山に囲まれた街は、海の彼方とつながっている
気仙沼へ赴く日の朝は早い。おれの住んでいる鎌倉からは、新幹線を使っても5時間。午後の会議に出席するには、始発で鎌倉駅を発たねばならない。まずは岩手県の一ノ関駅まで出て、そこから大船渡線で沿岸部へ向かう。龍のようにうねるその線形から、大船渡線は「ドラゴンレール」とも呼ばれている。車両はいわゆる「電車」ではなく、ハイブリッド車だ。大きく迂回するのは地形のためではなく、有力者による我田引鉄のためである。
宮城県の北東の端。盲腸のように岩手県の中へ飛び出している。なるほど、戊辰戦争の前は、今は岩手県南部の大船渡市、
平安時代に編纂された歴史書『日本三代実録』では「計仙麻(ケセマ)」と記されており、その由来には諸説ある。アイヌ語の「ケセモイ(kese=末端、moi=入り江で、“南端の入り江”)」から来ているだとか、古語で船を岸に繋ぎ留めておくための「かせ」が訛ったものであるとか。どちらにしても、ここは港の町だ。気仙沼漁港は、沿岸漁業に養殖漁業、沖合漁業から遠洋漁業まで、あらゆる漁業の基地であり、街には造船から水産加工まで、ありとあらゆる水産業が発展している。
山に囲まれた陸の孤島でありながら、鰹を追って北上する千葉県、高知県、宮崎県の漁船や、秋刀魚を追って南下する北海道の漁船など日本各地の船、さらには世界中の漁船までが行き交う。山に閉ざされているようでいて、海に向かって開けているのだ。
陸に切り込むような湾の内側にある大島が、天然の防波堤となって波を和らげる。世界屈指の良港である。しかしその地形のために、東日本大震災では増幅した津波が街を襲い、大変な被害を受けた。
気仙沼市図書館は、そんな街を見渡せる高台にある。そのために津波の被害には合わなかったが、揺れを耐え切ようとした柱には亀裂が入った。1968(昭和 43)年に落成した1階部分と、その後、1981(昭和56)年に増築された2階部分。その繋目が特に大きく被害を受け、崩れる恐れのある2階には立ち入 れなくなった。震災後も亀裂の入った建物を使い、開館を続けていたが、さすがにこのままでは危険である。古く手狭になっていた児童館と合わせた複合施設として、同じ場所に建て替えられることが決まった。
「気仙沼図書館災害復旧事業及び(仮称)気仙沼児童センター整備事業」の設計者として公募型プロポーザルに勝ち抜いたのは、これまでも多くの図書館建設を手がけてきた岡田新一設計事務所だ。おれはアカデミック・リソース・ガイド株式会社(ARG)という、情報系コンサル会社のスタッフとして、この整備事業に加わることになった。図書館や行政の職員と建築家の間をつなぎ、専門知識でサポートするという仕事である。
およそ月に一度のペースで、鎌倉から気仙沼へ向かう。片道5時間という長時間移動だが、日帰りすることも少なくない。そんなときでも、会議の後に街へ呑みに繰り出すのは欠かさない。飲み屋街では、その街の素顔がちらりほらりと垣間見える。清も濁もある混沌とした飲み屋の灯りの下で、その街に生きる人々の顔を見るのが好きだ。
元新聞記者、菅野青願館長の手で世界の気仙沼図書館へ
気仙沼の図書館は、東洋一とも称されていたと聞く。小さな街の図書館でありながらそのように讃えられたのは、8代目館長である菅野青顔(1903~1990)の功績と言える。青顔は1941(昭和16)年、地域の新聞社であった大気新聞社から、事務嘱託職員として図書館へ入職した。気仙沼では初めての、専任の図書館長である。現在の気仙沼市本吉図書館長に言わせれば、白髪何千丈と喩えたくなる髭をたくわえた、眼光鋭くおっかない「初代仙人館長」ということになる(おやじギャグか)。三陸新報のコラム欄「萬有流転」に1953(昭和28)年から34年間連載を続け、それらは本として出版もされている。
青顔は記者であった時代から、自分が図書館長になればより良い図書館にできると熱意を燃やし、新聞記事にもそのように書いていたらしい。孔子が晩年、詩書などの整理をして生活をしていたのに憧れていたようでもある。戦時下でも資料を守りぬき、言論や出版の統制や、戦後の図書廃棄命令にも抵抗した。「図書館の自由に関する宣言」が採択されたのは1954年であるから、その前からこうした姿勢を守り抜いていたことになる。
さらに、図書購入費が充分ではない中、「企業文庫」を創設している(下の写真はその一部)。現在、さまざまな図書館が取り組み始めている「雑誌スポンサー制度」の先駆けのようなものか。豊かな漁港を持つ街には裕福な旦那が多い。そんな旦那たちが、自分らの商売に関連する資料を図書館に寄贈する。そしてそんな仕組みは、現在の図書館にも引き継がれた。たとえば、地元で酒蔵を営む会社は、酒に関する資料を寄贈している。もう閉館してしまった映画館も、芸術に関する資料を寄贈し続けていた。この他にも、遠洋漁業の漁師らが海外で買い付けて来た洋書が図書館に持ち込まれることもある。
青顔は、辻潤や稲垣足穂、南方熊楠の研究者でもあった。青顔自身が寄贈した研究資料も多い。館長室には、盟友であった通称「大空詩人」、永井叔(1896~1977)の揮毫が飾られている。彼はバイオリンやマンドリンを奏でて歌い、喜捨を求め、行乞をして生きていた詩人だった。揮毫を元にした石碑は、1961(昭和36)年に気仙沼図書館の前庭に建てられた。
図書館へ行く道をきいている あのおじさんはきっと 好い人にちがいない!
気仙沼と全世界の図書館様へ 大空詩人・永井叔
なんとのびのびと、すっきりとした言葉だろう。図書館まで続く急な坂。その高台は桜の古木に覆われている。その道をのんびりと歩いていく「おじさん」の姿が目に浮かぶ。仙人のような専任館長によってこの図書館は、気仙沼の文化的な蓄え、知への好奇心を提供し続け、世界にも胸を張れる館となっていた。
横に連なる桜のように、縦に伸びゆく鈴懸のように
1968年に建てられた図書館も、ユニークな造りをしていた。小学校と中学校に隣接しており、子どもたちは授業が終わると、そのだだっ広い校庭を駆け抜けて、ランドセル を背負ったまま図書館にやってくる。一般閲覧室と渡り廊下でつながった、円形の建物が子どもたちのための図書館だ。その中にはドーナッツ型の本棚が並び、 多くの物語や知識が詰まっている。この街で育った者にとっては、思い出深い場所なのだ。そんな児童向けの別館も、震災の被害が大きく、使えなくなってしまった。利用の多い本を選び出し、一般閲覧室の片隅に児童コーナーを作ったが、どうしたって狭いし、賑やかに絵本をめくりたい子どもたちと、静かに調べものをしたい大人たちの居場所があまりにも接近してしまっていて使いづらい。
新しく建てられる図書館であり、児童センターでもある建物は、これまでにない複合施設となる。図書館と児童館がひとつの建物の中にあるというケースは、他の自治体でも見られるものだが、気仙沼のこの新しい館の場合は、図書館と児童館がゆるやかに融合している。「ヨコに連なるサクラのように」「タテにのびゆくスズカケノキのように」。建築家が描いたプロポーザルの提案書は、そんな言葉で始められている。坂を埋め尽くしてひろがる桜と、高く天空へ向けて背を伸ばす鈴懸の木。図書館を取り巻く緑をできるだけ残すかたちで、新しい館は建てられる。つながりと成長の象徴のように。
現地調査で気仙沼を訪れた建築家は、ホテルの窓からその高台にあるという図書館の姿を探した。季節は春。咲き誇った桜はたなびく霞のように高台を覆い、その向こうに鈴懸の木のまん丸い頭がぽこんと四つ飛び出している。そのとき、淡い色の霞の中にちらりとのぞき、陽光を反射させてきらりと光る新しい館の姿が、建築家の目にはもう見えていたのだろう。
被災した図書館は惜しまれながらも、2015年4月に閉館した。閉館前日にはお別れ会が開かれ、さよならコンサートも催された。その後、5月の連休明けに、教育委員会の入った中央公民館の小部屋を借りて、21万ほどの資料の中から新刊を中心に約5千冊が選び出され、限られた冊数の中で仮設開館をする。置いてある本は同じものなのに、司書の目で厳選されたことで「こんな本もあったのね」と、新しい発見をしていく人が増えたらしい。
2016年1月、仮設の図書館はもう一度場所を移した。今度は、震災後に下水道課が事務室として使っていた公民館の分館へ。こちらはスペースは広いが、部屋の真ん中にはなんと土俵がある。新館ができて最後の引越しを済ませた後に、再び土俵として使えるように、丈夫な基礎を組んで床が貼られ、その上に本棚が運びこまれた。世にも珍しい、土俵の上にある図書館である。ここでの稽古はしばらくできなくなってしまったが、力士会から別の場所に新しい土俵が寄贈された。白鵬関と鶴竜関が清めを行った新しい土俵で、子どもたちは今も稽古を続けている。
実施設計も終わり、古い館から資料が運びだされた。いよいよ取り壊しの作業を迎え、新館の建設が始まろうとしている。長く続いた設計の会議も、これでひとまず収束する。
気仙沼自由芸術派と「福よし」へ
「ご無沙汰しています。久しぶりに気仙沼へ行きますが、呑みませんか?」
気仙沼図書館と本吉図書館の館長へ声をかけた(本吉町は、2009年に気仙沼市に合併されている)。長く続いた会議の後にも、時折一緒に呑みに行くことはあったが、なにしろ気仙沼発の終電が19時台だ。復興商店街のそばにある居酒屋「ぴんぽん」は、料理が早くてお手頃で、しょっちゅう足を運んでいた。カウンター席にはなぜか男性器を象った木彫の彫刻が何体か並び、メニューに並ぶ料理名もどことなく卑猥に(考え過ぎか)感じられるのだが、それも港町のご愛嬌である。しかし、今日は宿も取ったし、館長のおすすめの「福よし」で、贅沢にも海の幸を味わうこととする。南三陸町を経由して、BRT(もともと線路だったところを道路にして走るバス。一般車道も走る)で気仙沼を目指す。おっと、予定よりも遅刻気味。それでは、ごーへー。
「ごーへー」は気仙沼で使われる方言だが、もともとは船乗りの言葉だ。漁師ばかりの港街では、船乗り用語が漁師でない人にとっても方言として定着している。「ごーへー」とは「Go ahead」から来ていると教えてくれたのは、まん丸い眼鏡の気仙沼館長だ。館長が案内してくださった「福よし」は、マンガ『美味しんぼ』にも登場し、日本一焼き魚のうまい店として紹介されている。
さて、板長の目の前という贅沢なカウンター席でメニューを眺める。単品もあるが、おまかせコースの「今日の魚のいいところをみつくろってお出しいたします 遠方よりの方にはなるべく地元の魚を そしてめずらしい物をと心がけております」という心意気に惚れる。3千円から6千円までの幅があるが、これは品数が変わるわけではなく、供される魚の種類が変わるのだという。せっかくならば、焼き魚の頂点として名高い喜知次(キンキ)をいただきたい。が、しかし、この日は他の座敷で注文が殺到したらしく、売り切れとのこと。おとなしく3千円のコースを選ぶ。
下戸の気仙沼館長の横で申し訳ないが、次から次へと並ぶ海の幸に酒が進むこと進むこと。さばいたばかりのホヤには感動すら覚える。臭みもなく、果実のように、口の中でするんとほどける。目の前では板長が、華麗な包丁さばきで皿から溢れんばかりの刺盛りを用意している。
そうこうしているうちに、遅番を終えた本吉の館長もやってきた。聞けば、板長と本吉館長は同級生で、気仙沼館長がその先輩に当たるんだそうだ。包丁の手を止めた板長が、カウンターの奥にあった古い冊子を見せてくださった。それは気仙沼で事業を始めた会社の社長がまとめた社史で、港街のかつての姿をおさめた写真がいくつも載っていた。とりわけ目を引くのは、見開きに掲載された、台風が行くのを待つ日の漁港の写真である。普段なら時間差で沖合に出ていて揃うことのない大小さまざまな漁船が、港街にぎっしりと整列する。その壮観たる様といったら。
「おー、そうそう、嵐が来る日っつったら、こんな具合だったなあ」
気仙沼館長が覗き込んで言う。復興に向かいながらも、港には深い傷跡が残っている。あの日のままに残された廃墟も少なくない。台風は難儀だろうが、賑やかさを取り戻した港で、すべての漁船が一堂に会する様を自分の目で見てみたい。
お名前を出して良いものか迷ったが、まもなく定年を迎え(まったくそんなふうには見えないのだが)、これからよりいっそう創作に打ち込んでいくのであろう本吉の館長について、やはりご紹介しておきたい。本吉図書館長として震災を迎え、2014年度には気仙沼図書館長を務めて、再び本吉に戻られた館長は、千田基嗣(ちだ・もとつぐ)氏という。先出の菅野青顔を「仙人館長」と紹介していたのはこの方である。おやじギャグにならなくて残念だが、彼にそのような愛称を与えるとしたら「詩人館長」か。
若き日から詩誌『霧笛』の同人となり、宮城県詩人会や宮城県芸術協会の会員でもある。これまでに詩集を4冊出版し、自作の詩「半分はもとのまま」で第49回宮城県芸術祭2012年度文芸部門宮城県知事賞、「船」で第15回白鳥省吾優秀賞を受賞している。気仙沼演劇塾「うを座」のスタッフでもあり、時にはバンドのボーカルとしても歌う。菅野青顔と詩人・熊谷龍平の「気仙沼自由芸術協会」の後裔として、「気仙沼自由芸術派」を名乗る館長は、会議でも時折セクシー発言のある陽気でチャーミングなロマンス・グレーだが、その詩はぐっと腹に沈み込むような静けさを湛えている。
そこに異物がある
そこに異物がある
異物になり果てた禍禍しい遺物がある
風景に溶け込むことのない異物がある
かつてはこのまちを養った鉄の塊が居座る祈れ言祝げ鎮魂せよ
現存する形のある記憶として
手をあわせよ「船」から一部抜粋
千田基嗣『詩集 湾 III 2011~14』気仙沼自由芸術派、2015、p.26
鹿折地区に打ち上げられた第18共徳丸を歌った詩だ。この詩は、詩集の挿画を手掛ける常山俊明氏のスケッチとともに絵葉書として印刷され、被災後の気仙沼を訪れた人々に手渡された。
2011年の春。鎌倉のぼろアパートで、収束の見えない非日常と無力さを抱えて鬱々として暮らしていたおれも、ある意味では被災者だろうが、惨劇に直面した街の心情を真から理解することはできそうにない。
失われだごど
押し流されだごど
むがし有ったのに
もう無ぐなったもの記憶を消しだい
のに
思い出して
思い出されで思い出されでわがんね
「ながったごどのように」から一部抜粋
千田基嗣『詩集 湾 III 2011~14』気仙沼自由芸術派、2015、p.32
「ながったごどのように」月日は過ぎる。しかし、なかったことには決してならない。ただ、あんなことがなければ、おれは気仙沼という街を訪れることなく暮らしていただろうし、千田館長にも、現気仙沼館長にも会えなかっただろう。
「今日はやたら鯛が上がったもんで」
終盤に板長が出してきたのは、一人まるごと一皿の、鯛のお頭のあら煮だった。なんと贅沢な3千円コースなんだろうか。ぷるんぷるんの目玉をつつき、「鯛の鯛」が出てくるまで脂がのった身をいただく。もう立ち上がるのも億劫なほど腹いっぱいだ。
外に出ると、漁火に照らされた海面がゆらゆらと光っていた。また、呑みましょう。次はぜひとも、ご案内させてくださいね。
(つづく)
執筆者紹介
- 小説家、ライター、図書館コンサルタント、ときどき歌手。大学・公共図書館の司書を経て独立後、アカデミック・リソース・ガイド株式会社(ARG)へ参画。文化施設のアドバイザーとして日本各地を飛び回る。雑誌や書籍のライターとしても活動しており、インタビューを担当した『ファンタジーへの誘い』(徳間書店)が2016年6月に刊行された。ブログ「醒メテ猶ヲ彷徨フ海」を2005年から継続更新中。夜ごと立ち呑み屋に出没する呑んだくれ。
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