2 図書館にとってパブリックとは?

2014年5月18日
posted by 「マガジン航」編集部

デジタルならではの「生みの苦しみ」

内沼:さきほどのケヴィン・ケリーの「本とは持続して展開される論点やナラティヴである」という定義(※Part 1を参照)は、ウィキペディアで定義されているような「本とは冊子である」というのとは別の話で、最初のほうで話題に出た「本とは生みの苦しみである」という話に似てる気がしますそもそも生むのが苦しくなかったら、論点とかナラティヴが持続しないと思うんですよ。

――ただケヴィン・ケリーの言葉だと、紙の本かどうかという話は抜きになるんですよね。紙だからこそ「生みの苦しみ」があるとしたら……ああ、こっちも紙か電子かは関係ないのか(笑)。

吉本:紙のほうが「生みの苦しみ」がより強制的に……。

内沼:そう、比較的に起こりやすい、というだけの話で(笑)。

河村:それに、紙のほうが手触りや雑誌のレイアウトによって、行間に込められた「苦しみ」が分かりやすいんですよ。デジタルの場合はすべてがバイトの情報になってしまうから、コンテンツの中身ぐらいでしか勝負ができない。でも、それだと素人目には、どう苦しんでいるのかがわからないんです。

高橋:紙の本という「モノ」を作ること自体、けっこう大変ですよね。物質を組み上げる作業は、電子の場合のように自動化してパーッとやるかたちには絶対ならない。だからこそ、誰かの意思やコストがそこにかかってくるわけで。

内沼:吉本さんがいま言った「紙のほうが苦しみが強制的」という話は、たぶんシンプルに締切の話ですよね(笑)。つまり、そこでコンテンツが「固定される」か「固定されない」かの違いでしかない。「固定される」というのはやり直しが利かないということで、やり直しが利かないから、本気を出さなきゃいけない。本気を出さなきゃいけないから苦しい、という話かなぁと思って。

吉本:そういう意味では、電子書籍はまだいろんな点で統合されていないから、紙の本を出すのと同じようなことが起きます。

内沼:そう、電子書籍もまあまあ苦しいんですよ(笑)。ただ、苦しさに違いがある。

――(司会・李明喜)長尾真さんは岡本真さんとの対談(この電子書籍に巻末付録として収録)のなかで、紙の本が粛々と電子化されている現在の電子書籍/電子図書館は「第一ステップ」にすぎないと仰っています。「第二ステップ」では、それらがフラットなネットワーク構造になる。「第三ステップ」ではさらに先に進んで、たとえば河村さんがある視点をもって「第二ステップ」でできたネットワークのなかに立ったとき、ご自身の関心の文脈に特化された部分的なネットワークが浮かび上がってくる。そこまでをシステム側で実現できないか、と仰っていました。

いまはまだ「第一ステップ」なので、電子書籍の「生みの苦しみ」は紙の本に比べると楽ですが、これからはデジタルならではの、新しい「生みの苦しみ」が生まれてくるんじゃないかな、と思うんです。

吉本:その新しい「生みの苦しみ」ってなんでしょうね。人は楽なほうに行きたいですから、なくてもいいなら締め切りがないほうを選ぶ(笑)。生きている限り、苦しみのないほうに行くのは否定できないわけです。実はプログラマーが抱えている問題も、物書きの人と一緒なんですよ。いままで僕が関わってきたファームウェアや製品のプログラムは、いったん出してしまったら回収できない。するなら全部回収しかないわけです。そういう点では本と一緒だったのが、ウェブサービスになった瞬間まったく違ってきた。

河村:そういう意味では、僕らはすでに新しい「生みの苦しみ」を味わってるかもしれません。誰からも強制されてないのに毎日リブライズを開発していて、〆切状態がずっと続いている。紙の本だと、〆切が終わったときに解放される爽快感があるんですが、開発にはそれもない(笑)。

吉本:インターネットによって「生み出す」という行為自体が、本だけじゃなくてソフトウェアやサービスでも、ビジネス自体でも変化してきましたよね。いままでのビジネスは、「箱」を作ってそこに商品を並べて、こういう店舗を作れば売れる……という発想でやってきたけれど、それでは済まなくなってきた。

河村:イベントのあり方も、完全に変わってきました。たとえば、先日、駅前でファッションショーがあったんですよ。100人くらいの女の子が、下北沢の地元のお店の服を着て歩くんですが、その観客は基本的に、みんなファッションショーに出る女の子たちの友だちなんです。いままでは「イベント」だけのパッケージを作っていたけど、いまはもうそこが崩れている。インターネット上だけじゃなく現実のイベントでも、全般的にそういう揺り戻しが来てるんじゃないでしょうか。

左から内沼晋太郎さん、高橋征義さん、河村奨さん、司会の李明喜さん。(下北沢オープンソースカフェにて。写真:二ッ屋 絢子)

「場所」のもつ意味

――いまのイベントの話は、「場所」の話でもありますね。ここまでは紙の本や電子書籍をめぐる話でしたが、だんだん図書館という「場所」のほうに広げていきましょうか。河村さんと内沼さんは、それぞれ自分たちの場所(お店)を構えていらっしゃいます。それに対して吉本さんや高橋さんは、とくに場所を構えておられない。本や電子書籍、電子図書館がもっている意味は、場所性となにか関係があるのか。そのあたりはいかがでしょう?

河村:ここの店には、一定の知識をもった興味対象の限定された人を集めたかったんです。そうでないと、僕らは対話ができないんですよ。長尾さんのテキストの最初のほうに、「思想の形成」というくだりがありますよね。新しい創造のための議論は言葉の世界だけでなく、それを発信する人の全人格が相手に伝わることが大切だ、という。それは会議のような場だけでなく、むしろ普通のコミュニケーションにおいて、もっともよく機能する。だからこそ、その場所に人が集まるんだ、と長尾さんは書いておられる。ここにはすごく賛成なんです。

日々の仕事のなかで、雑談みたいなところから生れてくる新しいものが好きなんですよね。このコワーキングスペースも、そのためにやっている。会議も物事がうまれる一つのきっかけにはなるけれど、そこで会うだけだと、お互いの関係がまだキレイすぎる。もっと「普段着の状態」になったところから、面白いものが出てくるんですよ。

――つまり、ここは一時的なイベントをするための場所というより、「持続性をもった場所」という考えなんですね。

河村:そう、むしろイベントは副次効果というか、サービスなんです。人が集まると、なぜかみんなイベントをやりたがる(笑)。だからイベントもやるけれど、それ自体が目的ではない。むしろ人が集まる循環をつくり出すためのキーとして、イベントをやっているんです。

内沼:B&Bの場合も、それとかなり似てますね。毎日しているイベントは「本」の編集と同じで、誰と誰をどういうふうにしゃべらせたら、面白いコミュニケーションや、新しい「知」みたいなものが生まれてくるかをつねに考えている。僕らが「街の本屋」というときにイメージしているのは、街の中で「知的好奇心の渦」の中心になるような場所なんです。

この話をあえて図書館の話につなげると、長尾さんもお書きになっているとおり、とくに国立国会図書館では「すべての知を集める」ことが理想形とされていますよね? でも、すべての「知」って、いまはどこまでを指すんだろうか。ウェブサイトも収集しているし、さらに電子書籍も集めようとしているけれど、僕はもうそれはきりがないから、やめた方がいいと思ってるんです。なぜかというと、たとえばここでたまたま出会った人同士の話のなかに「知」があったら、理屈の上ではそれも収集しないといけないわけです。

「本」の価値は「書かれたこと」がすべてではなくて、それを読者がどう受け取って頭の中でどう理解し、どう考えたりするかによって違ってくるし、そういうことが生まれてくるのが、本の良さでもある。でも「どう読むか」は人によって違うし、ある人と人が出会って読み方がぶつかったときに、またそこから新しい方向に発展したりする。ここまで含めて全部が「本」だとすると、「知」はいろんなところに渦巻いている。いま話しているこの座談会も、録音しているだけでmp3というファイルになるわけで、突き詰めれば、それも図書館の収集対象になってしまう(笑)。

――高橋さんは電子書籍を販売する立場からみて、場所性についてはどう考えますか? たとえば米光一成さんが、以前「電書フリマ」というかたちで「実際の場所で電書だけを売る」というイベントをなさっていますよね。

高橋:いや~、場所ってコストが高いじゃないですか(笑)。電子書籍の場合、紙の本より儲からないというか、あまり利益をとらないでやっていきましょう、という感じなんですよ。しかもうちの方針としては、紙だと出せないようなものも電子なら出せる、という発想をしている。

なぜ紙で出ないかというと、ようするに売れないから。紙の本だと、2000〜3000部ぐらい刷らないとダメだけど、電子だったら100〜200部売って利益を出して、みたいなモデルが作れるわけです。それをするには、とにかくコストを削らないと……という話になったとき、「リアルなもの」というのはとにかく高い(笑)。場所が嫌いというのではなくて、コスト的に場所をもつのは難しいのかなあ、というところはあります。

河村:それに、あえて「場所」でやることの意味が、電子書籍という文脈の中ではよくわからないですよね。

高橋:そうですね。やってみたらやってみたで、面白そうな感じではあるんですが。

河村:達人出版会の本を何冊か限定でオンデマンド印刷して、下北沢オープンソース・カフェに置かせてもらうことができたら、買ってくれる人はけっこういるはずです。ただ、その本を普通の本屋で売ってもダメだと思うんです(笑)。ここはちょっと特殊な人たちが集まる場所なので、そういう特定のターゲットには響く。ただ、そういう人たちが集まる場所を作るにはコストがかかるわけで、半端な気持ちではできない。

内沼:いまの話はすごく面白い。つまり「家賃は高い」という話と、「印刷代は高い」という話が一緒だっていうことですよね(笑)。「印刷本にするまでもないものが電子書籍になる」という話は、ある場所を維持して、そこで人がでしゃべったことを――「知」として収集する必要があるかどうかわからないものまで――とにかく全部記録しておくかどうか、という話と似ている。記録しておきたくなるけれど、実際は全部を記録しておくことはできない。ましてや記録した瞬間に国立国会図書館の収集対象になるとしたら……。

河村:固定化には、つねにコストがかかるんですよ。そういう意味では、電子書籍はまだコストが低いほうにある。でも、いましゃべっているこの話を全部文字に起こすかどうかは、内容によりますよね(笑)。つまり、その部分にどのくらいコストをかけるかという話が、固定するかどうかの判断にかかってくる。「生みの苦しみ」とは別に、そのコストをどうするかという問題がある。

内沼:そう、だから全部は収集できない。紙に印刷されたものだって、実際は全部は収集できていないわけです。でも、それをわかった上でも理想としては「全部」といわなければならない。それだと図書館の人は辛いんじゃないかな。

図書館はどこまでを集めるべきか

河村:国立国会図書館の場合、「全部を収集する」という理想をかかげて行けるところまで行くのはわかるんです。でも街の図書館にまで、その理想は求められない。蔵書にある程度の網羅性が求められる半面、場所も置ける冊数も限られるという二律背反の状況のなかで、司書さんは選書をしなければならないわけで。

内沼:長尾さんが書かれているような未来として、リアルな現場で起こっている「知」をすべて収録したいという人がいるとしたら、地域におけるその尖兵としての役割を地域の図書館が担うしかない。世田谷区の図書館の人がこことかB&Bとかに来て、そこでやってるイベントや会話を頑張って全部録音して帰る。さらにそれを文字に起こして、とりあえず電子書籍にする……というのはファンタジーですけど、ありうる気はしますね。誰かがしゃべっていたら、「いまちょっといいことを話しておられたので、録音させてください」といって飛び込んでくる(笑)。

吉本:新聞社の地方支社は、まさにそういうことをやってるわけですよね。

内沼:下北沢経済新聞みたいな「みんなの経済新聞ネットワーク」も、いままで新聞記事にならなかったような地域のちょっとした話題、たとえばどこかにこんなお店ができました、みたいなことを新聞記事ふうに書いてニュースにしているわけです。

河村:そうだとすると、図書館自身が「知」を固定化する義務を負うかどうかがポイントかもしれないですね。「みん経」は、いままで固定化されてこなかったものをニュースとして固定化している。それはとても面白いと思うけれど、でもそこを街の図書館がやるべきかというと、私にはとてもそうは思えないんですよね。

――「固定化」というのは、電子であれ紙であれ、なんらかの記録に残すってことですか?

河村:たぶん、いままでは一段階だったはずの「記録に残す」という作業が、いま二段階になっているんですよ。「みん経」が街の中で起きていることを記事にするようなのが最初の固定。次にそれだけだと散逸しちゃうから、たとえば国立国会図書館に一つのアーカイブとして遺しましょうという、二段階目の固定化がある。でも、「みん経」の記事はすでにインターネット上に載ってるわけだから、インターネット自体を「ライブラリー」だと言えばいいんですよね。

内沼:実際、国立国会図書館が世の中にあるすべての「知」を集めるよりも、本をはじめ全部をインターネットに上げてしまって、「インターネットが世界の図書館です」、それで終わりのほうが楽かもしれない(笑)。

――アメリカではインターネット・アーカイブが、ウェブページだけでなく、映像・音声・ソフトウェア・テレビ・紙の本などの収集を本気で始めてますね。国立国会図書館も、どこまでできるかわからないけれど、インターネット資料も収集し始めている。さらに文化庁との間で、映像やゲームといった、いわゆるメディア芸術まで収集の対象を拡げるという話も決まっています。

ところで、カーリルはリアルな図書館に足りない部分のサービスを、ネットワークで図書館をつないで埋めるところから生まれたわけです。また新事業として、カーリルタッチという図書館の「書棚」を支援するサービスを始められていますが、吉本さんは場所と本や情報の関係を、いまはどう考えておられます?

吉本:図書館との仕事をしていると、正直、図書館がもっているのは「場所」しかないんだ、ということがよくわかります。本に対する力なんてもっていないし、「本のデータ」すら、いまは自分の力ではなんともならない。

図書館がいちばん自由にできることは、実はシステムとはあまり関係ないことなんです。たとえば、本棚に本をどう並べるかは、図書館の側で自由にできる。でも、本を置く場所を変えること自体、いまは相当に大変なことになっている。なぜかというと、最初に図書館を建てたときの並べ方で固定化してしまうんですよ。おかしな話だと思うんですが、「背」を見せて並べていた本を「面見せ」にするだけでも一大事なんです。

カーリルタッチという新しいサービスを始めたのは、僕らが現場に行けることが大きかった。図書館のことをもう少し知るには、図書館そのものともっと絡まないと面白くならない。でも正直、その先に何があるかはよくわかっていなかったんです。ただ、カーリルの最初のコンセプトである「ウェブと図書館をつなぐ」のうち、「図書館からウェブにつなぐ」ほうはまだやっていなかった。それを作れたら、図書館の人ともっといろいろなことが一緒にできるんじゃないか、って。

これまで図書館とカーリルは役割分担がはっきりしていて、なかなか何かを一緒にやることがなかった。 最近、図書館の人には「カーリルは図書館に人を送客するサービスです」と説明しています。 立ち位置としては「ぐるなび」と一緒なんですよ(笑)。

河村:このあいだ、カーリルを使って本を探しに行こうと思って感じたことがあるんです。世田谷区でここから最寄りの代田図書館がいま閉まっていて(座談会当時。2014年4月にリニューアルオープン)、いまは電車を使わないと図書館に行けない状態なんです。それでカーリルで検索したら図書館がずらっと出てきて、どこに行くかすごく迷ってしまった。図書館ごとの個性がないから、いままでは距離でしか選んでこなかったんですが、それはなんだかもったいないな、と。

図書館の設置場所は、区内での網羅性を維持するためにすごく苦労して選ばれている。でも同じ区内に十何館も図書館があるのなら、ある程度それぞれが個性的な選書をして、区全体で網羅性が保たれればいいんじゃないか。さらにいえば東京都全体で網羅性が保たれてればいい。カーリルができたおかげで、そういうことが言えるようになった気がするんです。

内沼:さきほどの話とつなげると、それぞれで生まれた「読み」みたいなものが、それぞれの館で記録されていると面白いですよね。長尾さんが仰るように「知」とか「データ」がインターネット上ですべて共有されるとしたら、地域にあるリアルな図書館の財産は、突き詰めればそこにある情報ではなくて、むしろ周りにある環境や周りに住んでいる人だということになる。

これは完全に未来の話になってしまうけれど、たとえば、ある本を読んでこう考えた人がいる。その人はどうやら世田谷区のある図書館の近くに住んでいて、そこで読んだらしい。だったら自分も図書館に行って、その人とちょっと話してみたい、ということで出会った二人が話したことが、またインターネット上で共有される……みたいな。

河村:この下北沢オープンソース・カフェは、実際にそういう場をめざしてるところがありますね。基本的にどんな人でもウェルカムなんですが、プログラムやオープンソースというテーマの本を本棚に置くことで、特定の知識層を固定化してるんです。本棚にはそういう使い方もあるのかな、ということが一つ。それからもう一つ、いまの話を聞いていて思ったのは、図書館には住民からのリクエストというものが反映されますよね。街の図書館には、周辺住民を代表するような知識があるといい。

吉本:まさにそれをいま図書館の人と話していて、カーリルでやりたいことのリストに入っています。図書館の側も、住民が何に興味をもっているのかに注目しはじめてるけれど、正直な話、そういうマーケティング的なことが図書館にいるとよくわからないんです。

河村:これまではその部分で住民に迎合しすぎると、図書館に置かれる本の網羅性が失われてしまって、あまりよくないかたちだったかもしれない。でも逆に、司書の人が網羅性があると信じて選んでくれた本が、いつの間にか偏ったものになっていないとも限らない。そこの部分の担保はとりようがない以上、どこも同じような平均値を求めるのではなくて、それぞれがバラバラに選書して、それがインターネット経由で最終的に網羅性やバランスがとれている、というほうが自然な感じがするんです。

本屋も図書館もない地域

――これまでの話は、東京のような国立国会図書館があり、都立中央図書館もあり、公共図書館もたくさんもあって、立川まんがぱーくもできて、そしてリブライズの方がやっているオープンソース・カフェもあり、B&Bを始めとするユニークな本屋さんもたくさんある……という環境だから成り立つ部分もありましたよね。

けれども地方となると状況は全然違ってきます。いま、離島の本屋さんの本(朴順梨『離島の本屋〜22の島で「本屋」の灯りをともす人々』)が出ていますけれど、ああいう離島では図書館さえまともになくて、本屋さんが図書館の役割をしていることも多々ある。もっと厳しいところだと、本屋さんさえもありません。そういう状況のなかで図書館のこと、あるいはもう少し広く「パブリック」ということを考えてみたいんです。

東京や首都圏に住む人たち、あるいは大阪や京都など一部のエリアでは、これまでの話は納得できることかもしれない。また東北では震災というたいへん不幸なことがあったために、現地の人たちが他の地方から集まってきた人と一緒に動き始めて、新しいコミュニティが生まれているところもある。

でもおそらく、そうした動きが起きていない、また起きていても可視化されない、といったところがたくさんあると思うんです。電子書籍とか電子図書館がもっている可能性は、本来はそういったリアルな本で埋めきれない場所に対しても有効なはずなんですが、皆さんそのあたりはいかがでしょう?

吉本:僕が住んでいる岐阜県の中津川市は、過疎でもないかわり都市でもない。まさに平均的な田舎なんですね。こういうところが世の中で、実はいちばん広大なエリアだったりするんですが、本当にどこに行っても同じ店があって……という感じなんですよ。

僕が生まれたころから、うちのあたりには書店というものがなかった。もちろん図書館もない。じゃあ、どうやって本を手に入れるかといえば、親が年に何度か名古屋に買い物に行くときに、「買ってきて」って頼むんです。でも、親が行く本屋にどの本があるかは、前もってはわからない。親からすれば、コンピューターの本ならなんでもいいように思われて、全然違う本を買ってこられて「これでいいだろ」って言われる(笑)。

つまり、本に対するディスカヴァリーがまったくない状態だったんですよね。そういう、本と出会うためのインデックスが何一つなかった状態からすると、いまは完全にがらっと変わっていて、なんら不自由もストレスもない。そこに関しては圧倒的な変化だと思っています。

僕が紀伊國屋とかジュンク堂のような書店に出会ったのは大学に入ってからで、公共図書館に行くのと体験としては非常に近い、つまり自分が知りたいと思ったことが、そこに行けばなんとなく見つけることができた。でも、本が網羅されている空間はいいよね、書店や図書館はそうあるべきだよね、と言われても、それらと出会う前に、アマゾンが存在する世界に行ってしまった。原体験がないので、いい空間だということはわかるけれど、それがなくなったときに困るかと言われると、率直に言ってよくわからないんです。

内沼:いまの話は、さっきのコストの話とも関係があるし、当然、問題にすべきことだと思います。さらにいえば、これは「本はタダで読めるべきか、それともお金をとるべきか」という話ともつながってくる。仮に図書館ですべての「知」が完全に解放されたとすると、極論すればアマゾンさえも要らなくなる。もちろん長尾さんは、完全にそういう状態になることをめざしているわけではないでしょう。ただ、図書館の歴史のほうが、本屋の歴史よりもはるかに長い。だからこそ、「知識」の公共性とは何かという話になると、どうしても図書館というものにつながっていくわけです。

「本」は紙に印刷して全国にある本屋に撒くという、複製と流通の部分に多大なコストがかかる。だからこそ、本は「商品」として売るわけですよね。でももっと昔は、手元に欲しい本は書き写して所蔵していた。書き写す手間という意味ではコストがかかっているけど、大量生産される「商品」ではなかった時代があるわけです。本が誰でも買えるものになってからの歴史はまだ短いし、いまではまた「売れない商品」になってきている。

だったら、極論すれば、もう本を売るのはやめればいい、という話もありうる。そこで僕から皆さんにお尋ねしたいんですが、「そもそも本からお金をとるほうが間違っている」という考え方についてどう思いますか? つまり、本はいまだにお金を払って買うものなのか否か、という。

高橋:どうなんですかねぇ。電子書籍の場合、ウェブと違うのは読むのにお金がかかるというところですよね。無料ならウェブでもいいという話も、「電子書籍元年」と騒がれた2010年ぐらいから延々とやってきているわけです。

ただ、内沼さんが仰った「昔は本は売りものではなかった」という話と同時に、「昔は誰もが知識にアクセスできるわけではなかった」という面もある。ビジネスや商品になることによって本はパッと広まった。つまり、お金さえ払えば誰もがアクセスできるようになった面もあるわけですよね。さらに、いまではウェブで無料で知識にアクセスできるようになった。いったいどうしましょう、と正直困っているところではありますね(笑)。

吉本:本が売られるようになると、売れる本を書いて流通させれば儲かるから、投機的な意味で出版社がそのための資本を出す、というビジネスの流れが出てきますよね。そこにあらたに電子書籍が登場して、ある意味、その部分を中抜きします、みたいな話になってきた。さらに最近ではクラウドファンディングをつかって、「こういう本を書きたいのでお金を集めたい」という流れも出てきている。あれも書く人に対して「生みの苦しみ」というか、ものすごくプレッシャーになりますよね。

河村:READY FORでお金を集めて図書館を作ろう、という動きもありましたね。ただ、クラウドファンディングというのは、実はお金の問題よりも責任のほうが強い。得たお金で私腹を肥やすわけにはいかないから、自分自身の分は手弁当でやるわけじゃないですか。ようするに、投機的にやるのか先に後押ししてもらうのか、ぐらいの違いでしかない。でもこの差がけっこう本質的なのかもしれないですね。

吉本:本が売れなくなったということに関して言えば、投機的なメリットがなくなってきた、というのが決定的なんでしょうね。

「知」の体系と「物語」

――もともと「本」や「知」は売られるものではなかったけれども、「知」の大衆化とビジネス化は、実は同時に相互関係のもとで進んできた。いまのクラウドファンディングの話もそうですが、電子書籍の話、あるいはそれ以前にインターネット自体が、「知」の大衆化や民主化を生み出した、と総じて言われます。今後に起きる変化は、その大衆化あるいは民主化がさらに広がるという、スケーラビリティだけの話なのか、それとも、より本質的な変化が起きるんでしょうか?

河村:こういう話をするときにいつも疑問に思うのは、学術書や技術書のように、知識の体系全体のどこかに埋め込まれることを想定されて書かれている本と、物語性やエンターテインメントのほうに向かっていく本を、同列に扱っていいのかどうかということなんです。

私自身は技術書しか書いたことはないんですが、そうすると時間給で考えると200円とか300円の仕事をすることになる(笑)。本を出すことの経済的なメリットは自分自身には全然なくて、むしろ身を削るだけなんですが、ここ10年間に関しては、インターネットに出すよりも本として出したほうが拡がるし、読んでもらえるという場面があったんです。

内沼:しかも、知識の体系の中に正しく配置されますよね。

河村:そう、それが最初に私が言った「アンカー」ということです。そのことにメリットを感じてするのが「本を書く」という行為だったと思うんですよね。だから逆に、「物語を書く」というかたちで本に関わってる人たちのマインドが、私にはよくわからないんですよ。

内沼:そこは同じかな、という気もします。「物語」という言葉を抽象的に使いすぎているかもしれないけれど、物語を書く人は、「まだ足りてない物語」を書こうとしているんだと思うんですよね。どこかで書かれた物語ならもう必要ないけれど、プロとして責任をもって書こうとしている人は、社会に足りていない物語を埋めようとしている。自分自身の癒しのために書いている人と、プロの作家の違いはそこだと思います。

――ただ、そういう意味では同人の作家も「足りてないところを埋める」ことへの欲望はすごく強いですよね。

内沼:そういう人もいますよね。「同人」というときにイメージしてるものが、ひょっとしたらお互いにずいぶん違うのかもしれないですが。

吉本:同人作家の場合、社会のなかでの「足りない物語」を埋めるというよりも、自分のなかの欠落を埋めるところが強いのかな。

内沼:僕もそういうイメージで話をしていました。

――たぶんお二人と同じイメージで話をしてると思いますが、同人の場合も、歴史のなかに物語を埋めたいという欲望をもっているように感じます。ある種の「歴史」ではあるけれど、それが複数ありうるところが同人カルチャーの動力だったりする。「複数の歴史を埋めていく」というのは、学術書のような意味で「体系を埋める」のとは違うかもしれませんが。

内沼:ただ、そのときにも自分の「そうあったかもしれない物語」を書きたい、「自分がいちばん気持ちいいものが書きたい」という欲望が強いものが、同人の場合はどうしても多くなってしまうと思います。それが自分だけでなく、誰か他の人の癒しになると思って書くという意識の有無が、プロかそうでないかの線引きかなと思うんです。これは「仕事」か「趣味」かという話でもある。「お金をもらうこと」イコール「仕事」という定義もありうるけど、そうじゃない定義もありうるわけです。ざっくり言うと、社会を向いていれば「仕事」で、自分のほうを向いていれば「趣味」みたいな。

たとえ時給200円でも300円でも、あるいは1円も貰えなくても、この体系を「埋める」ために書く人は、「仕事」をしているとも言えると僕は思っていて、そういう本は図書館が収集すべきものかもしれない。逆に、たとえば最もわかりやすく言うと、自分がいちばん性的に興奮できる絵を描きたい、というようなのが「自分に向かっている」ということで、それと他人のために書くこととの差は、やっぱりあるんじゃないでしょうか。

――両者の間で明確に線が引けるものでしょうか?

内沼:明確には引けないでしょうね。グラデーションはあると思います。

河村:「本」を書くのが自分のためなのか、社会の中に足りてないと思うからやるのか、ということの間には、やっぱり微妙なラインがあるような気がします。こういうコワーキングスペースをやってると、社会との距離感をどのくらいでとればいいのか、ということへの考えがガラッと変わってきたんです。

もし「同人誌」というかたちでやっているとすると、同人作家の人も、少なくとも10〜20人には認められるから活動をしているわけでしょう。こういう場所でも、10〜20人がわらわらと集まってきて、自然発生的にイベントをやったりということが生れる。そしてそれは、たんなるプライベートでもないし、かといってパブリックでもない。集合させていくといつかはパブリックになる、セミパブリックな集まりという感じのものができてくるんです。だから単純に人の数だけで、社会的かどうかという線引きできないな、という感があります。

これを図書館の話に強引につなげていくと、図書館が「社会」と「個人」のどちらの側につけばいいのかが、実はよくわからなくなってきたんです。長尾さんの話のなかでも、図書館という場所は「コモンズ」になるべきだという部分と、「知」を体系的・網羅的にすべて集めなくちゃいけないという部分の両方が出てきて、両者は一致するところがない感じがする。そこに図書館のジレンマが見える気がして、どちらに行くべきのかな、って。

「サードプレイス」と「教会」

――いまの話から、オルデンバーグの「サードプレイス」を思い浮かべました。第一の場所が家、第二の場所は職場 や学校、そして家や職場での役割から離れてくつろげる場所としての第三の場所がサードプレイスです。図書館や公園などの公共の場がサードプレイスとして機能することもあれば、カフェや居酒屋などの飲食店がサードプレイスとなることもあります。例えば、スターバックスコーヒーはサードプレイスをコンセプトとして掲げて店舗展開してきました。

サードプレイスは必ずしも公共の場所ということではありませんが、その中立性は部分的な公共性を持っているともいえます。スターバックスなどのカフェも商業空間でありながら、ある種の公共性を含むサードプレイスとして機能してきました。

河村:ただ、サードプレイスっていう言い方は、従来の働き方の上にのっていると思うんです。いまはもう、それは崩れているんですよ。プレイスは一つしかなくて、プライベートもなくパブリックもないんです。

吉本:うちの事務所も、人が勝手に来て仕事をしていて、「オープンスペース」とは言ってないけれど、空間としてはもうオープンなんですよね。生活空間がかなりパブリックに近づいていて、ここから先は入られちゃ嫌というところはないんです(笑)。

――それにあえて反論をすると、「コミュニティ」と「パブリック」が混同されていることがあって、すごく気になるんです。たとえば先日のマイクロライブラリーサミットで言われていた「オープン」で「パブリック」な空間も、「コミュニティ」の場合がすごく多かったんですね。

河村:そこにもう一回反論をするとすれば、私は「パブリック」は幻想だと思っているんですよ。人の関わる上で、パブリックをどう実現できるかということに対して、図書館は答えが出せないし、僕らも答えを知らないんですね。だから幻想かもしれない「パブリック」に近づく階段としては、いまのところ「コミュニティ」以外の手段がないような気がするんです。

高橋:パブリックは「大きいコミュニティ」みたいなものでしかないと……。

――このマイクロライブラリー・サミットには、河村さんも登壇されていました。吉本さんと私は客席で見ていましたが、これについては、河村さんから説明していただいたほうがわかりやすいかもしれません。

河村:8月24日に大阪の「まちライブラリー@大阪府立大学」で、世界初のマイクロライブラリー・サミットという催しがありました。このカフェの隣にある図書室みたいな小規模な図書館(マイクロライブラリー)を、このときは全国から17個あつめて、朝10時から夕方6時ぐらいまで、30分ずつ話をしてもらいました。

いま僕らが把握しているだけで、全国でそういう場所が300とか400ぐらいある。まだ見つかってないところも含めると無数にありそうな気配がします。その基準は、ざっくりいうと「本が集まる場所」なんですが、たいていは「人も集まる場所」でもある。基本フォーマットは「本」、つまり本とか本棚、図書館なんだけれども、うちみたいなコワーキングスペースもあれば、公共図書館の中に市民が集まる場所を別に作っていて、市民が自由に本を持ち寄っている本棚があったり、聞いてみるとけっこうみんないろいろ違うことやっている。

たとえば長野県の小布施町では、街中のお店の店主が自分の好きな本を店内に並べていて、それらのことも「図書館」と呼んでいる。小布施の町全体が「図書館」で、その中心に町立の図書館(まちとしょテラソ)がある、という構成になっているんですね。ほかにも個人の趣味で少女マンガを集めだしたら全国からどんどん集まってきて、いま5〜6万冊の蔵書がある「少女まんが館」という私設図書館もあって。そんな人たちが集まるサミットでした。

――大阪や京都にも、カフェにライブラリーがあったり、そこでイベントをしているお店がたくさんあって、一つ一つの事例は面白かったんです。このサミットにB&Bやカーリルや達人出版会が出ていても、まったくおかしくない感じでした。

河村:本屋さんでは、放浪書房がきてましたね。

――そう、書店もきていたし、リブライズのように、本に関するシステム的なことをやっているところも出ているのが面白かった。さきほど河村さんが「パブリックは幻想だ」と仰って、でもそれをわかってやっているんだという話を聞いて、すごく納得がいったんです。

というのも、このイベントはまだ一回目なので話が総論的になるのは仕方ないんですが、参加した人たちの全部とは言わないまでも、その多くが「強いコミュニティ」を志向する場であるように感じられた。中にいる人たちは気づかないかもしれないけれど、そういう「強いコミュニティ」は、外から見ている人に対しては、閉鎖性として立ちあがる。コミュニティがあることも、コミュニティの多様性も自然なことなんだけれど、その中でリブライズのやろうとしていることだけが、ちょっと違ったんですね。自分たちの場所も持っているけれど、パブリックが一種の幻想だとわかっているがゆえに、コミュニティ同士をつなぐことで、その限界にチャレンジしようとしているように見えました。

河村:コミュニティは、地の縁があると絶対に閉鎖的になるんですよ。でも、いまのコワーキングスペースや、もうちょっとゆるいかたちでインターネット上で起きているコミュニティは、オーガナイザーのやり方次第なんですが、そういう意味での閉鎖性はあまり強くない。リブライズで自分たち以外の利用例を見られるようにしているのは、コミュニティの中にどっぷり浸かって、自分の平均値のなかで固定化されていくのが、すごく嫌だからなんです。そのなかで流動性をどういうふうに確保するかというときに、「コミュニティ同士をつなぐ」という話になっていった。

ただ、「コミュニティ同士をつなぐ」というのはけっこう抽象的な話であって、実体があるわけではないんですね。本質的にやりたいところは、その中にいるプレイヤーを自由に行き来させることなんですよ。そうやって流動性が高い状態を維持しないと、コミュニティの中が腐ってくるので。

――「実体がない」というのは、多様なものがあって、リブライズはその「間」をやっている、ということだと思うんです。齋藤純一さんが『公共性』という本で、公共圏は人びとの「間」に形成される空間であると書いています。

河村:あと、リブライズは地藏真作さんというプログラマーと二人でやってるんですが、僕らには共通見解があって、その「間」はシステムだ、もう少し具体的にいうとプログラムだと思ってるんです。

――今回のサミット参加者のなかでは、システムを作っているのはリブライズだけでした。

高橋:いまは理想像としてあるのがリブライズぐらいだとしても、「それ以外のシステム」もありうるわけですよね。複数のシステムがあって、それらの「AND集合」か「OR集合」のなかに、公共みたいなものができるのかもしれない。

河村:ただ、それだと「人」からすごく遠く離れている感じがしてしまうんです。「パブリック」を議論するとき、それがいったい何を指しているのか、という疑問がいつもつきまとうんですよ。

高橋:「公共性」というのは、「人」ではないんじゃないですか?

河村:うーん、なんというか、公共性が「程度の問題」だったり、たんに形容詞として使われるだけなら、コミュニティも公共のひとつだという気がするんです。

内沼:「公共性が高い」とか「低い」と言うとしたら、それは「程度の話」ですよね。そもそも、大前提としてなぜパブリックということが必要なんでしたっけ?

――パブリックがなぜ必要か、というのはすごく難しい話ですね(笑)。これまでの話の流れをまとめると、マイクロライブラリー・サミットのような動きのなかで、「僕らはパブリックに対して開いていますよ」と言われることが多くなってきた。たとえば公共図書館というのは、まさにパブリックの場なんだけれども、河村さんが仰ったように、実はそれは幻想でしかなくて、図書館がパブリックを体現しているわけでもない、という話だったと思います。

内沼:幻想なら、幻想でもいいじゃないか、というのがいま聞いていて思ったことなんです。そういう意味では、僕も公共性というのは「程度の話」かなという気がしています。

Part 3 につづく
(編集協力:伊達 文)

1 そもそも本ってなんだろう?

2014年5月18日
posted by 「マガジン航」編集部

昨年秋、「図書館」や「本」にまつわる斬新な仕事をなさっている4人の方々(numabooksの内沼晋太郎さん、達人出版会の高橋征義さん、リブライズの河村奨さん、カーリルの吉本龍司さん)にお集まりいただき、座談会を行いました。

この座談会を開催するきっかけとなったのは、2012年に前国立国会図書館長の長尾真さんが発表した「未来の図書館を作るとは」という文章です。館長在任中に「長尾ヴィジョン」という大胆かつ画期的な「未来の図書館」像を提示した長尾さんが、あらためて幅広い論点から図書館の可能性を論じたこのテキストを若い世代はどう受けとめたか、というところからスタートし、率直かつ真摯な議論が行われました(「マガジン航」編集人が入院中だったため、長尾さんがこの文章を発表した経緯にくわしい李明喜さんに司会をお願いしました)。

この「未来の図書館を作るとは」が達人出版会から電子書籍(無償)として刊行されるのを期に、このときの座談会の内容をウェブで全公開いたします。かなりの長丁場ですので、計三回に分けての掲載になりますが、どうかじっくりお読みください(「マガジン航」編集部)。

左から内沼晋太郎さん、高橋征義さん、河村奨さん、吉本龍司さん(下北沢オープンソースカフェにて。写真:二ッ屋 絢子)

どのようなかたちで本に関わってきたか

――(司会・李明喜)前国立国会図書館長の長尾真さんが2012年にお書きになった「未来の図書館を作るとは」というテキストがあります。これは「LRG(ライブラリー・リソース・ガイド)」という雑誌の創刊号(2012年秋号)に掲載されたのですが、これに「LRG」編集発行人の岡本真さんと長尾さんとの対談を付録として加え、達人出版会から電子書籍として出版されることになっています(2014年6月刊)。

今回の座談会はその刊行にあわせて、本や図書館にかかわるユニークな活動をしている人たちの活動や考えをまとめたら面白いのではないか、というところで生まれた企画です。まず最初に、みなさんがなさっている活動と図書館とのつながりを、それぞれ自己紹介をかねてうかがえればと思います。

まずは今日集まったメンバーのなかで、図書館の世界にいちばん近しいと思われる「カーリル」の吉本さんからお願いできますか。

吉本龍司:カーリルというサービスを、かれこれ4年近くやってます。これを始めるまでは図書館業界にいたわけではなく、やり始めてから図書館のことを知るにつれて、奥が深いなあ、と(笑)。ただ、自分自身が図書館のユーザーかと言われると、公共図書館のサービス自体に現時点では魅力を感じない、というのが正直なところです。逆に現時点で満足していたら、カーリルのサービスはやめてもいい。これが勝手にクラウドで動いていて、維持管理のほか何もしなくてもいいのなら、僕じゃなくてもできる。そういうことを考えると、満足してないからこそ続けられるのかな、と思います。

カーリルを始めて数ヵ月目にできたコンセプトは、「ウェブから図書館へ」でも「図書館からウェブへ」でもいいから、「図書館という場所とウェブをつないでいきたい」ということでした。表層に見える実際のサービスとしては、自分の家や通っている会社や大学のある場所の近くにある、複数の図書館の蔵書をまとめて検索できて便利だな、というものなので、まずは使ってもらうことが重要です。その先にやっていきたいのは、大きな変化の中で、公共図書館と一緒にウェブサービスをやっていくときに、図書館の人たちは次にどうするのか? というところにいちばん興味があります。そのためのステージも、カーリルでやっていきたいと思ってます。

――このさきの話の中で、また補足してもらえればと思います。次はリブライズの河村さん、お願いします。

河村奨:私はリブライズというサービスをやっています。僕らはすべての本棚が「図書館」だと思っているんです。ふつう図書館と言ったとき、公共図書館とか学校の中での図書館を思い浮かべると思うんですけど、僕らはそれこそ10冊でもいいから本の入った棚があれば、それは「図書館」だと言ってます。英語で「Library」という場合、別にそれは図書館というほどじゃなくて図書室でもいいし、もっと小さなスペースだってライブラリーなわけです。

リブライズでやっているのは、その「本棚」に入っている本を目録としてウェブ上に出して、どんな本があるかが、その場に実際に行かなくてもすぐわかるようにすることです。(座談会会場の)隣の部屋の本棚にいま、オープンソース関連を中心に、デザインとか図書館関係の本が700冊ちょっと置いてあるんですが、ここに来なくても、ウェブ系の面白い本があるというので、気になって見に来てくれる人がいたりします(笑)。

ただ、自分たちが「図書館」と名乗りたくてそう言っているわけじゃなくて、ほかにいい言葉がない、という部分もある。本を読みたいユーザーの側からすると、本は買ってもいいし、借りてもいい、その場に行って読むのでもいい。そのあたりは、あまり気にしていない気がします。でも、それらの行為をする場をまとめる、うまい呼び名がないんですね。僕らのサービスの中では「ブックスポット」という言い方をしているんですけど、一般向けにはわかりやすく「図書館」という言葉を使っていて、それがいま全国で300カ所くらいに増えてきています。

本棚のある場所というだけなら、国内でも何十万という単位であるはずなので、最終的にはそこまで、あるいは世界中にも拡げられるなら、いたるところを「図書館」にしたいなあ、ということで活動しています。いちおう合同会社ですけど、実体は「秘密結社」みたいな感じです(笑)。

――わかりました。続きまして達人出版会の高橋さん、お願いします。

高橋征義:達人出版会代表取締役の高橋と申します。このなかでいちばん図書館と関係がなさそうな感じですが……(笑)。もともとプログラマーをやっていたのですが、思い立って電子書籍の出版社を立ち上げました。基本的にはITエンジニア向けの電子書籍なので技術書がほとんど、それに多少は読み物もありますという感じで、自分のところで本を作って販売して、というのを両方やっています。紙でいうところの「出版社」と「書店」を兼ねているというかたちですね。

図書館との関わりでいうと、逆にうちで作っている本は図書館には置いてないんですね。リブライズのように「図書館」的なものを作りたいと思っても、うちはEPUBとPDFがベースで、しかもDRMもかけない方針でやっているので、基本的にいくらでもコピーできてしまうんです。コピーも印刷全部も好きにしてください、そのかわり個人利用ということで徹底してくださいね、というかたちにしているので、仕組み的に図書館にならない。むしろ「自分で買ったものだから、この電子書籍を図書館にしたいです」とか、「これで図書館を始めました」とか言われると、すごい困るんです(笑)。

そもそも電子書籍に携わる者としては、「電子書籍の図書館はどうするんだ問題」に関して、あまりピンとこないというか、こういうふうなかたちにしたらいい、という理想的な未来がぜんぜん見えてこないのが正直なところです。

――このあとの議論のなかで、そのへんのヒントが得られるよう、みなさんに話していただきたいなと思っています。では最後に内沼さん、お願いします。内沼さんはB&Bという本屋さんを経営しておられますが、そのほかにもいろいろなことをなさっているので、それも含めて話していただければと思います。

内沼晋太郎:僕はnumabooksという屋号で、ずっとフリーランスで本に関わる仕事をしています。最初におもな仕事としてはじめたのは、洋服屋さんとか飲食店とか、そういう異業種の本の売り場をプロデュースをすることや、企業の受付とか病院の待合室とか、集合住宅の共有部分といったところに、本の閲覧用の場所をつくることでした。

そういう場所が「ライブラリー」と言われるときもあって、それは「図書館」でもあるのかしれませんが、そういった場所の選書をするのメインの仕事です。その過程で生まれてくる、ほかのいろいろな仕事もやっています。出版社や書店のコンサルティング、電子書籍のプラットフォームのプロモーションやプロデュースなど、頼まれればわりとなんでもやる。そんな感じで、本に関わる仕事をしてきました。

2012年の7月に、博報堂ケトルという会社の代表である嶋浩一郎氏と二人で、下北沢にB&Bというお店を共同で始めました。B&Bというお店は基本的に新刊書店なんですけれども、ざっくり言うと、特徴が三つあります。まず、毎晩トークイベントをやっている。しかも土日は二本やっています。基本的に、著者や雑誌の編集部の方をお呼びして、有料のトークショーを開催しているわけです。

二つ目に、ビールを中心としたドリンクの販売をやっている。B&Bという店名は「ブック&ビア」の略です。昼間から店内で普通にビールを飲みながら本を選べる新刊書店である、という。三つ目としては家具を販売している。本棚、平台に使っているテーブル、お客さんが座る椅子や照明といったお店の什器は、目黒区のKONTRASTというヴィンテージの北欧家具屋さんと提携してやっていて、これらの家具は販売もしています。

なぜこういうことをやっているかというと、そもそも新刊書店は、いまや本だけを売っていては成り立ちにくくなっている。「これからの街の本屋」がB&Bのコンセプトなんですが、「新刊書を売る」というビジネスと相乗効果のある違うビジネス、たとえばイベントを毎日やったり、ドリンクを出したり家具を売ったりして、書籍以外にもある程度の収入源をもつことで、新刊書店をやっていくうえでの健全な経営の状態をつくっているわけです。

というのも、新刊書店は他の小売と違って、ざっくり言うと経営努力がしにくい。飲食店であれば、お客さんが来ません、というときは安い食材を使って価格を下げるとか、逆に出すもののクオリティーを上げて価格を上げるとか、近隣にない業態に転換するとか、経営努力のしようがたくさんある。ところが新刊書店は本の価格も均一だし、売っている商品も同じ。だから売れなくなってきたときに努力できるポイントが明らかに少ないんですよね。

「すごくいい棚を作れば、お客さんが来る」というのは理想論だけど、2倍の時間をかけて棚づくりをしたら2倍売れるかというと、現実そうはいかない。経営努力といっても、人件費をカットして、むしろ棚を作ることからどんどん遠ざかる方向にいってしまう。ニワトリと卵の関係みたいな話なんですけど、「棚を作る」ことに力をいれるには売上が必要で、それはすごく長期的な話であって基本的には難しい。

本が全体的に売れなくなっているなかで、街の小さな新刊書店はよほど立地がいいとか、最初から自分の持ち家であるとか、そういった条件以外では、本だけを売っていては成り立たない。新規参入も僕たちが数年ぶりと言われるくらいですから、ほとんど終わったビジネスだと言っていいんですね。でも僕は、街にはきちんと本がセレクトされた本屋さんがあるべきだと思うし、僕ら自身も「街の本屋さん」が大好きなので、それが成り立つ方法として、他のビジネスと組み合わせて、その分で本屋の部分にコストをかけている。イベントやドリンクで利益を上げた分だけ、本のセレクトに時間もかけられるという、そういうことをやっているわけです。

長尾真さんの「未来の図書館を作るとは」を読んで

――ひととおり話をうかがっただけでも、みなさんのスタンスが違っていて面白いと思います。基本的に、このあとは自由にみなさんで話していただければと思うんですが、もう一つだけ、最初に長尾真さんの「未来の図書館を作るとは」を読んだ感想を伺えますか。

吉本:図書館の世界から見たときのことを、すごく網羅的にまとめてるな、というのが率直な感想ですね。長尾さんは当時、国立国会図書館長でしたから、ものすごく突飛な話でもないし極論でもない。ただ、たぶん僕の分野じゃないところもかなりあるし、一部で関わっているところもあるし、というところですね。

もともと自分自身がプログラマーという立場で図書館に出会ってきたので、「図書館」というよりも、どちらかというと「情報」という背景をもっている。だから長尾さんがここで仰られている「分類」の難しさという話などは、実は最初、あまりしっくりこなかったんです。なぜ図書館がこういうところにこだわるのか、って。読み込んでいくと、ああ、そういうことだったのか、とわかるところもあるんですが。

河村:私もこれを読んで網羅的だな、と感じました。図書館の「中の人」としてはありえないぐらい、広く見ている人だなって。全般としては、すごくバランスを感じるんだけれど、ところどころ「そうだね」と思うところと、どうしてもあまり肯定的になれない部分とがありました。

実は、あまり肯定的になれない部分が、どちらかというと情報工学の部分なんです。ご自身の専門分野であるところが、20年前の幻想を引きずっているような気配をちょっと感じてしまって。たとえば「分類」の部分などは、彼自身、もう機能しないことを認めつつも、その方法論の中で次の回答を探している感じがするのが気になるんです。

そのほかの部分でも、「図書館」という言葉を長尾さん自身、あまり固定的に使っていない。出てくる文脈ごとに、全然意味が違うんですよ。でもそれはすごく面白くて。「図書館」と「書店」もあまり区別をしていないし、後半のほうで、たとえば「書店はもっとカフェのようになるべきだ」とか、まさにB&Bみたいな話が出てくる(笑)。

私もこの「下北沢オープンソースカフェ」というコワーキングスペースをやってるんですけど、これも長尾さんの文脈に何度も出てくることを、「公共図書館ではない場所」でやっている事例かもしれない。彼が公共図書館でやるべきだと言ったり、街の書店でやるべきだと言っているところを、期せずしてここでやってるっていう。

いま、コワーキングスペースは民間の公民館みたいな機能をもちつつある。長尾さんのいうintellectual commonsが、たぶん街の中のコワーキングスペースだったり、B&Bみたいな本屋さんのかたちで生まれてきているんですね。そういった機能が公共図書館の中に生まれるべきなのかどうかは、まだちょっとよくわからないんですが、社会の要請として、いまそういう場所がどんどん生まれてるという気がして、そこの文脈はすごくしっくりきます。大枠としてはそんな感じです。

――わかりました。じゃあ高橋さん。

高橋:言葉をどうやって選ぼうかな、ということを考えていたんですが、どちらかというと不満が残るというか、もの足りないところがありました。というのも長尾館長と言えば、「長尾ヴィジョン」じゃないですか。あの「長尾ヴィジョン」が出たとき、みんながびっくりしたわけです。「えっ、図書館の中でも、国立国会図書館がこれをやるの?」みたいな感じで。しかも古典や著作権保護期間切れだけじゃなく、あらゆる本のデータを売ってもいい、みたいな感じで。「えっ、えっ?」って、みんな驚いたわけじゃないですか。それに比べると、これまでの集大成としてはこういうかたちになるのかなと思いつつも、さきほど内沼さんが仰った「これからの街の本屋」という話ではないですが、「これからの図書館」という意味では、あまり「これから」感がない、というのが正直な感想でした。

――「長尾ヴィジョン」が出たときにくらべて、網羅的にまとめられている今回のテキストでは、その勢いがダウンしてしまったという感じですか。

高橋:トーンダウンというよりは、それと同じ話にとどまっていて、「その先」にあまり行ってないな、という感じですね。もっと100年後とか1000年後の未来みたいな……そこまでいかなくてもいいですけど(笑)。とにかく、人間の図書館と「知」は長期的にどうなるのか、みたいな感じの話を、最後だからちょっと期待したんですが、あまりそういう感じではなく、普通にまとまっていた、という印象です。

内沼:すべて鵜呑みにするのはよくないですけれど、これからの図書館についてはこういう見方もあるよということを、網羅的に一人の人間が考えたことがまとまっているテキストですよね。現場の図書館員の人や書店員の人は、こんなことまで考えが及んでいないと思うので、読んでおくといいよ、というものの一つだと思いました。

ただ、僕は自分自身でも本屋をやっているし、ほかにもいろんなかたちで本の仕事をしてきたわけですが、そういうなかで培ってきた「本」の捉え方と、長尾さんにとっての「本」というものが、そもそもかなり違うんだろうな、と感じた。簡単に言うと、長尾さんにとってはその「中身」、つまりそこに「書かれていること」が「本」なんだと思うんです。大前提として、本はこれから電子化する、デジタルの方がいいよね、という前提がありますよね?

――「デジタルのほうがいいよね」とまでは仰っていませんが、電子化が進むというのは、前提としてありますね。

内沼:そうですよね。かなりの「本」が電子になることを前提に書かれていて、しかもそのときの「本」とは「そこに書かれている中身」のことで、だからこそ検索対象になったり、情報工学的に整理されていたり、図書館だから当たり前ですが、それらは学問や研究のための資料である……というのが大前提としてある。そういった「本」に書かれているさまざまな「中身」を利用して、いろんな人が研究をする、という前提に立って長尾さんはお書きになっている。

でも僕が扱ってきた本は、「中身」であると同時に「物」あるいは「プロダクト」でもある。普通の人にとって、本というのは、「かわいいから欲しい」とか、「面白そうだから欲しい」とか、そういうものでもあるんですよね。その現場に僕はずっと立ち会ってきたので、それとはだいぶ違うなぁということは感じます。

「かわいいから欲しい」とか、「これはいい本だから、ちょっともっておきたい」というときは、たとえば本の装丁とか、物としての存在感みたいなものを前提にしているわけです。それは図書館においても無視できない。研究者だけではなく、一般の人も図書館に行くわけですが、そこでどんな本を、どのように手に取るかということを考えるにあたって、その点は外せません。そういうところを含めてところどころ、「本」の捉え方が限定的なテキストであるとは感じました。

たとえば、このあいだツイッターで、ある図書館員の人が「今日は暑いですね、図書館は涼しいです。だから図書館に行こう」みたいなことをつぶやいてたんですよ(笑)。「涼しいから図書館に行こう」というのは、長尾さんの仰る図書館とは、けっこう違うなぁ、と。

『ブックビジネス2.0』でも橋本大也さんが「図書館=教会」論、つまり図書館は現代の教会だ、と言っていますね。つまり、街でなんとなく行く場所がない人とか暇な人とか、そういう人たちが自由に時間を過ごせる場所が、いまは図書館ぐらいしかない、という話だったと思います。この「図書館は教会である」という前提のもとで言うと、ツイッターで「涼しいからおいで」っていうようなあり方もあるんじゃないか。

そこからすると、長尾さんのテキストは、どうしても本あるいは図書館というものの、特定のあり方に即して書かれている感じがしてしまって、「そうじゃない部分」もあるよなぁ、と思いました。この先でいろいろ話せればいいと思うので、とりあえず、立場としてはそうです。

――司会という立場を離れて、少しだけ言わせてください。私は長尾さんのテキストは、必ずしも網羅的ではないと思ってるんですよ、むしろテーマが限定されたテキストで、読むほうが補完して読む必要があると思いました。つまりこのテキストは、長尾さんの研究者としてのキャリアの中では「総論」だけれども、「図書館」や「本屋」の未来、あるいは「知」の世界の未来についての総論ではなく、読者がその部分は補完して読むことを期待されたテキストと思うんです。

たとえば「図書館」と「研究」との関係も固定的なものではないわけです。『知はいかにして「再発明」されたか――アレクサンドリア図書館からインターネットまで』という、人類史の時代ごとに何が「知」の制度として機能してきたかを綴った本があります。これによると、古代アレキサンドリアの図書館から始まって、中世の修道院、大学、「文字の共和国」、専門分野、実験室……というふうに「知」を支える制度は、時代ごとに変わっていく。ちなみに実験室が機能していたのは1970年くらいまでで、それ以降がこの本では「インターネットへ」とされている。

この「研究室からインターネットへ」へのシフトは、これまでとはスケールが桁違いだと僕は思うんです。「知識」を扱う情報と、知識とは関係のない大衆レベルでの情報は、インターネット以前はあきらかに別のものとされていた。でもインターネット以降、「知識」と「情報」のあいだに差をつけることに意味がなくなってきている。もちろん厳密にいえば「知識」というものは体系化されていなければならないわけですが、長尾さんが研究をなさってきた時期が、まさにその「過渡期」の時代であることに考慮して読む必要があるのではないかな、と思いました。

本とは「生むときに苦しんだもの」のこと

――ところで、みなさんは「本」というものを、ご自身の活動のなかでどのようにとらえていますか? 「電子書籍」もふくめてでけっこうですが。

河村:一定量の知識が集まっているもの、でしょうか。文脈によって自分自身でも使い分けているから、それ以上は、あまり明確な定義はないですね。モノとしての実体がなくてはいけない、ということもないし、ホームページを「これは本なんだ」と言いたい人がいたら、それにも納得感があるし。さすがにツイッターの140文字を、「これは本です」と言われたら、「んん~」っていう感覚はあるけれど(笑)。でも、そこにある程度の蘊蓄などが詰まっていたら、「本」だと言われてもしょうがないかな、って。

リブライズはリアルな本を対象にしているけれど、私自身は電子ブックを発行するウェブサービスも別にやっているので、そのあたりは、両方にこだわりがあるような、両方ともにこだわりがないような……(笑)。

吉本:カーリルの中では、本をどう扱っているかははっきりしています。まず、図書館がそれを「本」として扱っている、という条件がある。たとえば図書館の実態から言えば、「雑誌」と「本」は違う、と言われるわけです。個人的には正直、そこのあたりはあまり理解していないんですが(笑)。自分自身としては、図書館でいう「本」よりは、たぶんもうちょっと広いところでとらえてはいるんだけれど、カーリルというサービスは、どうしてもそこにひきずられてしまう。

――カーリルを抜きにしていうと?

吉本:「本」というのは、生むときに苦しんだもののことなんじゃないかと。

一同:おお~!

吉本:締切とかがあって、書き手が苦しんで生んだものが「本」じゃないか、って。ツイッターでもブログでも、「本にしよう」って言った瞬間、生みの苦しみが出るんですよ(笑)。ちゃんと編集しなきゃいけない、みたいな。だから、たとえブログでも「どうしよう、毎週出さなきゃ」というストレスを感じながら書いていたら、それは「本」みたいな感じもする。それが僕の個人的な感覚ですね。

河村:私も一つ追加していいですか? リブライズをやっているなかで、だんだんはっきりしてきたんですが、「本」だったり「本棚」が、誰かの知識の座標になっていることが多いんですよ。それは文学書でも大衆小説であっても、学術書でもそうなんですが、なにかの話をするとき本や本棚が、そこにポイントをおけるアンカー(錨)みたいなものになってるケースが多いんですよ。たぶん、生みの苦しみを経たものは、そうなる確率が高いと思うんですね。たとえば長尾さんのこの文章も、私はPDFで読んだけれど、これはアンカーだと思うんですよ。

高橋:本にも普通の書店で売っている本と、同人誌みたいなものがあるでしょう。自分のなかでは、両者はだいぶ違うものだという区別があって、同人誌はあんまり「本」とは言わないんです。でも、電子になるとあんまりその区別がなくなるんですよ(笑)。

――ああーなるほど。それはなぜですか?

高橋:なぜなんですかね。その違いがどこからくるか、自分でもあまりわかってないんだけれど、紙の場合だと、同人誌と書店で売ってる本は明確に違う感じがするんです。結果論として、たまたまできているものが違うだけかもしれませんが……。

――達人出版会は電子書籍専門ですよね。いまの話からすると、紙だとそういう差が出てしまうけれど、電子では出ない、というあたりを意識したりしませんか?

高橋:ええ、だからうちで出しているものが「同人誌」なのか「同人誌じゃない書籍」なのか、あんまりよくわからない(笑)。それはどこかで区切れるものではなくて、「同人誌っぽいもの」と「同人誌っぽくないもの」が、「本」の中でなめらかに混ざっているみたいな感じがします。

内沼:社会を変えたいとか、誰かに強い影響を与えたい、という使命感で書かれたものが、たとえば「同人誌じゃないもの」で、いわゆる「同人誌」というのは、そんなに生みの苦しみを経てない、自分が書きたいものを書いたもの、というニュアンスなのですかね。お二人の話を勝手に総合してしまったけど、ひょっとしたら「苦しんでない」感じが「同人誌っぽさ」なのかもしれませんね。もちろん「苦しんでいる同人誌」もあると思いますが(笑)。

吉本:生みの苦しみの原点がなにかというと、「固定化」みたいなとこにあるのかなぁ、と。ようするに、あとで直せるというのは、苦しみに対するかなりの緩和剤になっているのかもしれない。印刷するとなると、うっかり間違ったことを書いたら直せない、そのせいで世の中が変わっちゃう、って(笑)。もうちょっとライトに考えても、ここで間違えると、直すためにはさらにお金が飛んでいく、というプレッシャーもあって。そこが生みの苦しみのもとですよね。

――高橋さんにおうかがいしたいんですが、電子だと「生みの苦しみ」はないですか?

高橋:紙に比べると全然ないですね。紙の本は、編集や出版をする側で関わったことはなくて、書き手としてしか関わっていませんが、書く方のプレッシャーはもう、紙の方がぜんぜん大変です(笑)。

吉本:紙の新聞とウェブニュースの関係に近いのかもしれない……。

内沼:ただ、「本」をどう定義するかというのは、いまはかなり個人の考え方によって違ってきてると思うんです。そのなかでも、「本」とは「生みの苦しみである」という定義は、個人的にはかなりいい線いってる。いままで聞いたなかでも、相当しっくりきたんですよ。

吉本:ほんと?(笑)。

内沼:ただ、それさえも100%の定義かというと、きっとそうではない。たとえば誰かが居酒屋で、なにも苦しむことなく適当にしゃべったことを文字に起こして、喋った本人に「本にしていいですね?」って確認をとって出したような感じでの本が、世の中には存在するでしょう? これは「本じゃない」のかというと、違うという人もいるかもしれないけど、全員が「本じゃない」とは言わないと思うんですよね。生むときにまったく苦しんでないものも、それが印刷されて紙に綴じて本屋に並んでたら、本屋さんが売ったり、図書館が所蔵したりするという意味では「本」なんだと思う。

だから実は、「本とは何ですか」みたいなことを定義することには、そんなに意味がないのかな、と思ってます。いまちょうど、『本の逆襲』(この座談会の後に朝日出版社より刊行)というタイトルの本を書いているんです。たぶん僕も、いま何かを「網羅しよう」と思って書いてるんですね。「本」というものがいまどういう状況にあって、これから本の仕事をする人たちは、どういう仕事をすることになるのかということを書いている。

この本のなかでも、やっぱり本の定義、「本とは何か」という話をするんですよ。でも最後は自分の中でも、定義できません、ということになるんですね。一般的に定義をすることよりも、本に関わりたいと思った人が、自分が思っている「本」はどこからどこまでなのかを、それぞれ自分なりに定義をすればいい。広い射程でそれをもっている人は、誰も本だとは言わないようなものを、「これは本だ」といって面白がってつくればいいい。

ひょっとしたらツイッタ―の140文字を「本」だと言う人がいてもいいし、いまこうやって喋っている時点で、もうこれが「本」なんだよね、みたいなことを言うのもありだと思うんですよ。だっていま、これは音声データがリアルタイムで取られていて、それが.mp3の音声形式になったりする。その音声を誰かが書き起こした.txtのファイルや、それをレイアウトした.pdfのファイルになった瞬間に、「これは本だ」って言う人がかなりいるわけでしょう? でも、その中身が「本」ならば、同じようなファイルとして並ぶわけだから、.mp3の時点で「本」だということにしてもいいじゃないか……というようなことを、その本で書いてるんです。

「本の定義」はわりとどうでもよくて、それぞれ自分が本にまつわる仕事、それはお金をもらわない仕事でもいいと思うんですけど、あるいは「活動」というか、それに関わる人が自分なりに「本ってこういうものだよね」と思って行動すればいいと思っています。カーリルにおいて「本」とはこれだし、リブライズにおいて「本」とはこれで、達人出版会において「本」はこれで、というのがあるように、長尾さんにとっても、「本」はこういうものだ、という話の流れでここまで来たのかな、という気がしています。

河村:いまの話をふまえてもういちど長尾さんのテキストを読み直してみると、長尾さんは映画は「本」だと思ってるんですよ。すべての情報体は本だと思っているわけですから、彼のなかでは「本」の概念が「情報」と、ほぼ一致しているんじゃないのかな、と。

――そうですね。だから定義づけというよりは、どちらの側から考えるか、という問題なんだと思います。長尾さんは、「知識」とか「情報」から本を考えている。それらのアウトプットとして「本」というかたちがあるわけです。でも本を書く人たちからすると、「生みの苦しみ」のほうが先なわけです(笑)。

内沼:そうだと思いますね。「生みの苦しみ」という定義がかなりいいなと思ったのは、ふわっとした定義ではあるけれど、一本の数直線上に「苦しい」と「苦しくない」があって、「この線より苦しんだものが本」って、それぞれが決められるところがいいと思うんです。たとえばウィキペディアで「本とは何か」を調べると、それはすでに「冊子」という形態の話をしてるんですよね。でもそうすると、企業広告のパンフレットみたいなのも「本」だということになるし、実際そう思う人もいるわけです。だけどそこで切っちゃうと、ゼロか1か、これは本だけどこれは本じゃない、みたいな話になる。それが「苦しい」「苦しくない」という線だと、どこでどう切るかは個人のさじ加減になる。だからいいなあって(笑)。

あと『WIRED』の創刊編集長のケヴィン・ケリーが、「『本』は物体のことではない。それは持続して展開される論点やナラティヴだ」と言っていますが、これもまあまあ悪くない定義だと思います。

――そういえばケヴィン・ケリーの著作選集が、達人出版会からフリーで出てますね。この本は技術書ではなくて、一種のマニフェストですよね。長尾さんの本は、「工学者が書いたマニフェスト」だと思うので、同じように達人出版会から出ることが感慨ぶかかったりします。

Part 2 につづく
(編集協力:伊達 文)

「日の丸プラットフォーム」の本質を見誤るな

2014年5月18日
posted by まつもとあつし

5月14日、KADOKAWAとDWANGOが経営統合を発表した。この合同発表会はニコニコ生放送にアーカイブされており、その概要も既報なので割愛するが、日本経済新聞が「サブカルコンテンツをクールジャパンとして海外に発信」と報じたことに大きな違和感を覚えた(5月15日付「グーグルに挑む角川ドワンゴ連合 世界制覇の勝算 」)。クールジャパン推進会議の委員にも名を連ねた角川歴彦氏が、メディアに対して「日の丸プラットフォーム」を目指すと語ったことによる連想だと推測するが、正直ひどい誤解だと思う。

もちろん、そういった挑戦も今後取り組まれることの一端にはあるはずだが、今回の統合を「クールジャパンを発信」というキーワードで括ってしまっては本質を大きく見誤ることになる。

DWANGOとの経営統合の意図を語るKADOKAWAの角川歴彦会長。

この経営統合は、スマートフォンの普及に端を発した出版環境の激変に対する、出版「社」としての最適解だったと捉えるべきだ(社に括弧を付けている点にご留意いただきたい)。コンテンツメーカー(KADOKAWA)と、コンテンツプラットフォーム(DWANGO)が「結婚」を決めるという、世界的に見てもあまり例のない事件を私たちは目の当たりにしたのだ(正式には両社での株主総会決議を経ての経営統合であり、人気ブラウザゲーム「艦これ」の「ケッコンカッコカリ」と言ったところか)。

逆に言えば、このような解答を持ち合わせない他の大手出版社、さらにいえばジャンルを問わずコンテンツメーカーにとって「なぜ彼らにできて、自分たちにはそのような機会がもたらされていないのか? 残された機会は果たしてあるのか?」と、自問すべき出来事だったと言えるだろう。順を追って考えていきたい。

「垂直統合」へ向かう両社

AppleやAmazonのように商品調達から販売流通までを1社で手がける態様を「垂直統合」と呼ぶ。そのメリットは小売や卸といった中間業者を排することによって、価格や配達・伝送のコストやタイムラグを圧縮できる点にある。電子書籍のようなデジタル財の登場と、誰もがインターネットに常時アクセス可能なスマートフォンの普及とによって、そのパフォーマンスはこれまでになく高まっている。

「顧客第一」を標榜するAmazonのような巨大IT企業にとって、流通コストを圧縮し、商品を素早く、安価に届けることができる垂直統合は、消費者も支持する「正義」そのものと言えるだろう。

一方で、これまで出版物の流通や販売を担ってきた取次や書店といった中間事業者にとっては自らの存在意義を問われる事態になっている。コンテンツメーカーである出版社にとっても、製造・在庫リスクを吸収してくれていた彼らにバリューチェーンから退場されてしまっては、これまでのようなコンテンツ(作品)を生み出すための原資が失われてしまう。中長期でみれば、消費者にとっても、多様なコンテンツを享受する環境が失われることになるだろう(そもそもコンテンツが過剰供給であったのではないか、という議論はいったん措く)。

会見で角川氏は川上氏を指して「若い経営者をついに手にした」と述べた。KADOKAWAというコンテンツメーカーが、DWANGOというコンテンツプラットフォームを手に入れるということは、単純に考えれば、コンテンツのデジタル流通網を組み込む=垂直統合を果たす、ということを意味する。

経営統合後の持株会社で会長就任が予定されるDWANGO会長の川上量生氏。

これまでも資本提携を通じて、KADOKAWAコンテンツをDWANGOのニコニコ(動画・静画)で配信するということは行われていた。会見後の質疑応答でも「それでは不十分だったのか? そもそもDWANGOにとって提携にどんなメリットがあるのか?」という質問が続いた。すでにコンテンツプラットフォームとして日本では随一の地位を築いているニコニコにとって、(昨年の9社合併で多様なコンテンツを保持することになったとはいえ)KADOKAWAという一つの出版社と一緒になるということは、他の出版社との関係を考えても微妙な問題を抱えることになりかねないからだ。

常識的に考える経営者であれば、この選択は取り得ない。各社と(少なくとも見た目の上では)フラットに付き合って、取引機会を保持しておこうというのが、Apple、Amazon、Googleのような一般的なプラットフォームが通常採る選択だ。

あえての「結婚」

それでもなお「結婚」を選んだのはなぜか? その背景には二つの面があると筆者は考えている。一つは経済的な側面、そしてもう一つがより重要だが、コンテンツ産業全体の「理想」を求めた結果という面だ。

2010年に黒字化を果たしたニコニコ動画だが、その収入の大部分はプレミアム会員からの利用料で占められている。彼らを満足させるには、魅力的なコンテンツの調達・製作が不可欠だ(後に述べるようにユーザー自らによるコンテンツ生産が活発なのもニコニコの大きな特徴だが、それを誘発するための投資はやはり欠かせない)。そして、プレミアム会員の伸びは鈍化している(注1)。「一般化」を目指してそのユーザー層の拡大を図ってきたが、ニコニコならではの尖ったコンテンツという魅力と、一般化は相容れない部分も大きい。そして尖ったコンテンツは、大手広告主からすれば出稿の際のリスクになる。

(注1)財務情報|IR情報|株式会社ドワンゴ

日経が報じたクールジャパン=海外展開にその伸びしろを求めた時期もあった。アメリカ版・ドイツ版・スペイン版・台湾版のニコニコ動画が用意されたが、一時的な盛り上がりはあったものの、大きな成功を収めたとは言えない。現在は、日本版サイトにアクセスし言語を中文か英語に切替える方向に整理されている。ニコニコ超会議を始めとするライブイベントも認知度向上には寄与しているが、現在のところ赤字事業だ。

会見でKADOKAWAとの統合の意義を問われた川上氏は、「コンテンツが自分たちのものとして扱える点」を挙げていた。つまり、KADOKAWAの著作物を同じグループ内で扱うことで、調達コストを更に圧縮できるというわけだ。純粋に金額という面もあれば、契約・交渉に掛る手間を減らせるという面もあるだろう。実際、昨年の統合以来、KADOKAWAは電子書店BOOK WALKERや、多言語に対応した電子雑誌ComicWalkerの展開を加速させている。そこにニコニコが加わるのは確かに双方に取って経済的なメリットがあるとは言えそうだ。とはいえ、先に述べたように他社との関係を考えると、これは微妙な問題もはらむ。

やはり、それ以上に競合他社も含めたコンテンツ産業全体の理想を求めた結果であった、と見るのが今回の「結婚」を理解するためのポイントだと筆者は考える。

出版「社」が組織として存在する意義

出版に限らず、コンテンツ産業はデジタル化の波にさらされている。水平分業というエコシステムを維持するのが困難なことに加え、クラウド化=定額化が進むとコンテンツの廉売は避けられない。クラウド・定額型サービス同士で価格競争が起こると同時に、調達コンテンツの拡充を図るためだ。全体のパイがそれほど大きくならないところに、わり算の分母が増えては当然の帰結である。

実際、音楽定額配信サービスSpotifyはユーザーに利便性を提供する一方で、権利者の元にもたらされる1曲あたりの利益は減少することが分かっている。だが逆に、アーティストがそこで出版「社」を介さず直販を行えば、利益を増やすことができるはず、という主張もある。国内でもAmazonのKDP(Kindleダイレクト・パプリッシング)で大きな利益を得た作家も現われている。コンテンツのバリューチェーンにおける組織としての出版「社」の存在意義が、待ったなしで問われているのが現状だ。筆者は2011年から電子書籍をめぐり、さまざまな取り組みを追い関係者に話を聞いてきたが、立場の違いはあれども、彼らのなかには常にこの問いが中心にあった。

コンテンツのジャンルを問わず、出版「社」が組織として存在する意義は、多様な商品への投資によるポートフォリオの形成=リスク分散が第一にあり、そこで生まれたヒットを原資として、新たなクリエイターの発掘とその育成を図るというものだ。すでに顧客を抱えているクリエイターであれば、ダイレクト販売によって手元の利益をかさ上げできる可能性はあるが、コンテンツ産業全体を見れば、その利益が新人発掘や育成に再投資される余地は小さくなってしまう。これが行えるのはデジタル化の時代にあっても、組織としての出版「社」を措いてほかにない。

この問いに対する理論上の完全解を、今回の KADOKAWA×DOWANGOの統合は示した、と筆者は考える。両社の動向を見てきた者からすれば、いつかはいずれ、とのイメージはあったものの、株式会社に課せられた株主利益の最大化の追求という一種の制約を超えて、実際にここに至ったのは感慨深いものがある。

「複雑系」な垂直統合

会見中、角川氏はDWANGOの川上氏を指して「複雑系」と評した。今回の経営統合は、まさに「複雑系な垂直統合」と呼ぶべきものだ。これはAppleや Amazon、Googleが構築してきた垂直統合とは大きく異なるものなのだ。彼らが持っていないものとは何か? それはユーザーコミュニティだ。デジタルなバリューチェーンが従来のそれと大きく異なるのは、バリューチェーンの各所においてプロだけでなくコンシューマーが介在でき、そうすることで、コンテンツへの参加意識=共感が生まれ、作品のヒットにつながる可能性が高まる点だ。

クラウドファンディングは資金調達だけでなく、企画段階からこの参加意識をユーザーに喚起させる役目が大きい。ニコニコ動画ではクリエイター奨励プログラムが用意され、資金の分配が行われている。「初音ミク」はニコニコ動画でユーザーによって楽曲が発表され、映像とのミックスによりファン層を多様なものにした。すでに音声合成ソフトウェアという出自を越えて、経済圏を確立させているのは周知のとおりだ。

テレビアニメの配信でも大きな成果を上げている。いわゆる深夜アニメは放送で全国をカバーしているわけではない。ニコニコ動画であれば時間・場所の制約から解放されるだけでなく、コメント投稿によってコンテンツの楽しみ方が多様なものになる。

つまり、ニコニコ動画ではバリューチェーンの各局面において、ユーザーが介在することによって新たな価値が生まれ、それがヒットに繋がっている。それは角川氏が著書(『グーグル、アップルに負けない著作権法』)で「エコシステム2.0」と呼んだ新しい生態系そのものだと言えるだろう。

これまでのような生産→流通までが一本の直線で結ばれるものではなく、ユーザーの介在によって各所で枝分かれし、交わりあい、化学変化が起こっている。個別の事象だけを見ても全体の把握が難しい、まさに複雑系そのものとも言える(ちなみにそれをリアルで体感できる場が「ニコニコ超会議」だ)。

ユーザーコミュニティの重要性

進化するIT環境とそれに応じて変化するユーザーの嗜好にあわせて、エコシステムそのものも適宜変化しなければならない。DWANGOがその変化に必要な技術力を持ち合わせていることも大きい。外注して納品されるシステムでは、このようなエコシステムとしての特性を持ち得ない。

Appleは音楽を核としたユーザーコミュニティ「Ping」の形成に挑戦するも失敗した。Amazonもユーザーレビューの仕組みは持つが、日本での読者コミュニティ形成にはさほど関心が無いようにも見える(米Amazonは昨年、読者コミュニティサイトのGoodreadsを買収した)。GoogleはGoogle+をどう確立させるのか、まだ模索が続いている状況だ。各社とも世界最高レベルの技術力と資本力を持っていることは議論の余地がないが、それだけではユーザーコミュニティによるエコシステムの形成には至らないのだ。

では国内の出版社はどうか? 電子書籍ブームの中、各社は通常の書籍にくわえ、従来の「週刊誌」「月刊誌」というメタファーでそのまま雑誌をデジタル化し、自社著作物をパッケージしたコンテンツの販売に取り組んできた。それはこれまで見てきたような複雑系な垂直統合とはまったく異なり、単に紙を電子に置き換えただけに過ぎない。自社コンテンツを集約しただけではユーザーの「参加」を促すには足りない(ユーザーは他社のコンテンツも参照し、言及し、ミックスしたいのだ)。マンガボックスのような各社相乗りのプラットフォームはその端緒と言えるが、それは果たして今後どんな姿になっていくだろうか?

今回の統合を「クールジャパンの輸出」とあさっての方向に報じた日本経済新聞をはじめとする報道メディアも、同様の課題に直面している。市民記者によるコンテンツ調達という取り組みは、編集リソースの不足(=原価の高い人的リソースを満足させるマネタイズが確立されていなかった)によって一度破綻を見ている。やはりそこで起こっているのもGunosyのようなコンテンツの相乗りプラットフォームへの否応なき移行だ。

記者会見では両社のシナジーによるプラットフォーム形成がうたわれた。

「日の丸プラットフォーム」の本質

デジタル化されたコンテンツは、物理的なパッケージのような「希少性」を持ち得ない。希少性が薄い財の価格は必然的に低くなり、ユーザーとの接点を持つものが価格決定など市場における主導権を握る。できるだけ安く仕入れ、利益を確保して販売するのが商売の基本だ。工業製品のようにデジタルコンテンツを一つの完成品として卸し、販売を委ねるかたちを取る限りは、この縛りから逃れることはできない。クラウド化→定額化→廉価販売→利益の低下という負のスパイラルから抜け出すには、ユーザー参加による付加価値の創出を可能とする「場」作りを自ら行える体制になるほかないのだ。

それは、短期的に見れば出版社、IT企業双方にとって必ずしもメリットばかりではない、というのはこれまで見てきたとおりである。世代は違えども、そのハードルを越えることによる理想像を共有できた二人のビジョナリーの邂逅あってこその、「日本型プラットフォーム」なのだ。

冒頭に挙げた問いを改めて提示したい。

「なぜ彼らにできて、自分たちにはそのような機会がもたらされていないのか? 残された機会は果たしてあるのか?」

今回の統合は、ユニークな企業同士がたまたま結合したものではない。デジタル流通がもたらすインパクトから誰もが逃れられないなか、国内外のプレイヤーがプラットフォームをめぐる戦いを繰り広げている。単にコンテンツの掲載、販売を委ねていたはずが、いつの間にかエコシステムそのものの主導権を握られていた、ということも起こりうる。今回の統合から何を本質として抽出し、自社の戦略と照らし合わせることができるか、コンテンツに係わる当事者たちの感性が問われている。

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NDL所蔵古書をプリントオンデマンドで

2014年5月8日
posted by 持田 泰

2014年4月21日、インプレスR&D社国立国会図書館(以下NDL)のパブリックドメイン古書のオンデマンド印刷版を、Amazon及び三省堂書店で販売開始すると発表しました。これはNDLがインターネットですでに公開している「近代デジタルライブラリー」の350,000冊の書籍データのうち、著作権保護期間を経過してパブリックドメインとなったコンテンツに限り、紙の本として販売するというものです。

『NDL所蔵古書POD』 国立国会図書館のパブリックドメイン古書が Amazon.co.jpで販売開始に -インプレスR&DとAmazon.co.jpの協業で実現-

「NDL所蔵古書POD」第一弾20作品

インプレスグループで電子出版事業を手がける株式会社インプレスR&D(本社:東京都千代田区、代表取締役社長:井芹昌信)は、スキャニングデータ(画像)を印刷・製本可能なページデータに整形する技術により、国立国会図書館(NDL)のパブリックドメイン古書コンテンツをAmazon.co.jp「プリント・オン・デマンドプログラム」を通じたPOD書籍として販売を開始しました。

第一弾として、Amazon.co.jpでは4月21日より20タイトルの販売が開始されます。

国立国会図書館 古書特集ページ:http://www.amazon.co.jp/kosho-pod

同時に、三省堂書店オンデマンドでも販売いたします。

第一弾20作品は、国宝写本『古事記 : 国宝真福寺本. 上』(1945年刊)から、あの漱石本のパロディ『吾輩ハ鼠デアル : 滑稽写生』(1907年刊)、また当時の中央気象台が編纂した貴重なレポート『三陸沖強震及津浪報告. 昭和8年3月3日』(1933年刊)等々、多岐にわたるジャンルの幅広いラインナップとなっています。

実は過去、我が変電社でもNDL「近代デジタルライブラリー」のデータ所蔵作品を紙で復刊させたいと思い立ちながら、道半ばで挫折してしまった経緯もあり、これはぜひ「中の人」にお話をお伺いさせていただかねば!と、さっそくインプレスR&D社に突撃取材を敢行しました。唐突なお願いにも関わらず、インプレスR&D社の代表取締役社長であり、Next Publishing発行人でもある井芹昌信氏、NextPublishingセンター副センター長の福浦一広氏とともに、今回の取り組みに関して、非常に気さくにまた真摯にご回答いただきました(以下敬称略)。

「本」の形だからこそ「読みやすい」

――リリースからまだ三日ですが(取材日は4月24日)、さっそく『古事記 : 国宝真福寺本』はAmazonカスタマー評価で五つ星がついていましたね。「この本を元に調査を行うことができてよかった」なんてレビューも入っていました。

インプレスR&D社 井芹(以下、井芹):ありがとうございます。いろいろとご好評をいただいています。

――実際、NDLの「近代デジタルライブラリー」に無料で読める作品データが大量(書籍350,000作品 ※現時点)にあるにもかかわらず、その「大量にありすぎる」という点と、サービスとしてユーザインターフェースがこなれていないのもあって、まだ多くの人に読まれていないのが現状だと思います。NDL自体が資料保存を目的としてしている以上、リーダビリティの担保されていないのは幾分しょうがないことかなとも思ってはいるのですが、今回それを「紙」にしたことで、確実に届いた読者がいたのだ、ということの証左だと思います。

インプレスR&D社 福浦(以下、福浦):実際に出してみての個人的な感想でもあるのですが、印刷すると「読みやすい」ということがよくわかりました。さらに製本して本の形にすると、もっと「読みやすい」んですね。そういうことが読者の皆さんにも分かってもらえたのではないかと思います。ただ、製本行程はいろいろ試行錯誤の連続で、大変ではありました(笑)。実際そもそものデータが画像で少し斜めに保存されていたりもするので、そういったものをトリミングしたり整えるきめ細かい作業をしています。

井芹:他にもNDLコンテンツを利用させていただくにあたり、気軽に取り扱ったということはなく、たとえパブリックドメインであっても一つ一つ著者や出版元も確認するなど、細かい部分での神経も使っています。世の中的には、あのNDLデータをそのまま商売的に扱うことに、まだアレルギーがありますから。ただ関係者ともいろいろ相談してみたのですが、みなさんおっしゃるのは「とりあえず出してみる」ということが大事だろうと。出す前にいろいろ整備しても難しいということが現実にあるので、今回は「ルール内でやれる範囲で、まず出してみる」ということに焦点を絞ったわけです。

――今回の20作品はすべてパブリックドメインということで、オーファンワークス(権利者不明作品)が一定手続きによって公開許諾された、いわゆる「文化庁長官裁定」コンテンツ(参考:福井弁護士のネット著作権ここがポイント『そろそろ本気で「孤児作品」問題を考えよう』INTERNET Watch 2013/3/12)は一つもないのですよね。

井芹:はい。今回出したものはすべて著作権が確実に切れているものです。プレスリリースが間違っていて、「近代デジタルライブラリー」所蔵の350,000点=パブリックドメインと捉えられるような書き方がしてありましたが、書籍コンテンツ全体が350,000点で、そのうちパブリックドメインのコンテンツは一部です。今回はその中からきっちりセレクトしています。

――今回リリースまでの過程はどのようなものだったのでしょうか?

井芹:実はずいぶん以前よりAmazon社から、NDLのデータは非常に貴重なコンテンツなので、POD(Amazonプリント・オン・デマンド)として出してみたいとの希望がありました。NDLのデータを民間が再利用することに関してルールができあがってない頃からですね。今回は我々が出版社として紙の本を出してAmazonで販売してもらうという、協業の座組でやりましょうかという方向で話が進みました。

『NDL所蔵古書POD』は「コンテナ」である

――今回のいわゆる「版元」は、「インプレスR&D」社ということでいいんですよね?

井芹:そこの部分なんですが、実は建て付け方が難しいところで、たとえばこの「本(『吾輩ハ鼠デアル』)」=「コンテンツ」の本来の発行元がここにあります(下の画像)。

『吾輩ハ鼠デアル』の本来の奥付頁。

この出版社(大學館)が、この「本」を「発行」したところですね。我々インプレスR&D社はたしかに、読みやすいかたちで版面へ落とし込む「張りつけ」や、製本するという「成形」はしましたけども、実際に「本」自体の編集もしていなければ、まして組版もしていない。なので、本来の奥付ページはそのままのかたちで発行主体の経緯説明として残しておいて、我々は「版元」とは違い、あくまで「コンテナ」提供会社であるということを明確にするべく、最終ページに別の奥付として用意しました(下の画像)。

『NDL所蔵古書POD』としての奥付と説明

紙の「コンテナ」を提供しているが、「コンテンツ」=「本」の出版社は別にあるということはちゃんと尊重していきましょう、ということです。

――Amazonの販売サイトを見ると、出版社が「NDL所蔵古書POD」となっていたので、これはもしかしてNDL自体が版元になっているのかな?と思ったりもしたんですけれども。

井芹:それも違います。そこに「インプレスR&D」と明確に書いてしまうと「インプレス R&D」の出版物として内容責任も持ったように誤解される可能性があったので。我々が提供するのはあくまで「コンテナ」であって、その「コンテンツ」はNDL の「古書データ」を再度「紙」へとメディア変換して書籍化している、というサービスです。なので、あえて「NDL所蔵古書POD」というサービスブランドを作りました。これから何万点か出る可能性があるので、我々の「インプレス」ブランドでやってしまうわけにもいかなかったわけです。

――なるほど。今回NDLへの利益配分のようなものは何もないんですね。

井芹:はい、そういうことは一切ありません。彼らは著作権者を代理しているというわけでもなく、パブリックドメインをデータとしてアーカイブしている立場であり、敢えていえばそのアーカイブ自体は日本国の持ちモノです。パブリックドメインである以上、そこには著作権料が発生しませんから、そのぶん価格が低く反映されています。

「誰でもできる」からこそ「価値がある」

――今回のプロジェクトでNDL側からは、どのような協力があったのでしょうか?

井芹:とくにありませんが、正式な再利用許諾はいただいています。NDLにデータの再利用におけるレギュレーションがあるんです。「この作品を当社で印刷して販売します」という旨を所定フォームで送れるようになっていて、そこで許諾を取ったかたちで今回は印刷製本しています(※後段に上記ルール変更に関して追記あり)。

NDL転載依頼フォーム

ですから「誰でもできること」をやっています。特別なルートでNDLから許諾をいただいたということはなく、通常のルートです。当社で独占しようなんて、まったく思っていませんから、皆さんも同じことをぜひやってもらいたい(笑)。

――なるほどそうだったんですね。完全に正攻法で進めたと。

井芹:はい。ただ当社と同じコストで他社も実施できるかというと、難しいとは思います。当社は「NextPublishing」のデジタル処理や、流通の効率化も含めて技術を持っているから、この価格設定ができるわけです。それを使えば今回上手にできるのではないか、ということで手がけたんですね。通常の出版社さんでこういう設計をすると、とんでもない価格になるのではないでしょうか。

――昨年6月に酒井潔『エロエロ草紙』をリバイバルさせた彩流社も、そのNDL通常直接ルートですよね。

井芹:『エロエロ草紙』は人気コンテンツだったと思いますが、今回当社で20タイトルを選書していますけれども、理想を言えば、何が売れるからということでの選書ではなく、「近代デジタルライブラリー」のうちのパブリックドメイン作品をすべて出したいと思っています。

――ではNDLから何が人気コンテンツかを事前情報として聴いたのではなく、インプレス社で独自に選ばれたのですね。

井芹:はい、すべて当社の判断です。Amazon社がもともとやりたいということではあったので、Amazon社からPOD販売ならびに古書の販売に関してのアドバイスはありましたが、NDL側は今回の選書にはまったく関わりはありません。

――僕はてっきりNDLを含めたかたちで、壮大なプロジェクトが進んでいたのかと思っていました。つまり2013年の「文化庁eBooksプロジェクト」の筋に乗っているのかと思っていたんですけど、違ったんですね。あのときは紀伊國屋書店で進めていたので、今回はどういった経緯でAmazonPODに進んだのかな、と疑問でした。

井芹:はい、「文化庁eBooksプロジェクト」とはまったく別の筋です。また先ほども申した通り、NDLの通常のレギュレーションの中でやっています。ですから「誰でもできる」普通のビジネス行為として進めたものになります。逆に言うと、それだからこそ価値があると思っています。

――ええ、そうだと思います。もっともあの実証実験も、効果はありましたよね。『エロエロ草紙』は話題にもなっていたこともあって、けっこうなダウンロード数でした。

井芹:そういった効果測定や、また権利処理のルール作りなどは、文化庁主導でぜひ進めてもらいたいと思います。ただ実証実験があったからといって、すぐビジネスができるようになるかというと、そんなことはないわけですね。実際は、法律的には許されており、またNDLのルールをよく読む限り、正当な手続きを踏みさえすれば、誰でもNDLデータを再利用して世に出せることも分かる。ならば普通にまず、実際に「商品として出す」ということ。誰かがその道筋を示せば、「そうやればいいんだ」と皆に分かってもらえて、後に続いてもらうこともできますから。

――本当にそうですね。いまはまだ、やりたくても踏み出せない企業や団体もけっこういるんじゃないかと思います。かくいう私たち変電社自身、「NDLパブリックドメイン復刊プロジェクト」が宙に浮いたまま止まっています。

井芹:そこは普通の出版社でも、なかなか踏み出せないと思います。我々は少し変わった出版社ではあるので、逆に我々の「使命」だろうと(笑)。ネットメディアも自ら手がけたりしていながら、紙の本の出版社でもありますから、通常の出版社がやっているとおりのこともできる。紙とネットの両方が分かるものとして、こういった際にはリーダーシップを取って行くのが、我々のマターかなと思っています。

電子書籍化はあるのか?

――インプレスR&D社の「NextPublishing」サービスに関しての質問にもなるのですが、このスキームであれば、実はそのまま電子書籍コンテンツとしての展開も可能なわけですよね。

井芹:ええ、デジタルファーストですから可能です。ただデジタルは、「近代デジタルライブラリー」のサイトから読めるわけですね。仮にPDF分冊(※「近代デジタルライブラリー」のサイトでは20頁ごとのPDFがダウンロードできる)を一冊にまとめてパッケージにしたところで、それに商品価値があるのか、という点。もう一つはパブリックドメインであるからには、そのパッケージにもDRMをかけないで出すのが筋であろうと。

ただそこを考えれば、元は我々のコンテンツではないからこそ、その後の責任が持てません。その部分は明確にNDLの「近代デジタルライブラリー」の領分だろうなと考えます。我々はきっちりと読みやすいかたちに製本したことで、たとえば各大学や地方図書館、各自治体等で置いてもらう方がいいだろうと。

――僕自身は変電社活動として、7インチタブレット(nexus7)で直接「近代デジタルライブラリー」からPDFを20ページごとにダウンロードして、アプリでトリミングしながらモバイルで読んでいたりしますが、正直言えば、非常に面倒だったりしますね(笑)。

変電社活動として、橘外男「酒場ルーレット紛擾記」(1936)を読んでいるの図。

井芹:そう、実際そうやって読めるんですよ。ただ大多数の人は、そのようなコンテンツがあることを知らないし、またそれが読めることも知らない。だからまずは認知を上げて行くことが非常に重要です。世の中に価値の提供ができるほんの手前まで来ているのに、知られていないのは「もったいないなあ」と。なので価値が分かる人が集まって、そこの認知を広げる活動ができたらいいなと思いますね。

リリース後の読者の反応は

――差し支えない範囲で答えてもらえればけっこうなのですが、現在どれくらいの注文がありますか?

井芹:初日の注文は分かっているんですが、100冊にはいかない範囲で、数十冊の単位で注文が入りました。各メディアでも取り上げていただいたし、Amazonさんのトップページにも掲載されてネット上でも話題になったので、やはり皆さん興味がおありなんだと思いました。Amazonに商品紹介を書いたのも報われました(笑)。ここはけっこう苦労したんですよね。そんなに専門家でもないなかで、いろいろ調べて商品を紹介したので。

――ああ、そこは手を抜かずにちゃんと書いていましたよね。

井芹:我々も出版社なので、そこの手を抜いたら本当に何も知的作業をしないということになりますから(笑)。本当は、そういうのをCGM的に書いてもらえるようなサービスがあるといいんですけどね。自前でレビューを書くのでも、やはりコストはかかってしまう。ほんのちょっとでも一冊一冊、限界までコストを落とさないといけないですから。原価を下げれば下げるだけ、皆さんに配布する価格を下げられます。

そもそも売上は、一タイトルあたり数部くらいしか見込んでいません。これから続けて出すにあたり、一冊あたり何部さばけるかを考慮して、相当下のほうの部数で設計しています。我々としてはすべてが持ち出しになれば続けていけません。だから低いところをリクープラインとして、ロングテールで「面」として長く売れていければいいなと思っているんですけど。

――今回のPODは、何冊かは在庫していたりしているんでしょうか?

福浦:いえ在庫は0冊です。抱えたくないですから(笑)。全部注文後でプリントしています。

――ああそうなんですね。速いですね。僕が注文したらすぐに届きましたから。

福浦:それはAmazonプライム会員じゃないですか?

――はいプライムです。

福浦:プライムはPODプリントも優先されるようになっています。翌日に届いたんじゃないですか?

――はい、翌日に届きました。速いから何冊かは在庫を置いているのかと思ったんです。

井芹:それをしてしまうと、たとえば2部しか売れなかったものを3部先に作ってしまい、返品率33%みたいなことになってしまいますから(笑)。

――なるほどそういうことですよね。

井芹:だから一冊たりとも無駄にできないわけですよね。

――昔から授業で図書館にある本の部分がコピーされて配布されていたりしたので、こういうかたちで手の入るのであれば、教科書の副読本として教育現場からのニーズは普通にありそうですよね。

井芹:そう思います。認知さえ進めば、皆さん「なんだそうだったのか」ということで利用いただけるかなと。なので速く認知が進んでほしいとは思います。

今後の展開――続けて出すということが重要

井芹:我々としてはやはり、商品を続けて出すということがいちばん大事かなと。考察ばかりしていても前に進まないわけで、「まず出して」から世に問う。やはり今回出したことで、メールによるお問い合わせから、ソーシャルメディア上でもさまざまな声をいただいており、こういったいろいろな意見を聴いて前に進んでいければと思います。

――今後、たとえばファン投票などを実施して、PODリリースの順番を決めるとか、そういったことってどうでしょうか?

井芹:実はいちばんそれをやりたいんですよ(笑)。そういうウェブページを用意して投票を受けて、何部以上になった場合は実際に商品投入する、そういうモデルがぜひ形になればと思っています。そういうことに向いているコンテンツだと思うんですね。

――そうですね。貴重な資料が本当にデータアーカイブの奥に眠っているので、アカデミズムの現場や教育現場等で利用されると面白いと思います。たとえば、長らく紙の本でもなかなか手に入らないようなマイナー作家のコアなファンが、没後何年記念としてPODを出したいなんてニーズは、地方の文学館などでも掘り起こせそうですよね。

井芹:実際、数部のニーズがあれば商品化できます。本当はNDLがやってもいいサービスだと思うんです。実施は彼らにはできない領域なので、そういう付加サービスに関しては、民間または第三セクターに任せたいという意向なんですね。なので、NDLのレギュレーションにちゃんと則ったかたちで、当社とAmazonで連携プレイをして読者に届けるサービスが生まれるのであれば、NDLとしてはウェルカムなんですよ。

福浦:今回はAmazonだけでなく三省堂書店さんにもご協力いただいて、同じようにPODを実施しているので、古書の街・神保町でも簡単に手に入ります。ちょうど三省堂神保町本店でも店頭での印刷製本購買キャンペーンを4月26日から実施していますね。

井芹:今回、記事によってはAmazonのみで開始したように書かれてしまいましたけれども、同じことは三省堂書店でも始めています。三省堂書店はオンデマンド印刷製本用のエスプレッソ・ブックマシンを2台も入れて、いちばん力を入れられている書店さんだと認識しているので、ぜひとお願いして進めてもらっています。

――この試みに、ぜひ変電社としても何かしらのかたちでお手伝いできればと思います。

井芹:そういう連携先を増やしていければと思います。今後出していくにあたって我々の問題は、セレクションをどうするかが非常にキーです。次の100冊を選んで行く場合、どういう基準で選んで、どう紹介していくのかが重要なので、そういった点はいろいろな外部との協力連携が進めていければと思います。

取材を終えて

さて、短い時間の中でも楽しい充実した取材を終えた矢先のことですが、5月1日にNDLが非常に重要なルール変更を発表しました。

2014年5月1日 国立国会図書館ウェブサイトからのコンテンツの転載手続が簡便になりました

5月1日(木)から、国立国会図書館ウェブサイトのコンテンツのうち、著作権保護期間を満了と明示している画像については、転載依頼フォームからのお申込みが不要となりました。

なんと上記取材時ではNDLのレギュレーション上、パブリックドメインのデータであっても手続きを踏まなくてはいけないとされていた「転載依頼フォームからの申請手続き」がここに来て「不要」となりました。これは悦ばしいルール変更です(下の画像)。


サイトポリシー:国立国会図書館ウェブサイトからのコンテンツの転載について

つまり「インターネット公開(保護期間満了)」と表記ある物(上の赤枠箇所)に関しては、引用先として「「国立国会図書館蔵」「国立国会図書館ウェブサイトより」など、当館の画像を使用したことを記載」さえすれば、面倒な許諾申請は実施せずとも再利用していい、ということになります。これは大いなる第一歩です。

昨年の4月に書いた「文化庁eBooksプロジェクト」取材取材記事の締め括りの言葉を思い出しました。

「電子書籍」は現在のようなサービス提供者主導のものだけでなく、「読者=ユーザー」主導の胸躍る好奇心の追求の場、あるいは古書のリパッケージという新たなパブリッシング・モデルの創出など、さまざまな可能性を秘めている。もちろん、そのプロセスにどれだけの艱難が待っているかも、今回の実証実験では明確になったはずだ。

しかし、一定の手順を踏みさえすれば、膨大なデジタル・アーカイブスの宝の山の中から、自分が探し出したコンテンツを復刊することで誰もがデジタル・パブリッシャーになれる――この可能性はとても大きなものだ。

まさしく「新たなパブッリシングモデル」の可能性が花を咲かせようとしている過渡期であることを強く感じます。そしてその現場に直接取材を出来たことは非常に貴重な体験でした。井芹氏の言う「まず出してみて、そこから始める」の精神こそ、いわゆるソフトウェア開発現場における「永遠のベータ」の精神であり、まったくの不定形の未来に対して最善な態度であろうと僕は思う次第です。これからもこの「新しい可能性」の追求を見守っていきたいと思います。

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電子出版権は本当に海賊版対策になるのか?

2014年5月6日
posted by 大原ケイ

日本では先月25日に「電子出版権」なるものが整備されるという著作権法改正案が国会で可決されることになったのだとか。どこのマスコミもこれで、著者に代わって海賊版の差し止め請求ができるとかで出版社が喜んでいるかのように報じている。しかも、どういう道理なのかさっぱりわからないが、これで電子書籍がさらに普及するんだそうだ。

なんか人ごとですみませんねー。

でも、ニュース記事を片っ端から読んでも、納得いく説明が得られない。今まで出版権の取り決めもなしにどうやって電子書籍を出していたのか。差し止め請求したところで、それだけで海賊版がなくなるとでも思っているのか。目と目の間に浮かび出たクエスチョンマークが消え去らない。いちばん突っ込んでそうなのが毎日新聞のこの記事かな。ますます意味不明の書協(日本書籍出版協会)代表者の発言もあるんだけど。

これで誰が得をして、何が裁かれるのか。実際に取り締まらなければならないほど海賊版が出回っていて、金銭的被害を被っている人がいるのか。なぜ、それを法律を変えてまで、今までになかったらしい「電子出版権」というものを作ったのか。教えて誰か賢い人。

海賊版はなくならない?

こういう動きがあると、その流れで「アメリカでは政府や出版社は海賊版に対してどういう風に対処してるんですか?」と聞かれるわけで、去年も文化庁関連の勉強会なるところに招かれて説明したわけだが、こちらの答えは「海賊版のことはあまり気にしてません」「電子出版権どころかありとあらゆる副次権について企画段階で契約書を取り交わしますんで問題なし」で終わった感じ。

2011年にアメリカの議会でも「ネット時代のアメリカの知的財産を守る」というお題目で、SOPA (Stop Online Piracy Act)だの、PIPA (Protect IP Act)だの法案が出されたけど、あっちこっちから非難ゴーゴーでまったく採決に至らず、すぐに永久棚上げとなった。アメリカ人は基本的に政府やお役所にネット上の活動をあれこれ指図されるのは大嫌いだし、オカミがちゃんと管理できるとも思ってないんで、こういう法案は「うるせー、ひっこめ。次の選挙で落とされたいかバーカ」となって終わり。

だって、誰のための法律なのかもわからないんだもん。海賊版を取り締まれば税収が増える、なんて正直に自分のことしか考えてません、ってバレてるような議員もいたしなぁ。海賊版の被害総額なんて捕らぬタヌキの皮算用で、出版社がちゃっちゃとコンテンツを電子書籍にして、安く手軽に提供すれば、わざわざ怪しいサイトからダウンロードしなくてもいいわけで。もともとタダでコンテンツ探し出す人は、それが有料のものしかなかったら結局買わないわけで、いくら法律作ってもイタチごっこになるのは目に見えているし…。

ひとつだけ言えるのは、アメリカでは海賊版だと知って(違法であることを理解して)ダウンロードした末端ユーザーを取り締まろう、という動きはまったくありません。なぜかというと、突き詰めれば、個人の言論の自由を制限することに繋がるわけですからね。違法にアップロードしているほうが、それで儲けているのなら損害賠償を突きつけることもできるだろうけど、タダで上げてるわけだし。

コロンビア大学ではPiracy.labという研究グループを作って、海賊版が世界のどこでどういう風に利用されているかをデータを集めて調べています。でも研究の目的は、どうやって知的財産という「知識」が世界中に広がっていくのかを見定めよう、ということなので、出版社のそろばん勘定とは無縁のところで話が進んでいる感じです。

こっちでは出版社も政府も手間ヒマかけて海賊版の実態をつぶさに調べる気がないので、あまり資料がないんだけど、とりあえず海賊版がどういうものだと理解されているかを紹介してみます。

「カジュアルな」違反者と、「確固たる」違反者

海賊版をアップロードする(つまりは作ってネットに上げる)ほうも、それをタダでダウンロードするほうも、casual infringerとpurposeful (intentional) infringerに分けられるようです。カジュアルな海賊版利用者っていうのは、もともと好きな作家のものや、欲しい本があって、ネットでそれを安く、できればタダでどっかにないかなぁーと探す人たちを指します。海賊版利用によって、作家の印税が減ったり、出版社の被害とかは考えてないわけですね。 それどころか、面白い本をもっとみんなにも読んでほしい、もっと知ってもらって著者を応援したいという気持ちから許可なくSNSなどでコンテンツを紹介してしまう場合もあるわけで、悪気がないのが特徴。

一方でpurposeful infringerというのは確固たる信念の元に海賊版をばらまいたり、利用したりしている人たちのことです。有名なところではMissionary Church of Kopimism(名前はもちろん“copy me”から来ている)。コンテンツをみんなでシェアするのを教義としている宗教みたいなもので、スウェーデンでは実際に宗教団体として認可されているそうな。

それとギーク系のPirate Partyですね。こちらは「ネットコンテンツはすべてタダであるべき」という政治的思想を掲げて、プロテクトのかかってないコンテンツをじゃんじゃかアップロードしている団体。日本でも翻訳版が好評だった元Wired編集長クリス・アンダーソンの「フリーミアム」の考えをラジカルにした感じ。根っこのところでは「政府にプライベートな情報を操作する権利はない」という考えがあって、NSAを告発したエドワード・スノウデンやウィキリークスのジュリアン・アサンジらへんと通じる感じ。自分たちをロビン・フッドみたいなヒーローと考えているところが特徴。

これもスウェーデンで実際に政党として動き出したものがヨーロッパやカナダに広がっています。この海賊党を名乗る輩の中でも、アメリカで困ったちゃん的存在なのが、カナダ支部の中心人物、トラヴィス・マクレーという坊や。彼がやってるTUEBL (The Ultimate E Book Library)ってのがあるんですけど、ここでは著者に自分のコンテンツをアップロードしようと呼びかけてたり、フェイスブックで「いいね!」を募ったりしているんですが、なんかガキっぽくて、もちろん図書館の人たちも「こんなんライブラリー言うな!」って怒ってます。

そのアジア版とも言えるのが、Kim Dotcomというニュージーランドの人が香港ベースのサーバでやっていたMegauploadというサイト。日本のテレビドラマやアニメもよくアップロードされていたようなので、ご存じかも。1年くらい前にFBIと米司法省によって閉鎖されたんだけど、いろいろ国際法も絡んでくるんで、なかなか訴訟にならず、今年に入ってMegaとして復活。

「サイバーロッカー」とP2P方式のシェアサイト

こういう海賊版サービス(とはもちろん表向きには言わない)にもいろいろタイプがあって、メガアップロードみたいに、どっかにサーバがあって、アカウントを作った会員がホストコンピューターにファイルをどんどん上げていくのを「サイバーロッカー」と呼びます。

サイバーロッカーのように、サーバを抑えてしまえば阻止できるのとは別に、P2P (Peer to Peer)ネットワークという方式もあります。共通のソフトウェアでみんなのパソコンを繋いでコンテンツをシェアします。何かをダウンロードするためにはこっちからもアップロードしなければならないシステムになっています。BitTorrentが有名ですね。シェアされれば違法ファイルなんだけど、それぞれのパソコンに入っているものは合法だったりするんで、取り締まりもむずかしそうです。音楽業界も映画業界も手をこまねいている。英語コンテンツの海賊版が多いP2Pサイトで言うと、Pirate Bay、Kickass Torrents、Torrentz.eu、isoHunt、Extra Torrentあたりですね。

普通にウェブサイトから海賊版がダウンロードできるのもあります。bookcountry.comやbookbuddy.com、bookos.orgなど。あ、でもそれも一般書に限って言えばってことですね。大学の教科書や学術書に限って言えば、また別の問題があります。たとえば、大学の先生が受講する生徒に教材を渡す感覚で、サイトからタダでダウンロードできる状態になってしまっているものとか。でもそういう海賊版を利用しているのはやっぱり学生なわけで、それを考えると、医者になろうという志はあるけど、教科書が高いからと海賊版で勉強しているビンボー医学生を罰するんですかい、みたいなジレンマもあるわけですね。

海賊版を利用する3大理由

アメリカ発のコンテンツの中で、海外でどういう本が海賊版の被害に遭っているかというと、土木技術などのエンジニアリングの本や、最新の研究が載っている理系の本。本じゃなくてもデータベースに収録されている論文とか、ジャーナルとか。ダウンロード先はインド、中国、ロシアが圧倒的に多いです。こういう国だと、最先端のデータや情報が載っている英語版は喉から手が出るほど欲しいけど、そもそも正規の本がちゃんと流通していないとか、流通していても為替レートのせいでローカル値段ではメチャクチャ高いし、という事情があるんですね。よく使われているのがPirate Bayです。

カジュアルにアップロードするような人もそうだけど、ダウンロードするほうも理由はシンプルです。「タダだから」「簡単に手に入るから」そして「まだ正式のものが出ていないから」というのが海賊版を利用する3大理由。3番目の理由は、その昔、“自炊”行為が問題視された時と通じる気がします。つまり、電子書籍として今すぐ手に入るならお金を出す気はあるんだけど、ないんだからしょうがないじゃん、ということです。これはどう考えても出版社側の怠慢が問題だったわけで、著者を担ぎ出して自炊を取り締まろうとした騒ぎがありましたよねぇ。

そして最初の二つの理由も、わからないでもない。紙の本と同じで、しかもパスワードだ、暗証番号だ、続きのマンガの1巻買うのにもいちいちクレジットカード番号打ち込めとか、挙げ句の果てに「海外のカードは使えません」なんて出てきた日には、もうゼッタイ買うもんか、という気持ちにさせられたもの。そこをアマゾンが、安く、簡単決済で電子書籍を売ってくれるようになったんだから、黒船さまさまだったと思いません?

いくらタダとはいえ、海賊版にはそれなりのリスクもあります。怪しげなサイトや、中身が確認できないファイルだとウィルスやマルウェアに晒されるとか。その前に、どうやって探すのかを知らないと、たどり着けないってこともあるしね。本というテキストコンテンツならファイルもそんなに大きくないからデジタルロッカーで充分いけるけど、これがビデオやゲームだったりすると、それなりに時間もお金(会員費とか)もデータ量もバカにならないし。

DRMは正規ユーザーに負担をかけるだけ

で、ひとつ言えるのは、海賊版を手に入れようという人にとって、DRMはあまり障害にならないということ。これって、アメリカにおける銃規制問題と同じだな〜、と思います。つまり、規制をいくら強くしても、それだと銃を合法的に持とう、安全に使おう、という人ばっかりが大変で、どう法律を作っても、そもそも銃を使って犯罪を犯そうという気持ちのある人は違法の銃をサクっと手に入れるだけのことなので、銃規制の法律ばっかりつくっても犯罪率が下がらないのと同じ。DRMをガチガチにかければかけるほど、正規のユーザーに負担がかかる。Eブックだと友だちにも貸せないし、キンドルで買ったものはキノッピーじゃ読めないし、一つの棚にまとめられないし。

とくに日本って、一部の悪いことをする人の行いを予防するために、とりあえず人を見たらドロボーと思え的な対応するよね。これは日本の映画館で思ったことなんだけど、あのビデオカメラが頭になったキャラが出てきて(なんか名前あるのかしら?あの人)撮影行為は違反です、それは犯罪です、撮るんじゃねーよテメェってやってるじゃない? その映画館に座っている人は少なくともみんなちゃんとチケット代払ってこれから映画を楽しもうという人たちなのに。しかもアレ見て手にしたビデオカメラを「そうだよね、いけないよね」なんて言って素直にしまう人がいるとも思えないしさ。

ちゃんとお金を出してEブックを買ってみたら、最初のページが「海賊版をダウンロードするのは違法です。懲役ン年、罰金ん万円の犯罪です。タダ読みするんじゃねーよ」みたいな感じだったら、その法律がEブックを普及させるのに貢献すると思います?

アメリカにおける海賊版対策の現状

じゃあ、アメリカの出版社は海賊版に対し、何もやっていないのかというと、そうでもなく、とりあえずここ数年で思い出せる限りの動きを紹介しますね。

たとえば、ワイリー(John Wiley and Sons)という中堅出版社。ビジネス書や実用書のノンフィクションが多い版元です。この出版社のコンテンツに「〜for Dummies」という入門書シリーズがあって、黄色と黒の表紙でお馴染みなんですが、海賊版の被害が多いタイトルがあって。Photoshop CS5for DummiesはP2Pネットワークを通して7万4000回もダウンロードされていたことがわかったぐらい。

というのも、「〜for Dummies」って、気軽に付け焼き刃的になにかちょっと知識を得たいことがあると、すごく便利なシリーズなんです。「おバカさんのための〜」の「〜」はワイン豆知識から、ハーブガーデンの作り方まで、なんでもカバーしてて幅広い。なんでこのシリーズが海賊版利用が多いのか、想像するに、なにかちょこっと簡単に知識を得たいと考える人は、そもそも本腰を入れてそれを学ぼうという気持ちはないので、できればお金もかけたくない、ってなところでしょうか。

でも企業側には、どのユーザーが悪いことしているのかを突き止めるのも一苦労。ハンドルネームだと裁判って起こせないんで。15件も弁護士を通した訴訟手続きを踏んでようやく200名あまりのIPアドレスを突き止め、最終的には主にBitTorrentを使ってファイルをシェアしていた27人を相手に損害賠償請求を行った。でも被害額も個人名も暫定的なので、お一人様7000ドルというショボい賠償請求になってしまった。そのうち、5000ドルが著作権侵害で、2000ドルがロゴやブランド名を使った商標登録侵害の分。BitTorrentは他にも映画やゲームをシェアしている人たちがたくさん訴えられているけど、映画だとその賠償請求がミリオン超えたりするから、本の訴訟なんてやっても弁護士の日当にもならないよ、という感じ。

これが2年ちょっと前の話。訴訟という方法で海賊版の対処をしたのは後にも先にもこのワイリーぐらいかな。でもこのワイリー、今週この〜for Dummiesシリーズを「スクリブド(Scribd)」というEブックサイトの定額読み放題プランに入れてきたのです。このサイト、キンドルやコボがガジェット出す前から、本という形じゃなくても書類はなんでも検索して、有料・無料もごちゃまぜでどなた様も寄ってらっしゃい、見てらっしゃい、という実にカオスなサイトだった。もちろん最初は海賊版もたくさんあってけど、legit、つまり法的にもちゃんとしたサービスにしようと、いろいろ工夫して出版社も参加するようになった、というのはマンガやアニメにおける「クランチーロール」と似ていますね。

個人的には、裁判記録みたいな公的文書も、ササッとアップロードされて検索できるので便利だし、出版社も早くからEブックをここで正式に売って利用しているところもあった。まさに何が出てくるかわからないカオス的な楽しみがあるので、月額8.99ドルで読みホーダイってのは楽しそう。ワイリーも、1冊20ドルも出したくないと言うのなら、海賊版に手を出さないで、ここでお試しして、ついでに他のも読んで、っていう方針にしたんだと思う。

ウォーターマークによる管理

それより個人を取り締まるって面で、恐ろしいことを考えているのがオランダ政府。ここのBREINという海賊版対策庁がEブックに特定のEブックを買った人を特定できるウォーターマーク(電子透かし)として仕込んで、犯罪行為が行われていた場合、その個人を突き止めて責任を負わせよう、という計画。これにはオランダの出版社もEブック業者も大反対。個人情報を政府に渡したくない、というNSAのアレと同じパターン(背景を補足すると、オランダ人って英語の読み書きもできるから、オランダ語やフラマン語に翻訳されるのを待ってられなくて、英語版の海賊版に手を出しちゃう人が多いってのはある)。

オランダだけじゃなく、ドイツではLibrary.neとiFile.itというサイトに対し差し止め命令が下った。このサイトは水面下で繋がっていたらしく、サーバーを他の国において、アメリカの出版社の本を40万タイトル近くPDFファイルにしてアップロードしていたとされる。Börsenverein des Deutschen Buchhandelsという出版協会がアメリカの出版社の協力を得て法的措置に至ったもの。これもホストサーバはウクライナにあるけど、ドメインがどっかの島国だったりと、国をまたぐと取り締まるのは難しいという例でしょうね。

ドイツのFraunhofer InstituteではSiDiMというウォーターマークを使ってコンテンツをビミョーに1冊ずつ変え、違法にシェアされた場合どのEブックがオリジナルだったかがわかるようにするという技術を開発したそうな。音楽業界でも同じような試みがあったかと思いますが、著者や読者としては勝手にコンテンツを操作されるのもイヤかと。

その一方で、同じくドイツで一般書の他に医学や科学のジャーナル、学術書などをだしているシュプリンガー社は「海賊版の被害ってそんなにないんで、安心してね。それでも著者のリクエストがあれば差し止め要求を送りつけるぐらいならやるから」という方針を発表しました。

DRMじゃない方法で、つまり最初にウォーターマークで個人ユーザーをコントロールしようとしたのは、やっぱり「ハリポタ」のEブックサイト、Pottermoreじゃないかな。どんなデバイスでも読めるってんで好評だったけど、いろいろ細かい規則があって、ダウンロードは一人につき何回までとか、18歳以下の人にはタダであげてもいいけど、大人にはダメ、とか、違反しているのがわかった場合はサイトアクセス禁止などの対応をしますよ、って感じだったけど、今のところ実際にこれで法的措置をとられたユーザーはいないみたいですね。

DRMから離れる出版社も登場

出版社のDRM離れという例としては、1年ぐらい前にSFのTorや、スリラーなどのForgeという、マクミラン社傘下のインプリントが、うちの本はこれからはDRMなしで行くぜ、とやって業界の注目を集めていました。これらは読者がとにかく多読でガンガン読んでくれるので、Eブックをシェアするのはむしろ歓迎、というジャンルだからでしょうね。

しかも親会社のマクミランといえば、アマゾンにケンカを売るのが趣味なんですか?ってな業界の暴れん坊将軍、ジョン・サージェントが発行人を務める版元ですからね〜。DRMガチガチ大好きのアマゾンにアッカンベーしているジョンの顔が浮かんでくるようです。実際のところ、私も個人的に他の出版社も対アマゾン策として一斉にDRM外しすればいいんじゃないかと思っているんで。

これが発表されたのが2012年4月のことだったんで、Tor/ForgeがDRMを外してそろそろ1年経過。今のところ、海賊版利用が増えたとか、そのせいで売上げが落ちたといった影響は出ていないそうです。

同じDRMフリーを謳うオライリー・メディアなんて、海賊版が出回ることが宣伝になって、売上げが上がるとまで言ってるし。『アルケミスト』で日本でも人気のあるパウロ・コエーリョも、英語訳の海賊版のおかげでいろいろな国で出版することができるようになったと言って、自分のサイトではどんどん広めて〜と奨励しています。

出版社も大々的に「海賊版はけしから〜ん!」とは言いたくないわけです。被害が大きいと言えば言うほど、普通のEブックユーザーに「へぇ〜、タダでも読めるんだ」ということがバレますし、違法だと騒いでも効率よく訴訟で解決もできない(だから日本から「すみません、えへ、海賊版対策のこと教えて下さい」って言っても断られると思いますし、私もその辺はあまりコーディネイトしたくありませんので)。

訴訟以外の海賊版対策

ではどうやっているかというと、訴訟以外の対策がいくつかあります。それにはもちろん、最初に海賊版がどこにあるのかを突き止めなければならない。Digimarc Guardianという会社がやっているAttributorというサービスがありますが、海賊版を探すには出版社側がその本のメタデータを提供できることが必須ですね。それが判明したところでサイトのホストにtakedown noticeという「それ、違法だからやめてね」という通達をします。知らずにやっている場合はたいていこれで収まります。

他には、検索しても出てこないように、検索サイトに協力してもらうやり方があります。海賊版を探している人は80%ぐらいはまずfree ebook downloadなどのキーワードでグーグル検索をしてたどり着くので、検索しても違法サイトが出てこなくなれば存在しないも同じようなものです。グーグルの社訓はDon’t be evilなんで、いちおうグーグルも海賊版はいけないと考えていることがわかります。日本の出版社が百度(バイドゥ)を説得できれば問題はあらかた解決しそうな気がしますが、そもそも著作権とか、知的財産というコンセプトさえなさそうな国相手ではムリですかね。

通達しても聞いてくれない場合、そのホストサイトに閉鎖してもらうとか、ペイパルなど、そこが使っている課金システムや広告プロバイダーに働きかけるとかします。訴訟を起こすのはようやくその後ですね。

というわけで、デジタル時代には海賊版なんてのはある程度は避けられない副産物、というのがコンセンサスのような気がします。その社会で、あるいは世界的に知的財産をどう共有していくのか、という根本的な思想姿勢が問われるデッカイ問題なわけですね。

再び、Eブックは「モノ」ではなく「サービス」である

なのに日本の電子出版権の騒ぎからは、本屋さんの万引きをなくそうってことの電子版、ぐらいのちまちました香りしか漂ってこない。なんでこうなるのかな、って考えたんですけど、やっぱり日本人は本を「モノ」として捉えているということがウラにあると思うんですよ。いわゆる電子書籍元年に出た拙著『ルポ 電子書籍大国アメリカ』でも、Eブックっていうのは「サービス」なので、いつまでもガジェットで考えているとダメですよ、発想の根本的転換が必要ですよ、ってのは言ってきたつもりだったんですが、こうやって電子出版権のルール、ってのを作っちゃえば問題解決!と思っているらしいところが、私のこの眉間の「?」の正体だったのかな、 と。

言いかえれば日本の出版社ってのは、これまではろくに契約書も作らないまま、著者から「出版権」だけをちょこっと借りて「本」という「モノ」を作り、それが盗まれないように見張っていれば済んだわけだけれど、電子書籍の登場によって、本来publishとは何をすることなのか、考え直さなければいけなかったんだと思う。

電子出版権も、隣接権もぶっちゃけあまり問題じゃない。著者からコンテンツという知的財産を譲渡してもらうのか、委託してもらうのか、そしてそのコンテンツをどういう風に流通させて読者に届けるのか、つまりどう「出版するのか」をちゃんと明文化して契約書を作ることを怠ってきた。電子出版権ってものがありますよ、なんて基本的なことから決めないと取り締まれない海賊版っていうのはそのツケなんだと思う。そしてこのまま「電子出版権はとりあえず出版社にあるからね」ってウヤムヤにするのなら、著者はどんどんセルフ・パブリシングに流れていくだけなんじゃないかな。

そして本を「出版する」にあたっては著者にどんな権利があるのか、契約書には何が決められてなければならないのか、なぜ欧米ではその仲介人としてエージェントがいるのかは、また追々、気が向いたら書くことにします。

※大原ケイさんの個人ブログ、「マンハッタン Book and City」の「どう考えても電子出版権がわからない」(2014年5月2日)を改題して転載したものです。

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