本を送りません宣言

2012年1月19日
posted by 岡本 真

2011年4月18日の「揺れる東京でダーントンのグーグル批判を読む」という記事で、津野海太郎さんが紹介してくれている「saveMLAK」という活動に関わっている岡本真と申します。「マガジン航」には、2009年、2010年に何本か記事を書かせてもらっています。

「saveMLAK」は、東日本大震災を受けて行っている博物館・美術館、図書館、文書館、公民館の支援活動です。活動については、「saveMLAK」のサイトをご覧いただくとして、一昨日の1月17日に、2011年3月以降の自分たちの経験と見聞に基づいて、「本を送りません宣言」というものを出しました。ぜひ、ご一読いただき、ご意見賜れればと思います。

なお、この宣言は便宜上、「saveMLAK」のサーバーで公開していますが、「saveMLAK」という支援者ネットワークの全体の総意に基づいて発表したものではありません。あくまで、末尾に署名している賛同者による宣言であり、宣言にご賛同いただける方を広く募っています。

(以下は2012年1月17日に公開された同宣言の第一版を転載したものです:「マガジン航」編集部)


「本を送りません宣言」(仮称)

前文

災害等の非常時に、支援物資として被災地に「本」を送る活動が広く行われています。2011年3月11日に発生した東日本大震災においても、同様の行為が広く見受けられます。様々な方々の善意の現われと言えるでしょう。

しかし、私たちはここでいったん歩みを止めて、考えてみたいと思います。被災地や被災者に「本を送る」という行為は、支援活動として本当に妥当なものでしょうか。訪ね歩いた被災地の多くで、対処に困る状態になっている数々の本を目にしてきました。支援者の善意に感謝しつつも、困惑する被災者の姿も目にします。支援したいという一人ひとりの気持ちを大事にしつつも、私たちはこう宣言したいと思います。「被災地に本は送りません」と。

「本を送りません宣言」本文

  1. 本を送るという行為は、本を贈る(プレゼントする)という行為です。私たちは通常、少なくとも「古本」を大切な誰かに贈りません。
    ◯ですから、私たちは被災地や被災者に「古本」は贈りません。
  2. 本は重くかさばり、場所をとります。実は本はたいへん扱いにくいものであり、被災地の限られた空間や人手を奪います。
    ◯ですから、私たちはこの事実を常に意識し、被災地に古本を送りません。また、新品を贈ることにも慎重にふるまいます。
  3. 被災地には「本」で営みを立てている方々もいます。善意に基づいて大量に送られる本は、実は被災地にある書店等の「知」の経済環境を破壊します。
    ◯ですから、私たちは、新品を含め、被災地や被災者に「本」を送りません。

「本を送りません宣言」解説

この宣言を初めてご覧になった方は、どのように感じられたでしょうか。もしかすると、自分の善意を否定されたかのような印象をお持ちかもしれません。もちろん、私たちもあなたの善意を否定するつもりはまったくありません。

ですが、善意はときとしてもろ刃の剣になってしまいます。あなたが善意で送った本が、被災地や被災者、そして他の支援者に大きな迷惑を与えることがもしあれば、それはあなたの本意ではないでしょう。被災地や被災者を思うあなたの善意は気高く素晴らしいものです。だからこそ、あなたの善意を無にしないためにも、この宣言にご理解を賜れれば、そして賛同のご署名をいただければ幸いです。

それでも「本を送る」際の目安10ヶ条

さて、それでも本を送りたいのであれば、被災地や被災者の要望を十分に把握できていること、あるいはあなたと被災地や被災者をつなぐ信頼できる支援団体や支援者と関係を築いていることを前提に、以下の目安をご参照ください。ただし、繰り返しますが、本を送る行為を、私たちは勧めません。目安の中でも詳しく述べますが、せめて、集めて売ることまでに留めるよう強く望みます。

  1. 「送る」のではなく「贈る」ととらえ、あなたが被災者になったときのことを想像し、そのとき、もらって嬉しいと心の底から思える本を選びましょう
    ◯被災地や被災者にどのような本がほしいかを安易に尋ねるのも、相手の負担になることがあります。
  2. 被災地に直接、本を配送することや、持参することや、寄贈の問い合わせをすることは控えましょう。たとえ、それが善意であっても、被災者は断ることができません。私たちの想像力が問われます。
    ◯信頼できる支援者や支援団体にまずは一度相談しましょう。また、あなたのお住まいの地域の公共図書館に相談してみてもよいでしょう。
  3. どれほど思い入れがある本であっても、古本は送らないようにしましょう。古本は、被災地の衛生状態によっては、感染症の元となる可能性もあります。
    ◯古本はバザーやフリーマーケットで売り、現金にして支援に役立てるほうが効果的です。
  4. その時の災害等の状況をよく理解し、適切な内容の本であるかを十分に吟味しましょう。たとえば、津波被災地に津波を描いた作品を送るべきでしょうか。
    ◯他方、たとえば津波の本を送らないことが常に正しいとも言えません。
  5. 送った本のその後を詮索しないようにしましょう。「送る」ということは「贈る」ということであり、送った時点でもうあなたのものではないのです。
    ◯送られてきた本を読もうが捨てようが、それは受け取った方々の自由です。
  6. あなたや周囲の方々が集めた本は、チャリティーバザーやチャリティーフリーマーケットを開いて売りましょう。その売上を本に関わる支援者・支援団体に寄付することで、あなたの善意は被災者や被災地に届くはずです。
    ◯チャリティーイベントの開催は、それ自体が大きな支援になります。
  7. 送るために本を梱包するなら、女性の力でも、一人で持ち運べる重さと大きさで段ボールに詰めましょう。
    ◯まとまった量の本は想像以上に重いのです。それが何箱もあることを想像しましょう。
  8. 本を段ボールに詰めたら、その中に入っている本のリストを作成しましょう。もし、リストをつくれなければ、せめて詰める本一式の背表紙を写真にとりましょう。
    ◯リストや写真は必ず段ボールの側面に貼り付けます。上面に貼ると、段ボールを積み上げると見えなくなってしまいます。
  9. 本を段ボールに詰める際には、次の2つの方法をとりましょう。1つは、特定のジャンルの本だけをまとめて1箱に入れる方法です。もう1つは、一家三世代の誰もが楽しめる本をまんべんなく入れる方法です。
    ◯後者の方法については、不忍ブックストリートによる「一箱古本市」の活動が参考になります。
  10. 絵本を送ることには慎重でありましょう。絵本は素晴らしいものですが、「読み聞かせ」の必要が生じ、周囲の大人が時間を割かなくてはいけません。
    ◯「読み聞かせ」は、ときとして被災者の負担になることがあります。他方、読み聞かせる必要が少ないマンガは好まれる傾向にあるようです。また、長時間読みふけることができる、読みとおすまで何日かかかるという点で、長編マンガが好まれます

被災地の状況は、地域や時間によって大きく異なります。たとえば、同じ自治体であっても、山間部と沿岸部では、被災の状況や程度が異なります。また、時間の経過とともに支援のニーズは絶えず変化していきます。このため、以前は喜ばれた支援であっても、いまは歓迎されない支援になることがあります。このような違いや変化を慎重に見極めることは、あらゆる支援活動に共通して必要なことでもあります。

以上。

<この宣言に賛同する個人・法人(賛同順)>
・岡本 真(saveMLAKプロジェクトリーダー、アカデミック・リソース・ガイド株式会社)
・江草 由佳(saveMLAKプロジェクト、国立教育政策研究所)
・川上 努(saveMLAKプロジェクト、G-Links)
・山森 光陽(先生おでんせプロジェクト実行委員会事務局長、国立教育政策研究所)
・渡辺 一馬(一般社団法人ワカツク)
・森 なを子(saveMLAKプロジェクト、白梅学園大学・短期大学図書館)


※この「宣言」は2012年1月17日に公開された第一版に基づいています。最新のバージョンはこちらをご参照ください。

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揺れる東京でダーントンのグーグル批判を読む

電子書籍の「探しにくさ」について

2012年1月6日
posted by 林 智彦

紙版が100万部を突破、12のストアでほぼ同時発売された電子書籍版も空前の売り上げを記録した『スティーブ・ジョブズⅠ・Ⅱ』(講談社)。同書は内容のすばらしさもさることながら、「紙でも、電子でも」買える環境を新刊刊行と同時に広範に提供した初の書籍としても、後世に語り継がれるものになりそうだ。

だがそのことは同時に、従来の電子書籍の世界からは見えなかった課題も、あぶりだすことになった。紙と電子の書籍を横断検索できる「ブック・アサヒ・コム」の運営に携わる経験から、また発売日に複数の電子書籍ストアで同書を購入した個人的体験から、現段階でわかっていることを報告したい。

中心的なテーマは電子書籍の「探しにくさ」である。

電子書籍版『スティーブ・ジョブズ』の例から考える

発売前後の経緯を簡単に振り返ってみよう。各種報道によると、講談社は同書を当初2011年11月に発売する予定だったが、10月5日のジョブズ氏死去を受けた米国側の要請を受け、上巻のみを、全世界同時発売日である10月24日に合わせて刊行することになった(紙版の価格はⅠ、Ⅱとも各1,995円、電子書籍版はKinoppy[iOS]版から購入する場合のみ2,000円で他は1,995円。アプリ版は1,900円。「アプリ版」も電子書籍だが、本稿では別の物として扱う)

通常新刊書籍は発売日の数日前に取次に搬入され、そこから書店に配られるが、緊急発売だったためか、実際に店頭に並んだのは、翌25日か、26日になった書店も少なくなかったようだ(この件についての書店関係者によるつぶやきのまとめはこちらで見ることができる)。

紙の書籍が入手困難だったことは、電子書籍版にとってはプラスに働いたものと思われる。右の図は同書の販売サイトの一覧(講談社の公式ウェブサイトより)だが、この中で、電子文庫パブリは10月28日、イーブックジャパンは11月4日とずれこんだものの、残りの10ストアでは24日15時から販売を開始したため、一刻も早く読みたい読者の一部は、電子書籍を選んだと考えられるからだ。

電子書籍ストアの中でも、紀伊國屋書店の「BookWeb Plus」での売り上げはめざましく、同社は27日、10月24日・25日の電子書籍の売り上げが1,584冊と、紀伊國屋全店の紙版の売り上げ(3,377冊)の5割近くに上ったとしてリリースを発表した。

かくいう筆者も、一刻も早く手に入れたい気持ちから、紙版ではなく、24日のリリースと同時に、BookWeb Plusと米Amazon.com Kindle Storeで電子書籍を購入した。

Appleの審査の遅れで延期されていたアプリ版も11月1日、5日に分けて発売され、電子書籍版の売れ行きも現在では若干落ち着いてきたものと思われる。また講談社側からは、ストア別の売り上げシェアが公式に発表されたわけではない。

しかし、仮にBookWeb Plusの当初の勢いがそのまま続き、全体のシェアも上位だとすると、その健闘の理由は何だろうか。それを本稿の第一の素材として考えてみたい。さまざまな可能性が考えられるが、私はそこに現在の電子書籍の抱える課題の一つが露呈しているような気がしているからだ。

紀伊國屋BookWeb Plusが選ばれた理由

なぜBookWeb Plusが選ばれたのか。考えられる可能性として、以下を挙げることができるだろう。

(1)BookWeb Plusのアプリやサービスが優れていた
(2)本好きにもともとBookWeb会員が多い
(3)検索結果で上位に表示される(SEOに優れている)
(4)紀伊國屋書店のブランドイメージ

どれもそれぞれに納得のいく理由だが、発売日に急いで電子版を購入した個人的経験からすると、一番大きかったのは、(4)の要因ではないかと思われる。その前提として、電子書籍は非常に「探しにくい」という現状がある。

紙の本のことを考えてみよう。「いますぐ目的とする(紙の)本を買いたい」というとき、人はどういう行動をとるだろうか? おそらく多くの読者は、アマゾンや楽天のようなウェブ書店で検索するか、紀伊國屋書店や丸善のような大手書店に問い合わせるか、直接店にでかけるだろう。

なぜそういう行動を選択するかというと、それが「求める本に最短距離で、間違いなく到達できるいちばん合理的な方法だから」ということに尽きる。大手ウェブ書店やリアル書店であれば、たいていの本は確実に手に入る(新刊の場合)という予測が立つから、まず最初にそれらにアクセスするのは自然だし、合理的でもある。

しかも「選ぶ」とは言っても、紙の新刊書の場合、それほど選択肢があるわけではない。ふつうは「単行本版と文庫版」くらいか。結局、ぜひとも確認しなければならない情報は「在庫があるか、ないか」くらいであろう。

つまり紙の書籍に関して、消費者の購入に至るまでの行動は、ほとんど下記に尽きる、ということである(リアル書店には目的とする本以外の本を眺めて選ぶ、などといった書店ならではの楽しみももちろんあるが、ここではそうした視点はとりあえず措く)。

・本の存在を知る→調べる、(書店を訪問する)→確認→購入

電子書籍の「探しにくさ」の原因

しかし、現状の電子書籍はこれが非常にやりにくい。まず、商品のどのIDで買うのか、どのOS、どのビューワーや端末で読めるのか、という基本的なところでも、確認しなければならないことが山ほどあり、それらの情報は、各サイトの当該書籍のページを見ないと確認できない。

加えて、紙の書籍と違って電子書籍では、「どこの店でも買える」という事例は稀だ。『スティーブ・ジョブズ』のような本は例外的で、電子書籍の場合、さまざまな事情で新刊の発売日がプラットフォームによってずれたり、あるいはそもそも特定のストアや端末向けでは販売されなかったり、販売がされていてもある日中止されたり、ということが日常的に生じている。

電子書籍が「当該サイトで販売され(てい)るかどうか」は、紙の本の「(店頭)在庫があるかどうか」とは似ているようでちょっと違う。紙の本は在庫がなくても注文すればいい。また注文した本が実は「読めなかった」などという事態はありえない。

しかし電子書籍の場合、規格や仕様がバラバラなため、「ストアへ行ってみたが、自分の環境用の本は売っていなかった」「探し当てたが(買ってみたが)実は自分の環境では読めなかった」ということがおおいにありうる。もちろん「おためし版」をダウンロードしてチェックすればいいのだが、それ自体、紙の本なら不要なプロセスであり、面倒だ。

通常なら探し物で大活躍する検索エンジンだが、電子書籍に関してはあまり役に立たない。私も実際に、発売当日に検索してみたが、満足のいく検索結果はえられなかった。「スティーブ・ジョブズ 電子書籍」で検索すると、講談社の紙の書籍サイトがトップに表示されたが、電子書籍は別サイトになっており、結局そこから各ストアへ移動しなければ仕様は確認できなかったのだ。また各ストアでも、類似タイトルの本が多数表示されてしまい、「いま現在話題となっているあの伝記」であるかどうかは、何度も確認しないと確信が持てなかった。

まとめると、電子書籍ユーザーが本の存在を知ってから購入するまでのプロセスは、下図のようになっている。カオスであり、とても「本探しを楽しむ」どころではないのが現状だ。

電子書籍について多少知識のある私でも、発売日、どのストアで買えばいいのか、にわかには判断がつかず、何度も検索を繰り返しては悩んだ。

読者は「電子書籍だから」買いたいのではない

社会心理学の教えるところでは、情報不足の中、緊急の決断を迫られたとき、人間は特有の行動パターンを示す。中でも「権威にすがる」のは非常によく見られる行動である。そこで紀伊國屋書店の登場だ。

「紀伊國屋」は本を日常的に手にする日本人なら、誰でも知っているブランドだ。そこへ行けば、一般に流通している紙の本なら、たいていのものが手に入る、という安心感がある。電子書籍でも、同じように「紀伊國屋ならなんとかしてくれるのではないか」という期待で、BookWeb Plusが選ばれたのではないか。

BookWeb Plusの場合、iOS/Android/Sony Readerにマルチデバイス対応していることも、プラスに働いたと思われる。前述した「ストアで本を見つけたが、自分の環境では読めなかった」というケースが、それだけ少なかったと考えられるからだ。

BookWeb Plusの本のページは、PC版でもアプリ版でも、紙本と電子本が結びつけられた形で作られており(右図)、最後の段階で「やはり紙の本にしよう」という選択ができることも、安心感につながっている(同種のサービスはhonto/bk1も実現している)。

電子書籍の業界にしばらく身を置いていると、ふと忘れがちになるが、読者はコンテンツを買いたいのであって、「電子書籍」を買いたいのではない。面白い、興味のわく、役に立つコンテンツを読みたい、という気持ちが先にあって、どのような形態で「読む」か、という選択は、本来二次的なものであるはずだし、紙の書籍しかない時代には、ほとんどする必要がなかった選択だ。「電子書籍だから買いたい」というニーズは、電子書籍関係者だけの限られたものだろう。

だとすると、電子書籍だけを扱うストアが多数あり、しかもそれらを横断して検索する手段がない、というあり方は、読者の自然なニーズに反している、ということになる。いずれにしろ、「探しにくい、見つけにくい」日本の電子書籍の現状が、BookWeb Plusが選ばれた理由の一つではないか、というのがとりあえずの私の仮説である。

アメリカではどうなっているか

電子書籍の普及が爆発的に進む米国はどうか。Amazon.comで本を検索すると、下図のように、ハードカバー版、ハードカバー(大活字版)、オーディオブック版などが一つのページに並べられている。Barnes & Nobleや各出版社のサイトも、基本的には同じ見せ方になっている(クリックで拡大)。

フォーマットや仕様も、日本ほど複雑ではない。DRMこそ事業者別ではあるが、現在広く通用しているコンテンツフォーマットは、事実上、KindleのAZWか、その他の事業者が使っているEPUBのどちらかしかない。いずれの事業者も、PC/専用端末/スマートフォン/ブラウザなど、複数の環境・デバイスで読めることを保証している(コンテンツファイルではなく、コンテンツの使用権を買うモデル)。そのため、「買ったが読めなかった(買おうとしたら読めなかった)」という事態は生じにくい。

これなら、読者は自分のニーズと相談しながら、紙でも電子でも、好きな形態で、安心して本を選んで買うことができる。

ここまでは電子書籍界隈ではよく知られているところだと思うが、米国では、図書館でも電子書籍の情報を検索できる。下図は米国議会図書館で『スティーブ・ジョブズ』を検索した結果である(クリックで拡大)。

米国議会図書館での検索結果(紙と電子が結びついている)。

ハードカバー、ペーパーバック、電子書籍版のそれぞれのISBNが表示されており(日本ではまだ一般化していないが、米国、英国など英米圏では以前から電子書籍にISBNを付与している)、さらに書影まで見ることができる。

米国では少なくとも日本ほど、「電子書籍が探しにくい」という事態は生じていないのだ。

なぜ日米でこれほど違うのか

こうなってしまった理由はいくつか考えられる。単純に、米国と比べて、プラットフォームやストアが多い、ということも一つの要因ではあるだろう。さらに、米国と比べて電子書籍の普及し始めた時期が早かったために、多数の規格、仕様が現に存在し、相当の規模で流通している、という事情もある。

たとえば、いわゆるガラケー(フィーチャーフォン)向けのコンテンツは、同じXMDFや.dotbookというフォーマットでも、各キャリアごとに別の仕様のファイルが制作され、消費者に提供されている。紙の本とは巻の分け方が同じタイトルもあれば別のものもある。同じタイトルでも、Windows PC向けのファイルもあれば、特定のPDA向けに作られたものがあったりもする。

これに対して米国では、フィーチャーフォン上の電子書籍サービスというものが事実上なかった。PC/PDA向けにはMicrosoftやAdobeによる端緒的な試みはあったものの、電子書籍の歴史はAmazonのKindleから始まった。Amazonがたまたま、紙の本一冊=電子書籍一冊というポリシーで電子書籍を刊行したので、紙の本と同様の検索性が実現できた、と考えられる。その後Kindle Singlesという、ある意味日本のガラケーのコミック分割売りに近いようなマイクロコンテンツ販売を始めたが、今のところ既存の書籍をバラバラにして売る、というよりはSingles用のコンテンツを新たに作って売る、というのがメインのようで、日本のような混乱は生じていない。

日本の場合、ガラケーの電子書籍で先んじていたがゆえに膨大な既存ファイル(20万点以上)が蓄積され、そのことが逆に検索性を削いでいる。一種の「イノベーションのジレンマ」状態に陥っているというわけだ。

電子書籍を探しやすくする試み

このような状態を改善しようという試みが、これまでなかったわけではない。シンプルなアプローチとしては、「検索対象を電子書籍ストアに限定することで、検索性を上げよう」というものがある。電子書籍比較検索コム電子書籍横断検索電子書籍同時検索などだ(最後のものは拙作)。

これらはいずれもGoogleのカスタム検索(検索対象等を指定できる)の仕組みを使っており、データを自サービス内に持っているわけではないから、的確な検索結果が得られるかどうかは、対象サイトの作りに依存する部分が大きい。実際、検索しても、多数のリンクが表示されるだけなので、仕様等を確認するには結局リンク先を確認するしかない。

ガラケー・PCが中心であるが、データを自社内に保持し、はるかに精度の高い検索結果を提供しているのが「hon.jp」だ。

ただし、hon.jpにも制約がある。検索結果は上記の検索エンジンカスタム型と同様、任意の順序で羅列されるだけで、「どのプラットフォーム・環境向けか」は一つ一つの検索結果をクリックしてみないとわからない。また電子書籍専用端末やスマートフォン・タブレットなどいわゆる「新プラットフォーム」向け電子書籍ストアは検索対象となっていない。

これらのサービスは「電子書籍だけ」のものであったが、「紙と電子」の両方を探して選びたい、というニーズに応えるサービスが、2011年後半に相次いで登場した。図書印刷の「読むナビ」、メディアファクトリーの「ダ・ヴィンチ電子ナビ」、そして朝日新聞社の「ブック・アサヒ・コム」である。

いずれのサービスも、「紙」「電子」またはその両方を指定して本を検索することができる。Googleのような一般的な検索エンジンと違って、検索結果には書籍しか出ないから、意味のない検索結果に悩まされることがない。対応するストアが一覧に表示するため、「どのストアの本か」ということも、一目でわかるようになっている。

「ダ・ヴィンチ電子ナビ」の検索結果。説明の便宜のため講談社刊の伝記以外はのぞいた。

ただし、これでも問題がないわけではない。各ストア向けのファイルがすべて別々の商品として表示される結果、巻数の多いコミックなどは、各巻×プラットフォーム・ストア数(対応端末数)だけ結果が表示されるため、またもや「選べない」という事態になってしまうのだ。

この問題に対処するため、「ブック・アサヒ・コム」では各ファイル(商品)ではなく、複数の商品をたばねた作品に対してIDをふる(作品ID)、という仕組みで、検索性を上げている。『スティーブ・ジョブズ』を検索すると、「この商品を全てご覧になりたい方はこちら」というリンクが表示され、クリックすると、同じ作品の巻数違い、プラットフォーム違いの本が一つの「シリーズ」として表示されるのである。

「ブック・アサヒ・コム」で検索した場合の表示。

「商品ID」VS.「コンテンツID」

本に対するIDとして、一般に普及しているコードとしてはISBNがある。ISBNは紙の書籍に合わせて作られたコード(商品ID)だから、一つ一つの物理的「商品」についてつけられる。たとえば、『スティーブ・ジョブズ』の文庫版が将来刊行されたとしたら、単行本版とは別のISBNがふられることになる。「愛蔵版」が発売になれば、それはまた別のISBNになる。

日本の出版界ではこれまで、単行本を出版してから数年後に文庫化し、その後、その文庫版を底本として電子書籍を刊行する、というサイクルが基本であった。このサイクルを前提とする限り、単行本が「親」(パレント・ワーク)であり、そのISBNを元(データベースの用語でいう「キー」)として電子書籍を管理すればいい(下図)。実際、外部にはデータを提供していないものの、各出版社は社内ではこのような仕組みで電子書籍を管理しているものと考えられる。

ではそれを外部にも提供すればいいのでは? とも考えることができる。実際、Amazon.comでは紙の本のページを「元」にしてそこに各バージョンをぶら下げる形で管理しているようだ(URLなどからの推測ではあるが)。

しかし、これですべて解決、というわけにはいかない、いくつかの事情がある。

(1)「分冊」

第一に、「分冊」の問題がある。

これは前述したように、電子書籍先進国である日本特有の悩みだ。既存の電子書籍コンテンツ、特にガラケー向けのコミックは、紙の本とは違うボリュームで分冊されていることが多い。たとえば、松本光司『彼岸島』(講談社)は、紙の単行本は33巻まで刊行されているが、ガラケー向けコミックは343ファイルに分冊されて売られている。

これらのファイルは、通して読めば紙の本の全巻と同様の内容ではあるが、一冊一冊の内容を紙の書籍と同一視することはできない。紙書籍の第一巻と電子書籍の第一巻では内容が異なるのだ。

App StoreやAndroid Marketでアプリ版が配信されている場合は、さらに問題が複雑化する。福本伸行『賭博黙示録カイジ』は、紙の本の版元である講談社発行のものとフクモトプロ発行の電子書籍の両方が流通しており、さらにアプリ版もある。一つのアプリ内には2〜3話分が収録されており、紙の本にはない特典が入っていることもある。

これらを無理矢理、紙の本の第一巻のISBNで結びつけ、それを元に管理するというのが問題含みであることは明らかだろう。検索結果に紙の本の第一巻と電子本の第一巻を並べて表示すれば、利用者は同じ内容が収録されていると期待して間違って買ってしまう。

このような例では、紙の単行本を「パレント・ワーク」としてそこに文庫版や電子本をぶらさげる、という管理法は不適切、ということになる。

(2)「電子オリジナル書籍」

第二の問題は、「電子オリジナル書籍」だ。「ボーンデジタル」「セルフパブリッシング」の電子書籍は、紙の本の「親」を持たない。持たない、ということが将来的にわたって保証されるなら、電子書籍で最初に刊行されたものを「親」にしてしまうという手もあるが、ケータイ小説のように、初めは電子書籍として、次に紙の書籍として刊行される本も増えているのでそれはできないだろう。つまり管理のための「キー」がつくれないということで、これも頭の痛い問題だ。

2011年11月、講談社は京極夏彦の新作『ルー=ガルー2』を単行本、ノベルス、文庫、電子書籍で同時発売した。おそらくは単行本が「親」なのであろうが、もし「ノベルス」を「親」として制作したのなら、「ノベルス」を「親」としてDBに登録すべきなのかどうか。紙・電子同時刊行書籍については今後さまざまなパターンが考えられる。それらをすべてカバーするポリシーが立てられるのか。あるいは立てられるべきなのか。

(3)「修正」「アップデート」

第三の問題は、「修正」「アップデート」だ。電子書籍は刊行後に修正やアップデートができる、ということが、利点でもあるが欠点にもなる。

ベストセラーとなったマイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』(早川書房)を例に挙げよう。2010年5月に刊行された単行本を元に、電子書籍版が刊行されたのは同年8月のこと。この段階では、「親」は単行本版であり、「子」は電子書籍版として何の問題もなかった。内容的にも「親」=「子」であったと考えられるからだ。

しかし、2011年11月に文庫版が発売され、それと同時に電子書籍版がアップデートされた。価格を文庫版に合わせて下げ(1,600円→700円)、内容も、著者サンデルの次作『それをお金で買いますか』の序章が追加されている。

このアップデート版(iOS向けは「バージョン1.2」という表記があることから、「バージョン1.1」もあったのだと推察される)は、通常版と同一の「本」としてとらえるべきなのか(紙の書籍の「版」と同じように、「第1版第2刷」や「第2版」として?)。あるいは、アップデート版の「底本」は「文庫版」なのだから、「文庫版」のISBNが「親」で、アップデート版が「子」という関係になるのか? 「親」と「子」の間にどの程度の類似性があれば、二つの結びつきを認めるのか? この問題の周辺には、未解決の課題が山積している。

ただしこの第三の問題については、別の見方もできる。作家の髙村薫は著作を出版するたびに大幅に書き直すことで有名だ。「連載」→「単行本」→「文庫」と再刊行されるたびに、内容は程度の差はあれ、変わっている。つまり「アップデート版問題」というのは紙の書籍の時代にもあったことが、電子の時代に顕在化したに過ぎない、ともいえる。

ただし、物理的な実体(本)がある紙の本と違って、電子書籍は「版」の違いを確認することが容易ではない。今後デジタルコンテンツが増えるに従って、その難易度はさらに上がっていくことが予想できる。

(4)「版元替え(並行販売)」

この問題に関連する懸念点として、「版元替え(並行販売)」問題もある。

1997年に、児童文学作家の灰谷健次郎が雑誌「フォーカス」が神戸連続児童殺傷事件の容疑者少年の顔写真を掲載したことに抗議して、新潮社から刊行していた自作の版権をひきあげ(絶版)、角川書店から再刊行したことがある。ISBNは出版社単位で書籍を管理する仕組みで、コードの中に出版者記号が入っている。もし灰谷氏の著作が新潮社から電子書籍で多数刊行されており、「版権引き上げ」事件がいま起きたとしたら、どうなっていただろうか。

「親」である紙本のISBNとあわせて、電子書籍のコードも新しい出版社のものにつけかえるだけですめば、話は簡単(作業は大変)だが、それですむかどうか。旧出版社から刊行された電子書籍は、紙の本と同時に販売中止(絶版)にできるが、デジタルコンテンツ販売には「再ダウンロード」がつきものだ。

通信条件や端末・環境の不具合等によって発生する「購入したが利用できない」状態を避けるために、各ストアは一定期間(一週間から一、二年程度とまちまち)、利用者がダウンロードし直せる権利を認めている。この期間中、旧出版社から刊行された電子書籍と新出版社から刊行された電子書籍は、実質上平行して利用者に提供されることになり、「コードの書き換え」だけで事態に対処できるかどうかは不明である。

ましてや新出版社によって、「分冊」や「再編集」等がなされた場合は、どうすべきなのか。

現在も増えつつある「電子書籍専業出版社(現時点では出版社登録していないため、ISBNを発行できないようだ)」や、今後増えるかもしれない「出版社の倒産・合併・営業譲渡」等に関してどう対処すべきか(全ての電子書籍が新出版社に移行する場合はまだいいが、一部が移行する場合等はどうなるか)、あるいは『カイジ』の例のように、出版社と著者自身が刊行した電子書籍が平行して販売されるケースなども、未解決の課題として残っている。

紙の本の一商品に付与するIDであるISBNが、電子書籍の本格的な流通を支える書誌IDとしてふさわしいかどうか。このことが問われているわけだ。これは単に電子コンテンツ流通だけの問題にとどまらない。

プラットフォーマーだけで電子書籍の普及は不可能

あらゆる産業がそうであるが、出版という産業は著者、出版社と書店だけで成立するわけではなく、その周辺のたくさんのプレイヤーの働きによって成り立っている。電子出版の時代に入って「プラットフォーマー」という言葉がさかんに使われるようになった。コンテンツの配信の技術的・経済的基盤の運営者を指しているようだ。しかし、その意味の狭い範囲の「プラットフォーマー」だけで電子書籍の本格的普及が実現するのだろうか?

読書に関する各種調査結果で、「本とどのようにして出会うか(本をどのようにして知るか)」という質問に対して、寄せられる答えの上位に必ず入るのが「新聞や雑誌の書評」「友人の推薦」である。言い換えれば玄人と素人とを問わず、レビューが決定的な役割を果たしているコンテンツが本ということになる。

同じようにデジタル化の波に襲われ、変化を余儀なくされている音楽や写真、映画等と比べても、書籍における「レビュー」の重要性は際立っている(その理由は経済学的に説明することができるが、ここではその詳細には立ち入らない)。

ここで指摘したいのは、電子出版の時代に、著者―出版社(編集者)―読者―書店(プラットフォーム)が中心的な役割を果たすことは間違いないとしても、その周辺のプレイヤー(新聞・雑誌・書籍の記事・広告、プロ・アマチュアのレビュワー)が、きちんとしたレコメンデーション情報(レビューはその一つ)を提供しないと、電子出版はきちんとした「産業」にならない、ということである。「プラットフォームの構築」をもっぱら強調する考え方への対抗概念として、私はこうした周辺プレイヤーも含めた出版のあり方を「(電子)出版のエコシステム」と呼んでいる。

その大前提となるのが、書籍のIDであり、書誌である。「何の本について論じているのか」はレビューの基本中の基本の情報であるが、いまの電子書籍は検索やコンテンツの同定が困難であるため、それが容易にはできない。

「ブック・アサヒ・コム」は、1924年(大正13年)以来という長い歴史的蓄積を持つ朝日新聞読書面の書評を始め、朝日新聞社グループの蓄積してきた大量の書評・書評類記事を電子書籍にも生かす、という使命のために立ち上げられたサイトである。そのバックエンドには、1988年(昭和63年)以降の書評記事を収録(現時点で公開しているのはその一部)した新規開発のデータベースがある。

書評を取り出しただけでは書評の価値はない。それが「何の本について論じているのか」という情報を付加しなければならない。そのため、書評一つ一つに対象となる本のISBNを付した。

しかし、本稿でこれまで論じたとおり、ISBNにはさまざまな問題がある。まず、現時点では電子書籍に付与されていない。

本来なら「坊っちゃん」について論じた書評は、「坊っちゃん」という作品(コンテンツ)について語っているのであって、××書店の「坊っちゃん」という物理的な商品について論じたものでは、基本ない(ここが家電等、他の製品のレビューと違うところである。もちろん造本について言及する場合もあるが。中身が最重要であることには変わりない)。だからISBNだけでは、絶版書籍と結びついたりする一方、電子書籍や作品を収録した全集などとは結びつかず、せっか くの書評が生かせない、ということが起きる。

そこで苦肉の策として、紙と電子を結びつける「作品ID」をたて、作品に対して書評がリンクする仕組みをつくったのは前述のとおりである。

本来であれば、紙、電子を問わず「作品(コンテンツ)」にふられたコード(コンテンツID)があれば、ISBNでなく、それに対してリンクできたはずである。

逆にいえば、いつかはなくなってしまうISBNをキーにしている限り、そこに結びついた書評をはじめとした過去のレコメンド情報は、常に根無し草になってしまう可能性があり、電子出版の時代に活用できないリスクにさらされてしまう。

批評や批判が育たない世界に未来はない。ゼロ年代にあれだけ隆盛を極めたケータイ小説が、ジャンルとして確立しなかったのは、ガラケーという閉じた世界に あり、コンテンツを容易に検索し、名指し、批評することができなかったからではないか。このままの状態で、電子書籍がケータイ小説並みに増え続ければ、電子書籍もケータイ小説と同じ隘路にはまるかもしれない。

ネットにおける書誌情報の共通規格

実は国際的には、こうした問題を解消するための試みがすでに始まっている。

書籍の書誌情報をネット上でやりとりする国際的な共通規格として、「ONIX for Books」がある。「ONIX(ONline Information eXchange)」はロンドンに本拠を置くEDItEUR(European Book Sector Electronic Data Interchange Group)が策定する出版物の電子取引に必要なメタデータの規格だが、「ONIX for Books」は米国と英国の業界団体の手によって標準化が進められている書籍の電子商取引のためのONIXの「ファミリー」規格の一つで、2011年末時点の最新バージョンは「リリース3.0」となっている。

日本では日本出版インフラセンター(JPO)傘下の近刊情報センターが、紙の書籍の近刊(これから出る本)情報を、ONIXリリース2.1形式で出版社より受信し、書店に配信している。近刊情報センターは後述する「新ICT利活用サービス創出支援事業」関連でも書誌のあり方についてガイドラインを発表している。

リリース2.1と3.0は一部非互換になっており、3.0は電子書籍への対応を2.1と比べてさらに進めた、というのが売りになっている。

中でも、すでに述べた「分冊」「シリーズ」「おまけ」等の情報を詳細に指定できるようになっていること、「ISTC(International Standard Text Code)」という「コンテンツID」を付与することができるようになっていることが、注目すべきポイントだ。

「ISTC」はISOが2009年に定めた国際規格(ISO 21047:2009)で、紙・電子などの媒体を問わず、同一の「作品」を識別するために用いられるコードの体系だ。米中英を初めとする世界十カ国に登録機関があり、そこに作品を登録し、16桁の作品に対する番号をもらう。ISTCのサイトの説明がわかりやすいので内容を紹介してみよう。

長い間、異なる商品(書籍)の識別にはISBNが使われてきた。ISTCを使えば、同じコンテンツを含む商品をグルーピングしたり、場合によっては、同じ由来を持つ異なる作品をグルーピングしたりできる。つまり、次のようなことを実現できるという利点がある。

・書籍や出版物の発見しやすさ(Discoverability)を改善する
・一つの「版」がわかっていれば、目指す作品を含むすべての作品をたどれる
・逆に、ある本とある別の作品とのタイトルが似ていたりまったく同じだったりする場合でも、検索結果を目指す作品に絞り込むことができる。

なお、図書館業界にはISTCとは別に「作品」を管理する手法として国際図書館連盟が定めた「IFLA/FRBR」がある。詳しい情報はこちら(※PDF注意)にある。

まとめ――読者の視点から

電子書籍の本格的な普及のためには、様々な課題があることは広く認識されている。2010年3月〜6月にわたって総務省・文部科学省・経済産業省の副大臣・大臣政務官の共同で開催された電子出版についての懇談会(通称「三省懇」)の報告書(6月発表)においても、IDや書誌の重要性が強調されており、報告書を受けて実施された「新ICT利活用サービス創出支援事業」においても、本のIDや書誌のあり方について、ガイドライン(書誌については、こちらを、IDについてはこちらを参照。後者には「コンテンツID」の文言が見えるが、本稿やISTCにおける「コンテンツID」とは方向性や定義が異なるようだ)が提言されている。

ただこれらの提言やガイドラインを見る限り、電子書籍の書誌やIDのあり方については、まだ検討の端緒についたばかりで、米国のように電子書籍へのID付与が一般的に行われ、業界共通の書誌データが利用される、という段階に至るまでには、まだまだ時間がかかりそうだ。

先に指摘したように、読者は「本=作品」を読みたいのであって、「電子書籍(のファイル)」を買いたいのではない。またこの先ボーンデジタル作品や紙・電子同時発売作品(パレント・ワークがはっきりしない)が増えることを考えると、なんらかの「コンテンツID」的仕組みが不在の状態では、電子書籍が増えれば増えるほど、「探せない、見つからない」という状態は悪化することにならないだろうか。

なるべく早くこの点で手をうたないと、電子書籍のユーザービリティーは今後どんどん下がっていくのではないか。そのことがさらに、電子書籍の普及を遅らせることにならないか――。

「電子と紙」で広く同時発売した『スティーブ・ジョブズ』は、検索性の重要さ、そしてそれを支える書誌とIDの重要性を改めて浮かび上がらせる形となったといえるだろう。

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人は本とどこで出会っているか〜新年に考える

2012年1月6日
posted by 仲俣暁生

posted by 仲俣暁生(マガジン航)

新年あけましておめでとうございます。今年最初の「マガジン航」の記事を投稿します。

昨年10月にウォルター・アイザックソンの『スティーブ・ジョブズ』(Ⅰ、Ⅱ巻)が、紙の本と同時に電子書籍としても発売され、こちらでも多くの読者を獲得したことで、人々の生活のなかで、ようやく電子書籍がある程度の実感をもって受け止められるようになりました。ベストセラーに限れば、「本」の読み方のひとつの選択肢として電子書籍は日本でもこれから徐々に定着していく気がします。

しかし、この年末年始に自分が読んだ本を振り返ってみると、そのほとんどは紙の本でした。忙しい仕事の合間にスマートフォンなどで細切れに読むには、電子書籍はとても便利です。実際、私は『スティーブ・ジョブズ』をそのようにして読みました。けれども、時間的な余裕があるときにじっくり本に向かうには(増え続ける蔵書をどうするか、という別の問題はさておき)、「やはり紙のほうがいいな」という実感を私個人はもっています。

電子書籍をめぐる議論においていちばん大事なのは、読者の「実感」だと私は考えます。「なにがなんでも紙の本は電子書籍に置き換えられなければならない、それは歴史的必然なのだ」という立場から、紙から電子への乗り換えを強要するような極論には――電子書籍の可能性を強く信じるからこそ――私は与したくないのです。

電子書籍よりも「本と人とのリンク」が重要

近い将来にすべての本が紙から電子書籍へと置き変わってしまうということは、ありえないと私は考えます。ただし、人と本との出会い方は、インターネットの普及以降、ずいぶん変わりました。私自身、Amazonをはじめとするネット書店で本を買うようになって十年以上経ちます(思い出してほしいのですが、Amazonの日本上陸は2000年11月1日でした)。ネット書店なしでは自分の読書生活が成り立たないといっていいほど、私はその恩恵にあずかっています。

ただし私の場合、ネット書店(古書店も含む)で買う機会が多いのは、ベストセラー以外の本、つまり「リアル書店」(この言い方もAmazon上陸後十年の間に定着しました)ではなかなか手に入りにくい本です。ある程度古い本は図書館で借りてもいいのですが、自宅の近所によい公共図書館がないこともあり、往復の手間を考えると買ったほうが早いから、という側面もそこにはあります。なにしろネットで買う古書の価格は、大半の電子書籍より安いのです。

となると、ここにはちょっとしたミスマッチがあることになります。いま電子書籍になっている本は――文庫版でさえ絶版になっているような、かなり古い本を除けば――日本中の比較的小さな書店でも手に入るような、「売れ筋」の本が多い印象があります。もちろんそれは、ある程度の売上が確保できないタイトルを電子化するメリットが、いまの時点では少ないからでしょう。

しかし、「どこでも比較的簡単に手に入る本」しか電子書籍になっていないなら、そもそも電子書籍は誰のためにあるのでしょう?

ところで、年末年始に私が読んだ本の多くは、電子書籍やネット書店とは違う意味でインターネットに多くを負っています。Amazonで買った本もあれば、リアル書店で購った本もありますが、いずれもネット上での人とのやりとりから刺激を受けたものばかりでした。

信頼する評者によるネット上の紹介記事をFacebookで知った本や、twitterで著者自身が「つぶやいて」いる言葉に興味をもって手に取った本など、ソーシャルメディアによって生まれた多種多様な「本と人とのリンク」が、すぐれた本の存在を私に教えてくれました。ようするに、その本が「電子書籍化されているかどうか」とは関係なく、人と本との出会いのプロセスのなかに、インターネットが大きく介在する時代になっているのです。

「周辺プレイヤーも含めたエコシステムの構築」へ

というわけで、今年最初の「読み物」コーナーへの登録記事をご紹介します。朝日新聞社が手がける本の総合紹介サイト、「ブック・アサヒ・コム」の「中の人」である林智彦さんにご寄稿いただいた、「電子書籍の「探しにくさ」について」という論考です。

なぜいまの電子書籍は「探しにくい」のか。電子書籍がなかなか普及しない最大の原因はそこにあるとして、電子書籍と紙の本を横断的に紹介するサイトを実際に運営する立場から、電子書籍の抱える多くの課題を具体的に列挙してくれる、読み応えのある文章です。

このなかで、林さんは次のように書いています。

読書に関する各種調査結果で、「本とどのようにして出会うか(本をどのようにして知るか)」という質問に対して、寄せられる答えの上位に必ず入るのが「新聞や雑誌の書評」「友人の推薦」である。言い換えれば玄人と素人とを問わず、レビューが決定的な役割を果たしているコンテンツが本ということになる。

(中略)

ここで指摘したいのは、電子出版の時代に、著者―出版社(編集者)―読者―書店(プラットフォーム)が中心的な役割を果たすことは間違いないとしても、その周辺のプレイヤー(新聞・雑誌・書籍の記事・広告、プロ・アマチュアのレビュワー)が、きちんとしたレコメンデーション情報(レビューはその一つ)を提供しないと、電子出版はきちんとした「産業」にならない、ということである。「プラットフォームの構築」をもっぱら強調する考え方への対抗概念として、私はこうした周辺プレイヤーも含めた出版のあり方を「(電子)出版のエコシステム」と呼んでいる。

電子書籍をめぐる議論が陥りがちな「プラットフォームを握ったものがすべてを握る」的な極論より、林さんのいう「周辺プレイヤーも含めた」「(電子)出版のエコシステム」のほうが書籍出版の実態に即しており、また望ましいかたちだと私は考えます。

そう考えたくなるのは、私自身が、電子と紙の双方にまたがる「出版」の世界における、「周辺プレイヤー」の一人だからかもしれません。しかし、多くのステイクホルダーが不利益を被るなか、特定のプラットフォーマーだけが一人勝ちになるような「電子書籍」に対し、人々が拒否反応――とまでいかなくても、多少なりと不審の念を抱くのは、きわめて当然のことでもあります。

「本は誰のためにあるのか」。kindleをともなったAmazonの「二度目の上陸」も間近と噂されるなか、電子書籍に対しても、根本的なその問いを差し向けるべき時期が来ている気がします。この問いに真正面から答えられたとき(もちろん「理論」や「提言」ではなく「具体的なサービス」として)、私たちの生活のなかに、いつの間にか電子書籍は定着していることでしょう。かつてインターネット自体がそうであったように。

では、今年も「マガジン航」をどうぞよろしくお願いします。

Kindle年内日本開店を見送り、来春以降へ延期

2011年12月30日
posted by 鎌田博樹

共同通信英語版は12月27日、アマゾンが日本でのKindleストアの年内開設を断念し、来春に延期したと報じた(以下英文毎日の記事による)。業界関係者によれば、小売価格の決定権を巡る出版社との交渉が難航しているのが理由という。現状では十分な日本語タイトルを揃えられず、来年春が次のターゲットとなるようだが、“原理的対立”があるとすれば、決着はさらに延びる可能性もある。出版社にとって、時間が無限にあるわけではない。相手のほうが選択肢が多いからだ。

日本で「最大の書店」としての存在感を発揮しているアマゾンは、E-Bookについても1年以上前から交渉を始めているが、今年も空振りになることがはっきりした。アップルiBooks、Googleもまだ参入しておらず、ガラパゴス状態は続く。

紙と電子のリンケージは不合理である

記事によると、アマゾンは、出版社が求める「固定価格による委託販売制」ではなく、「書店が小売価格を決定する卸販売制」に固執しているものとみられる。前者はiPad発売時に、欧米のビッグシックスがアップルと組んで強行した、いわくのあるもので、EUと米国で独禁法上の調査を受け、消費者からは集団訴訟を起こされているが、米国市場では約半分がこの方式で販売されている。その結果、E-Bookの平均価格は、印刷本の価格に接近し、かなり高くなった。後者は、書店が卸値で仕入れ、売上を最大化する競争価格で販売する。

当然ながら、交渉の具体的内容は伝わっておらず、アマゾンが日本の出版社に対して後者を主張する理由は定かではない。出版社が想定する「適正」価格が、絶えず変化する市場において売上を最大化する水準ではなく、印刷本(取次制)に影響を与えない水準(印刷版定価の8割以上)に固定される限り、市場として魅力がないということだと思われる。読者も著者も、この「電子ファイル」にはさほど魅力を感じないので、何も変わらない。しかし、アマゾンとしてもストアが開店できないことにはスタートラインに立てず、市場経済に不慣れな出版業界にマーケティング意識を持たせることもできない。

アマゾンが最近ヨーロッパで開設したストアでは、多くのタイトルが固定価格で販売されている。だから原理的に拒否しているわけではない。日本においては出版市場が活性化しない価格で扱っても無意味という判断をしていると見られる。卸制と委託制の比率が半々くらいであればよいのだろうが、日本の業界の横並び意識は容易に変えられるものではない。

共同/毎日の記事は、「こうした方式が採用されれば、紙の書籍の価格が下落し、出版業が崩壊する」という関係者の発言を伝えている。こうした認識は日本の出版関係者に共通したものと思われるが、これは前提とすべき自明の事実ではない。

・デジタルの価格が紙の価格破壊につながるという根拠
・紙の価格の崩壊が出版業の崩壊につながるという根拠

はまったく証明されていない。商品としての性質が異なり、コスト構造が異質なる2つの商品の価格を一致させなければならないのは不合理だ。出版の生き残りのために本当に必要なら、E-Bookを高価格にすることも(現に米国でも、技術書などには紙より高いものがある)、需要があっても出さないことも理解できるが、それはない。その不合理のつけを消費者が許容してくれる時代ではない。逆に言えば、デジタルという新しい機会を利用できないならば、出版ビジネスは緩慢な(時に急速な)死を迎えるしかない。

現在の印刷本は、「定価×販売部数×返本率」をもとに商品性が検討される。平均返本率は4割に近いので、採算が取れる定価と価格の組合せは制限される。過去15年間、業界が一貫して縮小を続けてきたことは、この組合せの幅がますます狭くなり、想定販売部数がますます見込みの薄いものとなってきたことを示している。新書と文庫が書店に溢れるようになったのは、その結果であり、じつはすでに「紙の価格破壊」は起きているのだ。手応えのある本は書店から減り続けている。意欲的な新刊の企画は「採算性の天井」が下がれば減っていく。社会をリードすべき知識産業、というあるべき姿からはかけ離れている。

売れない本はすぐに店頭から消え、別の本で埋められる。多くの本は生鮮食料品化しているのだが、コンビニの弁当のように、売れる価格まで下げることはできず、そのまま資源ゴミとしてのリサイクルに回される。これによって採算性は大幅に悪化する。店頭から消えた本を注文する消費者は2週間以上も待たされる。まともな流通があればあり得ないことだ。そのギャップを埋めて顧客を増やしてきたのがアマゾンだ。

アマゾンには多くの選択肢がある

要するに、出版の危機は日本的現象であり、それは戦後の印刷本流通システムに起因する。システムの欠陥は、マンガと雑誌広告で覆い隠されてきた。雑誌が絶滅を危惧される状態ではマンガしか頼るものがないが、そのマンガの現場も疲弊している。奇しくも日本の「電子書籍」で唯一最大の市場がマンガである。これもケータイからスマートフォンへの移行という困難な局面に差し掛かっている。おそらく、アマゾンが日本で最も注目しているコンテンツはマンガだろう。「雑誌→単行本」というマンガのライフサイクルは、現在の姿では長期的に維持困難だ。アマゾンは多くの選択肢を持っており、著者に有利な条件を提示することができる。仮に日本でマンガ出版ブランドを始めれば、大手出版社に大きな脅威を与える。不採算のツケを負担しているマンガが、その役を果たさなくなるからだ。

アマゾンはKindle Fireを先行させることができる。アレルギーの強い「書籍」を迂回し、マンガ、ゲーム、ショート、それにショッピングなどにフォーカスして消費者に浸透をはかる。価格が安いので数十万台を販売することはそう難しくない。そしてFireをメディアとして広げる中で書籍の扱いを拡大していくのは合理的な選択肢だろう。現に、アップルはそうしたアプローチをとっている。

あまり時間はない。出版界が長期的に持続可能なシステムを構築するには、デジタル技術をベースとするほかはない。紙の本と心中する気はたぶんないだろうから、消費者を握るアマゾン(その他のオンラインビジネス)とうまく付き合うしか選択肢はない。米国の出版人が言っていたが「アマゾンを憎むというのは戦略とはいえない」のだ。2012年は出版の再生のための残り少ない機会だ。束の間に成立する最後のアナログビジネスである「自炊業者」などを相手にする暇があるとは思われない。

※この記事はEbook2.o Weekly Magazine で2011年12月29日に掲載された同題の記事を、著者に了解を得て転載したものです。

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『ケヴィン・ケリー著作選集』電子書籍化の意義

2011年12月20日
posted by yomoyomo

EPUB版はiBooksなどで読める。

先月末、達人出版会から『ケヴィン・ケリー著作選集 1』(以下、本書)が刊行されました。

達人出版会は IT 系の電子書籍出版サービスですが、商品の価格が0円、つまり無料なのは本書だけで、それが多くの人の目を惹いたようです。無料公開が可能な理由は、本書の成立過程にあります。

元々は、著者のケヴィン・ケリー(Kevin Kelly)がブログ The Technium に公開した文章を、堺屋七左衛門氏が七左衛門のメモ帳で翻訳して公開したことから始まります。

堺屋さんが自由に翻訳を公開できたのは、ケリーがブログにクリエイティブ・コモンズ(Creative Commons)ライセンスの「BY-NC-SA(表示 – 非営利 – 継承)」を指定していたからです。

クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下での刊行

クリエイティブ・コモンズとは、『CODE』などの著書で知られるアメリカのサイバー法の第一人者ローレンス・レッシグ教授らが立ち上げた、作者が著作物の権利を独占せずに商用利用などの利用条件を明示できるライセンスを提供することで、それを基にした創作活動を可能にする「コモンズ(共有プール)」の拡大を目指す国際的非営利組織、並びにそのプロジェクトの総称です。

ケヴィン・ケリーのブログで指定されている CC BY-NC-SA は、原著者についてきちんとクレジットし、営利目的で利用せず、しかも何か改変などを加えたらその派生作品も元作品と同条件(CC BY-NC-SA)で配布するなら自由に利用できるというライセンスです。翻訳もこの「派生作品」にあたるので、堺屋さんは訳文に原文と同じく CC BY-NC-SA の条件を守ることで、いちいち著者の許諾を取ることなく自由に訳文を公開できたわけです。

そして、そのライセンスは本書にも引き継がれています。本書が無料なのはそれが理由ですが、重要なのはその価格よりも、本書が CC BY-NC-SA の条件下で自由に利用可能なことです。

ここまで読まれて気付かれたと思いますが、本書の訳者の堺屋さんも版元の達人出版会も、翻訳の公開について何ら独占的な権利を有していません。つまり、本書のような本は達人出版会でなくても出せたわけです。しかし一方で、普通の出版社なら無料公開に意義を見出さないのも不思議ではありません。これについては、達人出版会の代表が、日本Rubyの会会長でありフリーカルチャーに理解がある高橋征義氏だったことが大きいと思います。

本書の著者であるケヴィン・ケリーについては、本書の序文に書かせてもらいましたのでここで詳述はしませんが、彼が Whole Earth Catalog(以下、WEC)人脈の一人にして、90年代にインターネット・ブームを牽引した雑誌 Wired(今年日本版が再刊しましたね)の創刊にかかわった人物であることが本書の大きな売りなのは間違いないでしょう。

スティーブ・ジョブズが2005年にスタンフォード大学の卒業式で行ったスピーチで言及したことで若い世代にも名前が知られるようになった WEC ですが、ケリーは WEC の背景となる西海岸のヒッピー文化、DIY 精神の体現者にして、90年代以降も Wired などの第一線に留まりながら現在まで幅広い分野について旺盛に執筆活動を続けています。

本をめぐるニコラス・G・カーとの議論

本書には、近年のケリーの文章で特に有名な「無料より優れたもの」「千人の忠実なファン」が冒頭に置かれています。前者はインターネットという破壊的技術を前提とした上で何に価値を見出しビジネスを成立させていくか、後者は旧来の大味なビジネスモデルが通用しなくなった後に、一か八かの大当たりを狙うのでもロングテールの底辺に埋もれるのでもなくネットを介して直接収入をもたらしてくれるファンとどのようにつながるべきかという、書籍や雑誌など出版の世界にとっても非常に示唆的な文章です。この二つだけでなく、いろんな分野に応用可能な文章をいくつも見つけることができるでしょう。

ここで少し脇道に逸れますが、少し前に筆者は「マガジン航」に「Kindleは「本らしさ」を殺すのか?」という文章を書かせてもらいました。これは主にニコラス・G・カー(Nicholas G. Carr)の文章を紹介するものですが、実はカーの一連の文章の仮想敵はケヴィン・ケリーだったりします。

というのも、カーが引用した、本から「境界」が失われることの危惧を表明するジョン・アップダイクの文章は、過去から現在にいたる叡智たるあらゆる書籍がデジタル化されてリンクされ、検索可能、リミックス可能な形で皆に提供される全世界図書館というケリーの夢について書かれた「Scan This Book!」に対する反論なのです(ケリーの文章の翻訳は「クーリエ・ジャポン」2006年7月20日号に掲載。青山南氏の文章も参考になります)。

本書にも二つの文章でカーの名前が(ニック・カーとして)引き合いに出されていますが、基本的に技術について楽観的で思考の羽を自由に広げようとするケリーと、常に現実的で毒舌でならすカーは時折意見を戦わせていますが、どちらの論を支持するにしろ、Google やブリュースター・ケール率いる Internet Archive が目指す先は(各々の戦略、ビジネスモデルを不問にすれば)ケリーが夢見るデジタル図書館に行き着くわけで、そうした意味でも彼の論考は無視できません。

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