読書のためのスターター・キット

2014年8月24日
posted by 仲俣暁生

お盆も過ぎ、そろそろ暑さも和らいでほしい今日このごろ、電子書籍をめぐる話題も、7月のブックフェアが終わって一段落なのか、あまり大きな動きがありません。そこで今回は、雑談めいた話題で書いてみようと思います。

毎年夏になると、書店ではさまざまな出版社による「文庫フェア」が行われます。比較的小さな書店でも、店内の一角にそのためのスペースをとり、「新潮文庫の100冊」や「カドフェス2014(角川文庫)」や「ナツイチ2014(集英社文庫)」などが展開されている光景は、夏の風物詩としてすっかり定着しました。むしろ、いまやルーチン化しているのではないか、とさえ感じるほどです。

こうした「文庫フェア」は、現在はネット上でも同時に展開されています。それぞれの特設サイトにはラインナップされた本の紹介文があり、本の一部が立ち読みでき、気に入った本はネット経由で購入できるのですが、残念なことに、フェアに選ばれる作品の多くが、いまだに電子書籍化されていません。

文庫化作品ならば、親本が出てからすでに3年程度(あるいはそれ以上が)経っているはずですし、売上の実績もある。つまり電子書籍化へのハードルは相対的に低いはず。選書の際には紙と電子の双方で売れるタイトルを吟味し、電子化されていないものは、フェアの実施にあわせて戦略的に電子化を行ってほしいものです。

読書専用端末を「読書への入り口」にする

こうした夏の「文庫フェア」は、書店の店舗での販売を支援するという側面が大きいでしょうから、電子書籍と100パーセント連携するのは――人気作家の電子書籍化が進まないこともあり――なかなか難しいのかもしれません。

しかし読者の側からみれば、「文庫フェア」は格好の「読書への入り口」です。電子書籍とうまく組み合わせることで、より機能する「読書への入り口」をつくれないでしょうか。それを仮に、「読書スターター・キット」と呼ぶことにしましょう。

電子書籍の市場が順調に拡大するにつれて、汎用タブレットやスマートフォンでも電子書籍が読めることが認知されつつあります。そのためか、ブームの当初は大いに取り上げられた「読書専用端末」(Kindle PaperwhiteやKobo Glo/AuraやBook Live! Reader LideoやSony Readerなど)は次第に話題にならなくなり、新製品が出るペースも落ちています。

ちなみに、鷹野凌さんが「東京国際ブックフェアを見て歩いた4日間」という記事で紹介してくださったとおり、今年のブックフェアでDNPが参考出品した小型の読書専用端末「honto pocket」は、人気ミステリ作家などのシリーズ全巻を収録して販売することが検討されているようです。

しかし「シリーズ全巻」のまとめ買いは、電子書籍化により本の単価が多少は安くなろうとも、マニア以外にはハードルが高すぎます。とくに「honto pocket」の場合はネットにつながらず、外部端子がなくコンテンツの入れ替えが不可なようなので、「無料のサンプルを入れておいて、気に入ったら購入」というわけにもいきません。

ならば、もう少し現実的な方向で「読書スターター・キット」を実現できないものでしょうか。

たとえばミステリやSF、あるいはその他のジャンル小説でも、毎年の「ベスト10」とか「オールタイム・ベスト」といった選書の企画がしばしば行われます。新書や人文書、ビジネス書等でも、「新入生に読ませたい」「新社会人に薦める」といったフェアや雑誌上での企画は年中行事といってもいいでしょう。

そうしたテーマごとの「選書」をそのまま収録した読書専用端末の実現は、さほど難しくないはずです。プリインストールするのは、さしあたり「サンプル」だけでかまいません。その分野やテーマ、ジャンルごとの「お薦め本」のサンプルが、10冊なり100冊なりプリインストールされた読書専用端末を、現実の書店の店頭にならべて売る、というアイデアは無謀でしょうか。

実際、電子書籍のサンプルのプリインストールは、すでに行われています。しかし、理想的な「読書スターター・キット」となるためには、プリインストールされる本が顧客のために、言葉の本来の意味で「カスタマイズ」されていなければ意味がありません。たんなる売れ筋本の宣伝や、誰がどういう理由で選んだのかわからない「お薦め本」では、かえって逆効果です。

となると、ジャンルや読者のバリエーションに対応するため、なるべく多種多様なプリインストール端末が必要になります。そのためにはプリインストールする本を簡単にカスタマイズできる仕組みが不可欠です。たとえば、読書専用端末をプレゼントする際に、贈る側がプリインストールする本まで指定できる仕組みはどうでしょう(もちろん、最後まで読める製品版を同梱してプレゼントすれば、もっと喜ばれるはずですが)。

「本棚」ごと基本図書をプレゼントできたら

電子書籍が巷の話題になりはじめたとき、「小さな端末に1000冊の本が入る」「大量の本を持ち運べる』などとよく言われました。しかし省スペース化や持ち運びの便宜といったメリットが喧伝される一方で、肝心の「1000冊」は、あくまで読者自身が自力で選ぶことが前提となっていました。趣味嗜好、興味関心は人それぞれですから、基本的にはそれでいいのですが、現実問題として、人は自力だけでは1000冊もの本を選べません。

なかには、プリインストールなんてとんでもない、スッピンの電子書籍を手に入れて、自分で「本棚」を育てていくのがいい、という人もいるかもしれません。でも、それなりにコンセプトのある「本棚」をまるごとプレゼントされたら――たとえそれがサンプルばかりでも――楽しいものです。本はコンテンツだけでなく、どの本とどの本が並んでいるのか、というコンテキストにも価値があるもの。それに、サンプルを読んで気に入ったタイトルがあれば、紙の本で買ってもいいのです。

わが身を振り返ってみると、本の世界を自分なりに知りはじめたのは中学生の頃でした。当時もっとも重宝したのは、SFやミステリといったジャンル小説の「ガイドブック」です。いわばこれが私にとっての「読書スターター・キット」でした。

こうしたガイドでジャンルの概略と歴史を知り、そのなかに自分なりに興味をもてる本が何冊かできればしめたもの。自分のなかにジャンルの地図ができれば、読書ははかどります。好きな作家はコンプリートしたくなります。うまくいけば十年、数十年もそのジャンルの本を買い続けてくれる、忠実な読者のできあがりです。

夏の「文庫フェア」は、あるいはまもなくはじまる「読書の秋」関連フェアは、本来はそうしたビギナー読者のためであったはずです。またあらゆる分野において、「どの本から読んだらいいのかわからない」という初心者が、いつの時代もつねに存在します。逆にベテラン読者のなかには、「国産ミステリならまずはこの100冊から」といった選書をしてみたい、という人もやまほどいることでしょう。いわば、在野の「ブックディレクター」です。

現状の電子書籍サービスでは、読書専用端末のユーザー・アカウントがクレジットカードの情報とひもづいているため、サンプルのプリインストールにはプラットフォーム側の協力が欠かせません。誰もが思いつきそうなわりに、多様なプリインストール・モデルが実現しないのは、その仕組みづくりが思ったより大変だからでしょうか。

あらかじめ本をインストールして読書端末をプレゼントするには、いまのところ手動でせっせと「お薦め本」のサンプルをダウンロードするくらいしか、うまい方法が思いつきません。親が子どもに読書専用端末を買い与える際なら、どうせお財布(クレジットカード)は親と一緒なので、それでもいいでしょうが、友だちに本をプレゼントするなら、いまはまだ紙の本のほうがよさそうです。

というわけで、これはあくまでも理想的な「読書のスターター・キット」をめぐる夏の夜の儚い夢にすぎません。でも、この程度のサービスは、近い将来に実現できないものでしょうか?

電子書籍による「電子書籍のブックガイド」

……と、ここまで書いたところで、ハッと気づきました。100冊程度の本のセレクションをするだけなら、「読書スターター・キット」として役に立つブックガイド自体を電子書籍にすればいいのでした。そして悔しいことに、そのような電子書籍はすでにあるのです!

アマゾン文藝春秋が、いずれも「電子書籍で読める本」の「ベスト100」を電子書籍として無償頒布しています。ただしこれは、どちらもストアにおける売上の上位作品を選んだもので、「売れ筋」という以外のコンテキストがありません。

また新潮社も、「新潮文庫の100冊」とは別に選んだ2014年版の『高校生に読んでほしい50冊』『中学生に読んでほしい30冊』という電子書籍を各ストアでやはり無償頒布しています。しかしこれは紙の本から選んだ「50冊」と「30冊」が紹介されているだけで、この電子書籍から電子化されている作品そのものをダイレクトに買うことはできません。

一方には売れ筋を反映しただけの「ベスト100」、もう一方には青少年向けの啓蒙的でオーソドックスな選書。いずれも現代の「読書スターター・キット」としては、少々もの足りません。これだけ多種多様な本が出ているいま、個別のジャンルや読者層にもっとカスタマイズされないかぎり、本当の意味での「読書への入り口」にはなりえない気がします。

切り口が斬新で信頼に足る「読書スターター・キット」が、多くのジャンルや分野に向けて生まれてきてほしい。そしてそれらの本は、電子書籍として読書専用端末などから簡単にアクセスできるようになっていてほしい。でもいまはまだ、多くのジャンルにおいて基本図書となる本さえ、十分に電子化されていないのが実情です。

夏の「文庫フェア」にラインナップされる主要な作品だけでも、すべて電子化される日が早く来ることを願ってやみません。

執筆者紹介

仲俣暁生
フリー編集者、文筆家。「シティロード」「ワイアード日本版(1994年創刊の第一期)」「季刊・本とコンピュータ」などの編集部を経て、2009年にボイジャーと「本と出版の未来」を取材し報告するウェブ雑誌「マガジン航」を創刊。2015年より編集発行人となる。著書『再起動せよと雑誌はいう』(京阪神エルマガジン社)、共編著『ブックビジネス2.0』(実業之日本社)、『編集進化論』(フィルムアート社)ほか。