編集者こそ「商談会」に参加せよ
〜BOOK EXPO(大阪)2016レポート

2016年11月28日
posted by 千葉 潮

取次の「壁」を超えた「大商談会」

11月8日、大阪市で「BOOK EXPO 2016 秋の陣 活かせ!書店力」が開催された。2011年に始まり、今年は6回目。取次の壁を超えて、出版社と書店が直接出会う日本でも有数の大商談会だ。

取次というのは、分かりやすく言えば本の卸売り会社だが、開業の支援をするなど金融業的な役割も担う。基本的に書店一社につき取次会社は一社の契約になる(帳合と言う。大型のチェーン店などは2社の場合もある)。取次会社同士はいわばライバル関係になるわけだ。そのため、取次会社ごとの商談会が常識であったのだ。

BOOK EXPOは取次会社に関係ない商談会として、初めて開催したものである。参加書店1,043名、出版社693名、取次会社165名、報道その他35名、計1,936名が集まった。商談成立金額は5,831件、売上高は昨年比107.5%の約9,800万円であった。

会場はグランフロント大阪ナレッジキャピタル。大阪駅直結の近未来志向のビルは産官学の知的交流拠点でもある。地下2階のコンベンションホールには233社の出版社、第三商材(什器やシステムウェア等を取り扱う)の業者が集まり、237ブースを展開する。

book-expo-2016

BOOK EXPO 2016のウェブサイト。テーマは「活かせ!書店力」。

私は、大阪でメディアイランドという極小出版社を営んでいる。この催しに出展するのは、5回目。今年も版元ドットコム西日本の会員社6社(解放出版社、サンライズ出版、高菅出版、東方出版、西日本出版社、メディアイランド)で4ブースを借り、グループ出展した。地元の出版社から出展が少ないのは寂しいと、BOOK EXPOの実行委員でもある西日本出版社の内山正之さんが言い出したのだ。内山さんは版元ドットコム西日本の世話役でもある。

朝、9時に受付をすませると、ブースの飾り付けや、配布用のチラシの準備に各社とも余念がない。言うまでもなく出版は東京が中心。関西に支社があるところは別として、東京からはるばる出展のために1〜2名で来阪する社が大半のようだ。

9時45分、出展社全員で朝礼。堀博明BOOK EXPO実行委員長から「商談をすすめ、売上を上げてほしい」と檄が飛んだ。日書連会長からは、「東京の大商談会の売上1億1,000万円を上回る結果を上げてほしい」と励まされる。全員で「エイエイオー!」と気勢を上げて、今日一日の大イベントに取りかかる。

エイエイオー?

少々戸惑う。私は編集畑出身で、大声をあげるのは少し気恥ずかしい。相当に面の皮は厚いのにこの体たらく。

「町の書店の活性化」を目的にスタート

なぜこのBOOK EXPOを始めたのか。仕掛人の一人で実行委員の宮脇書店・大阪柏原店の萩原浩司店長に聞いた。

やはり、町の本屋さんを元気にするためですよ。

ベストセラーや売れ筋の本は、大型書店を中心に新刊配本が行なわれ、町の書店の店頭までには回らない。営業マンだって来ない。本が配本されないからお客は大型書店に行ってしまう。小さな本屋の売上が減り、閉じる店も多くなるという悪循環。それを手をこまねいていていいのか。

版元の営業マンが店に来ないのなら、こっちから仕入に出かければいい。取次を束ねて一緒になって開催すればスケールメリットもある。なんども協議を重ねた結果がこのBOOK EXPOだ。

取次の壁をはずしたのは、このBOOK EXPOが日本で最初に取り組んだことだ。今年も多忙ななか、3月から月1回計8回の実行委員会を重ねた。実行委員は書店を中心に出版社、取次の計30名から成る。

出展者に用意されているのは、長机一つと、幅90cm×180cmのパネル。それを自由に使い、プレゼンテーションと商談を行う。そして椅子が6脚。我が社は、今年は新刊書とおすすめ本の表紙を拡大コピーして糊付きのスチレンボードに貼り、それぞれにPOPを貼り付けた。できるだけ賑やかに貼り付けるのがコツ。

メディアイランドの展示風景。これは準備中のもの。

机の上には、本を1冊ずつ並べていく。長机いっぱいに並べたいところだが、商談して、注文書にサインしてもらうスペースも必要だ。

BOOK EXPOではその場で注文書に記入してもらって、後日書店に本を届けるのだ。透明なポリブロピレンの袋に注文書とおまけのバンドエイド(書店員の必需品だ)数枚、きれいなポストカードを入れる。ちょっとでも気を引きたい。

商談ができたときには、我が社では景品として「安全ヒモ切り」を渡している。荷ほどき時に必要なんだそうで、商品説明のときには少し難しそうな顔をしていた書店員さんの顔が、この安全ヒモ切りをわたすと途端にほころぶので、私も嬉しい。ささやかなプレゼントだが、少しでも書店員さんの役に立てたらいいなと思う。

書店員に好評の「安全ヒモ切り」。

西日本POP王決定戦、「大阪ほんま本」大賞

午前10時。セレモニーが始まる。今年からの「西日本POP王決定戦」の表彰から始まった。

金賞作品はぜひ写真を見てほしい。文庫本の表紙の世界を立体で表したもの。POPの域を超えている。実は私の仕事場からいちばん近い西日本書店さんの作品であった(さっそく、お店にも見に行った)。

大賞を受賞したのは『これは経費で落ちません 経理部の森若さん』(青木裕子著 集英社オレンジ文庫)。POPコピーは「だいたいの社員は入社するとすこしずつずるくなる」。

10時半、開場。午前中は例年とも来場者は少ないが、今年は相当時間が経っても客足がなかなか伸びない。外はかなり雨が降っているらしい。そこで、お客さんが来ないうちに各社の展示を見物。気になる注文書をもらったり、新刊書のタイトルや装丁をチェックする。

もう、ほんとは一日中こうしていたい。うちのスタッフもお気に入りの出版社のブースを訪れて、おしゃべりしている。児童書コーナーはどのブースのパネルや飾りも賑やかだし、上手だ。児童書とコミックのブースは別の部屋、一般書コーナーとは違って、お客さんがブースにわんさか。児童書の売上は落ちていないと聞いていたが、やっぱしか。ハリポタ目当てかも。

やっぱりみんな、欲しいもんのところに行くわなあ。

隣のブースで、東方出版の稲川博久社長がしみじみつぶやく。午後からの人出に期待しよう。

児童書・コミックコーナーは人がわんさか。

メインステージでは著名作家によるサイン会が行われ、私のミーハー気分をさらに盛り上げる。まずは平野啓一郎さん。それから、大阪ほんま本(「大阪の本屋と問屋が選んだほんまに読んでほしい本」)大賞受賞作家によるリレーサイン会。こちらは、高田郁さん、朝井まかてさん、増山実さん。ここに並ぶ人は皆、自分の書店に飾る「色紙」にサインをしてもらうのである。

サイン会はいいイベントやね。これを理由に若い書店員もBOOK EXPOにでかけやすくなるからね。

とはジュンク堂なんば店店長の福嶋聡さん。

本をいちばん読むのは、実は書店員だからね。書店員が欲しい本を買えないような給料ではいけない、書店論はもう労働問題でもあるんですよ。本もろくに買えないような給料を続けるから、お客様から「ろくに知識もない書店員ばかりじゃないか」とお叱りも受けるのであってね……。

福嶋さんは若い書店員の状況について憂えている。

人手不足のお店をほったらかして出てくるわけには、なかなかいかない。だが、著名作家のサインをもらって店に飾れば、売上にも繋がる。

このほか、児童書コーナーでも絵本作家によるサイン会やワークショップがあり、料理本レシピ大賞と連動した人気ブロガーによるトークショーもあるなど多彩なラインナップだったが、そちらのほうは残念ながら様子がわからず。

色紙にサインする芥川賞作家の平野啓一郎さん。並んでいるのは皆、書店員。

レジェンドたちとの遭遇、そしてお客様との対話

毎回楽しみにしているのが、業界のレジェンドたちと話を交わすことができること。この大商談会は、社交の場でもあるわけだ。先ほど登場した、ジュンク堂の福嶋聡氏は業界では「超」がつくほどの著名人だが、「本の学校」を作られた今井書店グループの永井伸和会長、「1,000人の顧客の名前と好みを知り尽くしている」といわれる隆祥館書店の二村知子さん、POP作成では天才的な、本のがんこ堂唐橋店の西原健太さんなどの姿も……。ミーハー気分にもなろうというものだ。

さらに貴重なのは、日頃なかなか顔を合わせて話をすることができない書店の話が直接聞けること。書店さんは、事前に配布されるBOOK EXPOの小冊子を熟読し、目当てのブースをまず訪問するようだ。この小冊子には、1ブースに1ページが割り当てられている。

午後2時すぎ、会場の人出もピークになったころ、こちらに走ってくるお客さんがいる。手にしている小冊子のうちのページには『ネコづくし』という塗り絵本の写真に赤丸がついている。「このネコの塗り絵、ちょっとみせて」と言われ、ともかくサンプルをみていただいた。大阪市の中心部から少し離れた市営団地が商圏の書店さんだった。ちなみに50代の男性である。

うちなんて、自社物件やからようやく本屋をやれているんやわ、そやないととても町の本屋なんてでけへん。お客さんもだいたい70歳くらいやから。ぼけ防止に塗り絵が効果があるというんやけど、だいたい大人の塗り絵って細かすぎて年寄りには向かへんねん。それでおたくのこの塗り絵本の絵を見て、やってきたんですわ。とりあえず1冊ね。

あ、これも1冊。え?まだこれは出来ていないの(注:塗り絵のゲラだけをみていただいたのです)。ふーん。いいや、こっちも1冊注文しとくわ。

ああ、このお寺めぐりの本ね。出かける元気がない年寄りばかりやからね、こういう単行本でなくて、パートワークの本があるでしょ、神社とかお寺の、ああいうのが人気なんやわ、行った気になるやん。

ところで、この塗り絵って、色見本ないの? いや、色見本がないと塗るのが難しいって言う人が多いんや。次は考えといて。

大阪市内でも高齢化が進み、本を買う人はお年寄りが多いので、達成感がすぐ出て、薄い本が良いのか。アート感覚の塗り絵はこの層の方には届かないんだ。もっと楽しんでもらえるものは、別の視点がいるんだ、と編集担当として、とても考えさせられる。そして、うちを目がけてきてくださったお客様。もう、嬉しくて小躍りしたいほどだった。

本の内容をじっくり説明せよと言うお客様もいる。商品知識がないと背景などからの詳細説明は難しい。こんな場合は、営業担当よりも編集担当のほうが適任だ。

今年の収穫と、今後の展開

イベント終了間際、実行委員の萩原浩司さんに今年の成果を伺ってみた。

いまや東京,大阪だけでなく、札幌、福岡、岡山、四国でも同様の商談会が開催されるようになっています。BOOK EXPOは今、転換期を迎えていると思う。もっともっと工夫が必要です。ぼくは編集さんや著者がブースに立ってもらうとええと思うんや。書店にはあんまり来てくれへんでしょ。

たしかに。知り合いの版元を見ても、編集担当が参加しているところは少ない。ところで、今はこのイベントは業界関係者のみに向けてますが、オープンにはしないのですか? とも聞いてみた。

今年は、図書館司書の方に何人か来てもらいました。書店がアテンドするんやけどね。だからちょっとずつ開かれていってるんじゃないかと思います。

ちなみに、今年のうちの売上は、約70,000円だった。売上だけ見ると儲かったとは言えない。もっと魅力ある本を作らないとな、と肝に銘じる。

昼ご飯もほとんど食べず、立ちっぱなし、しゃべりっぱなしで少々疲れた。18時40分。撤収完了。スタッフは子どもの待つ家にダッシュで帰る。わたしは、梅田の地下街でビールと水餃子で一人乾杯をした。

エンドユーザーである書店人とふれあえる場として、また、他の出版社の動向を探る場として、商談会は希有な機会だ。書店人サイドも編集者と近づける機会を欲しがっている。各地でこのような商談会が広がっている。営業は営業マンに任せるばかりでなく、ぜひ編集者のアンテナを伸ばして、参加してはどうだろうか。とくに若手の編集者には、勉強になることばかりなのだから。

番外編2 佐藤真の「不在」を見つめて

2016年11月16日
posted by 清田麻衣子

佐藤真の映画を観て、本を読んで、考える時間は、頭にモヤがかかったような状態が多かった当時の私にとって、幼いころの遊びに熱中する感覚が蘇ってきたような時間だった。ファッションくらいしかこだわりのなかった私が、ようやく初めて心から楽しいと感じたのが、大学3年から4年にかけての卒論準備だった。

しかしそれは同時に、就職活動の始まる時期でもあった。そのときはっきり思ったのは、「こういう時間がこれきりだなんて絶対にいやだ」ということ。この「感じ」をもっとずっと味わいたいと思った。しかし私は自分の琴線に触れるものを探していたいだけだった。同級生の映画論にはサッパリついていけない自分が、卒業後、映画関係に進もうと考えるのはおこがましかった。

80名と少ない人数だったこともあるが、芸術学科の映像専攻のコースで、当時ドキュメンタリーを選んだ人は他にいなかった。同級生と想いを共有することはなかったが、「私にはいま熱いものがあるんだ」と密かに鼻息を荒くしていた。そして想いを育みながら、1999年10月、ドキュメンタリーの祭典「山形国際ドキュメンタリー映画祭」に向かった。

「ドキュメンタリーとは、世界を批判的に見るための道具である」

ふだんはひっそりとした山形市の中心部に、世界中から最新の優れたドキュメンタリー映画や、旧い貴重な記録映像が集められ、国内外から映画関係者が一堂に会す。6時間の作品を途中ウトウトしながらもなんとか観て、山形名物の芋煮を食べ、夜は観客も映画関係者の垣根もなく一緒に飲めるという居酒屋・香味庵に顔を出したりして、俄かに映画人の気分に浸った。映画館のロビーや香味庵で、佐藤真監督の姿も何度か見かけた。いつも人の輪の中にいて、朗らかだった。しかし、そのとき私はまだ卒論を書き始めておらず、モヤモヤとした想いだけを抱えて何を話せばいいのか、会話の糸口が浮かばなかった。

佐藤監督の映画は、言葉で説明しづらい映画だ。そして、映画の中の言葉もとても少ない。一度観ただけでは気づかないことも多い。しかしだからこそ、自分で感じ、考える余地が与えられている。そしてその体験が残る。

一方、著者としての佐藤真はとても理論的で鋭く、そして雄弁で、明快だった。当時唯一の著書『日常という名の鏡』(凱風社)を、私はボロボロになるまで読んだ。自作にとどまらず、古今東西の名作ドキュメンタリーについても多くの頁を割いたこの本で、「ドキュメンタリーとは、世界を批判的に見るための道具である」というのは、佐藤監督が繰り返し言っていた言葉だ。

佐藤監督の映画に未知の世界への目を開かれ、考えるきっかけをもらったと感じていた私にとって、本は、映画を観て考えたことを監督の言葉によって確認、補完するテキストのようなものだった。付箋をたくさん立てて繰り返し読んだ。時に挑発的な文章は、それまで空っぽだった脳みそにぐんぐん浸透した。今にして思えば上澄みだけをすくっていた感じがしてならないが、佐藤監督の視点が世の中に広がったら、もっと他者への想像力に満ちた世界に変わるんじゃないかと本気で思った。その想いを山形でより強くしていた。

上映会場は複数あった。旅先の山形で、配布されたマップとスケジュールを見ながら映画をハシゴする数日間は、地方の映画祭ならではの一体化と高揚感があった。しかしそうやって街を彷徨っていると、行き交う人の多くが、「関係者」の札を首から下げている人や、取材の人、もしくは私と同じような学生ばかりだと感じはじめていた。

「やっぱりフツーの人はこないんだ」

そんなことが気になったのは、私自身が半端な「フツーの人」で、もうすぐ学生を終えようとしていたからだと思う。

「ここはこんなに熱気が充満しているのに、渋谷のスクランブル交差点にいる人たちはきっと恋愛や洋服のことばかり考えてるんだ。その距離は埋まらない」

山形の刺激的な日々を堪能し、ついこの間まで自分が浸かっていた日常にいる人々に対して憤っていた。それこそ想像力のない浅はかな発想だったが、山形で上映される映画の多くは遠い世界のことに想いを馳せることができるような、世の中の見方を大きく変える映画ばかりだから、ここに来ないような人にこそ観られなくてはならないのに、と感じていた。

佐藤監督からの手紙

東京に戻って、本格的に卒論に着手しながら、就職活動も本格化し始めていた。芸術と社会をつなぐ仕事ができないものだろうかと考えるようになっていた。そして目の前にある本『日常という名の鏡』を毎日眺めていたら、いつか佐藤真監督の本が作りたいと思うようになった。本ならいろんな種類のことが伝えられる。本なら人に「いいよ」って勧めやすい。そうか、私は本をつくる仕事がいいんじゃないか。

90年代後半、当時は「バブル以降」と呼ばれていて、不況についてのニュースばかり聞こえてきたが、ノホホンと暮らしていた学生の私にはピンとこなかった。狂ったように踊る80年代のお姉さんたちの映像をテレビで見ながら、成金的な価値観が横行するバブルよりも、不況と言われるいまのほうがクールで、いくらかマシなんじゃないかと思っていた。そして不況の底を抜けたら、世の中の霧も晴れて、人間はひとつ賢くなるんじゃないかと安易に考えた。

しかし不況はすぐに我が身に降りかかった。99年は就職超氷河期といわれた。そんな時期に、ただでさえ難関といわれる出版社に、卒論の興奮をそのままぶつけたような履歴書を出し、当然、軒並み書類で落とされた。

そして渾身の卒論も、大半の先生からの評価はいま一歩だった。「批評として論が展開されていない」という、論文としての根本的な欠陥があった。たしかにそうだった。自分の想いと考えを余すことなく書くこと以外頭になかったのだ。しかしゼミ担当教官だった四方田犬彦先生だけが好意的な評価をくれた。

「佐藤がシゲちゃんを見るように清田は佐藤を見ている。対象への愛が良い効果をあげている」

コメント欄に書かれた「佐藤がシゲちゃんを見るように」という字を、何度も見返した。他のマイナスな評価なんて全然気にならなかった。中学以降、自分の考えを大人に伝えることを諦めていた自分が、10年ぶりくらいに大人から褒められたのだ。いっぺんに報われた気持ちになった。そしてその後何年も、私はこの言葉を心の支えにすることになる。

卒論の最後の面談で、四方田先生に、「本人に送ったら?」と言われた。まったく頭になかった発想で、うろたえた。しかし恐る恐る送ると、しばらくして、佐藤監督本人から直筆の手紙が届いた。達筆といえば達筆、しかしミミズが這ったような字、とはこういう字のことをいうのかなとも思う、判読しづらい手書きの手紙だった。

なんとか読み解いた内容は、細かく映画を観てくれてありがとう、という謝辞と、しかしこんなに褒められたら批評ではない、もっと意地悪な視点を持たなければ、という指摘、そして、今度東京都北区で「北とぴあ映画祭」というのをやるので、そこに来てみたらどうか、というお誘いが書かれた、簡にして要を得た手紙だった。

後日、緊張して「北とぴあ映画祭」に向かった。会場のホールの階段を上がりきると、大きな窓から陽の光が降り注ぐロビーに、キャッキャと走り回る二人の小さな女の子と、微笑みながら子どもたちを見守るお母さん、そして、ショルダーバッグを肩から提げて、トレーナーをズボンにインして子どもと遊ぶ、背の高いお父さんの姿が見えた。ごく普通の家庭の、幸せそうな日曜日の光景だった。それが佐藤監督とご家族だった。そのときの会話も上映作品も、緊張していてまったく覚えていない。だがその光に包まれた家族の光景は、今でもありありと浮かぶのだ。

就職、そして突然の訃報

その後、なんとか出版業界に就職してからの度重なる転職の顛末は、以前書いたので省略する。「失われた世代(ロストジェネレーション)」と呼ばれることになった私たちの世代は、正社員募集が少なく、なかなか安定した職に就けない人が増えた世代ということは後で知った。しかし渦中にいる当事者は、「世の中が悪い」と言ったところで言い訳でしかない。その時代でもうまく軌道に乗った人と比べて、うまくいかない人には何か問題があるはずだ。未熟さゆえか、選択自体をミスっているのか――とにかく時代がどうであれ、個人の力量でなんとかしなくてはならない。

「やりたいことを主張するよりも、まずは編集の仕事の基本を身につけろ」ということを就職してから数年間、叩き込まれた。基本を身につけて、それを応用してやりたいことをやればいいのだ。だが、人よりたぶん強い主張を抑えると、まるで手足の動かし方がわからなくなる子供のように不器用だった私は、なかなか仕事ができるようにならなかった。

仕事もハードだったが、そもそも要領が悪かったので残業や休日出勤も多く、映画館に映画を観に行くこと自体めっきり少なくなっていた。ましてや自分の頭で考えなくてはならないドキュメンタリーなんて、くたびれてしまって翌日の仕事に差し障りがある。ドキュメンタリーの世界からもすっかり遠ざかっていた。やりたいこととやれることの狭間で「軌道修正」を繰り返しながら編集の仕事にしがみついていた私にとって、当初感じた世の中とのギャップを埋めるなどということは現実味の薄い理想で、編集の仕事で食べていくことと相反するように思えてならなかった。

一方で、「ダメなやつ」というアイデンティティに飲み込まれそうになっても、ずっと底で私を支えていたのは、やっぱり佐藤監督の存在だった。それは、自分にも「すごいもの」に触れた過去があるんだ、という誇りのようなものだった。当時、酔うとよく「佐藤監督の本が作りたい」と口走っていたらしい。記憶がないのが余計タチが悪い。その後何人も「私も聞いた!」とか「何度も聞いた!」という人に会った。聞くたびに恥ずかしくて消え入りたい気持ちになった。

しかし、2007年9月、佐藤監督は亡くなってしまう。49歳、突然の訃報だった。

それでも私は、自分の好きな仕事を追求する終わりのない道に突き進むと、心のバランスを崩して「あっち側」に落っこちて戻れなくなってしまいそうな気がして怖かった。それまでの日々を大きく変えることもなく、その後数年間、会社勤めに安定の救いを求めた。

ところが、2011年3月11日、東日本大震災が起きた。リスクをとらないでいることよりも、気持ちをごまかし続けて自分の好きなものは何なのかすらよくわからなくなっている状態のほうが危機的だと思った。その状態は、そのときの日本の状況と重なった。もう不安定でバランスを崩したっていい。

里山社の1冊目の本となった田代一倫の「はまゆりの頃に」を写真展で見たとき、佐藤監督の映画を観たときの感触を久しぶりに思い出したような気がした。ここでやらなくていつやるの、という想いで、2012年、会社を辞めて里山社を興した。

しかし当の佐藤監督の本を作る勇気はまだなかった。書き下ろしてもらうことはもうできなくなったけれど、仕事をまとめる本なら形になるとは思った。しかし、亡くなる前から向き合うことをやめていた自分に、その本をつくる資格があるのか、と思った。そして何よりとても覚悟のいるたいへんな作業に思えた。

その「不在」に何が見えるか

震災直後、計画停電で暗い東京の町を歩いていると、昔の東京はこのくらい暗かったのかな、などと思った。日本人はこの震災を経て、大きな犠牲を払いながら限度というものを知ったのかもしれない。これから日本人はもっと賢くなるはずだ――しかしそれは、バブル後の日本人は賢くなるという発想と近かった。震災から4年が経ち、里山社としては3冊目の本にとりかかっていたころ、原発が再稼働するとか、秘密保護法が国会で承認されたとかいう、信じられないニュースが次々と耳に入るようになった。

マスメディアの自主規制にがっかりすることも増えた。一方で、震災後から頻繁にチェックするようになったSNSでは、浅はかな判断をすぐに発信して他人を攻撃する投稿を見かけることが多くなっていた。そしてそれに自分も何度も引っ張られそうになった。問題が表面化しているからこそ、イエスかノーか、白か黒かの意見を表明することを求められ、汲々とする場面が増えた。

その単純化のなかで失ってしまうものが真っ先に他者への想像力だった。自分と異なる世界の、異なる論理で生きている人たちの身になってみたら、簡単に結論は出せなくなる。でもその曖昧な態度までもが非難される時代になったように感じた。気がつけば、90年代の日本とは大きくかけ離れた状況に変わっていた。

今の世の中を、佐藤監督はどう見るだろう。そしてどんな映画を撮り、何を書くだろう――。いやしかし、そもそも佐藤監督は、きっと当時すでに悪い予感があったのかもしれない。「日常に潜む闇」と表現されていたものが、いま光の当たる場所に出てきてしまっているだけなのではないか? 佐藤監督のやろうとしていたのはなんだったのか、いまこそ確かめたいと思った。

里山社の4冊目の本として、佐藤真監督の本を出すことに決めた。「没後10年」の2017年を目前にして、敢えて2016年に出そうと思ったのは、「懐古」的な内容にはしたくないと思ったからだった。

そこで、佐藤監督が当時投げたボールを、現在を生きる、佐藤監督と関わりのある人(生前の面識の有無にかかわらず)がどう受け止めるか、それが対になるような見え方にしようと思った。まず、大まかにいくつか、佐藤真を語るうえで欠かせないテーマを掲げた。

だが佐藤監督がこだわったテーマのなかで、もっとも理解できなかった概念が「不在」だった。牛腸茂雄やサイード、そして自作『阿賀に生きる』のその後といった、すでにこの世にいない人の痕跡をたどるという映画だ。しかしなぜ「不在」を撮ろうとしたのか? そして「不在」に何が見えるというのか?

その疑問は置いたまま、寄稿していただく方々には、とくにこちらからテーマは限定せず、佐藤監督との思い出やエピソードを具体的に綴ってほしいと依頼した。そして、いただいた原稿をもとに、佐藤監督の過去のエッセイと呼応するものを選び、対にした。そして、それらをできるだけ佐藤真の思考の軌跡の順に、テーマごとに配置していった。ゴールを決めずに走りだす編集作業は、まさにドキュメンタリーを作っているようだった。

里山社の三冊目の本となった『日常と不在を見つめて――ドキュメンタリー映画作家・佐藤真の哲学』。

パッチワークのように出来上がった本は、さまざまな偶然も呼び込み、私自身想像していなかったような本になった。そして出来上がったゲラを通して読んでようやく、この本が佐藤監督の「不在」についての本になっていたことに気づいた。本人に聞けないからこそ、佐藤監督が今なら何をいう? 佐藤監督なら何をつくる? と、問いながら、想像し続けていた。

問いの答えはもちろんわからなかった。ただ、佐藤監督が考え続けた「姿勢」を、2016年の地点から想像し続けた。そして思ったのは、その「想像し続けるという姿勢」こそが、不在の先にあるものではないかということだった。人間にとって「想像する」ということが、しかも一瞬ではなく、その姿勢を保ち続けることが、どれだけ難しいかということ。そしてそれはいまの日本、そして世界の状況に、とても必要な姿勢なのではないかと思った。

最後に余談だが、奥様の了解を得て、佐藤監督のご自宅に、資料を探しにお邪魔したときのこと。佐藤監督は、段ボールに綺麗に資料を整理して保管していた。その中に、見覚えのあるファイルを発見した。それは、私が2000年に送った卒論のファイルだった。そこにあったことに、何か意味があるかどうかはわからない。しかし、時間も空間もそして、本人の不在も越えて、佐藤監督に触れたと感じた瞬間だった。

(次回につづく)

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第3回 軽くて閲覧性の高い最強デバイスは、いまも紙なのか

2016年11月15日
posted by 山田苑子

借りて来たハードカバー、ダウンロードしたPDFのプリントアウト、入手しづらい博論のコピー、持って歩きたくない重さの画集や写真集、先生から渡される手書きメモ入り講義資料、ゼミで配られる先輩同輩後輩のレジュメの束エトセトラエトセトラエトセトラ……。

現代の私たちは、さまざまなフォーマットのアーカイブの海を航海する旅人のようだ。インターネットを通して得られる情報だけでも、そのフォーマットはことなり、私たちはそれぞれに対応したソフトを利用することになる。しかしこれだけパソコンとインターネットが発達したいまでも、私たちはまだまだ「紙」というデバイスに引きずり回されていることに気付くだろう。

読まねばならぬ資料や論文の山。順不同に本棚にツッコマれて塩漬けになっている……。せめて日付タグくらいふっておけばいいものを……。

私たちは、まだまだ「紙」を読んでいる

大学院に限らず大学のゼミと呼ばれるものに出れば、資料や史料、レジュメ、報告書類など、大量の紙資料が配付される。これらの資料はおおむねA3横を1面として印刷されている場合が多く、スキャンすると11インチ程度の画面では拡大なしには読むのが難しい大きさになる。

いままで学部を超え大学を超え、多種多様のゼミに参加させていただき、数限りない紙資料を拝受して生きてきたのに、嗚呼、それを活用した人生だったと、私はあのとき同席していた皆さんに胸を張って言えるのだろうか。せめて資料をきちんと整理しストックし、すぐ引き出せるかたちにできていたらと、度重なる引っ越しごとに後悔と口惜しさで目の前が真っ白になるだけだ(紙だけに)。

一方、CiNiiからダウンロードしたPDFファイルも、パッと全体を確認するには紙にプリントアウトしてしまうほうが早い。すぐにチェックしたくとも手のひらサイズのデバイスはいかにも小さく、拡大と縮小を繰り返すうちにどこを読んでいるのかわからなくなる。幼少期から鍛えたド近眼を最大限駆使して小さい文字に集中することで、降りるべき駅を乗り過ごすこともしばしばだ。

画面が大きければいいかというと、そうでもない。常時帯同している11インチ程度のノートパソコンの画面では、文字を最適な大きさにすると、たいてい縦幅が足りない。1ページ読むのに上下2往復するという非効率だ。PDFというフォーマットで作成されたドキュメントは、多かれ少なかれ紙媒体で読まれることを意識したレイアウトになっている。「文字を読む」紙媒体はたいてい縦方向に長いものだ。横幅が広いPC系デバイスには不利なレイアウトである。

書籍についても、こと大学のレポートなりレジュメを作成するための本、ということに限定されると、私たちはまだまだなかなか電子書籍を利用しづらい状況であることは第1回(Kindle Unlimitedは貧乏大学院生への福音となるか?)に書いた。おまけに図版が書籍と同じようにレイアウトされていない場合があるため、適切な位置関係での理解力を得たいために、紙の本を選ぶことも多いだろう。

ストーリー性がある小説や漫画、種明かしがある推理ものでもないかぎり、本というものはたいてい、どこから読んでもOKだ。私は「あとがき」を読んでから、本編を後ろから前へ遡って読む癖があり、この行動が電子書籍で容易にできないことが読書上でストレスなのだと最近気づいた。わざわざ電子書籍でなく紙を買う場合、このストレスを回避している場合が多い。

「何を」&「何で」読むべきか。その組み合わせが問題だ。

私はあなたが30分で1冊読み切れるような本の話をしているのではない。たった一章に20も脚注が付くようなタイプの本を読むための話をしているのだ。読解困難な文章が読解困難なデバイス上に展開されていれば、解読に倍ほどの時間がかかるどころか、「最後まで読む気が失せる」という逆効果をもたらす怖れさえある。さらに言えば脚注はたいてい本文よりフォント数が小さく、適正拡大の自助努力が必須になってくる。

では、紙で適正化された解像度とレイアウトは、やはり紙で読むに限る、ということなのだろうか。

しかし紙は、なんとも、重い。周囲のあの人やこの人の本に対する言説の多くは「本が多くて引っ越しできない」「本が多くて床が見えない」「本が多くて家族に怒られる」「本が重くて家から出たくない」「コピーした資料が錯乱してなにがなんだかわからないけど捨てられない」だいたいこのような悩みに集約される。お世辞にもポジティブなものとは言えないだろう。

この量が年々膨れ上がるにつれ、私たちは現実に引き戻される。ギブアップ、紙一択の世界観は、もう、無理だと。しかしだからといって電子書籍に身を預けても、いまの段階では幸せになれない。この過渡期の世の中で、日々増大するアーカイブを閲覧するために、いったい私たちはどうすればいいのだろうか。

場所を取ること、重いこと、整理に手間がかかること……これらの諸問題にかかわらず私たちは紙でモノを読んでいる。私たちは、まだまだ、意識的にも無意識にも紙を選択しているのである。逆に言えば、紙でのメリットをいくつかでも享受することができ、紙でのデメリットを打ち消すことができるデバイスがあれば、それは選択するに値するということになる。

紙とデジタルのハイブリッドが最高の選択肢

ある日、臨時の仕事が急に入ったので、懐に謝礼が入る皮算用に浮き足だって、そのギャラをまるまる充てるかたちでiPad Pro 9.7インチを買ってしまった。その仕事でもらったイベントステッカーを純正のSmart Keybordに貼って謝意を表明している。請求書発行はこれからだ。

毎月の家賃の支払いにも眉間に皺を寄せる日々なのに、何故そのような愚行に及んでしまうのか、怒りと呆れを覚える読者の方もいるかもしれない。古今東西変わらない事実、そう、人は忙しくなるほど、最新デジタルデバイス渇望症を発病するものなのだ。そのデバイスを買うことで、仕事が一段と捗ることを確信して……。

この1年半、大学院に通う中で、「閲覧」という一点について、私は下記のような複数の条件を満たせるデバイスを探していた(入力デバイスとしての条件も多数あったが今回は割愛する)。

・女性の片手で持って苦痛でない軽さ
・A4サイズのPDFを拡大縮小なしに一覧できる解像度

・屋外のフィールドワークに持ち出せる剛性
・周囲光量による明るさの自動調節機能
・A4用紙に書き込む際に、下敷きに利用できる物理的広さ
・お財布に痛すぎない経済性

ノートパソコンを上回るモビリティと、屋外の立ち状態でも耐えうる軽さ、そしてA4サイズの閲覧性を求めた、と要約できるだろう。条件を詳細に規定すればするほど、デバイスを購入後の満足度に繋がるというのは経験上明らかである。条件に合致するかどうかは、やはり少しでも長く触ってみないと分からない。しばらくは家電量販店に通いつめてデバイスを試した。貧乏大学院生としては、作業効率を上げなければいけないという命題を抱えつつ、無駄玉は打てない。寝る間を惜しんだ熟考が必要なのだ。

バチカン教皇庁図書館の写本の美しさに震える

逡巡の末購入したのは、450グラムを切る重量の9.7インチiPad Pro (Wi-Fiモデル/32GB)。学生価格で60,800円也。450グラムと言えばほぼペットボトル飲料1本分だ。純正のスマートキーボード230グラムを足しても700グラムを切る。手持ちのノートパソコン(11.6インチMacBook Air)は1キロを超え、当然だがとても片手で持てたモノでは無い。かつて愛機であったVAIO Xの軽やかさ(約765グラム)を懐かしく思い出しつつ、後継機が出ない哀しみにこれまで身をやつしてきた私だが、この軽さには納得だ。

またディスプレイでも圧倒的な閲覧性が得られた。MacBook Airは11.6インチで1,366 x 768ピクセル。iPad Proのほうが物理的画面は狭いにも関わらず2,048 x 1,536ピクセルと解像度が向上し、視認性が高くなったのだ。タブレット端末なので画面の上下制約が解かれ、PDF論文は縦でも横でも対応可能。私の領域的に、縦書き論文にもまま出くわすので、画面が回転できるのも便利な点だ。

vatican

バチカン図書館の貴重本、ウルビーノ聖書。左がMacBookAir、右がiPadPro。文字が読める大きさに拡大した時、全体の閲覧性が大幅に違ってくる。

写真や画像などの資料を見る機会が多い場合、画面がRetinaディスプレイであることのメリットは大きい。とくに歴史的史料などは、研究者の欲求を満たすレベル、すなわち原本の質感すら感じられるほどの高解像度でアーカイブ化されている場合が多い。NTTデータが着手しているバチカン教皇庁図書館のデジタルアーカイビング事業、デジタル・バチカン・ライブラリーがよい例だ。プレス発表での「スキャンのクオリティはとにかく高いものでなくてはなりません。古文書学者の学術的要求を満たすのにふさわしいレヴェルで文書を参照できなくてはなりません」というNTTデータ・イタリアのCEO、ヴァルテル・ルッフィノーニ氏の発言は、伊達ではないのだ。

資料を手元で拡大・縮小するときに、感覚的な自由さで行えるのも、タブレット端末の大きな利点のひとつだろう。カラープリントされたものを入手するより、電子データからのほうが、より微細な情報を得られるように、時代は変わってきているのだ。極東に住みながらにして貴重なマニュスクリプトを舐めるように見られるとは、よい時代になったものだ。

まだプリントアウトで消耗してるの?

フィールドワーク時には、数十枚のA4資料を手で持ち運ぶよりも、電子データでクラウドやデバイスに格納しておき、必要なところにアクセスするほうが遥かに便利だ。いままでは立ちながら大量の紙資料から該当の場所を検索するという行為に大変手間がかかっていたうえ、うっかりすると手元から落ちてばらけ、整えるなどの余計な労力を生んでいた。画面の光量自動調整機能や映り込みの改善が行われたデバイスであるため、紙と同様とまではいかないが屋外での閲覧ストレスが大幅に軽減されている。

また写真を撮る、リアルな紙にメモを取るなどの行為も、手持ちの量が減ると楽になる。現地で追加配布される資料は大抵がA4か、それ以下の大きさだ。メモするために別途クリップボードか下敷きを買おうかと考えていたが、iPad Proの9.7インチは充分その物理的要件にも足る。

フィールドワーク当日に手渡された紙資料は、その場でカメラに収めデジタルデータとしてアーカイブしてもいい。搭載された12メガピクセルという解像度カメラで、それが申し分なく可能になった。紙に書き込んでからアーカイブしてもいいし、画像データにした後も、たぶんApplePencilを買えばストレスなく書き込めるはずだ(「iPad Proを買うならApplePencilを買わねば意味がない」と言われるほどの誉高いツールだが、懐事情が寂しい故に、いまのところ購入を控えている。次の原稿料が入ったら購入したいものだ)。

A1ほどの設計図など、現地に紙で持って行かねば使い物にならない場合もあるだろう。その場合は紙で出力して持っていけばいい。紙で見るのが最適なものもあれば、紙でないデバイスが便利な場合もある、という落としどころが、アーカイブ閲覧の本当のところではないだろうか。当たり前すぎる結論なので誰も言わないだけかもしれない。ハイブリッドの何が悪いの。

そう、院生は胸を張って、自分に最適な新しいデバイスを買うべきではないだろうか。それは紙の史料を買うのと同じくらい、いまや「必要」なことなのだ。閲覧性は生産性に寄与し、これまでアーカイブを閲覧するまでにかかっていた「用意」のコストを削減することができる。

このデバイスを買って以来、「デジタルデータを紙へ印刷する」という、閲覧以前の作業が非常に少なくなった。プリントアウトは枚数が多くなれば時間がかかる上に、紙やインクの心配をしなければならない。しかも急いでいるときに限ってトラブルが出るときている。iPadPro購入と前後してプリンターが1台壊れたのだが、今後のプリントアウトはコンビニ等の外部店舗サービスを利用することに決断し、新規の購入をやめることにした。このことで実質的には、プリンターに纏わる不測の事態と不安から解放され、固定費もかからなくなったことになる。

閲覧は閲覧のみによって成立しているに非ず。閲覧物の用意から閲覧と思え。この工夫が、アーカイブ利用の次の段階にも、テキメンに活きてくるのである。

近況報告:「音楽×記憶」にまつわる研究や実践や

2016年11月11日
posted by アサダワタル

ご無沙汰しています。前回の投稿から1年も経ってしまった。

この間、僕は何をしていたのかと言えば、昨年の今頃は3冊目の単著や10年ぶりにリリースしたソロCDの制作と出版企画に追われ、年をあけてからは、各地のアートプロジェクトの企画制作と、そしてなによりもなによりも、博士論文の執筆に追われていたのだ。

今日はしばらく手をつけられなかったこの『本屋はブギーバック』の趣旨を一旦横におきつつ(と言っても、実は繋がっていると思っているんだけどそこんとこは追々)、とにかく近況報告を中心に綴っていきたい。

博士論文のテーマは「音楽×記憶」

僕は2013年4月に滋賀県立大学大学院環境科学研究科博士後期課程に入学し、この3年半ほど博士論文の執筆に取り組んできた。ちなみに僕は連載読者であればお気づきのとおり、研究者というよりはあくまで実践者として様々な活動をしてきた。

2016年9月に博士論文を書きおえ、一応、学位(博士(学術))を取得した今となっては、研究という職能も兼ね備えた活動に移行しつつあるけど、それ以前に、自分が気になったこと、どうしても問題提起したいことは、学術的な内容でないにせよ執筆・出版を通じて世に問うて来た。なぜ、わざわざ大学院まで行って博士論文のようなめんどくさいもの(本当に手間なのです…)を書くに至ったのかと言えば、これは研究テーマと関わるのだが、端的な理由は「書きたい対象が自分と近すぎて、あえて“研究”という枠でも使わないとどう書いたらいいかわからない」というものだ。

そして、その書きたい対象はずばり「音楽」だった。

音楽をしたり、アートスペースやプロジェクトの企画運営をしたり、執筆をしたりしてきたが、ことに音楽は自分のあらゆる活動の原点であり、ずっとその音楽についての書籍を書きたいという思いだけはあったのだが、本当に「何から書き始めていいのか」すら、わからなかったのだ。

そこで、僕の活動に深い理解を示してくださっているある研究者の方にそのことを相談すると、「(学術)論文として執筆するのはどうか?」という提案をいただいた。

僕がいままで書いてきて本は、いわば我流(それはそれでもちろん全然アリ)であり、論文というのはいわば書き方に作法があるもの。つまり、自分の研究テーマを掘り下げるにあたって、まずは問題設定をして、先行研究をレビューをし、研究の焦点を「ここ誰もいじってないし、かつ必要やと思うから私はここやりますねん」といった感じでぐっと絞りこむ。そして、その焦点を理論的に読みとくために必要な視点を仮説的に引っ張って来て、それでフィールドワークしてきた現場事例をいくつか引っ張り出して検証。最後はそれを理論化してまとめる、といったような手順があらかじめ想定されているわけ。

これは非常に面倒くさい執筆作業なんだけど、逆に言えば、このルールにさえ乗っ取って自分の問題意識を当てはめていけば、ようやく自分が今まで書きたかった「音楽」についての書籍も書けるのではないか、と思って茨の道を突き進んだのでありました。

さて、そして論文のテーマです。ずばり「音楽による想起がもたらすコミュニケーションデザインについての研究」。ざっくり説明すれば、誰にとっても音楽(特定の楽曲)を聴いて過去を思い出したり、かつての人間関係に思いを馳せたりして懐かしい気分になることってあるじゃないですか。

過去を懐かしむのはそれはそれでいいんだけど、僕はずっと、その音楽を通じて過去を懐かしみつつも、今現在目の前にいる人たちとの対話を繰り広げながら、また別の記憶を想起したり、人に記憶を「そうじゃない」と正されたり、こっちが懐かしがってるのに相手まで同じ曲で全然違う記憶をぶつけてきて「何お前の方がより懐かしがってんだよ」ってなったりしながら、なんというか、「音楽×記憶」がもたらすコミュニケーションから実は過去の記憶に対するイメージが読み替えられたり、上書きされたり、単に「懐かしい」という感情のみでは片付けられない対話がそこでは生まれている、という状況に関心を向けてきたのだ。

つまり、音楽がもたらす想起は、過去に向けられた行為のみではなく、むしろ他者との対話を通じて今現在の時点から過去を意味付けしなおしたり、新しい人間関係が生まれたりする、とっても重要なコミュニケーションのひとつなのだ、と。

僕は、そのテーマを検証するべく、自分自身が企画をした、大人の記憶の音楽を子どもたちが実演する音楽プロジェクトや、北九州市にある歌声スナックで繰り広げられる、懐かしの校歌のオリジナルカラオケ映像を作って、同窓会に異様な想起のコミュニケーションをもたらす事例などをフィールドワークしてきた。

例えば、本連載の第1回で触れた「借りパクプレイリスト」(“借りパク”専門の架空のCD屋さんを立ち上げる展示会)では、長らく借りたままになって返せなくなくなってしまった懐かしさと悔恨が綯い交ぜになった思い出のCDの聴取と対話をもとにしたコミュニケーションを促したり。

また第4回目で触れた記憶の楽曲を持ち寄ってその場でたった一枚のコンピレーションCDを作る「あなたの音楽を傾聴します」や、小学生たちが自分の親に子ども時代に聴いていた記憶の楽曲をインタビューして、そこからヘンテコなコピーバンドを立ち上げる「コピーバンド・プレゼントバンド」といった音楽ワークショップの数々も、筆者が自前で試行錯誤しながら企画と検証を繰り返して来た事例だ。

それで、ここから先はもう書けば書くほどこみいってくるので、現在、この博士論文における「事例検証」部分は、以下でネット公開されている2本の論文でがっつり読めるので、ぜひ気になる方はアクセスしてみてほしい。(ちなみに博士論文全体は全6章で出来ていて、そのうちこの2本の公開論文が3章と4章にあたっている)

『音楽を「使いこなす」. ポピュラー音楽を用いた. コミュニティプロジェクトについての研究』(アートミーツケアVol.6/2015)

『音楽による想起がもたらすコミュニケーションデザインについての研究 歌声スナック「銀杏」における同窓会現場を題材に』(京都精華大学紀要49/2016)

「音楽と記憶」の関係に着目した論文でリサーチした、北九州市小倉北区の歌声スナック「銀杏」の様子。ママの入江公子は、同窓会で必ず歌われる校歌の「想起」の機能に着目。同窓会幹事からかつての記憶を取材し、なんとオリジナルカラオケ映像を制作披露。同窓会には不思議なコミュニケーションが生成されている。

まちの記憶をあつめて「音楽」にする――足立区で「千住タウンレーベル」を発足

さて、近況報告の最後は、これから東京は足立区千住エリアではじまる音楽プロジェクトの紹介をさせてもらいたい。

「“タウンレーベル”ってなんだよ?」って話だと思うけど、まずはこれは完全に僕の造語です。まず、どこの街にもわりあいみかけるタウン誌の編集室をイメージしてみてください。タウン誌って、その街に住んでいる普通の人のインタビューが載っていたり、そこに住んでないと行かないだろう地元の名店が紹介されてたり、あと「これ譲ります/これ探してます」的なローカル感たっぷりの企画が満載ですよね。

それと何よりもその街ならではの些細だけどとっても芳醇な記憶の数々が登場していたりする。ああいうのを文字だけでなく「音楽(音)」として発行してみたらどんなことが起こるのだろう?っていうのが、この取り組みをやるシンプルな動機。だからその街ならではの広義の「音楽」をリリースするレーベルということで「タウンレーベル」という名をつけたのだ。

ある特定の街ならではの出来事や記憶を編集する行為は、これまでもトークイベントや冊子というカタチでは取り組んできたけど、僕にとってもそれを「音楽」として落とし込むのは初めてのこと。メディアイメージとしては、かつて存在したテキストと音楽のミクストメディアであり、ジャーナリズムと芸術のひとつの融合の在り方を示してくれた「朝日ソノラマ」のような存在を、ひとまず想定しているが、そこもどんどん参加者と議論をしてゆく予定。

11月23日(祝)は僕自身がライブ演奏も交えながらこのプロジェクトへの思いと内容をプレゼンする説明会を開催し、その12月以降はサウンドメディアの歴史的変遷に詳しい音楽学者や、雑誌や音楽など幅広いフィールドで活躍する編集者などと共に勉強会も行ってゆく。詳しくは、以下の企画概要をご覧いただきつつ、もしご関心あらばぜひ、「音楽×記憶×街」というキーワードで一緒に楽しいワルダクミをしてくれる人(タウンレコーダー)として関わっていただきたい。

「千住タウンレーベル」、参加者募集説明会チラシ。
裏面も含めて以下でダウンロード可能。
http://aaa-senju.com/2016/wp/wp-content/uploads/2016/11/asadawataru.pdf

まちの記憶を、「音楽」として編集・リリースする「千住タウンレーベル」が始動。まちに繰り出し、言葉と音を収録・編集する 「タウンレコーダー」(記者)の募集説明会を開催します!!

千住タウンレーベルとは〜音楽×日常で粋に遊ぶ〜

東京都足立区千住地域を舞台に「音」をテーマにしたまちなかアートプロジェクトを展開する「アートアクセスあだち 音まち千住の縁」(通称:音まち)。音まちではこの秋から、言葉や音楽を用いて新しい日常を生み出すアーティストの アサダワタルとともに新プロジェクトを立ち上げます。その名も「千住タウンレーベル」

千住で生活してきた市井の人々の人生譚(記憶)、千住のまちならではの風景や人間模様にまつわるエピソード、千住に根づき息づく音楽など、これらすべてをテキスト(文字)だけではなく、「音楽」として編集し、東京藝術大学やまちなかの拠点を編集室(スタジオ) として、発信・アーカイブしていくプロジェクトです。

■タウンレコーダーとは
このまちにしか存在しない、まちの情報サロンのような「タウンレーベル」。「音楽 × 日常」の新しくもヘンテコなあり方を追究する『音盤千住』(仮称)を定期的にリリース。この『音盤千住』リリースに向けて、まちなかでさまざまな取材、録音、編集などをおこなう「タウンレコーダー」(記者)を募集します!! ご興味のある方は、ぜひ説明会にご参加ください!

【タウンレコーダー募集説明会】
日時:平成28年11月23日(水・祝) 14:00~17:00
会場:東京藝術大学 千住キャンパス(東京都足立区千住 1-25-1)
アクセス:北千住駅[西口]より徒歩約5分
料金:無料要事前申込 定員:30名程度(事前申込優先)

内容:アサダワタルによるプレゼンテーションとミニライブ、住民のまちの記憶や音楽をテーマにしたワークショップ。参加者のみなさんと、頭と身体を使って「千住タウンレーベル」のコンセプトを共有します。

・その後の様々なプログラム、詳細、お問い合わせはこちらのプロジェクトサイトへ。
http://aaa-senju.com/asada

第2回《長野》アルプスの図書館に「黒船」がやってきた

2016年11月7日
posted by 野原海明

これがあの県立長野図書館?

長野駅に降り立ち、にぎわう善光寺口ではなく、反対側の東口へと向かう。開発途上の通りをぶらぶらと歩くこと約10分。タクシーに乗るなら「図書館へ」と言うより「ホクト文化ホールへ」と言ったほうがわかってもらいやすい。若里公園の緑の中、ホクト文化ホールと並んで、県立長野図書館はある。現在の場所に移転したのは1979(昭和54)年。かつての県立図書館は建て替えられ、その場所には現在、長野市立図書館がある。

県立長野図書館(撮影:野原海明)

ホクト文化ホールとおそろいの赤煉瓦風の外壁は重厚さを感じさせるが、なにしろ移転してから40年という歳月が経とうとしている。2階にあるメインの閲覧室は、県立図書館にしてはあまりにも狭い。その割に3階の自習室に贅沢なスペースを割いていて、受験生には人気のようだ。夏休みともなれば開館を待つ長い行列ができる。

手狭な閲覧室に比例しているのか、資料購入に掛ける予算も控えめだ。同じくらいの人口を抱えるお隣りの岐阜県と比べてもその差は明らかである。県立図書館に力を入れている岡山県や鳥取県と比べてしまうと、こう言っちゃ失礼だが目も当てられない感じだ。

県 名 人口(千人) 都道府県立図書館資料費

(2013年度予算額)

資料費

(万円)

人口当資料費(万円)
長 野 2,146 2847 13.3
岐 阜 2,069 5000 24.2
岡 山 1,932 17535 90.8
鳥 取 589 10206 173.4

(日本図書館協会『日本の図書館 統計と名簿 2013』より)

そんな県立長野図書館が、このところ変わり始めている。いたるところに貼られていた「静粛に」や「飲食禁止」の貼り紙は見られなくなった。閲覧室に入ると、まず出迎えるのは「メディア・スクランブル~情報の今を歩く~」というコーナーだ。インターネットやデータベースが使えるPC端末に加え、8台のタブレットがずらりと並ぶ。

メディア・スクランブルと名付けられた一角。(撮影:野原海明)

そしてその奥、かつて新聞や雑誌が並んでいた場所には、新しく「ナレッジ・ラボ~これからの知の実験室~」というスペースが設けられた。通常の図書館なら、講演会やワークショップは閲覧室とは別の「多目的室」などで開催して、他の閲覧スペースには音が漏れないように配慮するだろう。しかしリニューアルした県立長野図書館の場合、なんと閲覧席と同じ室内であるこの場所で、当たり前のようにマイクを使った催し物が開かれるのだ。スクリーンを前に話す講師には、向こうの席で普段と変わらない様子で、新聞をめくる利用者の姿が見えるだろう。

「うるさいとか、苦情はこないんですか?」と職員に訊いてみると、「私たちもどうなるかと思ってドキドキしていたんですけど……」と言う。とくにクレームはきていないらしい。なお、通常の閲覧スペースは「ジェントル・ノイズ~蓄積された知のささやき~」と名づけられている。完全な静寂ではなく、音が発生することを了解してもらう場所だ。

完全な静寂ではなく、適度なノイズを許容する作業スペース。(撮影:野原海明)

さらに静けさを求める利用者のためには、「サイレント・コクーン~みんなの書斎~」という、申し込みせずとも使える個室が用意されている。様変わりしたフロアに、図書館協議会の委員からも「あの県立図書館でもこんなに変われるのか」と驚きの声が上がった。

伊那谷は「屋根のない博物館」、図書館はそこにある「屋根のある広場」

県立長野図書館の改革は、思い切った人事によりスタートしたと言えるだろう。2015年春、県の教育委員会は、それまで伊那市立図書館の館長であった平賀研也氏を、特定任期付き職員(部長級)として県立図書館館長に迎えた。

長野県立図書館館長の平賀研也氏。(撮影:野原海明)

平賀氏は、もともと図書館畑の人間ではない。バブル真っ盛りの頃は、自動車輸入販売の会社で、法務や経営企画のマネージャーとして毎日深夜まで働いていた。その後、息子の小学校入学と同時に長野県の伊那市に移り住む。東京と伊那を行き来しながら公共政策シンクタンクの研究広報誌編集主幹などの仕事をしていたが、移住した伊那に自分の力を還元できないかと考え続けていた。

そんな中、2007年に伊那市立図書館の館長が公募される。これこそが自分のやりたかった仕事だと手を挙げた。情報と情報、情報と人、人と人とを繋いで、地域を変える。それができるパブリック空間こそ、図書館だろうと思った。しかし、飛び込んでみた図書館の世界は、平賀氏が思っていたものと違っていた。児童サービスや貸出サービスに重きが置かれ、1980年代の様子と変わらない。情報の世界はどんどん先に進んでいるのに、図書館の中だけ時が止まっているかのように。

それでも、何かやってみなければ始まらない。館長となった平賀氏は、伊那市からさらに同じ生活圏を持つ「伊那谷」まで視点を広げ、その地域一帯を「屋根のない博物館」と呼んだ。3000m級のアルプスに囲まれたこの場所には、そこで暮らしてきた人たちの知識や情報がつまっている。そして図書館はそんな屋根のない博物館において、人と情報、人と人とを結びつける「屋根のある広場」であるのだ。

「伊那谷の屋根のない博物館の屋根のある広場へ」。伊那市立図書館は新しい方向へ向かって進み始めた。主役は図書館という「ハコ」じゃない。図書館は、地域をつなぐハブに過ぎない。ハコを飛び出して地域を歩くプロジェクトが始まった。

タブレット端末にダウンロードした古地図アプリ「高遠ぶらり」を使って、地域を歩くワークショップ。過去の歴史と現在の情報がクロスし、古地図と現在地がクロスする。伊那市立図書館は、ハコの中で情報がやってくるのを待つのではなく、地域へ出掛けていく図書館となったのだ。この取り組みが高く評価され、Library of the Year 2013 の大賞を受賞することになる。選考の過程については、氏原茂将氏の「Library of the Year 2013が投げかけるヒント」に詳しい。

おれが平賀館長に会ったのは、Library of the Year大賞受賞の翌年、2014年の春だった。休館日に突然、伊那市立図書館に押し掛けたアカデミック・リソース・ガイド株式会社の一同を見て、館長は「アヤシイやつらが来たぞ」と思ったに違いない。「いろんな集まりとか主催してて、なんか胡散臭い会社だなあって思ってたんだよねえ」と、最近になって漏らしていた。

ともあれ、そんな誤解も解けてすっかり仲良くなった頃、県立図書館館長へ就任するというニュースが流れてきたのだ。図書館界の異端児による改革が始まったのである。

長野県から図書館を変える「信州発・これからの図書館フォーラム」

平賀館長の最初の改革は、館内に無数に貼ってある注意書きをはがすことだった。「まずはさ、全部はがしてみよう? それから、本当に必要な掲示を考えようよ」。続いて、関係機関と協働で情報発信する場として、公式のFacebookページ「山の見える図書館―信州のまち・ひと・としょかん」が立ち上がった。

突如始まった改革に、それまで勤務をしていた職員は目を白黒とさせただろう。「みんなに“館長”じゃなくて、“ひーさん”って呼んでいいんだよって言ってるんだけど、誰も呼んでくれないんだよねえ」とこぼしていた。そりゃそうだ。就任したばかりの2015年夏、貼り紙が無くなりすっきりした館内を案内してくれた“ひーさん”は、ちょっと寂しそうに見えた。

2015年のお盆はわりかし暇で、おれは社長の岡本真とともに岐阜と長野の図書館を見学してまわっていた。ともにゴールド・ペーパードライバーである二人に同情した平賀館長は、「それなら僕が運転するよ」と車を出してくれた。贅沢にも、県立図書館長の車で巡る信州の図書館の旅である。

初めて訪れた地方の図書館で「館内の様子を写真に撮りたいのですが」と言うと不審に思われることがよくある。もちろんプライバシーに配慮して、利用者は決して写しませんと断っても、許可が降りないことも少なくない。でも、県立館長がいるなら最強だ。「県立図書館長ですけど、写真撮っていいよね?」でばっちりだ。突然現れる平賀館長に市町村図書館の皆さんはびっくりしただろうけれど、直接相談する貴重な機会になっているようだった。

「ひーさん、この駐車場、関係者専用って書いてあるけど大丈夫かな」
「ええい、俺は県立図書館長であるぞよ!」

なんていうジョークを飛ばしながら、北信の図書館を訪ねまわった。おれが安心しきって後部座席でうつらうつらしていると、平賀館長と岡本の会話が聞こえてきた。都道府県立の図書館が一堂に会する「都道府県立サミット」とか、やりたいよね。やるなら絶対、長野だよね。

一年後、それが本当に実現するとは。「県立長野図書館事業費 事業改善シート(28年度実施事業分)」を見ると、新規に要求された予算に「図書館改革事業費」という項目が見られる。冒頭で紹介したタブレット端末の導入費の他、一連のフォーラム開催に充てる予算がついたのだ。この予算をもとに、県立長野図書館と塩尻市立図書館が共催し、実行委員会方式で「都道府県立図書館サミット2016」が塩尻で開催された(この記録は『ライブラリー・リソース・ガイド(LRG)』第17号(2016年11月14日発売)をぜひともご参照いただきたい)。

「信州発・これからの図書館フォーラム」県立長野図書館というFacebookページも立ち上がった。一年を通して開催される様々なフォーラムやワークショップの情報はこちらで更新されている。そのうちのひとつ、「可能性を形に。これからの『図書館』想像(創造)会議」という3回連続のワークショップに参加してみた。開催場所は、閲覧室に新しく設けられた、あの「ナレッジ・ラボ」である。

ファシリテーターを務めるのは、信州大学工学部建築学科の学生たち。「まちの教室」のメンバーが彼らをサポートした。現在の県立長野図書館をどんなふうにリノベーションしたらよいのか、参加者とともにプランを考える。

「可能性を形に。これからの『図書館』想像(創造)会議」の風景。アイデアをどんどんポストイットで貼り出していく。(撮影:野原海明)

平面図から立体模型を制作してさらに検討。(撮影:野原海明)

テーマは「子どもが世界に『夢中になって』触れていくには?」「多様性が『共存する』空間とは何か?」「利用者にとってのバリアとの『上手な付き合い方』とは?」の三つ。参加者は、現役の建築家に図書館司書、書店員やデザイナー、学生など。初回の議論が第2回には図面になり、第3回には模型になった。ワークショップの中でつくられた案はあくまで「想像」だけれど、そこには現実の図書館を「創造」していくパワーが確かに生まれていた。

書庫に眠る本をいかに魅力的に見せるか

様変わりしたのは催し物だけではない。平賀館長が以前、「書庫にはすごいもんが眠ってんのよ」と話していたが、それらをうまい具合に見せた企画展示が展開されている。2015年夏には、戦後70年特別企画として「発禁 1925-1944;戦時体制下の図書館と知る自由」が開催された。これは、書庫に眠っていた『出版物差押通知接受簿』や、差し押さえの対象となった資料を展示するという企画である。これらの展示資料は、今もなおデジタルアーカイブ「信州デジくら」で公開されている。

県内の5つの図書館、博物館、美術館などの資料を集めたデジタルアーカイブ「信州デジくら」で、企画展示の内容の一部が閲覧できる。

2016年11月現在の展示は、「Re’80(リ・エイティーズ)-バブルでトレンディだった新人類たちへ-」という、おそらく日本で初めての展示物をお持ち帰りできる企画展だ。「貸出」できるのではなく、自分の本として持ち帰れるのである。展示されているのは、1980年代に出版された約500冊の本で、それらが当時の世相や流行とともに並べられている。そしてこの80年代の本たちは、実は「除籍本」なのだ。

除籍本をリサイクルとして利用者に提供するという取り組みは多くの図書館が実践していることだが、それを企画展にしてしまおうという発想は他には見られなかったものではないだろうか。日々、展示物は「お持ち帰り」されていくので、次々に新しく除籍本が追加されていく。

全国の図書館初の快挙(?)とも言われる、「お持ち帰り」のできる企画展も開催。

「とくべえ」の巨大コロッケに匙をいれる

さて、「とある雑誌の原稿がまだ書けていない」と暗い顔をした平賀館長を飲み屋に連れ出す。今も伊那市に家族と住んでいて、勤務日だけ長野市内の部屋で寝泊まりしているという平賀館長は、長野駅周辺の飲み屋にはあまり詳しくないと言う。そこで、以前から街を歩いていて気になっていた飲み屋にお供していただくこととする。

「とくべえ」外観。赤ちょうちんが灯らない時間帯は廃屋にみえる。(撮影:野原海明)

最近新しくできたホテル、ドーミーイン長野の建つ裏通りに「とくべえ」という飲み屋がある。昼間に見ると、ほとんど廃墟のようだ。日が暮れて赤提灯が灯ると、やっと廃屋でないことがわかる。暖簾をくぐると「未成年?」と女将にしかめっ面で言われた。いえいえ、童顔ですが30代です。旅行者には少し立ち寄りづらい雰囲気かもしれない。観光客向けの飲み屋のように、蜂の子やざざ虫のような珍味は置いていない。

ここの名物は、呆れるほど巨大なコロッケ(650円)だ。半分に割ると、とろとろの中身が流れ出るので匙が欠かせない。チーズ入り(700円)もこれまた絶品である。平賀館長と、育休から戻ったばかりという職員と、3人で舌鼓を打つ。

とくべえの名物、巨大コロッケ(撮影:野原海明)

平賀館長が席を立った隙に、彼が県立図書館にやってきた日のことを訊いてみた。

「カンチョーが来たとき? そりゃあもう、黒船襲来!って感じでしたよ」

ああ、やっぱり……。あるイベントで、信州のゆるキャラ・アルクマくんの着ぐるみを「着てみたい」という館長に、皆うろたえたというエピソードも聞かせてもらった。県立図書館館長就任から1年半。去年は寂しそうに見えた“ひーさん”だが、今年は迫る〆切に苦悩しながらも、どこか楽しそうである。残り半分の任期で、県立長野図書館はどんなふうに変わるのだろうか。アルプスに襲来した黒船が、日本中の図書館を開国させることをつい期待してしまう。

「〆切があるから早めに帰る……」と言っていた館長は、店を出る頃には「もう1軒行くぞ! 次はカラオケだ!」と大変元気になっておられた。ひーさん、次回はぜひとも、お膝元の伊那谷の飲み屋を教えてくださいませ。

(つづく)


【お知らせ】
第18回図書館総合展 ARGオープンオフィス「未来の図書館をつくる場所」では、11月9日(水)13:00~14:30のLRG最新刊連動企画 「都道府県立図書館サミット」をふりかえる+「信州発・これからの図書館フォーラム」県立長野図書館からの報告に、平賀館長がやってきます。
https://www.facebook.com/events/861054220662945/

また、『ライブラリー・リソース・ガイド』第13号の「司書名鑑」に、平賀館長のインタビュー記事が掲載されています。
http://www.fujisan.co.jp/product/1281695255/b/1313540/