トライアングル的な運動としての「編集」

2018年10月23日
posted by 仲俣暁生

第5信(仲俣暁生から藤谷治へ)

藤谷治様

先日はある文芸誌の新人賞パーティーで、久しぶりにお目にかかれて楽しかったです。ふだんああいう場に出向くことは少ないのですが、「小説家」や「文芸評論家」が抽象的な存在ではなく、姿かたちのある具体的な存在、つまり生きている人間なのだと確認できるのはよいことだなと、文学関係の集まりに行くたびに思います。

しかし文芸や文壇をめぐる話題は、このところすっかり気が滅入るものばかりなので、もう一つの話題、そしてこの往復書簡で僕が藤谷さんと一緒に考えたいと思っている話題である〈編集〉のほうに、少し流れを変えさせてください。

* * *

先の返信で藤谷さんは、僕のことを「編集者」と思ったことはなく、「文芸批評家」だと思っていたと書いてくれました。それに対して僕は、自分が文芸に向き合うときは「文芸批評家」ではなく、「文芸評論家」でありたいと書きました。藤谷さんはさらに応えて、自分も「作家」ではなく「小説家」と呼ばれたいと書いてくれた。これはとても面白いやりとりでした。

編集の話に行く前に、なぜ自分が「批評家」と呼ばれたくないのか、ということから説明します。

これまで自分が文学について書いたものに批評性がないとは思わないのですが、僕は小説を〈批評〉という鋭い刃で裁断するより、〈評論〉という古めかしい作法で向き合いたい気持ちが強いのです。もちろん小説を論じることを通じて現代という時代について語りたいことはあり、そうした書き物の場合には〈同時代批評〉とでも言えるのでしょうが、個々の作品に愚直に向き合うとき、それは〈批評〉である前に、まず〈評論〉であるべきだろうと思うのです。

あいにく僕たちは、あたかも批評が小説より優勢であるように思え、批評家が小説家より格好よいとさえ思えた時代に青年時代を過ごしました。切れ味の鋭い批評の文章に思わず快哉を叫んだことも一度ならずありますが、その結果として、いくら批評が読まれても、それが対象としている実作は読まれない、という本末転倒なことさえ起きたように思います。すぐれた批評は往々にして論じる対象を超えてしまいますが、その弊害も大きかったのではないでしょうか。

僕が自分を「批評家」というよりは「評論家」と規定したいのは、実作家よりも一段低いところから作品を読み解きたい、ということの宣言でもあるのですが、はたから見ればどうでもいい、たんなる言葉の好みの問題かもしれません。

しかしここで、優れた「批評家」(この場合は「評論家」ではなく)は、同時に優れた「編集者」でもあった事実を思い出さないわけにはいきません。過去において多くの批評家や思想家は、自身が寄って立つためのメディア――多くの場合は雑誌――を主宰し編集してきました。

鶴見俊輔の「思想の科学」、吉本隆明の「試行」、柄谷行人の「季刊思潮」や「批評空間」、東浩紀の「思想地図」や「ゲンロン」などがすぐに思い浮かびますが、いまちょうど読んでいる長谷川郁夫の『編集者・漱石』(新潮社)という本には、夏目漱石と正岡子規、そして雑誌「ホトトギス」をめぐるこんなくだりがあり、目を見開かされました。

漱石が最初に書いた散文作品といえる文章は、渡英中の明治34年(1901年)4月にロンドンから親友・正岡子規に宛てて書いた三通の長い手紙をまとめた「倫敦消息」です。同年5月の「ホトトギス」第4巻8号に掲載されたこの文章が成立する過程について、長谷川郁夫はこう書いています。

私なりの理解でいえば、漱石の最初の創作は、子規と虚子、そして漱石、きわめて私的な、三人の編集感覚のトライアングル――読む人(ここでは子規)、書く人、作る人――のなかで成立したのである。

友人の柳原極堂が松山で創刊した「ホトトギス」という小さな俳句雑誌を主導しつづけた正岡子規こそ、すぐれた実作家であると同時に「編集者」であり「批評家」でもあった人物です。その子規に宛てて書いた私的な手紙が、東京に拠点を移した「ホトトギス」の編集を子規から任された高浜虚子の手によって公的な誌面に掲載され、それが漱石の散文作家としての最初の「作品」になったと長谷川氏は言うのです。

この浩瀚な評伝のなかで、長谷川氏は編集(者)が果たす触媒的な機能についてたびたび語っているのですが、夏目漱石という「作家(小説家)」の誕生の瞬間を語るこのくだりで、その秘訣を「読む人、書く人、作る人」の編集感覚のトライアングルにあった、としているのが僕にはとても興味深く感じられます。

僕は文芸作品の誕生に立ち会ったことはなく、雑誌の編集長をした経験にも乏しいのですが、「マガジン航」というこの小さなメディアを、これまでなんとか9年間続けてきました。「ホトトギス」のようなリトルマガジンにさえ遥かに及ばないミニメディアですが、それでも「読む人、書く人、作る人」のトライアングル、つまり各々が役割を演じ、ときには交替しながら、一つのテキストが「作品」となっていく課程の醍醐味をなんどか味わいました(ウェブの場合、物としての姿形を「作る人」が不在なのは残念ですが)。

もちろん、そうした感覚はすべての編集者、そして編集者とともに「作品」を作り出したことのある作家たちが少なからず経験してきたことのはずです。

でもここでまた、冒頭の気の重い話題に戻らなければなりません。いまは本や雑誌が売れない時代です。そんな時代に、はじめから売れないことがわかっている本や雑誌を「作る」とき、そのモチベーションはどこに置いたらよいのか。商業出版社のなかにも、経済的な環境の悪化に抗いつつ、長谷川氏がいささかロマンチックに描いた「トライアングル」の運動を生み出すために奮闘している編集者がいることは想像できます。

でも、と僕は思うのです。「批評家」と自称するかどうかはともかく、いまは少しでも時代を動かす「運動体」をつくりたいなら、自身でメディアを立ち上げ、それを回していくことが必要なのではないか。ここ数年、勤めていた出版社から独立して「ひとり出版社」を立ち上げる仲間が増えており、雑誌にかぎらず、そうした出版社もまた「メディア」なのだと僕は思います。

そうした営みのなかでこそ、新しい文学なり、同時代に対する正確な批評が生まれるのではないか。あるいは紙の本や雑誌でなくてもいい。ウェブでも電子雑誌でもいいけれど、大切なのはとにかく、一人きりでやらないことです(「ひとり出版社」も実際は多くの人との共同作業のもとで本を出しています)。

ネット上にあふれる「ひとり語り」の言葉は、その根幹に長谷川氏のいうような「トライアングル」の基底を欠いているからこそ、どこまでも上滑りするだけで、人の心を深いところで撃つことができない。そう思えてなりません。

この往復書簡は「ダイアログ」にすぎず、理想的なトライアングルには一つ要素が足りないのですが、もしかしたらこの文章を読んでくれている数少ない読者が、その役を果たしてくれるのかもしれません。僕は小説の「編集」はできませんが、こうやって「小説家」である藤谷さんと公開の場で往復書簡を交わすことで、読者を交えた小さなトライアングルを回しているつもりなのです。

編集についてはもっと書きたいことがあるのですが、これでもかなり長い手紙になってしまいました。いささか中途半端ではありますが、いったんここでキーを打つ手を止めることにします。

第1信第2信第3信第4信第6信につづく)

あまりにも「小説」が足りない

2018年10月4日
posted by 藤谷 治

第4信(藤谷治から仲俣暁生へ)

仲俣暁生様

今年の九月は、雨の降らなかった日が二日しかなかったと、テレビの気象予報士がいっていました。洗濯物は乾かず、出かけるのも億劫です。

それなら家にいて仕事がはかどるかというと、そういうこともありません。照ろうが降ろうが、書けないときは書けないもので、ワープロを開いたパソコンの前でひねもすクサクサしています。この往復書簡があって助かります。思うことをただ書いているだけでも、気が晴れますから。

しかしパソコンをワープロからインターネットのブラウザに切り替えると、もういけません。スポーツ業界でのパワハラ、文芸業界でのセクハラ、芸能人の引退や死。近頃のネットで見かけるニュースには、ろくなものがない。大阪なおみが全米オープンテニスで優勝したと思ったら、受賞後のインタビューでは泣きながら謝罪している始末です。今年はまだあと三か月も残っていますが、僕は「今年の漢字は『膿』がいい」と、SNSに書き込んでしまったくらいです。

「新潮45」の休刊も、膿を出したうちに含まれるのでしょうか。新潮社の雑誌に書けることを名誉に感じ、身を入れて原稿を出していた人たちが気の毒です。

もちろん僕の同情は、差別的言辞を弄した人や、そんな言辞を許した編集者には向けられません。言葉は、個人がおおやけに向けて発するものです。例外は「公文書」だけでしょう。差別を助長する人間や、その人間の言葉を公表した人間を批判するべきです。雑誌に差別的な言葉が掲載されて、その雑誌の継続を瞬時に止めてしまうのは、犯罪者の住む町を丸ごと焼き払ってしまうのも同然です。現実の町で同じような処置をしたとしたら、世界に生き残れる町はどれくらいあるでしょう。

個人の言葉が雑誌によっておおやけに向けられるのには、必ず編集者の仲介と助力が必要になるのです。言葉を換えれば、個人は編集者の判断がなければ、ひと文字だって商業出版から言葉を発することはできないのです。

仲俣さんはこのやりとりを、作家と編集者の意見交換の場と考えていたようです。前の手紙で早くもその考えからズレたものを送ってしまって、失礼しました。僕は仲俣さんを編集者と思ったことは殆どないのです。ちなみに文芸批評家か、それとも文芸評論家か、という違いに対しても、僕は鈍感でした。これからは「文芸評論家」で通すことにします。

そして――これはクレームでは全くないのですが――僕はなるべく自分の肩書を「作家」ではなく「小説家」として貰うことにしています。「作家」というと、小説よりももっと広く、さまざまな言論活動をする人間のように思えるからです。実際問題として、僕の仕事が九割がた小説を書くことだからでもありますが、それ以上に、小説という言葉の運動の重要性と可能性を、僕が異常なまでに、おそらく、殆ど宗教的なまでに、信じて疑わないからです。

小説ほどエラい言語表現はないんだぞ、と思い込んでいるようなもので、この一点だけでも僕は、言論についてまともに人と話し合う資格がない幼稚な人間だと思われても仕方がないでしょう。自分の小説がこの「信仰」に見合う立派なものとも思えません。

ただ、「新潮45」の騒動や、ネットで行き交う言葉を見ていると、そこにはあまりにも「小説」が足りない、と思うのです。

ネットの言葉に「編集」がないことは、誰もが知っています。また「新潮45」の短兵急な休刊が、いわば編集部の逃避、ないしは経営側による「編集」の放擲であることも、仲俣さんを含む多くの識者が指摘していることでしょう。

ネット時代となって爆発的に生じるようになった、言葉による奇禍、いわば文字による舌禍が、「公表される言葉」の量に対する「編集」の圧倒的な不足に起因することは、誰もが知っていることです。「編集」という言葉を使っているかどうかの違いがあるだけで、この問題を憂うる人は、そろって「編集の不在」を危惧しているといえるでしょう。

僕は同じ問題に、編集と同じくらい「小説の不在」を感じるのです。小説的視野とか、小説的思考と言い換えた方がいいのかもしれませんが、小説的視野や思考が、氾濫している「編集を介さないで公表される言葉」のなかで欠落しているのは、小説そのものが言葉を発する個人個人に、あまりにも届いていないからでしょう。いわゆるSNSなどの「ネット上に氾濫する言葉」だけでなく、今や小説は、小説を書いている個人にも届いていないのではないかと、僕は考えています。

小説を知らずに小説を書く人間は、ネット時代の前から少なくありませんでした。言葉を書く人間にとって小説というのは、受け入れるのが非常に難しい文章群なのでしょう。小説を受け入れないまま小説を書くことは容易ですし、それが「優れた小説」と見なされることすらあるでしょう。これは公開書簡ですから、僕が小説をどんなものと考えているかは、拙著『小説は君のためにある』(ちくまプリマ―新書)を是非お読みくださいと、ここで宣伝を入れておきます(仲俣さんもこの書名を手紙に入れ込んでくださいました。感謝いたします)。

しかし小説が本来内部に持っている多様性、多義性が、これほどまでに必要とされている時代は、かつてなかったと思います。それは単に、かつてと比べて今はインターネットが言論(というほどではないのかもしれません。話題、といった程度なのかもしれませんが)の主流になっているから、現代の中にいる僕にそう見えるだけでしょうか。ネットに氾濫するだけでなく、現実世界にも少なくない影響を与える言葉たちの、その単純さと膨大さ、匿名性に庇護された「文責」の稀薄さを見るにつけ、おこがましいのは承知の上で、僕は自分もまたできる限り「啓蒙」をしなければならないと思うのです。

「特殊文芸」の隆盛と「文豪」へのアクセスの良さによって、「一般文芸」が看過されている、という分析は興味深かったです。僕は自分の仕事の位置をそう捉えたことはありませんでしたし、「特殊文芸」についても知るところは少ないのですが、それでもあの分析は実感できるものでした。

(余談ですが、僕は自分が書く小説のジャンルについては意識しますが、それはいわば戦略的な意識です。たとえば『茅原家の兄妹』(講談社)という小説は、ジャンルとしては恐らく「ホラー小説」です。しかし書くにあたって意識したのは、ヘンリー・ジェイムズと夏目漱石でした。同じ意識で純文学を書くことはありません。小説を書く側からの純文学とは、砂漠か原生林のような場所でなければならないと考えていますから。)

円本に象徴されるような「当時の「現代文学(明治・大正文学)」にパースペクティブを与え、序列化する営み」が、現代文学にもそろそろ必要になってきたのではないかという御指摘も、まったくその通りでしょう。文学に限らず、平成にはまだ形がありません。たとえそれが、どんなに僕たちを逡巡、躊躇させるとしても、恐らく「平成の総括」は避けられない知的課題であると思います。「平成という時間の括りには意味がない。実感もない」という、僕たち自身の中にもすでにある批判や「空気」をあらかじめ見越しての総括が。そのうちの「平成文学」を、せめて仮説としてでも提出しなければ、僕たちは――実に気恥ずかしい表現ですが――文学者として最低限の歴史的貢献を怠ることにもなりかねません。

そしてそれは、まさに「編集」の力によるのではないですか。仲俣さんのいう「『体系』をつくる仕事」とは、まさに編集そのものでしょう。編集者であり文芸評論家である仲俣さんが当惑しているようでは、小説家の僕など途方に暮れるばかりです。

しかしもしかしたら、小説の実作とその上梓という、編集者との共同作業から、僕にも経験的に考えられることがあるかもしれません。仲俣さんの次の手紙を待ちながら、少し考えてみます。今回はもう、ずいぶん長い便りになってしまいました。

第1信第2信第3信第5信につづく)

いまこそ言葉のキャッチボールが必要だ

2018年10月1日
posted by 仲俣暁生

先月から小説家の藤谷治さんとの往復書簡「創作と批評と編集のあいだで」を始めた。この連載をはじめた意図は第1信の「本の激変期のなかでどう生きるか」に書いたので繰り返さないが、同世代の信じられる小説家との言葉のやりとりに静かな興奮を覚えている。

私が「マガジン航」を始めたのは2009年の秋だった。この年の夏の東京国際ブックフェア/電子出版EXPOで当時ボイジャーの代表取締役社長だった萩野正昭さんと久しぶりにお会いし、意気投合したのがきっかけだった。たまたまこの時期は日本における何度目かの「電子書籍元年」(なぜかマスメディアは数年おきに集中的に「電子書籍」について過剰報道を繰り返してきた)に当たっており、本誌でもこの分野についての楽観的な見通しや期待を伝えることが多かった。

あれから十年弱の歳月を経て、「電子書籍」はある程度の定着をみた。とくにマンガ市場では電子化されたコンテンツがほぼ半分を占め、雑誌も紙からウェブ版への移行や同時配信、さらには「読み放題」へとシフトしつつある。最終的にどのあたりで安定するのかはわからないが、電子的なメディアを介しての出版は日本の社会に確実に定着している。

他方、昨年から東京国際ブックフェアが2年続けて休止(再開の目処もたっておらず、事実上廃止されたと考えられる)となったことが象徴するように、出版業界の混迷は深い。それは小田光雄さんがライフワークとして継続的に行っている、この業界の定点観測コラム「出版状況クロニクル」が伝えるとおりである。

しかしこうした「状況」は、出版社、取次、書店のいわゆる「業界三者」の視点から語られることが多く、紙の基盤だけでなく、ウェブをはじめとする多様なプラットフォーム上でもすでに活動を始めている他のステイクホルダー(たとえば小説家やライター、フリー編集者、デザイナー、校閲者、翻訳者など)の声はなかなか聞こえてこない。

私が藤谷さんとの公開往復書簡を始めた最大の動機は、こうした「業界三者」以外からみた出版界の現状を可視化し、議論の俎上に乗せたかったからだ。

モノローグが多すぎる

その際に「往復書簡」という形式を選んだのも理由がある。一つには、端的にこの形式への憧れがあった。〈往復書簡〉をキーワードにしてネット書店などで検索をしてみれば分かるとおり、錚々たる文学者や思想家によるこの形式による書物は、過去にやまほど刊行されている。

エラスムスとトマス・モア、ゲーテとカーライル、ベンヤミンとアドルノ、漱石と子規、川端と三島、はてはヒトラーとムソリーニ。最近ではポール・オースターとジョン・クッツェー、古井由吉と佐伯一麦による往復書簡が面白かった。そうした人たちに伍するつもりは(少なくとも私には)ないが、その真似事くらいはしてもよい年齢に、そろそろ自分たちの世代も達しているという自覚はあるつもりだ。

もちろん公刊された往復書簡のほとんどは、プライベートに交わされた書簡をのちに編纂し直したものだ。書簡は本来、特定の相手だけに向けられた書き物であり、他の者が読んで面白いものではない。ところが、そうしたごくプライベート性質をもつ書き物でも、何往復ものやり取りを経るうちに不思議なグルーヴが生まれる。それは一種の時代精神とでも呼べるもので、結果的にいくばくかの公共性さえもつようになる。煎じ詰めれば、往復書簡がしばしば公刊される理由はそこにある。

例えるなら、こういうことかもしれない。往復書簡はいわば〈言葉のキャッチボール〉である。キャッチボールはいかなる意味でも「試合(勝負)」ではないが、たんなる肩慣らしや練習でもない。ボールを投げ、受ける者同士がともに持続の意志をもたなければ、いつでも即座に打ち切ることができる。逆にいえば、一種の共犯関係がなければキャッチボールは持続不可能であり、その意味で創造的な行為でもありうる。なにより、キャッチボールは楽しい活動であり、いつまでも飽きずに続けることができてしまう。それは実際に一度でもキャッチボールをしたことがある者には自明のことだろう。

ところで、いまネット上で流通している言葉のほとんどが、モノローグであることに私はすっかりウンザリしている(こういう言い方のほうが、ずっと正直かもしれない)。もともと「マガジン航」は、それまでやっていた自分の個人ブログへの反動として生まれたという経緯がある(長らくその場を提供してくれた「はてなダイアリー」も来年春でサービスが終了となる)。

「はてな」での活動に一区切りをつけて私が「マガジン航」を始めたのは、ひとり語りをネットで書き連ねることに限界を感じ、より多くの人の多様な声を集めたかったからだ。その願いは十分に叶えられ、「マガジン航」にはこれまで100名を超える寄稿者を迎えることができた。あのまま個人ブログを続けていたら、私はこうした多彩な声や意見と出会うことはなかっただろう。

「マガジン航」を編集発行するなかで出会った仲間とは、NPO法人を立ち上げるまでに至った。イギリス在住のジャーナリスト、小林恭子さんが2013年のロンドン・ブックフェアを取材した記事で伝えてくれた「独立作家同盟」(Alliance of Independent Authors)という非営利団体の存在に刺激を受け、フリーライターの鷹野凌さんが日本でも同様の活動を、と声を挙げて誕生したのが日本独立作家同盟である。日本独立作家同盟の活動は「マガジン航」とも深い関係があり、私もこのNPO法人の理事を務めている。

創作も出版も「孤独な営み」ではない

日本独立作家同盟は現在、二つの大きな活動を行っている。その一つはHON.jpという電子出版に関するニュース配信を中心とするメディアの運営である。このHON.jpのサイトが本日(10月1日)にリニューアルされた。2004年に創刊されたhon.jp Day Watchの活動をNPO法人として継承したものだが、このたびHON.jp News Blogという名称で新たにスタートを切ることになった。

このリニューアルを記念して、今月16日に以下のイベントが予定されており、私もモデレーターとして参加する(登壇者は「ベルりんの壁」で知られるブックチューバーのベルさん、スマートニュースの松浦シゲキさん、オトバンクの久保田裕也さん、日本独立作家同盟の理事長・鷹野凌さん)。

「飛び出せ! グーテンベルグの銀河系 ~ 本と出版の未来はどこにある!? HON.jp News Blog 正式発進記念トークイベント」
https://www.aiajp.org/2018/09/honjp-launch.html

そしてもう一つ、日本独立作家同盟の活動の軸となっているのがNovelJamという合宿形式の創作出版イベントで、昨年2月に初回を、本年2月には第二回目を開催した。

NovelJamの第三回目は今年の11月23日〜25日に開催されることになり、参加者募集の〆切が10月5日に迫っている。今回は当日審査員の一人として、先にふれた往復書簡の相手である藤谷治さんにもご参加いただけることになった(他の当日審査員は作家でエッセイストの内藤みかさん、『出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと』でも知られる書店員の花田菜々子さん、ゲーム作家の米光一成さん)。

私にとって「マガジン航」とは、本や出版の未来を考えるメディアであると同時に、フリーランスの編集者兼物書きである自分が、こうした仲間と共同でさまざまなプロジェクトを行っていくための土台でもある。

もちろん言論や創作は、最終的にはそれぞれの発言者や著者が一人で背負っていくべきものだ。しかし同時に、出版とは孤独な営みではなく、やはり一種の共同作業でもある。藤谷治さんとの往復書簡も、「作者」「編集者」「デザイナー」がトロイカで一つの作品を作り上げる創作合宿のNovelJamも、私のなかでは「マガジン航」というメディアを立ち上げた動機の一直線上にある。

出版の世界が激変しつつあるいま、孤独なモノローグだけではなく、さまざまなダイアローグ、つまり〈言葉のキャッチボール〉がもっともっと必要だと私は思う。これらの〈対話的〉な活動に関心をもち、参加していただけることを期待する。

遠近法、あるいは「教養」の再構築

2018年9月28日
posted by 仲俣暁生

第3信(仲俣暁生から藤谷治へ)

藤谷治様

お返事をしそこねている間に、すっかり秋になりました。先のメールで藤谷さんからは小説をめぐる「消費側の保守化」、そして僕が以前についSNSでつぶやいてしまった「ド文学」という言葉についての問いかけをいただきました。

その返事を書きあぐねている間に、出版業界では実にうんざりするような事件が起きてしまいました。日本を代表する文芸出版社である新潮社が、筆禍事件により「新潮45」という雑誌をほぼ即時に休刊にした。この雑誌は「文芸誌」でも「小説誌」でもありませんが、この茶番劇の中心人物は「文藝評論家」を名乗る人物でした。そういえば今年の初めには、やはり「文芸評論家」が起こしたセクハラ事件が話題になりました。文芸にまじめに取り組もうとする者にとり、今年は受難の年といえそうです。

ところで僕ははじめ、この往復書簡を「作家」と「編集者」という立場での意見交換と考えていました。でも先の書簡で藤谷さんは「文芸批評家」としての僕の仕事に言及してくれた。僕は「批評家」であるよりは「評論家」でありたいと思っているので、いまやすっかり価値が低落してしまった「文芸評論家」という肩書をあらためて受け入れようと思います。

さて、なぜ文学に対する人々のイメージがひどく古風であることと、限られた作品への一極集中が同時に起きるのか、という問いに戻りましょうか。逆にいえば、「創作現場における多様性」がなぜ、「消費における多様性」にそのままつながらないのか。そのことを少し考えてみました。

このことを考えるにはまず、いま小説の読者のなかで起きている「一般文芸」と「それ以外」との間の断絶に触れなければなりません。「え、一般文芸って何?」と思いましたか。この言葉は十年くらい前からネット上で見かけるようになり、いまでは書店や出版社でさえ取り入れている言葉です。いやな言葉だなあと思ううち、あれよあれよという間に流布してしまいました。

この「一般文芸」という言葉に含まれるのは、国内外の純文学、エンターテインメント小説、SF、ミステリー、ホラー小説、時代小説……。ようするに僕たちが「小説」と読んでいるものすべてです。「一般文芸」というそっけない言葉が与える印象とは裏腹に、ここにはきわめて多様な作品が含まれている。ところがその多様な小説を名指す言葉は、もはや「一般文芸」しかない。その結果、この言葉にしか頼れない読者には、小説の多様さが見えなくなってしまったのではないか。

では「一般文芸」ならぬ「特殊文芸」とは何か。これらには「ライトノベル」とか「ケータイ小説」とか「ウェブ小説」といった暫定的な名前がその都度つけられてきました。これらすべてを包含する言葉は、いまのところありません。ビールと発泡酒と第三のビールの関係みたいだなと思ったりするものの、そういうことでもなさそうです。

ここで不思議なのが、そのように呼ばれた側が「自分たちも一般文芸の側である」と主張しないことです。

僕らが若い頃には、「純文学」と呼ばれる主流文学に対して、SFやミステリー、その他のジャンル小説が「反主流」として存在し、両者がある種の緊張関係を保ちながら、相互に影響を与え合ってきました。その結果、いまでは「純文学」と「エンターテインメント小説」との間に――掲載される雑誌の性質や担当する出版社の部署以外で――明確な一線を引くことは難しくなりました。そのことを僕らの世代は、おおむね肯定的に受け止めてきたと思います。

僕らよりさらに前の時代の作家、たとえば三島由紀夫は、みずからの文学的営為の中核を為すべき「純文学」作品のほかに、「中間小説」(いまの言葉でいえばエンタメ小説)であることを自身も認めた作品を残しています。つまり三島はそれらを明確に「書きわける」意識をもっていた。さらに遡れば、坂口安吾、福永武彦、谷崎潤一郎、大岡昇平ら、多くの「純文学」作家が手遊びでミステリーを書きました。でもそれは彼らの「本業」ではありませんでした。

藤谷さんはどうでしょう。もちろん読者対象(女性向けだったり、子ども向けだったり)を意識する局面はあるでしょうが、小説のジャンルをどれほど意識しますか? でもいま読者の側で起きているのは、おそらくもっとドラスティックな「分離」です。藤谷さんのいう「消費における保守化」を推し進め、多様な作品にふれる機会を阻んでいるのはこの「分離」だと僕は考えています。

多くの人がいま「一般文芸」と呼ぶものは、ようするに「現役の小説家が書く小説すべて」のことです。そしてその外に「ライトノベル」や「ウェブ小説」や(かつての)「ケータイ小説」といった「特殊小説」がある。さらに、すでに亡くなった小説家――とりわけ文学史に名を残し、国語の教科書にも出てくる「文豪」と呼ばれるような作家たち――は別枠として特権化されている。それは「保守化」というよりも、「文豪」と「特殊小説」の間にある「一般文芸」の存在が、一般の人々からは見えなくなっている、ということではないでしょうか。

これはある意味で当然のことです。名だたる「文豪」の作品は公共図書館に文学全集として置かれていたり、インターネット上の「青空文庫」などで無料で読めたりします。とくに本屋に行かなくても、読者がそれらにふれる機会は他にいくらでも用意されている。「文豪」が残した古典(評価が定まった作品)と、ライトノベルほかの「特殊文芸」(とりわけいま読まれているのは「ウェブ小説」です)が活況を呈する一方、現役作家がものする「一般小説」が急激に落ち込んでいる。藤谷さんが『新刊小説の滅亡』で書いたとおりのことが進んでいるように思えます。

しかしこれではあまりに救いがない。いままさに書かれている小説は、たしかに「テレビタレントが薦め、インフルエンサーがブログに載せ、アマゾンのレビュー数が多い文学」しか読まれない。芥川賞か直木賞か本屋大賞でもとらない限り、「一般文芸」には目が向かわない。でもそれは、ようするに現代小説についての見晴らしや遠近法を与える仕組み、つまり歴史記述がなされていない以上、仕方がないことだと思います。若い人が存外、現代史を知らないのと同じです。

ところで大正から昭和へと改元された1926年からの数年間は、当時「円本」と呼ばれた文学全集が乱立し、異常なほど売れた時代として出版史に記録されています。文学全集とは、それまできちんと体系化されていなかった当時の「現代文学(明治・大正文学)」にパースペクティブを与え、序列化する営みでした。藤谷さんが「近代文学」と呼ぶものは、概ねこの「円本」時代に序列化が済んだ文学作品のことであり、「文豪」とはそこに収められることに成功した一握りの文学者のことです。

これと同じ作業が、そろそろ僕らの「現代文学」にも必要なのだと思います。

しかしその作業は誰が担うのか。おそらく「平成文学全集」は、これまでのようなかたちでは編まれないでしょう。しかし、多様でありながら未整理のままで置かれている現代小説、つまり「一般文芸」に必要なのは、書店の棚(あるいはブックオフの棚)やアマゾンのサイトとは異なる、それを必要とする様々な読者に向けた、いくつもの「体系」ではないでしょうか。僕らがミステリーやSFに出会ったとき、そして藤谷さんの新著『小説は君のためにある――よくわかる文学案内』(ちくまプリマー新書)で挙げておられる小説と、若い頃の藤谷さんが出会ったときに力を添えてくれたはずの、さまざまな「文学全集」や「文庫」のような。

この「体系」のことを「教養」――昨今またこの言葉が復活してきたのは不思議ですが――と言い換えてもいいかもしれません。「文芸評論家」という肩書を背負う以上、そして同時代の小説を少なからず読んできた以上、僕もそのような「体系」をつくる仕事を担いたいと願っています。でもそれはどうすれば可能なのか。あまりにも手がかりがなすぎて立ち尽くすばかりです。

第1信第2信第4信につづく)

近代文学の息の根が止まったあとに

2018年9月18日
posted by 藤谷 治

第2信(藤谷治から仲俣暁生へ)

仲俣暁生様

僕が「フィクショネス」を始めたのは1998年7月のことでした。仲俣さんは最初期のお客さんでしたから、なんてことでしょう、知り合ってもう20年にもなるわけです。1998年は平成10年です。この単純な事実だけでも僕には、時間について、それもいわば「日本の時間」について、何かとりとめもない思いが四方に飛び広がっていくようです。

しかし僕が仲俣さんを文芸批評家、そして編集者として意識するようになったのは、それから数年後のことです。調べればその正確な日付も判るでしょう。それは、古川日出男さんの三島賞受賞パーティの二次会でのことでした。僕はその時はじめて、仲俣さんが日本で最初に(ということは、まあ、世界初、ということにもなるわけですが)文芸誌に本格的な古川日出男論を書いた人だ、ということを知ったのです。

古川さんが『LOVE』で三島賞を受賞したのは、2006年のことです。その3年前に僕は小説家としてデビューしました。そのデビュー作に、最初の書評を書いてくれたのが古川さんでした。僕は翌年に出た古川さんの『ボディ・アンド・ソウル』について書評を書き、その後も対談したりしたのが縁で、パーティに呼んでもらえたのでした。

古川日出男の登場とこの受賞によって、近代文学は息の根を止められた……。挨拶を求められて、僕はとっさにそんな話をしたことを憶えています。古川さんが「下手人」であったかどうかはともかく(しかしその一人であることは確かだと僕は考えています)、あの時点で文学は、近代文学的なステレオタイプのイメージから解放され始めていたはずです。

近代文学的なステレオタイプのイメージなどと、くどい言い回しで僕が示すのは、本当なら殆ど滑稽なような「文学」のイメージです。社会不適合者ででもあるかのように自己規定した青白い顔のインテリが、自己表白と赤裸々な性描写で「物語」を忌避して書く私小説。アンニュイな日常をアンニュイなままに描く純文学……。そんな古色蒼然、旧態依然、十年一日のごとき文学は、これからどんどん退潮していき、これからは既成の文学概念(というよりも、文学制度)にとらわれない文学が、小説が、もっと広く、もっと遠く、可能性を追求していくんだと、僕は信じていました。

あれから12年経ちました。文学は、もしかしたら当時の上気した僕が夢見たように、可能性を広げているのかもしれません。

しかし現代文学の動向に疎い僕の目に目立つのは、むしろなんというか、いわば「新手の近代文学」の方です。僕や仲俣さんはもとより、古川さんよりもさらに若い世代の中から、「近代文学」(カギカッコで括っておきます)のエピゴーネンかと見まがう小説の書き手が現れ、世間から好評を持って迎えられています。

そんないわば「復古趣味」――僕らの世代が幼少期に聞きかじった言葉をわざと曲解して、「逆コース」とでもいいたいような――が、文芸出版ビジネスとして成り立っている、いやそれどころか、文芸ビジネスを(かろうじて、かもしれませんが)支える存在になっているのは、仲俣さんのいう紙の出版の失速、その急激さと大きな関係があるように思えてならないのです。

これもまた仲俣さんが書いている通り、僕たちが商業出版の枠内で、仕事として批評や小説を書き始めた時、すでに世間では出版不況が嘆かれていました。僕はもともと、小説書きという商売が儲かるものとは思っていなかったので――貧乏文士、というのもまた「近代文学者」のステレオタイプのひとつです――、生活のために死に物狂いで書き続けることには、覚悟と、ひそかな矜持がありました。

けれどもその出版不況が、読者の消費動向に保守的な影響を与えるとまでは、思ってもいませんでした。多種多様な「新刊小説」の大群に対して、読者という名の消費者たちは、何を選べばいいか判らず、売れているもの、人が買っているものを買っています。そのような文学商品が、読者には「無難」に見えるのでしょう。消費者は文学が多様であることを認めながら、購読に至るのは、テレビタレントが薦め、インフルエンサーがブログに載せ、アマゾンのレビュー数が多い文学なのです。

そのような傾向は、もちろん、商業出版の草創期からあったでしょう。しかしこれほどまで露骨に、供給側の多様化と消費側の保守化が分離し断裂したことは、かつてなかったと思います。

この傾向はいつまで続くのでしょう。どこに行きつき、どのような「決着」を見せるのでしょう。

世間の流れを考えたってどうなるものでもないと、自分勝手な小説を書きながら、僕は仲俣さんがSNSでふと漏らした、ド文学、という言葉を思い出しています。

第1信第3信につづく)