子どもたちに必要なのは立派な施設だろうか

2017年10月6日
posted by 空犬 太郎

しばらく前に、建築家の安藤忠雄さんが児童図書館を建設し、大阪市に寄付することが報じられた。9/20付朝日新聞の記事「安藤忠雄さん「こども本の森」建設、寄付へ 大阪中之島」の一部を引く。

建築家の安藤忠雄さん(76)は19日、大阪市北区の中之島公園に「こども本の森 中之島」(仮称)を建設し、大阪市に寄付する考えを明らかにした。

施設の場所や広さなどの概要については、記事では以下のようになっている。

建設予定地は市が管理する敷地で、鉄筋コンクリート造り3階建て。延べ床面積は約1千平方メートル。1階から3階まで吹き抜けの壁一面に本棚を置き、子どもたちが本に囲まれた空間で自由に読書できるようにしたいという。蔵書数などは未定だ。

広さは坪換算だと約300坪。2019年の開館を予定しているという。

なぜこのようなことを思い立ったのかについて安藤さんは、《「新聞や本を読まない子どもが増えている。市民が社会に参加する町として、次代を担う子どもたちを育てたい」と述べ》たとある。本をとりまく世界は、書き手作り手売り手など、関わる人全員にとってなかなかに厳しい状況にあることは間違いない。だから、本の世界や本を読む人たちにとって少しでも利になると思われることは、どんどんやってみればいいと思う。それぞれの立場の人が自分にできることをしたらいいと思う。

その意味で、本が読める施設自体をつくって寄付するというのは、一般人にはまず不可能なことで、そのような思い切ったことをしようという方が名乗りをあげたこと自体は、本当にすばらしいことだと思う。ぜひいいかたちで実現されればとも思う。だから、批判をしようというつもりはない。ないけれど、ただ、気になる点——それは、児童向け施設の書架が《1階から3階まで吹き抜けの壁一面に本棚》というつくりで、子どもたちが《自由に読書できるよう》な場所が本当に実現されるのか、というようなレベルのことではなく、もっと根本的なこと——がいくつか目についたのも事実。

おそらく今回の件に諸手をあげて賛成という気分になれない人は他にもいるのではないかという気がするし、それはぼく自身が気になっている点と重なっているのではないかとも思われるので、問題提起の一助になればくらいのつもりで、三つの点についてふれてみたいと思う。

一つめは、安藤さんが今回の件を思い立ったという「新聞や本を読まない子どもが増えている」のかという問題について。

二つめは、子ども向けの施設をつくったとして、その利用率に影響の大きい対象年代の人口減少がどの程度考慮されているのかについて。

三つめは、安藤さんが寄付されるのは施設のみで、《蔵書集めや運営費用も企業や市民からの寄付を広く呼びかける》とされている点について。

20世紀初頭、ニューヨークのハドソン川公園で子どもたちに読み聞かせをする図書館員(ニューヨーク公共図書館のアーカイブより)

本を読まない子どもは増えているか

まずは一つめ。ここでいう「子ども」がどの層を指しているのかははっきりしないが、一般的な感覚からしても、また施設の仮名称が「こども本の森」とひらがな表記になっていることからも、未就学児・小学生が中心で、上は中学生ぐらいまでのイメージだろうか。「子ども」や「若者」が「何々していない」と短絡的に断じる人は(とくに本の世界では伝統的に)少なくないが、本を読んでいないのは、はたして「子ども」たちだろうか。そのようなイメージを持っている人たちは、最近の読書調査の類に目を通したことがないのではないだろうかと想像されるのだ。

子どもの読書事情に関する本格的な規模の調査には、文部科学省の「子供の読書活動の推進等に関する調査研究」(委託調査)や全国学校図書館協議会・毎日新聞社による「学校読書調査」などがある。こうした複数の読書調査を見ると明らかなことがある。小学生はけっこう本を読んでいる、ということだ。

読書調査と子どもの読書事情にふれた記事「高校生の不読率57%、きっかけや読書習慣を…有識者会議」(8/16 リセマム)を見てみよう。

1か月間に本を1冊も読まない児童・生徒の割合を示す「不読率」は、平成28年度が高校生57.1%、中学生15.4%、小学生4.0%。学校段階が進むにつれて、子どもが読書をしなくなる傾向がみられた。

ここでは大学生にはふれられていないが、大学生に関してはさらに不読率が上がる。小学生は、「朝読」(朝の読書運動)の効果などもあり、また(幸いにもというかなんというか)スマホの普及率もまだ中高生ほどでないこともあり、本は読まれている。

それは(往時に比べれば減少はしているものの)『コロコロコミック』『ちゃお』『週刊少年ジャンプ』などの部数を見ても明らか(各誌の部数については、日本雑誌協会「印刷公表部数」参照)だし、また、『おしりたんてい』や(読書するものではないかもしれないが)『うんこ漢字ドリル』など、最近は児童書から続けて人気作品・ヒットが生まれていたり、子ども向け図鑑が「図鑑戦争」などということばが使われるほど活況を見せていたりすることからもわかる。それぞれ、関連記事をあげておく。「児童書が上位、出版界に異変 残念な動物に大人もクスッ」(9/12 朝日新聞)、「出版界激震の大ヒット本「うんこ漢字ドリル」はいかにして生まれたか」(7/17 毎日新聞)、「子ども向け図鑑:より美しく面白く 理系研究者の注目度↑」(6/29 毎日新聞)。

そして、さらに言えば、この四半世紀で、もっとも読まれた本の一つが『ハリー・ポッター』シリーズであったことをあげてもいいだろう。大人の読者が多く反応したことはあったにせよ、本来のジャンルとしては児童書・YAに分類されるシリーズが出版史上に残る大ヒットになった例である。

子ども人口の減少をどう考えるか

二つめ。しばらく前に出生数が100万人を切ったことが各メディアで報じられた。6/3付日本経済新聞の記事「出生数 初の100万人割れ 16年、出生率も低下1.44」には、《2016年に生まれた子どもの数(出生数)は97万6979人で、1899年に統計をとり始めてから初めて100万人を割り込んだ》とある。

子どもが子どもがとつい簡単に使ってしまうが、では、その「子ども」のうち、小学生が現在何人いるのか、どれくらいの方がご存じだろうか。出版界・書店業界で子どもの本に関わっている人でも意外に知らなかったりするが、約650万人である(平成29年度の文部科学省「学校基本調査」によれば、644.8万人)。

出生率が大幅に回復することは難しいと見込まれているようだから、減少傾向は今後も続くものと思われる。とすると、6年後には、現在100数万人いる小学1年生は100万人を切ることになり、さらに6年後には全学年が100万人を切ることになる。つまり、単純計算では、今からひと回り、12年ほどすると、小学生が現在よりも50万人も減ってしまうわけである。戦争も飢饉もパンデミックも何もなしに、である。50万人というのがどれほど大きな数か、先にあげた児童コミック雑誌の発行部数を考えても想像がつくだろう。

10年強で、利用者として想定されている年齢層が数十万人規模で減少することが統計的に予想されているのである。施設の対象利用者の母数が少なければ、当然、利用される機会自体が少なくなる。子ども向けの施設の場合、その減少を他の年齢層の利用で補填することも基本的にはできない。子ども向けの施設をつくるのはいいが、その際に、こうしたことがどの程度考慮されているのだろうか。

もちろん、この子どもの減少の件は、一施設の問題ではなく、出版界・書店業界全体にとっての大きな問題である。幅広い年齢層に向けた一般書と違い、児童書の多くは、その対象年齢層の読者に読まれやすいよう、内容や表記や本のつくりが徹底的に工夫され、チューニングされた、対象限定性のきわめて高い商品になっている。したがって、対象年齢層の人口減少には、直接的かつ大きな影響を受けることになる。10年後も今とまったく同じようなやり方で子ども向けの本をつくったり売ったりできないであろうことは、他のすべての要因を見ないふりをしたとしても、この児童数減少の1点だけからも明らかである。このこと(出生数が100万人を切ったこと)は、業界でもっと話題になってもいいのにと思う。

「箱」をつくって終わりでいいのか

三つめ。報道で、《蔵書集めや運営費用も企業や市民からの寄付を広く呼びかける》とされている点に不安を感じた人はおそらく少なくないだろう。図書館(という表現は今回の報道では使われていないが、児童図書館的な施設だと思っていいだろう)は、容れ物をつくって終わり、ではない。そのことを多くの人に知らしめるきっかけの一つになったのが一連の「ツタヤ図書館」騒動で、まだ記憶に新しいところだろう。立派な「箱」ができたからといって、それが立派な「図書館」になるとはかぎらない。

安藤さんが寄付するとしているのは、報道からすると「図書館の建物」でしかない。記事では、費用のことだけを言っているのか、選書や運営などの具体的な作業のことも言っているのかははっきりしないところがある。だが、いずれにせよ、選書や運営を、専門の管理会社にまかせずにボランティア感覚の市民や企業にまかせることが想定されているのだとしたら、それは、子どもに本を届けることを軽く見過ぎ、図書館という施設自体や司書の役割や意義、図書館の蔵書というものを過小評価し過ぎだと言われてもしかたないだろう。ある図書館の選書がでたらめだというので、メディアであれほど騒がれたのはついこの前のことなのに、そのような同じ本の業界内での出来事から学んでしかるべき教訓が、まったく活かされていないようにも思えるのだ。

ある特定のスペースを、バランスのとれた蔵書で埋めるのは、そのような作業に従事したことのない人が考えているよりも、ずっとずっと難しく大変なことである。それは専門家の知見が必要な、プロの仕事である。まして、今回は子どもたちが相手なわけだから、大人向け以上に慎重な選書と運営とが行われる必要があるはずだろう。

立派な「箱」があって、そこの本棚に(中身はともかくとりあえずたくさんの)本が並んでいたら、子どもたちは喜んで本を読みに来るだろう……そんなふうに思っているのだとしたら、それはいくらなんでも甘すぎるのではないかと言わざるを得ない。

かつて、バブルのころから崩壊後にかけてのころだろうか、「箱物行政」ということばがよく使われた。箱物=公共施設を建設することに重点がおかれ、その多くに中身が伴わないことを揶揄・批判していう文脈で使われたことばである。今回の件がそうだと言いたいわけではないが、ただ、その発想には通じるものがあるのではないか。そんなふうに思えてならないのである。

以上はいずれも、素人の杞憂なのかもしれない。ぜひ図書館や児童文化の専門家の意見を聞いてみたい。


※本稿は、空犬通信の記事「子どもたちに必要なのは立派な施設だろうか」(2017/9/24投稿、9/29更新)を改稿のうえ転載したものです。

ITは純文学を「再設計」できるか

2017年10月3日
posted by 仲俣暁生

文芸誌「新潮」の10月号から連載が始まった上田岳弘の『キュー』という長編小説を、スマートフォンのブラウザでも無料で読めるようにした実験的なプロジェクトが進行中だ。「新潮」とYahoo! JAPAN、そしてデザイン会社のtakramが共同で行うもので、特設サイト上では「純文学の体験を再設計する」と謳われている。

「再設計」とはどのようなことか。シンギュラリティー(人工知能が人間の知能を上まわる技術的特異点)以後の世界を描こうとする『キュー』という作品自体が、きわめて野心的な試みである。それをどのような読書体験として提供しようとしているのか、紙の雑誌とウェブ版を読み比べてみた。

「キュー」の特設サイト。スマホからアクセスしたときだけ小説が読める。

「縦書き・縦スクロール」は再設計といえるか?

「スマホならではの読書体験のスタンダード」と高らかに謳われているのは、「縦書き・縦スクロール」というユーザーインターフェイスだ。アプリやブラウザ上で動く従来の電子書籍のなかにも、いわゆる「ページめくり」だけでなく、スクロール型の読書が可能なものは存在した。ただし縦書きであればスクロールは横向き、横書きであれば縦向きと、文字列の向きとスクロールの向きは異なるのが一般的だった。

そもそも「スクロール(scroll)」とは「巻き物(巻子本)」、つまりページめくり可能な「冊子本(codex)」以前の本のかたちである。『キュー』で採用された「縦書き・縦スクロール」という組み合わせは、書物史的にもほとんど類例がないものだ。

ただし昨今のウェブコミック(ウェブマンガ)の世界では、縦書きを前提とする「ページ」という単位を保ちつつ、縦スクロールで読む方式が優勢になっている。マンガと同様、小説の表現を1ページ単位にレイアウトされた図像と考えるならば、「縦スクロール」という考え方もありだろう。『キュー』の場合、私も最初は戸惑ったが、読みすすむうちに快適に読めるようになった。

このウェブ公開版は、文芸誌「新潮」での連載よりも小刻みに掲載される。全9章であることが明かされているこの作品は、「新潮」誌上では1号あたり1章ずつ進むが、ウェブ公開版は週2回の更新で、本日(10月3日)時点で「1-8」までが読める。この「1-8」といった区切りは雑誌連載版には打たれていないので、あくまでもウェブ版の便宜上のナンバリングだ。

無料で読めてしまう点を除けば、小説をウェブで連載するというのは、新聞や週刊誌における連載とさして変わらず、ここにもとくに「再設計」された部分はみられない。本文を読み終えたあとに生成・表示されるアニメーションや、「キューのQ」と名付けられた読者に投げかけられる「不思議な質問」は楽しいが、これらも読書体験の本質とは関係のないギミックにすぎない。

逆にいえばこれは「小説」が、電子書籍やウェブ(あるいは新聞や週刊誌やスマートフォン)などに象徴されるメディア環境の激変にも関わらず、自立した言語表現として持続可能であることの証明かもしれない。

繰り返すが、『キュー』はこうした技術をたえず生み出してきた人類の営みを、文明史的な視野から描いたきわめて野心的な作品であり、作品自体の力で(純)文学を「再設計」しようとしている。それに対して、ウェブ上での「読書」を支えるインターフェイス・デザインは、それほど斬新な「再設計」がなされたようには感じられない。あるいはそもそも「再設計」など不要なのかもしれない。私はそんな印象をもった。

「文学」における次の特異点とは何か

今回の『キュー』のプロジェクトは、著作権保護期間が切れたテキストを集めた「青空文庫」や、「小説家になろう」のようなウェブ投稿小説サイトのプロジェクトと対比すべきだろう。「青空文庫」にあるのは、日本近代文学の古典を中心とする作品である。対してウェブ投稿小説は(すくなくともいまのところは)日本の文学史からは切れており、むしろネット投稿文化の流れを継ぐものだ。今回の『キュー』のプロジェクトは、前者と後者の間のどのあたりに位置しているのだろう。

「私の恋人」という作品ですでに三島由紀夫賞を受賞し、芥川賞候補にも二度なっている上田岳弘は、いわゆる「純文学」の小説家といえる。だが同時に、彼はIT系のベンチャー企業の役員でもあるそうで、シンギュラリティ仮説を含む技術動向にも詳しいと思われる(私は上田さんの小説を読み、ケヴィン・ケリーの『テクニウム』のことを連想した)。

『キュー』に登場する謎の語り手によれば、人類は《予定された未来》までに、18の「パーミッションポイント」を通過するという。そしていま私たちが生きている21世紀初頭は、以下を通過した時代だとされる。

《言語の発生》、《文字の発生》、《鉄器の発生》、《法による統治》、《活版印刷》、《自律動力の発生》、《世界大戦》、《原子力の解放》、《インターネットの発生》、この九つです。これらはどのように歴史を刻んだとしても、必ず通過したしたはずのポイントです。

そしてこの先にはAIが人類の知能を上回る《一般シンギュラリティ》や、《個の廃止》《寿命の廃止》さえ待ち受けている。そんな遠い未来までを念頭に書かれるこの小説は、まさに「文学」の再設計を企図したものだ。

『キュー』が掲載される文芸誌「新潮」の編集長も、このプロジェクトの特設サイト上で次のようなコメントを発表している。

18XX年、日本文学に特異点が訪れました。鎖国が破られ、近代的自我に相応しい「言文一致」という文章意識が確立された時点です。1904年に創刊された文芸誌『新潮』は、その特異点から誕生しました。そして20XX年――。情報技術革命と巨大な社会変化のただなかで、上田岳弘「キュー」は、新しいデジタルの舞台を得て、文学の次の特異点に向けて動き始めます。

残念なことに、このプロジェクトにしても『キュー』という作品自体にしても、ウェブではまだあまり話題になっていない。しかし紙で小説を読者に届けるのも厳しい。「文芸誌」(エンタテインメント小説を掲載する「小説誌」とは区別される)の発行部数は軒並み落ち込み、日本雑誌協会の印刷部数公表のページをみると、文芸誌4誌(「新潮」「文學界」「群像」「すばる」)の印刷部数は各6000部から約1万部にとどまる。ここから作家や批評家への献本や図書館での購読、書店での返品などを差し引くと、一般読者の手に届くのはごくわずかだ。

文芸書の場合、単行本の刷り部数も数千からスタートがふつうであり、小さな書店には配本さえされないこともある。ようするに現代の「純文学」は、どんなに意欲的な作品であっても、そもそも世の中の大半の人の目に触れる機会がないのだ。

今回の『キュー』のプロジェクトで興味深いのは、インターフェイス・デザイン面での新規性より、Yahoo! JAPANというプラットフォームとのコラボレーションのほうだ。特設サイトで小刻みに更新するだけでなく、小説をニュースサイトやアプリを通じて届けてもいいのではないか。あるいはYahoo!の検索結果と小説が連動するような大胆な仕掛けだって、あってもいいのではないか。

ITは、純文学という小さな世界の外へ、この気宇壮大な作品を届けるためにこそ役立つべきである。かつて言文一致というプロジェクトの完成に長い時間がかかったように、「文学を再設計する」というこのプロジェクトも、まだ始まったばかりでしかない。


【追記とイベント開催のご案内】
この記事の公開後、上田岳弘さんをお招きしての下記イベントが決定しました。詳細はリンク先をご覧ください。

「文学とテクノロジーとシンギュラリティ〜三島賞作家・上田岳弘さん公開インタビュー by マガジン航」

開催日時:10月28日(土) 17:00~18:30
会場:TORANOMON BOOK PARADISE 内(虎ノ門ヒルズ アトリウムほか)
参加料:1500円(当日支払い・ワンドリンク付き)
https://passmarket.yahoo.co.jp/event/show/detail/016rtyz5wzvw.html

第5回:カクヨム〜あらゆる「文章」のプラットフォームをめざす

2017年9月25日
posted by まつもとあつし

ネット投稿小説サイトはIT企業が運営するもの――そんな状況に一石を投じたのがKADOKAWAが2016年3月に正式オープンさせた「カクヨム」だ。株式会社はてなと組み、出版社自らネット投稿小説サイト運営に乗り出したその狙いはどこにあるのか? 商業出版とのシナジーや今後の展望などを、編集長の河野葉月氏に伺った。

出版社がウェブ小説を意識する理由

2017年2月より「カクヨム」編集長に就任した河野葉月氏。

――「カクヨム」の現状を教えてください。

河野:まもなく会員登録ユーザー数は16万人となります。オープン以来ゆっくりとした成長が続いていたのですが、(株)はてなの協力も得ながら使い勝手や機能の向上を図ってきました。「第2回カクヨムWeb小説コンテスト」を行った2016年12月からはその伸びが増しています。

――投稿には会員登録が必要ですが、作品を読むだけであれば登録は不要ですね?

河野:そうです。サイト利用者はもっと多いですね。MAU(月間アクティブユーザー数)は約100万人で、投稿され現在も公開されている作品数は約6万タイトルです。複数の作品を投稿されている方もおられますが、単純計算すると約3分の1の会員の方が作品を投稿されていることになります。

――サービス開始当初より、「カクヨム」のビジネスモデルに関心がありました。「小説家になろう」の場合は広告モデル、「エブリスタ」や「comico」は単行本化などの二次展開から、とさまざまですが、「カクヨム」の場合は?

河野:他社と同じく二次展開から収益を得る形ですが、「カクヨム」単体では収益を得る仕組みにはなっていません。昨年は54作品が書籍化されていますが、各編集部がカクヨムの投稿作品を書籍化して、そこから収益を得る仕組みになっています。

――電撃文庫が主催する電撃大賞など、KADOKAWAには他にも小説作品が集まってくる機会、いわゆる「プラットフォーム」があります。その中でネット投稿小説という分野に進出し、投資を続けている理由は?

河野:KADOKAWAのライトノベル・新文芸などの書籍部門では、UGCサイトからコンテンツを見つけて書籍化することが増えてきました。2013年と比較すると、新文芸に限ってもその傾向は約3倍の規模になりました。ウェブ発の小説を他社のサイト・サービスから持ってくるというかたちで出版を続けていたわけです。

そんななか、2015年にグループ各社が統合され、ライトノベルの主なレーベルがひとつの局に集められました。それまではそれぞれのレーベルが独自のスキームを持っていたのですが、「ウェブ発のコンテンツはもっとポテンシャルがあるのではないか? そういった媒体を自分たちでも運営したほうがよいのではないか?」と皆が考えていました。これまでのレーベル単位では運営が難しかったけれど、集まったことによって、それができるようになりました。

――運営に掛かるコストよりもメリットが上回るという判断もあったと思いますが、想定されたメリットはどのようなものですか?

河野:他社のサービスに依存していては、万が一、それが終わってしまった場合にどうするのか、という問題が起こります。 また、そこから作品の提供を受けようとする競合出版社もいるわけで、必ずしも弊社が優先されるわけではありません。競争があることによって、書籍化にもよい影響が及ぶことはありますが、必ずしもKADOKAWAにとってよいことばかりとは限りません。

「カクヨム」も(作品の二次展開にあたり)他社に対して門戸を開いていますが、社内の編集部も注目してくれています。また、自ら運営にあたることで、ノウハウが蓄積されます。たとえば、「どうすれば作品を育てることができるか?」といった試行錯誤ですね。そういった前向きな施策を我々自身が実施しハンドリングできるというのは大きなメリットです。

今年も開催される「第3回 カクヨムWeb小説コンテスト」の告知ページ。

『横浜駅SF』の成功

――「小説家になろう」を取材したとき、作品を投稿する場に徹する、という運営者の言葉がとても印象的でした。二次展開や「作品を育てる」といったことには関与しない。実際、「小説家になろう」発の作品から『Re:ゼロから始める異世界生活』のようなヒット作を、KADOKAWAはつかみ取ることができましたよね。

河野:「小説家になろう」さんにとって弊社は、あくまでもお付き合いのある会社の一つであって、それ以上でもそれ以下でもないだろうと思われます。かといって、我々が作品作りの段階で「小説家になろう」さんで書いている作家に積極的に介入できるとかというと、そういうわけにはいかないのです。

――利用規約でユーザーに対して、書籍化の際にはKADOKAWAが優先される、あるいは「カクヨム」への投稿作品を他の投稿サイトへの投稿を禁ずるような項目はありますか?

河野:それは一切ありません。実際、「小説家になろう」さんと同様、「カクヨム」掲載作品に対する書籍化の打診が他の出版社からあった場合、著者に直接つなぐようにしています。もちろん、他サイトへの投稿も自由です。

――なるほど。そうなってくると、やはり「育てる」あるいは「早い段階で発見する」といった、自前サイトでの運営から生まれるメリットが大きい、ということになりそうですね。そういった取り組みの具体的な例があれば教えてください。

河野:KADOKAWAの持つ各レーベルが審査や書籍化に参加する「カクヨムweb小説大賞」は自前サイトの特徴が出ているのではないかと思います。そうしたなかで、『横浜駅SF』はコミカライズまで展開が進んだ成功例です。

「カクヨム」サイトでの『横浜駅SF』のページ。

『横浜駅SF』は紙の本としても出版された。

『横浜駅SF』はスタート間もない「カクヨム」に投稿され、また「カクヨムWeb小説コンテスト」にも応募された作品です。もともと作者の柞刈湯葉(いすかり・ゆば)さんがTwitterで投稿されていたものを、ご自身のBLOGにまとめ、それに加筆をして「カクヨム」に投稿したという経緯の作品です。そういう意味で非常にウェブに親和性が高い作家さんで、気がつくとTwitter上等で「バズっている」状態になっていました。私たちよりも先にユーザーが発見していた、ということですね。

「第1回カクヨムWeb小説コンテスト」のSF部門で大賞を受賞し、書籍化して発行しました。営業が横浜の書店さんで強力な仕掛け販売を実施したところ、横浜を中心にたいへんな支持を得ることができ、その実績を持って全国に拡げていきました。ちょうど今月(取材時)2巻目となる『全国版』が出版され、同時にコミックの1巻も発売されています。発表時、「カクヨム」には、他のサイトのように特定のジャンルの「色」がついていないからこそ、こういった、他のサイトではあまり注目されることのない作品が発見されたのではないかなと思っています。

――異世界転生でもなければ、学園ファンタジーでもなく……。

河野:ホラーでもなく、ですね(笑)。SFはなかでも非常に難しいジャンルですが、ネットやソーシャルメディアで「ネタ」となりやすく、話題になりやすい作品だったのだと思います。「カクヨム」はまだ、「小説家になろう」さんのようなある種の「型」がありません。逆にそれが多様性を生んでいると思っています。

ネットで「バズる」仕組み

――「カクヨム」の立ち上げ直後には、カドカワ代表取締役社長の川上量生氏によるものではないか、とされる投稿が話題になりました。「カクヨム」は他のウェブ小説投稿サイトと比べて、ネットで「バズる」仕組みを備えているという面はありませんか?

河野:たしかに、「カクヨム」はTwitterとは相性がよいと思います。統計的に調査したわけではありませんが、他の投稿サイトと比較してTwitter上に「カクヨム」という言葉が出てくる回数は多いのではないかと思います。また「カクヨム」上で作品レビューをしたときにも、「この作品を応援しました」という投稿をシームレスに行なえるようになっています。ソーシャルメディアとの親和性は高く設計されていると自負しています。

――自前でサービスを運営することによって、「作品がどれくらい読まれているか」だけでなく、「どれくらいシェアされているか」といった数字も含めて、手元で状況が分かるわけですね。それによって、発見やそこから育成も効果的に行なえると思いますが、『横浜駅SF』の場合はどうだったのでしょうか?

河野:『横浜駅SF』の場合は、勝手に育っていったというのが正直なところです(笑)。

――では、他の作品ではいかがでしょう。 サイト掲載や書籍化にあたり設定や伏線をガラッと変えるというケースもよく見かけますが。

河野:「カクヨム」は「カクヨム」編集部が運営を行っており、書籍化は各編集部が行っています。それぞれのノウハウで紙の書籍に合わせた表現への改稿や、番外編を加えて商品化するので、投稿された小説をそのまま書籍化することはほとんどないと思います。

「カクヨム」編集部でもこれからの作家を「育てて」いけるようになりたいと思っています。今後の取り組みとしては、「伸びしろ」がありそうな作品を発見したときに、様々な数字を見ながら、うまく伸びていくような仕組みを作れるとよいなとは思っています。

――トップページなどで紹介している「注目の作品」がそれですか?

河野:はい、ここには前日の評価が一定以上あった「いま伸びている作品」を表示するようにしています。

――ピックアップは自動で行われているのですか?

河野:自動です。手動で行っているのは「特集コーナー」で、ここではプロの書評家に依頼し、面白い作品を見つけて毎週紹介してもらっています。あとはコンテスト期間中に露出の場所を変えるなど、細々とした改善をすることで、作品自体に注目が集まるように工夫をしています。

「注目の作品」のピックアップは手動で行われている。

書くという行動を起こしやすい場所

――「カクヨム」編集部としての、作家発見と育成の考え方についてはよくわかりました。「カクヨム」編集部が所属するエンターテインメントノベル局全体としては、「この作品を書籍化しよう」といった企画のすり合わせはしているのでしょうか?

河野:いえ、各編集部がそれぞれの判断でそこは進めます。

――バッティングすることは?

河野:あります。その場合は早い者勝ち――ではなく(笑)、著者の方にお伝えして選んでいただくことが多いですね。

――なるほど。「カクヨム」掲載時にその中身について、「カクヨム」編集部や書籍化を企図する各編集部が何かアドバイスをしたり、といったことはないわけですね。

河野:それはありません。読者(ユーザー)とのやり取りでなにか影響があるかもしれませんが、UGCサイトなので、「カクヨム」編集部が運営として作品の中身に介入するということはありません。あくまで投稿メディアとしての「カクヨム」を運営し、そこから生まれた作品の芽を見つけて光を当て、次のステージへと育てていくということです。まだ、その「育てて行く」の部分は試行錯誤の段階ではありますが。

――「comico」のように、誰でもできる投稿から公式作家となり原稿料が発生し、そこから書籍化・映像化も――という方向とはまた異なるのでしょうか?

河野:その方向ではないですね。あくまで「カクヨム」の立ち位置はプラットフォームです。弊社代表取締役の井上伸一郎もよく話しているのですが、UGCには他のユーザーとのインタラクションで物語がどんどん変わっていき、完成へと向っていく面白さがあると思います。そういう動きが活発に起こる場を作って行きたいということです。

本を出版するということと、ユーザーの方ができるだけ書くという行動を起こしやすいプラットフォームを運営することは、異なるものとして捉えています。書籍化される作品も、必ずしもランキング上位のものからというわけではなく、書籍化に向いている作品とそうではないものがあると捉えています。そのあたりは各編集部の意向も踏まえながら、ランキングやピックアップとは別に、並行して選定を行っています。

UGCは「一般のユーザーに発見してもらう」という観点からは、ランキングに集約されていくところがあります。面白いと感じたものを、気軽に、前向きに評価できる仕組みであったり、自分の読みたいものがきちんと見つけられる状態を作って行く。読んで気に入った作品がきちんと評価され、ランキングの上位に上がっていく。そういう仕組みがうまく機能して、編集部の企画と合致すれば、書籍化が進んでいく――その道筋を整地する作業を「カクヨム」では行っています。

作者とユーザーとのインタラクションを促す仕組みを実装。

――これまでも、さまざまな出版社が同様の取り組みにチャレンジしてきました。UGCが重要であるという認識は、出版界でもかなり浸透していると思います。ただ、これまで決定的に足らなかったのが、プラットフォームを成長させるために必要な開発と運用への投資でした。そこは(株)はてなとの協業によって解決されている、という理解でよいでしょうか?

河野:(株)はてなとは隔週の定例会議や、分科会ごとのテレビ会議、SlackやRedmine使った情報共有を頻繁に行っています。そこでデータを見ながら、それぞれの問題意識を共有し、改善策を打ち出しています。対等に「カクヨム」をよくしていこうという観点から、率直な意見が交されています。

――なるほど。それにしても「カクヨム」単体での利益構造にはなっていないということでした。しかし、プラットフォームを運営し育てて行くとなると、これからも投資が続いていくことになります。どのくらいの時間感覚でリクープ(投資回収)を図っていく見込みなのでしょうか?

河野:もともと数年計画で、書籍化による回収を目指す計画です。サービス利用者への課金等は、現状考えておりません。

――出版事業としては大きな投資が続く、回収には数年かかるとなると、経営層からの理解やバックアップがないと、なかなか継続が難しい事業です。

河野:会長の角川歴彦もそうですが、経営陣の支持あってこそのプロジェクトだと言えると思います。

弊社の経営層もUGCの将来性、重要性に早くから着目しており、中期的には投資を回収して十分利益を生み出せると判断しています。

「カクヨム甲子園」で裾野を広げる

――「小説家になろう」という巨大な存在があるなか、ノウハウ蓄積とIPの効率的な発掘と育成のために、数年・おそらく数億単位の投資ができるというのは、一般的には――とくに出版業界からすると――理解が難しい話かもしれません。書籍化して増刷がかかるようなヒットは限られますし、映像化となるとさらに時間がかかる上に、ビジネスとしては編集部から離れた展開となりますね(注:製作委員会が組成され、原作印税はもたらされるが、出版社が直接関与できる余地は限られるため)。

河野:とはいえ、実現すれば映像化は波及効果が大きいので、私としても大いに期待しております(笑)。

「カクヨム」はKADOKAWAのライトノベル・新文芸のレーベルと共に運営している媒体ではありますが、そこだけを見ているわけではありません。他の投稿サイトがそうであるように、UGCプラットフォームである流行が生まれると、それが収まるまでは他のジャンルの作品が注目される機会が小さくなってしまいます。

それに対して「カクヨム」は、ご覧いただけばわかるように、いわゆる「異世界ファンタジー」など既存の枠に収まらない、実用書、マンガ原作作品などもかなり出てきています。そうなるよう2016年の12月に投稿ジャンルの大規模な統廃合を行ったり、作品のフィーチャーの仕方にも偏りが生じないよう工夫をしてきました。

「カクヨム」からは実用書などの紙の出版物も生まれている。

――なるほど、ジャンルの統廃合と利用者数が伸びた時期が一致しているのは、とても興味深いところです。とはいえ、収益拡大を期待する上でKADOKAWAが得意とするのは、やはり「異世界ファンタジー」というジャンルではないでしょうか。実用書の映像化という事例もまったくないわけではありませんが……。

河野:そうですね。現状は、いろいろな方法を試しているところです。実用書はラノベと異なり、細く長く売れます。なかには累計で10万部に達するものも出始めていますので、注力したいジャンルの一つではあります。

さらに長いスパンでの取り組みとしては、「カクヨム甲子園」が挙げられます。高校生に限定したコンクールで、ショートストーリー部門は4000文字以内で下限も設けていませんので、かなり気軽に応募できるようになっています。高校生にまずは文字の世界に親しんでもらって、書いてもらいたいし、読んでもらいたい。こちらはショートストーリー・ロングストーリー両部門で合計1,000作品を超える応募があり、手応えを感じています。

今年も行われた「カクヨム甲子園」の特設ページ。

――創作を誘発する仕組みとしては、どのような施策をしていますか?

河野:かなり地道な取り組みを続けています。「カクヨム甲子園」の場合は高校に数千部単位でポスターを送り、貼っていただいています。高校生に訴求しようとすると、やはりウェブだけでは完結しないのです。後援をお願いした読売新聞社が発刊する「読売中高生新聞」にも出稿しました。そのうえでTwitter広告も打ったところ、高い効果が上がりました。また、「ニコニコ生放送」では「3日間で高校生に小説を書いてもらう」という企画も実施しています。

「ラノベの読者は高齢化している」といった指摘もありますが、実際、「カクヨム」発の作品も、書籍化されるレーベルによっては――とくに新文芸のジャンルは単行本として発売されるため単価が高いこともあり――読者の年齢層が比較的高めの方に支持されている面があります。

しかし一方で、「カクヨム」のユーザー層はじつは若い方が中心です。おこづかいのやりくりもあるでしょうし、書籍を購入することが少ない層です。無料媒体で読んでみて、よほど気に入ったら買ってくれるということなのかもしれません。とはいえ、たくさんの人たちに、若いうちから小説に触れてもらい、小説の面白さ、書くことの楽しさを知ってもらいたいと思います。彼らが成長して、自分のお金が自由に使えるようになったときに、本を買ってくれるとよいなと思います。

――裾野を拡げるという意味では、100万のMAU=読み手、そこに含まれる15万人の会員=書き手が現状の「カクヨム」には存在しているわけです。これを今後、どこまで成長させたい、という目標はありますか? ジャンルを絞らず潜在的な将来の読み手=本の購入者を増やすという意味で、何らかのKPIを置いているのでしょうか。

河野:サービスが将来こうありたい、という姿はあるのですが、具体的な数値目標はありません。もちろん、単年度の目標はありますが。個人的には、最終的な目標として、さまざまな「文章のアーカイブ」を作り上げたいと考えています。

たとえば郷土史家の方々がまとめた作品は、地域だけで共有され、消えてしまうことがあります。そういった文章も、「カクヨム」に載せていただきたい。論文や研究、エッセイ、児童文学、戯曲など、あらゆる作品を世の中に広く伝えたい、というときに活用していただけるような場になりたいと思ってます。でも、そうなるといまの10倍でもまだまだ目標としては小さい! ということになってしまうと思いますね(笑)。

* * *

出版大手が取り組むWeb投稿サービス「カクヨム」は、KADOKAWAがさまざまな分野で取り組む、物語を巡るバリューチェーンの再構築を象徴するような存在であることが取材を通じて改めて確認できた。

それが成功するかどうかは、現時点でのマネタイズの源泉となる書籍化――とはいえこの分野は縮小傾向が続くことは避けがたい――と、同時並行して進める読者の開拓と彼らがもたらす新しい物語消費のあり方が、近い未来で交点を結べるかというところに掛かっている。

絶海の孤島の中にある日本語のヒップホップ論戦

2017年9月12日
posted by 川崎大助

すこし前に奇妙な事件があった。「ヒップホップ」と「自民党」という、普段あまり一列に並ばない単語がセットになって、そして日本語のインターネット空間のなかで「炎上」していた。「燃やされた」のは自民党の新潟県連だ。このとき同組織に投げつけられていた悪罵の数々を簡単に要約すると、「自民党はリベラルではない」から「『ヒップホップ』なんて口にするな!」というものだった。なぜならば「ヒップホップとは『つねに弱者の側に立つ』カウンターカルチャーだから」と……この経緯の一部は朝日新聞にも載った。7月の半ばごろの話だ。

と聞いて「えっ、ヒップホップってリベラルだったの?」と素朴な疑問を持ってしまったあなたは、正しい。ゆえにこの事件について、僕はここで腑分けを試みてみたい。その内側には、音楽文化への「日本にしかない」とてつもない誤謬が含まれていると考えるからだ。

日本語のインターネット空間は絶海の孤島か

まずは事件の概要から追ってみよう。

とっかかりは、前出の自民党新潟県連が作ったポスターだった。同県連主催の政治学校の生徒募集のためのもので、若い女性向け、若い男性向けの2種が制作された。問題視されたのは後者、男性向けのほうで「政治って意外とHIPHOP。ただいま勉強中。」というキャッチ・コピーの「前半」のみが物議をかもした。また、県連青年部局のツイッターから発せられた「#政治とはHIPHOPである」というハッシュタグも火に油を注いだ。このポスターは7月10日に貼り出され、15日ごろからツイッターを中心に批判の声が上がり始めた。「自民県連HIPHOPポスター、批判相次ぐ 新潟」と題された朝日新聞ネット版の記事は、同21日にアップされている。

LDP新潟政治学校 第2期生募集のサイトやポスターで用いられた文言が物議をかもした。

このとき、批判の急先鋒となった観があったのが、ベテラン・ラッパーのKダブシャインだった。上記の朝日の記事のなかでも彼は「自分たちが大切にしてきたヒップホップ文化をただ乗りされ踏みにじられたように感じ、受け入れがたい」とコメントしてる。さらに彼は、自身のツイッターでも、この件について盛んに意見を発表していた。たとえば、以下のように。

「持たざる者、声なき者に寄り添うことでヒップホップはここまで世界的に発展して来たのに(中略)消費税、基地建設、原発推進、はぐらかし答弁、レイプもみ消しに強行採決と、弱者切り捨て政策ばかり推し進めておいて、そこに若者を集めることのどこがヒップホップなのか解説して欲しい」(7月16日のツイートより)

そして、基本的には「この観点」と「この論調」に沿って、数多くの人々が、ツイッターそのほかで自民党新潟県連に襲いかかった。

朝日新聞記事の前後に、いくつかのメディアがこの事件を報道した。しかしこの原稿を執筆中の8月31日現在、同県連の政治学校ページには、該当のポスターと同じものが、いまなおそのままに掲げられている。以上が事件のあらましだ。

といった経緯を見て僕は、とても気持ち悪いものを感じた。なぜならば、単純にまずこう思ったからだ。

「リベラルな内容」のラップ・ソングはもちろんあるが「まったく逆」のものだって大量にあるし、そっちのほうが多い。ゆえに、ラップが、ヒップホップが「リベラル専用(あるいは、リベラル寄り)」と言うには、だれがどう考えても語弊がありすぎるし、さらに、それをもってして他者を攻撃するというのは、明らかに間違っている。いくら自民党が嫌いであっても。

同時に、このときに批判者のなかに「ヒップホップはカウンターカルチャーである」という意見も多かったのだが、これも不正確きわまりない。「カウンターカルチャーとして機能する」ものも一部あるにはあるが、アメリカのヒップホップとは元来「対抗文化(Counter-culture)」とはなり得ない。というよりも、あからさまに「体制擁護」的な本質がある。後段で詳述するが、ロックと比較してみればすぐにわかる(あるいは、フォーク・ソングとも)。

だから「ほぼ完全に」間違った意見が、歪曲したものの見方ばかりが、猛烈な速度でこのとき世間に流布されていた、と言うしかなかった。日本語のインターネット空間は、世界の言論状況から切り離された、まるで絶海の孤島のようではないか。いったい全体、なんでそんなことになったのか?

日本の右翼ラップ

そもそもアメリカのヒップホップ音楽におけるラップ・ソングとは、その歴史の最初から、つねに世間の良識派から眉をひそめられるような存在だったことは、だれもが知るところだろう。とにかく詞が、言葉が、ラップの内容が問題視された。強烈な男性原理に支配された上での、女性蔑視、セクシズム、ホモフォビア、暴力や犯罪礼讃、カネや権力へのあからさまな執着――といった要素を詞に含む楽曲がとても多く、さらには目立ったために非難された。日本でだって、カタカナ語の「ビッチ」がここまで一般化したのは、すべてアメリカ製のラップ・ソングのせいだ。

アメリカのラップ・ソングは、まず最初に「目の前の現実」をこそ詞にするものだったから、そうなった。ファンタジーではなく、ドキュメンタリーだ。理想を歌うのではなく、まず最初に現実を活写する(ときには、それを誇張して表現する)ことが得意だった。つまり、当初はラッパーの置かれていた環境が「やばい」ものであることが多かったので、「やばい」内容の曲が量産されたわけだ。

黒人が社会的弱者だから「助けてあげよう」と寄り添った、なんて行動原理があったわけではない(あるわけがない)。自分たち自身が「黒人だから」というだけの理由で社会的強者から抑圧されたから、「なめるな!」と怒っただけのことだ。「当たり前の人間としての、最低限の尊厳と権利」を主張しただけだ。声高に。

そしていまや、アメリカの商業音楽シーンの主流(Mainstream)で売れているものの大半は、ヒップホップ音楽もしくはその影響下にあるものばかりだ。ゆえに、いまとなっては超保守ラップもある。クリスチャン・ラップも、白人至上主義者によるKKK礼讃ラップすらある。ありとあらゆることが「ラップ・ソング」になった。

あのキッド・ロックだってそもそもはラッパーだった。サラ・ペイリンとテッド・ニュージェントとともにトランプにホワイトハウスに招待され、「ホワイト・トラッシュのラシュモア山や!」とCNNでコメンテイターのポール・ベガラに失言させてしまったほどのレッドネック野郎の彼だって、いまでもラップはとても上手い。

だから「右翼ラップ」と呼ぶしかないものも多い。それこそ「安倍政権よりもずっと右」なことを主張しているラップ・ソングだってある。もちろん、ここ日本にも。

日本の右翼ラップについて、最初に名前を挙げるべきは「英霊来世(エーレイライズ)」という3人組のグループだ。メンバー名は、七生報國、一億一心、明鏡止水。2005年に活動を開始し、10年にアルバムとシングルを発表。靖国神社と関係が深く、奉納ライヴもおこなっている。彼らのナンバー「開戦」では、こんな詞がラップされる。「リメンバーパールハーバー/こっちの台詞だ 忘れるもんか/世界を変えたあの轟砲 もう一丁響かそうぜ同胞」。そのほか「中国 韓国 北朝鮮 ロシア アメリカにも気は抜けん」というタイトルの曲もある。

「英霊来世」の公式ウェブサイト。

ソロ・ラッパーの「Show−k(ショック)」もよく知られている。介護士をしながら活動を続け、14年の東京都知事選挙では田母神俊雄候補の街頭演説車の上に立ってラップした。彼のナンバー「そうだ! 靖国へ行こう!」はこんな内容だ。「配慮はいらない堂々と 英霊に敬礼!!/8月15日は靖国へ行こう」。そのほか「今でも安倍」という安倍総理応援ソングもある。13年の参院選公示直前の6月に発表されたこの曲は、彼の具体的な政治的主張が見えてくるものだった。

英霊来世もShow−kも、商業的な音楽シーンのなかで高く評価されているわけではない。政治活動の一環としてラップを披露している、と見るべきかもしれない。しかし彼らのルーツと呼ぶべきラッパーは、まさに「シーンの大立て者」のひとりだ。だれあろうそれは、今回の騒動で批判者の先頭に立っていたKダブシャインだ。

95年、ヒップホップ・ユニット「キングギドラ」の一員としてレコード・デビューしたKダブシャインは、のちにソロに転向。そして02年、映画『凶気の桜』の音楽監督をつとめる。窪塚洋介が主演し、右翼活動へと没入していく若者を描いたその映画の内容に沿って、タイトル曲ではこんな内容がラップされた。「もうあれから60年にもなるゼロ戦/神風頭に浮かべ 勇敢な魂 持ってたら歌え」――この映画が話題となったころが、右翼的な内容の日本のラップ・ソングの起点となった時期だ、とよく言われる。

もっとも、Kダブシャインの詞がいつもこの調子かというと、そんなことはない。例えば00年に発表した「日出ずる処」は、こんな内容だ。「耕す米 美しいヨメ 山を夕焼けが 真っ赤にそめ/午後の6時 空が告知 栄養バランスのとれた食事」「長すぎた戦争が 終わり占領下 低い円相場 まさにゲームオーバー/再出発する 日本人 大復活する 自尊心」――ここから立ちのぼってくるのは、素朴な愛国心だ。「日本に生まれた男として、当たり前に日本を愛する心」といったものが、Kダブシャインのラップの心棒となっているように僕には思える。彼の靖国神社参拝も、右翼団体「一水会」への接近も、同じ源泉からのものなのだろう。そして、彼が愛する日本をまさに「破壊しようとしている」のが、現在の自民党の政策なのだ……というのが、理解の筋道だろう。

また、Kダブシャインが築いた「愛国心」を鼓舞するラップという橋頭堡の上に続いた者として、般若の名も挙げなければならない。彼は05年、映画『男たちの大和/YAMATO』にイメージ・ソング「オレ達の大和」を提供する。同映画の主題歌を担当した長渕剛のツアーで前座も務めている。これらの土壌の上に、英霊来世もShow−kもいる。

そしてまた、愛国心から国粋主義、排外主義へと突き進んでいく道のりは決して遠くはない。その路程を駆け抜ける際に燃料として欠かせないのが、和製英語で言うところの「マッチョイズム」だ。

ヒップホップはその当初から「男根主義的だ」とのそしりを受けてきた。この部分が、「アメリカ以外」の国へと伝播したとき、そこの地場の「男らしさ」と過剰に結びつくことで、「愛国」の烈士を生み出す触媒となってしまうのだと僕は考える。だから日本以外の「ヒップホップ輸入国」でも、同様の現象は起こっている。右翼どころか、極右ラップまでが増殖している。

欧州やオーストラリアにも広がる

たとえば、15年、オーストラリアのアデレードで開催された極右団体「リクレーム・オーストラリア」主催のイスラム教徒排斥集会にて、オージー・ディガーと名乗るラッパーがパフォーマンスを披露し、新聞ダネになった。「もう沢山だ(I’ve Had Enough)」と題されたその曲は、こんな内容だ。「オージーの二日酔いに効くのは/卵とベーコンのサンドイッチ/なにがあったって変わるわけない/だからお前も好きになれるはず/じゃなきゃ出ていけよ」(原文英語 筆者和訳 以下同)

イスラム教徒にとって飲酒や豚肉食は絶対的な禁忌であるからこそ、それを「オーストラリアに住むための踏み絵」として迫る、という詞だった。こんな曲を彼は、オーストラリア名物のベジマイト(日本でいう納豆みたいに「外国人には馴染みにくい」発酵食品の同国代表)のボトルの着ぐるみ姿の男を従えて、「楽しげに」ラップした。そして周りを固める極右仲間が大声で唱和した。

こうした動きと同様のものが、ノルウェーなどヨーロッパ諸国でも顕在化し始めている。これらすべての先駆けとなったのが、ゼロ年代初頭からドイツで頭角を現したギャングスタ・ラッパー「ブシドー(Bushido=武士道)」だ。アメリカのエミネムや50セントに影響を受けたと評される彼は、暴力的で国粋主義的なラップで人気となった。ブシドーの代表曲のひとつ「エレクトリック・ゲットー」ではこんな一行が繰り返される。「敬礼! 気を付け! 俺は『A』のようなリーダーだ」――この「A」とはアドルフ・ヒトラーを指すものだとして、ドイツでは大変な物議をかもした。しかしそれが逆に、ネオナチ指向の若者に受けに受け、後続への道を開いた。

ブシドーには女性蔑視の詞が多い。ゲイを差別し攻撃する詞も多い。「ベルリン」という曲はこんな詞だ。「ベルリンは再びハードになる/ホモのクソ野郎全員を俺らがぶん殴るから」。「理由なき戦い」では、「ホモの豚は拷問される/野郎はチンコ吸わない、これすげえ普通のこと」とラップされる。そしてこの曲には、ドイツ緑の党党首の名前を出して脅迫する一行まであった。「俺はクラウディア・ロートを撃ってるところ、ゴルフ場みたいに穴いっぱいだぜ」――これを受けて、2013年、当時のベルリン市長、社会民主党所属でゲイを公表していたクラウス・ヴォーヴェライトは法的措置も辞さない構えでブシドーを非難し、やはり新聞ダネになった。

と、このようにあらゆる批判を集めながらも、今日もなおブシドーは旺盛な活動を続けている。ドイツで屈指の知名度と人気を誇る「極右」ラッパーが彼だ。

「コーク」と「ペプシ」の違いにすぎない

では「ヒップホップが生まれた国」であるアメリカでは、ラッパーの政治性はどんな色合いなのか?――と見てみると、これは比較的わかりやすい。おおよそ「民主党支持者が多数だ」と見てもいい。とはいえ、じつはここにこそ「日本人が見誤った罠」がある。「ヒップホップが『社会的弱者の側に立つ』ものだ」なんて勘違いしてしまった、最初の落とし穴はこれだ。

なぜならば、政治を観察するモノサシの最初の最初から、言うなればその目盛りが狂わされている、からだ。つまり「日本人なのに」アメリカの政治風土にのみ表層的に毒されすぎている、と言おうか。

「保守とリベラル」とは、元来、政治思想の両極として対立するような概念ではない。これを「あくまで「自由主義」の枠のなかでの「右」と「左」の違い、いわば「コーク」か「ペプシ」の違いに過ぎない」と喝破したのは、慶応義塾大学の渡辺靖教授だ(WEB RONZA『米国にとって「リベラル」と「保守」とは何か』より)。

広い世界の民主主義のなかには「保守(アメリカであれば共和党)」と「リベラル(同、民主党)」しかない、わけではない。なのに「日本も同じだ」と考えてしまったとしたら――というか、そう考えている人がとても多いようなのだが――それは致命的な錯誤でしかない。世界はアメリカだけではないからだ。

そもそもの日本語の政治概念用語としては、保守の対義語は「リベラル」ではなかった。保守の逆は「革新」に決まっている。「右の反対が左」であるように。しかし旧社会党の凋落以来、日本の政治空間のなかで社会民主主義勢力は退潮の一途をたどり、ついこのあいだまでは、なんと日本も「アメリカ型の二大政党制」を目指さねば――なんてことになって、いつの間にやら、だれも「革新」なんて言葉を使わなくなった。リベラルだの「左派リベラル」だのだけが、跳梁跋扈するようになった。

かくして近年の日本では、アメリカ限定印付きの意味での「リベラル」という言葉が、まるで「革新」や「社会民主主義」と置き換え可能であるかのように、大いなる勘違いのもとで使用されるばかりとなった。だから、じつのところ今回のこの騒ぎも、僕にはまるで「コップのなかの嵐」であるかのように見えた。まさに「コークとペプシ」の対立であるかのように。

なぜならば、愛国心旺盛な「リベラル」派は、ごく普通の政治概念では「保守的自由主義(Conservative Liberarism)」と区分される。もうすこし右に寄せると「自由保守主義(Liberal Conservatism)」となる。そして、このどちらも標榜している政党は、日本では、英名が「Liberal Democratic Party」である自民党だ(とWikipediaの英語版には書いてある)。このようにアメリカ型の「リベラル」と「保守」とは、それほど遠い存在ではない。欧州の政治と比較して見るならば。

たとえばイギリスの「二大政党」は、アメリカとはかなり趣きが異なる。保守党と労働党だ。だからかの国には、アメリカとはまったく違う「政治風土」がある。立憲君主国に近い体制の日本では、「イギリス型」のほうが体質に合うはずだったのに、と僕は思うのだが……しかしそっちには進まなかった。

アメリカの話に戻ろう。前述したように民主党支持者が多いヒップホップ・アーティストなのだが、これももちろん「全員がそうだ」というわけではない。それどころか、かなりの大物にも「共和党支持」を公言している人物すらいる。LLクールJ、50セント、それからN.W.Aの故イージーEといったところがよく知られている。KRSワンも「ヒップホップの初期には共和党は仲間だった」と発言したことがある。また銃を好むラッパーも多いから、あの悪名高き全米ライフル協会(NRA)の会員も多い。ネリー、キラー・マイクが有名だ。

さらにこんな統計もある。CNNの調べによると、1989年から2016年までのあいだに、さまざまなラップ・ソングの詞においてドナルド・トランプの名が言及されたこと、なんと318回(!)を数えるのだという。このうち、批判的にトランプを取り上げたものは、(最近になるまで)かなり少なかった。多いのは、「派手なカネ持ちの代表例」としてのトランプ像だ。面白がっている、いやもっと正確に言うと「あこがれて」さえいるかのような扱いが「定番」だった。なぜなら、ヒップホップの基本概念として「おカネがあるのはいいこと」だからだ。それがカタカナ語にもなった「メイクマネー」というラップの決まり文句の出どころだ。

たとえば、大人気歌手アリアナ・グランデの恋人としても有名なラッパー、マック・ミラーが11年に発表した曲「ドナルド・トランプ」は、13年にはプラチナムを獲得するほどのヒットともなった。こんな内容だ。「俺がドナルド・トランプだったら世界征服だ/見ろよこのカネ全部、ちょっとしたもんだろ?/ヘイターズが怒り狂う隙に、俺ら世界征服だ/ていうのが、俺のビッチーズがみんなワルい理由」

つまりこの曲は、傍若無人な大富豪としてのトランプを、ヒップホップらしく誇張して、多分に肯定的に戯画化したものだった。なので、16年の大統領選にトランプが出馬してからの大騒ぎは、ミラーにとって「想定外」だったようで、急遽彼は「自分は政治家としてのトランプは支持していない」とのコメントを発表、釈明に追われた。しかし当然のこととして、選挙戦時のトランプ候補の破竹の快進撃にともなって、16年にはふたたびこの曲がよく売れた。

ヒップホップは資本主義社会の音楽

なんでこんなことになったのか?――というと、資本主義とヒップホップ音楽とは、コインの裏表どころではない、からだ。「表と表」の関係だからだ。ゆえに大半のヒップホップ音楽は、当たり前の帰結として、まったくもって「カウンターカルチャー」とはなり得ない。アメリカのヒップホップ音楽のほとんどすべては、その本性がアメリカの国是と同様に「資本主義を肯定している」からだ。

このことについて、音楽で資本主義的に「成り上がった」ヒップホップ大富豪の筆頭、ジェイZがとてもわかりやすく説明してくれている。インタヴュアーの「ロックの世界では『企業』は汚い言葉とされてきたが、ヒップホップではどうなのか?」という質問を受けて、彼はこう言った。

「ロックとは全然違うね。成功したロック・アクトはアンクールになる。でもヒップホップでは『成功はいいこと』なんだ。みんなゲットーから脱出しようとしているからね。だからもしきみがペプシのコマーシャルに出ても、セルアウトしたってことにはならないのさ」(17年6月、UK版『GQ』のインタヴューより)

そのジェイZが、こちらもトップスター・ラッパーと呼ぶべきナズとコラボした曲に「黒い共和党員(Black Republican)」(06年)というナンバーがある。曲中でジェイはこんなふうにラップする。「黒い共和党員みたいな気分になるぜ、ばんばんカネが入ってくる/地元には背を向けられねえ、あいつらのことが大好きだから」――もちろんここの「共和党員」は比喩であり、アイロニーなのだが、自分たちは資本主義という、「カネ」を主役とした情け容赦のない社会体制のなかで、「ゲームのルール」に従って勝負して、勝利をおさめつつあるのだ、という現状の「ドキュメンタリー」とも言える小品だった。

こうしてアメリカのラップ・ソングを概観したとき浮かび上がってくるものは、まず最初に「資本主義社会の音楽だ」ということだ。リベラルか保守か、民主党か共和党か、なんて二分法は最重要ポイントではない。アメリカが「自由世界の盟主」であり、その立場を維持する最大の装置が「カネ」である現実をまず直視しているのが、僕が知る同国のラップ・ソングの、第一の特徴だ。資本主義という「厳しい現実」に、雄々しく男らしく立ち向かっていくための音楽、とでも言おうか。

たとえば60年代には反体制派が大多数だったロック音楽の世界にも、70年代になると右翼化する一群が出現した。一時期はあたかも「カウンターカルチャー」の象徴みたいだったロックですらそうなったのだから、そもそもが「まったくカウンターカルチャーではない」ヒップホップ音楽がいま極右化したり、保守化したりすることは、自然な流れの範囲内だと言えるはずだ。「男性原理」と「資本主義の肯定」こそがヒップホップ音楽が元来持つ両輪だからだ。この現実を「見たくない」人が、日本にはとても多いようなのだが。

ともあれ特定の政党や政治家が嫌いだったり、自らを「リベラル」あるいは逆に「保守」と規定したからといって、「自らが好きな音楽ジャンル」を偏向した見方で縛り上げることなど、できるはずがない。だれかになにかを「聴くな」なんて強要することも、不可能だ。神様が止めたって、聴きたい奴は聴く。

あるいはまた「音楽に政治を持ち込むのが是か否か」なんて低級な議論がよくあるが、そんなもの「音楽にはなんだって『持ち込める』」んだから、やりたい人がやればいい、それだけの話でしかない。

もっと正確に言うと、「音楽と政治」とを切り離すことが可能だと思う人がいる、そのことのほうがよっぽど問題だ。できるわけがないからだ。今日のロック音楽の源流のひとつ、ヒルビリー音楽のオリジンとなった18世紀のバラッドに、すでに「オレンジ公ウィリアム3世」の戦歴を賞賛するものが多数あるほどなのだから。

たとえば西洋美術の歴史において「アートに宗教を持ち込むな」ということがまったく不可能だったのと同様、音楽には「つねに」政治も宗教も、愛も憎しみも、絶望も、天にも昇るような歓喜も、それらのすべてが「持ち込まれ」続けている。なぜならば元来、それこそが「歌の言葉」――歌詞というものだからだ。「日本語以外の世界」では、歴史上一度も途切れることなく、連綿と。

とはいえ、忘れてはいけないのは、いかなる政治信条や哲学よりも、つねに「音楽そのもの」のほうが上位にある、ということだ。いい音楽は、歌は、そこに存在するだけで、それを作った人間の全人生よりもずっと崇高なる価値をそなえてしまう場合もある。神というなら、神の領域にも近くなる。このことに意識的であり続けた者のひとり、ボブ・ディランが昨年ノーベル文学賞を受賞した。つまり「歌の言葉」とは、今日、人類の文化のなかでかくも高い位置に置かれて賞賛されているわけだ。

そんな時代のなかで、最もポピュラーな方法で「音楽的な言葉」のありかたの最前線にて躍動し続けているのがヒップホップだ。だからぜひ、僕としては自民党の党員や支持者の人にもヒップホップ音楽を、できるかぎり数多く聴いてもらいたい。

というか、そもそも安倍政権下において実施された「教育改革(2012年の学習指導要領改訂)」にて、中学校でヒップホップ・ダンス(現代的なリズムのダンス)が必修となったのだから、きっと自民党にはすでにヒップホップ好きの人が何人もいるのだろう。同時に必須となった「武道」と同じぐらいには。ただあのポスターの仕上がり、キャッチ・コピーのテイストは個人的に最悪だとは思うが(そもそも、なんだって男と女の募集ポスターを分けなきゃいけないのか?)。

次の国政選挙の際は、前哨戦として各政党の候補者や支援者がラップ・バトルをしてもいいのかもしれない。かなり盛り上がりそうな気がするのだが、どうだろうか。

書誌情報の「脱アマゾン依存」を!

2017年9月1日
posted by 仲俣暁生

去る8月25日、図書館蔵書検索サービス「カーリル」のブログに掲載された「サービスに関する重要なお知らせ」を読んで、驚いた人は多いと思う。この日のブログにこのような一節があったからだ。

カーリルでは、Amazon.com, Inc.が保有する豊富な書誌情報(本のデータベース)をAmazonアソシエイト契約に基づき活用することにより、利便性の高い検索サービスを実現してきました。現在、Amazon.comよりカーリルとのAmazonアソシエイト契約が終了する可能性を示唆されているため対応を進めています。

Amazonアソシエイト契約の終了は現時点で決定事項ではございませんが、カーリルではこの機会に、Amazonのデータを主体としたサービスの提供を終了し、オープンな情報源に切り替える方針を決定しました。現在、新しい情報検索基盤の構築を進めておりますが、状況によっては一時的にサービスを中断する可能性があります。

その後、29日になって「Amazonアソシエイト契約はこれまで通り継続されることとなった」との追記がなされ、危惧された一時的なサービスの中断は避けられたようだが、「Amazonのデータを主体としたサービスの提供を終了し、オープンな情報源に切り替える」というカーリルの方針に変わりはないという。

カーリルのブログに掲載された「サービスに関する重要なお知らせ」。

カーリルが今後、Amazonにかわる書誌情報として使うことを想定しているのは、彼らが版元ドットコムと共同で開発しているopenBDというデータベースだ。今年の1月にこのopenBDプロジェクトのセミナーがあり、私も参加した。

このプロジェクトの趣旨は、以下のように宣言されている。

・個人が、SNSやブログで本を紹介するとき
・書店が、仕入れや、販売のために本を紹介するとき
・図書館が、選書し、利用者に本を紹介するとき
・メディアが、本を紹介し評するとき
・企業が、書誌情報・書影を利用したあらたなサービスを開発するとき

こうしたときに、自由に使える書誌情報・書影を、高速なAPIで提供するopenBDの提供を開始します。

いま本をネット上で探そうとすると、出版社の公式サイトよりも、アマゾンをはじめとする各種ネット書店のほうが、検索結果の上位に並ぶ。本を話題にしたいときはついネット書店、とりわけアマゾンのサイトをリンクしてしまいがちだ。

カーリルのブログに書かれているとおり、それはアマゾンがきわめて「豊富な書誌情報」を保有しているからだ。アマゾンからアフィリエイト収入を得ているわけでも、アマゾンで買うことをとくに推奨したいわけでもないのに、本のランディングページとして便利だというだけで、ついついアマゾンのサイトにリンクしてしまう。

そうした現状に対するオルタナティブな選択肢として、個人でもメディアでも、書店でも図書館でも、あるいは一般企業でも自由につかえるような書誌情報と書影のデータベースがopenBDだ。ただし、1月のセミナー時点ではその活用事例については「準備中」とあるのみだった。今回の発表により、openBDの最初の活用事例はどうやらカーリル自身となりそうだ。[1][2]

[追記1]
すでに野田市立図書館がopenBDを活用した書影(表紙画像)などの提供を新着図書RSSで試験的に開始していた。ご教示くださったジャーナリストの鷹野凌さんに感謝します。
[追記2]
この記事を公開した9月1日に、「近刊検索デルタ」というopenBDのAPIのみを利用した近刊情報閲覧サイトが立ち上げられた[3]。他にもopenBDの活用事例がありましたら、編集部までご連絡ください。
[追記3]
「近刊検索デルタ」はJPRO(JPO出版情報登録センター)ではなく、同センターの活動にも参加するメンバーが個人的に立ち上げたものでした。追記して訂正します。

今年1月に行われたopenBDのセミナーで説明を行う版元ドットコムの沢辺均さん。

「ネット書店」対「町の書店」はニセの対立。真の課題は「アマゾン依存」をどう脱するか

ところで、このところまた「本屋が減っている」という話題がさかんに伝えられている。最近では、取次大手のトーハンがまとめた「書店ゼロ自治体」についてのデータをもとに、朝日新聞が8月24日に報じた「書店ゼロの自治体、2割強に 人口減・ネット書店成長…」という記事が大いに話題になった。この記事でも「紙の本の市場の1割を握るアマゾンなど、ネット書店にも押される」と書かれているとおり、ネット書店はリアル書店を脅かす存在だという見方が根強い。

現実にそういう側面はあるし、町から本屋さんが消えていく現状を憂う気持ちは理解できる。しかし、そのことをもって「ネット書店」が「町の書店」を駆逐しているという単純な見方は、ことの本質をとらえそこなっているのではないか。

現実に起きているのは、本を買う人がますます大型書店やネット書店を利用するようになったということだ。大型書店とネット書店の共通点は、ひとつには在庫の豊富さであり、もうひとつは在庫を検索できるデータベースを備えていることだ。ようするに、いま消えているのは「本がデータベースと紐付けられていない本屋」なのではないか。

書店の店頭で、たまたま本と出会う経験は楽しいものだし、その機会が奪われるのは大きな損失だが、そうした出会いは書店の店頭だけでなく、ソーシャルメディアや、その他のウェブ上のサービスでも得られるようになってきた。より問題なのは、そのときに使われる書誌データやランディングページが特定のプラットフォームに独占されてしまい、多様な行き先を示さなくなることのほうではないか。

「ネット書店」と一口でいうが、アマゾンのような強力なプラットフォームとその他のネット書店を同列に扱うと、議論は混乱するばかりだ。問題の本質は「ネットで買うか」それとも「店頭で買うか」ではなく、本に関する情報(書誌情報やレビュー)とEコマースが、特定のプラットフォームに完全に依存してしまうことの是非ではないか。そしてもちろん、それはよくないことなのだ。

今回カーリルが「脱アマゾン」という決断を下したのは、特定のプラットフォームにサービスを依存することの危険性を、彼らが十分に知っているからだろう。アマゾンに限らず、あらゆるプラットフォームの強みは、利用者を自分たちのサービスの「依存性」にしてしまうところにある。アマゾンで本を買うことが問題なのではなく、その便利さに依存しきってしまうことが問題なのだ。

openBDが充実し、「自由に使える書誌情報・書影」を「高速なAPI」で十分に提供できるようになれば、おそらく本についての情報流通のあり方が大きく変わるだろう。それは結果的に、本のコマースのあり方さえも変えるかもしれない。「ネット上でたまたま出会った本を、リアル書店で買う」ための使いやすいサービスが生まれることだって夢ではない。

カーリルが決断した書誌データの「脱アマゾン依存」は、そのための第一歩として大きな意味をもつはずだ。この問題については「マガジン航」でも引き続き、取材を続けていきたいと考えている。