタントに3冊出して、コンスタントに売り上げていれば回っていくと言われたことがあるし、計算上はたしかに成り立つ。だけど…と私はいつも立ち止まってしまう。林さんの場合はどうなのだろうか。

「普段の収入は完全に編プロ仕事です。屋上の本は、ちゃんと回収してプラスαできるっていう計算で作っています。私が年3冊出せるかというと、まず作業的にすごく大変ですよね。あと、自分の出版社として出したい本が年3冊あるかというとすごく疑問で。編プロ仕事も本当にたいへんですけど、でも私、編集の作業自体も好きなんですよね」

1冊目の二階堂和美さんの本は、林さんが「屋上」としてどうしても出したい本だった。

「これから私は自分ひとりでこういう本をやっていきたいと二階堂さんにお話を持っていきました。そしたらツアーで売りましょうという話になったんです。やっぱり小規模で始めるのには、売り先がある程度確保できているのは大きかった。偶然と言えば偶然ですけど、そうじゃないと始められなかったかもしれない。二階堂さんの本で始められるんだったら、というのはありました。

あと平野甲賀さんに装丁をやってもらったというのは大きくて、そのブランド力はあったと思います。でもインパクトが強いから、三冊目は脱却しないと、と思ってるんですけど。あと、やっぱり場所がほしい。場所というのは空間ということではなく、人が場所に集まるような、トークだけではなく、人との繋がりに重点を置くような場所を作りたいです」

出版社をやろうと考えるとき、フリーランス編集としての仕事のバランスと規模の問題はこの後、私は何度も悩んだ。すべての小出版社がそうだとは限らないが、私の場合、規模を拡大しようとすると当初の自分の考えとどんどんずれてきてしまう。「どうしても自社で出したい本はそんなに多くはない」という林さんの感覚は、私にとって大いに心の支えになった。

『屋上野球』創刊

この取材からだいぶ経ち、スタジオイワトはこの場所での活動を終えたが、屋上は2013年4月から、同じビルの3階でレンタルスペースを行い、さまざまなイベントを開催している。

屋上野球1書影

さらに、2013年10月、『屋上野球』なる野球雑誌を刊行。装丁は横須賀拓氏。ブルーの爽やかな表紙が目に心地良い、A5判96頁のハンディサイズ。この雑誌は取次を通しているというのも、臨機応変に方法を変える林さんらしい決断だと思う。

雑誌というものは、出版社にとって書籍とはまた違う力を持っていて、特に版元名を冠した雑誌を発行することで、「屋上」という「出版者」が、より生命体として活き活きとした存在になる。「〝野球〟にまつわるなにか、〝野球〟について読むこと、語ることのほうが好きになってしまった」という「屋上野球」の解説文にあるとおり、まさに『野球小僧』時代から林さんの中でうごめいていたであろう企画が満載で、雑誌全体にエネルギーが満ちていた。

雑誌はつまらなくなった、雑誌は売れない、といった言葉は嫌というほど聞いたし、実際、数字は淡々とその事実を突きつけてくるのだが、一方で、雑誌でしかできないことがあることを、この「屋上」を見ると深く感じた。

林さんの行動力に背中を押され、人と会う機会を増やしていた数週間後、私にとって、独立後まず最初の天の助け、オフィスを間借りさせてくれる人物に巡り会う。これで作業場が出来た!

そして暑さが和らいだ10月23日、個人事業主の屋号「里山社」の届け出を世田谷税務署に出しに行った。やっぱり大安吉日がいいのかな…などと、雨降る中、満を持して馳せ参じたつもりが、窓口の男性はこちらの顔も見ず、提出した用紙に「ボンッ」とハンコを押し、小窓からニュッと手だけが出て、控えが返ってきた。そして突っ立ったままの私に「もういいよ」と一言。「里山社」はものの3秒で受理された。何しろ「会社」じゃない。「出版者」は本当に大袈裟ではなく、すぐに始められる。大変なのは、「会社」の枠に守られてきた社員編集者だった私が、あやふやな「私」というだけの存在を頼りに出版を続けていくことなのだ。

次回につづく

【お知らせ】
本連載で綴る、里山社の一冊目、田代一倫写真集『はまゆりの頃に 三陸、福島 2011~2013年』発売中です。

『はまゆりの頃に 三陸、福島 2011~2013年』

著者:田代一倫(本作でさがみはら写真新人奨励賞受賞)
装丁:鈴木成一デザイン室
本体:3,800円+税 カラー488頁+別刷折込
発行:里山 http://satoyamasha.com/
33歳、写真家が迷い、考え、挑んだ無謀かつ偉大な一期一会の記録。
圧巻の肖像写真453点と覚え書き。

震災後の三陸、福島で、出会った人々に話しかけ、ただひたすら全身で、真正面から写し続けた写真集です。震災から三年の今こそ、是非、ご覧ください。

せんだい発の文化批評誌『S-meme』

2014年3月25日
posted by 佐々木 暢

東日本大震災から3年が過ぎ、TVを中心としたメディアでも震災のことが取り上げられる機会は少なくなってきました。また、東京、福島、そして東北の沿岸部とそれ以外の地域では、震災をめぐるニュースへの関心にそれぞれ温度差があるような気がしています。

しかし、文学という切り口で震災を見てみると、2013年からだんだんと震災をテーマとした作品が書店に並ぶようになってきました。今年の3月1日には、せんだいメディアテークで「在仙編集者による震災トークライブ」という催しも行われています。このイベントの模様と、私自身も受講生として参加した、せんだいスクール・オブ・デザインの文化批評誌『S-meme(エスミーム)』での「震災後文学」特集の取り組みについてご紹介します。

「震災後文学」をめぐる特集号

「せんだいスクール・オブ・デザイン」『S-meme』と「震災後文学」とは?

せんだいスクール・オブ・デザイン(SSD)とは、東北大学大学院工学研究科都市・建築学専攻と仙台市が連携し、文部科学省が運用する「社会システム改革と研究開発の一体的推進」のプログラム「地域再生人材創出拠点の形成」の一環として開講されたものです。受講生は地域の社会人と建築デザインの大学院生で、半期ごとにメディア軸、社会軸、環境軸、コミュニケーション軸という四つのスタジオのなかから一つを選び、実践的なプロジェクトを進めながらデザイン教育を行う、という趣旨のもので、2014年の春学期まで開講されます。(詳しくはこちら http://sendaischoolofdesign.jp/

そのなかで、メディア軸は東北大学大学院都市・建築学専攻教授の五十嵐太郎がスタジオマスターとなり、「ウェブの時代に紙メディアに何が可能か?」を問いながら、アバンギャルドな装丁を特徴とした『S-meme』という仙台の文化批評誌を刊行することを目的としています。これまでに6号を数え、震災後は文化被災からはじまり、ショッピング、現代美術、そして演劇/ライブを特集してきました。

『S-meme』7号「仙台:文学と映画の想像力」〜特集:震災後文学

7号となる今回は非常勤講師として、仙台を拠点に出版活動を行う「荒蝦夷」代表の土方正志氏と、編集者・文芸評論家で、この「マガジン航」の編集人でもある仲俣暁生氏をお呼びし、「仙台:文学と映画の想像力」と称して、仙台の文学と映画について特集を行いました。その文学面で大きなテーマとなったのが、「震災後文学」です。

「震災後文学」とは、3.11以後に書かれた、特に東日本大震災の影響を受けたと読める現代小説のことを指します。災害の記憶や倫理性の問題がまだ色濃く残るなかで、被災地にほど近い、仙台という場所から震災後の文学について考えてみるのがこの企画の趣旨です。まずはじめに受講生各自が15の「震災後文学」を取り上げ、書評を執筆しました(「」は各書評の題名)。

・「聞き過ごしてきた警告音」
黒川創『いつか、この世界で起こっていたこと』、新潮社

・「誰かのためでなく自分のための」
古川日出男『馬たちよ、それでも光は無垢で』、新潮社

・「リアルタイムに挿入された震災の傷跡」
佐伯一麦『還れぬ家』、新潮社

・「状況に割かれた物語は現実を夢見るか」
川上弘美『神様2011』、講談社

・「不謹慎を隠れ蓑に戦後の問題を愛と共に叫ぶ」
高橋源一郎『恋する原発』、講談社

・「救われる人々と報われない犬」
三浦明博『五郎丸の生涯』、講談社

・「いま踊っているダンスを踊り続けていく」
伊坂幸太郎『仙台ぐらし』、荒蝦夷

・「想像力を向こう側まではたらかせてみる」
いとうせいこう『想像ラジオ』、河出書房新社

・「震災が表れない震災後文学」
いとうせいこう『存在しない小説』、講談社

・「小さい存在の両義性、大きい存在の普遍性」
瀬名秀明『月と太陽』、講談社

・「日常に起こった小さな変化」
橋本治『初夏の色』、新潮社

・「光る山から私たちに投げかけてくるもの」
玄侑宗久『光の山』、新潮社

・「誰がために光は降る」
熊谷達也『光降る丘』、KADOKAWA

・「繰り返せ、貞山堀の歴史」
佐伯一麦『旅随筆集 麦の冒険』、荒蝦夷

・「分かり得ない気持ち」
絲山秋子『忘れられたワルツ』、新潮社

そして、これらの作品のなかからSSDのメディア軸受講生が審査員となって、震災後文学賞を決めました。文学者でも小説家でもない、たまたま仙台に集まった受講生が、それぞれの震災体験について語るとともに議論を行い、賞を決めること自体に価値があるのでは、と考え行った企画です。

議論の結果、玄侑宗久『光の山』に震災後文学賞を送ることに決定しました。最終的な議論の俎上に挙がった5作品の選評と、その議論の経緯も共に『S-meme』に載せています。

「この作品が持つのは、強力な内側からの視点だ。震災を世界の認識を変えるものとして捉える文学作品が佳作として賞を受ける一方で、もう既に変わってしまった世界に生きる者の肉声が『光の山』だ。東日本大震災はひとつの事象で切り取れるような規模ではなかった意味で、読書体験としてとしての『光の山』は、震災のもたらす様々な面を投げかけてくる。

しかし、表題作「光の山」は、軽い語り口で、放射能が日常化してしまった現実を浄化するお伽話である。他と全く違う文体で、そこまでの話をこの前段として意識してしまうほどの重い印象を残すこの短い物語は、他の人には決して書くことのできない種類のものだ。ブラックジョークのような、ある意味では神憑り的な最後の短編。ここに無常に生きる僧侶としての彼の人生観と、いかに生き抜いていくべきなのかを示唆するところに、この作品が読まれていく意味があるとして、震災文学賞をこの作品に与えた。」(震災後文学賞・選評より)

また、それ以外にも連載中に震災を経験した小説を日記風に追った「連載被災」、「荒蝦夷」代表の土方正志氏によるレクチャー「仙台の文学者とともに」、仙台とオーストラリアのブリスベンという二つの都市を、仙台在住の作家・伊坂幸太郎原作による映画『ゴールデンスランバー』を介して重ね合わせたワークショップ成果「映画の想像力」など、文学と映画をテーマにした様々なコンテンツを収録しています。

表紙は二種類。オモテとウラに本文があり、蛇腹式に折りたためる。

『S-meme』7号は、送料をご負担いただければどなたにも無料で配布しております(冊子の映像はこちら)。応募はこちらのブログ、2月28日のエントリーから。3月31日締め切りです。
http://sendaischoolofdesign.jp/archives/tag/2013autumn_pbl1

在仙編集者による震災トークライブ

『S-meme』7号で特集した「震災後文学」に関連して、「在仙編集者による震災トークライブ」の模様をお伝えします。これは、2月28日から3月2日まで行われた、せんだいメディアテーク/仙台市民図書館による「としょかん・メディアテークフェスティバル―対話の可能性―」の企画のひとつとして、せんだいメディアテーク1階オープンスクエアにて行われました。

在仙編集者とは、上述した荒蝦夷の土方氏と、東北大学出版会の小林直之氏、仙台で『kappo仙台闊歩』などの情報誌を発行するプレスアートの川元茂氏による「仙台オヤジ編集者三人衆」のことです。「東日本大震災を、いま読む」として、彼らの震災体験と震災直後の関連本出版の経緯、そして震災から3年を迎える「仙台」で読みたい震災関連本30冊についての静かな、しかし熱い思いのこもったトークライブとなりました。

今回で15回目を数えるトークライブは、東日本大震災が起こって以降2000~3000冊にのぼる震災関連本の巨大な本の山の整理を、被災地の編集者がやらないと、ということではじめられたそうです。また、なにを読んだらよいかわからないので、震災関連本を選書してくれないか、という声を仙台市内の書店から受け、50冊を選書したことをきっかけに、「仙台の読者」や「東京の読者」それぞれに向けた選書と、トークライブを続けておられます。3人は慣れた調子でしたが、熱のこもった彼らのプレゼンテーションには実際に読んでみたい、と思わせる力があり、私も現に数冊購入してしまいました。

会場となったせんだいメディアテーク。

右手から順に、土方正志氏、川元茂氏、小林直之氏。

震災関連本30冊

トークライブではここに書ききれないほどのたくさんのトピックがありました。何冊かの本に絞って、その選評の内容をお伝えします(以下はその書目リスト。選評からの引用は、お三方の発言をまとめたものです)。

【文学】
1 熊谷達也『調律師』(文藝春秋)
2 佐伯一麦『還れぬ家』(新潮社)
3 玄侑宗久『光の山』(新潮社)
4 和合亮一『廃炉詩篇』(思潮社)
5 いとうせいこう『想像ラジオ』(河出書房新社)
6 池澤夏樹『双頭の船』(新潮社)
7 大江健三郎『晩年様式集 イン・レイト・スタイル』(講談社)
8 津村節子『三陸の海』(講談社)
9 西村寿行『蒼茫の大地、滅ぶ』(荒蝦夷)
10 ミカエル・フェリエ『フクシマ・ノート 忘れない、災禍の物語』(新評論)
11 エイミー・ウォルドマン『サブミッション』(岩波書店)
12 ジェス・ウォルター『ザ・ゼロ』(岩波書店)

【漫画】
13 いがらしみきお『I【アイ】第3集』(小学館)

【ドキュメンタリー】
14 杉山隆男『兵士は起つ 自衛隊史上最大の作戦』(新潮社)
15 朝日新聞特別報道部『プロメテウスの罠5 福島原発事故、渾身の調査報道』(学研パプリッシング)
16 寺島英弥『東日本大震災 希望の種をまく人々』(明石書店)
17 IBC岩手放送『未来へ伝える私の3・11 語り継ぐ震災 声の記録①②』(竹書房)
18 福島民報社編集局『福島と原発 誘致から大震災への五十年』(早稲田大学出版部)
19 丹羽美之・藤田真文編『メディアが震えた テレビ・ラジオと東日本大震災』(東京大学出版会)

【地震・震災論】
20 福嶋亮大『復興文化論 日本的創造の系譜』(青土社)
21 山下祐介『東北発の震災論 周辺から広域システムを考える』(ちくま新書)
22 赤坂憲雄『北のはやり歌』(筑摩選書)
23 濱田武士『漁業と震災』(みすず書房)
24 平山洋介・斎藤浩『住まいを再生する 東北復興の政策・制度論』(岩波書店)
25 金森博雄『巨大地震の科学と防災』(朝日選書)
26 須藤文音(文)・下河原幸恵(絵)『地震のはなしを聞きに行く 父はなぜ死んだのか』(偕成社)

【原発・放射能】
27 本間龍『原発広告』(亜紀書房)
28 ハッピー『福島第一原発収束作業日記 3・11からの700日』(河出書房新社)
29 一ノ瀬正樹『放射能問題に立ち向かう哲学』(筑摩選書)
30 鈴木康弘『原発と活断層「想定外」は許されない』(岩波科学ライブラリー)

【選評より】

・2 佐伯一麦『還れぬ家』
父の介護が小説の中心であるが、連載中に東日本大震災を経験したため、物語が終盤に差し掛かるころに傷跡、断層が見られる。「連載小説を書いていながら書ききれず、それは作家としての敗北」と作者は語ったそうだ。しかし、書き続けた作品がある段階で崩壊し違う作品となってしまうこと、それ自体が被災三県の読者は共感できるのではないか。関連して〈8 津村節子『三陸の海』〉は、『三陸海岸大津波』を書いた夫、吉村昭とともに親しんだ野田村がどのように変わったかを綴ったエッセイであるが、本としての構成、構造も乱れ、作品としては判断は難しい。しかしそうであっても書かざるをえなかった作者自身の心のゆらぎが、その衝撃が文章に表出している。そういった点を被災三県では読むことが可能ではないだろうか。

・5 いとうせいこう『想像ラジオ』
死者の声を想像する、文学だからこそ生まれた作品。これは、彼が震災直後にtwitter上で文字のラジオをしていたこと、そして沿岸部に木に引っかかってしまった遺体、それらのエピソードをつなげて生まれた。2013年の11月、作者の希望で東北学院大学でのトークイベントが開かれたが、作品が生まれた経緯もあり、読める人と読めない人がいることを作者自身も非常にセンシティブになっていることを知った。しかし、関連して、釜石高校の高校教師、照井翠による句集『龍宮』のなかにも、「あえるなら たましいにでも なりたしを」(ライブ中の口述のため不詳)という句がある。それ以外にも、震災以前から「みちのく怪談コンテスト」をおこなう荒蝦夷では、被災地の不思議な話が震災以後、多数寄せられている。やはり会いたい、という気持ちには普遍的なものがあり、そこに答えている文学作品として『想像ラジオ』があるのではないだろうか。生き残ったものとして汲み取れない一線を超えて、亡くなった方たちの思いを聴くことのできる文学作品。

・22 赤坂憲雄『北のはやり歌』
東北を舞台にした歌謡曲を読み解きながら、東北とはどのような場所として歌にうたわれているのかを考える。例えば、吉幾三の『おら東京さ行くだ』は非常に痛快。「東京に出る」と言い、「住む」とは言わない吉幾三は東京をカネを稼ぐ場所としてのみ見ており、決して村を捨てていない”あざとさ”がある。そういった精神は東北にありがち。東北へのエールのようにも取れる。関連して〈佐々木幹郎『瓦礫の下から唄が聴こえる』〉。津波の第一波が止み、家にしがみつき助かった女性が高台をめざしていくが、その途中で瓦礫に下敷きになった人々から「助けてくれ!」という声が。しかし自分の命がどうなるかの状況で助けることはできない。しかし、その途中で、歌が聴こえたという。おじいさんが歌っており、そのときはまだ命があったのか、「八戸小唄」を歌っていた。その瓦礫の下から聴こえた歌が忘れられない、という。歌から震災を読んでみる、というのもおもしろいのではないだろうか。

・26 須藤文音(文)・下河原幸恵(絵)『地震のはなしを聞きに行く』
児童向け。しかし一家に一冊は薦める書籍。漫画と絵と文章で構成。気仙沼で父を亡くされた作者が、その父がなぜ死んだのか、ということを地震、津波防災など、様々な専門家に実際に聞きに行く。東北大学の地震学者、松田先生をはじめとして専門家が、とてもわかりやすく地震のメカニズム、防災を語っている。東京大学の地震学者、纐纈先生が震災直後、「科学を信じて、防災について話をし、ハザードマップをつくり安全な場所を知らせてきたにも関わらず、科学が背景にある避難所が流されてしまった例もあった。科学を信じてくれたそうした方々の命を救うことが出来なかった」と言って泣かれていたことを思い出した。真摯な学者の声を聞き集めて改めて本をつくった、ということでとても価値がある。この本は荒蝦夷が編集を行った書籍で、作者とともに東日本大震災の海底地割れの映像を見ていた際の、「これで私の父は亡くなってしまったのですね」という言葉から。科学的なデータと、父が亡くなったという現実をつなげて見せなければ伝わらない、ということ。科学的なデータは、人の命を救うためにある。

・29 一ノ瀬正樹『放射能問題に立ち向かう哲学』
「放射能問題の不寝番が、哲学の世界からやっと出てきた、勇気を持って書いたものだ」と鷲田清一が書評を書いている。賛否両論がある論考。言葉だけ取り出せば非常にドライだが、「放射能問題とは程度の問題」だという。恐れるべきこととは、そして恐れなくても良いこととは一体何なのか。印象に残る理由は、この論考が非常に苦労して書かれたことがわかること。放射能に対してどうしたらいいのかわからない、という仙台の私たちの気持ちと、作者の気持ちが非常に近いところにあるのではないか、と思われる。読後感は、とても満足感がある。賛否両論に負けず、読んで欲しい。

トークの最初と最後で強調されていたのは、この選書はあくまで「仙台の読者」に向けたものだということでした。福島であれば、もっと原発、放射能関連の書籍が求められるだろうし、東京ではより被災地の現状を伝えるものを多く選書するだろう。イベント日の2週間後には水戸でもトークがあり、茨城という、被災三県からは見えづらいもう一つの被災地ではどういった書籍が求められているのか、これらを比較するとより刺激的になるのでは、という可能性についても話されました。

3年目の3月11日を迎えるに当たり、メディアでは“風化”という言葉も使われ始めていることに触れ、さいごに結びとして震災本を読み続けていくことの重要性を語り、トークライブは終了しました。

「読み続けることが重要ではないだろうか。5年、10年と、震災本が売れていけば書店もおいてくれて、良い本もたくさん出してくれる。その流れを止めないことが、震災の記憶を絶やさないことに繋がるのではないだろうか。震災本を読むだけでいい。震災本を読むことを自分にしか出来ない復興のひとつとして考えてみてはいかがだろうか。」

この投稿の続きを読む »

第3回 継続編(完結)

2014年3月25日
posted by 結城 浩

はじめに

こんにちは。「私と有料メルマガ」という短期集中連載の第三回目です。

もともと、この短期集中連載を書くきっかけとなったのは、有料メルマガに対して、

  • 有料メルマガはWebに比べてクローズドで、読者は広がらない。
  • 有料メルマガの著者は少ない人数のために力を割かなくてはいけない。

という意見を聞くことがあるからです。その意見は私も理解できるのですが、自分が有料メルマガを運営しているときに感じていることとはずいぶんずれがあるように思いました。そこで、自分が「結城メルマガ」を二年間、100回以上継続してきた経験を書こうと思ったのです。

  • 第一回 皮算用編では、私が「結城メルマガ」を始めようとした経緯と、始めたばかりの頃に起きたことについて書きました。
  • 第二回 転換編では、初期の体験から自分が考えたこと、そしてそれを踏まえて行った「結城メルマガ」の方針変更を書きました。特に、書籍の執筆とメルマガ執筆を「オーバーラップ」させることで、読者さんに満足してもらえるような品質を保つという話題を書きました。
  • 第三回 継続編では、現在の私が考えていることを中心に、メルマガ執筆を継続させることの意味、継続させるために工夫していることなどを書きましょう。

読者さんから得る「ほんとうの報酬」

まず、自分に問うてみます。

  • なぜ、私は「結城メルマガ」を継続的に発行しているのでしょうか。

「多くの励ましを読者さんから受け取っているから」という答えが私の心に真っ先に浮かびました。

「結城メルマガ」を発行すると、読者さんからそれに対する感想メールがときどきやってきます。毎日続々やってくるというほど多くはありませんが、無反応ということはあまりありません。

  • 今週の「結城メルマガ」はおもしろかった。
  • なるほどと思いました。
  • 私も同じようなことを考えています。

そんな感想メールをいただくことは、「結城メルマガ」を継続的に執筆する大きなモチベーションの一つです。メールに限らず、Twitterで感想ツイートを見ることもあります。そんなとき、自分の書いたものが一人一人の読者さんに確かに届いているのだと実感します。

感想メールで励まされるのは、本を書いたときも同じです。しかし、本とメルマガでは発行サイクルがまったく異なります。本は書き上げるまでに何ヶ月も掛かり、そして読者さんから感想が届くまでさらに時間が掛かります。メルマガの場合には、書き上げてから配送まで約一日。感想メールをもらうまでに一週間以内という具合に、早いサイクルで回っていきます。ですからメルマガでは、書いた文章の「感触」が手に残っているうちに反応をもらえるのです。

「結城メルマガ」は有料メルマガですから、読者さんから購読料をいただきます。読者さんが支払ったお金からメルマガ発行サイトさんの手数料を引いたものが私に届きます。それは不安定な収入になりがちなフリーランスのライターにとって大きな安定収入です。購読してくださる読者さんには本当に感謝です。

しかし、そのように有料メルマガの購読料から得られる報酬とは別に、読者さんからいただく「励まし」こそ「ほんとうの報酬」なのかもしれないと思うことがあります。なぜなら、そのような励ましは「結城メルマガ」の執筆のみならず、書籍の執筆にも大きな良い影響を与えてくれるからです。

「結城メルマガ」は「新しい試み」をする場

もう一度、自分に問うてみます。

  • なぜ、私は「結城メルマガ」を継続的に発行しているのでしょうか。

それに対して、今度は「新しい試み」をする場がここにあるからという答えが私の心に浮かびました。

私は書籍を書く仕事をしていますが、書籍の上で何かしら「新しい試み」をするのは難しいことがあります。書籍の読者数はメルマガの読者数よりもはるかに多いので、「新しい試み」が大規模になってしまうからです。

2013年に私は『数学ガールの誕生』という講演集を出版しました。この本は、公立はこだて未来大学での講演の書き起こしをもとにしています。実はこの講演集も、書き起こしたものを読み物として整え、「結城メルマガ」で何回かに分けて配送しました。講演の様子をいきなり書籍化するのではなく、いったん「結城メルマガ」向けにまとめることで、読者さんからの感想や意見をもらい、いい感じに仕上げることができました。この講演集も「結城メルマガ」での「新しい試み」が実を結んで誕生したものといえます。

「結城メルマガ」は複数のコーナーがオムニバス的に集まって構成されています。ですから「あまり長くないけど、読者さんに読んでもらいたい」という文章も、一つのコーナーに入れることで読者さんに提供できます。書籍にまとまることのない長さでも大丈夫です。この点は、第二回「転換編」に書いた「メルマガは雑誌に似ている」という話とも合致します。

紙の書籍よりも速いテンポで読者さんに届けることができ、しかも短くてもいいという点を考えると「結城メルマガ」は電子書籍の一種ということもできるでしょう。電子書籍が持っているテンポの速さや長さの自由度は、メルマガも持っているというわけです。

私は「書いてみて学ぶ」ことがよくあります。自分が気付いたこと、自分が考えたことを書く場として「結城メルマガ」は大きな意味を持っています。自分が「新しい試み」をする場を保ちたいというのは「結城メルマガ」を継続するモチベーションの一つでしょう。

言葉にならない魅力を求めて

今度は「なぜ」から「どのように」と問いを変えてみましょう。

  • どのように、私は「結城メルマガ」を継続していきたいのでしょうか。

大方針は決まっています。第二回「転換編」でも書いたように《読者のことを考える》という原則はゆるがないからです。それではその原則をどのように実装すればいいでしょうか。

私が心がけていることの一つは「トーンに気を付ける」です。「結城メルマガ」は毎週火曜日の朝七時に配送されます。必ずしもすべての読者さんがその時間に読むわけではありませんけれど、ともかく配送は朝です。ですから私は「朝にふさわしいメール」になるように心がけています。具体的には、明るい話題、楽しい話題、さわやかな話題になるように心がけるということです。逆にいえば、暗い話題、悲しい話題、気分が重くなるような話題は避けるということでもあります。

また、説明がちょっと難しいのですが、「役に立つことにこだわらない」ようにもしています。「この記事があるから購読している」や「こういう役に立つから購読している」のように読者さんに思ってもらえるのはとてもありがたいことです。でも私は、もう一歩進んで「うまく言えないけれど、このメルマガは何となく好き」と思ってもらえるようにがんばりたいと思っています。「何となく好き」「どことなく楽しい」「なぜか元気が出る」というところを目指したいのですが……まあ、でも、これについては素直に書いていくしかないわけですけれど。

そして「たった一人に向けて書く」ようにしていきたいですね。メルマガというメディアの特性にこだわりすぎるのはよくありませんが、あくまでメールはメールであり、読者さんひとりひとりに向かって届けられるものです。読者さんの多くは「自分あてのメッセージ」をふだん読んでいる場所で「結城メルマガ」を読むことになります。そのことを忘れないようにしたいと思っています。具体的には「結城メルマガ」を書くときにはいつも、「大切なあなたに向けてお手紙を書く」という気持ちになろうとしています。私がいま関心を持っていること、私がいま考えてることを、たった一人の「あなた」に届けるつもりで、ていねいに言葉を紡いでいきたいと思います。

メルマガは閉じたパッケージ

……と、ここまで書いてきて「ブログとメルマガとの違い」について改めて思います。

ブログは「広がっている」メディアです。世界に向けて広がっていて、いつでも誰でもアクセスできる。読者は検索を使ってジャンプしてきて、どのページからも読む可能性がある。そして、多くの場合、ページの周りには広告がひしめいている。

それに対してメルマガは「閉じている」メディアです。たったひとりの「あなた」に向けて届くお手紙です。そしてメルマガの周りには広告はない。そこには独特の親密さがあるように思います。

有料メルマガは読者数が少ない。確かにその通り。有料メルマガはWebに比べてクローズドだ。確かにその通り。でも、少ない人数だからこそ、クローズドだからこそ、親密な気持ちになって書けることもある。有料メルマガという特性が生み出す面白さや楽しさがあり、そこで育まれるテキストというものもあるのではないか……。

と、ここまで書いてきたところで、私はたまたまSF小説”Gene Mapper”の作者、藤井太洋氏の鼎談集をKindleで読みました。藤井氏は「ブログと電子書籍の違い」について次のように語っています。

電子書籍は、基本的にその一冊で完結していて、雑多な情報から遮断されている。「閉じている」ということは、すごく大事なんじゃないかな。

『セルフパブリッシングで「本」を出す』(藤井 太洋, 梅原 涼, 十市 社)

何というシンクロニシティ。

「結城メルマガ」も同じです。メルマガは基本的に一通でまとまっています。読者さんは一冊の本を手にして読むのと同じように、一通のメールを受け取って読みます。書き手が送るメッセージを、読み手は一つの閉じたパッケージとして受け取るのです。

本が多くの可能性を秘めているのと同じように、メルマガもまだまだ多くの可能性を秘めている。《読者のことを考える》という原則を大切にしつつ、私はこれからも「結城メルマガ」を通して、たった一人の「あなた」にお手紙を送り続けたい。

私は、そんなふうに思っています。

(短期集中連載・完結)

※結城浩さんの「結城メルマガ」の購読はこちらからどうぞ。
http://www.hyuki.com/mm/

関連リンク
「結城メルマガ」
『数学文章作法』
『フロー・ライティング』
『再発見の発想法』
『数学ガールの誕生』
『数学ガールの特別授業』