第4回 デジタル時代はマンガ編集者を変えるか?

2017年8月24日
posted by 中野晴行

旧来のマンガ編集者の役割

長年、日本のマンガ業界、とくに雑誌では、マンガ家と編集者、あるいはマンガ家と原作者、編集者がタッグを組んでひとつの作品を生み出してきた。マンガ家と編集者は企画について話し合い、編集者は必要な資料を集めたり取材の手配をしてマンガ家をサポートする。

「新連載でボクシングの6回戦ボーイを主人公にしたい」というマンガ家・ちばてつやの希望をきいた「週刊少年マガジン」の担当編集者・宮原照夫が、原作者の梶原一騎を紹介し、そこから名作『あしたのジョー』が生まれたというエピソードはあまりにも有名だ。

編集者とマンガ家がアイディアを出し合い、マンガ家や原作者がそのアイディアをシノプシスにまとめあげて、ネーム原稿(セリフと大まかなコマ割りが入った状態)が上がれば、マンガ家の仕事場や近所のファミレスなどでさらにブレスト。マンガ家は、編集者のダメ出しをもとに修正を加えて、OKが出ればいよいよ本格的な下描きに入る。

原稿がアップしても、編集者の指示でさらに描きなおすこともある。いまは、FAXやメールでネームのやりとりすることも多くなっているが、直接編集者の顔を見ないと納得しないマンガ家も多い。編集者は、マンガ家がスランプのときには励まし、体調には常に気を配り、生活そのものをサポートすることもある。

だから、マンガ家と編集者の間には強固な信頼関係が生まれる。600万部時代の「週刊少年ジャンプ」で名物編集長だった堀江信彦が、集英社を離れて2006年に設立したマンガコンテンツの制作・配給を行う会社・コアミックスは、パートナー企業の新潮社の他に、編集者時代の堀江と深い繋がりがあった『北斗の拳』の原哲夫、『シティ・ハンター』の北条司が資本金を出資して役員になっている。これほど大掛かりでなくとも、編集者が移籍したのでマンガ家も雑誌を移った、とか、頼りにしていた編集者が辞めてしまったので描けなくなったというような話は少なくない。

新人の場合、編集者の役割はさらに大きい。新人を担当する編集者は、マンガ家が地方在住なら足繁く足を運び、ストーリーの立て方や構図のつけかた、引きのポイントに至るまで細かく指導する。鳥山明が『Dr.スランプ』でブレイクする以前、「週刊少年ジャンプ」で担当編集者だった鳥嶋和彦が通算500枚にも及ぶ原稿にボツを宣告し、それによって鳥山がマンガ家としての腕を磨いたという話は有名だ。

上京した新人のためにアパートを探したり、忙しくなればアシスタントを手配したり、ご馳走を食べさせたり……まさに二人三脚である。

もちろん、こうした日本独特のやり方に対しては、マンガ家や読者からの批判もあった。

マンガ家が描きたいものが編集者によって変えられて、まったく別の作品になってしまう。マンガ家と編集者が合わないと、マンガ家がやる気をなくしてしまう。編集者が口を挟みすぎる……。コミケなどの同人誌即売会で売れているアマチュアの中には、出版社がデビューをオファーしても断る人が多い、という話も聞く。理由は「編集者から束縛されたくないから」だ。

とはいえ、日本のマンガが、マンガ家、原作者、編集者というそれぞれ異質な存在が起こす化学反応によって発達してきたことは間違いのない事実だ。多くの編集者がそのことを誇りに思って、マンガ家とともに優れた作品、ヒットする作品を生み出そうと日々研鑽を積んできたのである。日本のマンガがここまで発展してきたのは、この三者の幸せな関係があったから、と言ってもいいかもしれない。

しかし、電子コミックの登場はマンガ家と編集者の関係にも影響を与えようとしている。

マンガ家自身がコンテンツを発信

ひとつは、電子コミックの登場によって、マンガ家が出版社に頼ることなく作品を不特定多数の読者に向けて発表するルートができた、ということだ。

それまで、マンガ家は出版社に原稿を渡し、出版社が雑誌や本の形にして取次に配本を依頼し、読者は本屋でそれを買うというルートが不可欠だった。出版社や取次を通さなければ、マンガ家の描いた作品が読者に届かないという仕組みになっていたわけだ。もちろん、マンガ家が自費出版してコミケや通販で売ることはできる。しかし、不特定多数の読者に広く売ることは困難で、収益を上げることはさらに難しい。プロのマンガ家として生活していくためには、出版社との関係を絶つことは現実的ではなかったのだ。

それが電子コミックの登場で大きく変わった。

2009年夏、『ブラックジャックによろしく』などの作者・佐藤秀峰は「脱・雑誌」を宣言して、今後の新作は自分が立ち上げたポータルサイト「佐藤秀峰 on Web(現在は マンガ・オン・ウェブ)」で電子コミックとして発表した後、雑誌に連載し、単行本にまとめると公表した。

同年の秋に、私はイーブック イニシアティブ ジャパンのメルマガ『マンガ最前線』のために佐藤へのインタビューを行った。このとき佐藤が口にしたのは、出版社が軒並み赤字を出している状況への危機感だった。赤字が続けば、いつかマンガ雑誌という紙媒体はなくなる。媒体がなくなる前に、自分の発表場所を確保することが「脱・雑誌」を決めた一番の理由だったというのだ。

佐藤は、専門家に依頼して2年がかりでシステムを構築し、決済システムやサーバーも外部に委託した、と説明してくれた。このときはまだ、電子コミックは携帯コミックの時代だったが、佐藤が選択した閲覧用デバイスはパソコン。あえてパソコンを選んだのは、コマごとに切り出す携帯コミックはマンガではない、という判断からだ。オリジナルのビュワーはモニター上で見開き単位で読める上に「めくり」を思わせるギミックもちゃんと備わっていた。

電子化によって出版社や編集者のサポートがなくなる不安がないのか、と質問すると、佐藤は、自分の場合は出版社主導ではなく作品を描いてきたので、執筆上の大きな変化はない、と答えた。

この日の取材では、初日の売り上げは10万円で、1ヶ月では70万円程度ということだったが、当時はまだパソコンで電子コミックを読む人の数は少なかったから、この数字は当時としてはかなりの健闘だったといえる。

ただし、この成功は、佐藤のようにネームバリューがあり、システム構築をする資力があるマンガ家だからできたことであって、アマチュアや新人がこれを真似ても同じような結果にはならなかっただろう。

取材を終えて私が抱いた感想は、「単行本が20冊以上出ている中堅以上のマンガ家にとっては、電子コミックを利用した「脱・雑誌」は可能かもしれないが、できるマンガ家の数は限られている。新人の育成ということを考えると出版社や編集者の存在価値は変わらない」ということだった。

やがて、この考えは一部変えざるを得なくなる。スマートフォンやタブレット端末の登場によって、ページ単位や見開き単位で読むことができる電子コミックの普及が加速したからだ。

なかでも、ネット書店最大手のアマゾンが、電子書籍の自費出版をサポートするサービス「キンドル・ダイレクト・パブリッシング(KDP)」のサービスを2013年にスタートさせたことは大きなエポックとなった。

同年、マンガ家の鈴木みそは、自らの旧作『限界集落(ギリギリ)温泉』(全4巻)をKDPを使った個人出版のキンドル版として発売。1ヶ月で2万部以上を売り、ロイヤリティ収入として283万円を稼ぎ出した。この数字は、定価600円の単行本コミックスを4万7000部出したときの印税とほぼ同じだ。のちには1年間で1000万円を稼いだと公表されて話題になった。

まとまった未刊原稿や絶版状態(品切れ重版未定を含む)の単行本がいくつもあるマンガ家にとっては朗報と言えるだろう。2014年、鈴木は自分自身の体験をもとに、デジタル時代のマンガ家や編集者の生き方を啓蒙するマンガ、『ナナのリテラシー』(全3巻)を発表して話題になった。

ただし、すでに一定以上の評価を受け、鈴木のようにセルフ・プロデュースができる中堅クラスにはまたとないチャンス到来かもしれないが、描くことは好きだが、セルフプロデュースは苦手というマンガ家やデビュー間もない新人、これからマンガ家を目指そうというアマチュアにとっては、KDPもまだまだ敷居が高いサービスだと考えられる。自費出版レベルならいいだろうが、これで食べていくことは難しい、と言わざるを得ない。

投稿者と読者を直接つなぐCGM

一方で、手軽に作品を発表して、「電子コミックのプロ」になれると注目されているのが、「コンシューマ・ジェネレイテッド・メディア(CGM)」と呼ばれるものだ。ニコニコ動画やpixivなど、利用者が自分の手でスマートフォンや携帯タブレット向けのコンテンツをつくって手軽に発信できるというサービスで、一般にはウェブの「投稿サイト」として知られている。

サブカルチャー・ジャーナリストの飯田一史は『マンガの現在地! 生態系から考える「新しい」マンガの形』(島田一志・編著/フィルムアート社)に寄稿した「CGM――ネット時代のプラットフォーム」で、CGMと旧メディアの違いを次のように説明している。

①(紙の雑誌で育った)編集者がいない
②投稿作品に対して反応がすぐ来る即時性とリテンションの重要性(少量多頻度更新が好まれる)
③書き手および読者が自分でタグを付けられる/タグや設定の自己増殖的な現象が起こる
④各種プラットフォームごとにユーザーが年齢性別趣味嗜好別に棲み分けている

つまりは、過去のマンガの常識にとらわれた編集者という存在がいなくなることで、描き手が自由に作品を発表し、読者と直接、かつインタラクティブに付き合いながら作品を描き進めていくことができるということだ。

スマートフォンやタブレット端末向けに無料配信されている電子コミックのコンテンツの多くは、CGMに投稿された作品から成り立っている。その意味では、CGMが電子コミックの主流をつくりはじめている、とも言える。

例えば、2013年10月に日本でサービスが始まった、韓国のIT企業・NHNエンターテインメントの子会社・NHN comicoが運営する無料マンガ配信サイト「comico(コミコ)」の場合、①配信される作品は誰でも投稿可能な「チャレンジ作品」、②「チャレンジ作品」の中から人気のある作品を運営側が審査して選ぶ「ベストチャレンジ作品」、③「ベストチャレンジ作品」で評価が高い作者や、運営側がスカウトやキャンペーンで勧誘した「公式作品」というランク別で公開される仕組みになっている。

投稿者はアクセス数によってランクアップし、公式作品になれば原稿料が支払われ、単行本化やテレビアニメ化などのメディア展開もされることになる。2014年には公式作品から宵待草の『ReLIFE』をはじめ、紙の単行本化されてヒットする作品が生まれ、一気に注目を集めた。

また、2007年9月にイラストの投稿サイトとしてベータ版がスタートした「pixiv(ピクシブ)」は、投稿者のイラストを中心に投稿者、読者それぞれがコメントやタグをつけることで交流をしていく、ソーシャル・ネットワーク・サービス(SNS)機能を持った投稿サイトとして利用者を拡大してきた。マンガに正式対応したのは2009年9月。その後、電子書籍のプラットフォームとしての機能を持たせ、紙の出版社のコンテンツもアプリとして配信するほか、サイト内に電子コミック誌も展開。ふじたの『ヲタクに恋は難しい』などのヒット作を生むようにもなった。

後発の会社も含めIT系ベンチャーが運営する電子コミック配信サイトでは、マンガ編集の経験がある編集担当者は置かずに、アクセス数や読者のクリック数などを参考にして、作者コメントと読者コメントによって作品作りを進めていくところがほとんどである。「電子コミックに編集者は不要」と言い切るところもある。前出・飯田の言うCGMの特性からすれば、当然の帰結なのかもしれない。

編集者が語る「未来の編集者」

電子コミックの時代になると、マンガ家と編集者が共に作品を作っていくという日本スタイルは滅びてしまうのだろうか? 編集者という仕事そのものがなくなってしまうのだろうか? 現役の編集者の声を聞いてみることにした。

「描き手を導くという点では編集者の必要性はなくならないと思います。いたほうがいい存在というか」と語るのは、先に紹介した『マンガの現在地! 生態系から考える「新しい」マンガの形』の編著者でもある島田一志だ。

島田はフリー編集者として小学館の「週刊ヤングサンデー」編集部に在籍。その後、河出書房新社の「文藝別冊」などの編集に関わり、 長くコミック関連書籍を作ってきたベテランだ。島田はこう続ける。

若い人にマンガを紹介したときに、よく聞かれるのが「キンドルで読めますか?」ということです。以前なら、文庫に入ってますか、だったと思うんです。その意味では確実に時代は変わってきてます。スマホやキンドルで読むのが主流だとすると、これまでの見開きで読むという概念はやがて通用しなくなります。そうなると、我々のような紙のマンガの古い方法論でやってきた編集者がいらなくなるのもわかります。

でも、作品作りという面で考えると、ベテランのマンガ家はともかく、若いマンガ家の場合は編集を含めた多くの人間が関わっていかないと、本当に面白いものはできないと思うんです。自分の作品には誰も関わって欲しくないというマンガ家もいるかもしれないけど、それはもったいないな。ぼくらの仕事はバレーボールのトスを上げるようなものなんです。誰かがいいトスを上げないと、アタッカーはスパイクできない。自分自身が電子コミックを読んでいて、これは、という新作が出ていないのはいいトスが上がってないことに原因があるのかもしれない。

では、これからの時代に必要な編集者の心得とはなんだろうか? 島田は言う。

少なくとも僕は、新しいものが出てきたときに、「それ違うよ」と否定するような頑迷な編集者(オヤジ)にはなりたくないですね。面白そうなら、止めないスタンスです。新しいもの芽を摘むことだけはやってはいけない。

私のまわりで言えば、ここ1年くらいで、IT系の運営会社から「マンガがわかる編集者はいないか」という問い合わせを受けることが増えている。おそらく、現状では電子コミックも最終的には紙に落とし込まないと収益化できない、という理由が主なのだろうが、細かく話を聞くと、島田の言う「トスを上げる」人間がいないといい作品(アクセスが多い作品)をつくることが難しい、ということに気づいたのではないか、とも思われるのだ。

「電脳マヴォ」のトップ画面。

もうひとり、話を聞いたのは無料オンライン・コミック・マガジン「電脳マヴォ」編集部の小形克宏だ。「電脳マヴォ」は2012年1月に、編集家の竹熊健太郎が発行人兼編集長として創刊。埋もれている才能の発掘とプロデュースに編集のプロが関わっていくスタイルを貫いてきたユニークな存在でもある。2016年に全4話で掲載された加藤片の『よい祖母と孫の話』は2000万PVを記録し、同年9月に小学館クリエイティブから単行本化され話題になった。小形は言う。

電子コミックでは編集者の役割は紙以上かもしれません。たとえば、IT企業の担当者とマンガ家では文化が違う。ビジネスと芸術ですから、本来まったく相容れないものです。その間に立ってお互いのメッセージを伝え、スムーズに仕事ができるようにするのも編集者の大切な役目になります。マンガ家の立場を守りながらビジネスマンとやり取りするわけですから、結構ハードな仕事ですよ。

また、現状では、紙の単行本にしないとリクープできないわけですから、紙で読むことを前提にした作品づくりという、これまでどおりの編集者の仕事もあります。海外に配信する場合には、コマ割りを変更したり、ネームの位置を変えることもあります。その場合も、われわれ編集者がマンガ家をサポートします。もちろん、才能を発掘して、作品をよりよいものに育てる役目もあります。『良い祖母と孫の話』も加藤さんがネットで発表したオリジナルは16ページの短編でした。

単行本版『良い祖母と孫の話』のカバー。

小形が説明する電子コミックの編集者の姿は、編集者であると同時に出版エージェントの仕事にも極めて近いものだ。先に紹介した鈴木みその『ナナのリテラシー』の中でも、これからの時代の編集者は出版社を離れてマンガ・エージェントとしてマンガ家を支えてはどうか、というアイディアが提示されている。「電脳マヴォ」はそれを先取りしているわけだ。実は、「電脳マヴォ」のエージェント業務には重要な新機軸が隠されているのだが、それに関しては章を改めて詳しく書くことにしたい。

いずれにしても、小形たちのような存在が増えれば、鈴木のような自己プロデュース能力を持ったマンガ家でなくても、電子コミックで利益を上げることができるようになるのではないか。これはこれからの時代のマンガ家には心強い存在だ。

結論を言えば、マンガ編集者の未来は、編集者自身が時代の流れに合わせて自らをいかに変えていくか、という一点にかかっている。出版社という組織に帰属して安穏と暮らすことは難しくなるかもしれない。だが、新時代のマンガを生み出すという気概を持ったマンガ編集者にとって、未来は明るいのではないだろうか。

福岡の出版社、書肆侃侃房の挑戦

2017年8月17日
posted by 積読書店員ふぃぶりお

いわゆる“本屋本”と呼ばれるジャンルが、近年では確立している。これは、書店経営者や書店員などの「本屋」に携わる人々の書く出版物として、大型書店などでは棚1本にまとめきれないほど数が増えている。直近の刊行物で言えば、大井実『ローカルブックストアである:福岡ブックスキューブリック』、辻山良雄『本屋、はじめました』、田口幹人『まちの本屋』などである。

列挙した上記三つの作品を通読してみると、共通するキーワードがあることがわかる。それは、“コミュニティ”としての本屋であり、「本」を手に取ってもらうための仕掛けだ。どの本にもそのエピソードや考えが数多く述べられている(ぜひ本屋で手に取ってほしい)。この三氏は、それぞれの地域において、読書や本屋・出版にまつわる地域イベントとの関係性が近く、かつ深い。

本屋Titleの辻山さんはブックマークナゴヤ(愛知県名古屋市など)、さわや書店の田口さんはモリブロ(岩手県盛岡市)、そしてブックスキューブリックの大井さんはブックオカ(福岡市など)である。

これらのイベントは、「本」を媒介にして、各地域でのお祭りとしての要素はもちろんのこと、読書を普及する上でも欠かせないものとなっている。私は昨年のブックオカ関連イベントにおいて、福岡市の出版社であり、勢いのある「書肆侃侃房かんかんぼう」の方々にご挨拶する機会があった。

ブックスキューブリックの入り口にある平台最前列に置かれた、書肆侃侃房発行「たべるのがおそい」(最手前)。

ブックスキューブリックの入り口にある平台最前列に置かれた、書肆侃侃房発行「たべるのがおそい」(最手前)。

「書肆侃侃房」は、主に小説や短歌、また旅行ガイド等を刊行している。文学ムック「たべるのがおそい」創刊号に掲載された、今村夏子「あひる」が芥川賞にノミネートされて、九州の雑誌からは約20年ぶりの快挙ということで話題にもなった。「たべるのがおそい」は現時点で3号まで刊行されており、大変な反響を呼んでいる。

そこで、経営だけでなく編集にも携わっている書肆侃侃房代表の田島安江さん、編集に加えて経理なども行っておられる池田雪さん、そして特に書店向けの営業を担当されている園田直樹さんの三氏にインタビューをおこなった。

“本づくりに年齢は関係ない”

田島さんは公務員や専業主婦を経たのちに、フリーの校正、編集、ライターなどを経験、編集プロダクションを経て、出版社の書肆侃侃房を立ち上げた。インタビューは出版物として刊行されることの少ない、地方出版史としても興味深い話から始まった。

田島 出版に関わるようになったのは、葦書房に在籍していたころです。葦書房はもともと、東京書籍にいた人たちが分かれてつくった会社です。社長は当時福岡にあった「書店ふくおか」経営のかたわら水上さんが務め、(のちに梓書院を立ち上げた)田村(旧姓河内)さんや久本三多さんらによって始められました。

私は当時、大分で公務員をしていましたが、職場は文学の話題に触れられるような場所ではなく、わずか2年で退職して葦書房に入れてもらいました。葦書房では、印刷会社や福岡県婦人新聞社などに出向するばかりで、出版物の刊行にはやっと3冊ほど関わらせてもらいましたが、給料が払えないとリストラされ、大阪に。その後、札幌で結婚したあと、福岡に戻り、住宅情報雑誌のレポーターやフリーの校正者、旅行ガイド本に関係するフリーのライターなどを経験しました。

1988年に編プロ(編集プロダクション)の会社を設立、その後に1冊まるごとのディレクションに携わったのですが、本づくりを誰からも教えてもらえなかった。そこで、印刷会社などの人たちに教えを乞いました。製本・印刷の一般的な知識はあったけれど、本づくりにかかわるノドや小口、文字の大きさの指定、CMYKなどの詳細な部分は、実際の作業等を通して知識を得ていきました。すべてが手作業でした。

2002年に、“本づくりに年齢はあまり関係ない”と思って、書肆侃侃房を立ち上げました。侃侃房としては350冊程、また編プロとしては100冊ほどに携わってきました。会社を経営する立場になりましたが、いまでも人の原稿を読むことは多いです。

多岐に渡るジャンルを刊行される出版社の代表として、「どのような読書遍歴を歩んできたか」も尋ねてみた。

田島 幼少期に父親が買ってくれた『赤毛のアン』『アンネの日記』が原点で、学生時代には、ゲーテやヘッセ、ロシア文学なども読みました。好きなジャンルはミステリーで、松本清張や横溝正史、夢野久作など日本の作家の作品も読みましたが、北欧とくにアイスランドの作品が記憶に残っています。最近ではアルナルデュル・インドリダソンの作品『湿地』『緑衣の女』を面白く読みました。ほかに衝撃的だったのは、タチアナ・ド・ロネの『サラの鍵』ですね。

文芸雑誌は近年なかなか読めていないのですが、日本の文芸書も読みます。昨年の「本屋大賞」受賞作である宮下奈都さんの『羊と鋼の森』は好きな作品でした。また今村さんの「あひる」と一緒に芥川賞候補にノミネートされて、受賞作となった村田沙耶香さんの『コンビニ人間』も良かったです。仕事柄、詩集と歌集はつねづね読んでおり、文庫を持ち歩くことも多いです。

 文学への想いを熱く語る、書肆侃侃房代表の田島さん

文学への想いを熱く語る、書肆侃侃房代表の田島さん

装幀や校正をひとりでディレクションするだけでなく、「創業当時は私も池田も営業していました」と田島さん。「その後、短い間でしたが営業もいました。彼と入れ替わるように園田さんが入社したのですが、みんな営業も発送も何でもした」とのこと。20kgはある本の箱を抱えて、エレベーターがないビルの3階まで駆け上がっていたというエピソードには驚かされた。そうした経験を踏まえて、「ひとりで本をつくらない」という田島さんの言葉が印象的であった。

田島さんの姿勢は、“楽しむことが一番”というものだ。「本って、人に出会って初めて成立する」という考えのもとで、原則的に「著者の人には必ず会いに行く」という。定期的に発刊される新鋭短歌シリーズでは、同時期に刊行する著者や監修の方にも会い、さらにイベントにも参加しているとの言葉にも、熱量を感じた。

余談であるが、書肆侃侃房が日々携わっている作品などについては、ブログ「つれづれkankanbou 福岡の出版社「書肆侃侃房」の日々をつづる。」で詳しく読むことができる。
ぜひとも関係者の“熱”を、等身大の文章で書かれた記事から感じてとってほしい。

芥川賞候補作を生んだ文芸誌「たべるのがおそい」

「たべおそ」の解説をする田島さんの前には“ご縁”をつなげた『牢屋の鼠』も。

「たべおそ」の解説をする田島さんの前には“ご縁”をつなげた『牢屋の鼠』も。

「たべるのがおそい」(通称「たべおそ」)の創刊にも、日頃そのようなアンテナを張っているからこそつながった“ご縁”の力があったようだ。「たべるのがおそい」の編集長を務める小説家の西崎憲さんや「たべおそ」挿画部の方々、宮島亜紀さんらとの出会いのことである。

タイトル名については、採用された「たべるのがおそい」を含めて、数多くの案から選定したという。「人間は食べるのが遅い人も早い人もいて、その中でなぜ遅い人がダメなのか」という話に、関係者の間で議論が進み、多様性や、メインストリームではない人でも受け入れられる素地を残したいとの想いから、全員が良いと考えた「たべるのがおそい」に決まった。

「文学関係の賞受賞者も、最初は新人」だったということを、田島さんは強調する。「たべおそ」では、有名無名を問わず、目次に並ぶ名前は“あいうえお順” で、“文字の大きさ”も同じだ。「この方式なら全部読めてしまう」と、田島さんはこの雑誌がもつ、ある種の「ゆるさ」についても笑いながら話してくれた。これは、西崎さんをはじめ、他の編集スタッフも同じ思いだった。従来の文芸誌と同じことをする気はなかった。ちなみに「たべるのがおそい」は、雑誌コードではなく書籍コードである。

例えば、創刊号に掲載された円城塔さんの「バベル・タワー」は、最初「ファンは男性が多いのでは?」との声があったという。しかし刊行後には、女性からの「(この作品が)好き!」という反応もある、と田島さんは言う。「決めつけは、なし」。この言葉通り、ある面ではヒエラルキーの社会となっている短歌の世界でも、「若い人が既存の雑誌に書かせてもらえない。発表の場を提供したい」という強い願いがあり、「たべおそ」の掲載ジャンルとして短歌も加えたのだそうだ。西崎さんが歌人フラワーしげるであることも大きい。

余談だが、「たべおそ」をすでにご覧になられた方は、その文字組が巧妙に調整されており、また挿画に効果的な意味をもたせた作品の多いことにも気づいたはずだ。

アイデアマンである西崎さんと、これまでの編集・出版の経験を書肆侃侃房の立ち上げに注力した田島さん、そしてこのお二人の周囲に集まった方々との連携によって、3000冊からスタートした「たべるのがおそい」という文学ムックは、芥川賞候補作が掲載されたというニュースやSNS等での反響も呼び込んで、3刷にまで到達した。

円城塔さん以外にも、森見登美彦さん、津村記久子さん、藤野可織さんなどの定評ある小説家、そして穂村弘さんや、近頃ブレイクしている最果タヒさんなどの詩人も、各号にバランスよく掲載されている。なかでも創刊号に掲載された今村夏子さんの「あひる」にまつわるエピソードは、大変印象に残るものであった。

田島 今村さんは“天然”の人。創作する際には、プロットなどを緻密に計算して書くタイプではなく、自然に湧き上がってくる物語を紡ぎ上げて書き連ねていく作風の執筆ではないかと思います。「あひる」の創作の基になったのは、友人とたまたま通りかかった農家の家屋に“あひる”がいる姿を目撃したことだそうです。(芥川賞候補作となった短編の)「あひる」を書評ではメインで取り上げていただくが、この作品集に収められているほかの短編でも、子どもや老女を書くことが上手い。私にとってはどの作品も大変読むのが楽しい文章です。

「今村さんの作品は大手出版社から単行本化した方がよかったかもしれないが、いち早く単行本化希望を伝えていたので、今村さんはすんなりOKだった」と田島さんは言う。しかし芥川賞へのノミネートに関連しては、「今村さんも私もただびっくり」だったらしい。九州の文学・文芸関連雑誌としては、橙書店(熊本市)が編集に携わる『アルテリ』や、伽鹿舎(熊本市)の発行する『片隅』などもあり、「たべおそ」だけが特別というわけではない。

地方の出版社が本屋さんに望むこと

「地方という感覚がなく、逆に地方にいることがメリットになる」という田島さん。日常的に接する「本屋」という存在への想いを尋ねてみたところ、こんなエピソードが印象に残っている、と話してくれた。

田島 歌人の笹井宏之さんの第一歌集『ひとさらい』と第二歌集『てんとろり』を同時刊行した際に、紀伊國屋書店の星真一さん(現グランフロント大阪店長)からお声掛けをいただいたことですね。星さんから、店頭のフェアで短歌関連本を他社本や同人誌も含めて展開したところ、この短歌フェアが「すごく好評でやってよかった」と言っていただいたのが心に残っています。

「地方・小出版流通センター(全国各地の中小出版社を取り扱う取次のような存在)扱いだから置きたくない」とは言われないように、逆に「どうしてこの本を置いていないのか」と読者が書店に伝えてくれるような本をつくりたい、と田島さんは言う。その決意に満ちた口調からは、“本づくり”への強い意志と高い理想が垣間見えた。

インタビューの話題は、「本を手に取る場所」にまで及んだ。ネット書店とリアル書店の両方ともが大事な存在であり、リアル書店のなかにも「どこに行っても同じ本しか置いていない」店があることに警笛を鳴らすことも忘れない。ネットでの通販も、店頭での小売りも、お互いに「どちらか片方だけで成立する時代ではないのでは」と田島さんは言う。

田島 その上で、(本屋の方々には)どのようにしたら売れるのかを、考えてほしいんです。地方の小さな出版社は、書店とタッグを組んで行く以外に、生き残る方法はないのではないでしょうか。

先述した、東京の本屋Titleや福岡のブックス・キューブリックのように、イベントなどの仕掛けを総合的にプロデュースしていかなければ、本屋もこれからは厳しいのではないか。そのうえで、この頃増えてきた“ひとり出版社”や、九州内であればカモシカ書店(大分市)やひとやすみ書店(長崎市)などの小回りの利く本屋への関心も、田島さんは語られた。

「街」で出版をすることの矜持

代表の田島さんだけではなく、池田雪さんと園田直樹さんにもお話を伺った。

書肆侃侃房の母体となった編集プロダクションで学生時代からバイトしていた池田さんは、「カフェ散歩」や「KanKanTrip」(現在は17号発刊)シリーズに主に関わられており、ブックオカにも最初からスタッフとして参加している。

ブックオカにも携わられる編集等担当の池田さんと、文学フリマなどにも日本各地へ出向かれる営業担当の園田さん

ブックオカにも携わられる編集等担当の池田さんと、文学フリマなどにも日本各地へ出向かれる営業担当の園田さん。

イベントとしては10周年の区切りを持って“休眠”状態とも言えるブックオカ(本年2017年は“再始動”すると聞いている)だが、「お祭り」イベントから「交流できる場」、「出版業界が厳しい現状をどうできるか」と、その意味合いも、続けている間に変容してきたとのこと。「福岡を本の街にする」との想いを、作品づくりを通して模索している現状を話す姿は特に印象的であった。

また、ブックオカが編者となった、『本屋がなくなったら、困るじゃないか: 11時間ぐびぐび会議』(西日本新聞社)に収録された、「大手取次の店売(出版取次などの建物などで、書店や出版社が実際に商品を手に取ることができる商品の展示場所を指す)が九州からなくなっている」現状に、池田さんは危機感を持っておられた。九州の版元から九州の書店に本が行くのに東京を経由しなければならないのだから。

一方、営業担当の園田さんは「葉ね文庫」(大阪市北区)の池上さんとの出会いをこう語る。

園田 池上さんとは、新鋭短歌シリーズ第2期が始まったころのタイミングで接点がありました。大手書店チェーンの旗艦店並みに、この店では詩歌タイトルが動いています。葉ね文庫では店主との距離が近く、学生などもお客様に取り込んでいます。歌集、自費・リトルプレスなどの希少本が用意されているので、そのニーズも少なくないのではないかと思います。紀伊國屋書店新宿本店の梅﨑さんに出会えたことも大きいです。売ってあげたいというあたたかい思いが伝わってくる展示の仕方だったので。

「本と珈琲と酒とごはん」とのキーワードで、福岡市中心部にて書肆侃侃房が携わって運営されている『Read café(リードカフェ)』。

お三方へのインタビューを通して、「街」で出版をすることの意味、その矜持と覚悟を垣間見ることができた。ローカルという意味での「まち」が、今後の出版や書店に携わるものにとってのキーワードになること(事実なっていること)は間違いない。業界の行きつく先に、「待ち」の姿勢で携わる人間や自分(自社)のことのみしか考えない人間は淘汰されていくだろう。

田島さんがおっしゃった「楽しくないことはつづかない」という台詞が耳から離れない。ネット書店、そして電子書籍の「時代」になっている現状ではあるが、ひとの手のぬくもりを介した商業形態も生き残っていくことを、私自身は強く願っている。業界の暗さを嘲笑する声ではなく、具体的にかつ楽観的に(ただし現状は冷徹に判断したうえで)「本を読む場」と「本を手に入れる場」が提供されるために、諦めることのない“声”を上げ続けたい。

伺った話を振り返りながら、人生の伴走者としての「本」の未来を、私は明るく、かつ明確に思い描いた。そして、書肆侃侃房の方々のように業界全体が試行錯誤を繰り返し、模索することこそ必要だと強く感じた。

出版デジタル機構がNetGalleyを始めた理由

2017年8月9日
posted by 永江 朗

出版デジタル機構がNetGalleyというサービスを始めた。NetGalleyを直訳するなら「ネットのゲラ」。これだけでは意味がわからない。

いま出版社は、書籍の発売前にプルーフ版(仮刷り版)をつくり、新聞や雑誌の書評欄担当者や書評家などに送ることが多い。これを紙ではなくデジタル(PDFまたはePUB)に置き換えたものがNetGalleyだ。ただし、紙のプルーフ版は出版社が一方的に送るが、NetGalleyはサービスに登録した会員のなかから出版社が選んだ人物に送る。

出版デジタル機構の新名にいな新社長からこのサービスの話を聞いたとき、これはいいなと思った。わたしにもときどき出版社からプルーフ版が送られてくる。以前から「これがデジタルだと楽なんだけどな」と思っていた。ふだん本を買うときは、まずデジタルで探すのが習慣になっているから。以前、iBookで献本してくれた出版社があって、これは快適だった。

もっとも、出版社のほうにはデジタル献本に抵抗があるようだ。ある本のプレビューを依頼されたとき、「ゲラのPDFを送ってほしい」というと、先方が躊躇するのがなんとなく伝わってきた。それで、「第三者に渡すようなことは絶対にないので」というと、安心したようにPDFを送ってくれたことがある。

書評用に送られてくる刊行前の本のプルーフ版が電子書籍化されれば、出版社も書評家も助かる。NetGalleyはそのための仕組みである。

本をプロモーションするための新手法

日本の出版社は欧米に比べてプロモーションにじゅうぶん力を入れていないと感じる。その一因は〈出版社→取次→書店〉という、いわゆる通常ルートのシェアが高いからだろう。欧米の出版社が刊行前のプロモーションに熱心なのは、潜在的読者にその本の存在を知らせるとともに、書店から注文を取るためだ。ところが日本の「通常ルート」では、プロモーションに力を入れなくても、できあがった本を取次に入れさえすれば、取次が書店に配本してくれる(出版社の人間はしばしば「(本を)撒く」という言い方をする。象徴的だ)。どの書店に何冊配本するかも、取次が決めてくれる。書店の側からすると、本は何もしなくても(注文しなくても)入ってくる。

もちろんこうした「見計らい配本」「パターン配本」ではなく、出版社がどの書店に何冊配本するか指定する指定配本や、書店からの注文に応じて配本する注文出荷などもあるが、流通量の全体からすると圧倒的に少数だ。

新刊発行点数が少ない時代は、これでなんとかなっていた。本の現物が店頭に並ぶことこそが最高のプロモーションだった。読者は書店の店頭で本を手に取り、買うか買わないかを決めていた。もちろん新聞や雑誌などの広告で刊行を知ることもあっただろう。

しかし、この半世紀、新刊の発行点数は爆発的に増えた。70年代なかばに約2万点だった年間発行点数は21世紀に入って7万点を超え、ここ最近は8万点近い。3〜4倍になったのだ。一方で返品率は金額ベースで約4割と高止まりしたまま。1点の本が書店の店頭に並んでいる時間は短くなった。

知られるべき読者にその存在が知られることなく消えていく本が少なからずある。新刊の大洪水に押し流されるようにして。

ネット上のインフルエンサーなど「外の人」への期待

新名社長によると、日本の出版社もプロモーションの重要性を自覚しているという。ただ、アメリカの出版界のように刊行スケジュールをかなり先まで決めて、計画的にプロモーションする出版社はまれだ。ほとんどが行き当たりばったり。著者から原稿を受けとると、すぐ整理して印刷・製本に回し、本ができあがると1分でも早く取次に入れようとする。「発売前にプロモーションをする暇があったら、急いで書店店頭に並べたい」というのが実態だ。

なぜそうなってしまうのかは、「委託配本」(という名ではあるが、実際は返品条件つき仕入)という取引慣行と、それによる本の偽金化(新刊書は出版業界内の地域通貨である)のカラクリがあるのだけれども、その話は別の機会に。とりあえず、時間的にも精神的にもギリギリの状態だから、プロモーションでやれることは限られる。そのひとつがプルーフ版を書評欄担当者や書評家に送ることだ。

プルーフ版は作成にも送付にも費用がかかる。それでいて、費用に見合う効果があるのかどうかは不明。そこに悩んでいる出版社は多い、と新名社長はいう。

それはわたし自身の場合を考えてもわかる。わたしは週刊誌や月刊誌、季刊誌などで書評を連載し、ラジオ番組でも本の紹介をしている。そのほかにも新聞や雑誌に寄稿することがあり、重複するものもあるが、だいたい月に20冊ぐらい、書評を書いたりラジオで話したりしている計算になる。

そのなかでプルーフ版を送られたものは1割に満たないのではないだろうか。完成本を献本してもらったものを含めてもせいぜい3割ぐらいか。ほとんどは自腹で購入した本だ(連載ではなく、単発で書評の依頼がある場合、たいていは編集部がその本を用意してくれる)。出版社から見ると、プロモーションの費用対効果が悪い書評者ということになるかもしれない(このへんは書評者として葛藤がある。プルーフ版や完成本を送ってくれた編集者や宣伝担当者、著者の顔も目に浮かぶし、逆に「一読者としてニュートラルな気持ちで本を選ばねば」という気持ちもある)。

NetGalleyの画期的なところは、まず、プルーフ版に比べるとコストがはるかに少なくて済むことにある。ゲラのデータをPDFかePUBにして送信するだけなのだから、紙代・印刷代も配送料もかからない。効果の計量化——たとえばゲラを読んだ書評家が書評を書いたかどうかなどを数字として把握する——はプルーフ版でもできることだが(現状、出版社はどの程度、検証しているのだろう)、デジタルのほうがやりやすいように感じる。また、ゲラの送付先も、メディアの書評担当者や書評家だけでなく、メディア業界の外にいる人にも広げられる。人気ブロガーやユーチューバー、インフルエンサーと呼ばれる人たちにも。登録した人たちは「読みたい」と希望しているのだから、一方的に送りつけられたプルーフ版よりも積極的に読むはずだ。もしかするとベテラン書評家よりも、そうした「外」の人たちのほうが、市場への影響力は大きいかもしれない。

紙の出版を応援する仕組み

このように、NetGalleyの概要を聞くといいことずくめのように思える。しかし、「そもそも、なんで出版デジタル機構がこのビジネスをやるんだろう?」という疑問もわいてくる。なぜなら、出版デジタル機構は電子書籍の取次であって、NetGalleyは紙の本のプロモーション手段なのだから。紙と電子が「水と油」だとはいわないが、本来、出版デジタル機構にはあまり関係のない話ではないか。

新名社長は「電子書籍の市場は成長を続けていて、これからも拡大していくだろう。ところが肝心の出版界全体の元気がない。紙の出版を応援する仕組みが必要だと感じた」と話す。当初は米Firebrand Technorogies社の書誌データ・システムが有益だと考えて検討したが、日本の業界に最適化するにはハードルが高い。そこで、同社が提供するNetGalleyならば、と採用を決めたのだという。

しかし、さらに「そもそも」を重ねると、「そもそも、電子書籍に取次は必要だろうか」と、出版デジタル機構の存在意義そのものにも疑問がわいてくる。電子書店の数はリアル書店に比べるとはるかに少ない。出版社は取次を介さずに電子書店に卸したり、あるいは読者に直接販売することは、そう難しいことではない。紙の本では取次が物流・決済・情報の3機能を握っていて、それが取次の存在意義となっているが、電子書籍ではいずれも出版社ができることだ。それを大手出版社が共同で出版デジタル機構を立ち上げ、さらには官民ファンドから資金を引っぱってきたのは、電子書籍の世界でも紙の本の世界と同じように大手出版社が業界の支配権を握りたいという思惑があるからなのではないか。

ここで出版デジタル機構について軽くおさらいしておくと、講談社や小学館、新潮社、文藝春秋など、大手・中堅の出版社が中心になって準備会を立ち上げたのが2011年9月。翌年、4月に設立。その後、官民ファンドの産業革新機構や大日本印刷、凸版印刷などが株主に加わった。2013年には電子書籍取次大手のビットウェイを買収。そして、今年の3月には産業革新機構が持っていた株を電子書籍取次大手のメディアドゥが取得して、出版デジタル機構はメディアドゥの子会社になった。

電子書籍に取次はいらないのではないか。これは新名新社長も2014年の就任時に思っていたことだという。新名社長はKADOKAWAの出身である。だが、実際に出版デジタル機構で仕事をはじめてみると、取次にもそれなりの存在意義があるのがわかったという。各電子書店と細かい交渉をする人的または能力的な余裕のない出版社は多いし、電子書店のほうも「細かなところはひとまとめにしてほしい」という気持ちがあるようだ。出版社の電子出版に関するノウハウの蓄積もまだ不十分。だから、当面は電子書籍の世界でも取次が必要とされているということ。

まあ、このへんは、「細かい流通のことはめんどうだから取次にまかせちゃえ」という、紙の本について出版社や書店がやってきたことと本質的に同じだ。何でも他人まかせにしたり、もたれ合ったりというのは、日本の出版業界のさがというべきか。

しかし、やがて出版社が自前で電子書店に卸したり読者に直接販売するノウハウを身につけていけば、取次の役割は小さくなっていく。出版デジタル機構がNetGalleyやPicassol(電子と紙の同時制作を支援するサービス)といった紙の本のビジネスに関するサービスをはじめたり、慶應義塾大学などとともにAdvanced Publishingラボに参加して電子書籍の規格づくりをするのも、取次業の業務縮小を見越してのことといえる。5年後、10年後の出版デジタル機構の姿は、現在と大幅に変わっている可能性がある。

いよいよグランドオープン。出版社の反応は?

NetGalleyは5月に会員の募集をはじめ、サービスを試験的に開始した。参加出版社の第一弾は講談社や小学館、KADOKAWAなど7社。グランドオープンは8月だ(グランドオープン後のサイトはこちら)。

グランドオープンしたNetGalleyのトップ画面。

正直な感想を言うと、本稿を執筆している7月末の段階でNetGalleyに上がっている作品の中には、「ぜひゲラを読んでみたい」と思うものはない。でもそれより、出版社が冷静というか、冷淡なのが気になる。3月8日に日本文藝家協会の会議室で新名社長の講演を聴き、4月10日に出版デジタル機構で新名社長にインタビューしたときは、「これは出版界でかなりの話題になるぞ」「プロモーションを大きく変えるかもしれない」「日本の出版ビジネスを変える可能性もある」といささか興奮したものだった。

ところがどうだ、わたしの周辺の編集者からは、世間話のついでにNetGalleyの名前が出ることもない。むしろ鹿島茂氏がはじめた書評アーカイブ「オール・レビューズ」のほうが話題になっているくらいだ。出版デジタル機構の宣伝不足なのか、まだこれからということなのか、それとも「プロモーション? そんなものは本屋にまかせておけばいい。ウチはつくって撒くだけ」という、出版社の意識が50年前から変わらないからなのか。判断するには時期尚早かと思うが、なんか、ちょっとがっかりなのである。

第4回:comicoノベル〜マンガと小説のシナジーをめざして

2017年8月3日
posted by まつもとあつし

comicoノベルは、マンガアプリとしての存在感では随一となったcomicoが2015年4月から手がけている投稿小説プラットフォームだ。吹き出し形式でのユニークな小説制作を謳ってスタートしたが、通常の小説も手がけるスタイルへとリニューアルしている。現在この事業を担当しているcomicoノベル編集部の伊丹雅文氏に現状と戦略を聞いた。

「吹き出しスタイル」で小説を読む

——「comicoノベル」の現状を教えてください。

伊丹:ダウンロード数はマンガとあわせた数字のみ公開させていただいていますが、世界累計2500万ダウンロード、国内は1400万ダウンロードです。日本はじめ韓国・台湾・タイとアジア中心にサービスを展開しています。

comicoでは誰でも投稿できるチャレンジ作品の中から、我々が原稿料とインセンティブをお支払いして週刊連載していただく公式作品へのステップアップがあることが特徴の一つです。comicoノベルとしては、サービス開始2年で150作品が公式作品(完結作品含む)として公開されています。チャレンジ作品も含めると約8700作品で、日々増加していっています。

——comicoノベルは吹き出し形式で小説を書いたり、読んだりすることが一つの特徴でした(切り替え機能もある)。そちらは現状いかがでしょうか?

伊丹:マンガと同様にスマホに特化したサービスとして位置づける中で、吹き出しを活用した会話形式とすることで、ふだん小説を読まない方にも親しんでもらえるのではないかと考えスタートした、という経緯があります。現在、およそ吹き出しスタイルが全体の約8割を占めています。

さらに最近では、そこから派生したスタイルの会話だけで一切地の文がなく物語が進む、『知り合いかも?』や、吹き出しの中の顔文字を生き物に見立てたホラー『文字生物( ^ω^ )育成日記』といった作品も生まれてきています。

いずれもcomicoで開催しているコンテスト受賞作で、そこから公式作品になりました。このように私たちが当初想定していた使われ方を超えた作品も生まれてきていて、今後も楽しみなスタイルだと思っています。

——一方で、一般的な小説スタイルの作品投稿や公開も始められました。競合も多いわけですが、どのように差別化されようとしていますか?

伊丹:今年3月からそのようにリニューアルしたのですが、現在ではそちらの形式の投稿数の方が多いという状況ですね。スマホに最適化された吹き出し方式が小説を読むきっかけになってほしい、そこから一般の小説・書籍も盛り上がってほしい、という思いはあったのですが、カジュアルなものだけでなく重厚な物語も読みたいというニーズに応えていくには、従来のスタイルのラインナップも必要だと考え、一般的な小説スタイルのものも取り入れました。実際、従来型の作品もよく読まれているという手応えを持っています。

差別化については、私たちが抱える読者層の違いが大きいかなと思います。他の小説サイトは、20代中盤から後半の男性が多いのではないかなと思いますが、私たちはもともとマンガでスタートしたということもあり、マンガサービスと同様に10代〜20代前半で女性の割合が6割と多いのです。

小説についても、そういった方々にどういう作品を届けていくか、ということになると方向性は自ずと変わって来ます。スマホネイティブな人たちですから、普段はゲームや音楽などもスマホ上で楽しんでいる。自社の中でも競争があります。マンガを読むためにcomicoアプリを開いた人に、いかに小説に関心を持ってもらい、読んでもらえるのか、ということですね。

マンガとのシナジー戦略

——マンガカテゴリとはどのように連携を図っているのでしょうか?

伊丹:マンガを読み終わると、その下にノベルへの誘導が出てきたり、その逆もしかりといった相互送客の仕組みはあります。また、ノベル発の作品をコミカライズするといったことも行っています。

4月には『アニメーションへようこそ』という完結作品をコミカライズし、comicoのマンガカテゴリで公開しています。

この原作はコンテストで投稿されたチャレンジ作品から公式連載になったもので、マンガ家さんも、ベストチャレンジ(公式連載の一つ前の段階)に投稿をしていただいた方に私たちからお声がけをしてマッチングし、初の公式作品として連載が始まりました。この取り組みの目的は、マンガ・ノベルを別々に展開してきたcomicoで、その二つを融合させたいというものでした。物語と絵、それぞれの得意を活かしたクリエイターによるコラボを生み出す施策の一環でもあります。

——先ほどcomicoでは女性ユーザーの割合が多い、というお話でしたが、このタイトルを見ると男性向けのようにも見えます。

伊丹:そうですね。一方で、comico全体としてはジャンルのラインナップを充実させて男性の比率も上げていきたいという思いもありますので、この作品をピックアップしています。

同様の取り組みとしては、6月28日よりコミカライズ連載が始まった『天才クソ野郎の事件簿』という作品もあります。こちらはcomicoがスタートする際、弊社からお声がけした作家さんが原作を手がけています。医学生が難事件を解決していくというミステリー作品です。作画は既に公式作家となっている方にお願いしていますが、こちらも男性に支持されるような作品展開を目指したものになりますね。

——マンガと小説でアプリ内でも微妙にユーザー層が違うのだと思いますが、その中でもシナジーがありそうな層・充実を図っていきたい層を狙った作品から、まずはコミカライズ展開をしたということですね。チャレンジ作品の作家さんをコミカライズ、つまり原作付きの作家さんとして公式連載に起用するというクリエイターと、クリエイティブ両面からのシナジーを目的としていると理解しました。こういった取り組みを進めるにあたって、コミックとノベルの編集部はどのような体制になっているのでしょうか?

伊丹:立ち上げ時は編集部の中に、マンガ担当・ノベル担当という役割分担があったのですが、いまはノベル編集部として独立しました。組織として別々にはなりましたが、横の連携は以前よりも強化されています。それぞれ単体でできることはもちろんあるのですが、同じcomicoのアプリ内でそれぞれの強み、課題を結びつけて、コミカライズだけでなくいろいろな連携が図れるはずだという意識があります。

——それぞれの強み・課題について、もう少し伺えればと思います。例えば競合と比較すると、「小説家になろう」の場合はマンガを扱っていません。「エブリスタ」はDeNAとしてはマンガボックスを擁していますが、ユーザーからは別のブランドとして認知されていると思います。comicoという一つのレーベルのもとに、小説とマンガというプラットフォームを展開できているのは強みではあると思うのですが、課題はどこにあるのでしょうか?

伊丹:小説については、やはりまだまだ読者を増やさなければというところですし、マンガは読むけど、そもそも小説をあまり読まないという人たちに、どう読んでもらえるか、といった取り組みについては引き続き課題ではありますね。これは、コミカライズ作品をきっかけにノベル原作に興味をもってもらいたいと思っています。そして、日頃から小説を読んでいる人たちにも、「comicoノベルって新しいよね」と思って入って来てもらいたい。課題でもあり、これらの取り組みが自社でできるというのは強みでもあると思っています。

マンガのほうも、新作をどんどん生みだしていきたい、という状況のなかで、原作のニーズが高まっています。描き手の方も、作画は得意だけど物語は苦手という方も多いのです。実際、専門学校などを見ていてもイラスト科の人気の一方で、(物語作りも求められる)マンガ科の人数が減ってきていると聞きます。絵と物語をうまく結びつけることができると、クリエイターが世の中に作品を出すきっかけをより生み出すことができるはずなのです。

読者の反応を意識した作品展開

——権利関係についても伺えますか? 小説投稿サイトの作品がマンガ化、アニメ化される例が増えていますが、comicoに小説を投稿した場合、コミカライズもcomicoが優先的に行うような規約になっていたりする、といったことはないのでしょうか?

伊丹:規約でそのように縛っているということはありません。またコミカライズを前提とした作品を一般公募(コンクール)で募るということはしていません。公式連載などを通じて、私たちが既にお付き合いをさせていただいている作家さん同士を、我々が間に入って、マッチング・調整を行いながら実現させています。

——なるほど。comico内でのコミカライズというのも今後投稿者の一つのモチベーションにはなってくるとは思うのですが、現状数ある投稿サイトからcomicoノベルに作品を投稿しようというモチベーションは主にどこにあると捉えているのでしょうか?

伊丹:現状では、吹き出し方式という独自のUIに魅力を感じて投稿していただいているというのが大きいと思いますね。先ほど「重厚さ」というお話をしましたが、投稿がより気軽に行えているという面もあります。結果的に、若い読者さんにも分かりやすい物語になっているとも思います。

吹き出し方式で気軽に投稿する。そこに読者さんがついて、応援コメントがつくことで、さらにモチベーションが湧いてくる。続きを楽しみにしてくれている人がいて、それが可視化されているというのは、投稿サイト全般に言えることですが、大きな魅力となっていますよね。たとえ「しばらくお休みします」という告知を出しても、「新作・続きを待ってます」というコメントがついたりしますので。

もちろん、投稿の気軽さ、その上での読者とのコミュニケーションの先に、公式作家になる。つまり、原稿料を受け取りながら連載をしてみたい、更にその先にある書籍化・映像化を目指してみたいというモチベーションもあるかと思います。これもcomicoならではということになりますね。実際、新しいジャンルの公式作品の連載が始まると、チャレンジのほうでも似た作品が次々と投稿されます。どういう作品をいまcomico編集部が求めているのか? というのを敏感に作家さんは見ているなという印象をもっています。

『そのボイス、有料ですか?』という作品は、comicoノベルサービス開始を記念したコンテストで優勝し、そこから公式連載となりました。この作品はコミカライズ連載は講談社の「なかよし」で実現し、単行本も発売されています(小説の書籍化はKADOKAWAから)。「自分の好きな声優さんとそっくりの声の男の子とのラブストーリー」ですが、オタク過ぎず、それでいて「声」という共感しやすいテーマをうまく扱っています。それが応援コメントの多さにもつながっていますし、comicoでの連載では読者目線、つまり読者の反応を意識した展開になっていて、それも支持につながっていると思います。

comicoも「なかよし」も10代〜20代前半の女性の比率が高いというなかで、重厚な物語よりも分かりやすさ、毎週単位のコンパクトな物語でも面白さが伝わる展開が受け入れられる、という点で共通点が多かったと思います。

作家を育成するシステム

——「なかよし」での連載というのは、現状のユーザー層のcomicoならではという印象を受けます。それにしてもマンガ誌や小説投稿サイトが専門特化する傾向にあるなかで、comicoアプリのなかでオールジャンルを目指そうという姿勢であるのはユニークです。

伊丹:まずは多様な作品が投稿され、読まれ、コミュニケーションが生まれる場であることを目指そうという段階ではあるかなと考えています。

マンガ・小説に共通する仕組みとしては、ベストチャレンジから公式へ、というステップが用意されていることも私たちのユニークなところかと思っています。ベストチャレンジの段階では、まずは作品を書いて投稿するという最初のハードルをクリアしていただく必要があるのですが、公式連載が始まると、いかに続きを読みたくなってもらうか、ということを意識して物語を生みだしていくことになります。プロとしては当然ではあるスケジュールを守るといったことも含めてですね。その経験は、その後の作家活動においても重要な経験になるのではないでしょうか。

——つまり作家の育成を自前のプラットフォームの中でカバーしようということだと思います。そこに小説の場合はどのくらいリソースを割り当てているのでしょうか?

伊丹:まず中心に据えているのが、読者の存在ですね。ランキングを決定するのも読者からの応援=評価です。それをサポートするために、comico編集部では公式連載の際には、担当編集がつき、物語の構成から、キャラクターの名前まで相談させていただいています。連載が公開される際にも、先にチェックを行ってから、ということになります。

担当編集者については、作品作りのアドバイスはするけれども、「こうしよう」「こうしなさい」というところまでは踏み込みません。一読者、最初にその作品に触れる読者として、comicoでの傾向と分析をお伝えするという立ち位置です。それをどう作品に反映するかはあくまで作家さん次第で、ここは出版社の編集さんとは異なっていますね。

——育成といっても、従来のものとはかなり異なっているということですね。comicoノベルのユニークさが明確になったと思います。最後にcomicoノベルの今後の展開・展望についてお聞かせください。

伊丹:多様な作品をラインナップするという段階ですので、「こういう作品を」という明確なお話はできないのですが、やはりスマホに最適化された吹き出し方式という気軽なフォーマットを活かしながら、従来の小説の「お約束」に縛られない新しい書き手を発掘し、ここで育ってもらえるような環境作りをしていきたいですね。全体のなかで吹き出し方式が占める割合は減っていくとは思いますが、引き続きそういう観点からは、重要な存在だと考えています。

* * *

投稿サイトの多くは、作家の発掘の場となっている。逆に言えばその先の育成については、書籍化などの活動を通じて出版社に委ねているという見方もできるだろう。comicoの場合は、ベストチャレンジでの発掘から公式での育成というところまで自前で実現しようとしているのが独特だ。コミカライズを絡めながらのその成否は、現在も進む書籍化・映像化などの結果を見ていく必要があるが、ネット投稿小説サイトの一つのあり方として特異な存在であるということはおさえておきたい。

「文庫X」が投げかけたこと

2017年8月1日
posted by 仲俣暁生

例年夏休みが近づくと、書店の店頭では「新潮文庫の100冊」をはじめ、各出版社の文庫フェアが開催される。低価格でハンディな文庫本は、長いこと読書への入り口として機能してきた。ほとんどの文庫本は、すでに単行本として(あるいは海外の原書として)売れた実績をもつ作品が収められている。なかでも夏の文庫フェアでは、それぞれの文庫レーベルにおけるロングセラー、あるいは古典的作品が並ぶ。

ただ、こうした風景はもはや当たり前のものになりすぎて、いわばルーチン化しているともいえる。毎年少しずつラインナップを入れ替えているとはいえ、既視感のある作品(もちろんそれが「古典」ということなのだが)ばかりが並ぶため、どこまでフェアとして起爆力があるのか、外からみているとよくわからないことが多い。

ところで今年の「新潮文庫の100冊」には、昨年大きな話題となった「文庫X」が含まれている。さすがに「新潮文庫の100冊」のラインナップには「これが『文庫X』です」とは謳われてはいないものの、覆面をはずして売られるようになった後も、多くの書店がこの本を「文庫X」当時のカバーを模したダブルジャケットで販売している。

読書への入り口として、「新潮文庫の100冊」のようなやり方と、「文庫X」のようなやり方があるとして、どちらが実質的な意味をもつだろう? そんなことを、ふと考えてしまった。

「共犯関係」を促す仕組みか、それとも反則技か?

「文庫X」の企画は盛岡にある、さわや書店フェザン店の長江貴士さんが発案したものだ。いまも書店で手に入るダブルジャケット版の「文庫X」(すでにその中身は明らかにされているが、この原稿ではあえて伏せる)を手に取ると、長江さんがこの本を売るために強い思いを込めたメッセージを読むことができる。

申し訳ありません。僕はこの本をどう勧めたらいいか分かりませんでした。どうやったら「面白い」「魅力的」だと思ってもらえるのか、思いつきませんでした。
だからこうして、タイトルを隠して売ることに決めました。
この本を読んで心が動かされない人はいない、と固く信じています。
500Pを超える本です。怯む気持ちは分かります。
小説ではありません。小説以外の本を買う習慣がない方には、ただそれだけでもハードルが高いかもしれません。
それでも僕は、この本をあなたに読んで欲しいのです。

私が「文庫X」を店頭で見かけたのは、2016年の秋頃、すでにさわや書店だけでなく全国の書店にこの販売方法が伝わってからだ。「文庫X」はさわや書店が発信元だということは知っていたが、他の書店にまで波及するとは想像しておらず、また、それほど売れるものだろうかと、やや批判的な目でみていた。

そのうちに、どこの書店でも「文庫X」を見かけるようになった。手書きの文字をモノクロコピーしたような「文庫X」のパッケージは、どこか怪文書めいていて好きにはなれず、よく読みもしなかった。書店員がここまでアツくるしく「読んで欲しい」と呼びかけること自体にも違和感があった。本屋の役割は多様な選択肢を示すことであり、中身も明かさずに書店員が、自分を信じて「この本を読んで欲しい」というのは反則技だと思ったからだ。

「文庫X」の中身を詮索したい気持ちはあったが、そのために買うのはなんだか負けたような気もして、「小説ではない」「定価810円(税込み)」という、当時から明かされていた条件から、あの本だろうか、それともこの本だろうか、と想像するだけに留めていた。

ブームの渦中でいちばん私が興味をもったのは、この本はどんな人が買っているのだろう、ということだった。

これだけインターネットやSNSが発達しているなかでも、「文庫X」の正体は、そう簡単には明かされなかった。たまに知り合いから「買いました!」という報告があっても、本の正体に触れることは誰もが避けていた。一種の「共犯関係」があったといってもいい。ミステリ小説の結末(犯人やトリック等)を、未読の人が見るかもしれない公開の場所で明かすことは「ネタバレ」として非難される。「文庫X」の場合も、買った人がその正体を明かすことは、同様の心理で回避されたのだろう。

けっきょく私は、ある書店チェーンがビニール包装を簡略化し、天地のスキマから中身がみえるようになっていた「文庫X」を手に取り、こっそり中身をみるというズルい方法でその正体を知った。

正体を知った後は、単行本ですでに読んでいた作品でもあったので「なるほど」と腑に落ちる部分と「それにしても、なぜこの本だったのか」という疑問の両方が残った。

長江貴士『書店員X』(中公新書ラクレ)と、その後の「文庫X」。

「先入観の排除」は叶えられたか?

先月、中公新書ラクレから長江貴士さんの『書店員X―「常識」に殺されない生き方』という本が出たおかげで、ようやくその舞台裏を詳しく知ることができ、「文庫X」という企画に対して抱いていたモヤモヤの多くが晴れた。

詳しくはぜひこの本をお読みいただきたいが、要点は一つ。「文庫X」という企画が先にあって本があとから選ばれたのではなく、長江さんが「この本はなんとしても売りたい」と思ったその本との出会いが先にあり、その本を売るための最善の手段として選ばれたのが「タイトルを隠す」という手法だった――この順番は大事なことだ。

そもそも、本のタイトルを伏せて売るという手法は、これまでも様々なかたちでなされてきた。タイトルを伏せる代わりに読者に明かされる情報としても、本文の一部がパッケージに印字されていたり、著者の誕生日が示されていたり、薬の処方のように読者の気分やニーズにあわせて選書されていたりと、いろいろなパターンがあったが、どの場合も(偶然的なものにせよ)「選択の余地」は残されていた。

「文庫X」が独特だったのは、タイトルと著者名が伏せられているだけでなく、この本はオンリーワンなのだ、だからぜひ読んでほしいのだ、という書店員の「魂の叫び」とともに売られたことだった。

これまでも書店の店頭でディスプレイされるPOPでは、書店員の主観的な「オススメ」の言葉を読むことができた。しかし文庫本のカバー表ウラを埋め尽くすほどの長いメッセージには、そうそうお目にかかれない。書評の記事をコピーして展示したり、あるいはARのような技術を使えば、個別の本に対して長文のメッセージを店頭で披露することもできなくはないが、仮に「文庫X」に対して、「文庫A」や「文庫Z」が同時に存在したならば、おそらく「文庫X」を単体で売ったときのような事態は起きなかっただろう。

書店の役割における「相対主義」(多様な選択肢を示し、読者がそこから選ぶのをサポートする)と「絶対主義」(単独あるいはごく少数の良書をとくに推し、それらの読書を促す)とでもいうべき二つの原理がここではせめぎあっている。

「文庫X」はしかし、たんなる「良書の押し付け」ではない。『書店員X』で長江さんが強調しているのは「先入観の排除」だ。小説しか読まないという「読書家」は多い。「文庫X」のメッセージが「小説ではありません」と念を押すのも、文庫本の読者の多くが小説ファンであるという現場のリアリティを踏まえてのことだろう。本のジャンルを「ノンフィクション」としなかったのは、読者が逆の意味で限定されるのを避けたかったからに違いない。

たしかに、「ある本を読みたい」という気持ちが起きるために、作家や作品の固有名が背中を押す場合もあるが、その先入観が邪魔になり、本との出会いを妨げることも多々ある。単行本の段階でかなり話題になり、いくつかの賞を受賞した本作のような佳作であっても、小説しか読まない読者にとっては、タイトルや著者名を明かすことでかえって読者層が狭まりかねない、という判断は間違っていなかっただろう。

二度と使えない大技?

ところで「文庫X」の成功(4ヶ月半の開催期間中、さわや書店フェザン店のみで累計5000冊以上の販売実績があったと『書店員X』に書かれている)は、どこまでがこの「先入観の排除」によるものなのか。口コミで伝わった作品そのものの魅力もあっただろうし、「文庫X」というネーミングや覆面本というゲーム感覚の面白さもあったろう。書店員が生の声で語った熱いメッセージが与えたプラスの要素も多いに違いない。

いずれにせよ、「文庫X」は一度きりしか使えない大技であり、今後にあらたな「文庫X」あるいは「文庫Y」「文庫Z」といった企画を成り立たせるのは難しい。それは使い古されたトリックで新作ミステリを書くわけにはいかないのと似ている。「先入観の排除」+「熱いメッセージ」という技は、一度だけだから、その「熱さ」に人はほだされた。二度目、三度目の大技を仕掛けるには、さらなる創意工夫を行い、読者を「共犯者」に仕立て上げつづけなければならない。

長江さんが「文庫X」の企画を考案したときには、もちろんそこまで考えなかっただろう。『書店員X』にも、当初この本は60冊仕入れ、長い時間をかけて30冊を売るのが目標だったと書かれている。その程度の地味な企画として終わっていれば、「今月の文庫X」などというかたちで、同じ手法をなんどかは使えたかもしれない。

しかし「文庫X」はそのレベルを超えてしまった。「先入観を排除」したことによる偶然の出会いは、著者と書名を隠したまま、一種の「匿名性のもとでの感動の連鎖」を生んだ。だが、そこで生まれた「感動」がある意味で別の「先入観」となり、こんどは「『文庫X』という固有名」のブームを生んでしまった。

あらゆるブームとはそういうものだ。書店の店頭はすでに「売れている本がさらに売れる」というフィードバックがネット以上に起きやすい場所になって久しい。いまも「文庫X」を買い求める人が多いからこそ、多くの書店が「文庫X」仕様のダブルジャケットを採用しつづけているのだろう。

『書店員X』が語るのは、「文庫X」が成功した舞台裏ばかりではない。たまに書店を訪れる程度の読者には伺いしれない、本を仕掛けて売るために苦闘する書店現場のリアリティだ。同書は一種の自己啓発本でもあり、長いデフレ時代に成長した世代による一種の「仕事論」でもある。正直に言えば、その読後感は、あまり爽やかなものではない。かなり読者を限定した本だとも言える。

けれども本屋で働く人の一人ひとりが、このような苦悩や試行錯誤のなかで日々を過ごしていることを知るのは、業界外の人にとっても決して無益なことではない。私たちがアマゾンで本を「ポチる」とき、その背景の仕組みを意識することはほとんどない。あえて意識させないようにしているから、人はそこで「ポチる」のだ。

しかし『書店員X』を読んだあとでは、それが「覆面本」であろうとなかろうと、書店の店頭に本が「そのように」置かれていることの意味を意識せずにいることができなくなる。平穏にみえる書店の棚や平台が、人の生死をかけた戦場にさえ思えてくる。