第7回 マンガの「館」を訪ねる[後編]

2013年2月28日
posted by 西牟田靖

戦後マンガ史の古層を目の当たりにする

話はふたたび、最初に訪れた現代マンガ図書館に戻る。閲覧室と同じ二階の奧にある書庫に入った途端、胸や頭を圧迫されているような錯覚をおぼえた。部屋の端から端まで、人一人通れないぐらい間隔で本棚が並べられ、どれもマンガ本で満杯になっている。棚の高さは天井の梁ギリギリの高さで、梁のない部分の天井と本棚の隙間はぎっしり本が埋まっている。

現代マンガ図書館の書庫。狭い通路なのでものすごい圧迫感。

個々に集めている方はいるかも知れませんが、これだけの規模で実物がひとつのところに集まっているのはほかにないかもしれません。

案内を買って出てくれた現代マンガ図書館スタッフの長橋正樹さんは控えめにだが胸を張った。目の前の棚には昭和30年代の貸本マンガとおぼしき古い作品の背表紙がずらっと並んでいる。その時代の貸本マンガの実物だけでもざっと数百冊はあるだろうか。白土三平や水木しげるというビッグネームたちがまだ駆け出しだった、貸本マンガ家時代の作品もここには置いてある。

貴重な貸本時代のマンガも大量に保存されている。

表紙が散逸したため、集めた内記稔夫氏が自らカバーを手書きで作ったとおぼしき「手製カバー貸本」の背表紙が並ぶコーナーもなかには見受けられる。以前、国会図書館の書庫を見学したとき、その時代のマンガ雑誌をみたことはある。しかし、この時代の貸本のマンガ本をひとまとめに見たことは初めてだった。

古い貸本マンガの棚から、三階の書庫へ移動すると、景色が変わった。本棚に並んでいたカラフルな背表紙が消え、紙の断面ばかりが見える。雑誌を立てたとき下にくる「地」が手前に来るように寝かせて置いてある。寝かせてある分、奥行きが必要になる。そのため棚には収まりきらず、棚の上から下まで棚からはみ出したかたちで収納されている。しかも、通路の両側がそうした状態なので、通路は狭い。とてもじゃないがまっすぐ奧へは行けない。しかも通路によっては本や雑誌の束が紐で縛られ、背の高さぐらいまで積み重ねられていたりして行く手を阻んでいる。

増え続ける雑誌は地を手前に並べ、発行年と号数を印字して管理。

「床抜け」シリーズの第二回(「続・本で床は抜けるのか」)に一平方メートル辺りの床の強度を記した。鉄筋コンクリート造りの一般的なマンションやビルのテナントなどは300キログラム/平米、図書館は600キログラム/平米。マンガ雑誌の紙質はざらばん紙(わらばん紙)のような安価で軽い紙を使っているので、文字ベースの単行本などに比べるとずっと軽い。しかし、それでも床の強度が大丈夫なのか、気になってしまう。

何か床の補強はしているのか、と訊ねると長橋さんは苦笑した。

これといって何もしていません。床は一応コンクリートなので、抜けることはないと思うんですけどね。

床抜けの可能性があるとしても、ビル全体が本で埋まってしまった以上、すべての本を取り出して補強するわけにはいかない。大丈夫だと信じるしかない、ということのようだ。

マンガ本を集める動機

小学館が書店用に発行していた「ナマズの巣」というコミックガイドがある。以下はそこに内記氏が連載した「マンガとともに生きた私の戦後史」からの抜粋である。

内記稔夫 1937年東京神田に生まれる。小学5年生のとき、手塚治虫の漫画に出逢い、以来手塚漫画のファンになる。中学生のとき、漫画家養成講座を受講し、漫画家になる夢を持つ。高校3年生のとき、貸本屋「山吹文庫」を開業、漫画の収集を続け、1978年に国内初のマンガ専門図書館「現代マンガ図書館」(昭和3年発行の『現代漫画大観』から最新のコミックスやマンガ雑誌まで15万冊を収蔵)を設立。1997年に第1回手塚治虫文化賞・特別賞を受賞。現在、全国貸本組合連合会理事長を務めている」(「ナマズの巣」 vol.17 1999年8月)

この文章からは内記氏が貸本屋として出発し、仕事の発展の結果、店舗が図書館となったことが伺える。現在の収蔵数である約18万冊より3万冊も少ないのは10数年で3万冊増えたということをあらわしている。

内記氏が貸本屋を開業した昭和30年(1955年)はちょうど貸本の全盛期であった。それから5年がたった昭和35年(1960年)には「貸本屋は全国に三万軒、都内にも三千軒あったといわれる。小学校の数よりも多く、銭湯の煙突をめざせばその下には必ず貸本屋があった」(『ナマズの巣』第6回)と言われるほどに店の数が多かったという。内記氏はそうした貸本屋の黄金時代という時代の波に乗り、順調に業績を伸ばしていった。

入り口の手前には、創設者である内記稔夫さんの写真や遺品が展示されている。

マンガ専門の図書館を作る計画が持ち上がったのは、開業から20年の歳月が流れたあとのことだ。そのいきさつはどのようなものであったのだろうか。やや長くなるが、同冊子に掲載されている内記氏本人による回想を紹介しよう。

昭和50年の夏、難解マンガの評論「漫画主義」の同人で、当時すでに白土三平や「ガロ」系作家のマンガ評論家として活躍していた石子順造氏から、貸本屋についての取材依頼があった。高円寺の「大竹文庫」大竹正春氏ほか数名とともに懇談したなかで、石子氏は「マンガは庶民文化の一つとして、当然保存してゆくべきだ。特に貸本屋は、その恩恵に浴してきたのだから、貸本業者が中心になってマンガ資料館が作れないだろうか」と提言された。マンガ全盛の時代なのに、マ ンガ専門の図書館は皆無だった。これには皆大いに賛同して、石子氏の仕事場に近い十二荘[原文ママ。十二社の誤り](西新宿4丁目あたり)の喫茶店で打ち合わせを行ない、深夜まで論議することもたびたびあった。

(略)

そして大竹正春氏を中心に、貸本業者、ファン、貸本屋の歴史を研究している大学教授、マンガ評論家などの同志を募り、昭和51年春、マンガ資料館を目標とした団体「貸本文化研究会」を発足させた。ところが、石子氏はこの会設立の前に病に倒れ、他界されてしまったのだった。それでも機関誌「貸本文化」を発行して例会を開き、地道な活動を続けた結果、各地の貸本屋さんたちから貸本マンガの寄贈やカンパが少しずつ集まってきた。

そんな頃、道路拡張区画整理のため私の自宅を建て替えることになった。昭和53年3月に竣工したビルは、テナント収入を借金返済に充てる予定だったが、2階の一室をマンガ資料館にしようと思い、貸本文化研究会のメンバーに協力を要請したところ、快諾を得て6月から準備に取りかかった。

その夏は例年にない猛暑で、手伝いの者たちは汗と埃にまみれて作業に没頭した。貸本文化研究会のメンバーだけでは足りず、店のお客さんにも呼びかけてお手伝いを願った。男性軍は運搬と架設、女性にはリストやカード作りをお願いした。皆マンガ好きなので作業の合間に本を読みだしたりマンガ談義に花が咲いたりで作業がはかどらず、徹夜することもたびたびあったが、マンガに囲まれての楽しい時間でもあった。運搬した本はトラック6台分あった。自宅の押入れからは、出しても出しても後から出てくるので、誰かが「この押入れは四次元に繋がっているんじゃないの」と言って大笑いしたことを懐かしく思い出す。

こうして約半年の準備期間を経て、日本初のマンガ専門図書館「現代マンガ図書館〈内記コレクション〉」が誕生した。当初の蔵書はわずか3万冊だったが、私の蔵書が2万7千冊と、各地の貸本屋さんからの寄贈本が3千冊ほどあった」(「ナマズの巣」 vol.22 2000年7月)

先に記したプロフィールにあるとおり、内記氏は貸本屋を経営しながらマンガを集めていた。その時点ではまだ、個人的な趣味の域を出ていなかった。しかし、石子順造氏という評論家が「マンガ図書館」設立を提案したのを転機に内記氏のコレクションはその性質を大きく変えることになる。内記氏個人の思いから集め始めたコレクションが、貸本文化の保存、そして貸本を含むマンガ全般の保存という公的な意味合いを色濃く持つことになったのだ。

この提案をしてまもなく石子氏は亡くなるが、彼の案は生き続け、最終的には内記氏が中心となり、貸本業界を中心とする仲間たちが協力し、現代マンガ図書館設立へとこぎ着けた。

その後、内記氏は大宅壮一文庫を参考にマンガの資料の収集・整理につとめた。実質的な「マンガ版大宅文庫」 として、現代マンガ図書館の経営を軌道に乗せた。そして、命が果てるまで、マンガを集め、整理し続けたので ある。 なお大宅文庫には基本的にマンガは置いていない。「マンガはどこにあるんですか」と大宅文庫で聞くと 「現代マンガ図書館にならありますよ」と案内される。

亡くなった後も増殖し続けるコレクション

同人誌を除く、日本のマンガをすべて揃える勢いで、長年収集し、散逸せずに残せたのは、この六階建てのマンションが内記家の持ち物件だったからこそだ。そうでなければ、このような使い方は無理なのではないだろうか。建物の名前はビルデンスナイキ。1978年にこのマンションが建てられたとき、所有者は内記稔夫氏とその父親であった。

とくに自分の好きなマンガだけを集めたんです。マンガに関係あるものなら何でもかんでも、集めていました。このビルの中にぎゅうぎゅう詰めにして置いてあります。

作者名の五十音順や長編・短編、本の判型などの条件によって並べられている。その数はざっと18万点。その内訳について「現代マンガ図書館〈内記コレクション〉」のパンフレットには次のように書いてある。

主に戦後、国内で発行されたマンガの単行本や雑誌、マンガの入門書・評論集・歴史の本などを収集し、現在では180,000点を超える資料を収蔵するに至りました。古くは昭和3年発行『現代漫画大観』から、最新の人気作品までを揃えており、中でも昭和30年代に発行された「貸本マンガ」「貸本劇画」は、現在第一線で活躍している漫画家たちのデビュー作や初期作品を多く含むため、特に貴重な資料のひとつです。また、マンガ雑誌などのバックナンバーは現在から40年分は遡ることができるため、研究資料としての価値は大変高いものになっております。

単行本は約10万5000冊、雑誌は6万7800冊、その他雑誌4200冊、その他3000点という内訳である。オープン当時からできるだけすべてのマンガを残していこうという方針を持っていて、その点は今も貫かれているそうだ。「18万冊」ではなく、「18万点」としているのはマンガだけでなくキャラクターグッズやアニメのカレンダーやポスターなど補完資料を含んでいるからだ。

それにしても不思議なのは、これだけの点数をすべてこの建物の中に収蔵できているのか、ということだ。そうたずねると、長橋さんはこう答えてくれた。

書庫からはすでにあふれています。この階よりも上には未整理の本を置くのにふた部屋使っています。五、六階が住居で、三、四階が書庫として使用中。なお、四階の二部屋に未整理の本がおいてあります。そしてこの建物の他に2箇所倉庫を借りています。新刊の整理は、とてもじゃないですが追いつかないですね。

2012年6月に内記氏が74歳で亡くなった後も蔵書の数は増え続けている。マンガ雑誌やコミックスをなるべく完全なかたちで集めるという目的があるため、マンガが発刊され続けている限り、コレクションの数は増え続けるのである。

いまも毎日取次から新刊が届きます。

その言葉を聞いて「ドラえもん」に登場したある道具のことを思い出した。道具とは「バイバイン」という薬品である。これを一滴、振りかけると物が倍に増える。のび太が試しにどら焼きに振りかけたところ食べきれなくなり、しまいにはドラえもんがロケットを使って宇宙へ運び出さざるを得なくなる――というあらすじだった。

内記氏の死後、着々と増え続けるマンガも、「バイバイン」で増えたどら焼き同様、手がつけられなくなるぐらいに膨張し、この図書館はおろか地球全体をマンガで埋め尽くすのは時間の問題となり、しまいには、ドラえもんはどら焼きが増殖したときと同じく増え続けるマンガをロケットで宇宙空間に運び出す――そのようなありもしない妄想を抱いてしまった。

父の蔵書を受け継ぐということ

内記氏は生前、結婚していた。1937年生まれであるから僕の両親とほぼ同世代である。彼にもし子どもがいるならば、僕と同様に40代前半であるかもしれない。だとすれば、1978年に竣工したビルデンスナイキに彼らは幼少のころから住み、成長した、ということではないだろうか。

膨大な蔵書と住居が同じ建物にあるのだから、住居スペースに蔵書が浸食したり、稼ぎをマンガにつぎ込んだりして、日々の生活が脅かされたりすることは、おそらく日常的にあったのだろう。そうした日々に家族が嫌気が差したりしなかったのだろうか。というかそもそも内記氏に子どもはいたのだろうか。

すると長橋さんはこう言った。

内記さんの娘、ゆうこさんはここで働いていますよ。「株式会社ないき」という名称で法人化し、今はその取締役を務めています。

やはり子どもはいたのだ。しかも、驚いたことに取締役をつとめているというではないか。

前回、紹介した「少女まんが館」の中野夫妻は、将来的にはひとり娘に「館」を継いで欲しいと願っている、という話を紹介したが、すでに前例があったのだ。

これも前回に記したことなのだが、コミックマーケット世話人だった米澤氏の蔵書と内記氏の蔵書が明治大学のもとで2014年に一体化する予定である。それまでは株式会社ないきが管理を委託され、担っている。内記ゆうこさんの役割は図書館が統合されるまでのつなぎなのかもしれない。しかしそれでもこう言うことができるのではないか。蔵書の持ち主が亡くなったあとのつかの間、いったんは娘が継いだのだと。

現代マンガ図書館の入っている「ビルデンスナイキ」。

日を改めて、現代マンガ図書館を再訪した。現代マンガ図書館の責任者である、次女の内記ゆうこさんにお話を伺うためである。現代マンガ図書館の受付のある二階の閲覧室。出迎えてくれたゆうこさんは内記稔夫さんの娘と聞いて連想したイメージと違っていた。きゃしゃで可愛らしい少女のような女性であった。 聞けば、ゆうこさんは僕と同じ1970年生まれだというではないか。とすると予想したとおり、現代マンガ図書館設立のときからビルデンスナイキに住み、大量のマンガに囲まれて住んでいたということらしい。

僕が小学生だったころ、コインを握りしめて、近くの本屋まで「コロコロコミック」を買いに行ったものだ。買い切れないぐらいの小遣いがあったり、家がマンガだらけなら日がな一日マンガばかり読んでしまっていたかも知れない。ゆうこさんはまさにそれが可能な環境で育ったのだ。うらやましすぎる。

そこで気になるのは非常に特殊な環境で生まれ育ったことで、どっぷりとマンガ漬けの生活を送ったりしたのだろうか、ということだ。またそうした環境がその後の人格や趣味に影響を与えたりしているのだろうか。

ゆうこさんに質問をぶつけると、苦笑しながら答えてくれた。

どちらかというと私はそういうのはなかった方です。「私が生まれ育った環境にマンガがたくさんありすぎるから拒否反応を起こしている」って父は言っていました。他の人に「私あんまり読まないんです」というと「そうなんだ。こいつは読まないんだよ」って。拒絶というのとはちょっと違うんですが——。

二つ上の姉は逆にマンガにどっぷりつかっている方で、同人誌を作ってコミックマーケットに出展するほどのマンガ好きでした。図書館の上が住まいでしたので、降りてくればただで読めるんです。ここで一冊ずつ雑誌やコミックスを残していますから。こことは別に父は近くで貸本屋をやっていましたからそこでも読めたりするわけです。そういった環境なのに、姉は好きなマンガを自分で買って読んでいました。主婦になった今もたぶんマンガを買ってるんじゃないかな。

弟は1973年の早生まれなので私よりも二つ下です。雑誌は読んでいましたけど、そんなに読みふける方ではなかったですね。祖父や父のやっていた不動産屋を継いで、結婚して独立しています。店はちょうどこの古本屋のとなりです。

実際、どのぐらいのマンガが書庫に置いてあったのだろうか。マンガとの共存は出来ていたのだろうか。

三、四階の書庫や二階のカウンターのまわりに本があるのはいいんです。だけど、住まいとしている部屋には本を持ってこられるとイラッとしました(笑)。実際、マンガの束が廊下などに積んでありました。でもそれだと、本来使えるはずのスペースが使えないわけです。ゴミなら捨てられるけど、集めているものだから捨てられない。なのに、父がいつ整理をするのか分からない。だから、「ちょっと置かせて」と父に言われると「いつまで」って即座に聞いていましたね。

居住スペースに浸食してこなければOKということは、住まい以外の場所であれば、建物内にものすごい数のマンガが置いてあっても構わない、ということだ。すでに記したとおり、この建物には入らないぐらいのマンガでぎゅぎゅう詰めになっている。すでに限界に達しているのだ。そうなると聞きたいのが、「床抜けの恐れ」についてだ。長橋さんにも聞いたことではあるが、「床が抜けるかもしれない」と心配をしたことはあるのだろうか。しつこいかもしれないが、ゆうこさんにも訊ねてみた。すると、彼女はふたたび苦笑した。

96年に働き始めたとき、これいつか底が抜けちゃうんじゃないかって思いました。その不安は今もありますね。誰も経験したことのない重みですからね。計算はしてませんがおそらく重量オーバーでしょう。

鉄筋コンクリートの建物が本の重みによって崩れるとはにわかに考えがたい。しかし、内記氏のコレクションの巨大さからすると、あり得なくもない。とはいえすべての本を持ち出して重さと建物の強度を測ることはすぐにはできない。コレクションが統合されるときまで、不安を抱えつつも、大丈夫だと信じてやり過ごすしかないということだ。

次に訊いたのは、運営にかかる資金についてである。この図書館があるビルデンスナイキは内記家の所有物である。だから家賃はかからない。とすると運営するにあたり、かかるのはスタッフの人件費、そして書籍の購入費だろう。いったいどのぐらいの本を購入しているのだろうか。

出版社の編集部から送っていただいている本もありますが、全体の割合からすると全然少ないです。父によると「年間7000〜8000冊のマンガが出ている」とのことなんですがすべてを買うことはできません。半分入れてるかどうかというところです。どれを買うかという選別は特にしていないですね。お金があればすべて買います(笑)。

買うとしてもまさか書店で買って運び込んだりはしていないだろう。そんなことをしていたら手間がかかって仕方ない。とすれば、どのようにして購入しているのか。

貸本屋時代からつきあいのある取次を通し、卸値で購入しているんですが、そこには「返品しないから、すべての単行本と雑誌を入れてくれ」とお願いしています。ただそれをやっていたらお金が足りないので線引きしています。入荷する本は取り次の判断です。だからどうしてもポピュラーなものが多かったりします。

途方もないお金をマンガ購入の為に充てていたということがわかる。いったいどのぐらいの金額をつぎ込んだのだろうか。

父が冗談で言っていたのは「この図書館をやっていなければビルがもう一つぐらい建ったんじゃないか」ということです。それぐらいお金をつぎ込んでいたと思いますね。

なんとなんと。貸本関係者らのバックアップがあって立ち上げたはずのこの図書館の経営に、こんなにお金がかかっていたとは…。途中で止めようと思ったことはなかったのだろうか。

1997年に手塚治虫文化賞をいただくまでは、それ以前は資金不足、運営困難という感じですごく大変でした。父の口から「このまま続けられるか。辞めた方がいいんじゃないか」と言うのを聞いたことがあります。97年以降は文化賞をもらった手前もありますし、受賞のうれしさもあったのでしょう。続けていかなきゃと新たに思ったのだと思います。マンガを買ったり、借金もありましたから。開館20周年パーティもそのころ重なっていましたし。賞金はすぐになくなりましたけどね。

できるだけすべてのマンガを残していくという目的は素晴らしい。そのような施設が必要だという考えは、出版関係者ならば特に異論はないはずだ。戦後にマンガやアニメが時代を映す鏡として人びとの心を捉えてきたという事実を見ても、マンガを文化遺産として残すべきだろう。

不思議なのはマンガを作る側、つまり出版社がなぜこの図書館の取り組みに協力的でなかったのかということだ。出版社だってすべての雑誌・コミックスなどすべてのマンガ関連の媒体を集めているわけではなかろう。だとすればこの施設の大切さがもっと理解されてもいいのではないか。

国際マンガ図書館に継承されるもの

マンガに興味はなかったという、ゆうこさんがなぜこの施設を継承することになったのか。そもそもなぜこの施設に関わることになったのだろうか。

私が入ったのは1996年の1月か2月です。卒業し助手として大学に残ったんですが、そこを一年で辞めてしまって、家でふらふらしていました。そのときスタッフが一人欠員が出るということで、父に「働いてみないか」と誘われました。父は強制するタイプではないので、「欠員出るけどどう」って、そんな感じでした。私は私で、どこか働きに行かなきゃいけないなー、どうしようかとそのころ思っていたので、ちょっとの間ならいいかと思って、働き始めたんです。

きっかけだけ読むと、偶然の産物と思えてしまう。しかし次の話を耳にし、偶然ではないということに気付かされた。

読むという意味で父はさほど情熱はなかったのではないかな。父がマンガを読んでいるのをあまり見たことがないんですよね。どちらかというと経営とか収集、保存、管理の方が好きだったんじゃないでしょうか。順番に並べるとかそろえるとか。そういうのが好きだった。私はマンガが嫌いというわけではないので、あればパラパラ見たりするんですけど、姉ほどではない。一方で、管理や整理するのがけっこう好きなんですよ。その点で、三兄弟の中で私が一番似ています。父も似てるって言ってました。

そうなのだ。この図書館の特徴は全方位でマンガとそれに関連する出版物を集めることなのだ。事実、内記氏は生前、米澤氏と違って読むことよりも集めて管理することに関心を寄せ、汗を流していたのだ。収集はともかく、保存・管理が好きなゆうこさんがここの責任者であることは偶然ではなく必然なのだ。

とすれば気になるのは、生前、内記氏がゆうこさんに継いで欲しい、と頼んだかどうかである。ゆうこさんなら、このコレクションを任せられると思い、継いで欲しいと内記氏が面と向かって言ったりしたのだろうか。

(面と向かって継げと)言われたら引きますよね。私の場合は何も言われなかった。だからこそここでアルバイトできた。プレッシャーが何もなかったですから。ただ何年かやってるうちにだんだん不安になってきました。父がいなくなったらどうするんだろう、と。

そして2009年、父は明治大学に本を寄贈することに決めました。大学から運営管理を任されることになりました。現在はその形態を受け継いだ、というかたちです。2014年に国際マンガ図書館ができる予定なので、今すぐ本を明治大学に持って行っても場所がないんですね。明治大学から委託を受けて管理というかたちでなければ私は(継ぐことは)できてないです。

うっかりしたことに、僕は誤解していたらしい。彼女の意志で継ぐことを父親に直接伝えたわけではない。また、内記氏が懇願して継がせたわけでもないのだ。内記氏本人が生前にコレクションの道筋をつけつつも、ゆうこさんの意志に任せた、というのが真相なのだ。

父は生前、「自分の目の黒いうちにこの本をどうにかしないと」と言ってました。そして元気なうちに行き場所を決めてくれたんです。せっかくここまで集めたのをバラバラにするのは惜しい。そのことは父も言っていました。一緒にあるから資料価値があると思うんですよね。

たくさん蔵書を持っている家族の方同様に売ってしまったり、それこそ処分してしまったりしてしまったかもと思うと怖くなりますね。私は姉弟が三人なので私一人で自由勝手にできません。私一人が残したいと言ってもほかの二人がこれを売ってお金にしようよって言われたら、それを止めることはできない。父が元気なうちに本の行き場所を決めてくれて本当によかった。もし明治に決まっていなくて、インタビューに来られていたら文句をタラタラと言ってたかもしれません(笑)。

統合されたかたちで図書館ができた後はどうする予定なのだろうか。

今後、国際マンガ図書館ができる予定になっていて、そちらにいって何年か働く予定です。新しい図書館になっても、分類のメソッドを受け継いで欲しいし、他にも何か役に立てることがあればという感じですね。何十年もやっているので、私たちの方で何か役に立てるかも知れない。また別の意見があれば、ミックスしてもっといいものに出来ればと思ってます。

蔵書だけでなく、整理術も受け継いだゆうこさんが新天地で、そのノウハウを伝授していくということになる。新しい図書館でも、そのアーカイブの整理・保存において、有効なアドバイスをしていくはずだ。開館は来年だというが、僕はこれを機に今まで全く読んでいなかった少女マンガや貸本時代のマンガにどっぷりと浸かることになるかも知れない。その点で大変に楽しみだ。

ところで、この物件は国際マンガ図書館に本が移った後、どうなるのだろうか。

この建物については、本が全部片付いたらどなたかに借りていただく感じです。(現代マンガ図書館ができる前の)元のかたちに戻るだけです。

あらゆるマンガを溜め込んできたビルデンスナイキが普通のマンションになってしまうのは、なんだかもったいない気がする。しかし、内記氏の逝去を機に、マンガが売られたり捨てられたりしてコレクションが散逸する可能性があったことを思えば、これで良かったということなのかもしれない。

* * *

2回にわたって掲載したマンガ編の総括をしてみた。

本で床は抜けるのか、という危機感をもったことがこのシリーズの発端だった。大丈夫かどうか調べているうちに、興味の範囲は広がっていった。その果てに、手作り風の二階建て家屋を建て少女マンガで埋め尽くしてしまったり、新築したマンションの上から下までをマンガが埋め尽くしたり、という前回と今回のケースにたどり着いた。

僕の4畳半の部屋に置かれているのはせいぜい2000冊あるかどうかである。女ま館の5万冊、現代マンガ図書館の18万冊と比較すれば、ないも同然の数だ。マンガという、極めてかさばりやすい物体をものすごい規模で集め、保存し続けている光景に出会い、よくここまで集めたよなあと大いに感心しつつも、僕自身の理解を超え、呆れ果てた。興味に任せて続けてきた本をめぐる旅も、思えばずいぶんと遠いところまで来てしまったものだ。

個人が集めた本のコレクションという意味では最大級のものに前回と今回で出会ったといっていいのだろう。本の物量を追求するのはこのぐらいにして、今後は電子と紙、所有とレンタルという別の切り口から書いてみたい。加えて「床抜け」危機を脱した自宅の様子も小出しに開陳していくつもり。本をめぐる旅はしばらく続きます。

(このシリーズ次回につづく)

※この連載が本の雑誌社より単行本になりました。
詳しくはこちらをご覧ください。

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執筆者紹介

西牟田靖
ノンフィクション作家。日本の旧領土や国境の島々を取材した一連の作品で知られる。「マガジン航」の連載をまとめた『本で床は抜けるのか』(本の雑誌社)をはじめ、著書に『僕の見た「大日本帝国」』(カドカワ)、『誰も国境を知らない』(朝日文庫)、『ニッポンの穴紀行〜近代史を彩る光と影』『ニッポンの国境』(光文社新書)、『〈日本國〉から来た日本人』などがある。