最終回 床が抜けそうにない「自分だけの部屋」

2014年7月10日
posted by 西牟田靖

自宅に本棚を持ってきてからというもの、蔵書の数は格段に増えていた。ネット書店を利用し、多いときで月に30冊以上、一度に20冊近くというペースで買っていたからだ。本を書くのには資料となる本がとにかく必要となる。事実の裏取りをしたり、考え方を深めたりするためだ。図書館で借りて済ませなかったのは返却が面倒くさかったし、しばらくは手元に置いておきたい、という理由からだ。また4畳半の床抜けアパート(シリーズの第1回を参照)で受け取ってそちらに置いておかなかったのは、歩いて20分以上もかかるため、行くのがおっくうになり、足が遠のいてしまったからだ。

床抜けアパートから持ってきた二つの本棚のうち、図書館書棚(木製、幅90 ✕ 奥行29.5 [上部17] ✕ 高さ215センチ)は南向きのサッシに直角の向きで設置していた。隣の子ども部屋との間にあるふすまをふさがないために、サッシの上のカーテンレールを外し、本棚をサッシに密着させていた。本に直射日光が当たらないよう、雨戸は閉め切ったまま使わなくなった。本棚とベッドに挟まれた床(約50センチ)には本の入った段ボール(岩波講座「世界歴史」シリーズ、自著のストック)やら、買った本やらを30センチほどの高さまで床に積み上げていた。

床抜け騒動が起こってからというもの、作品を作ることで頭がいっぱいで、部屋のレイアウトや仕事の収支について、考えがまるで行き届いていなかった。とくに2013年は惨憺たる状況で、百万円に届かないほどにまで収入は落ち込んだ。それでもすぐにお金になる書き仕事はせず、取材や執筆に打ち込んだり、本を買い増したりしていた。

修復しがたい亀裂

昼ご飯の弁当を作ったり、子どもを保育園に送りにいったり、休日になると一緒に公園に連れていったり、ときどきは夕食を作ったりとそれなりに家事をこなしていた。だが家計にしろ、家事にしろ、妻の比重のほうが大きかった。そうした妻の頑張りに対し、申し訳ないと思いつつも、根本的に不平等さを解消しようという努力は、忙しさにかまけて、していなかった。それでも家族関係は悪くないと思っていた。娘とはいつも心を通わせていたし、妻との関係も良好だと信じ切っていた。そもそも妻が僕の読者だったことがきっかけで二人は結婚に至ったのだ。作品作りを優先させる生活態度を理解してくれていると信じていた。

ところがだ。どうしてもしなくてはならない取材のため、2週間ほど家を空けて帰ってきた昨年11月の下旬、夫婦関係は突如、危機的状況に陥った。家事や家計の負担の不公平や生活空間を圧迫する蔵書についての不満を妻に切り出された。

「夕食はときどき作ってくれるけど、子どもの寝付かせは私にまかせっ放し。家計にしても私の方がずっと多く負担してるよね。どうしてちょっとしか家にお金を入れてくれないの。コンビニででもバイトすればいいじゃない」

「あと、たくさんある本、どうかならないの。日の光が入らないから、部屋が死んでる。すぐにでも本を動かしてよ。実家かトランクルームに移動させたらどう。新しい物件を借りるというのは考えないでね。敷金礼金を払う余裕があるんならその分を家に入れて」

ショックを受けつつも、僕は手をこまねいた。

すると2週間がすぎた12月半ば、別れ話を切り出された。

さらに年末年始には義父母からも別れるように言われ、別居が既定路線となった。

蔵書の行方

愛して結婚したのだから別れるなんてとんでもなかった。娘だってなついている。関係を修復するためだったら、できるだけのことはするつもりだった。

対策を打つにあたって一番のネックとなったのは、1998年に突然失踪した友人の事件についての取材・執筆だった。以前から付き合いのある大手出版社の編集者が事件に興味を持ってくれ、ぜひ本にしたいと乗り気になってくれていた。11月に2週間も家を空けたのもその事件を取材するためだったのだ。

その事件について、次の通り振り返っておく。

失踪した友人の名は辻出紀子。三重県内の出版社で編集者兼記者をしていた。休暇をとってタイの難民キャンプに取材に行き帰国したのが1998年11月23日。翌24日、出社し残業をこなしてから退社したのが午後11時すぎ。車で数分離れたところにある駐車場で知人Uと会ったあと、行方がわからなくなってしまった。知人Uによる犯行説、北朝鮮拉致説、県内の売春島で監禁説、難民キャンプ逃避行説などが浮かぶも、真相は闇の中である。

辻出さん失踪の真相を知るべく、2013年の夏以降、僕は本腰を入れて取材してまわっていた。年明けまでに取材を終えたあと、約300枚の原稿として提出するつもりだった。編集者との約束で、原稿を仕上げるタイムリミットは今年の2月末。時間がなさすぎたが、いなくなってしまった彼女の「供養」のためにも、これだけは何が何でも仕上げなくてはならなかった。

悲惨な事件についての取材執筆に全力投入しながら、妻との関係が壊れるのを防ぐというのは、至難の業だった。だが、これはやり遂げるしかなかった。バイトをして家にお金を入れたり、蔵書をすべて動かしたりするのは、どちらもかなりの手間がかかってしまう。そんなことをすれば時間切れとなり、作品が完成しない。そのかわり率先して家事に取り組むことにした。妻が家にいない間や寝ているタイミングにこっそりと家事をこなすと、妻の負担を劇的に減らすことができた。これまでの家事負担率はだいたい3:7だった。そこからから6:4または7:3へと割合を逆転させることができたと感じた。

作品執筆の追い込みに入っていた2月半ば、家庭は平和な状態に戻っていた。妻の表情は明るくなり、僕への感謝の言葉も言ってくれるようになった。2月以降も娘を同じ保育園に通わせるために必要な納税証明書を月初めに求められたこともあり、別居回避の手応えを感じ始めていた。

しかし現実はそんなに甘くはなかった。僕の見通しは妻の一言によって覆された。

「最近、機嫌がよくなってたのは家事をいろいろやってくれるってことの他に、ここまで手続きを進めれば別れられるという目処がたったからよ」

そう言って、妻は保育園を転園するための申請書を取り出した。

「4月からは実家のそばの保育園に通わせるつもりなの。書類に名前を書いてくれる?」

妻の覚悟を前に、もはや縒りを戻すことは難しい、と僕は悟った。

ここにきて蔵書問題は別居後の居住問題へと本質が一転することになった。

本をどこへ持っていくか

「失踪事件の原稿を2月末に提出したら、定職に就いたり、本を移動させたりするから待って欲しい」

1月半ばから妻にはそう伝えていた。口だけではなく実際、考えたり動いたりしていた。仕事については求人情報をいろいろと見ていたし、本を移動するための物件も探していた。

蔵書を移動する方法として、自分の実家に送ったり、トランクルームを利用したりするようなことは考えていなかった。大阪の実家に置けば、本がすぐに使えず、半分死んだような状態になる。トランクルームは3畳で4万円程度するため下手すればアパートの家賃よりも高いし、書斎としての機能も期待できないからだ。

物件を探し始めた1月半ばの時点では、引き続き同居する可能性がかろうじて残されていた。別居なんて考えたくなかったが、そうなっても対応できるよう、自宅からそう遠くない部屋を探した。

自宅に置いてある本と「床抜け」アパートに置いてある本の合計約2000冊をなるべく収納できる、広さと床の強度を持つ部屋。家に月10万円を入れても何とか払い続けるため家賃は5万円以下、家のある中野区野方から徒歩15分以内。これらの条件をできるだけクリアできる物件を探した。

このあたりは売れない芸人や売れない作家が多いエリアだけあって、一人用の物件は多いし、都区内の割に家賃は比較的安かった。それでも検索でヒットするのは風呂なしの木造アパートばかり。鉄筋コンクリートの部屋は数えるほどしかなかった。

以前いたシェアハウス(第1回を参照)が残っていれば話は早かった。しかし、そこに戻ることはできなかった。というのも最後に残った友人のMは、シェアハウスとして使っていた一軒家をすでに引き払っていたのだ。

1月末ごろになってようやく「これだ」という穴場的な物件がヒットした。家賃4.1~4.3万円、6畳+4畳半でトイレとキッチン付き、風呂なし、しかも鉄筋コンクリート造り。外観からしてかなり古そうだったが、 だからこそ出てきた掘り出し物なのだろう。住んでいる家からは徒歩15分と許容範囲ギリギリ。しかしこれ以上、良い条件の物件はおそらく出てこないと直感的に思った。

というわけでさっそく内覧させてもらった。高円寺駅から北に徒歩7~8分のところにあるその物件は、思ったとおり古かった。推定で築40年といったところだろうか。フローリングの床の塗装はところどころ薄くなっている。手前の4畳半にはキッチンがついていたが、シンク下を開けると水垢のせいなのか、腐ったような臭いがした。ベランダと部屋を仕切っているサッシに嵌め込まれた針金入り強化ガラスはひびだらけ。しかもサッシ自体立て付けが悪く、開閉が困難な状態だった。

そうした経年劣化はあったが、鉄筋コンクリートの床はこれらの短所をすべて払拭する安心感があった。

天井がフラットだから突っ張り本棚も置けるというのも気に入った。手付け金を払い、さっそく仮契約を結んだ。

机の上にベッドを置く

前述の通り、妻が書類を持ってきたことで、2月半ばに別居が決定的となった。

それを受け、新物件に住むことを決めた。自宅と書斎、両方の家賃を払い続けることが僕の収入では不可能だからだ。

キッチンのない奥の6畳間に大型本棚を置き、そこで仕事をすることは物件を内覧したときにすんなり想像できた。問題は寝る場所だ。ダブルベッドは大きすぎて持って行けないので、布団かシングルベッドで寝るしかない。キッチンに布団を敷くのは冷蔵庫の音もあって落ち着かない。かといって奥の部屋だと本棚と机に挟まれて寝ることになり、これまた落ち着かない。

解決策として思いついたのが、机の上にベッドを置くという方法だった。二段ベッドの上段を寝床にし、下段は机という風にすれば、部屋を広く使えるし圧迫感なく寝られるだろう。ネットのショッピングサイトではそうしたベッドのことを、「ロフトベッド」と呼んで売っていることがわかった。ロフトベッドにあわせて、一枚板の超ロングデスクを新調することにし、床抜けアパートを引き払う前の日取りで届くように注文した。

荷物を入れる前の風呂なしマンション。ロフトベッドをとりあえず入れた。

蔵書をどのぐらい持っていくのかも問題となった。それについては、今までに取材させてもらった方たちのケースを振り返りながら、解決法を考えてみた。

書庫を作る以前、松原隆一郎さんは6畳の畳部屋と3畳のキッチンからなる木造の和室を書庫とし、そこに合計17棹の本棚を置いていた(第10回を参照)。実際に床が抜けた体験を話してくれた軍事評論家の小山優(仮名)さんは2DK(合計18畳)の壁にくくりつけの本棚を設置し、5000〜6000冊を収蔵していた(第2回を参照)。

新居の居住空間は合計で10.5畳。小山さんのところよりは狭いが、松原さんのところよりは広い。とすると壁をすべて本棚にすれば置けなくもない。だがその場合、かなり圧迫感がありそうだ。松原さんはそうした事情から9畳間分の書庫での作業は断念したというのだ。小山さんにしても床が抜けるぐらい置いていたというのだから、居心地は似たり寄ったりだったはずだ。

武田徹さんや大野更紗さんは蔵書の電子化をかなり進めていた(第9回を参照)。武田さんの場合は新しいことへの挑戦という意味合いがあり、大量の本を電子化した。しかし彼は、物体としての本の存在感が消えてしまったことをあとでずいぶん悔いていた。

大野さんのやり方は武田さんと対照的だった。サバイバルするために自炊していたのだ。というのも、難病患者である彼女にとって、かかりつけの病院がそばにあるということは生きていくための絶対条件だったからだ。都心にあるその病院の近くに物件を借りて住むには、あまり広い居住空間は望めない。しかし本は読みたい。本はスペースをとる。そうした条件をすべてクリアするために、残す紙の本を最小限にとどめ、あとはすべて電子化するという方法を大野さんは採用していた。

話を僕のケースに戻そう。

新居には寝泊まりするための空間のほかに、冷蔵庫や衣服、食器といった生活必需品を置く場所を作らなくてはならない。本を置くにしても閉塞感に苛まれないよう、居住性を重視した余裕あるレイアウトにしなくては、長く住めない。

とすると、仕事をする気にすらならない松原さんの旧書庫や、床が抜けた軍事評論家の部屋は参考にならない。まして草森紳一みたいに本の中で息をしているかのような、いっさい居住性を考えない方法は難しい(第4回を参照)。かといって内澤旬子さんのように(第3回を参照)どさっと捨てる勇気もない。

いろいろ考えたのち、採用したのは大野さんと武田さんの方法だった。最小限の本を持ち、あとは電子化という大野さんの管理法、一気に大量の本を電子化した武田さんの手法をミックスして、解決に当たることにした。

人生のアーカイブ

3月5日の自分の誕生日はケーキを囲み、妻や娘と「ハッピーバースディ」を一緒に歌った。三人で一緒に子どもショーを見にいったり、井の頭公園に行ったり、家族団欒の時間を大切にしようと思い、残りの日々をかみしめるようにして過ごした。

3月末からの一人暮らしに向けて、まず手をつけたのは、床抜けアパートにある本棚と机の処分だった。本の大半を電子化してしまうのだから、本棚は必要なくなるし、そもそも置く場所がない。

部屋の真正面には机が二つ並べてあった。段差があり、使い勝手は大変悪かった。ロフトベッドにあわせて机を新調したのはそうした理由からだった。

収納してあった本はトータルで800冊ぐらいだろうか。以下、本棚の特徴とともに蔵書の特徴を記してみよう。机の右側には幅と高さが90センチの棚を二つ並べて置いていた。その中には30代前半のころまでに買った、資料としては使用済みの単行本や、駆け出しのころ仕事をさせてもらった掲載誌(サブカル雑誌「GON!」や『地球の歩き方 インド編』など)を置いていた。また、本棚の上にはA4判以上の図鑑や箱入りの図鑑を並べていた。

机の左側真横には高さ90センチ✕幅45センチの茶色い棚を二つ並べ、その上に幅90センチ✕高さ55センチの白い本棚をのせていた。それらの本棚には文庫本を置いていた。

机から向かって左背後には高さ1メートル四方、前部がスライド書棚になっている茶色い本棚を置いていた。もともと自宅に置いてあったが、突っ張り本棚と図書館書棚と交換する形でアパートに持ってきたのだ。本棚のスライド部分を設置すると、奥の棚に安心して置けるのはせいぜい文庫本がいいところで、単行本を置くと引っかかってスライドできなくなる。それが嫌で外して本棚の上に置いていた。そのコーナーには国境関連の本や最近読んだばかりの本(主に新書)や確定申告の書類、使いつぶしたノートの類いが無造作に突っ込んであった。

このうち、廃棄することにしたのは、奥行きのある本棚3棹とメインの机だった。

2棹の90センチ四方の本棚にしてもスライド式の本棚にしても、奥行きが30センチ前後あった。前者の棚はあまり本棚向きではなかった。本を置くと一冊分奥行きが余るし、かといってそこに本を置くと背後の本が見えなくなるのだ。スライド書棚はその心配がないように設計されてはいたが、前後ともに判型の小さな本しか置けずに不便だった。どちらも使い勝手が悪かったし、奥行きがありすぎて邪魔にも感じていた。一方、メインの机は新しく購入した一枚板の180センチの机となるのだからもはや必要がなかった。

2月末に粗大ゴミ回収券を購入し、金曜だった3月7日の夕方、アパートへ行き、粗大ゴミの搬出をした。机は天板と側板をバラバラにして一階までおろし、建物を覆っているブロック塀に立てかけた。本棚は中に入っている本をすべて出した後、外に運び出した。粗大ゴミを運び終えると、見える位置に回収券を貼っておいた。翌朝、業者に回収してもらえるようにするためだ。

床抜けアパートから本棚を粗大ゴミに出した。

部屋に戻ると、2000年から3年かけて日本中やその周辺地域をまわったときに使った原付バイクの備品や、砂埃のついたままのキャンプ用品といった金属ゴミをビニールにまとめ、ゴミ置き場に置いてから、自宅に戻った。

数日後、アパートに行くと、粗大ゴミや金属ゴミがすべて回収されているのが確認できた。次に手をつけたのは膨大にたまった書類やフィルムだった。これについては捨てるかどうか、けっこう悩んだ。

極力何でも取っておく主義でいままではきた。本を制作する途中に使った赤字だらけのゲラの束、取材旅行中に手に入れた各地の観光用資料や切符。使用済みのネガやポジフィルム、そしてプリント…。曲がりなりに20年近くもライター稼業をしていると、あらゆるものがたまりにたまっていた。衣装ケースや引き出しに詰め込まれた状態で、そうしたゴミとも宝ともいえない、僕の人生のアーカイブが押し入れの中に圧縮されていた。

そうした普段つかわないものがいつかアイディアの源泉になるはずだと信じていたし、実際に記事を書く上で参考になったりもしたが、10年以上使わないとさすがに単なるゴミとしか思えなくなってきた。

若いつもりでいた僕も数日前に44歳になった。本はまだまだ使いこなす気満々だが、それ以外のアーカイブは今後、しっかりと整理しなければおそらく使いこなせない。それに紙で書いたものやテキストの日記、ネガやポジの使用済みフィルムやデジタル写真といったアーカイブは、「基本的に残す」という方向でいくにしても丸ごとすべてとっておく必要はない。

ゲラも同様の方法で取捨選択した。編集者からコテンパンに赤字を入れられたものは残すことにした。どうやって本を作っていったのか、どうやってその文章は紡がれたのか、といったことのメカニズムを理解するための有力な参考資料になるからだ。今後、書くことに行き詰まったとき、このゲラを眺めればヒントになるかも知れない。かといって、ほとんど中身が変わらないのに、一束1センチ以上のゲラを律儀にとっておくのはちょっと過剰ではないか。こうしたものは捨てることにした。

紙の束としてまとめられる物については、月曜日(3/10)の紙ゴミの日にあわせて、紐で縛ってゴミに出した。掲載紙などは必要なところだけ切り取って、片っ端から捨てた。すると紙ゴミは6束になった。紙ゴミを出した後は、火曜日(3/11)の朝に出す「燃やすゴミ」をまとめた。これは合計で13袋にもなった。その日は、午後から新居の風呂なしマンションへ行って、ロフトベッドと机が届くのを待ち、組み立てた。

この日から妻は娘を連れて、姉一家の住む台湾へ一週間ほど出かけてしまった。一緒に過ごす残り少ない時間がさらにごっそりと減ってしまった衝撃は大きかった。しかし一方で、その時間を使ってアパートと家にある本をすべて移動したり、電子化の手はずを整えるのに集中できたりしたことは、作業効率的にはプラスだった。

ゴミ出しを終えた後、いよいよ本の選定に入った。

本は基本的に残すか、電子化するかの二者択一で処理した。約800冊のうち、自炊代行業者に送ることにしたのは574冊だった。ある程度の分の料金をPaypalで支払った。「5営業日コース」は一冊150円、「のんびりコース」は100円で、どちらも本のタイトルをファイル名に入れてくれるし、OCR化もしてくれる。注文し手に入れていた80サイズ(幅34.4 ✕ 奥行25.4 ✕ 高さ17.8センチ 内寸法)の段ボールを30箱分、自転車に乗せてアパートへ。そして本の数をカウントし、注文書を書きながら箱詰めしていった。

自炊代行業者に本を送る。

とりあえず10箱分、「5営業日コース」のものばかり詰めると233冊になった。やたら場所をとっていた、近代史をテーマにした19巻組の図鑑は思い切ってすべて電子化に回した。おそらくiPadでは読めないが、引っ越しで持っていく手間を考えるとおっくうすぎる。それに棚に並べきれずダンボール箱の中などで死蔵されるよりはましだろう。そんなわけで悩んだ末に電子化するほうが得策だと結論を出した。OCR化されるから検索が楽になるという特典もあるのだし。同じような理由で沖縄の4巻組の大辞典なんかもばっさりといくことにした。まあ、これに関しては買ったときの状態がもともとかなり悪かったので、紙のまま持っていたくないという理由もあった。

残すことにしたのは雑誌類である。ホチキスで留められたタイプは業者が受け付けないのだ。それに雑誌は書籍に比べると希少性が高い。あとで読もうと思っても、大宅文庫に足を伸ばすか、立川にある都立多摩図書館、または国立国会図書館といった特殊な図書館に行かないと閲覧できず、面倒くさい。あと著者のサインが入った本も残すことにした。

入居時と同じ業者に立ち会ってもらう

残す本を選ぶ作業は引っ越しの当日である12日朝になっても、終わる気配がなかった。15日まで部屋を押さえていることもあって、本の選定作業は後回しにした。 10箱分を箱詰めし、本を壁ぎわに置いた状態で、引っ越し業者が家に来ることになった。頼んだのは2年前にこのアパートに越してきたときにお願いしたのと同じ「便利屋お助け本舗」だった。今回は、床抜けアパートから風呂なしマンションへの荷物の移動を担当してもらうのである。

午前11時に中野駅で待ち合わせをした。担当してくれたのは前回と同様、この便利屋の社長だった。一緒に本の運び出しをした彼にこそ、床抜け問題の終わりを見てもらいたかったのだ(第1回を参照)。僕が出向いたときには、運搬用のワンボックスで待ち合わせ場所のサンプラザ前でもう社長は待っていた。加えて、この連載の編集担当である「マガジン航」の仲俣暁生さん、この連載の書籍化に手を挙げてくれた「本の雑誌社」の編集者も駆けつけてくれていた。一人はウェブ連載「炎の営業日誌」の杉江由次さんだった。杉江さん一人だと思ったら彼はもう一人連れてきていた。今後、書籍化するための作業に関わってくれる宮里潤さんという編集者だった。聞くところによると彼は、草森紳一の蔵書整理にも関わったというではないか。なんという縁だろう。

引っ越し作業にはタレントの坂本一生がやってきた。

中野駅から車で5分ほどのところにある床抜けアパートまで、僕が原付バイクで先導した。到着すると、肉体派タレントの坂本一生がテレビクルー数人を引き連れて待っていた。というのも彼はこの「便利屋お助け本舗」のイメージキャラクターだそうで、このアパートからの引っ越しを関西ローカルの深夜番組で紹介するというのだ。まだ3月だというのに、坂本は店のロゴが入った白のタンクトップ姿で、鍛え上げられた二の腕をあらわにしていた。

新居のマンションに送る主な品は次の通りである。

・サブの机と椅子
・三つのミニ本棚
・デスクトップPCと周辺機器
・押入にあった資料の残り
・残すと決めた雑誌・書籍(約200冊)

このうち残すと決めた雑誌・書籍に関しては、空いていた衣装ケース二つか三つに詰め込んだ。資料を入れていたのだが、それらを整理したために空になったものだ。荷物の積み出しは前回に比べるとずいぶん楽だった。というのも僕は二階の共同玄関までの2メートルほどの距離を、ひたすら往復すればいいだけだったからだ。その分、社長と坂本一生さんが汗をかいてくれた。二人はアパートのぼろ階段を何度も上り下りしてくれたのだ。坂本一生さんの作業の様子からは、こう言っては失礼かも知れないが、テレビタレントとしてのプロ根性を感じた。ぶっとい二の腕の筋肉をむき出しにして、「ぬお」とか「うわっ」とか言ってさして重くもない衣装ケースを肩に持ち上げるという、いかにもテレビ写りを考えながら、大げさな態度で運んでいたからだ。

ものの30分ほどで運び終わったのだが、入れ方がおかしかったのか、意外なことに荷物がワンボックスカーに一度で入りきらず、二往復した。しかし前回のようにワンボックスが走れるかどうか心配になることはなかった。

中野駅から北東に徒歩20分のところに位置する床抜けアパートから、隣の高円寺駅北口から10分のところにある風呂なしマンションまで10数分かけて移動。エレベーターがないので、三階の部屋まで階段で運んでもらった。快晴のもと、坂本さんと社長は汗をしたたらせ、呼吸を荒くしながら運んでくれた。坂本さんはここでも「ぬおっ」とか「うわっ」と大声を出して気合を入れていた。

組み立てられたロフトベッドとその下においた超ロングデスク以外はほとんど何もない部屋が、少しずつ荷物で埋まっていったが、すべての床が埋まる気配はまるでなかった。

午後2時半ぐらいにこの日の物の移動は終了した。

社長はしみじみと、そして感慨深そうに言った。

「これですっきりしますね」と。

みなさんが帰った後、一人でアパートに戻った。さきに箱詰めが終わった10箱分を夕方、集荷に来た郵便局員に持っていってもらった。80サイズが10箱で7200円。図鑑などの大型書籍が主に入っていたため、トータルで233冊、そのうち500ページ超の本が26冊、1000ページ超の本が1冊あった。二日後の3月14日にはもう一度集荷に来てもらい、また同サイズの箱を10箱持っていってもらった。こちらは納期が3カ月以上の「のんびりコース」。トータルで341冊、そのうち500ページ超は12冊、送料は同じ7200円だった。

そうやって部屋の中を完全に空にして、15日に床抜けアパートを完全に引き払った。

荷物を完全に出した後。これで床は抜けない。

押し入れのコンパネは新居とはサイズが合わないので残していった。この2年間使ってみたわけだが、収納性に問題があり、全然役に立たなかった。そもそもこの部屋を借りずにシェアハウスにいたままだったら、床が抜けるのではないかという恐怖に怯えることはなかった。それに妻との関係も悪くならなかったのかもしれない。家に本が増えることはなく、本棚を持っていくようなことはなかったのだから。

問題の元凶となった部屋が片付いたことで、僕は安堵した。だけど一方で、床抜け問題という一大事の原因となった部屋だからこそ思い出深く感じ、この部屋を出るのが名残惜しくなった。ふと寂しい気持ちになり、何度も部屋の中を見回してしまった。

別離

妻子が台湾から帰ってくる前に、家にある本を二日がかりで徹底的に仕分けた。こちらのほうはまだ読んでいないもの、人から譲り受けた段ボール一箱分の歴史図鑑、永久保存したい名著など、捨てずに残したいと思う本が多かった。とはいえ全部残しておくときりがない。まだ読んでいないがすぐには読まない本はとりあえず「5営業日コース」で、それ以外のものは「のんびりコース」にした。前者は187冊で6箱、後者が369冊(500ページ超の本は35冊)で、11箱の計17箱(すべて80サイズ)、送料だけで1万2240円となった。

業者に送った本の数は計三回で1130冊にのぼった。そのうち500ページを超える本は73冊。電子化にかかった料金は概算で14万6380円となった。Paypalでの支払いなので現金決済のようにすぐには腹は痛まなかった。それでも古本屋に売っていれば、逆にお金がもらえるという事実にふと思い至り、すごくもったいないことをしているような気に少しはなった。

妻子は3月17日に台湾から帰ってきた。そして最後の日々を一緒に過ごした。その週は前年の11月以前の平穏な日常が戻ったような日々だった。毎朝、子どもを保育園に連れていったあとは、仕事をした。21日と22日は妻が家の荷作りをするというので、娘と二人きりで二日連続で旅行に出かけた。妻の荷作りに手を貸す気にはどうしてもならなかったし、しばらくは離ればなれになる子どもとべったり過ごしたかったのだ。

そして翌23日の朝、月初めに宣言していた引っ越し日よりも一週間早く、娘を連れて妻が出ていった。引っ越し屋が手際よく荷物を搬出し、1時間もかからずにすべての段ボールは搬出された。スチールラックやダブルベッド、電子ピアノに着物用のタンス、ダイニングテーブルと大きなものはすべて残して……。

二人が出て行った後、虚脱感に襲われた。脳の一部をごっそり手術で除去されたらこんな気持ちになるのだろうか。映画『カッコーの巣の上で』でロボトミー手術を受けたあと、ベッドに横たわるジャック・ニコルソンのうつろな表情がふと脳裏に浮かんだ。

「もしもし、西牟田です。今、妻と子が出て行ったんだよ」

いてもたってもいられなくなった僕は元シェアメイトのMのところに電話をして、すぐに来てもらった。彼は気を利かせて缶ビールとつまみを買ってきた。雑談をかわしたり映画を見たりして一緒にビールを飲み、楽しい時間を過ごした。その間は気が紛れ、妻子が出て行った寂しさを感じずにいられた。ところが、数時間後に彼が帰ると途端に寂しさが募り、呆然とした。こうなったのは妻の気持ちを顧みず、本をためまくった自分勝手さのせいだ。僕は自分を責め、家に残っていた酒を手当たり次第に、昼も夜も飲みまくった。

思い出に別れを告げる

翌月曜(3/24)の朝は紙の束をまとめた。妻はかなりたくさん物を置いていったので整理・処分は大変だった。新聞やいらない彼女の本は片っ端から捨てることにした。紐でまとめると六つほどになった。それが終わると、妻が庭に置いていった燃えるゴミの袋が気になり、数えてみた。すると45リットルのものが25袋もあった。半透明のゴミ袋の中には、歯形がついた『じゃあじゃあびりびり』という乳児用の絵本、「これいらない」と言って娘がほとんど使わなかった音の出る絵本、最近は「絵が気持ち悪い」と言っていた『いちにちのりもの』という絵本などが捨てられていた。とりあえずそれら数冊を袋から出して、家の中に置いてから、ゴミ捨て場まで6往復した。

紙の束をまとめているビニール紐を指に食い込ませながら運んでいると、ついこの間まで家にあった白くて小さな本棚のことを不意に思い出した。それは家に大型本棚を運んできたときについでに持ってきて、転用したものだ。二つの大型本棚と同様、我が家ではフルに活用されていた。中野駅前に三人で出かければ駅前の大型書店の絵本コーナーに寄っては絵本を買う、ということがしばしばだった。加えて妻の家からのお下がりや僕の家から送られてくる幼児雑誌や絵本のために、三段の棚はいっぱいになっていた。娘を寝付かせる前に絵本を選んでは読み聞かせる。面倒くさく思ったこともあったが、娘がちょこんと膝にのって僕や妻の声に耳を傾けながら、興味津々で絵を見入っているひとときは、育てている張り合いと喜びを感じられる瞬間であった。しかし、そうした親子のふれあいは当分できなくなる――。そんなことに思い当たり、しんみりした。

紙の束を出し終わった後、ダイニングの共同の本棚にほとんど置いていった本のうち、子供用の本をピックアップして並べてみた。さきほどゴミ袋からレスキューした物に、育児辞典、娘が生まれた日の新聞などが加わった。生まれるまで18時間もかかってしまい、その間妻を励まし続けたときのこと、娘が生まれた瞬間のこと、まだ歩けもしなかった娘が厚紙でできた絵本を噛んでよだれでべろべろにしていたときのこと、『いちにちのりもの』を大受けしながら食い入るようにして見てくれたときのこと、熱が出てしまい慌てて妻が辞典をめくっていたときのこと、一つ一つの思い出が表紙を見るだけで蘇り、レスキューした本を並べて撮っていたら、不意に涙がこぼれた。

持っていても場所を取るだけで使い途はないものばかり。だけど一緒に暮らしていた証拠を簡単に捨てることはすぐにはできなかった。しばらく作業を中断しては飲み、しばらく虚脱した後、引っ越しの準備を進めた。そんな行動パターンを繰り返しながら、最後の数日を過ごした。

引っ越し当日である3月30日の夕方までは、仕事以外の時間を梱包作業や廃棄物の選定などに当てた。箱はすべて120サイズ(幅50 ✕ 奥行35 ✕ 高さ35センチ程度)。本をギリギリいっぱいまで詰め込むと、引っ越し業者でも持てないぐらいに重くなってしまう。そこで服を箱の上に詰めて、クッション代わりとした。そうした本と服の入った箱が10箱ぐらいはあったろうか。電子化せずに残した本の数は500~600冊に及んだ。

大きすぎて持っていけないダブルベッドや洗濯機は業者に処分してもらった。娘ができるまでは二人で、生まれてからは三人で日々囲んだダイニングテーブルは友人に引き取ってもらった。

娘が生まれる前に二人で出かけた旅行先で買った置物、僕が北方領土からそのときまだ結婚前の妻に送った絵はがきに、新婚旅行で行ったセルビアやアルバニアで妻が書き記した旅のメモ、そして親子三人一人ずつの食器など。家に置かれた品物一つ一つに思い出がこもっていた。だけど、思い出の品を管理する場所が新居にはない。僕は心を鬼にして、思い出の品の数々をビニール袋に無造作に入れていった。

20点近くに上る粗大ゴミの中には子供用の椅子やベビーカーといったものもあった。それら一つ一つに粗大ゴミ受付済みのシールを貼って、庭に出して置いた。夕方には引っ越し業者がやってきて、手際よく2トンロングのトラックに段ボールを詰めていった。

「自分だけの部屋」での再出発

風呂なしマンションにすべての荷物を移動させてみると、床という床が段ボール箱で埋まってしまった。120サイズの箱が36箱あり、積み上げるとその高さは1.2メートルにもなった。部屋の入り口で、段ボール箱の上で食事をしたり、パソコンを開いたりと、日常のほとんどをこなさなければならないことには閉口した。

それでも一昨年に床抜けアパートへ越したときのような焦りはまったくなかった。奥の部屋の片側にはロフトベッドと机、反対側にはダイニングにあった突っ張り本棚二つと図書館書棚をそれぞれ設置していて場所は取っていたが、収納すればすべて収まりそうだった。ロフトベッドに寝る空間が確保されていたし、それに何より床が鉄筋コンクリートだということから来る安心感があった。

引っ越し前に作っておいた肉とゴボウ炒めと食べかけの玄米をレンジで温めたものを、テーブル代わりの段ボールの上に並べて食べながら、僕はヴァージニア・ウルフの本に記されたある一節を思い出していた。

「女性が小説なり詩なりを書こうとするなら、年に500ポンドの収入とドアに鍵のかかる部屋を持つ必要がある」

この一節にある部屋を、男である僕も手に入れたような気がしたのだ。確かに物書きとしての収入は心許ない。しかし他人に邪魔されない「自分だけの部屋」を得たという満足感で心が満たされていた。妻子と別れた寂しさと引き替えに得た自由をかみしめながら、部屋の片隅で再出発を誓っていた。

(このシリーズ 完結)

※この連載が本の雑誌社より単行本になりました。
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執筆者紹介

西牟田靖
ノンフィクション作家。日本の旧領土や国境の島々を取材した一連の作品で知られる。「マガジン航」の連載をまとめた『本で床は抜けるのか』(本の雑誌社)をはじめ、著書に『僕の見た「大日本帝国」』(カドカワ)、『誰も国境を知らない』(朝日文庫)、『ニッポンの穴紀行〜近代史を彩る光と影』『ニッポンの国境』(光文社新書)、『〈日本國〉から来た日本人』などがある。