所感:2010年代の日本の商業出版における著者と編集者の協働について、営業担当者と書店との協働について

2019年3月12日
posted by 小林えみ

*本稿は2019年3月10日に東京堂書店にて開催されたイベント「哲学者と編集者で考える、〈売れる哲学書〉のつくり方」において配布された資料を、著者の了解を得て明らかな誤字等を修正して転載したものです。


「俺の一生をかけて、全精力全財産を費やして、自分の意思どおりに歴史を捻じ曲げようと努力する。又、そうできるだけの地位や権力を得ようとし、それを手に入れたとする。それでも歴史は思うままの枝ぶりになってくれるとは限らないんだ。百年、二百年、あるいは三百年後に、急に歴史は、俺とは全く関係なく﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅、正に俺の夢、理想、意思どおりの姿をとるかもしれない。正に百年前、二百年前、俺が夢みたとおりの形をとるかもしれない。俺の目が美しいと思うかぎりの美しさで、微笑んで、冷然と俺を見下ろし、俺の意思を嘲るかのように。それが歴史というものだ、と人は言うだろう」

「潮時だというだけのことじゃないか。やっとそのとき機が熟したというだけのことじゃないか。百年と云わず、三十年や五十年でも、そういうことは往々にして起る。それに歴史がそういう形をとるときには、貴様の意思も一度死んで、それから見えない潜んだ糸になって、その成就を援けていたのかもしれない。もし貴様が一度もこの世に生を享けていなかったら、何万年待っても歴史はそんな形をとらなかったかもしれない」
(三島由紀夫『春の雪』より)

はじめに

2019年1月31日にORブックスの社主、ジョン・オークス氏が来日講演で述べたように、現在は著者から読者への直接の商業出版も可能です(講演は動画で公開されています。YouTube「ジョン・オークス来日講演「生き残るための出版マネージメントとは?」VJdotbook)。

オークス氏はそれについて「綺麗な表紙を提供するとか編集とか販売促進とか著者が直接できないことを出版社がしないなら著者が直接読者に届けた方がいいではないですか!」と述べました(翻訳は動画より、傍点は筆者による[注:本記事では太字にて記載])。「著者が直接できない」とされる編集や販売促進は版元内の部署(編集、営業、経理・総務)、取次、書店などさまざまな担い手によって分業化され成立しています。ただ、オークス氏が続けて「アメリカでは老朽化した機能不全のシステムが存在」と語るように、日本においても長い年月利用された制作・流通・販売の仕組みやその中の分業は、現在においてもすべて美しく調和して機能している、とは言い難い点もあります。また、技術革新により更新されていることもあります。そして、「出版不況ってもう言わなくてもいいんじゃないか」という方もいますが、不況という言葉を「雇用量・生産量などの縮小、物価・賃金や利子率などが低い水準を続ける」(大辞泉より)」と定義するならば、大まかな捉え方としては「日本の出版業全体は不況下にあり、縮小再生産の中で部分的に元気なところがある」といえるでしょう。そうした変化の局面にある出版業界について今どうなっているか、ということは、業界内外を問わず書籍に関心のある人たちの関心事となっています。本イベントもそうした潮流の中に位置づけられるでしょう。

出版不況下で専門書・哲学書はどのような位置づけにあり、状況は改善するのか、また版元や著者は、システムや自分の仕事に対してどのようにかかわるべきか、あるいは何が望ましいのか、が来場者の方のご関心事項だと思います(違ったらごめんなさい)。イベントの中でうまくお話できる自信がなかったため、出版関係者の方もおられるかと思いますが、主には業界外、著者・研究者の方へ向けて、私なりの所感を配布資料としてまとめさせていただきました。

ただ、まず少々言い訳がましく恐縮ですが、私の立ち位置について先に述べさせていただきます。私は「哲学書の編集者」とはいえません。少なくとも今時点でそれに見合う経験を積んでいません。1978年生まれで1999年から専門書の編集職としてキャリアをスタートしていますが、思想系の人文書に携わったのを『nyx』創刊号からとすると2015年からの4年です。『nyx』も扱う分野は哲学に限定されていません。「哲学書」のエキスパート編集者がおられるなかで、もし私が「哲学書の編集者」を名乗れば、それは僭称でしょう。そうした浅薄な知識の中では「哲学書」固有のこととしてお伝えできる情報はないため、恐縮ですが、本イベントにお招き頂いた者として最大限の誠実を心掛けつつ、主に出版界全体・専門書出版について、おそらく「哲学書」とも共通するであろうという事柄について記すことでご来場者の方のご関心に少しでもお応えできれば幸いです。本資料の作成にあたっては、幾人かの方にご助言を頂いておりますが、文責は小林えみに帰するものです。誤記などがあった場合、それは故意悪意による改ざんではなく、小林の至らなさによるものとご認識頂けますと幸いです。また訂正等を要することについてはご指摘賜れますと幸いです。

「売れる」について――周辺事情と出版産業

専門書の商業出版において版元の人数は減り、書籍の生産量(1点あたりの発行部数)の水準(おおよその標準値)は過去より減少しています。今回はあくまでイベントの簡易資料ということで、厳密な算出数字ではなく専門書界隈の方であれば共有できる感覚的な数字の記載でお許しください。

専門分野の書籍が1980年代に初版が5000部だったものが、1990年代後半には3000部、2000年代には2000部、1000部となり重版もされていない、ということが言われます(1980年代に3000部だったものが1000部あるいは800部程度になった、というような幅感は分野によって違います)。専門度が高く、1980年代頃から500部、300部程度、3桁の発行部数だったものでそれほど部数の変わりがないという場合もあります。減少は「少子化による市場全体の自然減」「その分野の盛衰」「情報の需要減」「多様化による専門性の分散」などがあげられますが、その他の様々な要素もあり、それぞれの分野によっても要因は異なります。いくつか例をあげます。

まずは「造船に関する情報」。日本の船舶建造量は1975年をピークに減少をし、国内産業の「重厚長大から軽薄短小へ」の例として小学校でも習った方は多いのではないでしょうか。しかし、その後の回復もあり、依然、世界で韓国とトップシェアを争う約35%を占めるシェアをもっている、ということはあまり知られていません。しかし工業関連の研究は国際化されており、英語文献が流通していること、それらをうけた国内研究拠点の減少(例えば東大の船舶工学科は2000年に統廃合された)などにより「日本語の研究書、専門書」は産業の活況とはリンクしていません。

次に、「役場などに備える公共向けの法律の条文情報」という分野があります。分野としてコンテンツの需要﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅が衰えた、急に法律が不要な場面が増えた、ということは考えにくいですよね。しかし簡単な情報はインターネットで入手が可能となった(2001年より政府が「法令データ提供システム」としてウェブ上で公開するようになった)、商品の需要の減少があるうえで、顧客である「自治体数」は合体等により減少をするという明らかな市場の総数の縮小があり(平成の大合併により市町村自治体数は1999年の3232個から2014年の1718個へ減)、公共向けの安定した市場のように思われていましたが、「紙の条文情報」は部数を減らしています。

2019年3月、医療専門出版社として知名度の高い医薬ジャーナル社が倒産しました。「1993年7月期に10億2500万円あった売上高は、18年7月期には2億6300万円に減少」、医薬業界の慣行だった製薬会社から医師への献本(版元から製薬会社が購入)が薄れたことなどが要因とのことです(朝日新聞3月5日)。

上記は比較的はっきりした「その他」の状況分析が可能な事例ですが、また別の、それぞれの事例によって背景はさまざまです。人文書・哲学書においても過去3、40年での数字の減少は起こっていることですが、その要因について私自身はまだ不勉強なところで見解はだせず、見かけた諸説でも「これでは」という決定版を見出すことはできていません。

「売れる」について――発行部数

まずはじめに、「売れる」という価値判断を「一般の発行部数の数字だけで比較することは困難」だと私は考えます。もちろん500部と10000部では明らかに規模が違います。また500部の書籍しか出さなかった著者さんが同じような専門領域の書籍を書いて1000部売れたら「売れる」と言ってよいでしょう。条件や比較対象が明確になって、はじめて「売れる」と言えると思います。

この「売れる」という数字について、出版業界のシステムも含めて考えたいと思います。日本の書籍の大半には返品制度が採用されており、発行部数=売れた部数ではありません。

A社のアリストテレスの書籍が500部発行
B社のアリストテレスの書籍が700部発行
C社のアリストテレスの書籍が500部発行、二刷でさらに500部発行

C社がよさそうですね。でも実態として、あとで書店から700部返品があって、実態としては300部しか売れていないかもしれません。B社は700部しか作っていなくとも、そのうち500部をきっちり売り切っている、でも500部のうち200部は著者買上で、一般の売上は300部かもしれません。A社は500部のうち400部を一般に売っているかもしれません。さて、どの会社が好ましいのでしょうか。A社、と言いたくなりますが、B社の200部の著者買上も売上は売上であり、それが学生にきちんと配布されて読まれるのであれば、むしろ届くべき読者には届いたと言えるでしょう。C社も増刷はした、ということは書店でPRはされた、ともいえますし、売れた300部のうち多くが図書館に納められていたら、多くの学生がそこで読んでいるかもしれません。

これは架空の数字ですし、けむに巻きたい、という意地悪ではありません。また上記の記述では「売れる」と「読まれる」をあえて混ぜて書いています。ここで言いたいのは、数百部内、4桁内の多少の数字の違いはドングリの背比べでしかないということ、また質の差はそこでは明らかにならない、ということです。

著者の方は「売れたい」と同時に「読まれたい(普及させたい)」のではないでしょうか。

「読まれる」という「売れる」と別の価値観を投入したのは上記の例に「著者買上」をいれたからでもあります。市場の自由競争化において身銭を切って買ってもらうことに価値をおいて考えたくなる心情もわかります。しかし「読まれる」ことが目的であれば、金銭の出所は本質的な問題ではないはずです。

一般に売れた部数が他の書籍より100部200部少なくとも、論文の引用が多くされるのであれば、――インパクトファクターの考え方の是非は一旦措くとして――届くべき読者には届いて、きちんと評価されたと言えるでしょう。

書籍に関して数字がでてきたときに、おそらく著者・研究者サイドで知ることのできる数字はごく一端です。その一部の数字の細かな差異について「売る」という基準で語ることの意味は何なのか、それは意味がないということでなく、個別に繊細に考えていただきたいのです。

細かな数字については多くの出版界隈のプロは把握と分析をしています。そして、書店・営業の方たちはそれに基づいてきめ細やかに仕事にされており、一方で「売上数字(POSデータ)だけに﹅ ﹅ ﹅基づく仕事」を慎重に避けておられます。

参考:「今後ますます重要度が増す作り手としての営業」(ダイヤモンド社 井上直氏講演録)
http://www.ajec.or.jp/category/interview2/?mypage_id=9027#container

参考:「うちの店を潰す気か」(書店員・すずきたけし氏note)
https://note.mu/kakunoshins/n/n0fa22ed82fd5

独立系書店・出版社において一人の個人事業主でやっているような場合に、ある程度、どんぶり勘定の場合はあるかもしれませんが、現在の出版業内で「数字がとれない」ということはほぼありません。ただ、その数字をどの程度、販売に活用しているか、またどの部署が管理しているか、社外だけでなく社内でも公開しているか、は会社によって異なるでしょう。

堀之内出版の書籍は、現在、基本的に初版は2000部刷っています。『nyx』は大体2000~4000部です。そのうえで、各書の部数公開は控えますが、単行本は刊行16点のうち重版点数10点、重版率62.5%です(まだ刊行点数が少ないということもありますが、大体野球のバッターの打率と同じで3割あれば優良です)。現時点での成績は率直に申し上げて悪くない、と言えるでしょう。弊社は直取引(トランスビュー取引代行)なので、返品率も低く、発行部数と販売部数の間に大きな乖離はありません。

ではなぜ堀之内出版は「悪くない」状況なのか。まず一番大きな要因は書籍自体の魅力・価値が高く、研究者の方にご執筆頂いていることが多いものの、ある程度の読者が見込める「ポピュラー化」(専門度が低く、専門外の読者でも読了が可能なレベル設定)をした原稿をお預かりし、一般書として刊行しているからです。専門書と呼べるものはごく一部です。専門書であればこのような数字は難しいです。それに対し、販売は出版業界でスタンダードな営業手法(上記のダイヤモンド社さんなどと同じような、数字を見ながらの書店さんとの協働、他社出版社さんとの協働、広告、SNS。分業されていないが、営業的な発想で装丁やタイトルをつくる)等で販売しているにすぎません。営業において、堀之内出版には奇策・新しくオリジナルな手法はありません。

専門書ではありませんが、ライツ社さんが12000円の高額写真集でヒットを出されたことなどは、ある意味同じく、奇策・新規手法頼みではなくベーシックな営業手法で、営業さんが書店さんと「きちんと仕掛けて売った」好例だと思います(ただし全く新規性がないということではなく、特定書店のみの限定カバーなどされていますが、きめ細やかな協働における手法のひとつであって、それ「だけ」ではない)。

参考記事:紀伊國屋書店新宿本店で、12,000円の写真集が1ヶ月で270部完売した理由
https://note.wrl.co.jp/n/n81d829986141

このベーシックな活動が「そもそもできていない」場合もあるでしょう。一例としては、書店事案ではありませんが、ある本を出版社直販で購入したところ、先に82円切手を貼った封書で郵便振替用紙が送ってこられ、入金後に書籍が送られてくる、ということがありました。出版社も読者もお互い時間もコストもかかるやり方です。堀之内出版は直販については「ストアーズ」を利用しています。入金方法も各種備えてあり、着金後は1営業日以内に発送しております。自社で新しい販売フォーマットを開発した!ということではなく、世間一般的には目新しいとは言い難いことですが、こうしたことだけでも、対応が追い付いていない出版社さんと比較された場合に「対応できているところは今どき風、新しくみえる」のかもしれません。

「哲学書(専門書)」をどのように売るか

本イベントのテーマに立ち返って、「哲学書(専門書)」をどのように「売るか」。「売れる」にしても「読まれる」とするにしても、専門性だけに特化していた場合、市場自体が限定されます。

発行部数が3桁の専門書は、その分野の研究者(学生)のみが主な読者といってよいでしょう。その場合、隣接した〇〇論だと500人だけど△△論だと700人といったように素人からみたら些細な違いでも研究者としてはハッキリ分野が別れる場合があります。哲学はある程度、その市場の限定性はゆるやかでドイツの哲学者だからフランスの哲学者の書籍を読まない、ということはないでしょう(分野というより書籍の内容によるにせよ)。歴史などでは、ご本人の興味や敵視ということでなく、お互いやっていること、扱う対象がはっきり違うから、研究の必要性としては時代区分が少しずれるだけで基本的に読まない、という話を聞いたことがあります。

これらのそもそも需要(市場)が特化した専門度が高い書籍をより「売る」「読まれる」にするには、分野のすそ野を広げる必要があるでしょう。販売現場の努力だけでは中々その底上げまでは難しいことです。その市場にきちんといきわたっていないとすれば、それは販売の現場で努力する余地はあるかもしれませんが、それがコストパフォーマンスに見合っているかは、営利事業としては考える必要もあります(詳細後述)。

ポピュラー哲学について

前項のような、分野に特化した専門度の高い書籍についてではなく、その入り口となる、裾野を広げる書籍、一般の人に関心をどうもってもらうか、という間口をひろげることに対しては、さまざまな方法が考えられ、そのうちのひとつとして「ポピュラー哲学」もあるのだと思います。手法としては、従来からあった表現を柔らかくする、その他のコンテンツと連関を持たせるなど、さまざまな方法があります。それについては『フィルカル』4-1で詳しく特集されておられるとのことですので、そちらをご参照ください。アカデミシャンの中での評価の難しさもあるかもしれませんが、私はそれを受容する一般読者の立場として(出版に関してステークホルダーではありますが)、その試みが若手研究者から発信されることは、読者としてありがたく、そうした部外者に興味関心を広げるアウトリーチ活動としてとても良いことだと私は考えます。

『数学ガール』という書籍があります。数学を題材にしたボーイミーツガールの小説仕立てでシリーズ化されていますが、1巻目だけでも「テイラー展開とバーゼル問題」に到達します。私は数学の学習者としてはわりと早い段階で挫折をしましたが(そしてそこから先の数学の類書や専門書に手を延ばすことはありませんでした)、書籍は読み通して「数学の面白さの雰囲気」にふれることができました。私のような不真面目な読者ではなく、きちんと数学の深みを知り、そこから類書、専門書に届く読者を『数学ガール』は増やしたと思います。同じようなことが哲学でも実現できるのではないでしょうか。

出版産業における人文書(哲学書)

数年前、2016年の新書のベストセラー(紀伊國屋書店)です。

1位 橘玲『言ってはいけない 残酷すぎる真実』新潮社
2位 井上章一『京都ぎらい』朝日新聞出版
3位 田村潤『キリンビ-ル高知支店の奇跡 勝利の法則は現場で拾え!』講談社
4位 堀江貴文『本音で生きる 一秒も後悔しない強い生き方』SBクリエイティブ
5位 齋藤孝『語彙力こそが教養である』KADOKAWA
6位 百田尚樹『鋼のメンタル』新潮社
7位 佐藤愛子『人間の煩悩』幻冬舎
8位 菅野完『日本会議の研究』扶桑社
9位 佐藤智恵『ハ-バ-ドでいちばん人気の国・日本 なぜ世界最高の知性はこの国に魅了されるのか』PHP研究所
10位 鳥飼玖美子『本物の英語力』講談社

出典 https://www.kinokuniya.co.jp/c/20161201174805.html

ウェブサイトには100位まで記載されています。この中に、読んだ書籍はどのくらいありましたか? また人文書・哲学書、と皆さんがお考えになるものはありますか?

上記ランキングのいわゆるノンフィクション新書はさまざまな分野の書籍を含みつつ基本的に小説などの文芸(売れ方の違う)は入っていないので、わかりやすい例としてあげましたが、人文書・哲学書、数学、工学……、分野に特化した専門度を要する書籍というのは出版界全体からすれば、ほんとうにごく一部の売上を成しているのにすぎません(2017年の新書ベストセラーには呉座勇一『応仁の乱』が入ります)。

編集者さんが「営業が動いてくれない」、書店さんの人文書売場から「大手の出版社の営業はほとんどお越しになられない」という話をきくことがあります。大きな売上をもつ会社の営業、また経営からすれば、文芸や漫画など、会社全体の収益を支える書籍を売ることで数字をたてなければ、雇用や生産体制を維持することができません。そちらに注力していることでできる資金的猶予のおかげで人文関連書がだせている、とも言えます。

書籍の2018年の推定販売額は6,991億円(紙の出版物、雑誌を除く。全国出版協会調べ)です。この中で人文書はおそらく1割の売上にも満たない分野です(各種の売上データは商品形態で区分がされているため、「人文書」というやや曖昧な定義での正確な統計は難しく、おそらくデータはありません。したがって、この一文は記載を非常に迷ったのですが、書店の売り場面積の数字や各書店さんの言、出版社の売上、取次の売上などを組み合わせて参考としてはあげられるだろう、「人文書の売上は出版界の売上のごく一部」という感覚の共有は本論において必要だろうと判断し、類推の数字を試算しました。非常に大雑把で、例えば堀之内出版を人文書出版社とした場合に、絵本の刊行などもあるため、全体を「人文書」の売上としてカウントするのは不正確です。しかし、人文書の売上については少なく見て十数億円~良く見ても数十億円、100億には届かないであろうというのが私の見解です。この点については正確な情報をお持ちの方はご教示賜れますと幸いです)。

しかし、その売上規模の割に、人文書は書店さんでも大都市の大手書店さんでは床面積の1%以上の棚を占め、時には一等地でフェア等を開催してくださいます。それは人文書について、その分野への文化的価値・総合的な書店としての価値への貢献を理解をし、販売につとめてくださっている書店さん、出版社の営業さん、出版社同士の協力などがあってのことです。したがって私は冒頭にあげたような著者から読者への直接の商業出版が可能だとしても、こうした販売のステークホルダーの存在・協力なしには一定規模の普及は難しいものだと考えています。

そうした仕事は、基本的に裏方作業で見えにくくなっています。それは数字を隠している、というネガティブなものではなく、コンテンツ商売として「光る側をみせる」ことの「影」をひきうけてくださっているからです。袖にバケツやモップが丸見えの舞台が美しいでしょうか? しかし、そうした裏方仕事は「ない」ものではなく「なくすべき」ものでもなく必須のものなのです。

作品がメインとして、著者、時には編集者も「舞台側」を引き受ける側です。そこからの発信や協力も必要なものですが、営業や書店さんというある種の裏方がどのように何をしているのかをお互い知った上で、何が協力でき、協力できないのか、それぞれで行動すべきなのかをよく考えなければ、おそらく著者と編集者で「売れる書籍を」と言っても上滑りしかねません。

著者と編集者でつくる「売れる書籍」

では、著者・編集の制作の現場・発信での「売れる哲学書」(売れる分野の専門性をもった書籍)の計画的再生産は不可能なのでしょうか。それらをある種の規格、セオリーの構築はできるのでしょうか?

先に堀之内出版の書籍が「そもそも良い原稿をお預かりしている」と書かせて頂きました。まずそうした著者ご自身、著作そのものの魅力で数万部のベストセラーになっている例は少なくありません。

それらは専門性が高く内在している場合もありますが、同時にある種の「ポピュラー化」はされており、研究者へ向けて精練された「専門書」とは一線を画すものである、と私は考えます。対象の市場がそもそも「専門向け」とは違う、ということです。そのうえで、広い市場へ向けてどのようにアプローチするかを練った原稿や「書籍」というモノづくりをするか、は可能でしょう。そしてある程度は「こういう風にしたから売れる」というセオリー化は導きだせると思いますが、それが成功するか、そういうものや状況が研究者の望んでいたものなのかは、私も今回のイベントを通じてなど皆様から教えて頂きたいところです。

次に、販促の仕掛けについてです。著者さんとの販促の協力については、大きな成功事例として書籍ではありませんが専門度の高い人文書に類するものとしてドゥルーズ没後20年を記念したDVD『ジルドゥルーズの「アベセデール」』(KADOKAWA、2015年)が、本体価格8700円と価格自体も高額ながら、重版にいたったことがあげられます。これを出版社だけで「ドゥルーズの大事な資料がでました」と告知したのではおそらく盛り上がることは難しく、國分功一郎氏、千葉雅也氏を中心とした研究者の応援があったからこそ実績につながった事例でしょう。ただ、当然のことながら、それをうけて出版社や書店の裏方仕事が展開を支えたからこそ、「仕掛けが機能」しています。

「著者と編集者で話をしていて盛り上がる」は、私も経験があります。ただ、その後でそれを実現するために書店さんに電話をしたり、チラシの版下をつくったりしながら、そういうことを一緒にやってくれる営業の方がいたらな、と思うことがあります。また弊社については私が予算管理をしているため、たとえば単体でみれば赤字がでることも、販促全体として支出することができます。これが会社となった場合、単体の収益や担当部署の予算管理が求められる場合もあり、部署間での合意がうまくいかない場合もあるでしょう。編集と営業で思惑の齟齬がでる、という話はしばしば聞くことです。「著者と編集」からその先をどのように分業し、巻き込んでいくかは課題のひとつです。

大手出版社においては、発行点数も多く「全体での利益」を見ておられる場合があり、単品の目標達成をかならずしも第一にしていない場合がおありです。その場合に、編集者・著者からすれば「営業のリソースをもう少し割いたら売れるのに、仕掛けずに売れないといっても私たちのせいではない」という齟齬がここでも生じる場合があります。しかし、営業からはもっと高い見込みのものにリソースを割きたく、少々の見込みのために対応できない、ということもあるでしょう(先述のように出版産業における人文書の売上の割合はごくわずかであり、文化的意義として存続していても、営利企業として営業という投資ができるかどうかはまた異なる所です)。しかし、だからこそその営業の手が回らない隙間を著者と編集者による販売施策がカバーしうるケースは生じるでしょう。

別分野ですが漫画家さんの「書店さん設置手書き色紙」も、ある種定型化した販促パターンです。ただし、この「手書き色紙」は、しばしばその無償執筆の負担が問題視されるように、共存共栄関係の中で可能範囲を超えての販促協力は「やりがい搾取」にしかなりません。たとえそれで10部、100部売り延ばせたとしても、そのことで著者や場合によっては書店に過剰負担となっていないかなど、「なぜそうするか」「実施負担」「責任区分」が著者、編集者、営業、書店、その他、関係者間においての責任と負担についての調整が必須です。その上でフェアの展開の仕方なども含めて、著者と協力しながらの販促手法は、今後も編み出されていくでしょう。ただし、繰り返しですがそれは必ず裏方との調整と全体における位置づけも忘れてはいけません。

商業出版から著者・研究者への要望

まずはとにかく、ご本人がされたいお仕事をなされることが、私からの著者・研究者への要望です。それは、おそらく第一には研究であって、アウトプットであるご執筆はその次でしょう。両方が混じりあっているとか、お考えや工程は人それぞれだと思いますので、そう規定したい、ということではなく「ご本人が為されたいこと」が第一だ、ということです。そのうえで、アウトプットに関して編集者・出版社が協力をさせて頂きます。協力の度合いもそれぞれです。原稿はご自分で仕上げて、造本や販売はお任せされる方。原稿、造本、全体に関わりたい方。ご自分の要望を出版社としっかり話しをしていただけるとうれしいです。こちらの提案でご要望が変化することもあるでしょうし、そのうえで「やはり自分の考えで」ということもあるでしょう。よくないのは「自分が思っていたのとは違うけど、出版社が言うならそうなのかな」など半信半疑のままになることです。納得のいくよう、それは少し面倒なことかもしれませんが、コミュニケーションをとってください。私はなるべく直接お会いしにいくようにしています。「小林は何しに来たのかな。呑みにきただけかな」ということもあるでしょうけれど、お会いしてみて、雑談をまじえたなかで「実は」や「あ、そういうことならこうしましょう」という相互の納得や創造が生まれるからです。

その他の著者・研究者による直接的な出版への関わりについて

雑誌を研究者が制作する『フィルカル』や、クラウドファンディングを実施した「『ルネサンス・バロックのブックガイド』出版プロジェクト」、『アベセデール』などの例のように著者・研究者が直接発信するからこその魅力や販促力はあり得ます。これらは分野を活性化するものとしては、とても良いことだと私は考えています。

他にも、個人的には「商業出版」だけが発表の場ではないと考えていますので、同人誌として発行している『夜航』や『レトリカ』、『アラザル』、『アーギュメンツ』は誌面も充実しており非常に面白い挑戦です。

また各大学では大体「紀要」を発行しています。しかしあまり個別の紀要が話題になることはありません。様々な事情の存在は察せられるところもありますが、もし、本気で研究者の方たちが自分たちの発信を強化しよう、と思ったら、すでにお持ちのそうした仕組みのなかでも、まだまだできることがあるはずですし、それに対して「商業出版」が上位、ということではありません。例えば、もし予算が許すならば「紀要」が編集者を雇う/契約する、営業を雇って、人気の「紀要」をつくることもできるのではないでしょうか。

商業出版という形態は歴史的にそんなに長いフォーマットではありません。今のところ急激な「絶滅」も考えにくいですが、絶対視できるものでもありません。したがって「商業出版で売れる」だけが「読まれる」「普及する」ではなく、その目的に対する商業出版のメリットデメリットはよく考えられるべきです。商業出版の問題点としては、「絶滅」へはまだ向かっていないものの、産業として不況下にあり、回復の見込みはあまりない斜陽産業と言えると思います。一方で欧米では巨大な出版社による科学ジャーナルの寡占による価格高騰が問題となり、最近はそのカウンターもでてきました。

参考:「出版社「エルゼビア」が抱える学術誌の編集者が一斉に辞職、新しくオープンアクセスジャーナルを立ち上げることに – GIGAZINE」
https://t.co/P3mUIadgDH

参考:「科学論文を出版するエルゼビアとの購読契約を完全に打ち切ったとカリフォルニア大学が発表 – GIGAZINE」
https://t.co/f9gkVar4A4

参考:「研究者のスケベ心が論文の出版・査読の問題を生み出しているのだ」
https://note.mu/kgcssk/n/nefba445615e4

今は出版社のブランドがある種の権威・価値判断として機能していますが(ゲートキーパー)、それは必ずしも出版社である必要はなく研究者同士でもコントロール可能であり、そのうえで「専門書」「哲学書」の普及が可能なのではないでしょうか。そしてそれは出版社を完全に排除するのではなく、著者の直接発信と出版社の協働もまた新しいやり方として考案することができるでしょう。

参考:赤松健「マンガ図書館Z」、佐藤秀峰「「出版業界こそ漫画ムラ」佐藤秀峰さん海賊版サイト語る」
https://www.asahi.com/articles/ASL8H7KNKL8HUCVL01J.html

※記事すべてに賛同しているわけではありませんが、著者と出版社の在り方や協働をさぐるのであれば、こういうラディカルな思考がもっとあってよいと考えています。

おわりに

1988年、小学校4年生の時、東急の外商さんがもってきてくれた映画の招待券は井上靖原作の『敦煌』でした。「難しいかもね」と言われながらも従姉と渋谷へ観に行き、案の定、あまり内容はよくわからなかったのですが、戦火の中で経典を「灰にしてはならん!」「1部でも多く」と運び出す人たちの姿は強烈に印象付けられました。その日は電力館のそばのサーティーワンでアイスを食べ、原宿まで歩きキディランドで「いちご新聞(サンリオの子ども向け広報新聞)」を買った記憶があります。30年後の今、電力館、そのサーティーワンはありません。「いちご新聞」の記録はサンリオに残っているでしょうけれど、私はその内容を思い出せません。若者には長い時間かもしれませんが、歴史的にはたった30年前のことです。町も簡単に様変わりしますし、『書物の破壊の世界史』に描かれているように、書物や記録は天災でも意図的にも破壊され続けます。私は最大限長生きしてもおそらく80年後には存在せず、100年後には誰も名を呼ぶことのない過去のモブとして消えるでしょう。百年後千年後がどのようになっているのかわかりません。映画・小説『敦煌』はあくまで井上靖の創作で、敦煌文書はそのように戦火を潜り抜けて残ったわけではないようですが、それでも炎の中から巻物を搬出した人物のように、私は自身のためでなく誰かのために、「見えない潜んだ糸」になって書籍を外へ、未来へ運びたい。

書籍が今の世や仕組みの中で、どのように支えられるべきなのか。著者と読者のあいだ、編集者だけでなく、さまざまな人や組織・機能があり、またそれらは変化します。唯一の回答はないなかで、誰が何を知り、どうすべきか。それを当事者だけでなく、ある程度開かれた形で考えることは非常に意義のあることです。本イベントの開催によって、私も改めて考える時間を得ることができました。関係者、参加者皆様に御礼申し上げます。そして書店さん(大手、独立系、生協、等)、出版社の他部署(営業、広報、経営等)、また図書館(大学、学校、公立、私立)、ウェブ業界等などもっと多様な方達から、もっとお話をお聞きしたく、今後もこうした機会が各所であることを願っています。


本文書はクリエイティブ・コモンズとして許諾不要の再利用を可能とします。ただしCC BY-ND(著作者の表示と改変の禁止)でお願いします。抜粋も同じく、好きなように抜粋可能ですがCC BY-NDでお願いします。

執筆者紹介

小林えみ
堀之内出版編集者。1978年生まれ。担当の本に『神話・狂気・哄笑』、『地域アート』、『戦う姫、働く少女』など。